16/06/24 03:12:03.10 .net
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仙台藩は会津の降伏嘆願を受け入れる見込みがあるのか、取り次ぐ前に総督府要人の意見をそれとなく探った。
すると総督の九条道孝の嚮導の侍者は「降伏を入れる意向であるのは以前と変わりません」という見込を伝えた。
では、醍醐・世良の両参謀はどうか。今村鷲之助を本営に派遣し、高津慎一に就かせて探ったところ、
長州藩士はあべこべに「なぜ白河に繰り込まないのか」と語気を強めて迫るなど、
「その語気より察するも、降伏を容るる見込みなど意向なきを知れる」も、なお本営に滞留して形勢を観察した。
さらに、降伏使節派遣の動きをキャッチした官軍側は閏4月1日から参謀の世良らが前線に赴いて、
抵抗する仙台兵を「怒罵」して会津に三方向から総攻撃を始めさせ、2日に開戦する。
仙台藩本営は、会津側からの降伏交渉の開始を受けて、前線に戦闘停止の命令を出していたが、
世良参謀らはこれを無視する形で総攻撃に踏み切り、
休戦約束を守っていた会津側は驚き、防御線が突破され、陣屋を焼くなどの「戦果」を挙げている。
これを知った仙台藩の本陣は「すぐる2日の戦況報告に接して大いに驚きたり、
そのゆえは、会津容保謝罪嘆願につき、但木土佐ら関宿において応接中、双方戦争を差し控うべき旨、
松本要人より近侍監察・嶺岸数之助をもって関宿へ申し遣わし、米沢の竹俣美作・大瀧新蔵らをもって
会津に通知せしむるとともに、仙台出張軍隊へは須田謙吉をもって討ち入りを控うべき旨命令したるにも関わらず、
攻撃を開始したるをもってなり」
つまり会津藩に休戦を伝えていたのに騙した形になり、今後の交渉がますます困難になると予想された。
ここまで4月25日の達しなどというものを本気にしている参謀など1人もいない。