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やがて官軍が優勢となり会津若松攻めに我が只野村からも多数の男たちが人足に出た。
とくに会津落城後は「官軍の命により分捕り品」と称して、馬に付けるほどの貨財を自分の家へ運んで帰ってきた。
敗戦国会津はまことにお気の毒であり無情なことであった。その時の分捕り鉄瓶を今でも使っている人がいる。
明けて明治2年春、会津以外の地方に流行病が大変流行った。これを里人は「分捕疫病」といった…。
(中略)
官軍が村に多数入ってきたので、婦女子は危険を恐れて山中に隠れた。初めは本宮館(おおさ山)方面から、
棒芳山…といった所に隠れたが、しまいには遠く大久保、源田山付近までかくれた。
やがて男たちは会津方面へ官軍の人足に出て、何か不平がましいことを言うと
「人そう(人足)、そげんの事を申すと薩州候に申し上げるぞ」とにらまれ、腰のあたりの刀に手をやる。
おそろしい生殺与奪の権を持った官軍にはなすすべもなかったのである。
(「増戸治助翁聞書」)