17/01/02 09:17:42.31 .net
▽上泉伊勢守
上泉信綱…上州出身の戦国時代の兵法家。永正5年(1508)- 天正5年(1577)。
132:日本@名無史さん
17/01/02 09:25:24.51 .net
▽塚原卜伝
延徳元年 (1489) 、常陸国の鹿島神宮に使える卜部・吉川覚賢(あきかた)の子・朝孝。
吉川朝孝は塚原家の養子となり、元服して塚原新右衛門高幹と名乗ることとなる。養父の安幹は鹿島七流とともに、香取の飯篠長威斎家直の天真正伝香取神道流を学んでおり、これを高幹に教授した。
弘治二年 (1556)、高幹は息子・幹重に家督を譲ると、剃髪出家して『卜伝』と名乗るようになる。
68歳になった卜伝は三度目の旅に出る。この時には、まるで大名のような一団を整えて上洛したと言う。この上洛のおり、卜伝は伊勢の国司・北畠具教、将軍足利義輝などに剣を伝授したとされる。
元亀二年 (1571)、弟子の松岡則方の家にて亡くなった。享年83。
133:日本@名無史さん
17/01/02 09:27:46.72 .net
塚原卜伝は、同時代の剣豪・上泉伊勢守と並んで“剣聖”と称されることがある。
しかし、塚原卜伝を“上泉伊勢守の門人”と称しているのは、司馬遼太郎だけである。
134:日本@名無史さん
17/01/02 09:31:53.73 .net
▽印可
?仏教? 弟子が悟りを開いたり、宗教的能力を得たことを、師が証明認可すること。主に禅宗・密教で使う。印信許可(いんじんこか)。
?芸道・武道?師が弟子に秘伝の伝授の終了を認めて授ける許し。
135:日本@名無史さん
17/01/02 09:49:37.81 .net
★一乗谷
▽朝倉土佐守
朝倉景行…北ノ庄城主。当時の北ノ庄城は、防御力のさほど高くない居館形式の城だったのだろう。
北ノ庄朝倉氏は、朝倉家中における有力一門として軍の中核を担っていた。
朝倉義景は天正元年(1573)に小谷城の浅井氏を救援する為に近江に赴いたものの、前線の砦が陥落したことから撤退を決意し、その撤退戦である刀根坂の合戦で朝倉軍は壊滅してしまう。朝倉景行ももちろんこの軍中にいたが、乱戦の中で討死したとされる。
※朝倉土佐守:神田隆
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
136:日本@名無史さん
17/01/02 09:56:28.22 .net
▽朝倉土佐守の執事
「正気か」という顔を執事はした。
URLリンク(www.dfnt.net)
※おまけ
URLリンク(howcollect.cdn-donuts.jp)
URLリンク(yokota-kenichi.net)
137:日本@名無史さん
17/01/02 10:02:29.16 .net
▽諸芸教授所
牛小屋同然のもので、床さえなく、五坪ほどの土間があるだけである。
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
138:日本@名無史さん
17/01/02 10:10:03.22 .net
▽六角浪右衛門
武田家の牢人。松本備前守の門人。
※六角浪右衛門 / 伊吹聡太朗
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
139:日本@名無史さん
17/01/02 10:10:52.99 .net
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
140:日本@名無史さん
17/01/02 12:04:23.14 .net
▽鹿島明神
茨城県鹿嶋市宮中にある神社。式内社、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある鹿島神社の総本社。
古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社である。
http://風水.co/wp-content/uploads/2015/09/2bf54284.jpg
141:日本@名無史さん
17/01/02 12:04:51.06 .net
URLリンク(www.joyu.jp)
142:日本@名無史さん
17/01/02 12:10:20.69 .net
▽松本備前守
松本政信…鹿島神流は飯篠長威斎家直の高弟である松本備前守政信が創始した流派である。
松本備前守政信は、鹿島神宮の祝部(ほふりべ)である。政信は、薙刀、十文字槍、杖、さらに各種の鎌などの武具に熟達しており、師の飯篠長威斎から学んだ天真正伝香取神道流に独自の工夫を加えて、塚原土佐守安幹(塚原ト伝の父)および塚原ト伝に伝授した。
143:日本@名無史さん
17/01/02 12:12:43.55 .net
>>133
塚原卜伝は、実父・吉川覚賢(あきかた)から家伝の鹿島古流を学び、養父・塚原土佐守安幹から飯篠長威斎の香取神道流を学び、さらに飯篠長威斎の門人・松本備前守政信の創案した「一つの太刀」を学んだ。
144:日本@名無史さん
17/01/02 12:24:21.10 .net
>>133
上泉伊勢守信綱〔>>131〕は、松本備前守政信〔>>142〕に鹿島神流を学び、塚原ト伝高幹〔>>132〕に香取神道流を学んだ。
塚原卜伝を“上泉伊勢守の門人”と称しているのは、司馬遼太郎だけであり、真実は、塚原卜伝が師で上泉伊勢守が門人である。
要するに、逆である。
145:日本@名無史さん
17/01/02 12:25:01.22 .net
生年から考えれば、当然そうなるんだがな。
146:日本@名無史さん
17/01/02 12:28:43.12 .net
【凡例】
司馬遼太郎が作品の中で書いたウソの大きさを、エロ画像の枚数で示しています。
5段階評価です。エロ画像1枚であれば小さなミス、エロ画像5枚であれば取りかえしのつかないミスです。
147:日本@名無史さん
17/01/02 12:36:06.42 .net
《上泉伊勢守の門人塚原卜伝》☆☆☆
URLリンク(blog-imgs-87.fc2.com)
URLリンク(blog-imgs-89.fc2.com)
URLリンク(1000giribest.com)
148:国盗り物語
17/01/02 13:08:21.26 .net
第24章 六角斬り
「男を酔わしめるものは、胸中に鬱勃と湧いている野望という酒だ。わしは常にその酒に酔ってきた。いまも酔っている」
と、関係のないことをいった。
「しかし」
光秀は、話題にもどった。
「酒に酔うだけでは人の世は渡れぬということを、近頃、やっとわかってきた。男はお槇、妻子を養わねばならぬ」
(まあ)
お槇は、笑いだした。
149:日本@名無史さん
17/01/02 13:15:59.44 .net
★一乗谷
▽楓の馬場〈F〉
紅葉の一乗谷朝倉氏遺跡
URLリンク(cdn.amanaimages.com)
150:日本@名無史さん
17/01/02 13:19:11.12 .net
▽鯖江源蔵〈F〉
光秀と六角浪右衛門の試合の検分役。インターネット初の「鯖江源蔵」です。
151:日本@名無史さん
17/01/02 13:21:01.01 .net
>鯖江源蔵 に一致する情報は見つかりませんでした。
これを見ると、処女とやれたときと同等の喜びがある。
152:日本@名無史さん
17/01/02 13:22:49.61 .net
▽天流
斎藤伝鬼房が開いた武術流派。剣術、槍術、薙刀術、鎖鎌術、棒術、手裏剣術、取手・小具足(柔術)などを含む流派であったが、系統によって伝える内容は異なる。
開祖の斎藤伝鬼房は、常陸国真壁郡井手(現、茨城県桜川市)出身。
153:日本@名無史さん
17/01/02 13:34:58.55 .net
▽お槇〈M〉
明智光秀の正室は、妻木煕子(ひろこ)が正しい。
明智光秀の前半生については明らかでない点が多く(生年月日ですら諸説がある)、また、前スレ〈915〉で紹介した明智光秀の最初の正室である山岸光信の娘・千草のこともあり、煕子をモデルにした「お槇」を登場させたものと思われる。
※お槇 / 中野良子
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
154:日本@名無史さん
17/01/02 15:08:18.51 .net
まずはモデルになった妻木煕子のエピソードを紹介するね。
天文14年(1545)頃、明智光秀と婚約。婚約後しばらくして煕子は疱瘡にかかり、美しかった顔に痘痕が残ってしまった。
妻木氏にとっては潰したくない縁談だったので、父・範煕は煕子と瓜二つの妹・芳子に姉の身代わりをさせて光秀のもとにやったが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えたという。
155:日本@名無史さん
17/01/02 15:11:35.14 .net
その後、光秀は牢人する。
困窮する生活のなか連歌会を催す金がなかった時に、煕子は自分の黒髪を売って、その金で光秀を助けたという。光秀はこれに感謝して、煕子存命中は側室を置かずに大切にしたという逸話は有名である。
天正4年11月7日に死去。享年は46。42、36という説もある。
156:日本@名無史さん
17/01/02 15:16:17.82 .net
▼煕子が産んだ三男四女
嫡男:十兵衛光慶(千代寿丸)
次男:十次郎光泰
三男:乙寿丸
長女:明智光春の室
次女:明智光忠の室
三女・珠(細川ガラシャ)…細川忠興の室
四女:織田信澄の室
157:日本@名無史さん
17/01/02 15:28:44.63 .net
続いて「お槇」の設定について…一族の土岐頼定の娘
▽土岐頼定〈F〉
同姓同名の人物が同時代に存在するが、美濃土岐氏ではなく上総土岐氏。
上総土岐氏は万喜城に拠ったため万喜土岐氏とも呼ばれる。
斎藤道三に領国を追われた土岐宗家の美濃守護・土岐頼芸を江戸崎城の土岐治頼より受け入れた人物として、前スレに書いたかもしれない土岐為頼の父が、土岐頼定である。
名前を借用しただけ、あるいは適当な名前を付けたら、偶然にも上総土岐氏に同名の人物がいたのだろう。頼定とお槇の父子は架空の親子である。
158:日本@名無史さん
17/01/02 15:39:29.37 .net
▽明智弥平次光春
天文5年(1536)- 天正10年6月15日(1582)。
明智光秀の重臣かつ女婿。異説に従弟(明智光安の子)ともいうが、真偽の程は定かではない。
天正6年(1578)以降に光秀の長女を妻に迎えている。彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた。三宅姓を名乗っていた光春は、このときから明智姓を名乗る。
なお、本作品では、明智光安の子ということになっている。
※明智弥平次光春 / 三ツ木清隆
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
159:日本@名無史さん
17/01/02 15:50:59.74 .net
ストーリーに矛盾が生じているね。
光秀の叔父・光安は、明智城落城のとき、光秀に光安の「遺児たち」を託し、「遺児たち」は山岸光信〔>>153〕に預けられた。
弥平次光春も光安の遺児であるが、なぜか弥平次光春は天竜寺の禅道に預けられている。
160:日本@名無史さん
17/01/02 15:55:16.98 .net
第17章「お万阿の庵」では、明智城落城のときに光秀が連れ出したのは光安の遺児たちだけで、お槇と弥平次光春については一言も触れていない。
161:日本@名無史さん
17/01/02 15:57:16.36 .net
弥平次も明智光安の遺児には違いないんだから、許してやれよ。
お槇に関して一言も触れていないのは、最初の正室である山岸光信の娘・千草の問題があったからだよ。
162:日本@名無史さん
17/01/02 16:01:06.64 .net
この小説では、千草の存在は完全にスルーされている。山岸光信の娘が光秀の最初の正室であるというのは、そういう見解があるというだけのこと。
お万阿の庵は天竜寺のそばにあると記されているから、光秀は天竜寺の禅道にお槇と弥平次光春を託した後に、お万阿を訪ねたのかもしれないね。
163:日本@名無史さん
17/01/02 16:09:59.74 .net
「遺児たち」=複数の遺児ではなく、「遺児たち」=弥平次光春とお槇ということで。
お槇と弥平次光春はいちどは山岸光信に預けたが、その後光秀を追いかけてきたので天竜寺の禅道に預けたということで。
>>159-160様、これぐらいで納得していただけましたでしょうか?
先に進みます。
164:日本@名無史さん
17/01/02 16:11:20.61 .net
やれやれ、これでエロ画像を見なくて済むんだなww
165:日本@名無史さん
17/01/02 16:24:01.14 .net
弥平次の「イー・エス・パー」の掛け声によって、遺児の一人が瞬時にお槇に変身したとは考えられないか?
それから弥平次とお槇は、西美濃の山岸光信屋敷から、光速で天竜寺まで飛んできたはずだ。
URLリンク(www.tc-ent.co.jp)
URLリンク(ranshi2.way-nifty.com)
166:日本@名無史さん
17/01/02 16:27:43.59 .net
前振り ナガッ
167:日本@名無史さん
17/01/02 16:30:50.46 .net
光速エスパー〔動画〕
URLリンク(www.youtube.com)
168:日本@名無史さん
17/01/02 16:43:45.78 .net
▽「禅道殿が、遷化なされたのでございます」
都合よく死なされてしまった禅道ではある。
遷化(せんげ)は、高僧の死亡を婉曲に且つ敬っていう語。正しくは遷移化滅(せんいけめつ)で、遷化はその略語。お隠れになるとも表現する。
169:日本@名無史さん
17/01/02 16:46:47.38 .net
>>157
「お槇(は)、……(略)……美濃にあるときは土岐頼定の姫君として……」という叙述があるから、土岐頼定は美濃土岐氏の設定だね。
170:日本@名無史さん
17/01/02 16:51:49.38 .net
▽米櫃
URLリンク(www.medias.ne.jp)
171:日本@名無史さん
17/01/02 17:00:12.83 .net
▽光秀はお槇を抱きあげ、寝わらの上まで運んでゆき……(略)……ただひたすらな身動きを、お槇のなかで果たしつづけた。
URLリンク(cdn-ak.f.st-hatena.com)
URLリンク(blogs.c.yimg.jp)
『わらの犬』のレイプ・シーンも、下の糞映画と同じだったんじゃないだろうな?
URLリンク(www.ruvideos.net)
172:日本@名無史さん
17/01/02 17:08:13.53 .net
▽大黒天の木像
ヒンドゥー教のシヴァ神の化身であるマハーカーラ(Mahaa-kaala / 摩訶迦羅)のことである。
URLリンク(www.oparaq.com)
マハーカーラは、インド密教に取り入れられた。密教の伝来とともに、日本にも伝わった。
日本で大黒天といえば、神道の大国主と神仏習合した日本独自の神をさすことが多い。台所の守護神。
URLリンク(kotto.webstdio.com)
173:日本@名無史さん
17/01/02 17:12:27.00 .net
▽中村閑雲斎〈F〉
明智城に流寓していた槍術と兵法の師範
174:日本@名無史さん
17/01/02 17:18:04.22 .net
▽中川右近〈F〉
閑雲斎を倒した西国牢人で槍術の名手。光秀に咽喉仏を破られた。
名前は、「中川」瀬兵衛と従兄弟の高山「右近」を組み合わせたもの。
175:日本@名無史さん
17/01/02 17:27:05.36 .net
サブタイは「六角斬り」なんだが、あまりに薄味な六角浪右衛門〈F〉。
176:国盗り物語
17/01/02 20:18:41.33 .net
第25章 堺と京
それまでの信長にとっては、
―日本を制覇する。
ということは途方もなく大きな望みのように思われたが、この町の華麗な潮風に吹かれてみると、日本制覇などはひどく小さな野望にすぎぬように思われはじめた。
177:日本@名無史さん
17/01/02 20:25:03.09 .net
★清洲城
▽永禄4年(1561)正月
臥龍梅:竜が地上でとぐろを巻いたような形の梅の木
URLリンク(www.yado.co.jp)
178:日本@名無史さん
17/01/02 20:28:55.56 .net
▽「お濃よ、膝を貸せ」
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
179:日本@名無史さん
17/01/02 20:35:16.59 .net
▽丹羽長秀
天文4年(1535年)、丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は天文19年(1550年)から織田信長に仕えた。…現在25歳
天正元年(1573年)9月、長秀は信長より若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。
家老の席順としては、筆頭格の佐久間信盛失脚後、柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれた。
ただし軍事面では、独立した軍団を持つ柴田勝家・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉などの一段下とみなされ、知行も信長治世の末期には彼らとは大きな開きが生じていた。
※丹羽長秀 / 北村晃一
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
180:日本@名無史さん
17/01/02 20:43:13.72 .net
★泉州堺
▽堺
堺の地名は、方違神社が摂津国・河内国・和泉国の三国の「境」であったことに由来する。市街地はその西方に形成された。
中世に貿易港として発展し、「東洋のベニス」として栄華を極めた。戦国時代には環濠都市となり、自治的な都市運営が行われた。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(www.iobtg.com)
181:日本@名無史さん
17/01/02 20:48:32.16 .net
▽ベニス
URLリンク(stworld.jp)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(gotrip.jp)
182:日本@名無史さん
17/01/02 20:51:33.04 .net
▼東洋のペニス
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(pds.exblog.jp)
183:日本@名無史さん
17/01/02 21:03:22.30 .net
▽絨
厚い毛織物=絨毯、軟らかい糸=絨毛
※天鵝絨(ビロード):綿・絹・毛などで織り表面に毛羽 (けば) や輪奈 (わな) を出した滑らかで光沢のある織物。
URLリンク(rajour.com)
※女里弥寿(メリヤス):綿糸または絹糸で機械を用いてよく伸縮するように編んだもの。
URLリンク(www.uto-knit.com)
184:日本@名無史さん
17/01/02 21:08:41.80 .net
★京
▽等持院
京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。足利氏の菩提寺であり、足利尊氏の墓所としても知られる。
URLリンク(www.marutake-ebisu.com)
185:日本@名無史さん
17/01/02 21:16:24.49 .net
▽義輝は、居館がない。
ついに二条館はなくなりましたね。
※意味不明の諸君は、前スレの〔922-923 / 926-927〕を読んでくれたまえ。
細川藤孝 / 伊吹吾郎 URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
足利義輝 / 竹脇無我 URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
186:日本@名無史さん
17/01/02 21:20:32.19 .net
信長の将軍義輝への拝謁は、2年前の永禄2年(1559年)2月2日の出来事である。
信長は80~100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府第13代将軍・足利義輝に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。
187:日本@名無史さん
17/01/02 21:24:16.87 .net
桶狭間の戦いと順序が前後しているが、この史実改変は許せると思う。
桶狭間前に信長の将軍拝謁をやってしまうと、同じく上洛して将軍に拝謁するだろう今川義元との戦いが???になってしまう。
188:日本@名無史さん
17/01/02 21:25:05.76 .net
>>187
つーか、おまいがエロ画像を見たくないだけだろうw
189:日本@名無史さん
17/01/02 21:37:13.79 .net
▽臨済寺
司馬さんによると、二条西洞院に臨済寺があるそうだが、残念ながらありませんでした。
190:日本@名無史さん
17/01/02 21:38:30.01 .net
臨済寺は、静岡と大分のが有名だわな。
こりゃもうエロ画像3枚だっぺ?
191:日本@名無史さん
17/01/02 21:44:06.61 .net
★一乗谷
▽光秀
(あの男にも、若い女を相手にチンコを勃てる野望があるのか)
嘲笑って笑い捨てたい気持ちと、モテるおっさんに対する軽い嫉妬、
(あるいは道三殿が申したように、意外な巨根の持ちぬしかもしれぬ)
というあらためて見直してみたい気持と、複雑にいりまじった感慨を味わった。
192:日本@名無史さん
17/01/02 23:02:37.58 .net
《地図を読む》
筆者はいま87万分の1の石川県の地図を眺めている。咆哮するゴジラの上半身のようなこの県は、旧分国の名で言えば、下半分が加賀国、上半分は能登国ということになる。
下辺は越前国と境を接し、右辺は飛騨国・越中国と境を接している。
〈能登国〉
輪島市・珠洲市(すず)
穴水町・能登町
志賀町・七尾市
羽咋市(はくい)・中能登町
宝達志水町
〈加賀国〉 河北市・津幡町
内灘町
金沢市
川北町・野々市市
能美市(のみ)
加賀市・小松市・白山市
193:日本@名無史さん
17/01/02 23:06:20.96 .net
>>190
AVはやめて洋画のエロいのにしようよ。三浦恵理子以外のAV女優は、どれも全部ダメ。
194:日本@名無史さん
17/01/02 23:26:10.39 .net
>>189
〔判決〕京都にない寺をあると書いた罪は重い。エロ画像4枚の刑。
195:日本@名無史さん
17/01/02 23:27:37.62 .net
《二条西洞院の臨済寺》☆☆☆☆
URLリンク(pbs.twimg.com)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
URLリンク(img.movie-ga.com)
URLリンク(blog-imgs-53.fc2.com)
196:国盗り物語
17/01/02 23:34:07.06 .net
第26章 浮沈
こうなれば朝倉土佐守といった田舎大名の家老などの場合、無邪気なほどの傾倒を示しはじめるものだ。
「ぜひ、推挙したい」
と言い、光秀を一乗谷につれて行って、わが屋敷に泊らせ、数日して義景に拝謁させた。
197:日本@名無史さん
17/01/02 23:49:05.52 .net
★一乗谷
▽いい面の皮
自分の「面の皮」が好いのではなく、自分に恥をかかせた相手(ないし第三者)の「面の皮」が好いという意味。
「面の皮」が好いは、反語として使われていて、恥をかかせた相手(ないし第三者)の「面の皮」が厚いという意味。
※顔の表皮が厚ければ表情が乏しくなると考えられるので、「面の皮が厚い」は、どんな非難を受けても顔色をかえたり、表情に表れたりしないふてぶてしさを意味する。「面の皮が厚い」は鈍感、ずうずうしい、腹黒いといったネガティブな印象の強い言葉である。
198:日本@名無史さん
17/01/02 23:50:51.38 .net
▽偸安
〔安きを偸(ぬす)む意〕目先の安楽を求めること。
199:日本@名無史さん
17/01/02 23:53:25.88 .net
>>195
おまえはオッパイを基準に画像を選んでいるのか?
200:日本@名無史さん
17/01/02 23:54:16.36 .net
そうです。ピンク・フロイドが女性コーラスを選ぶ基準と同じです。
201:日本@名無史さん
17/01/02 23:57:42.75 .net
▽驥足を展ばす
〈「蜀志」?統伝から〉優秀な素質をもっている人が、その才能を存分に現す。
「驥」は足の速い馬の意。転じて、すぐれた才能を意味するようになった。
202:日本@名無史さん
17/01/02 23:59:32.91 .net
三国志のホウ統のホウが?になってしまいました。
臥竜鳳雛の?統です。
203:日本@名無史さん
17/01/03 00:07:30.80 .net
▽束脩
司馬さんは、授業料に(そくしゅう)の振り仮名をふっている。
束脩は入学金で1回支払うのみなので、授業料の意味なら謝儀が適当である。
▼江戸の寺子屋の学費の例
束脩:入学金……扇子、扇子に金銭を添える、品物などさまざま。
謝儀:授業料……年5回払う。1回分は家格に応じて金額が異なる。
月並銭:月謝
204:日本@名無史さん
17/01/03 00:13:05.78 .net
★称念寺(長崎)
▽考庵
越前長崎の医者。称念寺のそばで開業している。
※昭和48年大河ドラマで配役されているが、役者が不明である。
205:日本@名無史さん
17/01/03 00:20:30.19 .net
▽焙烙頭巾
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)
URLリンク(cat.1bas.com)
女性が被ったのでは似合わないだろうな。
光秀の妻お槇は、考庵に薦められた朝鮮人参を光秀に買い与えるために、自分の髪を売った。
史料に残っているのは、連歌会を催す金を賄うために髪を売ったのであるが〔>>155〕、主人の熱病の治療のために髪を売ったほうが美談になるな。
206:日本@名無史さん
17/01/03 00:28:36.71 .net
▽凛烈
〈寒さが厳しく身にしみいるさま〉が本来の意味であるが、司馬さんの文章ではニュアンスが異なる。
「壮夫の貧はむしろ凛烈としている」「もはや凛烈たる気は保てぬ」
厳しい寒さに打ちひしがれているのではなく、厳しい寒さに打ち勝っているニュアンスが読み取れるのだ。
207:日本@名無史さん
17/01/03 00:33:32.14 .net
和歌山県立箕島高校校歌の「凛烈の意気」が参考になると思うよ。
意味は「厳しい状況のなかにあっても目標に向かって臆することなく積極的に意欲的に取り組む心意気」だそうだ。
※和歌山県立箕島高校出身者を含む東洋医療専門学校ブログの画像
URLリンク(blog.toyoiryo.ac.jp)
208:日本@名無史さん
17/01/03 00:34:26.95 .net
凛烈としていないような……。
209:日本@名無史さん
17/01/03 21:52:50.81 .net
▽富樫氏
藤原利仁に始まるといわれる氏族である。代々加賀国に勢力を張り、加賀介を世襲し、武門の栄職であると言われる八介の一つの富樫介を称した一族である。
1387年(至徳4年)に富樫昌家が没すると、管領・斯波義将が実弟の義種を加賀守護職に任じ、30年近くにわたって富樫氏は守護職を奪われていた。だが、将軍足利義持の側近である富樫満成が1414年(応永21年)に斯波満種を失脚させて加賀半国守護(南部)となり、更に残り半国(北部)も一族の富樫満春(昌家の甥)に与えられた。
以後、富樫政親が1488年(長享2年)、高尾城で加賀一向一揆に攻め滅ぼされる(長享の一揆)までが富樫氏の加賀国支配時期である。
210:日本@名無史さん
17/01/03 21:59:49.24 .net
▽加賀一向一揆
長享2年(1488年)から天正8年(1580年)にかけて、加賀の本願寺門徒らが中心となった惣国一揆。
文明3年(1471年)吉崎へ下向した蓮如は、親鸞以来の血脈相承を根拠に一宗独立を宣言し、浄土系諸門流の掌握を開始した。蓮如教団は世法的宗教観の否定を唱える門流をも内包し、他宗派との間に鋭い緊張関係を生じた。
一方加賀守護勢力は、15世紀中期以降幾度も二手にわかれ支配権を争っていた。このような状況下で一部守護勢と一向衆とは、国人層・百姓層・寺社勢力をも糾合し、それぞれの反対勢力打倒の惣国一揆をおこした。
211:日本@名無史さん
17/01/03 22:13:33.93 .net
▽坪坂伯耆
坪坂包明…伯耆入道、空性。加賀国石川郡鶴来の地侍。本願寺から加賀に派遣された坊官。金沢御坊にいた加賀一向一揆の頭領。
212:日本@名無史さん
17/01/03 22:17:32.56 .net
▽鶴来
鶴来町(つるぎまち)は、石川県の南に位置し、石川郡に属していた金沢市南郊の町。金沢市への通勤率は29.7%(平成12年国勢調査)。2005年2月1日に、野々市町を除く石川郡を構成する町村及び隣接する松任市と合併し、白山市になった。
※白山市立鶴来博物館
URLリンク(shizenjin.net)
213:日本@名無史さん
17/01/03 22:24:02.21 .net
▽永禄5年(1562)9月
称念寺前の陋居:狭くてむさ苦しい家。 狭くてみすぼらしい家。 ぼろ屋。
※中国妓女村陋居草席
URLリンク(image68.360doc.com)
214:日本@名無史さん
17/01/03 22:36:22.31 .net
▽加賀・大聖寺城
石川県加賀市大聖寺八間道
URLリンク(www.hb.pei.jp)
215:日本@名無史さん
17/01/03 22:44:39.52 .net
朝倉土佐守〔>>135〕 4,000
朝倉義景〔>>119〕 1,000
216:日本@名無史さん
17/01/03 23:23:14.36 .net
▽九頭竜川
福井県嶺北地方を流れる一級河川。流域面積2,930kmは福井県の面積の約70%にあたり、県のシンボルの一つとされている。
URLリンク(www.geocities.jp)
URLリンク(www.westatic.com)
URLリンク(fukuinavi.jp)
217:日本@名無史さん
17/01/03 23:32:23.70 .net
▽凛呼
りりしく勇ましいさま。毅然としているさま。凜然。
>>206の「凛烈」は、凛呼の意味で使っているな。
URLリンク(blog-imgs-21.fc2.com)
218:日本@名無史さん
17/01/03 23:34:29.19 .net
「りりしい」も漢字で書くと「凛々しい」だから、凛呼の意味だろうな。
「凛烈」だけが意味が違う。
219:日本@名無史さん
17/01/03 23:42:53.18 .net
▽御幸塚
花山法皇が当地に一時滞在して住んでいた時に、加賀三湖を望む三湖台に上り、周囲を眺望されたという伝承による。なお、花山法皇が上ったという所は「御幸塚」と呼ばれる。現在の小松市の西端にあたる。
※今江城址(御幸塚城)
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)
220:日本@名無史さん
17/01/03 23:46:19.62 .net
▽「ぜひ、推挙したい」
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
▽光秀の都びた物腰や相貌をひと目みて気に入り、当家に仕えぬかといった。
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
221:日本@名無史さん
17/01/03 23:48:37.21 .net
▽禄、わずか二百石である。
URLリンク(contents.oricon.co.jp)
222:日本@名無史さん
17/01/03 23:52:32.44 .net
光秀は足の指でピアノを弾いたりする。
行儀の悪い人だから、二百石で十分よ。
URLリンク(nara-rino.cocolog-nifty.com)
223:日本@名無史さん
17/01/03 23:52:49.45 .net
この画像では、足の指でフリージャズを弾いている。
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
224:日本@名無史さん
17/01/03 23:55:57.34 .net
足の指だとスウィングしないんだよな。
URLリンク(bunkyocivichall.jp)
225:日本@名無史さん
17/01/04 02:32:12.71 .net
この章の加賀一向一揆と朝倉軍との戦いは、ほんとうにあったのか?
226:日本@名無史さん
17/01/04 02:35:07.53 .net
尻垂坂の戦いをはじめとして、上杉謙信と北陸の一向宗との戦いは有名だよな。
加賀一向一揆は朝倉と仲良くしておかないと、上杉と朝倉に挟み撃ちにされるよな。
227:日本@名無史さん
17/01/04 02:37:39.48 .net
司馬さんは、坪坂伯耆守を天才的な戦術家と絶賛しておられるが、朝倉は味方にしておかないとまずいよね。
坪坂伯耆守は、バカとしか思えないけど。
228:日本@名無史さん
17/01/04 02:46:47.91 .net
>>226
尻垂坂の戦いは越中の一向宗との戦いだし、時期も元亀3年(1572年)だからな。
いまの時期なら、越前朝倉と加賀一向一揆の間に紛争があっても不思議じゃない。
229:日本@名無史さん
17/01/04 02:52:19.09 .net
《今夜の尻垂坂》
URLリンク(blogimg.goo.ne.jp)
URLリンク(image.space.rakuten.co.jp)
URLリンク(farm3.staticflickr.com)
URLリンク(i1.wp.com)
URLリンク(slim-love.com)
230:国盗り物語
17/01/04 17:37:48.87 .net
第27章 美濃攻略
信長はすでにこの年五月に三河の徳川家康と同盟して東方の脅威を去っている。北方の美濃攻略に専念できるはずであった。
(もし美濃をとれば、天下を望むこともできるのではないか)
朝倉家に身を寄せている光秀としては、信長の成長は決してうれしい話題ではない。
231:日本@名無史さん
17/01/04 17:43:44.98 .net
▼桶狭間戦後の信長
桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に、信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。
それまで織田家と松平家は敵対関係にあり幾度も戦っていたが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため、家康も駿河国の今川氏真に対抗する必要があったため、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。
両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。この同盟は信長死後あるいは小牧・長久手の戦いまで維持された。
232:日本@名無史さん
17/01/04 17:57:55.19 .net
★清洲城
▽馬場殿
『濃陽諸士伝記』に記された斎藤義龍の娘。
馬場殿を信長の側室として政略結婚に用いようという意見が美濃にあったが、龍興が言うには「其妻死後に遣り難し」として嫁入りさせるのは難しいと述べたという。
これは濃姫が既に亡くなっていて、信長の正室にも別の人物が収まっていたことを窺わせるような内容である。濃姫死亡説の根拠とされている。
233:日本@名無史さん
17/01/04 18:03:33.03 .net
▽「火を見ているのだ」
『絵本太閤記』と『武将感状記』のよく知られた逸話に、濃姫が熟睡すると信長は毎夜寝所を出て暁に帰るという不審な行動を一ヶ月も続け、浮気を疑う濃姫が尋ねると、信長は密計を図っていて謀叛を起こす道三の二人の家老・堀田道空および春日丹後守からの連絡を待っているのだと答えたというのがある。
234:日本@名無史さん
17/01/04 18:08:25.64 .net
▽濃姫付の侍女
各務野のことである。名前をド忘れしたのであるが、調べるのが面倒だった。
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
URLリンク(i.ytimg.com)
235:日本@名無史さん
17/01/04 18:11:41.39 .net
▽義竜が死んだ
永禄4年(1561年)5月11日に急逝した。享年35。後を子の龍興が継いだ。
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
236:日本@名無史さん
17/01/04 18:29:08.22 .net
▽別伝和尚
別伝座元…斎藤家は日蓮宗を信仰していたが、義龍の代になってから臨済禅に傾倒していった。義龍は別伝座元に帰依し、伝灯寺という禅宗の菩提寺を創建した。
なお、快川紹喜は「永禄別伝の乱」と呼ばれる宗教上の混乱により一旦美濃を離れるが、義龍の死去に伴い帰国している。
237:日本@名無史さん
17/01/04 18:29:22.95 .net
※伝燈護国寺は、斎藤義龍が永禄3年(1560)に、京都の妙心寺から別伝を招いて建てた。
URLリンク(stat.lets-gifu.com)
238:日本@名無史さん
17/01/04 18:35:11.96 .net
▽斎藤龍興
天文17年(1548年)、斎藤義龍の庶子として生まれたと伝わる。幼名は喜太郎。正室近江の方の子という説もある。近江の方は、浅井亮政の娘であるというのが有力な説となっている。
永禄4年(1561年)、父・義龍の死により14歳で美濃斎藤氏の家督を継ぐ。
※斎藤龍興 / 大石悟郎
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
239:日本@名無史さん
17/01/04 18:41:20.34 .net
《鰐淵晴子の若い頃》※国盗り物語とは、まったく関係ありません。
URLリンク(c2.atwiki.asia)
URLリンク(userdisk.webry.biglobe.ne.jp)
URLリンク(c2.atwiki.asia)
240:日本@名無史さん
17/01/04 18:45:57.27 .net
★森部の戦い
▽永禄4年(1561年)5月14日
森部村(安八町)にて長井利房、日比野清実らを討ち取り勝利する。
※岐阜県安八郡安八町森部…大垣市と羽島市に挟まれている。
URLリンク(uub.jp)
241:日本@名無史さん
17/01/04 18:53:21.69 .net
云い忘れた。本文に「墨俣付近」とあるのが、森部のこと。
前田利家は、この戦で勘当を解かれます。
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
URLリンク(sakuraoffice.com)
URLリンク(tatutomo.pvsa.mmrs.jp)
242:日本@名無史さん
17/01/04 19:07:18.26 .net
▽日比野下野守
日比野清実…前スレの〔793〕に名前だけは紹介しておいた。斎藤家の重臣 「斎藤六人衆」 の一人。
永禄年間に日根野弘就〔>>69〕と氏家卜全直元〔>>94〕・安藤守就〔>>44〕・竹腰尚光との4人、あるいはこれに日比野清実・長井衛安〔利房/>>240〕を加えた6人の連署で発給された書状が多く残っている。
243:日本@名無史さん
17/01/04 19:11:27.70 .net
▽長井甲斐守
長井利房(衛安)…前スレの〔793〕に名前だけは紹介しておいた。斎藤家の重臣 「斎藤六人衆」 の一人。
244:日本@名無史さん
17/01/04 19:14:44.35 .net
5月13日 信長は河を越え勝村に布陣した。1,500名の兵力である。
14日 総大将斉藤龍興が墨俣方面から、長井利房・日比野清実が森部方面から、総勢6,000名を繰り出した。
激闘数時間の末、織田軍の勝利。敵の首級170余を挙げたという。
245:日本@名無史さん
17/01/04 19:16:50.62 .net
この戦いの後、信長の勘気を蒙り牢人していた前田犬千代の帰参が許されたという。ちなみに、彼は桶狭間の戦にも参戦し兜首を三つ挙げているが、帰参を許されていない。
246:日本@名無史さん
17/01/04 19:19:45.57 .net
斉藤軍には油断があった。敵兵が少ないことを侮っていた。油断を物語るエピソードがある。「近江猿楽座一行の二人の若者の死」である。
二人は長井利房〔>>243〕、日比野清実〔>>242〕の男色の相手であった。そんな若者を合戦に同伴させているくらいだ。美濃勢はこの戦いの勝利を確信していたのであろう。しかし、思いがけない大敗に四名とも討死してしまった。猿楽座の二人は手を取り合って死んでいたという。
この合戦で、信長は墨俣砦を奪い取っている。
247:日本@名無史さん
17/01/04 19:27:42.22 .net
日根野と日比野は、勘違いしそうだな。
248:日本@名無史さん
17/01/04 20:25:14.19 .net
勘違いしそうなところが、試験に出題されるのじゃよ。
そういうところを集中的に勉強してくれたまえ。
249:日本@名無史さん
17/01/04 22:29:46.19 .net
>>246
>この合戦で、信長は墨俣砦を奪い取っている。
森部の戦いは、永禄4年(1561年)5月14日の一日で終結した。
信長が墨俣を奪い取った戦いは、5月23日の十四条・軽海の戦いとして、森部の戦いと区別するのが今日一般的である。
250:日本@名無史さん
17/01/04 22:41:11.52 .net
▽七月二十一日、一万の大軍を動員し……(略)……非常な勢いで稲葉山城下にせまった。
第一陣 柴田勝家
第二陣 池田信輝(恒興)
第三陣 丹羽長秀
251:日本@名無史さん
17/01/04 22:45:34.46 .net
▽河田渡し
河田橋(こうだ)…以前は、河田の渡しという渡船があったが、木曽川の洪水により欠航となることがあった。
愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島河田町の木曽川南派川に架かる橋梁。
愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島河田町は、安土桃山時代の大洪水で木曽川の流れが変わるまでは、同じ尾張国葉栗郡河田嶋村であった。
URLリンク(blog-imgs-59.fc2.com)
252:日本@名無史さん
17/01/04 22:48:33.30 .net
▽池田恒興
諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。
天文5年(1536年)、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生。母は養徳院。母の養徳院は織田信長の乳母であり、後に信長の父の織田信秀の側室となっている。
253:日本@名無史さん
17/01/04 22:53:44.59 .net
▽長森
岐阜市長森本町
ここで斎藤方の竹中半兵衛が、十面埋伏の陣で織田勢に大打撃を与える。
254:日本@名無史さん
17/01/04 22:55:41.20 .net
>>250以降の戦いは史料で確認できないのですが、★(仮称)長森の戦い、ということにしておきます。
255:日本@名無史さん
17/01/04 23:00:37.61 .net
▽日根野備中守兄弟
日根野弘就……前スレ〔792-793〕〔>>242〕
永正15年(1518年)- 慶長7年(1602年)。美濃本田城主。備中守。
弘治元年(1555年)10月22日、義龍の命で義龍の異母弟である孫四郎、喜平次兄弟を稲葉山城内で斬殺した。
日根野盛就……前スレ〔795〕
日根野備中守弘就の実弟
256:日本@名無史さん
17/01/04 23:02:54.17 .net
▽木下藤吉郎秀吉
織田軍を潰滅から救った殿軍の一将校
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
257:日本@名無史さん
17/01/04 23:07:05.70 .net
▽瑞龍寺山
岐阜市のスーパー低山「瑞龍寺山」。金華山の前に東西に連なる丘陵で、最高点はわずか156m。
秀吉は野伏の群れを瑞龍寺山に伏させておいた。
URLリンク(miharu.pro.tok2.com)
URLリンク(miharu.pro.tok2.com)
258:日本@名無史さん
17/01/04 23:15:27.14 .net
▽十面埋伏の陣
元々は項羽と劉邦の戦いで、劉邦側が用いた戦法(計略)に由来する。
『三国志演義』では、曹操が程昱と荀攸のすすめで「十面埋伏の計」を実行した。
259:日本@名無史さん
17/01/04 23:19:48.50 .net
▽竹中半兵衛
竹中重治……天文13年(1544年)、美濃斎藤氏の家臣で美濃国大野郡大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元の子として同地に生まれる。
永禄元年(1558年)、父は不破郡岩手城主・岩手弾正を攻略し、永禄2年(1559年)、菩提山城を築いて居城を移し、重治もこれに従う。永禄3年(1560年)、父の死去(または隠居)により家督を相続する。
260:日本@名無史さん
17/01/04 23:23:32.91 .net
信長が、永禄5年(1561年)7月に美濃に侵攻してくるが、斎藤勢は重治の十面埋伏陣という独特の伏兵戦術で織田勢を破ったとされている。
半兵衛の活躍は『武功夜話』や『太閤記』によって描かれている。江戸時代の講談などで、黒田孝高とともに天才軍師の人物像が固まり、現在の人気に至っている。しかしながら『信長公記』には記述が少なく実態はよく分かっていない。
※竹中半兵衛 / 米倉斉加年
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
261:日本@名無史さん
17/01/04 23:28:24.37 .net
★森部の戦い…………………〔>>240-246〕
★十四条・軽海の戦い………〔>>249〕
★(仮称)長森の戦い………〔>>250-260〕
262:日本@名無史さん
17/01/04 23:39:11.81 .net
★一乗谷
▽清洲同盟
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長によって討たれると、家康は空き城となった岡崎城を取り戻した。
その後、今川氏の本家である吉良氏などの三河における親今川勢力を攻撃しはじめる(善明堤の戦い及び藤波畷の戦い)。
これに怒った今川氏真は、永禄4年(1561年)に家臣の吉田城代・小原肥前守鎮実に命じ、徳川側の人質を城下の龍拈寺口で殺した。一説には串刺しと言う。
263:日本@名無史さん
17/01/04 23:39:59.58 .net
今川家と敵対関係となった家康は、西の隣国である尾張国織田家との接近を考え、石川数正を交渉役として織田信長との同盟を模索する。
一方の信長も、美濃の斎藤氏と交戦している経緯から家康との同盟を考えており、家康の母方の伯父に当たる水野信元が家康を説いた。
正式に同盟が締結されたのは桶狭間の戦いから2年後である。このとき、家康が信長の居城である清洲城を訪問して、信長と家康との間で会見が持たれた上で同盟が締結されたことから、これは清洲同盟と呼ばれている。
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
URLリンク(blog-imgs-73.fc2.com)
264:日本@名無史さん
17/01/04 23:49:35.05 .net
▽光秀としては、信長の成長は決してうれしい話題ではない。光秀はむしょうにピアノを足で弾きたくなった。
URLリンク(pbs.twimg.com)
265:日本@名無史さん
17/01/05 19:19:16.68 .net
「とどめは、十面埋伏の陣で」
「よくぞ申した、程昱」
266:日本@名無史さん
17/01/06 05:55:06.68 .net
このスレは、庄九郎の命を狙った木下闇が、昭和48年大河ドラマでは下柘植次郎左衛門に置き換えられていたと勘違いしていた画像君の提供です。
267:日本@名無史さん
17/01/06 06:10:32.84 .net
画像君は昭和48年にはまだ生まれてないから、大河の国盗り物語は、総集編しか観でないんだろう?