穢多・非人について語りましょうat HISTORY穢多・非人について語りましょう - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト150:日本@名無史さん 17/01/07 20:57:12.24 .net >>146 日本の男系主義の表れだね 151:日本@名無史さん 17/01/08 09:32:30.90 .net 武士は藩や旗本に属し、武家屋敷に定住し二人扶持とか石を貰っているし、 農民だけではなく商工民も店や工房をもって定住して、寺に籍あるのです。 しかし、大工や建設業者、飛脚や馬引、船頭などの流通関係、漁民はどうなんだろう? 農民、商人でも小作人や丁稚はどうなんだ?武士の家の小者はどうなんだ? 長屋住まいの仕官できない浪人はどうなんだ? 江戸時代は複雑な社会だったんじゃないのか? 152:日本@名無史さん 17/01/08 14:07:22.64 .net 家船 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E8%88%B9 153:日本@名無史さん 17/01/08 14:08:26.84 .net 海の民と家船 http://sites.google.com/site/tadanoumis/107 沖浦和光著『瀬戸内の民俗誌』(岩波書店)は次のように述べている。「能地のすぐ裏山に善行寺がある。 家船漁民は年中〈船住居〉だったが、年に二回、 正月と盆には必ずこの能地に帰ってこなければならなかった。 能地に帰ってきてもそこに家があるわけではないので、大半の漁民は船に寝泊まりした。 旅先の海 で死んでも、そのむくろは塩漬けにされてここまで帰ってくる習わしだった。 葬式や追善供養もこの寺で行われたが、貧しい家船漁民のむくろは寺の墓地ではな くて浜辺に埋められたと言われている。 こういう方式は、檀家の数を減らさないために、善行寺が漁民たちに義務づけたのだが、 正月と盆に帰ってこなければならぬ最大の理由は、檀那寺の宗門改帳に登録されないと「帳はずれの無宿」と見なされたからだ。(中略) 臨済宗の善行寺は、1469(文明元)年に、土地の豪族〈浦〉氏によって建立されたと伝えられている。 浦氏は沼田小早川家の庶家(分家)で、小早川家の 有力な一族だった。 〈浦〉を名乗ったその姓からも分かるように、小早川勢の瀬戸内海進出の先駆けとなったが、 特に水軍史上で名を残したのは浦宗勝で、1576(天正4)年の木津川口海戦では毛利方水軍勢の総帥をつとめた。 能地と二窓の海民がこの浦氏が建立した寺の檀家になったのは、 瀬戸内海を縦横に駆 け巡って奮戦した浦氏の直属水軍として働いたからである。」(沖浦和光『瀬戸内の民俗誌』P180~181) 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch