16/04/25 20:37:00.82 .net
世良は大山格之助宛書簡では単に書状だけでなく嘆願の顛末を詳しく報じているが、
その中でも容保が12日の嘆願と矛盾した言動を取っていると言った報告は全く出てこない
そもそも12日提出の「会津藩家臣」の嘆願書は「謝罪降伏嘆願書」と認識されているから、
仙台戊辰史に記された閏4月15日付容保書状の内容とまったく矛盾する
(容保の書状は「徳川家名成行不見届内ハ謝罪仕間敷覚悟ニ御座候」とあるから)
同時に提出された場合、無視されたり、混同されたり、同一の扱いを受けることはあり得ない。
家臣と藩主の意思のどちらが優位するかと言えば当然のこと藩主の意思
なのに藩主の書状は影も形も見えないとはどういうことか説明不可能
もともと「辻褄が合わないから日付をずらそう」という時点で無理筋なのに、
「日付をずらしても誰もそれに触れていない、それ以降の記録に影も形も見えない」という時点で完全にアウトじゃん。