18/12/25 03:27:05.76 .net
>>203
>>209の続きの福山聯隊も、「シンゴラで、タイ軍連隊夫人の尻を射って、程度を
下げていたので、ここでは闘牛のように暴れ回った。
敵前で橋を渡るなどということは、常識はずれだ。せっかく連隊主力が上流で渡河
したのだから、そのコースを利用するのが常道である。が、本道上に待機していた
一部隊は、本隊が対岸で戦闘を始めると、やにわに橋を突っ走って行ったのである。
どういう考えだったのか、それは判らない。 「たいしたこたァ、にゃァ(ない)」
と、思ったのだろう。 しかし、この無謀な突撃で、橋梁付近が一大乱戦場になった
のは事実だ。大戦果には必ず、こういう常識はずれの行動が付随していることが多い。
捨て身になって奮戦していたグルカ兵が、この緒戦に敗れてからは、日本軍の姿さえ
見れば、逃散するか、両手を頭上に上げてゴム林から出て来たのは、この最初の
一撃がいかに痛烈であったかの証明であろう。」
>>205
まあ、薩摩は他藩なら元来被差別民となる「薩摩の下郎は死生を知らず」の
野郎軍団を郷士屯田兵として抱えたが、あれらは薩摩得意のオカマ戦法迂回
後方からの「釣り野伏し」のプロ戦士じゃし、正面ガチンコ激突の原始的な
斬り込み白兵戦にゃ弱いけぇ、長岡でも苦戦するんよ。広島勢は正面激突で
内角攻め勝負じゃけぇのう。原始的な白兵戦の方が負けた方に劣等感持たせ、
言い訳出来ん勝負付け付けさせ戦闘を優位に指導権握る手法を採るけぇのう。
東北や越後の兵の致命的欠点は、指揮官の命令に従順で、前線将兵独断の個々の
判断の戦闘が出来んことよのう。広島人なら上からの命令無視で勝手に個々の
将兵の判断で決める。
「仙台幼年学校の区隊長から、この歩兵十一連隊(広島)の第三大隊に転任して来た
市川正は、 しばしば戦理に合わぬ攻撃法をやらかす部下たちを、ほとんどあきれて
いた。 (これが伝統と言うものだろう!)と、そう思うより他なかった。
「とにかく、こうしましょうや」と提案する中隊長たちの方法は、てんで敵を
無視していた。 けれどもそれは百発百中、成功するのだった。』