☆★ 邪馬台国は【葛城】である ★★at HISTORY
☆★ 邪馬台国は【葛城】である ★★ - 暇つぶし2ch1:日本@名無史さん
17/09/17 16:54:56.33 .net
邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼の時代=庄内0式まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
驚くべき怠慢、惰弱。
わしは探した。
ほらトヨもヒミコもいた。
⑩崇神(310年)
⑨開化
     ⑧孝元
          ⑦孝霊   
トヨ津        ⑥孝安
トヨ津        ⑤孝昭
トヨ津    (250年)④懿徳 
ヒメ踏鞴        ③安寧
ヒメ踏鞴        ②綏靖
ヒメ踏鞴  (200年) ①神武 
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
つまり魏志に書かれた王朝は葛城王朝であった。

2:日本@名無史さん
17/09/17 16:56:18.27 .net
もはや誰も私を論破できない。

3:日本@名無史さん
17/09/17 16:58:38.45 .net
纒向は何なの?

4:日本@名無史さん
17/09/17 17:00:50.61 .net
スルー推奨

5:日本@名無史さん
17/09/17 17:03:12.47 .net
まずヒミコ最有力候補モモソ媛。
崇神の治世(4世紀初頭から前半)まで生きてたモモソ媛が248年に死んだヒミコであるはずがない。
ヒミコ=モモソ媛だという人は一体どういう時系列の感覚を持ってるのだ。
だいたいモモソ媛は一皇女である。
もはや話にならない。
これが最有力候補だなんてお笑いだ。

6:日本@名無史さん
17/09/17 17:05:19.63 .net
>>3
纏向、あれは物部の遺跡。
瀬戸内勢力を伴って大和入りしたニギハヤヒの記述と合う。
寺沢薫のいう筑紫、吉備、讃岐、播磨の要素と見事に合う。

7:日本@名無史さん
17/09/17 17:08:12.65 .net
橿原考古学研究所の寺沢薫さんは纏向古墳群について「筑紫、吉備、讃岐、播磨」の要素と言っておられます。
これは先代旧事本紀・第3巻天神本紀にある、ニギハヤヒに随伴した九州~瀬戸内の物部集団の記述に符合します。
筑紫贄田物部、筑紫聞物部、播麻物部、讃岐三野物部などなどです。おそらくその主体は吉備でしょう。
さらに、
3世紀前半から中ごろに築造と言われるホケノ山古墳ですが、その土手には6世紀末頃の14mの横穴式石室があります。
不思議なことに300年以上も経過してから突然、横穴式石室が作られたことになります。
14mというのは、あの石舞台古墳の倍ですから、相当力のある豪族が造ったのでしょう。
6世紀後半、桜井を支配したのは物部守屋です。
・日本書紀585年、物部守屋は3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。
守屋は海石榴市が自分の領地だから連れてきたのであり、14mの横穴式石室を作ったのは物部氏という事になります。
造った理由はホケノ山古墳が物部の氏神墓だからでしょう。(被葬者はウマシマジまたはヒコユキか)
さらに、
大王で初めて桜井に宮を構えたのは10代崇神天皇ですが、お母さんは物部氏の伊香色謎命ですので、
母親の実家で子供を育てたと言われる時代を考えると、桜井が伊香色謎命の地元であり、
つまり桜井は物部氏の土地だったことになります。
さらに、
4世紀初頭と言われる崇神時代は物部氏では伊香色雄命の時代ですが、遡ること6代でニギハヤヒですので、
当時の平均寿命から計算して1世代20年で最古の纏向石塚古墳の時代(2世紀末)と合います。
※他にも根拠がたくさんあるのですが割愛します。
【結論】 纏向遺跡とは物部氏の遺跡である。纏向に卑弥呼はいない。

8:日本@名無史さん
17/09/17 17:10:31.32 .net
大阪の堺から大阪南部まで頭の程度がガチ低い
紀州和歌山は頭いいと思うけど

9:日本@名無史さん
17/09/17 17:12:36.24 .net
ほれ。弥生時代すでに物部(モノノフ)集団は武力で九州~瀬戸内を守っている。
URLリンク(goo.gl)
これで九州に女王の住む都があったなどと考える人はいないであろう。
女王の住む都は畿内にあった。

10:日本@名無史さん
17/09/17 17:14:30.26 .net
ニギハヤヒは神武に屈した。
その時点でニギハヤヒは王ではない。
では神武が王か?
違う、記紀では彼は終始「天皇」と表記されている。
しかし7世紀以前に天皇という称号はない。
したがって神武には称号がない。
つまり彼は王ではない。
神武の時代、王は別にいた。
それは3代安寧の后ヌナソコナカツ媛の父「鴨王」だ。
日本書紀で神武の血統ではないのに「王」と表記される異色の人物だ。
この王の名はクシヒガタ。
神武の義理兄にあたる。
つまり
クシヒガタ>神武>ニギハヤヒ
という序列だ。
これで王権がどこにあったか分かるだろ。
葛城だ。
ヒミコは葛城にいた。

11:日本@名無史さん
17/09/17 17:23:03.26 .net
崇神が4世紀初頭~前半の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
①神武→ヒメタタライスズヒメ
②綏靖 →イスズヨリヒメノミコト  生きてた「ヒメ」タタラが女王
③安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト   生きてた「ヒメ」タタラが女王
④懿徳→アマトヨツヒメノミコト
⑤孝昭→ヨソタラシヒメノミコト    生きてたアマ「トヨ」ツが女王
⑥孝安→オシヒメ        生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。 魏志の【年已長大 無夫壻】とは神武の死後にヒメ踏鞴が寡婦であった状況であろう。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
URLリンク(o-yan216.wixsite.com)

12:日本@名無史さん
17/09/17 17:32:35.15 .net
おい、前スレ消化せずに重複立てんなよ。

13:日本@名無史さん
17/09/17 17:33:33.56 .net
>>12
前スレなんかあるかいアホ。

14:日本@名無史さん
17/09/17 17:48:09.23 .net
本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世が真剣に卑弥呼は誰か考えたあげく、
神功皇后だとするわけがない。
神功皇后の時代が大きく引き伸ばされトンデモない時代設定であることは誰でも分る。
彼らは記紀編纂者が時代を大きくずらしたその意図を見抜き、
その心理を理解し、なおかつ自分たちもそれに同調した。
真実を知らない方がよほど幸せなこともある。
しかし現代の日本人は中国へのコンプレックスなど微塵も持ってない。
明治人が日清戦争で取っ払ってくれた。
だからかつて日本が中国に朝貢してたことも余裕で受け止めれる。
そういう時代だからあえて言おう。
帥升とはスサノオだ。
つまり日本の歴史は後漢・安帝への土下座から始まった。
卑弥呼とはヒメ踏鞴だ。神武は大王ではない。
邪馬台国は葛城だ。
スサノオ(帥升)107年




ヒメ踏鞴  210年   神武 
ヒメ踏鞴        綏靖  
ヒメ踏鞴        安寧  
トヨ津         懿徳 孝昭 
トヨ津         孝安    ​     
     磯城の台頭  孝霊 孝元 開化
      310年    崇神

15:日本@名無史さん
17/09/17 18:29:32.27 .net
イスケヨリかわいいよイスケヨリ

16:日本@名無史さん
17/09/17 18:31:30.33 .net
卑弥呼は初代皇后であったスレと重複だろうが。
なにコテハン外しているんだよ!

17:日本@名無史さん
17/09/17 18:34:26.50 .net
>>16
うるさい氏ね。

18:日本@名無史さん
17/09/17 18:37:07.44 .net
誰にも相手にされないスレを覗きに来てやっているんだ。
ありがたく思え。

19:日本@名無史さん
17/09/17 18:41:44.37 .net
>>7
卑弥呼が君の言う物部だったんだよ。

20:日本@名無史さん
17/09/17 18:51:36.79 .net
>>19
物部で最高位まで上り詰めた女性はウツシコメ、イカガノシコメ。
2人とも天皇を産み皇太后を名乗る。
しかし卑弥呼と時代は合わないし、名前も全然違う。
無理。

21:日本@名無史さん
17/09/17 19:06:17.42 .net
卑弥呼の墓

①前方後円墳なら卑弥呼の没以前に完成しており、埋葬部の工事に数日かかった。
 魏使はその墳墓全体を径百余歩と記述した。
②神武など初期天皇の墓のように天然の山や岡を墓域とした。
 魏使はその山全体を径百余歩と記述した。
③王族の代々墓が存在し、ヒミコはその一角に埋葬された。
 魏使はその代々墓全体を径百余歩と記述した。
①も②も候補はない。
③は候補がある。
纏向ごとき低地の下界を見下ろす神々の地に墓域は存在する。
その代々墓全体が径百余歩である。
その場所は高天原(御所市高天)である。
今も日本最古の神社の御神域となっている。
見ていただきましょう、これがその御神域の塚です。
URLリンク(goo.gl)

22:日本@名無史さん
17/09/17 19:13:33.50 .net
箸墓の建造開始時期「布留0式古相」を強引に250年頃にしてヒミコ墓だとする勢力がある。
歴博の春成などその代表格である。
しかしヒミコ死後ピッタリに建造したとしても完成まで10年。
10年間も殯を行うわけがない。
つまりヒミコ=箸墓説なんて無理。
だいたいヒミコは既に高齢だ。
自分の墓くらい用意してただろう。
③王族の代々墓が存在し、ヒミコはその一角に埋葬された。
 魏使はその代々墓全体を径百余歩と記述した。
これが正解であろう。

23:日本@名無史さん
17/09/17 19:44:41.98 .net
>>21
纏向にはホケノ以前にも多数の古墳があるのをご存知でしょうか?アマチュアさん?

24:日本@名無史さん
17/09/17 20:02:10.26 .net
葛城のタカミムスビ神(高木神)のところに嫁入りしたのが南九州の王女卑弥呼だな
倭国大乱を収めるために、南九州と葛城が同盟を結んだ
同盟の条件が卑弥呼の嫁入りだった
一時は高木神が倭国王となるが国内(特に北部九州)が納得せず、卑弥呼が葛城で女王となるとやっと北部九州も納得した
だから神武東征じゃなくて卑弥呼東征だったわけだ
そして卑弥呼の孫が北部九州を監視するための官ニキ=ニニギとして「天孫降臨」したわけだ
ヒメ大神の伝承地が南九州から宇佐、四国、奈良に残ってる
卑弥呼=神話のアマテラス=南九州から葛城に東征
神武なんていなかった

25:日本@名無史さん
17/09/17 20:14:16.81 .net
>>23
だから何なんだろ。
おまえの少ない脳みそでヒミコ墓候補を絞ってみ。

26:日本@名無史さん
17/09/17 21:11:25.77 .net
>>24
>倭国大乱を収めるために、南九州と葛城が同盟を結んだ
>同盟の条件が卑弥呼の嫁入りだった
それはけっこう面白い意見だと思う。
というのもヒメ踏鞴五十鈴は日向人の神武と結婚、
ヒメ踏鞴の兄、クシヒガタも日向賀牟度美良姫と結婚する。
兄妹そろって日向人と結婚。
>同盟の条件が卑弥呼の嫁入りだった
これは全然あかん。
家制度がない当時、嫁入りなんて制度がない。
むしろ神武の婿入りを考えるべき。

27:日本@名無史さん
17/09/17 21:18:45.34 .net
日本書紀で神武とされてるのは高木神
その高木神に嫁入りしたのが南九州の王女卑弥呼=日向姫=アマテラス
(第一の東征)
4世紀初頭に物部系の崇神が大王位につき首都が三輪に移転、葛城は大王位を明け渡す
4世紀~6世紀は物部が河内・大和を支配した磐石の時代(倭王旨=ウマシマジ~倭の五王、朝鮮半島南部を支配)
仏教論争を経て6世紀末に葛城分家の蘇我が大王位を奪取(奈良の明日香)
7世紀にアマテラスを輩出した九州の勢力が白村江の敗戦により置かれた唐の占領から逃げるように畿内に侵入
(第二の東征)
北部九州、南九州、河内、三輪、葛城は古くから血縁関係で結ばれた同盟国(ただし同盟内で勢力争いが起こるのは世の常)
その同盟国内における大王位の変遷の歴史を「万世一系」の神話として捏造したのが日本書紀だよ

28:日本@名無史さん
17/09/17 21:24:06.69 .net
>>26
卑弥呼=ヒメ大神=アマテラスの伝承は南九州から大分、四国、奈良に残ってる
東征のルート

29:日本@名無史さん
17/09/17 21:29:52.44 .net
ほんま伊勢尾張の勢力は無視されるんだな。
元伊勢の分布を見ても、アマテラスは伊勢の勢力。

30:日本@名無史さん
17/09/17 22:07:24.25 .net
天武が沖縄を訪れたときの碑が残ってる
URLリンク(www.google.co.jp)
天武は大化の改新の混乱を逃れて南九州にいた
南九州はアマテラスの出身地
南九州勢力の力を借りて兄天智の近江王朝を滅ぼし奈良で即位
アマテラスを最高神に格上げした

31:日本@名無史さん
17/09/17 22:09:55.24 .net
アマテラスの扱いが7世紀から変わってるからな
それまでの歴代大王は伊勢神宮なんかぜんぜん参拝してない
それまでアマテラスは中堅どころの神にすぎなかった

32:日本@名無史さん
17/09/18 00:13:14.58 .net
「日本の天皇が中国に朝貢していた歴史などあってはならん」と言った本居宣長は、
朝貢していた歴史があったと知ってるからこそそう言ったわけだ。
本居は【最悪】の事を考えただろう。
最悪とは、始祖王にして最高神スサノオが倭國王帥升であるという事だ。
スサノオ自ら海を渡り中華皇帝安帝に土下座。
こんな史実、当然あって欲しくはなかったが「あったのではないか」と仮定しただろう。
ならばスサノオから約100年後のヒミコやトヨって誰だ?
ヒメ踏鞴、天トヨ津だ。
ヒメ踏鞴は「年已長大 無夫壻」の記述通り寡婦である。
住んだ場所は葛城である。
では夫であった神武の東征紀って何だ。
あれは女王国であったことをごまかすための大袈裟な記述であると見抜いただろう。
でも言えない。
今の日本人は中国を見下せる。劣等感なんてこれっぽっちもない。
でも昔は違う。
大国・中華の精神的クビキが日本人を覆っていた時代だ。
だから自分が気付いたその史実を封印し、熊襲の女酋長という奇説でごまかしたのだ。
つまり邪馬台国論争なんて1分で終わってた話なのだ。
なにが300年論争だ、バカ者が。

33:subo
17/09/18 00:30:02.26 .net
>.30
乙巳の変で倭國の蘇我氏が畿内ヤマトにだまし討ちされて筑紫倭國が占領
されたので、筑紫倭國の天武は南九州に非難したんだろう

34:subo
17/09/18 00:31:38.62 .net
天智は畿内の王、天武は筑紫倭國の王(いいな鴨厨

35:日本@名無史さん
17/09/18 06:44:17.27 .net
>>26
クシヒカタの嫁は
神門家じゃからアジスキタカヒコネの実家やど。
日向人と違うど。

36:日本@名無史さん
17/09/18 10:28:57.96 .net
>>35
誰も日向から嫁に来たなんて言ってない。
日向人(日向ゆかり)と言ってる。
アジスキタカヒコネ=スサノオのいた所なら高天だ。
何も問題はなし。

37:subo
17/09/18 11:09:24.93 .net
葛城は投馬国ゆかりか

38:日本@名無史さん
17/09/18 18:33:50.75 .net
>>36
ああ言えばこう言う、詐欺師の論法。

39:日本@名無史さん
17/09/18 18:37:06.01 .net
>>32
>ヒメ踏鞴は「年已長大 無夫壻」の記述通り寡婦である。
寡婦じゃないよ。
神武の死後は、手研耳と再婚したろ。

40:日本@名無史さん
17/09/19 10:36:21.37 .net
葛城は出雲

41:日本@名無史さん
17/09/19 10:50:53.73 .net
>>39
結婚し、亭主に先立たれ(寡婦)、また結婚し、先立たせた(寡婦)
寡婦の時期が2回ある。
タギシミミは、
【唯有男子一人、給飲食、傳辭出入】
だと見ている。

42:日本@名無史さん
17/09/19 21:34:03.98 .net
葛城は纒向の前の時代じゃないのかな
卑弥呼の前つまり倭国大乱の前の大和朝廷の中心地

43:日本@名無史さん
17/09/20 09:35:38.69 .net
>>42
葛城の時代がトヨ=天トヨツで終わりかける頃に磯城の纏向に箸墓古墳ができる。
おおよそ270年頃か。
これは物部が外威となって実権を握ったことを意味する。
7代孝霊天皇の頃だ。
実際、6代孝安までは宮が葛城、7代孝霊以降は脱葛城。
つまり卑弥呼は葛城にいたという事。
葛城を祖地とする蘇我が6~7世紀に実権を握るが、これは300年前に磯城の物部がやった事。
やり返したわけだ。

44:日本@名無史さん
17/09/20 12:46:36.07 .net
奈良県ローカルの話しを邪馬台国と結びつけるなよ。
かっぺのくせにうざいな。

45:日本@名無史さん
17/09/20 12:47:05.80 .net
豊も天も九州じゃないか。

46:subo
17/09/20 15:12:00.07 .net
>>43
蘇我氏の祖は秦氏である

47:日本@名無史さん
17/09/20 16:27:25.48 .net
宗像の姫大神が、
軍神のアマテラスって書いてた人いた。
初代アマテラスが卑弥呼で、2代目がトヨかな?

48:日本@名無史さん
17/09/20 16:28:18.71 .net
間違えた。
宗像じゃなくて宇佐ね。ごめんなさい。

49:日本@名無史さん
17/09/20 16:29:34.87 .net
ちなみに、
宇佐の後ろの正面は、
ゾロアスター(エリシャ)です。

50:日本@名無史さん
17/09/20 17:34:27.52 .net
>>47
それ特定の個人名ではないんじゃない。

51:日本@名無史さん
17/09/20 19:57:44.45 .net
高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からないが、筑紫にいた武内宿禰の末裔と言われる。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていた。
蘇我大臣家と天皇家が物部大連家を滅ぼし(物部戦争)、次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。

52:日本@名無史さん
17/09/20 20:06:20.55 .net
鴨厨にも功績はある。
ナガスネヒコがなぜ外来のニギハヤヒを王として迎えたのか、わからなかった。
登美の一族が出雲の事代主の末裔であれば、すでに出雲の国譲りの時に高天原のアマテラスに降伏しているので、その末裔であるニギハヤヒに従僕するのは当然だったのだ。
しかしそこにイワレビコが現れて戦いとなったので、行き違いが生じてしまった。
ナガスネヒコを倒したあと、イワレビコはあらためて登美の一族、三輪山の神の娘であるイスケヨリ姫を娶って、奈良盆地の一部に住む場所を得たのである。

53:日本@名無史さん
17/09/20 20:09:04.19 .net
>>1 
違います
葛城は九州からやってきた後の神武が大国主の一族の娘をあてがわれて住むことになった土地です
邪馬台国ではありません

54:日本@名無史さん
17/09/20 20:10:00.36 .net
だから、どーでもいいから

55:日本@名無史さん
17/09/20 20:31:58.65 .net
俺みたいなド素人だと、
アマテラスが現日本の国体神で、
日本統治の最初の人物が卑弥呼とするなら、
アマテラス=卑弥呼=皇族と
考えてしまうなあ。
どっちも女神だし。
じゃあ、もう一柱の女神の、白山菊理姫はだれだったのかだが。

56:日本@名無史さん
17/09/20 20:46:39.46 .net
記紀神話は女神だらけだよ。
それと、昔はアマテラスは男だと考えられていたらしい。
実際、天孫族は男系を優先する家系なので、アマテラスが女なのはおかしいんだよね。

57:日本@名無史さん
17/09/20 21:14:41.09 .net
そら卑弥弓呼の系統の話をアマテラスに書き換えたものだから。
アマテラスの逸話は元々はすべて卑弥弓呼の系統の話。

58:日本@名無史さん
17/09/20 21:17:46.81 .net
イザナギ→アマテラス神話は卑弥弓呼の系統について書かれたもの。
卑弥呼をアマテラスと重ねるようにミスリードしたんだよ。

59:日本@名無史さん
17/09/20 21:25:40.89 .net
勝者が敗者の血統や神話を奪うんだよ。
神武とニニギの関係もそう。ニニギは元々伊都国の話。
伊都国を支配下に置いた神武の勢力が伊都国の血統と神話を奪ったんだね。

60:日本@名無史さん
17/09/20 21:30:32.35 .net
>>59
バカジャネーノ
普通に神武が伊都国王の末裔でいいだろ。

61:日本@名無史さん
17/09/21 00:43:20.40 .net
>>53
>葛城は九州からやってきた後の神武が大国主の一族の娘をあてがわれて住むことになった土地です
あてがわれてというのは一方的な目線だけど、まぁそうだよね。
>邪馬台国ではありません
なんで?
推定で崇神から6世代前。
この時代の最高位の女性の名前が歴史上もっともヒミコに近い。
また神武死後、寡婦である。
邪馬台国の王都はここしかない。
違うというなら対抗軸としてもっと有力な誰かを出してみて。
ほとんどの人が対抗軸の人物を出せない。
自分が出せないのに出してる俺に文句ばかり言うのだ。

62:日本@名無史さん
17/09/21 00:47:55.49 .net
>>55
>日本統治の最初の人物が卑弥呼とするなら、
卑弥呼の擁立の前、2世紀前半から男王がいるわけで、
卑弥呼はその男王の王朝から出たわけだね。
纏向に卑弥呼がいたなんて言う人は、2世紀前半の男王を説明できない。
纏向は2世紀末からだからね。

63:日本@名無史さん
17/09/21 01:26:04.79 .net
>>62
俺、浅学で、
邪馬台国、卑弥呼より前の時代のこと全く知らないんだ。
確か、57年に何かあったよね。
ちょっと歴史を教えてもらえませんか?
倭の五王っていうのもいたんだっけなんだっけ。

64:日本@名無史さん
17/09/21 09:58:23.09 .net
邪馬台国はヤマトですよ
ご先祖様が土蜘蛛や蝦夷の人はヤマト嫌いの血が騒ぐので反発しているのです
いわゆる部落の人達ですね

65:日本@名無史さん
17/09/21 10:21:37.89 .net
>>63
>57年に何かあったよね
金印の倭奴国か。
俺はあの金印を疑ってる。

卑弥呼より前は2世紀前半に其の国に男王がいて、
70~80年してから倭国大乱、
そして卑弥呼共立。
この2世紀前半の其の国の男王を説明しないといけないのに、
纏向説の連中はそれが全然できてない。
こいつら論外。
倭の五王は5世紀。
記紀ではこの時代の天皇の没年干支をわざと違わせ、
誰であるか比定出来ないように細工している。
プライドとして「朝貢」をとにかく気にしていた証拠。

66:日本@名無史さん
17/09/21 11:52:59.12 .net
>>65
一連のおバカ発言はこいつか
ことごとくズレてんだよね
オツム弱いんだろな

67:日本@名無史さん
17/09/21 11:54:37.05 .net
>>65
そうかこいつ葛城厨かwww

68:日本@名無史さん
17/09/21 15:43:29.32 .net
>>66
どこがズレてるのか説明せよ。
まぁどうせできないのだろうが。

69:日本@名無史さん
17/09/21 16:13:57.92 .net
記紀では神功皇后を120年ずらして卑弥呼に当てはめている。
そこまでしても隠さねばならなかったのが実際の卑弥呼である。
アマテラスやモモソ媛が卑弥呼なら隠さねばならない理由がない。
唯一、ヒメ踏鞴五十鈴媛のみが隠さねばならない理由がある。
ヒメ踏鞴五十鈴媛自身に問題があるのではない。
彼女の5世代100年前の人物に問題がある。
つまりスサノオは倭国王帥升だ。
スサノオ自ら渡海、後漢の安帝に跪き土下座。
日本の国史を「安帝に跪き土下座」から書けない。
だから神武をBC660年というトンデモない時代にずらし、
さらにスサノオを神話化したのだ。

70:日本@名無史さん
17/09/21 16:32:11.36 .net
朝貢年
266年 台与        アマトヨツ
 ・
238年 卑弥呼       ヒメタタラ
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
107年 倭国王・帥升     スサノオ

倭国王帥升とはスサノオである。
卑弥呼がヒメ踏鞴だと分かれば帥升がスサノオだと分かってしまうのだ。
記紀編纂の際、朝廷が最も恐れた事だ。

71:subo
17/09/21 19:17:34.14 .net
スサノオが土下座とかスサノオに失礼だろ

72:日本@名無史さん
17/09/22 00:25:47.75 .net
>>71
自分から会いに行って皇帝の前で突っ立ってるわけないだろ。

73:日本@名無史さん
17/09/22 11:04:14.05 .net
記紀は神功皇后を120年ずらして卑弥呼であるとしてますから、
まず神功皇后を元の時代である4世紀後半に戻し、
そこから神武の時代を想定してみるのが良いと思います。
まぁ2世紀~3世紀というところでしょう。
記紀では神武以前の王朝の事がチラッと書かれてます。
神武はヤマトで事代主神の娘と結婚します。
「神」「主」
つまり出雲系大物主、事代主、
彼らが魏志の2世紀前半にいた其国の男王の系譜だとしか考えられません。
実際、神武の義理兄を日本書紀では鴨王としてます。
神武ではない「王」がいたという事です。
義理兄の鴨王とはクシヒガタですね。
考古学的にも弥生時代にはすでに北部九州や瀬戸内を武力で固めて防衛してます。
URLリンク(goo.gl)
これは畿内に都があった何よりの証拠です。

74:日本@名無史さん
17/09/22 11:11:20.78 .net
手品師が「私の右手のカードをご覧ください」と言った時、
なにやら左手でコチョコチョしてるものです。
同じように、
記紀において神武東征はハイライトです。
手品師の持つ右手のカードと同じなのです。
ここに読む人の意識を集中させてるのです。
だれもこの時代が実は女王国だったなんて発想はしないでしょう。
神武東征紀とは、実際には女王国であったのを男王国だと思わせるために書かれたものなのです。

75:日本@名無史さん
17/09/23 05:05:58.92 .net
ベニバナの渡来は4世紀以降
これで充分畿内説論破

76:日本@名無史さん
17/09/23 07:56:42.22 .net
結局、奈良盆地には3世紀以前のものと断定できるものがほとんどない。

77:日本@名無史さん
17/09/23 11:54:00.87 .net
>>73
事代主=大物主。
事代主家=葛城の登美家。ルーツは出雲王国の東の王家、富家。
出雲王国第8代少彦(スクナヒコ/副王の役職名)で有った八重波津身命(後にツミ・ハ・八重事代主に改竄。名前をあべこべにする一種の呪詛)が渡来人某ら(天津神)に謀略を以て殺害されて、
御子の1人、奇日方命と妹君ら(タタラ五十鈴媛と五十鈴依媛)が母親と共に一時期実家の摂津の三嶋(高槻市あたり)に逃避。
後に葛城に移り住んで登美家と号して父親を祀ったのが鴨都波神社(葛城の下鴨神社/事代主神)の始まり。
併せて三輪山に父親の御霊と出雲族伝来の太陽の女神(オオヒルメのムチ)を祀り、
その初代祭主に登美家天日方奇日方命の妹君で初代大倭国(葛城(出雲の分家/鴨族)、丹波連合王国)大王、天村雲命の大后の媛タタラ五十鈴姫命が就任。
(二代目祭主は妹君の五十鈴依媛命)
登美家、並びにその血統の姫御子(ヒメミコ/姫巫女)が代々祭主を努める(大物主=八重波津身命で直系の先祖)
因みに、後の太田田根子命も天日方奇日方命の登美家(事代主/大物主家)の子孫故に三輪山の祭主に成れた

78:日本@名無史さん
17/09/23 11:56:06.42 .net
高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からないが、筑紫にいた武内宿禰の末裔と言われる。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていた。
蘇我大臣家と天皇家が物部大連家を滅ぼし(物部戦争)、次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。

79:日本@名無史さん
17/09/23 11:57:04.52 .net
■比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)
URLリンク(www.buccyake-kojiki.com)
イスケヨリ - 神武皇后、スカトロ的出生譚の美女
東遷完了後の初代天皇・神武天皇が改めて嫁取りした際に選ばれた皇后。二代天皇・綏靖天皇の母。
母親がうんこしている時に、オオモノヌシが化けた赤い矢が女陰に突き刺さったことで誕生する、というスカトロ的な出生譚を持つ、絶世の美女。
当初名前が出生譚にちなんで「ほとたたらいすすきひめ」となっていたが、ほと=女陰を嫌って、比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ=イスケヨリ)に改名。
「ホトと呼ばないで!」という名言を残す(?)
神武天皇がイスケヨリとの合体を楽しんで述懐した歌を送られている。

80:日本@名無史さん
17/09/23 12:15:46.67 .net
>>76
>結局、奈良盆地には3世紀以前のものと断定できるものがほとんどない。
あるよ。
唐古鍵遺跡、大福遺跡、鴨都波遺跡、四分遺跡、平等坊・岩屋遺跡などなど多数。
しかし王墓がない。
これは前方後円墳を王墓と決め込んでいるからだ。
それならば3世紀以前にはない。
ただし、神のいた場所に墓域がある。
神とは神武を迎え入れた事代主神のいた場所、葛城だ。
下界を見下ろす高天原(御所市高天)にある高鴨神社の御神域は明らかな人為塚。
高鴨神社社殿は孝昭天皇の頃に創建、
つまり人為塚はそれ以前のものだ。
孝昭天皇の頃とは3世紀中~後半、トヨの時代だ。
これはもう偶然ではあるまい。

ヒミコこと事代主神の娘・ヒメ踏鞴五十鈴の墓はここだ。
URLリンク(goo.gl)

81:日本@名無史さん
17/09/23 13:24:33.93 .net
須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえないこと。

82:日本@名無史さん
17/09/23 13:36:09.32 .net
>>81
>金印や
まさか国宝だから本物で正しいとは思ってないだろうね?
あれを国宝にしたのは昭和6年満州事変の年。
強い政治的思惑があったのだ。
>八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
崇神が手元に置いてて放逐した鏡ね。
あれは�


83:ィ部の祭器。 崇神はお母さんが物部のイカガノシコメ。 だから「曾根」遺跡群の平原から同じものが出た。 曾根の語源は不明だが池上曽根遺跡(二田物部)や中世の武家曾根氏など、 物部と強く関わっている名称だ。 平原は防人集団モノノフの墳墓であろう。



84:日本@名無史さん
17/09/23 14:21:52.84 .net
>まさか国宝だから本物で正しいとは思ってないだろうね?
本物だね

85:日本@名無史さん
17/09/23 14:23:40.23 .net
>>82
江戸時代からあったのだから、そんな屁理屈が通るわけない。

86:日本@名無史さん
17/09/23 14:28:06.94 .net
邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。

87:日本@名無史さん
17/09/23 14:29:08.16 .net
「大都市の江戸が現在の東京に出現して江戸時代が続いたのだから
 江戸幕府は東京だった!」
「うん、そうだね」
「じゃあ、江戸を作ったのは誰だったんだろうね」
「江戸に決まっている」
「じゃなくて、江戸はその直前までど田舎だったでしょ?
 それまでの関東最大だった小田原城も滅亡してるし
 外部から誰かが来て江戸を作ったとかは?」
「ゴミクズ!」
「初代大名の徳川家康はどこ出身だったんだろう?」
「総花的に江戸に決まってるだろゴミクズ」
「岡崎に幼少時の竹千代伝承が集中してるんだけど」
「出た!得意のダニ的解釈www
 岡崎城は徳川家臣の城であって徳川家とは無関係
 むしろ服従する立場だった
 江戸時代を勉強しなおしてこいゴミクズwww」

88:日本@名無史さん
17/09/23 14:30:40.84 .net
■比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)

URLリンク(www.buccyake-kojiki.com)
イスケヨリ - 神武皇后、スカトロ的出生譚の美女
東遷完了後の初代天皇・神武天皇が改めて嫁取りした際に選ばれた皇后。二代天皇・綏靖天皇の母。
母親がうんこしている時に、オオモノヌシが化けた赤い矢が女陰に突き刺さったことで誕生する、というスカトロ的な出生譚を持つ、絶世の美女。
当初名前が出生譚にちなんで「ほとたたらいすすきひめ」となっていたが、ほと=女陰を嫌って、比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ=イスケヨリ)に改名。
「ホトと呼ばないで!」という名言を残す(?)
神武天皇がイスケヨリとの合体を楽しんで述懐した歌を送られている。

89:日本@名無史さん
17/09/23 14:32:44.71 .net
>>84
江戸時代なら黒幕は江戸幕府だろう。
新井や本居が心にもない九州説を唱え、
古代大和朝廷の朝貢という重い史実をごまかそうとした。
江戸幕府もそれに同調したのであろう。

90:日本@名無史さん
17/09/23 15:10:21.32 .net
>>88
発見後の金印は筑前藩主である黒田家に代々伝わり1978年に福岡市に寄贈された。

91:日本@名無史さん
17/09/23 16:30:29.03 .net
由緒正しきものを国宝にする事に何も文句はない。
しかしその由緒が、
「百姓が畑を耕してたら大きな石があって…」
「その石はどこにあるの?」
「さぁ」
こんな由緒があるか馬鹿野郎。

92:日本@名無史さん
17/09/23 16:52:11.84 .net
軍部「皇紀2591年,柳条湖事件に端を発し、皇軍は,5ヶ月の間に満洲全土を占領、軍事的にはまれに見る成功を収めた」
Q: へぇ…皇紀2591年という事はシナに朝貢してたのは天皇家ですか?
軍部「……」
軍部「あの偽物の金印を国宝にしろ。朝貢してたのは九州と言う事にしたい」

93:日本@名無史さん
17/09/23 17:03:14.89 .net
>>88 江戸幕府がどうやって見たこともない金印を偽造できたのか立証しない限り、世間はゴタクとしかみなさないよ



95:日本@名無史さん
17/09/23 17:13:29.19 .net
国宝に指定するのと何の関係があるのか、さっぱりわからん。
石の下から見つかったのが信用できないなら、ますます伊都国細石神社説が有力じゃないか。

96:subo
17/09/23 17:36:58.11 .net
>>91
まったくもって意味不明

97:日本@名無史さん
17/09/23 17:49:57.46 .net
畿内説は、誰かを納得させようという気はさらさらないんだな。
ただの妄想にとらわれて夢でも見ているんだな。

98:日本@名無史さん
17/09/23 18:58:59.84 .net
別に、畿内説でも九州説でも、
真実ならどっちでもいいいんだよ。
問題は、客観的にほぼ確実だという
論拠がほしいってこと。
まあこう言っても、
俺はド素人だから
何も証左できないが。
ごめん、アタリマエのこと言ってしまったが、
あまりにも曖昧な意見多くてつい。

99:日本@名無史さん
17/09/23 20:23:38.98 .net
江戸時代に「漢委奴國王」印なんて何の為に偽造する必要があるんだ?

100:日本@名無史さん
17/09/23 20:38:23.74 .net
>>96
九州北部伊都国を都とする倭国という国があって、その王が金印をもらった。
卑弥呼がその後を継いで女王になった。
金印はその後も江戸時代まで伊都国に保管されていた。簡単だ。

101:日本@名無史さん
17/09/23 20:39:10.04 .net
>>92
金印偽造説のテクニカルな問題は三浦佑之氏が書いておられる。
国宝になったのだから正しいのだは通らない。
出自がいい加減であることは変わらないので根拠にはならない。
>江戸時代に「漢委奴國王」印なんて何の為に偽造する必要があるんだ?
新井や本居が九州説を言い出したのと同じ。
古代大和朝廷および天皇が朝貢してた事という事実をプライドとして認めたくなかった。
九州にあった邪馬台国ががやったことにしたい。
それが理由だ。

102:日本@名無史さん
17/09/23 20:40:07.11 .net
>>98
そんな辺鄙な場所に王都などない。
カッペは自惚れるな。

103:日本@名無史さん
17/09/23 20:43:23.23 .net
>>96
>>1にも書いたが
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
たったこれだけで邪馬台国論争は終了する。
崇神天皇は4世紀初頭~前半説でほぼ決まり。
ならばトヨもヒミコも決まり。
今のところ最有力のアマテラス説もモモソヒメ説もあり得なくなる。

104:日本@名無史さん
17/09/23 20:44:55.93 .net
纏向遺跡は4世紀末

105:日本@名無史さん
17/09/23 20:49:10.92 .net
平原には狐塚古墳、銭瓶塚古墳、ワレ塚古墳など4世紀から5世紀の小さな古墳があるではないか。
君たちは何故かその話を意図的に避けてるね。
つまり平原墳墓を含めこれらの墳墓は、2世紀から5世紀まで平原を支配した小さな領主の墓群としか説明できないのだ。
だから地元に何の伝承も謂れも残ってないわけだ。
その程度の小さな領主が倭國王などとは身の程知らずにも程がある。
卑弥呼以前からの男王の存在を説明できるのは葛城しかない。
大和朝廷の発祥地であり神武以前に出雲系王権があった。
高天原(御所市高天)にはその王族の代々墓らしき御神域(径百余歩)もある。
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地とはここだ。

106:subo
17/09/23 20:50:20.76 .net
>>99
プライドとか関係ないんだよ

107:subo
17/09/23 20:51:19.77 .net
>>100
葛城は陸の孤島か

108:subo
17/09/23 20:53:44.83 .net
>>101
ヒミコやトヨはアマテラス系だろ

109:subo
17/09/23 20:55:19.71 .net
>>103
雑木林じゃないか

110:日本@名無史さん
17/09/23 20:59:28.54 .net
福岡県糸島市という海峡に面した日本の端の端に、
防人の居住地こそあっても、
女王の住む都があるわけがない。
これを真剣に言ってるやつらはいったいどういうセンスをしてるんだ。
おうおう、原田大六の銅像まで建ててみっともない。
カッペは少し頭を冷やして反省しなさい。

111:日本@名無史さん
17/09/23 21:13:49.85 .net
「移住したい町No.1」福岡県糸島市の魅力
URLリンク(www.huffingtonpost.jp)

112:日本@名無史さん
17/09/23 21:18:43.30 .net
>>99
三浦は、発掘状況がわからない上に、金印の成分分析がなされていないことを理由に贋作であると述べているだけ、
何も立証していない素人説

113:日本@名無史さん
17/09/23 21:21:58.15 .net
>>101
その話は聞き飽きたからもういいよ

114:日本@名無史さん
17/09/23 21:25:03.37 .net
>>99
>古代大和朝廷および天皇が朝貢してた事という事実をプライドとして認めたくなかった。
>九州にあった邪馬台国ががやったことにしたい。
金印とか何も無い方が朝貢してた証拠が無いのでは?
何も無いなら文献に在っても嘘か間違いで済みそうだがな
「漢委奴國王」の金印なんて朝貢してた証拠になるじゃない???

115:日本@名無史さん
17/09/23 21:30:49.68 .net
うーん、問題は、
邪馬台国があったとされる九州より、
近畿地方が栄えたというところだよなあ。
俺が思うに、
糸島近辺では、立地よりもまず、
総面積が狭すぎない?
まあ、数万人だか数万戸しかなかったようだから、
妥当といえば妥当なのかな?
浅学の俺にわかりやすいように説明してください。

116:日本@名無史さん
17/09/23 21:41:05.36 .net
>>113
近畿が栄えるのは卑弥呼から500年も後のこと。
弥生時代は海運が交通のほぼ全てであり、海のない奈良盆地は特に僻地だったろう。
大陸との交渉を全て掌握できる博多が発展して都となるのは当然だし、後漢書、魏志、隋書など多くの史書が筑紫を倭国の王都としている。
当然、倭国女王である卑弥呼も都である筑紫にいた。

117:日本@名無史さん
17/09/23 21:41:38.40 .net
【伊都国】
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。
伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。
伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70~80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。

118:日本@名無史さん
17/09/23 21:43:11.09 .net
>>111
おまえが聞き飽きようが関係ないのだよ。
何度でも言ってできるだけ多くの人に印象付けるのが狙いだ。
おれは一度もまともな反論を食らったことがない。

119:日本@名無史さん
17/09/23 21:47:24.01 .net
>>112
>「漢委奴國王」の金印なんて朝貢してた証拠になるじゃない???
だから九州に倭奴国があった、奴国もあった、そして邪馬台国も九州にあり、
其の国がが朝貢してたのではないかと印象付けるため。
新井や本居もそうだし、満州事変時の軍部もそう。
かといって親魏倭王の印は偽造しない、それは完全に嘘になるから。

120:日本@名無史さん
17/09/23 21:49:56.07 .net
>>110
>三浦は、発掘状況がわからない上に
その通りではないか。
発掘状況が分かったのか?
そんないい加減なものはいくら国宝になろうが根拠にならないと言ってるだけ。
宮崎市定も金印には懐疑的だ。

121:日本@名無史さん
17/09/23 21:51:29.63 .net
>>114
そうだねえ。
航路があったというのは、大変な武器だね。
中国や朝鮮から、御所まで行ったなんて到底考えられないよね。
あなたの文章で、8割9割九州説を信じたよ。

122:日本@名無史さん
17/09/23 21:54:19.86 .net
それと、
糸島と御所の写真見たけど、
どっちかというと糸島のほうが卑弥呼がいたと想像し易い映像だった。
御所も何かしらの神域だろうとは思うけどね。

123:日本@名無史さん
17/09/23 21:57:48.83 .net
>>119
トヨの朝貢は畿内からだよ。
小札革綴冑という中国製の冑が畿内を中心に出る。
トヨの朝貢時期に入手したものであろう。
これは邪馬台国が畿内にあった証拠。

124:subo
17/09/23 21:58:32.39 .net
>>108
原田大六先生を馬鹿にするんじゃない

125:日本@名無史さん
17/09/23 22:03:44.97 .net
>>121
それは、時代考証もあってますか?

126:日本@名無史さん
17/09/23 22:06:12.62 .net
>>122
銅像を原田大二郎先生に変えろ。

127:日本@名無史さん
17/09/23 22:07:26.63 .net
>>123
合ってます。
3世紀後半から4世紀前半の古墳から出ます。

128:日本@名無史さん
17/09/23 22:07:39.48 .net
>>118
だから、素人説はうんざりなんだよ
発掘状況がうさんくさかろうと、偽造不能なら本物だ

129:日本@名無史さん
17/09/23 22:08:04.32 .net
>>121
一応、考古遺物は各品 編年があるんだから
まず編年上何年になる
出土地域の氏族を示す
その氏族が手に入れてもおかしくない経緯を説明する
その氏族の世系から最初の編年上はこの人と特定する。
こういう流れで説明してください。

130:日本@名無史さん
17/09/23 22:08:51.75 .net
>>116
お前言い続けて何ヶ月?
誰も相手にしてないだけだけどねw

131:日本@名無史さん
17/09/23 22:11:25.07 .net
私は、九州説の中でも、
邪馬台国の本丸というか、本国は
熊本だと思っています。
邪馬台という、字。
自分の国に邪なんてつけるわけないんで、
やまたいに近い読み方の国名だったと思うんですが、
私はこれを山大国と読みました。
これだと阿蘇山でぴったりだと思います。
また、正式名は知らないんですが、
熊本港だったら、外交し易いと思うんですよ。
博多湾沿岸だと、
急襲されたときに守りづらいと思うんですよね。
海と山の天然の要塞、熊本説。いかがでしょう。
でも、これは素人考察ですので、
他の九州説、近畿説、四国説など、
有力な証拠がなにか出てきたら、
自説に拘ることはしたくありません。

132:日本@名無史さん
17/09/23 22:12:29.90 .net
>>126
>偽造不能なら本物だ
偽造ができることは三浦氏の本にある。
問題は偽造をしたかどうかだ。

133:日本@名無史さん
17/09/23 22:14:23.45 .net
>>128
信者が着実に増えているが。
俺の言ってる事が正しいからだ。

134:日本@名無史さん
17/09/23 22:17:25.13 .net
ちょっと、やまたいを山大とするのは、無理がありますかね。
やっぱ、ヤマト国だったのかな。
単純に、大和国か。
そうすると、近畿に同名国があるなあ。うーん。

135:日本@名無史さん
17/09/23 22:18:08.21 .net
>>127
>まず編年上何年になる
そんな具体的な年数なんて出るわけがない。
面倒臭いので以下は以前の投稿のコピペ。
中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。
当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。
おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。
この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。
この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
崇神に反乱を起こした武埴安彦命が挙兵した場所であり、
椿井大塚山被葬者が武埴安彦である可能性が高い。
もう一つ面白いところから出る
大阪柏原の玉手山6号墳だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。
被葬者の該当人物がいる。
孝元天皇の妃・埴安媛の父、河内青玉繋だ。
武埴安彦の祖父になる。
河内青玉繋→埴安媛 →武埴安彦(崇神時代)
祖父と孫、つまり同じ一族が小札革綴冑を手に入れてたのではないか。
ということは河内青玉繋はトヨの時代を生きていた。
トヨの朝貢団の一人ではないのか。

136:日本@名無史さん
17/09/23 22:22:02.18 .net
>>116
>何度でも言ってできるだけ多くの人に印象付けるのが狙いだ。
デマを垂れ流すな。

137:日本@名無史さん
17/09/23 22:23:17.78 .net
>>119
>あなたの文章で、8割9割九州説を信じたよ。
ありがとう。

138:日本@名無史さん
17/09/23 22:26:03.59 .net
>>129
>熊本だと思っています。
>熊本港だったら、外交し易いと思うんですよ。
>海と山の天然の要塞、熊本説。いかがでしょう。
狗奴国だよ。
邪馬台国を熊本にしてしまうと、その南の狗奴国がなくなってしまう。

139:日本@名無史さん
17/09/23 22:26:42.09 .net
>>129
私も賛成。九州は熊本平野と阿蘇地域が鍵と思う。

140:日本@名無史さん
17/09/23 22:28:54.55 .net
>>134
>デマを垂れ流すな。
崇神天皇陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
これのどこがデマなのか言ってみろ。
この時点でヒミコは1人に決まりだ。

141:日本@名無史さん
17/09/23 22:30:42.73 .net
糸島って筑前前原の事だよ
あの場所がそんなに神聖に見えるか?

142:日本@名無史さん
17/09/23 22:33:45.60 .net
>>133
編年っていってるでしょ。
具体的な年のことなんて聞いてません。
土器にも様式があってそれぞれマイナーチェンジされてるでしょ?
小札革綴冑は
何から発展していってどのようなものに発展していったか?そこがわかってないなら話にならない。
>小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
この考え方はダメだよ。
そもそも古墳の編年が副葬品で決められてるんだから、循環論法になる。
まだ庄内や布留とか鏡とかそういう共伴したものを示さないとダメ。

143:日本@名無史さん
17/09/23 22:36:20.04 .net
熊襲と隼人は後の時代かな?ウィキったけど

144:日本@名無史さん
17/09/23 22:38:54.23 .net
土器は使いにくいからね
上流階級は陶器、つまり須恵器を使用していましたよ
古代の陶器の本場は近畿ですから、近畿こそ日本の支配階級の本拠地だったのでしょう
絹にしても陶器にしても北九州は二級品だらけなのですよ
セレブのアイテムは機内から出土しています

145:日本@名無史さん
17/09/23 22:41:46.27 .net
>>140
>小札革綴冑は
何から発展していってどのようなものに発展していったか?そこがわかってないなら話にならない。<
日本では前段階の物が全くない。
3世紀後半に突然現れ、それが中国の冑と類似してるから、
中国製だと断定できる(高橋巧)わけだ。
何言ってんだお前。

146:日本@名無史さん
17/09/23 22:43:39.55 .net
>>130
偽造は不能だよ、テクニックの問題じゃない

147:日本@名無史さん
17/09/23 22:44:23.58 .net
>>131
信者?
どこに?

148:日本@名無史さん
17/09/23 22:45:03.88 .net
>>132
近畿にあるヤマトは後付けだから

149:日本@名無史さん
17/09/23 22:47:26.82 .net
>>139
も少し内陸の高祖山や平原遺跡のあたりが王城だよ。
後世の怡土城だね。

150:日本@名無史さん
17/09/23 22:49:40.20 .net
>>143
いいけど、それなら古墳の築造年代と言わずに
同時代の中国製とみられるものだから
X年ごろとみられるっていう方が妥当だと思うけど何で古墳築造年代に言及するわけ?

151:日本@名無史さん
17/09/23 22:52:17.20 .net
>>148
>何で古墳築造年代に言及するわけ?
古墳築造年代、あるいは被葬者埋葬年代とさほど誤差はない。
何を言ってんだ?

152:日本@名無史さん
17/09/23 23:04:53.74 .net
>>149
古墳の築造年代は副葬品で決められてる
他の遺物との共伴関係で決められてる
だから「この古墳がxx世紀のものだからそこからでた小札革綴冑は、、、」という日本語は立論上おかしい表現だ、といっています。
この小札革綴冑は布留2と共伴した古墳から出土したかxx世紀のものだと思われる、ならok
でもこと小札革綴冑は遡れる品がない
中国にしかないなら共伴関係に言及するのもいいけど
中国ではx世紀の物だから日本のこれはy世紀のものと思われる。こういう言い方じゃないと立論の基礎がおかしい。

153:日本@名無史さん
17/09/23 23:10:00.32 .net
>>150
>この小札革綴冑は布留2と共伴した古墳から出土したかxx世紀のものだと思われる、ならok
だから3世紀後半以降だ。
いちいち何古墳かは面倒臭いのでおまえが調べろ。
まぁとっくに阪大の福永伸哉さんが言ってるわけだが。

154:日本@名無史さん
17/09/23 23:13:05.39 .net
邪馬台国というか、大和国が、
ものすごく広範囲だったということはない?
それだと九州説も畿内説も両者とも正しいということになるけど。
無理か。

155:日本@名無史さん
17/09/23 23:22:36.53 .net
>>152
10代崇神天皇がいつ頃の人物かで決まる。
なんと安本はいまだに4世紀後半と言ってる。
そして古田武彦という演歌歌手は継体以前が倍歴と言ってるそうだから、
崇神が何年ごろと言ってるのか俺は知らん、「知恵遅れ=古田信者」に聞いてくれ。

156:日本@名無史さん
17/09/23 23:28:06.37 .net
畿内の大和国は8世紀以降の表記

157:日本@名無史さん
17/09/23 23:30:52.18 .net
ワカタケル大王=崇神という説もあって
それだと5世紀だな
雄略だとしきの宮という表記と合わないとか

158:日本@名無史さん
17/09/23 23:43:46.23 .net
天皇家って、何者なんですかね?
まだ伝え伝承が残っていた古代、中世、近世まで
ずっと日本の中心として、
一度も侵されたたことがないということは、
よっぽどすごい家柄なんだなあ。

159:伊都国女王
17/09/23 23:51:15.22 .net
>>156
倭国大乱で、王都であった筑紫の日向を追い出されていますよ。

160:日本@名無史さん
17/09/23 23:51:17.78 .net
>>155
崇神が5世紀?
力が抜ける。

161:日本@名無史さん
17/09/23 23:52:29.64 .net
>王都であった筑紫の日向
カッペは引っ込んでなさい。

162:日本@名無史さん
17/09/23 23:56:13.97 .net
なぜ記紀が古代天皇の年齢を100歳超えるほど大きくずらしてるのか、
それを考えろ。
武内宿祢が300歳になってしまった。子供にも笑われる。
しかしながら、それでもなぜ大きくずらしたのかを考えろ。
何か絶対隠したい、知られてはいけない史実があったのだ。
それはスサノオ=帥升の朝貢だ。
彼は107年中華皇帝・安帝に土下座した。
これを隠したかったのだ。
ならばそこから100年後の女性で最高位の人物が分かるだろ。
つまりヒミコは分かるだろ。
ヒメ踏鞴五十鈴だ。
神武東征紀は実際は女王国であったことをごまかすために大げさに書かれた。
ヒメ踏鞴五十鈴が住んだのは葛城、奈良県御所市だ。
九州でも纏向でもない、葛城だ。
邪馬台国は葛城だ。

163:日本@名無史さん
17/09/24 00:02:16.69 .net
>>160
確かに、修学旅行で奈良に行ったとき、
偉い安堵感をえられた。
あ�


164:、我が故郷、と。 宗像神社にも行ったことがあるが、 福岡にそういう感想は持たなかったな。



165:日本@名無史さん
17/09/24 00:25:48.75 .net
>>161
葛城の高天彦神社に行ってみ。
俺が行った時、なにやら草木がたなびいた。
もののけ姫の世界だ。
生れてはじめて神霊のようなものを感じた。
同じ事をブログに書いてる人がいた。
葛城から見たら、古都と言われる京都なんて平安京ニュータウンだ。

166:日本@名無史さん
17/09/24 00:29:15.80 .net
>>160
>邪馬台国は葛城だ。
飛躍しすぎ。
これがなければまだ耳を貸すのにね。

167:日本@名無史さん
17/09/24 00:39:37.33 .net
神武も事代主も卑弥呼を共立し、ヤマト征伐に加担した人物だよ。
ヤマト盆地を分割統治したんだろうな。
神武、事代主は葛城地域の新たな支配者。
それを有難がるなんか、1800年の洗脳は怖いね。

168:日本@名無史さん
17/09/24 00:56:07.47 .net
>>164
>神武も事代主も卑弥呼を共立し、
そこはいいが。
>ヤマト征伐に加担した人物だよ。
征伐も何も神武は鴨王朝の入り婿。
大物主、事代主の出雲系王朝は10代崇神の時代まで続いてるだろ。
モモソ媛の亭主は大物主だからな。
崇神は大物主の怨霊を怖れて大神神社を建てるね。
そしてオオタタネコを神主に据える。
これは最後の大物主を殺したからだろう。
その最後の大物主の名前は建飯賀田須命。
この人物が、モモソ媛の亭主で出雲王朝のラストエンペラーだろう。
つまり崇神がクーデターを起こしたのだ。

169:日本@名無史さん
17/09/24 01:00:04.68 .net
>>164
肝心な事を聞き忘れた。
>神武も事代主も卑弥呼を共立し
ということは神武と卑弥呼は同時代と認めるわけだね?
ならば卑弥呼は誰だ?
1人しかいないよね。

170:日本@名無史さん
17/09/24 01:05:28.48 .net
卑弥呼は8人いた

171:日本@名無史さん
17/09/24 01:06:00.74 .net
邪馬台国は2つあった

172:日本@名無史さん
17/09/24 08:58:03.48 .net
昨日盛り上がってた皆さんどこに行っちゃいました?
おやすみモードかな?

173:日本@名無史さん
17/09/24 09:38:36.85 .net
>>163
>飛躍しすぎ。
どうして?
おおよそ住んだ場所が分かるのに。
九州説最有力のアマテラスなんてどこに住んだのかさえ分からないのだぜ。
それでも「説」になってるんだから笑わす。
まぁアマテラスも葛城の高天が原にいたわけだが。
今は別の名前で祀られている。

174:日本@名無史さん
17/09/24 10:01:08.45 .net
全く関係ないんだが、
高天原はインドのデカン高原だって言ってた人いた。
日本は世界の雛形で、
近畿の半島はインドを表しているから、
何か符合するかなと思いました。

175:日本@名無史さん
17/09/24 10:02:04.13 .net
葛城は大和朝廷発祥地である。
古来から高天原と呼ばれた金剛山があり今も御所市高天という地名が残る。
孝昭天皇の頃に社殿ができた日本最古級の高鴨神社がある。(明神大社)
ご神体の神山を含めた御神域が径百余歩である。
シタテルヒメ(高姫)=アマテラスを祀る。
アジスキタカヒコネ(迦毛大御神)=スサノオを祀る。
つまり実質10代崇神から始まる現王朝以前に存在した神王朝である。
高天原(御所市高天)にいた神々であった。
神は名前を「鴨」に変えられた。

帥升が連れた生口160人を説明できるのも葛城である。
高天原の麓、根の国、黄泉の国。
20世紀部落解放運動の聖地でもある。
そういうわけでヒミコは葛城にいた。
イワレヒコという男は葛城神王朝の軍事長官及び俘囚長であったのだろう。
シタテルヒメ(高姫)=アマテラスの5世代後にヒミコ(ヒメ踏鞴五十鈴媛)がいた。
驚くべきところなのである。
おまえら全員頭が高い。
控えろ。

176:日本@名無史さん
17/09/24 10:30:52.42 .net
>>172
ああ、なるほど。アマテラスと卑弥呼は血縁という関係か。
うん。一理ある!

177:subo
17/09/24 10:55:55.95 .net
>>172
なんで部落が偉そうにしてんだよ、頭が高いのはおまえらだよ

178:日本@名無史さん
17/09/24 10:58:55.79 .net
▢▢力夫氏=アマテラスの家

179:日本@名無史さん
17/09/24 11:01:53.15 .net
>>172
たかだか5世代だからね。
同じ所にいた。
葛城ではヒミコ=ヒメ踏鞴五十鈴よりシタテルヒメ(高姫)=アマテラスの方が先輩で重要視されてるようだ。
高鴨神社、中鴨こと御歳神社、下鴨こと鴨都波神社、ことごとく祭神はシタテルヒメ(高姫)。
この鴨族(神族)の姫様たちが住んでた場所もおおよそ分かる。
名柄の長柄神社、別名「姫の宮」だろう。
見事な水源地である。
水源地を支配するのが鴨族(神族)の特徴だ。

180:日本@名無史さん
17/09/24 11:06:35.48 .net
3世紀 宮崎の王女卑弥呼が邪馬台国(大和)に弟とともに移住
(卑弥呼は嫁入り、弟は婿入り)
卑弥呼が邪馬台国で女王として即位
宮崎では地元出身の倭の女王卑弥呼のことを「伝説のアマテラスさま」として神格視
(畿内ではアマテラスは中堅の皇祖神として敬われてはいたが神格視まではされていなかった)
7世紀天武が大化の改新や白村江の戦いの混乱から逃れるため宮崎に避難
宮崎でアマテラス神話を受け継ぐ
天智の死後、九州勢力をバックに天武挙兵
壬申の乱を起こし畿内を支配する
アマテラス信仰を畿内に再輸入し、アマテラスが皇室の最高神となる

181:日本@名無史さん
17/09/24 11:17:14.87 .net
なるほどなあ。
卑弥呼とアマテラスは、何かしら関係があると思っていたけど、
同一人物だと、なんかアニメの世界というか、
話が出来過ぎだと思ってた。
そうかあそういうことだったんだね。

182:日本@名無史さん
17/09/24 11:31:15.51 .net
神武はタギシミミを伴って東征した。
では幼い故に宮崎に残してきたキスミミはその後どうなったであろう。
普通に考えてキスミミの末裔は南九州で王国を築いていただろう。
10代崇神は大物主の鴨王朝を倒す。
そして神武を祖とし自分の王たる所以とした。
新王朝の祖は神武になった。
ならば邪魔な存在がある。
南九州にあったであろうキスミミの末裔の王朝だ。
神武の正統なる男系王朝が二つもいらない。
それを討ちに行ったのが景行天皇であろう。
ところが日本書紀には熊襲征伐と書かれた。
南九州にあった神武の正統なる男系王朝が熊襲呼ばわりされた。
激怒した隼人が日本書紀上梓の年720年(養老4年)に反乱を起こす。
どうだ、筋が通ってるだろう。


183:日本@名無史さん
17/09/24 11:46:17.51 .net
>>179
おお!これは俺の考えと一部同じだ
東征以後も九州には王統が残るはずだ

184:日本@名無史さん
17/09/24 11:47:32.15 .net
崇神が新王朝を築いた。
その後、葛城の高天原に住んでいた神々、神族は「鴨」に変えられた。
彼らの土地である神の野が「熊野」に変えられた。
神武(カムやまとイワレヒコ)の祖地、神の祖が、
キスミミの土地であるゆえに「熊襲」に変えられた。
アンチ朝廷の一族やその土地がことごとく名前を堕とされ変えられた。
そういう事であろう。

185:日本@名無史さん
17/09/24 12:08:55.10 .net
アマテラスは持統の創作

186:日本@名無史さん
17/09/24 12:27:02.06 .net
>>180
そもそも倭国の都は筑紫。
もちろん卑弥呼も筑紫。
神武らの東征後に筑紫で即位したのが卑弥呼。
だから、神武らの末裔の天皇家の歴史からは卑弥呼が消されている。
キスミミの末裔の王国は、魏志倭人伝では宮崎にあった投馬国。
その官が耳と耳垂とある。
後に卑弥呼の末裔である筑紫の女王、神夏磯姫が景行天皇とともに土蜘蛛として征伐してしまっている。

187:日本@名無史さん
17/09/24 12:31:08.64 .net
実在、非実在は問わないけど、
アマテラスというのは
天皇以前の存在だよ、
それとスサノオよりも先に誕生しているんじゃなかった?
先住民(原住)だという意味だよ

188:日本@名無史さん
17/09/24 12:33:35.32 .net
テラスなどを産んだ、
親自身が先住民だと言われている

189:日本@名無史さん
17/09/24 12:39:48.11 .net
ネットでもいわれているでしょ
『諸蕃』起源説。神話の神。
認めたくない人々がいるとか

190:日本@名無史さん
17/09/24 12:40:08.59 .net
>>183
>そもそも倭国の都は筑紫。
もちろん卑弥呼も筑紫。
神武らの東征後に筑紫で即位したのが卑弥呼。
だから、神武らの末裔の天皇家の歴史からは卑弥呼が消されている。<

だからカッペは消えなさい。
福岡は橋本環奈を生んだ土地だからなんとか許してあげてたが、
最近の橋本環奈の体形は何だあれは。
ダルマさんみたいではないか。
発育失敗だ。
だからもう福岡は消えなさい。

191:日本@名無史さん
17/09/24 12:49:45.83 .net
>>182
>アマテラスは持統の創作
そうだとしても原像になる人物はいた。
シタテルヒメ(高姫)だ。
高天原のある葛城の式内社や明神大社でことごとく祀られてる人物だ。
日本最古の神社である高鴨神社の祭神は 古事記での最高神・迦毛大御神(かものおおみかみ)
別名をアジスキタカヒコネ。
剣を持って暴れている。
神話ではないスサノオの実像である。
この神と「対(ペア)」で祀られてるのがシタテルヒメ(高姫)
もはや彼女がアマテラスの原像であることは疑いのない話だ。
ということは、
神話ではなく実像ではアマテラスはスサノオの妹でありアメノワカヒコという夫がいたことになる。
ウケイで子供を作ったなんて神話であることは誰でも分かるからね。

192:日本@名無史さん
17/09/24 13:05:48.91 .net
神話ではなく実像ではアマテラスはスサノオの妹でありアメノワカヒコという夫がいたことになる。
にもかかわらず、神話では独身で弟(スサノオ)がおり別名がオオヒルメ。
これは朝廷が魏志の卑弥呼を思いっきり意識して創作したことが分かる。
なぜ創作したのか。
アマテラスを卑弥呼と間違えてもらいたいからだ。
アマテラスを卑弥呼と間違えてもらえば、
日本の歴史の最大の秘密、絶対ばれてはいけない秘密、
つまり「倭国王帥升=スサノオ」がばれないからだ。
スサノオが238年に朝貢した卑弥呼の男弟であれば、
後漢に朝貢した107年の帥升は別にいたことになる。
だからわざとアマテラスを卑弥呼そっくりのキャラに仕立てたのだ。
九州説の安本、井沢、見事にだまされたわけだwww

193:日本@名無史さん
17/09/24 13:11:52.49 .net
アマテラスも高天原も持統の創作

194:日本@名無史さん
17/09/24 13:22:12.47 .net
国造りの始まりは倭人。
大阪湾、淡路島近辺から始まる出来事。
倭国とは倭人の国。
魏志倭人伝の名の通り、倭人について書かれたもの。
全てはそこから考えないとね。

195:日本@名無史さん
17/09/24 13:38:40.58 .net
畿内始まりはすべて創作

196:日本@名無史さん
17/09/24 13:46:19.94 .net
>>191
>大阪湾、淡路島近辺から始まる出来事。
それはその通り。
イザナギ・イザナミだな。
今では前方後円墳のルーツが四国や播磨・吉備などの東瀬戸内と判明した。
考古学と神話が合うのだ。
しかしそれだけではない。
もう一つ、別の祖があった。
古代出雲である。
弥生時代、すでに機内入りしてた出雲系が王朝を築き、
九州~瀬戸内の防人がその王朝を守ってることが分かる。
URLリンク(goo.gl)
神話も大きく分けて2派があるわけだ。
それに神武の日向が加わるわけだ。
筑紫の出番などまったくなしwwwwwwww

197:日本@名無史さん
17/09/24 13:52:38.82 .net
>>190
>高天原も持統の創作
それは違う。
実際には葛城にあった。
しかし朝廷はそれを書けなかった。
大和朝廷、およびその始源の王朝が「朝貢」していたことになるからだ。
だからスサノオや神武などの登場人物の時代をとんでもなく古く設定し、
高天原の場所も潤色したのだ。

198:日本@名無史さん
17/09/24 13:57:43.81 .net
またこいつか

199:日本@名無史さん
17/09/24 15:07:48.71 .net
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬


200:臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同 「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。 楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」 建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬 大倭王は邪馬台国にいる。 楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。 倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。 倭奴国は倭国の極南界である。 つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。 畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。 畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。



201:日本@名無史さん
17/09/24 15:08:30.96 .net
【八咫鏡】
福岡県の平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
記紀神話によれば、八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下されたという。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていた。
3世紀には平原遺跡に王権の象徴である八咫鏡があったことで、伊都が倭国の王都であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、今も賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である


202:日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。 伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。 これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。



203:日本@名無史さん
17/09/24 15:09:14.22 .net
【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
記紀神話によれば、八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下されたという。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていた。
3世紀には平原遺跡に王権の象徴である八咫鏡があったことで、伊都が倭国の王都であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、今も賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。

204:日本@名無史さん
17/09/24 15:10:05.77 .net
【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
URLリンク(www.netpia.jp)
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。

205:日本@名無史さん
17/09/24 15:46:49.62 .net
伊都国に夢見すぎ
一度筑前前原に行ってみなよ
本当に何もないところだよ

206:日本@名無史さん
17/09/24 16:00:55.54 .net
>>200
考古学的には素晴らしい所だよ
三雲や平原ぐらいにいけば、高い建物があまりなく、当時の風景が臨めるしね
空気の澄んだ日は脊振山や可也山が綺麗だし、志摩の海には伊勢より立派な夫婦岩があり、夕日が素晴らしい
博物館の鏡の数は流石
神社関係も調べると面白い
現代の発展で言えば、おしゃれなカフェやギャラリーが増えているね

207:日本@名無史さん
17/09/24 16:59:45.55 .net
素晴らしき田舎

208:日本@名無史さん
17/09/24 17:18:34.67 .net
千数百年前は糸島平野に倭国の都があった。
東の高祖山の麓に卑弥呼の王宮があった。
その眼前の平原遺跡が卑弥呼の墓。

209:日本@名無史さん
17/09/24 17:25:56.62 .net
>>201
筑前前原の人が聞いたら涙流して喜ぶよ
観光ガイドブックでもそこまで褒めてない

210:日本@名無史さん
17/09/24 19:44:28.54 .net
>>204
もともと糸島はいい所だが、弥生~古墳時代に興味があれば、3倍増しだからね

211:伊都国女王
17/09/24 20:43:33.99 .net
当時の宮が現在の神社(まあこれも宮なわけで)に当たるので、それを巡るのもいいかもね。
おそらく卑弥呼も高床の本殿に住んでいたんだろう。
注連縄と鳥居に囲まれてね。

212:日本@名無史さん
17/09/25 03:13:08.61 .net
>>152
畿内(近畿)は元々は古代出雲王国(北陸~北九州を支配)の植民地(1地方)で某重大事件により訳有って出雲を離れた王族らが入植したのが歴史物語の始まり

213:日本@名無史さん
17/09/25 11:11:32.60 .net
糸島平野にあったのは防人の邑。
地図を見てみろ。
海峡にある日本の端の端の地域に王都などあるもんか。
子供が考えても分る。

214:日本@名無史さん
17/09/25 11:12:22.90 .net
>>207
それほとんど賛成だ。

215:日本@名無史さん
17/09/25 11:14:46.28 .net
>>201
おまえさぁ。
くだらない郷土愛と邪馬台国を一緒にするなボケい。

216:日本@名無史さん
17/09/25 11:17:30.63 .net
>>209
いや葛城のはじめの支配者は事代主だから
出雲大国主の息子(王子)だよ
大王が息子を地方に派遣して支配させるってのは古代の王権の仕組みとしてはよくある

京都の賀茂御祖神社にはちゃんと大国主はじめ出雲神が祭られてるよ
「御祖」の名の通りね

217:日本@名無史さん
17/09/25 11:35:55.12 .net
まぁ国の始まりの重要地なのは間違いない。
北部九州に拠点を設けたのもこの辺りに基盤を持つ連中だよ。

218:日本@名無史さん
17/09/25 11:39:29.19 .net
というか北部九州というのはその出雲王朝の防人。
だから平原も祇園山も出雲系の方形墳丘墓なわけさ。

219:日本@名無史さん
17/09/25 11:43:31.34 .net
大和の葛城鴨王朝と山陰の出雲の関係が謎であるが、
大和の葛城鴨王朝が崇神によって終わると同時に、
山陰の出雲も終わるようだから(出雲の振根事件)、
やはり血脈は続いていたのだろう。

220:日本@名無史さん
17/09/25 11:45:42.04 .net
>>211
俺は出雲大国主の本家がヤマト葛城に遷都したという意見。
山陰も防衛上、危険である。

221:日本@名無史さん
17/09/25 11:53:46.54 .net
其国には男王がいて7~80年続き倭国大乱、そして卑弥呼擁立だから
邪馬台国を考える時、それは2世紀について考えねばならない。
その時点で3世紀から始まる纏向遺跡は関係がない。
3世紀後半から4世紀の畿内の古墳に中国製の小札革綴冑が出るということは、
中国と通交してた主体が畿内であり、
時期的に台与の朝貢時に入手したとしか考えられないので、
邪馬台国論争は畿内で結着なのだ。
では畿内の2世紀を考えねばならない。
それは銅鐸の時代である。
卑弥呼とは銅鐸族である。
おそらく倭国大乱で「仕方なく」鏡祭祀を受け入れたのであろう。
畿内で銅鐸族とは一つしかない。
出雲系神族だ。
彼らは後に崇神によって滅ぼされる。
ゆえに朝廷は彼らを神とは呼ばない。
「鴨」という字を当てた。
卑弥呼とは鴨族である。

222:日本@名無史さん
17/09/25 12:00:42.82 .net
>>214
その通り
物部・出雲同盟で始まった畿内王権は
崇神の出雲排除によって物部系に一本化される
4世紀に百済から七支刀を贈られたのも物部の王�


223:フ「倭王旨=ウマシマジ」 7世紀までは「天孫族=物部」だった



224:日本@名無史さん
17/09/25 13:13:33.33 .net
>>211
>いや葛城のはじめの支配者は事代主だから
>出雲大国主の息子(王子)だよ
出雲を任されたのに、こんなところにいるはずがない。
世代も違う。
末裔がいた程度だろう。

225:日本@名無史さん
17/09/25 13:16:04.66 .net
>>213
>だから平原も祇園山も出雲系の方形墳丘墓なわけさ。
同じ高天原系の支配者がやってきたんだよ。
いわば、筑紫の直轄地。

226:日本@名無史さん
17/09/25 13:17:34.76 .net
当時は海運が重要なので、内陸は僻地であり、交易にも隣国への侵攻にも不利だよ。

227:日本@名無史さん
17/09/25 13:18:14.07 .net
高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からないが、筑紫にいた武内宿禰の末裔と言われる。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていた。
蘇我大臣家と天皇家が物部大連家を滅ぼし(物部戦争)、次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。

228:日本@名無史さん
17/09/25 13:18:33.73 .net
弥生時代の青銅器の分布です。
URLリンク(goo.gl)
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、瀬戸内や関西は別の領域であり、奈良盆地は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。

229:日本@名無史さん
17/09/25 13:33:54.78 .net
>>218
事代主って文字を読めばわかるじゃん
代理人って意味だろ?
じゃあ誰の代理人だよって
大国主の代理人に決まってんじゃん

230:日本@名無史さん
17/09/25 14:54:47.65 .net
>>219
>同じ高天原系の支配者がやってきたんだよ。
>いわば、筑紫の直轄地。
あのなぁ弥生中期の高塚墳墓は出雲が他を圧倒。
出雲に王権があったことが分かる。
筑紫は弥生~古墳まで墳墓は貧弱。
つまり防人の土地であり王権などなかった証拠。
20M程度の墳墓を卑弥呼墓だと言ってる時点で話にならない。

231:日本@名無史さん
17/09/25 14:58:54.38 .net
弥生時代の青銅器の分布です。
URLリンク(goo.gl)
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
この時代からすでに筑紫が悲しく哀れな防人の土地であったことが分かります。
畿内の王権を守っていたのでしょう。

232:日本@名無史さん
17/09/25 15:56:25.21 .net
>>225
>畿内の王権を守っていたのでしょう。
そんなものがあったという根拠は?

233:日本@名無史さん
17/09/25 15:57:09.46 .net
>>224
弥生後期の話をしてくれ。

234:日本@名無史さん
17/09/25 17:56:24.03 .net
>>218
所謂、事代主神とは、所謂大国主神の御子ではありません。
実際にはオオナモチ(役職。所謂、大国主神。概ね、第8代オオナモチのヤチホコを指す。)が主王(帝王)で
スクナヒコ/少彦が副王(同じく概ね、第8スクナヒコの八重波津身を指し、この方を少彦名(粟島、淡島)とか事代主、また大物主等と言った。
御子の天日方奇日方(母親は摂津三島の生玉依媛命)が葛城に移住して登美家を号して分家独立(別腹の兄君の鳥鳴海命が出雲の第9代オオナモチ。(復活した大国主?))したのが
概ねヤマト/葛城/中の国(長の国)の歴史の始まり。
キキ神話ではトビ家を金鵄(神武に飛来した)。トビ家が担いだ御輿の先の王朝を裏切って、新参の所謂神武側に付いた事を暗喩。金鳥/金長/飛鳥))。
雄略の時代に成っても登美家(葛城)は隠然とした権威と権力を掌握していたからこそ、
雄略は葛城の登美家に辞を低くして大王就任とヤマト入りの承認を取り付ける必要が有ったのを、
葛城に猟に出向き、、、云々として誤魔化したのでは?

235:赤岡龍男
17/09/25 22:36:59.76 .net
YouTubeアニメーション筑紫造磐井の乱そのものが筑紫造磐井の乱だった、悔しい気持ちは力作に繋がった。
磐井は立派だと思う。
物部麁鹿火は第二次世界大戦の元帥で大王の次の地位ですよ、
古事記と日本書紀に書かれています。
モノノベノアカオカ タツオ
諏訪大社と赤岡名字の分布も気になります。
磐井軍が多いので物部麁鹿火が一騎討ちに持ち込んだ説もあります。
最前線指揮の総大将は物部麁鹿火の他にツタンカーメン王や、
アレクサンドロス大王、上杉謙信ですね。

236:日本@名無史さん
17/09/26 00:35:48.16 .net
>>224
>そんなものがあったという根拠は?
URLリンク(goo.gl)
ほぼ白村江の敗戦事同じ形相。
白村江の時代と同じく畿内に王権があった証拠。
文献でも神武が大和に来る以前に事代主、大物主という出雲系男王がいたことが分かる。

237:赤岡龍男
17/09/26 11:23:32.61 .net
古事記では軍事的地位の物部麁鹿火が上で軍事的地位の大伴金村が下。
日本書紀は政治的地位の大伴金村が上で軍事的地位の物部麁鹿火が下。
おそらく日本書紀は後から律令政治構造が重視され都合で書き換えたのだろう。

238:赤岡龍男
17/09/26 11:48:22.00 .net
実は、僕は角川書店の易しい古事記しか読んでいない。
昔から日本人感性では物部が大王に次ぐ感覚で、
日本書紀は律令政治構造の為に内容を作り替えたとは聞いていた。

239:赤岡龍男
17/09/26 12:08:43.83 .net
古代日本は大連は大王に次いで横にいる。
大臣は大王に次いで下にいる。
神武天皇が軍事的だった影響だろう。

240:赤岡龍男
17/09/26 12:12:45.68 .net
もしかしたら大連に大臣が連で軍事的行動に参加した説も。

241:日本@名無史さん
17/09/26 16:04:17.56 .net
Q:神武天皇は実在したか否か?
A:神武天皇は実在した。がその時代が女王国であった。

いいねぇ、この見事な中間子。

242:日本@名無史さん
17/09/27 08:45:03.13 .net
あげ!www

243:日本@名無史さん
17/09/27 10:45:03.50 .net
>山門郡
幸い、日本にはこのような名前の場所が複数あるようで、
古代天皇の朝貢という耐え難い問題を回避するために、
九州説を「創作」しなければいけなかった新井白石や本居宣長にはうってつけであっただろう。

244:赤岡龍男
17/09/27 12:18:57.71 .net
リベンジ モノノベ 
大連の物部麁鹿火が大臣の大伴金村を連として戦争に参加させた説に、
物部の領地は大伴の領地より豊かで、
物部の邸宅は大伴の邸宅より豪華だったという説がある。

245:赤岡龍男
17/09/27 12:33:38.79 .net
神武天皇以前の山城 大和の復権を目論む大和版[嘆きの壁]物部物語
リベンジ モノノベ
諏訪大社も参照

246:赤岡龍男
17/09/27 12:37:08.82 .net
アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト
[物部物語]

247:赤岡龍男
17/09/27 14:21:33.92 .net
日本書紀は律令政治構造の為の捏造で、
それ以前は古事記の首長合議制の特色がある。

248:赤岡龍男
17/09/27 16:00:20.30 .net
大連物部麁鹿火「大王!大臣を連として連れていくぞ!」
大王「勝手にしろ!」
大臣大伴金村「ひーっ!」
しかも


249:磐井軍が多いので総大将一騎討ちに持ち込む物部麁鹿火はジャパニメーションみたいな世界だった。



250:赤岡龍男
17/09/27 16:04:07.67 .net
日本書紀からの律令政治構造とは違う古事記の首長合議制の世界。

251:赤岡龍男
17/09/27 16:06:27.15 .net
物部の領地は大伴より豊かで、物部の邸宅は大伴より豪華だった。

252:赤岡龍男
17/09/27 16:19:05.21 .net
ネットは世界だから、
日本社会常識が通用せず必ずしも日本社会優秀者が優勢では無い、
だがセロトニントランスポータータイプLLの長い方がネットに有利で、
世界の常識まで変える力があると言われています。

253:赤岡龍男
17/09/27 16:33:08.88 .net
超ド素人魂で玄人の正反対を貫くのです!

254:赤岡龍男
17/09/27 21:28:53.86 .net
遺伝子検査と医療検査と史実、いつまでも変わらない次元を大切にする。
モノノベノアカオカ タツオ 遺伝子検査が重視される。

255:日本@名無史さん
17/09/27 21:54:34.04 .net
邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。

256:赤岡龍男
17/09/27 22:21:45.42 .net
正しい方が勝つ 気がついていないだけ
それは永遠の勝利である

257:日本@名無史さん
17/09/27 23:02:45.32 .net
神武は長男に南九州を継がせてる
名前は八井耳
投馬国の官「ミミ」のこと
投馬国=ツマ国=宮崎

258:日本@名無史さん
17/09/27 23:04:05.62 .net
>>250
同意する。

259:日本@名無史さん
17/09/28 00:34:13.06 .net
>>250
南九州には幼い故に残してきたキスミミがいたはず。
彼の末裔が王国を築いていただろう。
景行の九州遠征はその王朝を潰しに行ったと予想する。
その頃の大和朝廷なんてヤクザと同じ。
山口組の全国展開と大和朝廷の全国展開が酷似しているw

260:赤岡龍男
17/09/28 03:04:59.08 .net
ネット硫黄島サムライアリ戦術

261:日本@名無史さん
17/09/28 07:31:43.44 .net
神武が宮崎に残した王国は、土蜘蛛として退治されたのですね。
勝てば官軍負ければ賊軍ですね。

262:日本@名無史さん
17/09/28 07:54:41.70 .net
やはり筑紫が倭国の代表として倭国王を名乗っていて、それとは別に宮崎に神武ゆかりの投馬国があり、本州にも出自がよくわからない分家である忍代別などの国があったと。
神武の父のウガヤフキアエズは宮崎に赴任していたことがあり、神武はその時の子供というのがザラコク氏の発言だった。
その時に妻を娶って耳王国の基礎となったということ。
その後、神武は筑紫の日向の伊都高祖宮に戻り、倭国大乱により兄らとともに筑紫を去って東征したと。
その後に肥国姫氏から卑弥呼が共立されるが、肥国内部で謀反があり肥後狗奴国が独立し、壹與の時に再統合した。
山口忍代別の景行が来て、壹與の次の神夏磯姫とともに投馬国を征服。
景行の孫の仲哀は武内に殺されて皇子も皆殺し、武内は筑紫の倭国王旨、玉垂命となり、神夏磯姫の孫の田油津姫を攻め滅した。
武内の愛人の息長垂姫との息子は八幡の神として倭国王を継承したと。

263:日本@名無史さん
17/09/28 08:25:48.20 .net
>


264:ザラコク氏の発言だった。 ザラコク=九州王朝説=知恵遅れ=吉外



265:日本@名無史さん
17/09/28 08:26:57.51 .net
>>255
筑紫なんて関係がない、氏ね。

266:日本@名無史さん
17/09/28 08:31:21.09 .net
>>257
葛城なんて邪馬台国と関係ないよ。

267:日本@名無史さん
17/09/28 08:31:45.93 .net
>>256
態度は悪いが、言っていることはマトモ

268:日本@名無史さん
17/09/28 09:12:04.49 .net
>>259
>言っていることはマトモ
やっぱりおまえは「九州王朝説=知恵遅れ」か。
失せろ。
九州王朝説スレがあるだろ、帰れクズ。

269:日本@名無史さん
17/09/28 12:29:50.08 .net
>>258
三輪山。大和三山は湖(古奈良湖/古大和湖)/湿地(葦が群生。)に浮かぶ小島。
平原(大和湖の湖水が排水され(大和川)てなくなった後)に葦が群生した中(の)国(大和の古名。長国とも)

270:赤岡龍男
17/09/28 12:30:10.01 .net
URLリンク(i.imgur.com)

271:日本@名無史さん
17/09/28 12:57:34.79 .net
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

272:日本@名無史さん
17/09/28 13:02:03.78 .net
>>258
大和朝廷の発祥地であり、
神武以前に事代主神が住んでいて、
高天原(御所市高天)という場所が存在し、
日本最古の神社が存在し、
明神大社6社が集中する葛城以外のどこにある。
平原ごとき何の謂れもないオチャラケ地域を卑弥呼の王都などと言ってて恥ずかしいだろ。
恥という概念を知ってるならもう黙れ。

273:日本@名無史さん
17/09/28 13:02:49.34 .net
>>264
邪馬台国とは関係なさそうだけど?

274:日本@名無史さん
17/09/28 13:04:10.44 .net
>>263
>淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島
違うよ、沼島の事。
東瀬戸内発祥の前方後円墳も沼島の遠景をもしたもの。
残念でした、カッペは消えなさい。

275:日本@名無史さん
17/09/28 13:06:09.97 .net
>>265
>>1に書いたように葛城にヒミコが住んでいたので邪馬台国。
対抗軸としての人物を出せないのなら消えてくれ。
邪魔。

276:日本@名無史さん
17/09/28 13:08:13.87 .net
>>266
>違うよ、沼島の事。
初耳だし、根拠がない。
矛で作ったらしいので、銅矛文化圏でなければならない。

277:日本@名無史さん
17/09/28 13:09:06.44 .net
>>267
天孫族を筑紫から追い出してから卑弥呼が即位したので、卑弥呼は記紀では黒歴史なんだよ。

278:日本@名無史さん
17/09/28 13:12:09.82 .net
>>268
>初耳だし、根拠がない
歴史好きで初耳とはこっちが驚いた。
イザナギイザナミが初めて作ったのは淡路島だよね?
九州は関係ない、出しゃばるな。

279:日本@名無史さん
17/09/28 13:13:11.19 .net
>>269
妄想は勝手だがヒミコの名前も場所も出せないなら消えろ。

280:日本@名無史さん
17/09/28 13:18:34.22 .net
>>270
記紀の神代の巻は筑紫と出雲が舞台だろ。
能古島のイザナギ、吉武高木の高木の神、志賀島のワダツミの神、博多湾の猿田彦、宗方の三女神、伊都のニニギと木花咲耶姫と彦火火出見。

281:日本@名無史さん
17/09/28 13:18:58.23 .net
>>271
黒歴史だから記紀には登場しない。

282:日本@名無史さん
17/09/28 13:23:14.43 .net
>>272
>記紀の神代の巻は筑紫と出雲が舞台だろ。
筑紫など全然関係ない。
誰も美人だと言ってないのに自分で美人だと勘違いしてるブス、それが筑紫。

283:日本@名無史さん
17/09/28 13:24:25.97 .net
>>273
登場しないのなら論としても説としても成立しない。
消えてくれ。

284:subo
17/09/28 13:29:40.59 .net
>>275
魏志倭人伝を無視するのは論としても説としても成立しない。
消えてくれ。

285:日本@名無史さん
17/09/28 13:37:08.53 .net
>>276
その通りだ。
葛城なんて記紀に出てこない。

286:日本@名無史さん
17/09/28 14:57:36.85 .net
>>276
魏志倭人伝に急だと書いてない、アホか。
>>277
神武が住んで事代主神がいたのは葛城だ。
自演かますなボケナス。

287:日本@名無史さん
17/09/28 15:51:38.86 .net
>>278
事代主が出雲を離れてそんなところにいるわけない。
世代も違う。

288:日本@名無史さん
17/09/28 16:13:14.50 .net
>>279
日本書紀の明記してある。
少しは調べろボケ。

289:日本@名無史さん
17/09/28 16:33:29.20 .net
大物(大国)主、事代主というのは役職名。
ヤクザで言えば組長、若頭のようなもの。
天皇、皇太子でもいい。
だからスサノオの子が大国主というのは間違いではないが、
ヒロヒトの子は天皇というのと同じで、
個人名と役職名がごちゃまぜになっている。
スサノオも若い頃は事代主、そして大国主になったのであろう。

290:日本@名無史さん
17/09/28 16:41:09.66 .net
ということは、出雲の国譲りに登場した事代主とは別人なんだよ。
それを出雲の事代主がいたかのような書き方をするな。
詐欺だろ。

291:subo
17/09/28 17:44:52.28 .net
鴨厨はセロトニントランスポータータイプLL傲慢型

292:日本@名無史さん
17/09/28 17:53:24.78 .net
>>282
出雲国の皇太子のことを事代主って言ったんだろ
だから出雲系の出先機関であってるよ

293:日本@名無史さん
17/09/28 17:57:24.83 .net
出雲の国譲りの後に一時的に出雲の国を任されたから事代主な訳で、出雲国造家が成立したら実権はなくなるから、末裔を事代主と呼んだところで意味がない。
実際に末裔だとしても、出雲を追い出されて数代たった田舎豪族だよ。
もはらさや王権ではない。

294:日本@名無史さん
17/09/28 22:33:52.08 .net
>>285
帝王(オオナモチ(役職名称))に対しての副王(スクナヒコ(役職名称))。
上下関係では無くて対等の立場。
古代の出雲王国(帝国と言っても過言ではない)は東と西に王家が並立していて歴代の当主が正副の王に交代で就任する慣わし(持ち回り制)。
西の王家当主がオオナモチ(主王/帝王)の場合、東の王家の当主はスクナヒコ(副王)。
次の代にはそれが概ね交代(次期主王(オオナモチ)となるべき当主があまりに年少の場合にはその儀に非ず)
神話でスクナヒコナ(元来は上の如く副王の事)をどこかに逝かしたので、
同じ対象に別の名称が必要となり考え出されたのが事代主神。
事=国事。帝王の国事を代行できる主(あるじ)=副王
事代主神の正式神名、八重波津身事代主。などは一種の文字による呪詛。
事代主とされた対象が八重波津身命=第8代スクナヒコ(副王)で東王家の当主。
字面を見れば判る様に、元来の名前、八重波津身を反転したモノがツミ・ハ・ヤエ・。それに役職の副王、スクナヒコの代用改竄した事代主を連結したお粗末様。

295:日本@名無史さん
17/09/29 00:38:26.27 .net
>>285
>王権ではない。
神武の時代、神武の血統ではないのに日本書紀に「王」と記されてる異色の人物がいる。
3代安寧の后ヌナソコナカツ媛の父・鴨王ことクシヒガタだ。
神武は終始天皇と書かれてるが神武の時代に天皇と言う称号はない。
したがって神武は役職がない。
この時代の実際の王はクシヒガタであり妹のヒメ踏鞴を女王に立てたのだろう。

296:日本@名無史さん
17/09/29 07:48:14.10 .net
畿内にいたのは全部豪族だよ。
記紀で豪族を天皇と書けるなら、豪族を王と書くのも造作ないこと。

297:日本@名無史さん
17/09/29 08:01:03.96 .net
>>288
違う。
中臣、物部、忌部、大伴、久米、倭は豪族。
しかし鴨だけは違う。
事代主「神」と書かれ鴨「王」と表記されている。
神と王がいるのに一豪族なわけがない。
鴨の語源は神である。


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