17/12/25 09:12:24.98 .net
弾正台の名称は、律令制下の八省の一つである。
古代の弾正台は、律令体制における監察・警察機構であった。弾正台の主な職務は中央行政の監察、京内の風俗の�
186:謔闥ワりであり、左大臣以下の非違を摘発し奏聞できた。 しかし、裁判権・警察権は刑部省・各官司が握っていたため、非違を発見した場合でも直接逮捕・裁判する権限はなかった。
187:日本@名無史さん
17/12/25 16:14:11.78 .net
▽内務省
明治6年11月に設置され、昭和22年12月に廃止された日本の中央官庁。
地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内行政を担った。初代内務卿の大久保利通の思想を反映して、設立当初から国民生活全般への強度の監視を課題としており、行政事務の枠にとどまらなかった。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
188:日本@名無史さん
17/12/26 10:05:27.52 .net
▽司法省法典編纂局
明治政府は、不平等条約の改正(治外法権の撤廃・関税自主権の回復)を目指したが、近代的な法制を欠くことが諸外国から問題視されたため、法典編纂が急務となった。
政府は、ヨーロッパ各国において法制の模範とされてきたフランス法を参考にすることとした。明治政府において法典編纂を主導したのは、江藤新平であった。まず箕作麟祥にフランスの法律を翻訳させ、独力で民法典の編纂を試みた。
189:日本@名無史さん
17/12/26 10:13:48.20 .net
▽箕作麟祥
1846年(弘化3年)- 1897年(明治30年)。和仏法律学校(現・法政大学)初代校長。
箕作省吾・しん夫妻の長男として江戸の津山藩邸に生まれた。祖父は蘭学者の箕作阮甫で、父・省吾は阮甫の婿養子、母・しんは阮甫の四女だが、父・省吾が若くして亡くなったので祖父・阮甫に育てられた。阮甫の死後、箕作家の家督を相続した。
なお、蘭学者の箕作秋坪〔>>101〕は、阮甫の二女・つねと結婚した婿養子。麟祥にとっては義理の伯父。
URLリンク(kotobank.jp)
190:日本@名無史さん
17/12/26 10:15:12.07 .net
「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」(江藤新平)
191:日本@名無史さん
17/12/26 10:23:41.58 .net
《箕作麟祥が考案した翻訳語》
民権・動産・不動産・未必条件・治罪法・憲法など。
箕作麟祥は、フランス法理論の基礎をなす自由および人権思想を理解し、『国政転変ノ論』の訳稿で人民の抵抗権・革命権を認めるなど、法学官僚としては異色の存在であった。また、明六社に参加して啓蒙活動を行った。
司馬さんは、民権の訳語は江藤と箕作麟祥の共同作業のように書かれている。
192:日本@名無史さん
17/12/26 10:25:16.87 .net
江藤は民権家というよりも、自由民権思想の鎧を着たマキャベリストなんだよね。
司馬さんの叙述を読んでも、そんな感じ。
193:日本@名無史さん
17/12/26 10:28:28.79 .net
▽有司専制
明治政府の政治が、政府内の特定藩閥政治家数名で行われていると批判した言葉。
明治六年政変後の大久保利通の主導権が確立された時期から、大日本帝国憲法成立までの時期を指す。
194:日本@名無史さん
17/12/26 10:37:55.96 .net
▽ビスマルク(1815年 - 1898年)
プロイセン東部の地主貴族(ユンカー)の出身。代議士・外交官を経て、1862年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世からプロイセン首相に任命され、ドイツ統一戦争に乗り出した。
1867年の普墺戦争の勝利で北ドイツ連邦を樹立し、ついで1871年の普仏戦争の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだドイツ帝国を樹立した。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
195:日本@名無史さん
17/12/26 10:41:42.97 .net
明治6年(1873年)3月15日、ドイツを訪問中だった岩倉使節団がビスマルクから夕食会に招かれた。
その席上ビスマルクは「貴国と我が国は同じ境遇にある。私はこれまで三度戦争を起こしたが、好戦者なわけではない。それはドイツ統一のためだったのであり、貴国の戊辰戦争と同じ性質のものだ。英仏露による植民地獲得戦争とは同列にしないでいただきたい。私は欧州内外を問わずこれ以上の領土拡大に興味を持っていない」と述べた。
196:日本@名無史さん
17/12/26 10:44:01.56 .net
「現在世界各国は親睦礼儀をもって交流しているが、それは表面上のことである。内面では弱肉強食が実情である。私が幼い頃プロイセンがいかに貧弱だったかは貴方達も知っているだろう。当時味わった小国の悲哀と怒りを忘れることができない。大国は利があれば万国公法を守るだろうが、不利とみれば万国公法に代わって武力を用いるだろう」とも述べた。
197:日本@名無史さん
17/12/26 10:45:57.10 .net
「英仏は世界各地の植民地を貪り、諸国はそれに苦しんでいると聞く。欧州の親睦はいまだ信頼の置けぬものである。貴方達もその危惧を感じているだろう。私が非難を顧みずに国権を全うしようとする本心もここにある。いま日本と親交を結ぼうという国は多いだろうが、国権自主を重んじる我がゲルマンこそが最も親交を結ぶのにふさわしい国である」
198:日本@名無史さん
17/12/26 10:47:22.11 .net
ビスマルクは、「我々は数十年かけてようやく列強と対等外交ができる地位を得た。貴方がたも万国公法を気にするより、富国強兵を行い、独立を全うすることを考えるべきだ。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう」と語った。
199:日本@名無史さん
17/12/26 10:49:45.58 .net
小国プロイセンを軍事力で大国ドイツに押し上げたビスマルクの率直な言葉は、使節団に深い印象を残したようである。
欧州各国は不平等条約の改正に応じる条件として、日本に万国公法に沿った法整備を行うよう外圧をかけていたが、ビスマルクだけがそれを否定する発言を使節団の前で公然と行ったからである。
とりわけ大久保利通はビスマルクに強い感銘を受け、「新興国家ヲ経営スルニハ、ビスマルク侯ノ如クアルベシ。我、大イニウナズク」と書いている。
200:日本@名無史さん
17/12/26 10:56:01.49 .net
「これからはこれぜよ」と言って『万国公法』という本を見せた坂本龍馬は、ビスマルクの話を物陰で聞いていた。
201:日本@名無史さん
17/12/26 10:56:21.91 .net
龍馬、涙目。・゚・(ノД`)・゚・。
202:日本@名無史さん
17/12/26 11:01:27.84 .net
恐喝漢坂本は、いろは丸事件で、紀州藩に対する賠償金算出の基準に万国公法を使っただけだろう。
203:翔ぶが如く
17/12/26 11:11:48.19 .net
第3章 鍛冶橋
【二】大久保利通
ところが大久保はこの川路の案件に対し、「タチンコンメ」という超最大級の裁決をあたえた。
「東京警視庁」というのが、川路がこの献策のときに考えた首都警察の呼称であった。
大久保が、川路の案件を即決してこの設立をいそがせたのはたしかにタチンコンメであり、明治七年一月十五日には発足してしまっているのである。川路がそのただ一人の総指揮官になった。あたらしい呼称による彼の官職は「大警視」である。
204:日本@名無史さん
17/12/26 11:22:51.37 .net
鹿児島弁の「タチンコンメ」について解説が必要であろうと思う。
「タ」「チンコ」「ンメ」の三つの部分に分かれる。
「チンコ」はそのまま。「ンメ」は“うめえ”、つまり、おいしいという意味。「タ」は“立った”、つまり勃起したという意味。
幕末の品川の遊郭で娼妓にフェラチオを所望した薩摩藩士に対して、娼妓は「タチンコンメ」
205:(勃起したチンコはおいしい)と答えていた。 転じて、最大級の承認・承諾を意味する言葉として、薩摩では「タチンコンメ」が使われるようになった。
206:日本@名無史さん
17/12/26 11:25:07.58 .net
(゚Д゚)ゴルァ!! 違うだろ!
207:日本@名無史さん
17/12/26 11:47:45.88 .net
★下谷竜泉寺町
▽戸田様の御下屋敷
東京都台東区竜泉一丁目~竜泉三丁目。
樋口一葉は龍泉寺町には21から22歳にかけて住んだ。この一葉の家から吉原と反対方向に10軒ほど行ったところが四つ角で、その向うに広い屋敷地が二つある。
初代警視総監の川路利良と大垣の殿様である戸田家の屋敷があった。戸田家九代の氏正がこの屋敷で明治に入って没しているが、維新までは川路邸の分まで含めて大垣藩の下屋敷であった。
URLリンク(magazine.moonbark.net)
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
208:日本@名無史さん
17/12/26 11:56:01.32 .net
▽戸田家
大垣藩主。大垣藩は寛永12年(1635年)以降は戸田氏が10万石で入り、幕末・明治維新期まで存続した。
三河戸田氏は、三河国渥美郡二連木城(愛知県豊橋市)や田原城(愛知県田原市)によった国人領主。
戸田氏の嫡流〔松本藩主〕は、徳川家康の異父妹と婚姻して松平姓を授けられた松平康長以降、松平丹波守の称号を継承し、葵の紋所を許されるなど江戸幕府より厚遇され江戸十八松平のひとつに数えられた。
209:日本@名無史さん
17/12/26 12:04:55.06 .net
▽溜池
赤坂見附から虎ノ門に至る「外堀通り」は、かつては「溜池」とよばれた外堀兼用の上水源であった。長さ1.4km、幅45m~190mという大きさで、細長い池であるため「ひょうたん池」とも呼ばれていた。
この周辺に戸田家の上屋敷があった。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
210:日本@名無史さん
17/12/26 12:08:24.83 .net
この戸田家上屋敷は、かの鼠小僧次郎吉が忍び込んだことで有名である。彼はもっぱら大名屋敷の女性たちの居所である奥向や長局(ながつぼね)を専門に荒らした。これは警備が手薄で入り込みやすかったからで、世上言われている義侠の話はかなり怪しい。
URLリンク(contents.oricon.co.jp)
211:日本@名無史さん
17/12/26 16:13:15.98 .net
▽芝将監橋
港区芝大門二丁目にある古川に架かる橋。付近に金森将監の屋敷があったので、この呼び名となった。
根尾庄右衛門清長は、金森長近に従い数多くの戦功を重ねて長近の最も信頼する筆頭家老となり、長近から「金森姓」を賜った。
以後、清長の家は代々金森将監を名乗った。
本章では、芝将監橋付近に戸田家〔>>197〕の中屋敷があったと紹介されている。物語の本筋とは、ほとんど関係ありません。
URLリンク(www.city.minato.tokyo.jp)
212:日本@名無史さん
17/12/26 17:28:19.31 .net
▽つんぐらめ
蝸牛。カタツムリ。鹿児島では、このように呼ぶ。
わしらの地方は、でんでん虫じゃった。
URLリンク(image.itmedia.co.jp)
柳田國男の『蝸牛考』によると、ナメクジ
213:と呼ぶ地方もあるらしいが、ナメクジはナメクジよ。 https://www.ondanka-net.jp/data/articlefile/000000002017030915.jpg
214:日本@名無史さん
17/12/26 17:30:09.95 .net
ナメクジを指でつまんだ後の指の匂いは、マスターベーションをした後の指の匂いと似ている。
215:日本@名無史さん
17/12/26 17:32:25.75 .net
▽川路沢子
川路の妻の名。
216:日本@名無史さん
17/12/26 17:40:15.70 .net
>>201
美容のためなら、鴬の糞を顔に塗り、蝸牛を顔の上で這わせる。
女はたいへんじゃのうw
217:日本@名無史さん
17/12/28 22:07:33.41 .net
★大久保邸
▽荒屋敷
明治8年に建てた洋館に入居する以前の大久保の屋敷の所在地は書かれていない。
司馬さんによると、荒屋敷だったそうだ。
218:日本@名無史さん
17/12/28 22:10:53.24 .net
▽伊東祐之〈すけゆき〉
伊東祐之と山本権兵衛による大久保利通についての印象が書かれてある。
伊東によると「余は今までに大久保さんほど厳格でこわい人に出会ったことがない」のだそうだ。
219:日本@名無史さん
17/12/28 22:15:09.52 .net
>>206
間違えた。
伊東祐之は慶応4年に亡くなった薩摩藩士である。
大久保利通についての印象を述べたのは、日露戦争当時の海軍軍令部長だった伊東祐亨〈すけゆき〉の方だ。
220:日本@名無史さん
17/12/28 22:18:22.96 .net
▽伊東祐亨〈すけゆき〉
天保14年(1843年) - 大正3年。
薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身である。
勝海舟の神戸海軍操練所で、塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らとともに航海術を学ぶ。薩英戦争にも従軍。薩摩藩邸焼き討ち事件で江戸から脱出し、戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍した。
URLリンク(blog-imgs-98.fc2.com)
221:日本@名無史さん
17/12/28 22:23:45.22 .net
>>206
こっちの伊東祐之〈すけゆき〉の次女のあさは般若三郎の妻となり、般若〈はんにゃ〉豊(埴谷雄高:はにや ゆたか)を産んだとされる。
URLリンク(www.gimu.fks.ed.jp)
222:日本@名無史さん
17/12/28 22:29:35.31 .net
▽山本権兵衛
1852年 (嘉永5年) - 1933年 (昭和8年)。日露戦争当時の海軍大臣。
鹿児島城下加治屋町に薩摩藩士で右筆及び槍術師範を務めていた山本五百助盛珉の六男に生まれる。諱は盛武。薩英戦争及び戊辰戦争に従軍した。
戊辰戦争後の明治2年に西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受け、開成所、海軍操練所そして海軍兵学寮と、海軍軍人への道を歩むことになった。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
223:日本@名無史さん
17/12/28 22:33:19.74 .net
山本権兵衛による大久保利通の印象も、伊東祐亨と同じく「大久保さんは、いかにも怖い顔をしておられた。自然、人気は西郷さんのほうにあつまった。わが輩も大久保さんより西郷好きであった」と述べている。
224:日本@名無史さん
17/12/28 22:44:02.74 .net
▽伊藤博文
天保12年(1841年)- 明治42年。
伊藤による大久保評は、「あの人の威厳は一種天稟であった。めずらしいほどの広量な人物で、公平無私であり、人というものがそれが何者であっても重んずる風があった」である。
伊藤や大隈のような才腕家たちは、西郷・木戸よりも大久保を押し立てることによって新国家を作り上げようとした。
URLリンク(www.yoshida-shoin.com)
URLリンク(www.ndl.go.jp)
225:日本@名無史さん
17/12/28 22:53:24.91 .net
▽木戸孝正
1857年(安政4年)- 1917年(大正6年)
長州藩士来原良蔵とハル(木戸孝允妹)夫妻の長男として生まれる。木戸孝允の養嗣子であった孝正の実弟・木戸正二郎の死去に伴い、木戸家を継承し明治17年に侯爵を襲爵する。明治23年2月、貴族院侯爵議員に任じられ、死去するまで在任した。
妻は、木戸好子(木戸孝允長女)。いとこ婚である。
URLリンク(pds.exblog.jp)
226:日本@名無史さん
17/12/28 22:56:45.51 .net
木戸孝正は伊藤博文から「憚らずに申せば、君の先代の木戸公は心のひろいほうではなく、むしろ狭いほうで、人を容れることができなかった。そこへゆくと、大久保利通という人はまことに度量が広かった」と言われた。
227:日本@名無史さん
17/12/28 23:00:12.98 .net
川路が大久保邸を訪ねたところで時間が停止している。
もうひとり、同時代人による大久保の印象を語るために、奈良原繁が登場する。
228:日本@名無史さん
17/12/29 16:58:39.71 .net
▽奈良原繁
天保5年(1834年)- 大正7年(1918年)
薩摩藩出身。通称喜八郎。兄・喜左衛門は、熱心な薬丸自顕流の門弟であるが、繁は鎗の使い手として知られた。
文久2年(1862年)の島津久光の卒兵上京に従い、寺田屋事件では鎮撫使の一人として活躍した。
その年の生麦事件では、リチャードソンに斬りつけたのは兄の喜左衛門ではなく、弟の繁であると子孫から異議が申したてられている。
229:日本@名無史さん
17/12/29 16:58:52.93 .net
翌年の八月十八日の政変では、高崎正風らと暗躍し、京から長州藩追放に成功している。
薩英戦争には、兄の喜左衛門は加わっているが、弟の繁は加わっていない。
西郷隆盛らの討幕路線に反対していたため、明治2年(1869年)2月に戊辰戦争より帰国した下級藩士たちより、藩政から退けられる。
明治4年(1871年)12月、沖縄特使として鹿児島県へ出仕。明治7年(1874年)2月、島津忠義家の家令となる。
230:日本@名無史さん
17/12/29 16:59:02.93 .net
明治12年(1879年)に内務権大書記官、明治14年(1881年)に農商務権大書記官、明治16年(1883年)に静岡県令。
明治17年(1884年)には日本鉄道社長に就任した。
明治23年(1890年)9月に貴族院勅選議員に任じられ同25年(1892年)5月まで在任した。
明治25年(1892年)に沖縄県知事に就任する。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
231:日本@名無史さん
17/12/29 17:06:55.15 .net
▽有馬新七
文政8年(1825年)- 文久2年4月23日(1862年)
薩摩藩伊集院郷の郷士・坂木四郎兵衛の子として薩摩国日置郡伊集院郷古城村で生まれるが、父が城下士の有馬家の養子となったため、新七もそのまま城下士となり、鹿児島城下の加治屋町に移住した。
過激な尊皇攘夷活動を続け、文久2年、同志達とともに寺田屋に集っていたところ、島津久光の「説得に応じずば上意討ちもやむなし」との命により鎮撫に訪れた大山格之助らによって粛清された(寺田屋事件)。
この際、小刀が折れて討手の道島五郎兵衛の懐に入り壁に押し付けた状態で、橋口吉之丞に「オイゴト刺セ」と言って最期を遂げた。享年38。
232:日本@名無史さん
17/12/29 17:12:31.96 .net
※NHK「西郷どん」:有馬新七役は増田修一朗〔左端〕
右から、大山格之助:北村有起哉
有村俊斎:高橋光臣
村田新八:堀井新太
有馬新七:増田修一朗
URLリンク(pbs.twimg.com)
233:日本@名無史さん
17/12/29 17:14:33.76 .net
有馬新七は、文政10年生まれの西郷吉之助よりも2歳年長である。
234:日本@名無史さん
17/12/29 17:25:15.46 .net
▽芋掘り
酔って管をまく乱酔癖のことを薩摩語では「芋掘り」と言うらしい。
※管を巻く
「管」とは機織りで糸を紡ぐときに用いる軸のことで、これを「糸繰車」に差して糸を巻くと「ぶうんぶうん」と単調な音で鳴る。
管巻きの音や糸を巻く動作が、酒に酔った人が同じことを繰り返し、くどくど言う姿に似ていることから、「管を巻く」と形容されるようになった。 漢字で「まく」を「撒く」と表記するのは誤りである。
URLリンク(www.i-rekihaku.jp)
URLリンク(stat.ameba.jp)
235:日本@名無史さん
17/12/29 20:07:27.18 .net
奈良原繁は明治11年に官に仕えた。
ある宴席で奈良原が「芋掘り」納めをしようと思った。
その場で同席していた大久保の一瞥をくらった。
「悪ルゴアシタ」
236:日本@名無史さん
17/12/29 20:08:07.51 .net
次は後藤象二郎による大久保評。長いわ。飽きてきた。
237:日本@名無史さん
17/12/29 20:11:37.16 .net
▽後藤象二郎
天保9年(1838年)- 明治30年。
土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。少年期に父を失い義理の叔父・吉田東洋に預けられて育ち、東洋が開いた少林塾に学ぶ。吉田東洋とは血族ではない。
URLリンク(kyoto-np.co.jp)
238:日本@名無史さん
17/12/29 20:12:57.52 .net
「大久保と議論を上下すれば、まるで岩石にぶつかっているような心地で、じつに議論のしにくい男だった」
239:日本@名無史さん
17/12/29 20:18:03.73 .net
川路が半時間ばかり客間で待った。読者はそれ以上に待った。待ちくたびれて、飽きてきた。
大久保評を書くのはよいが、二人か三人にできなかったのだろうか。
やがて大久保が出てきて、丁寧にお辞儀をした。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(gallery.wox.cc)
240:日本@名無史さん
17/12/29 20:26:07.85 .net
▽ローレンツ・フォン・シュタイン(1815年 - 1890年)
ドイツの法学者・思想家。
伊藤博文にドイツ式の立憲体制を薦めて、大日本帝国憲法制定のきっかけを与えた人物としても知られている。1882年に憲法事情研究のためにヨーロッパを訪れていた伊藤博文は、ウィーンのシュタインを訪問して2ヶ月間にわたってシュタイン宅で国家学の講義を受けた。
URLリンク(kosi.la.coocan.jp)
241:日本@名無史さん
17/12/29 20:29:19.99 .net
司馬さんは、大久保利通もシュタインの別荘を訪ねて講義を聴いたと書かれておられるが、この部分は創作である。
シュタインに師事して強い影響を受けたのは、伊藤博文である。
242:日本@名無史さん
17/12/29 20:34:57.10 .net
シュタインの国家学は、ヘーゲルの国家論の影響下に、共同社会を社会と国家の二つの構成要素に区分した。
そして、利益の原理に貫かれた社会〔レッセフェール型の自由放任社会〕では、有産者と無産者との間の階級対立が不可避であるのに対し、自由な人格たる国家〔ウェルフェア型の福祉国家〕は、この社会次元の対立過程を社会政策によって緩和すると考えた。
こうした立場は一に当時のプロイセンの王政を擁護するものであったが、同時にドイツ行政学確立のための理論的支柱をなした。
243:日本@名無史さん
17/12/29 20:45:16.50 .net
▽ドイツの地方自治
日本の地方制度の改正は、ドイツ人顧問モッセの助言の下、明治20年代に山県有朋内務大臣を中心に進められた。
その目的は、対外的には欧米先進資本主義国家の信頼を得るだけの中央集権的地方制度をつくりあげる必要があったことであり、対内的には自由民権運動の自治権拡充の要求に先手を打つ必要があったことである。
その結果、日本の市町村制(1988年)は、1890年の郡制・府県制とともに、政府の強い統制の下におかれたが、地方自治が制度的には確立されたという意義はある。
244:日本@名無史さん
17/12/29 20:48:26.07 .net
人
(_)
(__)
(´・∀・) ウンコー!
( )
| | |
(∩_)_)
| |_∧|
| |゚Д゚) 富国強兵のためにのみ人間は存在する
| |
| |
./| ∩ |
U U
245:日本@名無史さん
17/12/29 20:49:37.42 .net
歴史はこの種の人間を強者とした。
246:日本@名無史さん
17/12/29 20:54:19.28 .net
▽中江兆民
弘化4年(1847年)- 明治34年(1901年)
高知城下の山田町(高知市はりまや町三丁目)に生まれる。
中江兆民(篤介)は、明治4年に政府留学生として渡仏している。中江兆民が留学できたのは、大久保利通に海外で学問する熱意を訴えたからだった。土佐藩の足軽であった中江は、大久保との面識はないものの、政府の要路にあたる大久保ならば自分の留学の志を聞き入れてくれるだろう、と大久保邸を訪問した。
247:日本@名無史さん
17/12/29 20:55:46.41 .net
明治7年にフランスから帰国した中江は、帰朝復命の挨拶と留学中の見聞について陳述するため、大久保のもとを即座に訪問している。
だが、報告しているうちに中江は不機嫌になる。熱心に語っているにもかかわらず、大久保は目を閉じ、話を聴いているのか聴いていないのか、起きているのか眠っているのかすらわからない態度だった。
248:日本@名無史さん
17/12/29 20:57:50.24 .net
それを聞いた大久保は目を閉じたまま微笑した。
「予は決して眠っているのではない。君が熱心なる意見を聴取するにあたり、目を開き、端座して相対するよりは、君に腹蔵なく満腔の所見を十分に陳述させようと思うがために、ことさらに目を閉じ、逐一傾聴しているのである」
自身の眼光の威力を知っていた大久保は、中江が萎縮することないように気遣い目を閉じていたのであった。
※中江篤介 URLリンク(kotobank.jp)
249:日本@名無史さん
17/12/29 20:59:51.24 .net
「それは御評定になりますまい」
「それはトクと考えておきます」
「それは御評定にかけましょう」
250:日本@名無史さん
17/12/29 21:04:27.15 .net
▽タチンコンメ
日本語でいうと「太刀の来ぬ前」。転じて「今すぐやる」。
イッコンメという同義語もある。日本語では「一騎来ぬ前」という。
251:日本@名無史さん
17/12/29 21:05:56.01 .net
要するに、川路は江藤を売ったんだな。
252:翔ぶが如く
17/12/29 21:32:37.27 .net
第3章 鍛冶橋
【三】西郷隆盛
桐野は、征韓論がいかに正義論であるかを語り、さらには天下の不平武士たちが、汚濁にまみれたいまの東京政府をいかに激しく呪っているかを説き、政府に対してもはや蜂起寸前の情勢にある、といった。
それを征韓によって一挙に解決しようというのが桐野の意見であり、桐野は説きおわると、
「いけんや?」
と、にわかに薩摩言葉にもどった。
253:日本@名無史さん
17/12/29 21:42:52.34 .net
★日本橋小網町
▽日本橋小網町
東京都中央区日本橋小網町。現在も同じ町名である。
日本橋地域の南部に位置し、日本橋川の北岸にあたる。
江戸時代に将軍の御前で網を引いた漁師が御肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得た故事により、この漁師たちの一丁目の町角に漁網を一張干しておく風習から生じた町名と推定される。
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
254:orekisi/20131201/20131201042327.gif http://arukitabiouen.up.n.seesaa.net/arukitabiouen/image/Image4-661f9.jpg?d=a0
255:日本@名無史さん
17/12/29 21:53:40.94 .net
▽酒井雅楽頭の中屋敷
「下馬将軍」と呼ばれた大老・酒井忠清の家系。
徳川四天王である酒井忠次の嫡流は出羽庄内藩を知行された〔>>63〕。いわゆる左衛門尉酒井家。
雅楽頭酒井家は、忠清当時が上野国前橋藩、その後、播磨国姫路藩15万石を知行された。
256:日本@名無史さん
17/12/29 22:03:00.68 .net
《雅楽頭酒井家系譜》
正親……山岡荘八『徳川家康』の松平広忠時代の家老として大活躍する雅楽頭
重忠……天正4年(1576年)、父・正親が死去するとその跡を継いで三河西尾城主となった。
忠世……慶長10年(1605年)に将軍職を譲られた秀忠付きの筆頭年寄
忠行……寛永9年(1632年)、徳川秀忠の死後に本丸奏者に任じられ将軍家光に仕えた。
忠清……第4代将軍徳川家綱の治世期に大老となる。
257:日本@名無史さん
17/12/29 22:12:41.24 .net
▽思案橋
江戸時代初期においては、近くに元吉原という遊廓もあり、劇場のある堺町・葺屋町をひかえての橋です。橋の途中で、どちらへ行くかを思案したため、思案橋という橋名がつきました。
小網神社の前あたりに思案橋があったが、現在は道路になっているので名残はない。
なお、「思案橋ブルース」(昭和43年)は長崎の思案橋についての歌であって、江戸の思案橋とは関係がない。
URLリンク(www.hirooka10.net)
258:日本@名無史さん
17/12/29 22:21:52.17 .net
▽汐留橋
川崎市にも同名の橋がある。
江戸の汐留橋は、外濠川と合流後の汐留川を東に向かいます。土橋、難波橋の次が新橋で、その下流にあるのが汐留橋。
後藤象二郎〔>>225〕が長崎の高島炭鉱(軍艦島)を明治政府から55万円で払い下げを受けて、明治7年11月に完成した商社「蓬莱社」の建物が近くにある。この蓬莱社の拠出金で同年5月に汐留橋の石橋が完成して「蓬莱橋」と改名された。
URLリンク(pds.exblog.jp)
259:日本@名無史さん
17/12/29 22:34:19.64 .net
▽西郷隆盛
通称は吉之助。諱は隆盛。
もっとも隆盛は友人の吉井友実が、亡父西郷吉兵衛の諱を勘違いして政府に届け出たもので、本当は隆永という。
※左が西郷吉之助役の鈴木亮平、右は大久保一蔵役の瑛太。
URLリンク(contents.oricon.co.jp)
260:日本@名無史さん
17/12/29 22:43:56.32 .net
▽吉井友実
文政11年(1828年)- 明治24年(1891年)。別名は幸輔。
薩摩藩士・吉井友昌の長男として鹿児島城下加治屋町に生まれる。藩主・島津斉彬の藩政改革の下、安政3年(1856年)に大坂薩摩藩邸留守居役などを務めて諸藩の志士との交流を重ね、若手改革派の1人として活躍する。
明治4年に大久保の推挙で宮内大丞、宮内少輔に就任、宮中の改革に尽力し明治天皇の輔導に努める一方、明治6年の政変で大久保に協力して西郷と袂を分かった。
※NHK「龍馬伝」吉井幸輔役は及川いぞう
URLリンク(blog-owner.yakushihair.com)
261:日本@名無史さん
17/12/29 22:52:05.23 .net
▽西郷吉兵衛
文化3年(1806年)- 嘉永5年(1852年)。諱は隆盛。
弘化4年(1847年)、父隆充の隠居により、家督を相続する。その二年前に御勘定方小頭となっている。
嘉永2年(1850年)、お由羅騒動で赤山久晋の死を見届ける。
※NHK「西郷どん」風間杜夫 URLリンク(news-topics24.com)
262:日本@名無史さん
17/12/29 22:57:30.85 .net
「西郷どん」幾島役・斉藤由貴さんの降板を受け、代役として南野陽子さんの出演が決定しました。
URLリンク(pbs.twimg.com)
263:日本@名無史さん
17/12/29 22:57:40.77 .net
この半乳は見れないのか(;´Д`)ハアハア
URLリンク(twitterism.net)
URLリンク(www.toho-ent.co.jp)
264:日本@名無史さん
17/12/29 23:03:58.74 .net
ついでに、祖父母と母親じゃ。
西郷龍右衛門 (祖父/?-1852)…大村崑
URLリンク(s.eximg.jp)
西郷きみ (祖母/?-?)…水野久美
URLリンク(blog-imgs-62.fc2.com)
西郷満佐子 (母/?-1853)…松坂慶子
URLリンク(blog-imgs-77.fc2.com)
265:日本@名無史さん
17/12/29 23:34:11.71 .net
▽西郷慎吾
天保14年(1843年) - 明治35年(1902年)。西郷吉兵衛の三男。
諱は隆道であるが、戸籍の役人に「ジュウドウ」と言ってしまったために、以後「従道」が諱になってしまった。
名前の読みとして「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家によると「じゅうどう」が正訓である。
URLリンク(db.nichibun.ac.jp)
※NHK「西郷どん」錦戸亮
URLリンク(scontent.cdninstagram.com)
266:日本@名無史さん
17/12/29 23:39:47.96 .net
▽萩原乙彦〈おとひこ〉
文政9年(1826)- 明治19年。戯作者、俳人。
関為山の門に入って学び、当時書家として有名な萩原秋厳の養子となった。
明治13年2月、静岡新聞再興のため社長として招かれたが長つづきせずに転落の一途をたどり、明治17年の夏ごろ、谷村の門弟・水口弥八をたより、俗に六軒長屋と呼ばれた官員長屋に住み、生花や茶道の先生をしていた。
267:日本@名無史さん
17/12/29 23:43:29.74 .net
萩原乙彦は、日本橋川を「これ即ち五大洲へ、遠く行くべき水原」と表現している。
ー 東京開化繁昌誌(明治7年)ー
268:日本@名無史さん
17/12/29 23:47:11.77 .net
▽魚河岸
日本橋と江戸橋の間、日本橋川の北岸に沿って、本船町から本小田原町一帯(日本橋本町1丁目~日本橋室町1丁目)にあった魚市場。
17世紀の初めに開設され、昭和10年に築地市場への移転が完了するまで、300年以上にわたって、江戸と東京の人びとの食生活を支えつづけた。
URLリンク(nihombashi-tokyo.com)
URLリンク(nihombashi-tokyo.com)
269:日本@名無史さん
17/12/29 23:52:07.45 .net
▽日本橋電信局
1869(明治2)年に横浜・築地間に敷かれた電信線が、1872(明治5)年に延伸され、日本橋の南東詰に電信局が開局された。
歌川国輝による「東京各大区之内 日本橋電信局」。電信線と電信柱が描かれている。
URLリンク(smtrc.jp)
270:日本@名無史さん
17/12/29 23:56:17.27 .net
巨大な紙鳶(凧)を揚げると電信線にひっかかるので、東京府第136号布告により禁止された。
URLリンク(singer-comedian.c.blog.so-net.ne.jp)
271:日本@名無史さん
17/12/30 00:02:04.33 .net
▽海運橋
兜町の東京証券取引所から50mほど南を東西に走る一方通行の小さな通りが、旧・楓川を渡る橋である。
江戸時代の初期には『高橋』と呼ばれる橋がここに架かっていたというが、明治政府による兜町一帯の商業化計画に伴って、水運の中心となることや「開運」にも結びつく縁起の良い名称ということで『海運橋』と命名された。
昭和37年に廃橋された。
URLリンク(www.geocities.co.jp)
272:日本@名無史さん
17/12/30 00:08:27.21 .net
▽第一国立銀行
海運橋は、現在首都高速都心線の真下にあたるところに流れていた楓川と日本橋川が合流する入口に架かっていた橋です。
明治6年に創業したわが国最初の国立銀行「第一国立銀行」の建物です。設計施工は清水組(現清水建設)の二代目清水喜助です。
URLリンク(www.tokyochuo.net)
URLリンク(www.kahaku.go.jp)
273:日本@名無史さん
17/12/30 00:17:01.51 .net
▽瑯邪台
前述した萩原乙彦〔>>253〕は、第一国立銀行の建物を、「越王〔勾践〕の起こしたる瑯邪台も斯や有けむ」と、賛嘆している。
URLリンク(img2.rakutabichinastatic.com)
274:日本@名無史さん
17/12/30 00:20:21.58 .net
▽鎧橋
東京都中央区の日本橋川に架かる橋である。左岸(北東側)は日本橋小網町、右岸上流側は日本橋兜町、同下流側は日本橋茅場町となり、東京証券取引所も近い。上空は首都高速の高架橋に覆われている。
初代の橋が架けられたのは1872年(明治5年)で、三井・小野・島田の3人の豪商が費用を出し合って建設された。
URLリンク(bunka.nii.ac.jp)
URLリンク(www.kanda-gawa.com)
275:日本@名無史さん
17/12/30 00:25:10.46 .net
川路は鎧橋をわたって西郷の屋敷へゆくと、西郷は不在であった。
「こげんたんと余談ンば挟ンじょって不在とな?先生は何処おじゃしたか?」
物語の本筋が2%、残り98%が余談であった。川路は疲れきっていた。
276:日本@名無史さん
17/12/30 00:35:24.48 .net
>>258
江戸時代には、海賊奉行・向井将監に由来する「海賊橋」があったんじゃないのか?
277:日本@名無史さん
17/12/30 00:38:32.30 .net
>>259
第一国立銀行の敷地は、丹後田辺藩牧野豊前守家の上屋敷(約6,800坪)であった。
URLリンク(30d.jp)
278:日本@名無史さん
17/12/30 00:46:28.62 .net
★西郷屋敷
▽熊吉
西郷家の下僕。西郷が生まれたときからその成長を見守り、貧乏な西郷一家を支え続けた。幕末の動乱の中、江戸へ京へと西郷に従い、西南戦争では西郷の息子・菊次郎を戦地から救出した。義理人情に厚い男で、生涯、西郷に尽くす。
「西郷どん」にも登場するらしい。熊吉役は塚地武雅。
URLリンク(pbs.twimg.com)
279:日本@名無史さん
17/12/30 00:50:27.86 .net
「田原坂」の高品格さんの熊吉は良かったよな。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
280:日本@名無史さん
17/12/30 00:52:57.35 .net
▽与助 薩摩伊集院出身
▽市助 薩摩谷山出身
▽矢太郎 同上
281:日本@名無史さん
17/12/30 00:54:47.53 .net
▽小牧新次郎
鹿児島城下出身の書生。
282:日本@名無史さん
17/12/30 00:57:33.44 .net
>>244
明治9年に旧会津藩士永岡久茂らが思案橋事件を起こすね。
あとでまた登場する。
283:日本@名無史さん
17/12/30 01:48:23.82 .net
あんなに予告していたのに、北斗の人は読んでいないのかあ。
僕は読み始めていたのに……。
284:日本@名無史さん
17/12/30 17:02:14.13 .net
>>270
申し訳ない。急遽、予定変更です。
285:日本@名無史さん
17/12/30 17:09:24.70 .net
▽桐野利秋
天保9年(1838年)- 明治10年(1877年)
明治2年(1869年)、鹿児島常備隊がつくられたとき、第一大隊の隊長となった。
明治4年(1871年)、廃藩置県に備えて西郷隆盛が兵を率いて上京したとき、大隊を率いて随い、御親兵に編入された。同年7月20日、兵部省出仕となり、28日、陸軍少将に任じられ、同時に従五位に叙せられた。
明治5年(1872年)3月、鎮西鎮台(熊本鎮台)の司令長官に任命され、熊本に赴任した。
明治6年(1873年)4月、陸軍裁判所所長を兼任し、6月25日、正五位に叙せられた。
※日本テレビ『田原坂』(1987年):勝野洋
286:日本@名無史さん
17/12/30 17:11:56.57 .net
桐野は「維新後、いきなり陸軍少将になった」のではなく、明治4年、廃藩置県に備えて西郷隆盛が兵を率いて上京したときである。
287:日本@名無史さん
17/12/30 17:16:53.56 .net
★廃藩置県
▽戊辰戦争
明治元年5月15日、上野戦争が始まり、西郷隆盛は正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破った。
5月末、江戸を出帆。京都で戦況を報告し、6月9日に藩主・島津忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した。
288:日本@名無史さん
17/12/30 17:20:39.13 .net
北陸道軍の戦況が思わしくないため、西郷の出馬が要請され、明治元年7月23日、薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられ、8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。14日、新潟五十嵐戦で負傷した二弟の吉二郎の訃報を聞いた。
新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。
このとき、西郷は黒田清隆に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた〔>>63-65〕。この後、庄内を発し、江戸・京都・大坂を経由して、11月初めに鹿児島に帰り、日当山温泉で湯治した。
289:日本@名無史さん
17/12/30 17:23:35.10 .net
明治2年(1869年)2月25日、藩主・島津忠義が自ら日当山温泉まで来て要請したので、26日、西郷は鹿児島へ帰り、参政・一代寄合となった。
以来、藩政の改革や兵制の整備(常備隊の設置)を精力的に行い、戊辰参戦の功があった下級武士の不満解消につとめた。
5月1日、箱館戦争の応援に総差引として藩兵を率いて鹿児島を出帆した。途中、東京で出張許可を受け、5月25日、箱館に着いたが、18日に箱館・五稜郭が開城し戦争はすでに終わっていた(戊辰戦争の終了)。
帰路、東京に寄った際、6月2日の王政復古の功により、賞典禄永世2,000石を下賜された。このときに残留の命を受けたが、断って鹿児島へ帰った。
290:日本@名無史さん
17/12/30 17:26:20.21 .net
明治2年7月、鹿児島郡武村(現在の鹿児島市武二丁目の西郷公園)に屋敷地を購入した。9月26日、正三位に叙せられた。
明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事・毛利元徳に謁見したのちに鹿児島へ帰った。
291:日本@名無史さん
17/12/30 17:28:46.56 .net
明治3年7月27日、鹿児島藩士で集議院徴士の横山安武(森有礼の実兄)が、時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。
これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢
292:により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した。 12月、危機感を抱いた政府から勅使・岩倉具視、副使・大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。
293:日本@名無史さん
17/12/30 17:33:58.27 .net
▽薩摩常備隊
一個大隊=八個小隊
城下士の常備大隊……四個大隊
郷士の常備大隊……十三個大隊
予備大隊……三十二個大隊
294:日本@名無史さん
17/12/30 17:37:30.75 .net
▽城下士常備大隊
一番大隊長……桐野利秋
二番大隊長……篠原国幹
三番大隊長……川村純義
四番大隊長……野津鎮雄
295:日本@名無史さん
17/12/30 17:45:03.02 .net
▽川村純義
天保7年(1836年)- 明治37年(1904年)
西郷の従妹・椎原春子の夫。川村は西郷に実弟のように可愛がられたという。戊辰戦争では薩摩藩4番隊長として、特に会津戦争で奮戦した。
戊辰戦争から薩摩に凱旋すると、門閥排斥の先頭に立った。純義は藩主・島津忠義の面前で藩主の弟の島津久治を詰問し、その結果、久治はピストルで自殺している。
明治維新後は、明治政府の海軍整備に尽力、明治7年(1874年)には海軍ナンバー2である海軍大輔、海軍中将に任ぜられる。
URLリンク(pds.exblog.jp)
296:日本@名無史さん
17/12/30 17:56:37.28 .net
椎原春子の父が椎原国幹。『田原坂』では下川辰平。その父、つまり西郷の母方の祖父が椎原与右衛門国紀で田中春男。
ついでに、『田原坂』の川村与十郎純義役は松山英太郎。椎原春子は登場していなかった。
椎原国幹は、西郷の母・政(まさ)の弟で、西郷隆盛の叔父に当たるが、西郷とは年齢が近かったため実際には兄のような存在であった。
西郷の母は、NHK「西郷どん」では、満佐子とされている〔>>251〕。
297:日本@名無史さん
17/12/30 18:03:18.67 .net
▽野津鎮雄
天保6年(1835年)- 明治13年(1880年)
慶応4年(1868年)、戊辰戦争では五番隊長となり鳥羽・伏見の戦い、奥羽・箱館に転戦した。
明治2年(1869年)1月、藩兵四番大隊長を任ぜられる。続いて明治4年(1871年)3月、上京し御親兵大隊長となり、7月より陸軍に奉職。
佐賀の乱では大久保利通指揮の下、大阪鎮台隷下の歩兵2個大隊砲兵大隊を率い、佐賀城奪回に貢献した。
西南戦争では第一旅団司令長官をつとめた。戦後陸軍中将となる。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
※『田原坂』では玉生司朗 URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
298:ab.jpg
299:日本@名無史さん
17/12/30 18:09:15.55 .net
▽山下房親
天保12年(1841年)、鹿児島県西田町に生れた。
初代警視総監の川路利良とともに近代警察組織を立ち上げ、鍛冶橋監獄で典獄(刑務所長)を務めた人物。
ジャズ・ピアニスト山下洋輔の母方の曽祖父である。詳しく知りたい方は、山下洋輔『ドファララ門』をお読みになってください。
URLリンク(www.motionblue.co.jp)
300:日本@名無史さん
17/12/30 18:13:39.93 .net
(山下房親)「川路どんが入っておりませんな」
「ああ、正どんのこっな」
『翔ぶが如く』に自分の曽祖父が登場していて驚いたという話は、山下洋輔が司馬全集の月報に書いていたような気がする。
301:日本@名無史さん
17/12/30 18:18:17.93 .net
山下洋輔は、1942年(昭和17年)、東京・渋谷の金王町に生まれた。
渋谷金王町の関係でも『翔ぶが如く』に絡んでいるな。
302:日本@名無史さん
17/12/30 18:30:26.02 .net
>>265
熊吉は、永田という姓までわかっている。
西郷が明治政府に呼ばれた時には日本橋の西郷邸に住み、身の回りの世話から金銭管理まで任されていた。西郷が征韓論で下野し、東京から鹿児島に戻る際には日本橋の土地や家を売るのに尽力した。
西南戦争の際に延岡・和田越えの戦闘にて右足に銃弾を受け膝下を切断する負傷をおった西郷菊次郎を背負い、西郷従道のもとへ投降したことで知られる。
明治19年(1886年)には西郷従道に呼ばれて再上京し、以後、西郷従道に仕え目黒の西郷邸に住み、庭師などをして現在の西郷山公園の原形を作ったといわれる。
303:日本@名無史さん
17/12/30 18:51:16.56 .net
▽御親兵
明治元年2月20日、鳥羽・伏見の戦い後の軍事的緊張に対応するために設置された。実態は長州藩の一部部隊を中心として在京諸藩の浪人を集めただけに過ぎなかった。
翌年には戊辰戦争の終了を理由に、十津川郷士ら400名による組織に縮小された。
東京奠都後には長州藩部隊が東京城(現在の皇居)の警護にあたった。
304:日本@名無史さん
17/12/30 18:52:51.30 .net
明治3年(1870年)12月、山縣有朋は当時鹿児島藩の政務にあたっていた西郷隆盛に対して、天皇と中央政府を守るために薩摩藩・長州藩・土佐藩の献兵からなる親兵を組織することを提案した。
これは当時中央政府に属していなかった西郷を、薩摩藩の親兵入京を口実に政府内に入れることで、政府の強化を図る側面もあった。
ただ、この構想には複雑な政治的背景があった。木戸孝允はこの御親兵の力を背景に廃藩置県やそれを支える官僚・租税制度の整備などの中央集権化政策を一気に実施しようとした。
だが、大久保利通は木戸や大隈重信が進める急進的な政策には批判的で、自己の出身基盤である薩摩藩の親兵入京と西郷の入閣は、この流れを変える足がかりになると考えた。
305:日本@名無史さん
17/12/30 20:10:02.95 .net
2月13日、入京した西郷を中心として正式に「御親兵」として発足した。
薩摩藩-歩兵4大隊・砲隊4隊
土佐藩-歩兵2大隊・騎兵2小隊・砲兵2隊
長州藩-歩兵3大隊
306:日本@名無史さん
17/12/30 20:10:43.00 .net
御親兵は廃藩置県とともに名実ともに近代日本最初の国軍として機能することになった。
その後、徴兵令の施行とともにその役目を新軍隊に譲って、本来の業務である皇居警護に専念することになり、明治5年には近衛と改称され、明治24年には陸軍の近衛師団となった。
307:日本@名無史さん
17/12/30 20:14:21.90 .net
▽川路利良
「正どん、ポリスの大将にならんな?」
明治4年、西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進。翌明治5年、邏卒総長に就任し、司法省の西欧視察団(8�
308:l)の一員として欧州各国の警察を視察する。 帰国後、警察制度の改革を建議し、ジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考に日本の警察制度を確立した。 明治7年、東京警視庁創設に伴い満40歳で初代大警視(現:警視総監)に就任。執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回り、一日の睡眠は4時間に満たなかったという。
309:日本@名無史さん
17/12/30 20:20:01.04 .net
▽高山彦九郎
延享4年(1747年)- 寛政5年(1793年)。江戸時代後期の尊皇思想家。
上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、諱を正之という。
「薩摩びと いかにやいかに 刈萱の 関もとざさぬ 御世とは知らずや」
310:日本@名無史さん
17/12/30 20:21:54.53 .net
ポリス
薩摩……郷士2,000人
他藩……1,000人
311:日本@名無史さん
17/12/30 20:23:33.08 .net
★征韓論
日が暮れてから、西郷が帰ってきた。
もうこれ以上読者を待たせることはできなかった。余談が長すぎた。
312:日本@名無史さん
17/12/30 20:26:03.77 .net
▽児玉勇次郎
江戸生まれの西郷の従者。
313:日本@名無史さん
17/12/30 20:31:22.21 .net
▽御前
明治政府の大官は、花柳界では御前と呼ばれていた。
御前は、貴人の面前・座前を敬って言う語。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
314:日本@名無史さん
17/12/30 20:34:56.65 .net
▽書生
日本では主として明治・大正期に他人の家に住み込みで雑用等を任される学生を意味した。
1872年に学制が布かれると、地方から都会に上り高等学校や大学等へ通う学生が現れるようになった。
しかし、当時は単身者が居住するのに適した住居は少なく、炊事や洗濯などの家事にも不慣れな若者が大半であったため、その多くは親戚縁者の世話になったり、家賃や食費を支払って他人の家に下宿したりするのが通常であった。
そのため「書生」という言葉は、「他人の家に下宿して家事や雑務を手伝いつつ、勉強や下積みを行う若者」のことを指すようになった。
315:日本@名無史さん
17/12/30 20:35:41.32 .net
また、生活費に困窮する者に対しては、地方出身の篤志家が住居の一角に学生を住まわせ、家賃の代わりに簡単な家の手伝い(掃除や商売上の雑務、清書等)をさせるようなことも行われた。
篤志家側も、地元出身のインテリ書生を抱えることはステータスの一種であったこと、また、書生が中央官僚などになった際には、人脈から多様なメリットが生じるといった打算的な考えを持つ者も少なくなかったとされる。
316:日本@名無史さん
17/12/30 20:37:01.88 .net
昭和50年代に東京の大学に進学する際、明治生まれの祖母が「書生になれ」と言ったのには驚いた。
317:日本@名無史さん
17/12/30 20:37:40.37 .net
詳しくは、坪内逍遥の『当世書生気質』を読め。
318:日本@名無史さん
17/12/30 20:45:14.08 .net
▽金子堅太郎
嘉永6年(1853年) - 1942年(昭和17年)
伊東巳代治、井上毅〔>>74〕らとともに大日本帝国憲法の起草に参画する。また、皇室典範などの諸法典を整備した。日本法律学校(現・日本大学)初代校長。禿げている。
福岡藩の出身で、同郷の先輩である平賀義賢という司法省の官員を頼って上京し、平賀の草履取りをやらされた。
URLリンク(shuyu.fku.ed.jp)
319:.jpg
320:日本@名無史さん
17/12/30 20:49:50.97 .net
金子堅太郎は、明治4年(1871年)、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、團琢磨とともにアメリカに留学した。
明治37年2月、日露戦争が勃発すると、ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルト大統領と面識があった金子は、伊藤博文枢密院議長の説得を受けて渡米し、ルーズベルト大統領に接触し、戦争遂行を有利に進めるべく日本の広報外交を展開した。
※映画『二百三高地』で、伊藤博文(森繁久彌)から「日露戦争打開のため、アメリカに協力してもらえ」と厳命された金子堅太郎(天知茂)。
URLリンク(pbs.twimg.com)
321:日本@名無史さん
17/12/30 20:53:11.19 .net
金子堅太郎は、明治33年、第四次伊藤内閣の司法大臣となる。
金子は伊藤博文に重用されており、第二次・第三次伊藤内閣では農商務大臣であった。
322:日本@名無史さん
17/12/30 20:58:50.26 .net
結局は熊吉が鶏をつぶし、酒になった。
URLリンク(mi-journey.jp)
URLリンク(dining.rurubu.com)
323:日本@名無史さん
17/12/30 23:21:27.03 .net
▽鶏林八道
李氏朝鮮が朝鮮半島に置いた八つの道(行政区画)。
400年以上にわたって同一の区分が用いられたため、「八道」は転じて「朝鮮全土」のことも指した。
URLリンク(www.geocities.co.jp)
324:日本@名無史さん
17/12/30 23:32:47.42 .net
▽李氏朝鮮の鎖国
1875年9月20日の江華島事件が鎖国を解くきっかけになったといいますので、当時の李氏朝鮮は鎖国状態にあったようです。
当時の朝鮮は清国の冊封体制下にあり、独自で開国することはできませんでした。
李氏朝鮮は1392年から1910年まで続いた政権ですが、鎖国がいつ始まったかは分かりません。
ただし鎖国と言っても、中国、日本、琉球以外との鎖国状態です。琉球王国とは交易がありました。なお、日本の江戸幕府とは、朝鮮通信使の行き来があり、対馬藩との釜山貿易もありました。
325:日本@名無史さん
17/12/30 23:38:58.65 .net
▽勝海舟の東アジア三国同盟
島津斉彬の「日本膨張論」は書生論であったのに対して、勝海舟の東アジア三国同盟は大いに実現しうるものであった。
現に明治維新に成功した日本は、同様に解禁策を取っていた朝鮮に対して国交を結ぶ使節を派遣している。もっとも、これは3度送って3度とも散々に侮辱されて追い返されたが。
この東アジア三国同盟と言う構想の根幹にあるものはただ一つで、清、朝鮮、日本が連合して洋夷に対抗するというものである。
326:日本@名無史さん
17/12/30 23:43:48.17 .net
洋夷とはここでは具体的にはロシアのことを指す。文久元年(1861年)に、ロシア船が対馬を占領するという事件が起きた。
勝海舟の神戸海軍伝習所の設立は中国、朝鮮、日本の三国を防衛するための海軍設立の魁である、と本人は述べていたという。つまりロシアの南下政策に対して警鐘を鳴らしていたのだ。
327:日本@名無史さん
17/12/30 23:56:11.92 .net
▽征韓論
日本が朝鮮に使節を送った理由は、「欧米列強の魔の手はもうすぐ朝鮮にも伸びるはずだから、鎖国は止めて開国し近代化に勤めてはいかがですか。日本は隣国として協力しますよ。そして、日本、朝鮮、中国で三国同盟を結び、協力して欧米列強の脅威を排除しましょう」という内容です。
この日本、朝鮮、中国による三国同盟の案は、幕末に勝海舟や島津斉彬などが唱えていたものです。
328:日本@名無史さん
17/12/30 23:57:56.21 .net
このまま朝鮮が鎖国を
329:続け、旧態依然とした国家体制のままであれば、欧米列強に侵略されるのは時間の問題であり、そうなれば朝鮮だけの悲劇では済まなくなり、日本にも災いが及ぶのは明白でした。 日本の防衛は、その地政学上、朝鮮半島を列強国に取られると、胸元に刃を付き付けられたのと同じ状態になるのです。それは日露戦争勃発の原因と同様でした。
330:日本@名無史さん
17/12/30 23:59:25.77 .net
実際に欧米列強による朝鮮侵略は具体化しつつあり、1791年にはフランスの宣教師が密入国してキリスト教を布教したり、1866年にフランス艦隊が江華島を襲撃して略奪をはたらいたり、1867年にはドイツ人を首謀者とした集団がかつての王族の王陵を暴いたり、明治4年(1871年)には江華島の砲台がアメリカ艦隊と交戦をしたりしています。
331:日本@名無史さん
17/12/31 00:01:15.36 .net
焦った日本政府は、日本のためにも朝鮮のためにも、朝鮮に一大刺激を与え、朝鮮で日本でいう明治維新のような革命が起こることを期待したのです。もちろん日本は侵略の意思などまったくありませんでした。
昔の日本は、現在の感覚では不思議に思われるかもしれませんが、朝鮮や中国を外国視しておらず同胞のように考えていたのです。
332:日本@名無史さん
17/12/31 00:03:19.73 .net
征韓論とは実際には遣韓論であり、朝鮮を侵略する意図のものではなく、また朝鮮と本格的に戦争をする意図のものでもなかったということです。
西郷らが国内の不平士族たちの不満のはけ口として朝鮮侵攻を企てたという説がありますが、それは後世の左翼的な考えに基づくもので史実ではありません。左翼思想に染まった現代では、それが全てであるかのように主張する人がいるのは困りものですね。
333:日本@名無史さん
17/12/31 00:07:55.70 .net
▽「征韓論こそ亡国論である」
大久保ら非征韓派も、遣韓そのものには反対はしていません。ただ遣韓の使者になる西郷が韓国で殺される可能性があったので、その場合は戦争にならざるをえず、戦争になれば必ず欧米列強の軍事的・政治的な干渉を招くことを懸念していました。
日本の軍事力ではそれに対抗できず、悪ければ日韓両国が、良くても韓国がその分け取りにされて植民地にされてしまうことは確実だったので、それを憂慮して反対したのです。
なぜなら、それが欧米列強が世界中に植民地を得てきた手段の一つなのだから、というものでした。
334:日本@名無史さん
17/12/31 00:13:42.29 .net
まかりまちがえば桐野はオイを斬るかもしれない。これは川路のこの席での覚悟である。
次章「情念」では、時間が2年遡って、洋行前の川路と桐野との間で、この席と同じように、川路が桐野に斬られるかもしれないという状況が語られる。
次章を読んだ後で、本章をふりかえると、デジャヴを見ているようで、アホらしくなる。
335:日本@名無史さん
17/12/31 10:52:49.80 .net
▽勢力均衡〈Balance of power〉
19世紀以降、欧州の国際秩序を維持するために各国間の軍事力に一定の等質性(パリティ)を与えることにより、突出した脅威が生み出されることを抑制し、地域不安や紛争の誘因を低下させることを目的として考案されたバランス型の秩序モデル。
336:日本@名無史さん
17/12/31 10:53:15.12 .net
特に勢力均衡を国家戦略として用いたのが「大英帝国」と呼ばれた時期のイギリスであり、イギリスの基本的国益である独立と貿易の安定化のために、交易国たる小国の独立維持に積極的関心を強めた。
イギリスは小国の独立を脅かす国はすべて敵国であるという姿勢で臨み、そのため、勢力均衡のためには自国の軍事力を高く維持するという独特な勢力均衡政策がとられたのである。
337:日本@名無史さん
17/12/31 10:59:55.62 .net
▼帝国主義
一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、あるいは新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策。
338:日本@名無史さん
17/12/31 11:01:33.11 .net
▼植民地主義
国家主権を国境外の領域や人々に対して拡大する政策活動と、それを正当化して推し進める思考。
政策活動に際しては、資源、労働力、そして市場を経済的に支配することが原動力となる。
植民地主義を正当化するのは、植民者が被植民者より優れており、また、植民地支配はその近代化に必須の経済基盤・政治基盤を発展させることに繋がるので、被植民者にとって利益になるのだという考え方である。
339:日本@名無史さん
17/12/31 11:30:02.97 .net
▽朝鮮と清国の関係
1627年、後金は反後金・親明的な政策をとっていた朝鮮に侵入・制圧し(丁卯の役)、後金を兄、朝鮮を弟とすることなどを定めた和議を結んだ。1636年、後金の太宗ホンタイジ(皇太極)は皇帝に即位し、国号を清と改め、朝鮮に対して臣従するよう要求した。
戦いに敗れた朝鮮の仁祖は、大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏し、冊封体制・羈縻支配下に入った。
340:日本@名無史さん
17/12/31 11:37:46.60 .net
▽英国東洋艦隊
文久元年(1861年)にロシア軍艦ポサドニック号が対馬の芋崎を占領した際〔>>309〕、勝海舟がイギリス公使に圧力をかけて上海から東洋艦隊を呼び、外交交渉によってロシア軍艦を退去させたとある。
なお、第二次大戦中のイギリス東洋艦隊の根拠地は、シンガポールにあった。
※阿片戦争 URLリンク(media1.britannica.com)
341:日本@名無史さん
17/12/31 12:06:03.65 .net
▽閑所
もともとは「人気のない静かな所」。そこから転じて便所を意味するようになった。
※便所を意味するその他の語彙
お手洗い / 化粧室 / はばかり / 雪隠(せっちん)/ 厠(かわや)/ 手水(ちょうず)/ ご不浄
トイレットルーム / レストルーム / バスルーム / WC=ウォーター・クローゼット(water closet)の略。
342:日本@名無史さん
17/12/31 12:14:20.55 .net
人
(__)
(____)
( ・∀・) ウンコー!!
ピョン (つ┳つ ピョン
ピョン (__)||__) ピョン
⊂§⊃
§
⌒ヽ〃⌒ヽ〃
343:日本@名無史さん
17/12/31 12:26:32.72 .net
西郷の書生の小牧新次郎〔>>268〕が、提灯をもって川路を裏庭にある厠へ案内した。
※江戸の大名屋敷の厠の画像はなかった。下は会津藩主の松平容保が使った厠
URLリンク(bqspot.com)
大名のうんこは、その健康状態を調べるために、使用後に箱車のうんこを検診した後に、砂とともに処分された。
松平容保は、この箱の中にうんこを落とした。
URLリンク(bqspot.com)
344:日本@名無史さん
17/12/31 12:45:15.12 .net
▽習志野
習志野は、下総台地の一画を占め船橋市、八千代市、習志野市に跨っている。現在の習志野台一帯は、かつて小金原もしくは大和田原といわれ、江戸時代には幕府の牧場の一部であり、明治初期から昭和20年(1945)までは陸軍の演習場だった。
明治6年(1873)4月29日、明治天皇は、西郷隆盛、篠原国幹ほか多数を従えて当地に行幸され、30日には、近衛兵による天覧演習が行われた。
明治天皇は5月1日に皇居に還御されたが、5月13日、勅諭をもって、この原に「習志野ノ原」の名を賜った。これよりのち、この周辺の地名に「習志野」の名が用いられるようになった。
URLリンク(uub.jp)
URLリンク(www.geocities.jp)
URLリンク(www.city.funabashi.lg.jp)
345:日本@名無史さん
17/12/31 12:51:32.91 .net
「習志野原」の命名について、大演習での陸軍少将・篠原国幹の目覚しい指揮に感銘した天皇の「篠原に習え」という言葉が元になった(習篠原→習志野原)という説があるが、確実な史料の裏付けがなく、歴史的な事実ということはできない。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
※『田原坂』(1987年 / 日本テレビ):大門正明
URLリンク(stat.ameba.jp)
346:日本@名無史さん
17/12/31 13:00:57.36 .net
▽奄美大島に潜居
安政5年(1858年)11月16日夜半、竜ヶ水沖で月照とともに入水した。月照は死亡し、西郷は運良く蘇生した。
藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。よく言われるような遠島ではない。
安政6年(1859年)1月12日に潜居地の奄美大島龍郷村阿丹崎に着いた。
347:日本@名無史さん
17/12/31 13:07:40.35 .net
西郷は島妻・愛加那を娶るにつれ、徐々に島での生活に馴染み、万延元年(1860年)11月2日には菊次郎〔>>287〕が誕生した。
※愛加那 (隆盛の2度目の妻/1837-1902)…二階堂ふみ
URLリンク(thetv.jp)
※『田原坂』(1987年 / 日本テレビ)…菊次郎:坂上忍
URLリンク(www2s.biglobe.ne.jp)
348:日本@名無史さん
17/12/31 13:13:52.55 .net
文久元年(1861年)10月、久光は公武周旋に乗り出す決意をして西郷に召還状を出した。西郷は文久2年(1862年)2月12日に鹿児島へ着いた。
2月15日、久光に召されたが、久光が無官で斉彬ほどの人望がないことを理由に上京すべきでないと主張し、また、「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ」なので周旋は無理だと言ったので久光の不興を買った。
※島津久光 (斉彬異母弟/1817-1887)…青木崇高
URLリンク(webbizinfo.xsrv.jp)
349:日本@名無史さん
17/12/31 13:22:16.69 .net
▽徳之島へ遠島
西郷は過激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めようと試みたが、久光に誤解されて、寺田屋事件の後、徳之島への遠島処分を受けた。
文久2年(1862年)7月2日に西郷は徳之島湾仁屋に到着した。偶然にも、この渡海中の7月2日に愛加那が菊草を生んだ。
8月26日、徳之島来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて西郷のもとを訪れた。久しぶりの親子対面を喜んでから数日後、さらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届いた。
URLリンク(www.geocities.jp)
350:日本@名無史さん
17/12/31 13:26:51.37 .net
久光に
351:とっては、公武周旋に動く人材の不足が最大の問題であった。この苦境を打開するために大久保一蔵や小松帯刀らの勧めもあって、西郷を赦免召還することにした。 元治元年(1864年)2月21日、吉井友実・西郷信吾らを乗せた蒸気船胡蝶丸が沖永良部島和泊に迎えに来た。途中で大島龍郷に寄って妻子と別れ、喜界島遠島中の村田新八を伴って帰還の途についた。 http://stat.ameba.jp/user_images/20090906/10/gong-net/c3/c5/j/o0640064010247905456.jpg
352:日本@名無史さん
17/12/31 13:33:57.03 .net
《西郷隆盛の政治的空白期》
〔1〕奄美大島潜居期:安政6年(1859年)1月~文久2年(1862年)2月……約3年のブランク
〔2〕徳之島・沖永良部島遠島期:文久2年(1862年)4月<捕縛>~元治元年(1864年)2月……約3年のブランク
353:日本@名無史さん
17/12/31 13:42:02.00 .net
▽徳之島の老婆
二度も流刑に処された西郷に対し、「ナマリモン(怠け者)」と悪罵を浴びせる。
文久2年(1862年)7月のことである〔>>331〕。
※『田原坂』(1987年 / 日本テレビ)…西郷を叱った徳之島の老婆:原泉
URLリンク(www.mima.jp)
354:日本@名無史さん
17/12/31 13:51:59.11 .net
女優の原泉の夫は、プロレタリア作家の中野重治である。
中野重治は、前スレの「昭和五年からの手紙 -長沖一とその世代環境-」に名前が出てくる。
雑誌「辻馬車」が左傾化した頃の執筆者として、武田麟太郎・中野重治などが名を連ねてゆく。
※中野重治と原泉
URLリンク(chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp)
URLリンク(gendai.ismcdn.jp)
※佐多稲子と原泉……原泉と佐多稲子という女性二人に看病されて、中野は逝った。
URLリンク(chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp)
355:日本@名無史さん
17/12/31 13:54:47.08 .net
『田原坂』の配役は、ちょい役に至るまで濃いねぇ。
356:日本@名無史さん
17/12/31 13:58:00.88 .net
おじいちゃん、年配の役者についてはやらた詳しいけど、若手の役者については沈黙を守るよね。
357:日本@名無史さん
17/12/31 14:16:29.44 .net
▽村田新八
天保7年(1836年) - 明治10年
鹿児島城下加治屋町山之口馬場(高見馬場方限)で高橋八郎の第三子として生まれ、幼にして村田十蔵経典の養子となった。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)
長男の岩熊は西南戦争に従軍して田原坂で戦死した。
※村田新八 (薩摩藩士/1836-1877)…堀井新太
URLリンク(contents.gunosy.com)
358:日本@名無史さん
17/12/31 14:25:36.37 .net
▽島津斉彬
吉田松陰や橋本左内および島津斉彬たちの大陸進攻論は、欧米列強の東アジア侵攻に対していかに対処するかという観点から述べられている。
日本一国では太刀打ちしかねる大きな力のヨーロッパという認識から、ヨーロッパの東アジア侵攻に危機感を持っていたようである。
それに対して、日本は「主権国家として対峙せねばならなくなる」という予感から考えられた広域防衛構想とでもいうものである〔>>308〕。
URLリンク(www.page.sannet.ne.jp)
※島津斉彬 (第28代島津家当主/1809-1858)…渡辺謙
URLリンク(geitopi.com)
359:日本@名無史さん
17/12/31 14:29:52.30 .net
征韓論は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによって主張された武力をもって朝鮮を開国しようとする論である。
但し、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くという、むしろ「遣韓論」と呼ばれるべきものであり、事実、遣韓中止が決まる直前までは、西郷の使節派遣でまとまっていた。
360:日本@名無史さん
17/12/31 14:43:45.30 .net
▽寅
維新の頃、西郷が京で連れていたのは寅という犬。
当時の祇園新地の名妓君竜は、「木戸はんや山県はんや伊藤はんやお歴々のお方が折り折りおいでやして、若い芸子はんをよんで夜更けまでお賑やかでしたよ。しかし、西郷はんだけは、犬を引っ張って昼間いつもお出でやして、犬さんとご一緒に鰻食を召しあがればすぐにお帰りになりやした。西郷はんのようなお方が、ほんまに粋の中の粋を知ったお方と申すのやろ(後略)」と話している。
※鰻を食べ過ぎて鰻犬になってしまった寅
URLリンク(yaplog.jp)
361:日本@名無史さん
17/12/31 14:50:25.70 .net
▽君竜
「翔ぶが如く」に出てくる名妓「君竜」は祇園の置屋・島村屋の芸妓。ここには祇園一の美貌を誇ったとされる君尾もいた。けど、西郷さんはその君尾には興味なし。
西郷さんが熱を上げていたのは、京都の奈良屋というお茶屋の仲居「お虎」。これが西郷さんばりのデブ女だったらしい。
※君竜姐さんではありませんが……。
URLリンク(s-media-cache-ak0.pinimg.com)
362:日本@名無史さん
17/12/31 14:54:54.58 .net
▽上野公園の銅像の犬
薩摩出身の海軍の要人・仁礼景範が飼っていた犬をモデルにした。
西郷の愛犬ツンではないが、ツンに酷似しているという。
URLリンク(skysoft.jpn.com)
363:日本@名無史さん
17/12/31 15:30:06.07 .net
▽仁礼景範
天保2年(1831年)- 明治33年。薩摩藩士の子弟として生まれる。
慶応3年(1867年)に藩命によりアメリカに留学(薩摩藩第二次米国留学生)。
明治5年(1872年)、海軍に出仕して海軍少佐。明治18年(1885年)、海軍中将。
明治25年(1892年)、第2次伊藤内閣〔>>304〕の海軍大臣に就任し、海軍備の充実に力を注いだ。犬を飼っていた。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
364:日本@名無史さん
17/12/31 15:50:56.21 .net
▽ツン
西郷の飼犬。薩摩の藤川牧野に住む前田善兵衛からもらった薩摩犬。メス。
ところが、ツンは、狩りの途中、猟犬の勘を働かして逃走を図り、はるばる藤川を慕って二度も逃げ帰ったといわれます。
この『ツン』の銅像が、平成2年(1980年)のNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』の放映を機に、藤川天神に建立されました。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
365:日本@名無史さん
17/12/31 15:53:50.79 .net
明治7年か同8年頃、藤川天神を参詣した西郷さんは、境内で近所の犬と出会います。
ツンと呼ばれるその犬は、ピンと立った耳と左尾が特徴の薩摩犬で、兎狩りが得意なメス犬でした。一目見て気に入った西郷さんは、前田善兵衛という飼主に犬を譲って欲しいと頼みます。
しかし、善兵衛は渋りこの申し出を断りました。あきらめきれない西郷さんは、土地の有力者であった三原隼人に交渉を頼みます。善兵衛はその情熱に折れ、ツンは西郷さんの飼い犬となりました。
URLリンク(www.kagoshima-kankou.com)
366:日本@名無史さん
17/12/31 15:55:42.26 .net
藤川原集落在住の前田善兵衛の子孫である前田義昭氏が「ツン」の子孫を現在も飼われています。
現在では、写真の犬一匹だけとなっているようです。
URLリンク(satsumasendai.gr.jp)
367:日本@名無史さん
17/12/31 15:57:17.24 .net
>>343
『上野の西郷さん』の銅像が連れている犬もこの愛犬のツンですが、銅像が制作された当時ツンはすでに死んでいたため、海軍中将・仁礼景範のオス犬をモデルにして、オス犬として作成されたそうです。したがって、オチンチンがついています。
368:日本@名無史さん
17/12/31 16:05:41.33 .net
▽藤川牧野
旧薩摩郡東郷藤川村。現在は薩摩川内市東郷町藤川。
藤川は古くは太宰府天満宮(安楽寺)領であったとされ、地内に寺領を管掌する治所があったであろうと記されている。九州の役(島津征伐)により、大口から川内に至る通路上にあった東郷は豊臣秀吉の軍によって荒らされ、これにより藤川天神の社殿や神宝、文書が焼失している。
URLリンク(uub.jp)
※藤川天神 URLリンク(satsumasendai.gr.jp)
369:日本@名無史さん
17/12/31 16:12:03.55 .net
▽この座敷にいる二頭の犬
寅〔>>341〕でもツン〔>>345〕でもなく、千葉あたりの猟師から譲り受けた雉猟に慣れた犬。
ツンを前田善兵衛から譲り受けたのは、明治6年の政変で下野して鹿児島に帰った後なんで、ツンなわけがないんだがな。
370:日本@名無史さん
17/12/31 16:17:53.76 .net
▼攘夷家
本章には述べられていないが、西郷の犬には「攘夷家」と命名された黒に白い斑点がある牡犬がいた。
この犬は、川辺郡の中条良正から譲り受けた。洋服を着た人を見かけると吠えるので「攘夷家」。
攘夷家については、他の司馬作品で紹介されていたと記憶している。
371:日本@名無史さん
17/12/31 16:27:55.49 .net
西郷は二頭の犬に、卵飯を食わせた。
URLリンク(guidable.co)
※愛媛県今治市にある重松飯店の焼豚玉子飯(ヤキブタタマゴメシ)。
これもかつて他の司馬作品のところで取り上げた記憶がある。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
372:日本@名無史さん
17/12/31 16:28:57.94 .net
※毎年10月30日は『たまごかけごはんの日』です。
『たまごかけごはん』をキーワードに、日本の古き良き食文化や、ふるさと、家族愛などを考えるきっかけになればとの思いから、島根県雲南市の『日本たまごかけごはん楽会』が制定した超マイナーな記念日。
第1回日本たまごかけごはんシンポジウムが開催されたのは、2005年10月30日。そこで、10月30日を記念日にしたというユーモアもウィットも何も感じられない記念日。
373:日本@名無史さん
17/12/31 17:09:06.25 .net
★日本橋小網町
桐野は、
「そこまで送ってあげ申そ」
といって、土間へ降りた。戸口のところで新次郎が待っていた。新次郎が提灯で川路の足もとを照らして先導
374:しようとすると、桐野は、 「よか。オイひとりでよか」 といって、提灯をとりあげた。 桐野のこういう場合、きわめて危険であった。幕末、桐野はこの手でよく人を殺った。
375:日本@名無史さん
17/12/31 17:19:14.37 .net
▽後藤象二郎
慶応3年(1867年)6月22日、薩土盟約が締結された。そのころの話である。
後藤象二郎が小松帯刀の宿所にやってきた。ここには西郷、大久保、吉井も同席している。後藤はその場で武力討幕の挙兵を延期すること、さらには大政奉還の建白書を藩主山内氏の名で提出することなどを述べた。
後藤を暗殺しようとする中村半次郎に対し、後藤は西郷から手渡された島津家の定紋入りの提灯を突きつけて、難を免れた。
376:日本@名無史さん
17/12/31 17:26:27.53 .net
川路と桐野の二人は、思案橋を渡り〔>>244〕、魚河岸の方向をめざした〔>>255〕。
左手に日本橋川がある。
※思案橋は下の地図のB地点にあった。現在は道路になっている。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
※本章に登場した川および橋のまとめ
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
377:日本@名無史さん
17/12/31 17:32:52.21 .net
「むつかし事ごわすな」
と、まず呼吸をはずした。
「オイはポリスじゃってやナ、せからしことは言わらんど」
と川路がいうと、桐野は立ちどまった。川路がそのまま進み、桐野が残った。やがて背後で桐野の哄笑が爆発した。
378:翔ぶが如く
17/12/31 18:24:48.97 .net
第4章 情念
【一】征韓論
日本における外交問題は、他の国におけるそれとは余程ちがった概念と性質をもっているといえるかもしれない。外交が技術であるよりも国民的情念の表現、もしくはその情念によるヒステリー発作というに近い性質をもっているのではないかとさえ思える。
そういう民族的情念の維新後最初の戦慄が、征韓論であった。その戦慄が過ぎ去ってしまえば何事もなかったに均しいにせよ、その最中は明治政府をほとんど崩壊寸前に追いこんだ。
379:日本@名無史さん
17/12/31 18:32:59.22 .net
★攘夷
▽外交
ヨーロッパ大陸諸国……印欧語族……方言ごとに国家……均一性……自国と他国の比較が容易……外交は技術
孤絶した環境にある日本……自国と他国の比較が困難……外交は利害計算の技術とはならない……呪術性・魔術性をもった外交
380:日本@名無史さん
17/12/31 18:39:48.12 .net
▽夷ヲ攘フ
たかが国家の利害計算の範囲内にすぎない外交問題が、国内の革命のエネルギーに変質する。
「夷ヲ攘フ」思想と「王ヲ尊ブ」思想とが矛盾なしに一致する。
外交がただの外交におわることなく、悪霊のような魔術性をもち、国内問題にむかって強烈な呪術力を発揮してしまう。
381:日本@名無史さん
17/12/31 18:52:00.62 .net
★太平洋戦争
▽帝国主義
西欧では、帝国主義とは自国の実力と国際間の錯綜した諸種の利害関係を計算しぬいて行われる外交技術にすぎない。
しかし、軍部は「朝鮮と満州は日本の生命線」という呪術的な言葉を連呼した。
天皇への絶対的忠誠心と日本および日本人の絶対的優越性を全国民にひろめ、全国民を兵士階級にすることによって国内統一を遂げる。
外交問題が国内問題にむかって魔術化していった。その結果、四十余ヵ国というほぼ全地球の人類を敵として壊滅した。
382:日本@名無史さん
17/12/31 18:59:18.71 .net
★戦後外交
▽サンフランシスコ講和条約
1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名された。同日、日米安保条約も署名された。
翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効する。
ただし、交戦国であった中国とソ連およびインド・ビルマが加わっていないので、片面講和といわれた。
URLリンク(www.mofa.go.jp)
383:日本@名無史さん
17/12/31 19:02:53.47 .net
※条約の内容
1.戦争状態の終結、日本の主権の回復:日本は個別的および集団的自衛権をもち集団的安全保障条約に参加できる。
2.領土の規定:日本は朝鮮の独立を承認、台湾・澎湖諸島および南樺太・千島列島を放棄する。琉球諸島と小笠原諸島はアメリカの統治下に置かれた。
3.賠償:外国為替上の負担を日本にかけないとされ、事実上無賠償となった。
384:日本@名無史さん
17/12/31 19:04:18.34 .net
※条約の意義
日本が主権を回復するとともに、冷戦の中で西側陣営に組み込まれるサンフランシスコ体制が成立した。
中国、ソ連との国交回復はなされず、北方領土問題を含めてこれ以後の大きな問題の発端となった。
また同時に締結された日米安全保障条約によってアメリカとの同盟関係が成立し、米軍の駐留が恒常化された。
385:日本@名無史さん
17/12/31 19:07:22.70 .net
※問題点
1.日本の最初の交戦国である中国が、中華民国・中華人民共和国いずれの代表も会議に招聘されず、日中間の講和は後回しとなった。
アメリカは中華民国=台湾
386:のみを代表と認めたが、ソ連とイギリスは中華人民共和国を承認していたので、どちらを招聘するかで意見が対立し、トルーマンは結局そのいずれをも招聘しなかった。
387:日本@名無史さん
17/12/31 19:07:34.19 .net
2.ソ連は会議には参加したが、中国代表が参加していないこと、日本独立後もアメリカ軍が駐留することに反対して、条約には署名しなかった。そのため、日ソ国交回復もできなかった。
3.インド・ビルマという日本と交戦したアジアの諸国が、中国の不参加を理由に会議に参加せず、条約にも署名しなかった。
388:日本@名無史さん
17/12/31 19:11:27.76 .net
※中国・インド・ビルマ・ソ連などとの国交回復
1.中華民国(台湾)=国民党政権とは、1952年4月に日華平和条約を、インドとの間では1952年6月に日印平和条約を、ビルマとの間では1954年11月に日本ビルマ平和条約をそれぞれ締結し、いずれも賠償請求権は放棄された。
2.ソ連とは、1956年に日ソ共同宣言が出されて国交を回復したが、平和条約は締結されていない。
389:日本@名無史さん
17/12/31 19:14:11.85 .net
3.大韓民国とは1965年に日韓基本条約を締結し国交関係を樹立したが、日本は韓国を「朝鮮半島における唯一の合法的な政府」と認定し、北朝鮮を無視する姿勢をとっているため、北朝鮮とは国交関係は成立していない。つまりこの部分では戦争は終わっていない。
4.中華人民共和国=中国共産党政権とは依然として国交を持たなかったが、70年代に入り政府が方針を転換、1972年に日中国交を回復し、日華平和条約は破棄された。なお、1978年には日中平和友好条約が締結された。
390:日本@名無史さん
17/12/31 19:19:18.34 .net
全面講和を主張し片面講話に反対する声も強かったが、吉田茂内閣はサンフランシスコ講和会議条約に調印した。
国内は日本の独立回復を祝う声で覆われたが、独立回復とひきかえに日本が選んだ日米安保体制によって戦後日本のあり方が規定されることになり、懸念されたさまざまな問題がここから始まったともいえる。
URLリンク(s3-ap-northeast-1.amazonaws.com)
URLリンク(ironna.jp)
URLリンク(media.nj.com)
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392:日本@名無史さん
17/12/31 19:28:50.99 .net
>>323
黒岩重吾のどの小説だったか忘れたが、「川屋」といって細い溝川に橋を渡し、その中央あたりに小屋を造って、糞尿を直に溝川に垂れ流す構造の便所が出てきた。
この「川屋」が厠(かわや)の語源なのかもしれないと勝手に想像していたのだが、どうやら正しいらしい。
393:日本@名無史さん
17/12/31 19:29:57.39 .net
むかしの小さな舟の後尾には底のない樽がついていて、海に糞尿を垂れ流していたよ。
394:日本@名無史さん
17/12/31 19:33:02.46 .net
もっとすごいのが日本国有鉄道の車両の便所。鉄道沿線に直接に垂れ流し。
線路脇にウンコと尻を拭いたチリ紙が散乱していた。
395:日本@名無史さん
17/12/31 19:34:33.94 .net
人
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(__)
( ・∀・)つ うんこー♪
(( (⊃ (⌒) ))
(__ノ
人
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(__) うんこー♪
(・∀・ )__
(( ⊂⊂ _)
(__ノ ̄ 彡
396:日本@名無史さん
17/12/31 20:13:29.15 .net
★征韓論
▽桐野利秋
桐野利秋は壮士的気分における征韓派の巨魁とされていた。
といって桐野が朝鮮の政情や人文一般についてどれほど多くのことを知っていたかということになると、ほとんど知らないといってよかった。
むしろ知らないということが、桐野だけでなく、日本歴史のなかで間歇的に噴出する外征エネルギーのエネルギー源になっていた。
397:日本@名無史さん
17/12/31 20:19:56.50 .net
▽壬辰倭乱
秀吉は朝鮮を厳密な定義での外国であると思っていたかどうか疑問であった。
九州の北方にある準九州的な地帯という程度の認識だったために、九州征伐で島津氏を威服せしめたと同様、朝鮮もまた日本国の統一者である彼の威光のもとに威服すべきものだと無邪気に思っていた。
398:日本@名無史さん
17/12/31 20:26:15.94 .net
▽日韓交渉
明治維新の直後、日本は対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。
明治3年2月、明治政府は佐田白茅および森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。
399:日本@名無史さん
17/12/31 20:26:27.61 .net
明治3年9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。
朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年からは排日の風がますます強まり、4月~5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。
400:日本@名無史さん
17/12/31 20:29:35.03 .net
政権を握った大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん」という布告を出した。
当時外交官として釜山に居た佐田白茅および森山茂は、この乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。
401:日本@名無史さん
17/12/31 20:32:42.11 .net
明治6年(1873年)6月、森山茂帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。
参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。
中国から帰国した副島種臣は、西郷の主張に賛成はしたが、西郷ではなく自らが赴くことを主張した。二人の議論の末、三条実美の説得もあり、副島が折れることとなった。板垣退助も西郷のために尽力し、三条実美の承諾を得て西郷を使節として朝鮮に派遣することを上奏した。
402:日本@名無史さん
17/12/31 20:35
403::32.64 .net
404:日本@名無史さん
17/12/31 20:43:33.63 .net
▽長州と薩州
長州人は戦争にくたびれており、革命政府と新秩序の出現を妥当なものとして安堵していた風があった。
しかし、薩摩の場合は違っている。
薩摩は、戦国武者のエネルギーをひたすらに貯えていた集団であった。それが、西郷と大久保両人の英雄的活動によって革命主力となり、その鮮やかな手腕によって戦いに倦まぬまま革命を樹立させたのである。精気だけが残った。
405:翔ぶが如く
17/12/31 20:58:20.06 .net
第4章 情念
【二】中村楼騒動
薩摩人は天下をとった。かれらは軍人と文官とそして警察官にわかれた。中村楼騒動はごく簡単にいえば薄給の薩摩系軍人が高給の薩摩系文官を殴るための大会であり、しかもその喧嘩大会を薩摩系警察官が、中村楼だけに土俵を限定すべく遠巻きに保護するという役割を演じたという滑稽きわまりないものなのである。
(話にならん)
と、川路は不愉快であった。
406:日本@名無史さん
17/12/31 21:43:59.30 .net
★文官と軍人
▽明治4年2月
物語は、再び時間をさかのぼる。御親兵という近衛軍が薩長土三藩から選抜されて編成され、東京に駐屯した当座のことである。
文官である有馬純雄の月俸……150円……下町の長屋住まいの大工の二年分の収入以上。
薩人で軍隊に残った陸軍大尉の月俸……70円程度……それでも下町の長屋住まいの大工の11ヵ月分の月俸である。
407:日本@名無史さん
17/12/31 21:46:47.78 .net
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w (・ω・ ) ふざけるな!
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w ( ・ω・ ) 公務員のばかやろー
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408:日本@名無史さん
17/12/31 21:53:41.49 .net
▽有馬純雄
天保8年(1837年)- 大正13年。藤太〈つだ〉どん。
薩摩藩砲術師範有馬藤太(同名)の長男に生まれる。伊地知正治に引き立てられた。
慶応4年 (1868年) 1月に戊辰戦争が勃発すると、4月に東山道総督府の斥候を命じられ、香川敬三率いる一隊に従軍して宇都宮へ向かった。
途中、流山に旧幕府軍が駐屯しているという報告を聞き、不意をついて甲陽鎮撫隊の陣屋を包囲して、近藤勇を越谷まで連行することになった。14日、一時江戸に帰還したが、板橋に拘留されている近藤の処刑には強く反対したと伝えられる。
※写真中央の人物
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
409:日本@名無史さん
17/12/31 21:56:37.83 .net
この挿話があるので、キネマの黄金時代には、新選組の映画に有馬藤太の名で頻繁に登場していた。
司馬遼太郎の短編集『余話として』(文春文庫)に「有馬藤太のこと」が収載されている。
410:日本@名無史さん
17/12/31 21:59:23.49 .net
有馬純雄は、明治政府に出仕して弾正台や司法省官吏を務めた。明治六年の政変で西郷隆盛が下野したときに辞職し、銀座煉瓦街で代言人の看板を立てる。
明治10年の西南戦争に際しては、大阪で有志を募り挙兵して、その功で西郷軍に加わ�
411:�うとしたが、警察に仲間が摘発されて失敗し、有馬も1年ほど拘束された。
412:日本@名無史さん
17/12/31 22:03:12.87 .net
「藤太どん。土佐の兵隊と一緒に飛鳥山に花見にゆく約束をし申したどん、少しお貸しやっ賜らんか」
URLリンク(img.yaplog.jp)
413:有馬藤太
17/12/31 22:04:57.70 .net
┌○┐ お断りします
│お│ハハ
│断│゚ω゚)
│り│//
└○┘(⌒)
し⌒
414:日本@名無史さん
17/12/31 22:40:56.76 .net
▽大山綱良
文政8年(1825年)、樺山善助の次男として鹿児島に生まれる。嘉永2年(1849年)に大山四郎助の婿養子となる。通称は格之助。
西郷隆盛、大久保利通らとともに精忠組に所属。島津久光の上洛に随行し、文久2年(1862年)の寺田屋事件では、奈良原繁(喜八郎)らとともに過激派藩士の粛清に加わり、中心的役割を果たした。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
※この場面は、NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』(1990年)の蟹江敬三が最高か。
URLリンク(stat.ameba.jp)
415:日本@名無史さん
17/12/31 22:45:48.57 .net
戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督府の下参謀になった。もう一人の下参謀は仙台藩に処刑された長州藩士の世良修蔵。
大山率いる新政府軍は庄内戦線において、庄内藩の反撃にあい連戦連敗を喫する。
新政府では、廃藩置県後に鹿児島県の大参事・権令(県令)となる。
※県令の大山綱良は、日テレ『田原坂』(1987年)の丹波哲郎だな。画像は白虎隊の神保内蔵助。
URLリンク(i.rubese.net)
416:日本@名無史さん
17/12/31 22:53:22.83 .net
来年の「西郷どん」の大山格之助 (薩摩藩士/1825-1877)は北村有起哉か。
時々ドラマで見るけど、ほとんど印象に残っていない。
いま調べたら、北村和夫の倅なんだな。やっと印象に残った。
URLリンク(dorama9.com)
URLリンク(www.bungakuza.com)
417:日本@名無史さん
17/12/31 22:55:19.42 .net
中村楼事件は、県令に就任して上京してきた大山綱良の歓迎の宴を契機として起こった。
418:日本@名無史さん
17/12/31 23:11:12.01 .net
▽中村楼
政財界の人々が足繁く通った高級料亭である両国の中村楼は、後年、東京美術倶楽部が建物を買い取り、美術品の売買の場所となった。
東京市本所区元町1番地。
URLリンク(www7b.biglobe.ne.jp)
419:日本@名無史さん
17/12/31 23:11:56.26 .net
近く県の大参事大山?良が上京してくるというので、大山の歓迎会を兼ねて、薩摩出身者の親睦会を開くことにし、場所も両国の中村楼と決めた。
当日は、中村楼には近衛局の鹿?島隊の将兵は早くから来ていた。桐野少将は熊本鎮台司令官なので、残念ながら来られない〔>>272〕。
それでも、この日、熊本から桐野を強引に呼び出した司馬さんの剛腕は、さすがというほかない。
420:日本@名無史さん
17/12/31 23:14:57.98 .net
中村楼の一階の広間には、西郷大将、大参事大山綱良、伊地知正治をはじめ、少将の種田正明、篠原国幹以下が来ている。
村田新八宮内大丞は岩倉一行と外遊中である。座に着くと勝手に飲み始めて、有馬藤太が来たときは皆かなり酔っていた。
421:日本@名無史さん
17/12/31 23:20:12.90 .net
>>395
何度も言うけど、「翔ぶが如く」は小説だからな、なっ。
422:日本@名無史さん
17/12/31 23:46:13.26 .net
>>396
司馬さんによると、薩摩の宴会は、中村楼の二階で行われたようだよ。
423:日本@名無史さん
17/12/31 23:48:06.58 .net
★中村楼騒動
▽有馬は遅参した
有馬は馬丁に言い含めて、二階から馬の上に飛び降り、逃げる準備をしていた。
424:日本@名無史さん
17/12/31 23:51:50.58 .net
▽箸戦〈なんこ〉
南交とも書く。
対戦する二人が向き合って座り、お互いに三本ずつ『なんこ棒』(堅い木で作られた一辺が1cmの正方形断面で、長さが10cmの棒)を後ろ手に隠して持ち、その中の何本かを右手の拳で握り、隠しながら『なんこ盤』に突き出し、両者合わせて何本持っているかを当てる遊びです。
通常は負けた方が飲むことになっているので、負けが込むと酔いが回って、いよいよ勘が冴えなくなります。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
425:日本@名無史さん
18/01/01 00:02:22.41 .net
▽野津道貫
天保12年(1841年)- 明治41年。兄に陸軍中将・野津鎮雄がいる〔>>283〕。
若い頃、兄・野津鎮雄とともに薩摩藩士・奈良原繁(後の沖縄県知事)の家で書生をしていた〔>>216 / >>223〕。
明治4年3月、藩兵3番大隊付教頭として上京し御親兵となる。同年7月、陸軍少佐に任じられ2番大隊付となる。
URLリンク(stat.ameba.jp)
426:日本@名無史さん
18/01/01 00:03:25.97 .net
野津は有馬をかばって中村楼の二階から逃がした。
427:日本@名無史さん
18/01/01 00:06:41.77 .net
▽亀清楼
創業は安政元年。森鴎外の「青年」や永井荷風の「牡丹の客」、舟橋聖一の「花の生涯」等、有名な文学作品にも登場する。
国技館に近い場所柄もあって古くから横綱審議会が行われている。
URLリンク(www.water.sannet.ne.jp)
428:日本@名無史さん
18/01/01 00:10:57.81 .net
亀清は現在も営業を続けられている。向こうに見えるのは柳橋。
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
本章では、有馬藤太は、中村楼から亀清楼へ逃げた。
429:日本@名無史さん
18/01/01 00:13:02.72 .net
他にも、重野安繹や中井弘といった文官が亀清に逃げてきている。
430:日本@名無史さん
18/01/01 00:19:34.16 .net
▽重野安繹
1827年(文政10年)- 1910年(明治43年)。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗。
鹿児島郡鹿児島近在坂元村生まれ。通称は厚之丞。
1857年(安政3年)に同僚の金の使い込みにより奄美大島に遠島処分にされ、その先で西郷隆盛と出会った。
明治4年に上京し、明治8年以降太政官正院修史局・修史館にて修史事業に関わった。
URLリンク(upload.wikimedia.org)
431:日本@名無史さん
18/01/01 00:23:30.32 .net
▽中井弘
天保9年(1839年)- 明治27年
鹿児島城下に藩士・横山休左衛門詠介の長子として生まれる。
脱藩して京都に行き浪人となるが、後藤象二郎や坂本龍馬らにその剛毅な性格を愛され、彼らが工面した資金で、1866年(慶応2年)に土佐の結城幸安とともに、イギリスへ密航留学する。
432:日本@名無史さん
18/01/01 00:25:40.37 .net
翌年年春に帰国し、宇和島藩周旋方として京都で活躍。中井弘三と改名し、1868年1月、外国事務各国公使応接掛となる。
その後、寺島宗則らとともに外交面で活躍した。鹿鳴館の名付け親でもある。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
433:日本@名無史さん
18/01/01 00:27:39.62 .net
逃げた連中は頭脳明晰な男ばかりだな。
低学歴の怨嗟が渦巻く中村楼といったところか。
434:日本@名無史さん
18/01/01 00:34:00.89 .net
▽淵辺群平
天保11年(1840年)- 明治10年。鹿児島高麗町で生まれる。
戊辰戦争では、参謀・黒田清隆のもとで監軍として軍議に参画し、北陸に出征した。長岡城攻略の際は、刀が鋸の様になるまで自ら敵を斬ったという。
明治2年、鹿児島常備隊がつくられたとき、大隊の教導となった。
明治4年、西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて東上したとき、これに従って上京し、御親兵に編入されて陸軍少佐に任じられた。しかし、まもなく北条県の参事として転出した。
URLリンク(s3.amazonaws.com)
435:日本@名無史さん
18/01/01 00:35:36.58 .net
本章では、中村楼における乱戦のなかで、相五左衛門という兵隊の親指を噛み切って杯洗へ吐き捨てた。
436:日本@名無史さん
18/01/01 01:09:06.74 .net
>>378
つい5年ほど前には、薩摩は薩英戦争をやり、長州は下関戦争をやっていたわけで、そいつらが「朝鮮も開国すれば?」と言ってくれば、「なによ、その掌返し」と思うのも無理はないという気がするがな。
437:日本@名無史さん
18/01/01 13:26:11.03 .net
>>395
淵辺群平が北条県の参事として転出した時期を勘案すると〔>>410〕、中村楼騒動は明治4年の前半だと思う。
桐野利秋の熊本赴任は明治5年3月なので、明治4年前半のこの時期は東京にいる。
「桐野少将は熊本鎮台司令官なので、残念ながら来られない」という叙述の方が誤りだな。司馬が正しい。
438:日本@名無史さん
18/01/01 13:31:21.30 .net
それは置いておくとしても、桐野利秋が熊本鎮台司令官であった事実は、西南戦争の戦略を考える上では非常に重要だと思う。
西郷軍が熊本城陥落に執拗なまでに拘泥したのは、桐野が熊本城を知悉していたからとしか考えられない。
「熊本城はオイに任しておけばよか。熊本鎮台の便所の蛆虫の数まで知っとんどん」と言ったと思う。
439:日本@名無史さん
18/01/01 13:37:18.88 .net
「知っとんどん」とは言わないと思うぞ。
「知っとりもんで」じゃないか。
440:日本@名無史さん
18/01/01 13:48:00.51 .net
中村楼騒動の元ネタは、おそらく有馬藤太の書いた『維新史の片鱗』という著書だと思う。
読んだことはないけどね。
441:日本@名無史さん
18/01/01 13:55:02.03 .net
▽西郷隆盛
西郷は目下の者を生涯いちども叱ったことがないと、司馬さんは書かれている。
西郷はこの騒ぎの中でも、騒動を静めようとはしなかったようだ。酒をくらって酔いつぶれていた。
442:日本@名無史さん
18/01/01 13:55:24.27 .net
従弟の大山巌が、西郷のことを「西郷どんの人望好き」と批判めいた言葉で評している。
目下の者から好かれたいがために、目下に対し厳しいことは一切言わなかったのだろうね。
443:日本@名無史さん
18/01/01 13:59:13.83 .net
▽川路利秋
酔いつぶれた西郷を中村楼から逃がすために、川路は人力車を用意しておいた。
ここでも、野津道貫が登場する。有馬を亀清楼に逃がしたのが野津だ〔>>402〕。
ネタがかぶる。川路の人力車の挿話は、創作かもしれないね。
444:日本@名無史さん
18/01/01 14:04:43.94 .net
▽人力車
記録では、日本の和泉要助、高山幸助、鈴木徳
445:次郎の三名が、発明者として明治政府から認定されている。 三名は、東京で見た馬車から着想を得て明治2年に人力車を完成させ、翌明治3年に日本橋で開業したとされる。 ※明治初年の人力車……まだ折りたたみ機能をもった便利幌がない。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c9/Montanus-page-161-Rich-carriage-of-a-Taikosama-lady-in-waiting.png/593px-Montanus-page-161-Rich-carriage-of-a-Taikosama-lady-in-waiting.png
446:日本@名無史さん
18/01/01 14:09:42.77 .net
川路は郷士で構成されたポリスが中村楼に姿を現わせば、騒動が大きくなると予測して、城下士である野津に後始末を依頼した。
西郷を人力車で逃がした野津の仲間は、西南戦争において官軍に残ったエリートたちである。
447:日本@名無史さん
18/01/01 14:10:14.87 .net
やっぱり中村楼で暴れたのは、低学歴なんだな。
448:日本@名無史さん
18/01/01 14:17:00.47 .net
▽種田政明
天保8年(1837年)- 明治9年
鹿児島城下の高麗町で生まれる。1862年(文久2年)、島津久光の上洛に従い中川宮朝彦親王付の護衛となった。これを契機に諸藩の志士と交流を持つようになり、その交渉役を果たしている。戊辰戦争にも参加した。
449:日本@名無史さん
18/01/01 14:20:31.24 .net
薩摩藩常備隊2番隊長を経て、明治4年に御親兵大隊長として上京。明治5年の陸軍省創設後は、陸軍少丞、会計監督、会計監督長代理などを歴任し、明治6年11月に陸軍少将となった。
東京鎮台司令長官を経て、明治9年9月、熊本鎮台司令長官に就任。同年10月の神風連の乱で、妾である小勝と就寝中、蜂起した敬神党に居宅を襲撃され、これに応戦するも首を刎ねられ殺害された。享年40。
URLリンク(u.jimdo.com)
450:小勝
18/01/01 14:21:07.77 .net
ダンナワイケナイ ワタシハテキズ
451:日本@名無史さん
18/01/01 14:23:50.78 .net
種田政明は、派手好き・女好きで、盛んに色町に出入りし花の左門様と囃されていた。
熊本においても、妾である小勝とともに小間使いの女をも妾とし、両手に花と喜んでいたという。3P大好きな変態公務員である。
URLリンク(ona-apple.com)
452:日本@名無史さん
18/01/01 14:24:44.35 .net
そりゃ神風連も怒るわな。
453:日本@名無史さん
18/01/01 14:40:56.43 .net
話は変わるが、昨夜BS日テレで見た『五稜郭』で笑えるシーンがあったわ。
妻を惨殺したほどの酒乱漢黒田了介が、大酔した長州海軍の連中を説教しておった。
454:日本@名無史さん
18/01/01 14:52:20.56 .net
★桐野利秋
▽明保野亭〔作中では曙亭〕
東山三年坂にある料亭。
あるとき奥で酒を飲んでいた中村半次郎が軒下へ出てきてぜんざいを二十六杯のんだ。
※現在も営業されております。豆腐料理・湯葉料理が中心で、ぜんざいがメニューにあるかどうかはわかりませんでした。
URLリンク(murakumo1868.web.fc2.com)
455:日本@名無史さん
18/01/01 15:03:13.31 .net
▽赤松小三郎
天保2年(1831年)、信濃国上田城下に上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれる。のち、同藩士・赤松弘の養子となり名を小三郎と改める。
安政2年(1855年)、勝海舟に入門し、勝の従者として長崎海軍伝習所に赴き、オランダ人より�
456:鼕w、航海、測量、騎兵学等を学ぶ。 慶応2年(1866年)、薩摩藩から兵学教授として招聘され、京都二本松の薩摩藩邸において野津鎮雄(塾頭)〔>>283〕・野津道貫〔>>401〕・中村半次郎・村田新八・篠原国幹・黒木為楨・東郷平八郎・樺山資紀・上村彦之丞ら約800人に英国式兵学を教え、藩士たちの練兵も行った。 薩摩藩の兵制を蘭式から英式へと改変するのに指導的役割を果たした。 http://www.taiseihokan150.jp/wp-content/uploads/2016/03/akamatsukosaburou.jpg
457:日本@名無史さん
18/01/01 15:09:26.85 .net
赤松小三郎は、慶応3年(1867年)8月に薩摩藩が武力討幕計画を固める中、内戦の危機を回避しようと「幕薩一和」を求めて、薩摩の西郷隆盛や小松帯刀、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していた。
出身地の上田藩よりの召還命令を拒否し続けた。しかし、慶応3年(1867年)9月に呼び戻されることになった。その帰国の直前、京都・東洞院通りで薩摩藩士で門下生であった中村半次郎と田代五郎左衛門に暗殺された。
458:日本@名無史さん
18/01/01 15:22:21.92 .net
▽田代五郎左衛門
作中では田代五郎。
四条から東洞院通りを伏見の方向に下って赤松を追っていくと、仏光寺通りにて、同藩の野津七次(道貫)ら他二名と会った。
二人は「赤松とそこの角で会った」と言ったので、自分達は匂天(おいて)町を通って五条まで下って先回りし、赤松が歩いている道を後へと戻って引き返した。