16/06/18 20:05:10.99 .net
【>>1のコピペ検証 転載元の改ざん】
「会津藩士は「他国の農民は虫けら」と見ていたのである」
【元ネタ】
幕末とうほく余話
URLリンク(www.mumyosha.co.jp)
武士の実像 切腹した広島藩士
福島県白河市に、萬持寺という寺がある。私は訪ねたことがないが、
佐久間律堂さんの『戊辰白河口戦争記』(同書刊行会)によると、
そこに広島(浅野家、四十二万六千石)藩士加藤善三郎という人の墓があるという。
会津征討軍の一兵である。だが、それは「不名誉の死」だったと紹介されている。
加藤は、矢吹の茶店で休んでいた農民を見つけて、自分の荷物を白河まで運ぶよう命じた。
そこにいたのは、矢吹からは東に位置する、現在の石川郡玉川村の農民、真弓作左衛門である。
作左衛門は、征討軍に徴発されて荷物運びをやらされていたのが、ようやく勤めを終えて帰郷するところだった。
一刻も早く我が家へ帰りたいから、よけいな仕事は引き受けたくなかった。
それに、加藤善三郎の命令がひどく高圧的だったという。作左衛門は、それを断って、その場から逃げ出した。
『戊辰白河口戦争記』には、加藤が追いかけ、「武士の命に背くか」と言って、後ろから斬り殺したと記されている。
これは、完全に加藤善三郎が悪い。広島藩では、金で示談にしようとしたが、作左衛門の息子は絶対に承知しなかった。
それで、加藤に切腹を命じたのである。
『戊辰白河口戦争記』では、「見るもの、武士の最後の壮烈を嘆賞してやまなかった」と書いているが、
私にはそこに、この本が出版された太平洋戦争勃発直前(昭和十六年九月)の、時代の雰囲気を感じている。
日中戦争が泥沼化し、軍部が政権を握ったその当時の日本には、戦意高揚の気分があふれていただろうと想像できる。
だから、加藤善三郎のような「明らかな人殺し」に対して、著者の佐久間律堂さんも「武士の最後の壮烈」
と書きたくなったのではないだろうか。それは、勇ましさを賛美する、旧日本帝国陸軍の精神構造に通じるものだ。