17/01/04 19:07:18.26 .net
▽日比野下野守
日比野清実…前スレの〔793〕に名前だけは紹介しておいた。斎藤家の重臣 「斎藤六人衆」 の一人。
永禄年間に日根野弘就〔>>69〕と氏家卜全直元〔>>94〕・安藤守就〔>>44〕・竹腰尚光との4人、あるいはこれに日比野清実・長井衛安〔利房/>>240〕を加えた6人の連署で発給された書状が多く残っている。
243:日本@名無史さん
17/01/04 19:11:27.70 .net
▽長井甲斐守
長井利房(衛安)…前スレの〔793〕に名前だけは紹介しておいた。斎藤家の重臣 「斎藤六人衆」 の一人。
244:日本@名無史さん
17/01/04 19:14:44.35 .net
5月13日 信長は河を越え勝村に布陣した。1,500名の兵力である。
14日 総大将斉藤龍興が墨俣方面から、長井利房・日比野清実が森部方面から、総勢6,000名を繰り出した。
激闘数時間の末、織田軍の勝利。敵の首級170余を挙げたという。
245:日本@名無史さん
17/01/04 19:16:50.62 .net
この戦いの後、信長の勘気を蒙り牢人していた前田犬千代の帰参が許されたという。ちなみに、彼は桶狭間の戦にも参戦し兜首を三つ挙げているが、帰参を許されていない。
246:日本@名無史さん
17/01/04 19:19:45.57 .net
斉藤軍には油断があった。敵兵が少ないことを侮っていた。油断を物語るエピソードがある。「近江猿楽座一行の二人の若者の死」である。
二人は長井利房〔>>243〕、日比野清実〔>>242〕の男色の相手であった。そんな若者を合戦に同伴させているくらいだ。美濃勢はこの戦いの勝利を確信していたのであろう。しかし、思いがけない大敗に四名とも討死してしまった。猿楽座の二人は手を取り合って死んでいたという。
この合戦で、信長は墨俣砦を奪い取っている。
247:日本@名無史さん
17/01/04 19:27:42.22 .net
日根野と日比野は、勘違いしそうだな。
248:日本@名無史さん
17/01/04 20:25:14.19 .net
勘違いしそうなところが、試験に出題されるのじゃよ。
そういうところを集中的に勉強してくれたまえ。
249:日本@名無史さん
17/01/04 22:29:46.19 .net
>>246
>この合戦で、信長は墨俣砦を奪い取っている。
森部の戦いは、永禄4年(1561年)5月14日の一日で終結した。
信長が墨俣を奪い取った戦いは、5月23日の十四条・軽海の戦いとして、森部の戦いと区別するのが今日一般的である。
250:日本@名無史さん
17/01/04 22:41:11.52 .net
▽七月二十一日、一万の大軍を動員し……(略)……非常な勢いで稲葉山城下にせまった。
第一陣 柴田勝家
第二陣 池田信輝(恒興)
第三陣 丹羽長秀
251:日本@名無史さん
17/01/04 22:45:34.46 .net
▽河田渡し
河田橋(こうだ)…以前は、河田の渡しという渡船があったが、木曽川の洪水により欠航となることがあった。
愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島河田町の木曽川南派川に架かる橋梁。
愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島河田町は、安土桃山時代の大洪水で木曽川の流れが変わるまでは、同じ尾張国葉栗郡河田嶋村であった。
URLリンク(blog-imgs-59.fc2.com)
252:日本@名無史さん
17/01/04 22:48:33.30 .net
▽池田恒興
諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。
天文5年(1536年)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生。母は養徳院。母の養徳院は織田信長の乳母であり、後に信長の父の織田信秀の側室となっている。
253:日本@名無史さん
17/01/04 22:53:44.59 .net
▽長森
岐阜市長森本町
ここで斎藤方の竹中半兵衛が、十面埋伏の陣で織田勢に大打撃を与える。
254:日本@名無史さん
17/01/04 22:55:41.20 .net
>>250以降の戦いは史料で確認できないのですが、★(仮称)長森の戦い、ということにしておきます。
255:日本@名無史さん
17/01/04 23:00:37.61 .net
▽日根野備中守兄弟
日根野弘就……前スレ〔792-793〕〔>>242〕
永正15年(1518年)- 慶長7年(1602年)。美濃本田城主。備中守。
弘治元年(1555年)10月22日、義龍の命で義龍の異母弟である孫四郎、喜平次兄弟を稲葉山城内で斬殺した。
日根野盛就……前スレ〔795〕
日根野備中守弘就の実弟
256:日本@名無史さん
17/01/04 23:02:54.17 .net
▽木下藤吉郎秀吉
織田軍を潰滅から救った殿軍の一将校
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
257:日本@名無史さん
17/01/04 23:07:05.70 .net
▽瑞龍寺山
岐阜市のスーパー低山「瑞龍寺山」。金華山の前に東西に連なる丘陵で、最高点はわずか156m。
秀吉は野伏の群れを瑞龍寺山に伏させておいた。
URLリンク(miharu.pro.tok2.com)
URLリンク(miharu.pro.tok2.com)
258:日本@名無史さん
17/01/04 23:15:27.14 .net
▽十面埋伏の陣
元々は項羽と劉邦の戦いで、劉邦側が用いた戦法(計略)に由来する。
『三国志演義』では、曹操が程昱と荀攸のすすめで「十面埋伏の計」を実行した。
259:日本@名無史さん
17/01/04 23:19:48.50 .net
▽竹中半兵衛
竹中重治……天文13年(1544年)、美濃斎藤氏の家臣で美濃国大野郡大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元の子として同地に生まれる。
永禄元年(1558年)、父は不破郡岩手城主・岩手弾正を攻略し、永禄2年(1559年)、菩提山城を築いて居城を移し、重治もこれに従う。永禄3年(1560年)、父の死去(または隠居)により家督を相続する。
260:日本@名無史さん
17/01/04 23:23:32.91 .net
信長が、永禄5年(1561年)7月に美濃に侵攻してくるが、斎藤勢は重治の十面埋伏陣という独特の伏兵戦術で織田勢を破ったとされている。
半兵衛の活躍は『武功夜話』や『太閤記』によって描かれている。江戸時代の講談などで、黒田孝高とともに天才軍師の人物像が固まり、現在の人気に至っている。しかしながら『信長公記』には記述が少なく実態はよく分かっていない。
※竹中半兵衛 / 米倉斉加年
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
261:日本@名無史さん
17/01/04 23:28:24.37 .net
★森部の戦い…………………〔>>240-246〕
★十四条・軽海の戦い………〔>>249〕
★(仮称)長森の戦い………〔>>250-260〕
262:日本@名無史さん
17/01/04 23:39:11.81 .net
★一乗谷
▽清洲同盟
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長によって討たれると、家康は空き城となった岡崎城を取り戻した。
その後、今川氏の本家である吉良氏などの三河における親今川勢力を攻撃しはじめる(善明堤の戦い及び藤波畷の戦い)。
これに怒った今川氏真は、永禄4年(1561年)に家臣の吉田城代・小原肥前守鎮実に命じ、徳川側の人質を城下の龍拈寺口で殺した。一説には串刺しと言う。
263:日本@名無史さん
17/01/04 23:39:59.58 .net
今川家と敵対関係となった家康は、西の隣国である尾張国織田家との接近を考え、石川数正を交渉役として織田信長との同盟を模索する。
一方の信長も、美濃の斎藤氏と交戦している経緯から家康との同盟を考えており、家康の母方の伯父に当たる水野信元が家康を説いた。
正式に同盟が締結されたのは桶狭間の戦いから2年後である。このとき、家康が信長の居城である清洲城を訪問して、信長と家康との間で会見が持たれた上で同盟が締結されたことから、これは清洲同盟と呼ばれている。
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
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264:日本@名無史さん
17/01/04 23:49:35.05 .net
▽光秀としては、信長の成長は決してうれしい話題ではない。光秀はむしょうにピアノを足で弾きたくなった。
URLリンク(pbs.twimg.com)
265:日本@名無史さん
17/01/05 19:19:16.68 .net
「とどめは、十面埋伏の陣で」
「よくぞ申した、程昱」
266:日本@名無史さん
17/01/06 05:55:06.68 .net
このスレは、庄九郎の命を狙った木下闇が、昭和48年大河ドラマでは下柘植次郎左衛門に置き換えられていたと勘違いしていた画像君の提供です。
267:日本@名無史さん
17/01/06 06:10:32.84 .net
画像君は昭和48年にはまだ生まれてないから、大河の国盗り物語は、総集編しか観でないんだろう?