会津プロパガンダ10at HISTORY
会津プロパガンダ10 - 暇つぶし2ch900:日本@名無史さん
16/06/23 00:09:19.25 .net
>>1
だから4月25日の達しは、4月下旬の事件の記述あたりに出てこない。

「修蔵は15日をもってこれを受け取り、直ちに左の案をもってこれを郤くべく、
総督府へ申し送り、総督府はこれを仙台藩に達せり」という、例の処分の直後に、
「しかるに修蔵らは一方に仙台、米沢を脅喝するも…」と続けて、
4月25日の「一時の詐略」を示して解説している。

つまり著者の藤原は、世良は仙台・米沢に対して「脅喝」を加えながらも、
徳川慶喜処分が各藩に知れ渡ったので、会津に対してだけ謝罪を許さないと言う態度を取れなくなり、
仕方なく4月25日の達しを示したが、それは「詐略」であり、許す気は毛頭なかったと言いたいために持ち出してるのだよ。

仙台と会津との交渉は、その1か月以上前、仙台兵が4月10日、会津国境の土湯口に迫り、
会津兵と戦闘を開始するのとほぼ同時に開始されている。公式には仙台の会津討伐戦中の出来事。

「仙台戊辰史」によれば、4月11日、
仙台藩から会津に若生文十郎・横田官平が派遣され、伊達慶邦の親書を示して容保に降伏を勧めた。

容保は「文久2年以来、国事に尽くしたすえ、正月には伏見の戦で精兵500余りを失ってしまったから、
今日においては国境を防御することは容易ではない。仙台候の好意で降伏謝罪をもって社稷が保てれば望外の喜び。
領土を削られるくらいはもとより覚悟の上である」と言って、重臣会議を開いてる。

その重臣会議では佐川官兵衛以外に反対が見られなかった。
そのあとひと悶着あるのだが、佐川もその後、若生を訪れて周旋に感謝し、降伏に一致した。
これが「仙台戊辰史」による最初のころの情勢。

このあとで長州藩士の中村小二郎らが土湯口に出て監視し、
さらに、世良が介入することで急速におかしくなっていく。


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