邪馬台国 畿内説九州説VS他説at HISTORY
邪馬台国 畿内説九州説VS他説 - 暇つぶし2ch400:日本@名無史さん
18/07/18 17:50:35.63 .net
例えば、桃の種2000個が見つかったのは、祭祀土坑のあとで、供献土器も同時に出ている
3世紀当時の直接的な祭祀・宗教行事の直接的な考古学的遺構としては、ほぼ唯一の発掘成果だ
纒向遺跡の一番の重要性は、前方後円墳祭祀が統合・完成された、宗教的な中心都市だった点にある
箸中山古墳に先行する纒向型前方後円墳時代の纒向古墳群の時点で当時の列島最大の墳丘墓であり、
埋葬部分、墳墓そのものが最重要の遺跡なんだよ

401:日本@名無史さん
18/07/18 17:51:01.77 .net
魏志倭人伝には
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
と書かれている
つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ
大きな墓を作らない地域は倭王の所在地としては除外してよい
そして卑弥呼の墓の候補は、その当時の最大の墓がまず第1候補となる
纒向石塚古墳から箸中山古墳まで累代的に築造されたと考えられている纒向古墳群の
5つの墳墓はいずれも列島最大であり、編年によってそのうちのどれに当たるかは前後しても
纒向古墳群のいずれかが卑弥呼の墓の第1候補となることには変わりがない
編年が今後より古い方にスライドすれば、箸中山古墳が卑弥呼の墓の確率が高くなる

402:日本@名無史さん
18/07/18 17:56:21.43 .net
>>391
>纒向遺跡の一番の重要性は、前方後円墳祭祀が統合・完成された、宗教的な中心都市だった点にある
人が暮らした痕跡がない以上、とても「都市」とは言えない。  
古墳造成前線基地だろうね。  @阿波

403:日本@名無史さん
18/07/18 18:03:30.64 .net
>つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ
誤訳です

404:日本@名無史さん
18/07/18 19:21:08.16 .net
剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ
普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね
畿内では大王墓は発掘できないand/or盗掘済みで、出てないってだけだよ

405:日本@名無史さん
18/07/18 19:21:29.95 .net
山梨県の笛吹市平林2号墳でも揃ってるね
自分でもちょっとググってごらんよ
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ
つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ
平原1号墓を、副葬品だけで王墓と主張するのはピント外れなんだよ
そもそも伊都国に邪馬台国を持ってきたら、邪馬台国七万餘戸も満たせないし
平原1号墓も径百歩に合わない
本当に無理な屁理屈、アクロバティック解釈を重ねないと通らない説は、
正しくないと判断するのが当然

406:日本@名無史さん
18/07/18 19:21:56.16 .net
「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩
URLリンク(f.jigen.net)
#1歩(あゆ)む。足をふみ出してゆく。
#2歩(ある)く。歩行する。
#3止は左足の足あと、𣥂は右足のあしあと。左右の足あとを連ねて歩行の意とする。武は半歩、歩は六尺、合わせて「歩武堂々」のようにいう。足を地に接して歩くことは、その地の地霊に接する方法で、重要な儀礼に赴くときには歩するのが常法であった。(字通)
#4右の足+左の足。左と右の足をふみ出すことを示す。(漢字源)
URLリンク(jigen.net)
説文解字
步,行也。从止𣥂相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と𣥂の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。

407:日本@名無史さん
18/07/18 19:22:12.91 .net
実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ
長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更)

408:日本@名無史さん
18/07/18 19:22:48.52 .net
伊能忠敬の歩測では、複歩で約138センチで秦漢代の一歩とほぼ等しい
単歩で69センチだな
現代では、歩測は複歩で150センチになるように調節する訓練をするそうだ
この場合は単歩で75センチ
ソースも付けておこうか
URLリンク(www5a.biglobe.ne.jp)
さらに、年齢別の単歩の集計結果も見つけたので、貼っておく
男性は、15歳から49歳の範囲で、70センチを超えてるよ
URLリンク(pt-matsu.com)

409:日本@名無史さん
18/07/18 19:28:05.95 .net
「歩」はもともとは「步」
URLリンク(jigen.net)
下の部分は
URLリンク(jigen.net)
で、「少」とは別の文字で、音読みはタツ
「止」の反字
「少」は、小さい点の象形

410:日本@名無史さん
18/07/18 19:30:53.66 .net
順番としては
これURLリンク(f.jigen.net)
楷書化したのがURLリンク(www.zdic.net)
字体が整えられて「步」になる
これが「歩」の旧字
下の「𣥂」が、当用漢字音訓表にないから、「少」で代用して
「歩」の字形にしたんだよ
最初からずっと「足跡二つ分=複歩」が、大陸の「歩」

411:日本@名無史さん
18/07/18 19:31:34.90 .net
篆書の頃の漢字がどんなものかまったく考えていない
歩という字が、その成り立ちからずっと一貫して複歩なのに、
それを認めると自説が最初から嘘だったとバレるから必死でごまかし続けているww
象形文字の歩
URLリンク(f.jigen.net)
篆書の頃の歩
URLリンク(pic.zdic.net)
异体字の歩
URLリンク(pic.zdic.net)
旧字
「步」
今の楷書体
「歩」
今の楷書体でいきなり漢字ができるはずがないし、
楷書体になったときに初めて漢字の意味が作られるはずもない

412:日本@名無史さん
18/07/18 19:33:29.12 .net
日本書紀には、皇統と無縁の八咫鏡の例が挙げてある
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。
小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係
つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ

413:日本@名無史さん
18/07/18 19:33:46.07 .net
また、皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」も日本書紀に出てくる
日本書紀 巻第六
活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇
昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」。
因以獻之。是玉今有石上神宮也。
もともとは、「八咫鏡」も「八尺瓊勾玉」も普通名詞として、
三種の神器以外にも使われていたことが分かる

414:日本@名無史さん
18/07/18 19:34:16.35 .net
日本書紀の雄略紀には、
「遣身狹村主靑・檜隈民使博德、使於吳國。」と、遣呉使の記録はある
遣宋使の記録はないけれどね
宋は南北朝時代の南朝の王朝なので、大雑把には呉の地域だ
雄略天皇の前代あたりで、日本書紀の暦が元嘉暦から儀鳳暦に変わるため、
允恭天皇以前の儀鳳暦部分は書紀編纂時に計算されたものと考えられ、
その部分のもとの記録が春秋年(二倍年暦)だったのでは、と想定する人も多い
そのため、雄略天皇以前の対応は見出しにくくなるが、大陸との往来が仁徳~安康紀にも
記されており、倭の五王が大和朝廷の大王であることは、定説となっている

415:日本@名無史さん
18/07/18 19:34:52.24 .net
和歌山の日前神宮・國懸神宮のご神体は、日像鏡と日矛鏡で、
八咫鏡の前に作った試作品の鏡とされている
こういう八咫鏡に連なる鏡が、近畿にある
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
そして、>>881
>伊勢の八咫の鏡の箱を入れるオケの大きさが平原の鏡と一致するんだよね。
などと書いているが、神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に
「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、
蓋口径九寸であると記録されているそうだ
また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、
明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、
その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、
円の直径は九寸としている。
この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう
どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない
八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな

416:日本@名無史さん
18/07/18 19:35:39.56 .net
>時代とかが違う遺跡が含まれているから、たまたま三雲地区にあるというだけで、別々に数えることは不適切ではない。
>>525
「また、奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
 182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵 」
って書いてあるだろ?
唐子・鍵遺跡は、唐子と鍵にまたがる大遺跡で、かつ、弥生時代前期から古墳時代に至るまで
拠点集落として存続した、異なる時代の遺物もてんこ盛りに出る遺跡だけれど、
奈良県の(というか田原本町のかな?)の、データベースへの登録方針だと「1件」になる
唐子鍵遺跡と、三雲遺跡群では、唐子鍵の方が遺跡の範囲、存続期間ともに長いけれど、
それが、24倍�


417:フ件数の差で登録されている データベースの検索件数で福岡が多いっていうのは意味がないだろ?



418:日本@名無史さん
18/07/18 19:36:55.36 .net
>>394
「魏志倭人伝には
 卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
 と書かれている
 つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ 」
これが、後の古墳時代につながる様相をそのまま記したものなのは、異論ないだろ?
大きな古墳を作れないところは、無視してOKだよ

419:日本@名無史さん
18/07/18 19:37:17.51 .net
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、どうしても見劣りする
伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある
平原遺跡の案内看板の解説文では、1号墓の墳丘サイズは長さ約13メートル幅8メートルの方形周溝墓

420:日本@名無史さん
18/07/18 19:37:39.93 .net
耳璫・耳飾りとされている「背紺色透明なガラス連玉」の2000年の報告での分析結果
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
URLリンク(repository.nabunken.go.jp)
これによると、
「本試料を顕微鏡観察したところ、重層ガラスであることが明らかになった。」
「孔に平行する断面を観察したところ二層構造を有し、孔に近い内側は大小多量の気泡を含むガラス層、
 その外側には気泡をほとんど含まないガラス層で形成していた。」
「このような構造を成すガラスは、古墳時代の遺跡から発見されている、いわゆる「金層」ガラスである。
 金層ガラスの多くは金層を含むものは少なく、内側孔に近い部分には、気泡が多量に含まれるガラスを使用して、
 その外層には褐色透明なガラスが用いられており、構造や材質に多くの共通点があり、加工法も同様であると考えられた。」
これを素直に読むと、このガラス連玉は古墳時代に位置づけるのが、相応ということになる
またその成分は
「本試料の材質は、基礎ガラス材としてはソーダ石灰ガラス(Na20-CaO-SiO2 system)で、
 これにコバルトイオンによって着色したものと考えられた( 表2) 。
 しかし、 MnO含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスが、弥生時代の遺跡から出土したのは初めてで、その多くは古墳時代の後期に見つかっているもの」
とあり、この耳飾りだけに頼って編年するのであれば、編年は埋葬主体の出土物で最も新しいものに合わせるという原則に従って、平原1号墓はかなり新しく古墳時代後期でもおかしくないことになる
古墳時代後期というのは、例えば藤ノ木古墳から金層ガラスが出ている
現在のところ、平原1号墓の編年は出土鏡が国産であてにならないため、周溝から出た土器の編年に頼っている
1号墓の周溝からは弥生後期前半と終末期の土器片が出土、2号墓南側から庄内併行期と思われる土器の破片が出土しており、1号墓と2号墓が周溝を共有しているため、同時代の築造と考えられている
で、現在は、この庄内平行期の土器の破片が平原1号墓の編年の理由になっているのだが、これと金層ガラスの関係をどう考えるかによって、編年が変わることになる

421:日本@名無史さん
18/07/18 19:37:54.97 .net
平原1号墓の編年で、もうひとつ考えなければならないのが、周溝の土坑墓である
原田大六氏はこの土壙墓を殉死者の墓と考えておられたそうだが、現在では土壙墓は周溝が埋没した後に造られたものと考えられている
周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年~250年前後)で問題ないので、先の2号墓周溝からの庄内併行期の土器片と時代が一致する
となると、本体である1号墓と土坑墓では「周溝が埋没」するほどの時間差があるので、1号墓の編年は弥生時代終末よりもかなり古くしなければならない
耳飾りからはより新しく想定され、土坑墓遺物からはより古いほうが妥当性がある
肝心の副葬品は国産鏡で編年のあてにならない
平原一号墓はもう少し、検討が必要だと思う

422:日本@名無史さん
18/07/18 19:39:07.57 .net
歩は、本来身体の大きさで決まる身体尺だから、大きく変わることはできない
そして、径百歩を報告したと思われる張政は塞曹掾史=掌辺塞之職
国境の要塞の職を司る政治職員。掾史=副官
ということで、軍政、補給や兵站に関わる魏の役人
そういう立場の人が、魏の度量衡の体系から離れた『歩』で記録したと考えるのは、
ある意味常軌を逸している
そもそも東夷伝里などというものは、一部の九州説の人の心の中にしかない
それに合わせた「東夷歩」を想定しても、無意味
そして、27メートルでも、平原1号墓はその半分以下
どうやっても、平原1号墓は卑弥呼の墓にはならないし、
平原1号墓を除けば、北部九州に3世紀の王墓候補すらない状況になる

423:日本@名無史さん
18/07/18 19:40:06.72 .net
もともと、日本の皇室、大王、天皇は、日本の豪族の総本家という位置づけで、
三種の神器の組合せは、広く豪族の古墳の副葬品として共有されているし、
日本書紀にも皇統とは無関係な「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」の記事がある
>>404>>405を参照
平原1号墓の内向花文鏡を皇室の神鏡の起源だという方が、よほど貶める意図を感じる
皇室の神鏡は破壊されて埋められたものの同類と言っていることになるからな

424:日本@名無史さん
18/07/18 19:42:45.29 .net
日本の神話というのも朝鮮人(日本という国は無かった頃の話?)の話でしょ、
どういうことだと思う

425:日本@名無史さん
18/07/18 19:43:06.46 .net
日本では、確実な殉葬が確認できた墳墓は一つもない
ちゃんとした学会で検討された内容ではないけれど、
吉武高木遺跡や吉野ヶ里遺跡で見られる庶民の集団墓である甕棺墓列を見て
殉葬墓とかんちがいした可能性がある
あるいは、弥生時代のある時期までは、方形周溝墓にしても特定家族墓にしても、
一つの墓域、墳丘に、順次追葬しているので、それを殉葬とみなした可能性もある
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓には、14の埋葬主体がある
そういう記録が光武帝への朝貢や、帥升等の朝貢の時の記録として残っていて、
倭王の墓なら当然殉葬者があるはず、と考えられたんじゃないか、
くらいまでしかいえない
考古学的状況としては、確実な大規模殉葬例は、日本にはない
それが現実

426:日本@名無史さん
18/07/18 19:44:27.99 .net
魏志倭人伝
(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実
千々賀遺跡   北東30キロ   三雲遺跡群
        1里=60メートル
魏志倭人伝
(伊都国から) 東南百里    至奴國  ちょっと語順入れ替え
現実
三雲遺跡群   東北東18キロ  比恵・那珂遺跡群
        1里=180メートル
方角も、距離もメタメタじゃないか?
現実に合っていないよ?
3倍違うものが、一つの単位だというのは通らない
誤差とは認められないだろ

427:日本@名無史さん
18/07/18 19:45:27.21 .net
話を作ったり(ねつ造。偽造。)するなという意味、
日本起源のモノなんて何も無いんだよ

428:日本@名無史さん
18/07/18 19:50:47.07 .net
>>408
「大作冢」
大きな冢じゃないよ、誤訳です

429:日本@名無史さん
18/07/18 19:54:20.05 .net
『ねつ造』
日本のマスメディアなどの話をすると、
ほとんど犯罪者、犯罪関係者
よく恥ずかしくもなく、
テレビ(メディア)などに出られるな

430:日本@名無史さん
18/07/18 19:55:34.15 .net
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美)   10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8~135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1~306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
この範囲に、あなたの言う短里の値が入る確率が95%という意味です。
11から136mとか、-73~306mとか、「意味のある数値」だと思いますか?
これが正しい統計のやり方です。nが小さくて、ばらつきが大きいデータでは、いかに統計処理をしても信頼性のある数値は出ないんですよ。

431:日本@名無史さん
18/07/18 19:59:53.93 .net
まず、第一に、漢魏尺の度量衡に「咫」は入っていない
周代には「咫」は、女性の手を広げた大きさ(おそらく親指から人差し指まで)という
身体尺があった
しかし、周朝の権威が衰え、各地の諸侯が自立した春秋・戦国時代に、各国が
勝手に分国法を使うようになり、度量衡もばらばらになって長さの定義もごちゃごちゃになった
それを、秦の始皇帝が改めて、度量衡を統一した
その時点で計量単位としての「咫」は使われなくなっているし、度量衡に組み込まれていない
前漢の紀元前91年成立の史記の時点で伝承の中で「尺有咫」と
使われているのを除くと、「咫」は「咫尺」という熟語以外では
使われなくなっている
そして、円周を測ることに「咫」が使われている例は、一例もない
円周を計るのに便利な単位だから「咫」が使われたというのは、まったく根拠がない

432:日本@名無史さん
18/07/18 20:03:01.34 .net
三種の神器の組合せは、そこらの古墳の副葬品として普通に見られる
 事実 山口県の赤妻古墳、山梨県の笛吹市平林2号墳 など
八咫鏡という名称は、皇統のレガリア以外の大鏡にも普通名詞として使われている
 事実 雄略紀「別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、
        使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請」
 おまけ 皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」も日本書紀にある
    垂仁紀「是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」」
本物の「八咫鏡」である伊勢の御神鏡は、面径が漢尺の二尺ではない
 これは推測
 八咫鏡を入れる入れ物の実見記録として口径九寸の黄金鑵が記載されている
 その外側の御樋代は内径が一尺六寸三分で、49センチで
 面径46.5センチの鏡を入れるにはぎりぎりすぎるのも状況証拠といえる
つまり、面径二尺と主張することは、皇統のレガリアとのつながりにおいて意味がないし
三種の神器の組合せも「倭王の墓」を意味しない
そして、「八咫鏡」という名称も、皇統の皇位の証をそのままで意味するものではない
その上で、円形の鏡の周囲を「計ったら」というのが、
可能性すらほぼない恣意的すぎる「仮定」だし、
漢尺の体系にない「咫」を、「漢尺の八寸」として計算するのもご都合主義
結局は「だったらいいな」の結論ありきの数合わせなんだよ

433:日本@名無史さん
18/07/18 20:03:53.90 .net
周歩が身体尺で、135センチ程度とされている
清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》から引用すると
王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
となっていて、
周代でも古い時代は、周尺の八尺を歩としてたが、
今は周尺の六尺四分を歩としている
と書かれている
これで、歩=135センチから換算すると
八尺=歩=135センチなら 一尺=16.9センチ
六尺四分=135センチなら 一尺=21.1センチ
どちらにしても、漢尺の23センチとは異なるし、
咫が周尺である以上、平原1号墓出土鏡は、面径二尺にはならない
したがって、円周も八咫にはならないんだよ
九州説のいう「咫」の長さが異なっていたってことだ
この数値から計算すると、咫=16.9センチ
八咫=135センチで、平原1号墓の146センチとは合わない
146センチは、「8.63咫」だね
都合のいい数字を恣意的に持ってくるのでなければ、こんなものだよ

434:日本@名無史さん
18/07/18 20:05:09.60 .net
何度も何度も書くけれど、半径が一尺、あるいは二尺ちょうどじゃないと
使い道がない単位が、単位として成立する余地はないっての
それに、円周長が最初の定義だったら、何をさておき
「円周長を咫で示した例」が多数あるはずだが、
「一例たりともない」
この、不整合を説明できない限り、
「咫の最初の定義は円周長」という主張の「説得力はゼロ」だよ

435:日本@名無史さん
18/07/18 20:06:44.58 .net
例えば、壱岐国の原の辻遺跡でも、畿内第V様式の影響受けた土器が出ているし、
縄文時代から広域の交流・流通があったんだよ
URLリンク(www.city.iki.nagasaki.jp)
四隅突出型墳丘墓の範囲も広域だし、大型銅鐸の出る範囲も広域だよ
古来そういう広域交流の中で、倭人の領域=倭国がまとまりを持って存在している
九州説の連中だけ、倭国を小さくしたがるのは何なんだ?

436:日本@名無史さん
18/07/18 20:07:56.50 .net
同じ言語を使うとか、同じものを食べるとか、そういったことが民族・倭人としてのまとまり
国としてのまとまりは、首長層の卓越から王の台頭を経て、国になっていく
九州説のいう「九州のみの倭国」は、列島内の他国の情報が大陸に伝わらないことが必要条件だから
交易・交流も否定しないと通用しない
3世紀当時、北部九州より、吉備、出雲、丹波、大和の方が、王権の発達が進んでいて、
より強い王(地域首長)が存在している
その状態で、各地からの交易で各地の人が北部九州にも来ていたら、北部九州の首長が
倭国王と認められるのは無理だよ

437:日本@名無史さん
18/07/18 20:09:47.31 .net
>東の海の先にも倭人がいると書いてあり
九州説はいつもこうやってごまかすよな?
原文は「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。」
渡海「千余里」だよ
どんなにがんばっても、これを本州に当てるのは無理な話
漢書地理志に見える魏略逸文では
「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」と冒頭の文に続けて
「度海千里復有国」とあり、千里渡ったところにも倭種に国がある、というだけの文になっている
千里渡って倭人の国がある、というのは、
半島から対馬、壱岐と千里渡ったところの島も倭種の国、というのを表していると見て矛盾がない

438:日本@名無史さん
18/07/18 20:11:21.20 .net
だいたい、咫が漢尺の八寸って言ってる連中が、短里だの東夷伝里だのを主張するのが噴飯もの
漢尺の長さが正確に伝わっていて、既に使われなくなっている咫が周尺の八寸であることも
知っていて、それなのに6尺が歩、300歩が里っていうのが伝わっていないと主張できるのが
本当にご都合主義
さらに記録するのが魏の建忠校尉梯儁、塞曹掾史張政なんだから、魏晋里を知らない訳がないし
魏晋里以外で記録する理由がない

439:日本@名無史さん
18/07/18 20:13:51.75 .net
後漢書の「自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺自朱儒
東南行舩一年至裸國黒齒國使驛所傳極於此矣」の「極」は
淮南子: 時則訓 の「東方之極」の「極」なんだよ
「使驛所傳、極於此矣」は
「使譯の傳うる所、此に於いて極まる。」
要するに、情報が伝わってきた(得られた)ところはここが限界=「極」ってこと
東の世界の端を南に行ったところに「黒歯國」があって、
南の世界の端を西へ行くところに「裸国」があるからね
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「黒齒民」、玄股民、毛民、勞民;

440:日本@名無史さん
18/07/18 20:14:12.73 .net
記紀では伊都國は村扱い(在筑紫國之伊斗村也:仲哀記)で、
國造すら置かれていないような地域
國造ではなく県主レベル(筑紫伊覩縣主祖五十迹手:神功紀)

441:日本@名無史さん
18/07/18 20:14:33.29 .net
端山古墳 墳丘長78.5メートル周濠を含むと全長は約99メートル
築山古墳 墳丘長60メートル周濠を含むと全長は約105メートル
>大きい古墳だから住民の多いところには
>作れないという話をしてるのだが?
畿内の大古墳と比べたらちゃちいものだが、
かなりの面積をつぶさないと作れないだろ?
住居いくつ分になるかな?
でも、伊都國中枢に作ってある
これらが、伊都國王家筋の墳墓
これと比べても平原1号墓はしょぼい
そんなのを卑弥呼の墓と言い張るのが惨めにならないんだからすごいよな

442:日本@名無史さん
18/07/18 20:14:57.13 .net
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え
四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある
オレは纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
これ全部、弥生時代だよな?
北部九州は、地方王権の伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ?

443:日本@名無史さん
18/07/18 20:15:20.32 .net
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略   「自帯方至女國万二千余里」
後漢書  「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書   「去帶方萬二千餘里」
隋書   「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書  「去京師一萬四千里」
新唐書  「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを
続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ

444:日本@名無史さん
18/07/18 20:15:47.98 .net
 魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
 末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね
 魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
 どちらかは間違いだね
 隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね
 旧唐書でも
 「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
  東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
 とあって、内容を確認すると
 陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
 「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
 となっているけれど
 実際には成都から安南は「東南」
 大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
 どうしてだろうね?
 探せばまだまだいくらでもあると思うよ
 大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

445:日本@名無史さん
18/07/18 20:16:21.43 .net
魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読
北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか
この時点で、伊都国にある平原1号墓が卑弥呼の墓というのは、ありえない

446:日本@名無史さん
18/07/18 20:16:45.09 .net
<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない

447:日本@名無史さん
18/07/18 20:17:03.77 .net
黒齒國は山海經にも出てくる伝説上の国だし、裸國も淮南子に出てくる世界の端の国
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「?齒民」、玄股民、毛民、勞民;
そして、前にも挙げた淮南子:時則訓を再掲すると
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。
魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない
墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」
そして東の端を南へ下っていくと「?齒民」がいて、
墬形訓の自西南至東南方の段落にある「裸國民」はさらに遠くの扱いになる
こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、
淮南子を参照して書いているのは明らかだな

448:日本@名無史さん
18/07/18 20:18:45.64 .net
地の果てまでが萬二千里というのは、>>436で淮南子の数字を出しているが、
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太皞、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少皞、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている

449:日本@名無史さん
18/07/18 20:20:25.15 .net
弥生終末期にあたる卑弥呼の時代と古墳時代は、「古墳を作るかどうか」以外は
何も違いがない、連続した一続きの時代だ
大きな混乱の痕跡もなく、広い範囲で一斉に古墳を作り始める
この「古墳を作る範囲」が、そのまま「倭国の範囲」
九州説が主張する北部九州も、古墳時代初期から畿内大古墳の2分の1、
3分の1サイズで相似形の古墳を作り始める
その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ

450:日本@名無史さん
18/07/18 20:21:06.80 .net
三角縁神獣鏡の全量を下賜鏡だと主張している人は一人もいない
逆に、魏との交渉を記念したものであるのは明白で、
それを記念する必要があるのは、魏との交渉をした当事者以外にはあり得ない
大陸からは三角縁神獣鏡は1枚も出ていないと言う人も多いが、
「三角縁」の「神獣画像」鏡は複数出ている
魏からの下賜鏡そのものは、発掘できない天皇陵治定の大王墓クラスの
副葬品だろう

451:日本@名無史さん
18/07/18 20:22:04.76 .net
500枚もあるんだから、仿世鏡が大部分なのは当たり前だろう
そして、魏から親魏倭王に除せられたのが九州王朝なら、
「なぜその記念鏡を作ったのが『九州王朝ではない』のか?」
一番簡単な答えは、九州王朝なんていうものはなくて、
親魏倭王に除せられた卑弥呼も九州にいた王ではない、ってことだ
これが一番シンプルで分かりやすい

452:日本@名無史さん
18/07/18 20:22:48.67 .net
>>427
誤訳です

453:日本@名無史さん
18/07/18 20:23:33.69 .net
実測不可能なところは、「つじつま合わせの作った数字」なんだよ
そして、萬二千里は、邪馬台国までではなく「女王国」まで
そして、魏志倭人伝の旅程は、後漢代の古い記録と魏使の報告による新しい記録を
ごちゃ混ぜにまとめてある
そこにさらに、世界の端まで萬二千里という淮南子にも書かれている中華世界の世界観と
倭国は儋耳朱崖の近くの南の国という思い込みを混ぜ込んで魏志倭人伝は書かれている
おそらく後漢代の帥升等の朝貢時で既に万里の彼方からの朝貢とされて、
対馬海峡を渡るまでが一萬里になるように数字が作られていて、
そこに末慮国-伊都国間ではない東南陸行五百里が付けられて、
計算が合わなくなって水行と陸行が日数表示になったまであってもおかしくない
まあ、北部九州から千三百里で魏晋里で畿内まで届くので特に問題はないと言えばないけれど

454:日本@名無史さん
18/07/18 20:24:35.37 .net
三国志は書かれた当初は私撰史書
陳寿は役人だけれど、公務で三国志を撰述した訳ではない
正史と認定されたのは、唐代になってから
というか、王朝としての編纂事業として、正史を作るようになったのが
唐朝以降なんだけれど

455:日本@名無史さん
18/07/18 20:35:49.23 .net
>>431
>これらが、伊都國王家筋の墳墓
伊都国王家なんてものを捏造するなよ。
伊都にいたのは倭国王家だよ。
平原遺跡の後で伊都が寂れるのは、倭国の王宮が筑紫の中で移動するからだろ。

456:日本@名無史さん
18/07/18 20:36:07.17 .net
>>444
陳寿の死後に晋朝に公認されてるよ

457:日本@名無史さん
18/07/18 20:36:39.12 .net
>>427
>千里渡って倭人の国がある、というのは、
>半島から対馬、壱岐と千里渡ったところの島も倭種の国、というのを表していると見て矛盾がない
千里渡って倭人の国がある、というのは、
倭国(阿波)から紀伊水道を千里渡ったところの倭種の国、というのを表していると見て矛盾がない  @阿波

458:日本@名無史さん
18/07/18 20:37:22.74 .net
>>390
>唐子鍵遺跡 1件と三雲遺跡群24件を比べて、福岡県が24倍って言ってもしょうがないだろ?
福岡の遺跡は質でも量でも奈良をはるかに凌駕しているよ。

459:日本@名無史さん
18/07/18 20:40:21.85 .net
>>448
>福岡の遺跡は質でも量でも奈良をはるかに凌駕しているよ。
倭国(阿波)の遺跡は量では負けるが、質では福岡をはるかに凌駕しているよ。  @阿波

460:日本@名無史さん
18/07/18 20:59:13.10 .net
>>448
>福岡の遺跡は質でも量でも奈良をはるかに凌駕しているよ。
それを言うときの典拠としてたのは
「奈文研の遺跡データベースで検索した時のヒット数」だろ?
それの数は、自治体の件数の登録の仕方だからあてにならないって話

461:日本@名無史さん
18/07/18 21:00:43.12 .net
>>446
>陳寿の死後に晋朝に公認されてるよ
それが正史を意味しないんだよ
そして、実際ほぼ散逸状態で、まともな写本、伝本がほとんどない状態だった
まあ、魏略よりは残ってた、という言い方もできるけどね

462:日本@名無史さん
18/07/18 21:02:27.56 .net
>>450
どうでもよい遺跡の数を比べても意味ないでしょ。  @阿波

463:日本@名無史さん
18/07/18 21:10:27.99 .net
>>451
正史とは言ってない
でも私文書でもなくなったのよ
晋朝が公的に写本を作らせてるからね

464:日本@名無史さん
18/07/18 21:35:02.17 .net
>>453
>晋朝が公的に写本を作らせてるからね
つまり、晋朝の祖である司馬懿の功績を誇っているから誉められたと
そのための誇張が萬二千余里だよね
誇張であって、短里とか東夷伝里ではない
そして、正史ではないから、晋朝がつぶれると省みられなくなり、ほとんど写本も
伝えられなかった、と

465:日本@名無史さん
18/07/18 21:43:25.24 .net
晋代写本は出土してるよ
URLリンク(www.xjishi.com)

466:日本@名無史さん
18/07/18 21:55:16.56 .net
三角縁がすべて下賜鏡だと主張してる研究者はいるぞ
最近はかつての舶載鏡とボウ製鏡の区分は成り立ち難いとする論調が強まってる
つまり全三角縁中国鏡説

467:日本@名無史さん
18/07/18 21:56:56.28 .net
三角が呉産の銅・鉛を使ってるのは確定済み

468:日本@名無史さん
18/07/18 22:06:27.74 .net
>>457
中国鏡と同じ成分銅だとは聞いたことがあるが
呉の領域のものだとか特定されてるのか?

469:日本@名無史さん
18/07/18 22:06:38.08 .net
>>457
中国鏡と同じ成分の銅だとは聞いたことがあるが
呉の領域のものだとか特定されてるのか?

470:日本@名無史さん
18/07/18 22:22:37.62 .net
>>459
馬淵久夫論文

471:日本@名無史さん
18/07/18 22:30:17.58 .net
魏の領域に銅山がない。
特に呉にその銅山が奪われてからは魏の鏡は鉄鏡なのだ。

472:日本@名無史さん
18/07/18 22:57:25.99 .net
徐州は曹操による虐殺以降、ずっと曹操→魏の勢力圏

473:日本@名無史さん
18/07/18 23:02:52.16 .net
徐州産じゃなかったよ

474:日本@名無史さん
18/07/18 23:11:52.65 .net
つまり魏鏡説で何も問題がない

475:日本@名無史さん
18/07/18 23:13:24.44 .net
wiki
229年、孫権は皇帝に即位して元号を黄龍と改め、建業に遷都した。蜀漢では、原則論として孫権の即位を認めるべきではないから
同盟を破棄すべきとの意見が続出したが、諸葛亮の説得で孫権の即位を認め、改めて対等同盟を結んだ。また、魏を打ち破った後
のその支配区分として、徐州、豫州、幽州、青州は呉が、并州、涼州、冀州、?州は蜀漢が支配するものとし、司隸は函谷関を境
界線として、東は呉、西は蜀漢が占める取り決めをかわした。

476:日本@名無史さん
18/07/18 23:16:48.14 .net

間違えた

477:日本@名無史さん
18/07/18 23:33:31.21 .net
後漢時、徐州の治所は?(今の山東省?城)にあり、曹魏時は彭城(今の江蘇小徐州)に移った。
しかし、今の徐州一帯は、古より銅を産しない。
URLリンク(blog.livedoor.jp)

478:日本@名無史さん
18/07/19 05:44:17.36 .net
徐州で銅は出てないんだ

479:日本@名無史さん
18/07/19 12:36:34.09 .net
>>455
>晋代写本は出土してるよ
出土ってことは、正しく伝世しなかったってことじゃないの?
存在していたことと、それを伝える意思があったというのは別

480:日本@名無史さん
18/07/19 12:47:41.47 .net
伝世したから写本が伝わってるんでしょ

481:日本@名無史さん
18/07/19 14:08:13.98 .net
その写本が、数少なくて、いろいろと怪しい
邪馬「壹」國とか
晋代写本は、晋代で写本(維持・保存)が止まってるから晋代写本なんだろ?

482:日本@名無史さん
18/07/19 14:42:59.61 .net
何が言いたいんだろ
みんなそんなもんだろうに

483:日本@名無史さん
18/07/19 20:30:29.76 .net
さん‐し【三史】
中国古代の三つの史書。史記・漢書(かんじょ)・後漢書をいう。
後漢書の代わりに東観漢記を当てることもある。
三国志は、後漢書よりも成立が早いのに、三史には入れてもらえない
三国志(魏志倭人伝を含む)は、そこまで出来のいい史書という訳ではないことを
念頭において読まないとってこと

484:日本@名無史さん
18/07/19 23:15:59.61 .net
中国に「三史」という定義はない。
『続日本紀』巻30の神護景雲3年(769


485:年)10月10日の条に称徳天皇が「府庫は但だ五経を蓄えるのみ、 未だ三史(『史記』・『漢書』・『後漢書』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、 列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」という大宰府の請に応じて『史記』『漢書』 『後漢書』を下賜している。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例にすぎない。



486:日本@名無史さん
18/07/20 06:56:58.00 .net
>>474
>中国に「三史」という定義はない。
定義とか、そういう話じゃないんだよw

487:日本@名無史さん
18/07/20 08:06:57.59 .net
アタマ悪い奴

488:日本@名無史さん
18/07/21 07:34:55.84 .net
2016/10/17
【歴史】「巨大な墳墓、年号が入った中国鏡は畿内でしか見つかっていない」 ネット介し「邪馬台国」論争、吉野ケ里と奈良つなぎ★2©2ch.net
URLリンク(da)<)
邪馬台国畿内説 Part362
スレリンク(history板)

489:日本@名無史さん
18/07/21 07:35:20.12 .net
2011/07/26
【滋賀】「邪馬台国は守山にあった!」とする近江説を盛り上げる動き…銅鐸出土で
URLリンク(ra)<)●ily.2ch.sc/test/read.cgi/newsp●lus/1476695491/
【考古学】大型建物や鍜冶工房群発見=邪馬台国時代、国内有数規模-滋賀 [無断転載禁止]©2ch.net
スレリンク(scienceplus板:6番)-9,14,15,19,20
URLリンク(log)<)●ily.2ch.sc/test/read.cgi/newsp●lus/1476700742/171,322,324,346,373,374,677-679,790,815
URLリンク(log)<)●ily.2ch.sc/test/read.cgi/newsp●lus/1477053967/31
邪馬台国近江説◇論争に終止符!
スレリンク(history板)

490:日本@名無史さん
18/07/21 07:35:40.08 .net
★★ 邪馬台国は【葛城】である【5】 ★★
スレリンク(history板)
邪馬台国は畿内だけど卑弥呼は九州説
スレリンク(history板)
考古学者が明かす邪馬台国畿内説破綻の本当の理由
スレリンク(history板)

491:日本@名無史さん
18/07/21 07:36:02.78 .net
2018/02/18
【考古学】古墳時代のすずり出土 福岡市の比恵遺跡群 「邪馬台国時代に奴国で文字使用」★2
URLリンク(as)<)
邪馬台国は九州にあった78
スレリンク(history板)
(みやま市)邪馬台国九州説(筑紫筑後糸島)
スレリンク(history板)
邪馬台国北部九州説の雑談用(伊都が首都だっちゃ)
スレリンク(history板)

492:日本@名無史さん
18/07/21 07:36:27.92 .net
2016/10/06
【歴史】在野精神が大胆な考察生む「邪馬台国は熊本にあった!“魏志倭人伝”後世改ざん説で見える邪馬台国」
URLリンク(da)<)
もうあきらめろよ邪馬台国は西都原 [無断転載禁止]©2ch.net
スレリンク(history板)
邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった
スレリンク(history板:540番)-545

493:日本@名無史さん
18/07/21 07:37:01.36 .net
邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]©2ch.net
スレリンク(history板)
ーー邪馬台国山形説 part5ーー [転載禁止]©2ch.net
スレリンク(history板)
邪馬台国の場所がわかった。。
スレリンク(history板)
♪邪馬台国ドンと来い!♪138
スレリンク(history板:261番)-265

494:日本@名無史さん
18/07/21 07:55:29.20 .net
邪馬台国安芸国説 [転載禁止](c)2ch.net
スレリンク(history板)

495:日本@名無史さん
18/07/21 07:55:46.57 .net
漢委奴国王印 いわゆる金印
スレリンク(history板)
奴国は何処に存在したと推測しますか?
スレリンク(history板)
倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰物語 について
スレリンク(history板)
倭奴国はあっても倭の奴国なんてなかった説
スレリンク(history板)
【久野】狗奴国は「クノ国」の事である【久能】 [無断転載禁止]©2ch.net
スレリンク(history板)
【衝撃真実】狗奴国は富士王朝なり!Part1
スレリンク(history板)

邪馬台の全解決
スレリンク(history板)
もう邪馬台国板でも作れよ [無断転載禁止]©2ch.net
スレリンク(history板)

496:日本@名無史さん
18/07/21 07:56:00.55 .net
>>477
邪馬台国畿内説 Part363
スレリンク(history板)

>>480
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13
スレリンク(history板)
伊都国東遷スレ 8
スレリンク(history板)

497:日本@名無史さん
18/07/23 22:04:05.26 .net
だいぶ畿内説への背乗りスレは整理できてきただろ?

498:日本@名無史さん
18/07/26 10:23:30.86 .net
>>477 >>485
邪馬台国纏向説
スレリンク(history板)
邪馬台国纏向説 part2
スレリンク(history板)
邪馬台国畿内説 Part364
スレリンク(history板)

499:日本@名無史さん
18/07/26 11:28:14.45 .net
勝手に仕切るなよ。

500:日本@名無史さん
18/07/30 17:57:41.16 .net
>>487
そのスレ全部、もう終わってるww

501:日本@名無史さん
18/07/31 18:21:47.98 .net
>>487
邪馬台国畿内説 Part365
スレリンク(history板)
>>485
伊都国東遷スレ 9
スレリンク(history板)

502:日本@名無史さん
18/07/31 18:23:56.64 .net
>>482
邪馬台国沖縄(琉球)説 Part1
スレリンク(history板)

503:日本@名無史さん
18/08/01 15:29:13.85 .net
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え、四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
北部九州でも、
須玖岡本遺跡D地点王墓や三雲南小路遺跡王墓は、30メートル四方程度の墳丘があるし
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓も南北約40メートル、東西約27メートルの大きさがある

504:日本@名無史さん
18/08/01 15:29:31.77 .net
捏造、改竄、詭弁で正しいと言い張っても無意味

・短里とかいう架空の単位を捏造
・1里あたりの距離は区間によってバラバラであるにもかかわらず、短里とやらがすべてに当てはまると強弁
・末慮国から伊都国への方角違いを呼子を起点にして正しいとする意味不明な詭弁
・末慮国から伊都国への距離も末慮国の入り口から伊都国の入り口までの距離だという珍解釈
(そんな珍解釈をすると往路と復路で距離が異なってしまう矛盾があることに気づかない低脳ぶり)
・国の中に別の国があるという二重帳簿詐欺
・陸行一月を陸行一日に改竄

505:日本@名無史さん
18/08/01 15:29:57.89 .net
神鏡座事
一面者。從月天顯現之明鏡。
 圓形座。三光天衆五飛龍守護神五座。是天鏡尊之鑄造白銅寶鏡也。
 月天所作三面之内也。
崇祭止由氣宮是也。
大田命曰久。崇神天皇御宇止由氣皇太神天降坐弖。天照皇太神與一處雙坐。
于時從天上御隨身之寶鏡是也。神代天御中主神所授白銅鏡也。
是國常立尊所化神天鏡尊。月殿居所鑄造之鏡也。三才三面之内。一面是也。
今二面者。天鏡尊子天萬尊傳持給是。次沫蕩尊。次伊弉諾伊弉冉傳持給天。
神賀吉詞白賜弖。日神月神所化乃眞經津鏡是也。天地開闢之明鏡也。
三才所顯之寶鏡也。當受之以清浄。面求之以神心。視之以無相無位。
因以爲神明之正躰也。今崇祭一面荒祭宮御靈。一面多賀宮御靈坐。
已上三面辭竟奉支。
一面者。八百萬神等以石凝姥神奉鑄寶鏡是也。是則崇祭伊勢太神宮也
 一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
 中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。
一面者。日前宮座也。石凝姥神鑄造鏡也。初度所鑄不合諸神意。紀伊國日前神是也。
已上。神代寶鏡是也。

506:日本@名無史さん
18/08/07 13:36:26.05 .net
このスレも、存在意義ないよな

507:日本@名無史さん
18/08/07 13:41:10.11 .net
九州説と同じだよ

508:日本@名無史さん
18/08/07 19:29:17.85 .net
かなりの長命スレになってるけど、要するに人がいないし議論もないってことだよな

509:日本@名無史さん
18/08/20 19:26:58.20 .net
東京から北海道までの最短距離だと 640キロ弱
玄関口の函館までだと       680キロ弱
中心都市(道都)の札幌までだと  830キロ
最遠の稚内だと          1100キロ
道央の真ん中辺までで       900キロ
東京から北海道までの距離は、640キロから1100キロまでの幅がある
これを100キロ単位の丸めた数字で表現すると
東京から北海道まで900キロくらい となる
起点・東京より、北海道に至るに900余粁
自郡至女王國萬二千餘里
自東京至北海道九百餘粁

510:日本@名無史さん
18/08/24 09:40:54.23 .net
・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。瑪瑙や琥珀の玉類
は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化さ
れ、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下
がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。周溝から鉢形の土器が
出土しているが公表されていない。」

511:日本@名無史さん
18/08/24 09:41:23.11 .net
・柳田康雄「弥生時代王権論」2013
(p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、
 235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」

512:日本@名無史さん
18/08/24 09:41:39.92 .net
・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
>>>「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。

513:日本@名無史さん
18/08/24 09:42:18.91 .net
土器は、p199
私も当初は「三・四世紀の土器と鏡」という論文で、
周溝から古式土師器と共存する土器(西新式土器)が出土していることから
古墳前期としたことがある。
ところが出土品や図面が整理されていくなかで、
この土器は周溝が埋没した後に掘り込まれた土壙墓に伴なうことが判明してからは、
「平原墳墓の意味」や「平原王墓の性格」などの論考で、鏡を初めとした副葬品の比較検討から
導いた弥生時代終末説を貫いている。

514:日本@名無史さん
18/08/24 09:42:39.01 .net
p208
今回の出土銅鏡の研究から、平原王墓の年代が後漢末に対応する紀元二〇〇年頃であること
が認められるとすれば、卑弥呼の墓である根拠は当然のことながら否定される

515:日本@名無史さん
18/08/24 09:43:07.77 .net
久住は、平原1号を
埋葬主体と鉄鏃等から古墳時代に近いⅠA期の築造と考える
ⅠA期は、誰か貼ってくれてた編年
URLリンク(textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp)

柳田と同じ200年頃まで

516:日本@名無史さん
18/08/26 18:47:02.37 .net
・邪馬台国の発音に近い地名
 ⇒ ヤマト国そのもの
・戸数7万戸
 ⇒ 大和+河内~環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
   戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
   四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる
・30近くの国々の盟主
 ⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積 
   広い範囲からの人が集まっている証拠  
 ⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
   それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
   この墓制の共通化を主導した盟主と認められる
・宮室、楼観、城柵
 ⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
   それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
 ⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している
・卑弥呼の墓径百歩
 ⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
   それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
   どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
   いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い
・徇葬百人
 ⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
   家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
   誤解した可能性がある
畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できるんだが?

517:日本@名無史さん
18/08/26 18:48:06.58 .net
そもそも九州説のいう項目は、邪馬台国と関係ない倭人一般、
倭国一般の風習風土であって、ある意味どうでもいい
そして邪馬台国固有の記述は、都合が悪いから無視する
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人

518:日本@名無史さん
18/08/26 18:50:39.23 .net
ベイズ統計を分かってないだろ
トルーポジティブとフォールスポジティブの確率が
「信用できるとき」にしか意味がないんだぞ
もう少し具体的に書くと
「鉄がある所が邪馬台国である確率」と
「鉄がない所が邪馬台国である確率」が、
データからの統計計算に入る前に、
「あらかじめ分かっていてしかも正しい」ときじゃないと意味がない
松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は、
東大退官後に聖学院大学に移られた先生で、バカなことを訊きに来た素人に
計算上はこうなるねっていう「意味のない机上の計算」を、リップサービス的に
示しただけだよ
「鉄がある所が邪馬台国である確率」
これがそもそも定義されてないし、
この数値をいじればどんな結果でも作れるんだよ
統計を知らない人間は簡単に騙されるww

519:日本@名無史さん
18/08/26 19:00:17.60 .net
統計をわかってないバカがまた意味のないことを。

520:日本@名無史さん
18/08/26 19:27:50.27 .net
>又渡一海千余里、至末盧国。。。
>東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。
東京の東大レベルの高等数学なぞ持ち出す前に、
伊都国はどこかを、色眼鏡外して読み取るべし。 ↑ これ、唐津の小学生が読んでも、行く先は佐賀平野だろ。

521:日本@名無史さん
18/08/27 12:28:11.20 .net
九州北部ばかり注目されて中南部はガン無視かよ?
と最近思う。

522:日本@名無史さん
18/08/27 12:44:32.52 .net
中部は狗奴国と投馬国ごあるじゃないか。

523:日本@名無史さん
18/08/27 20:14:57.66 .net
投馬国は半島南部って言う人がいるけどさ、
魏志倭人伝の冒頭で、「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。」って書いてあるのを
無視してるだろ?
投馬国5万戸、邪馬台国7万戸が、それぞれ半島と日本列島の女王国の範囲とか言ってるけれど
総数12万戸のうち、5万戸が帯方郡と地続きの半島上にあったら「帯方東南『大海』之中」にもならないし
「山島に依りて」という表現にも合わない
投馬国を半島上に持ってくるのは、九州説の中でも批判されている無理読みだよ

524:日本@名無史さん
18/08/27 20:26:44.12 .net
>>506
>統計をわかってないバカがまた意味のないことを。
オウム返しってことは、ザラコク並みのバカだな?wwwwww
統計を分かっているなら、具体的にどこがおかしいがあげてみな
バカに限って虚勢を張るんだよなw

525:日本@名無史さん
18/08/27 20:29:04.17 .net
古墳から出土した大型鏡としては、
1位 「鼉龍鏡」44.5センチ 山口 柳井茶臼山古墳
URLリンク(ja.wikipedia.org)

2位 「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
URLリンク(shoryobu.kunaicho.go.jp)
3位 「鼉龍鏡」38.8センチ 出土地不明だが1位と同じ「鼉龍鏡」
URLリンク(www.emuseum.jp)
4位 「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
URLリンク(lh5.googleusercontent.com)

5位 「勾玉文鏡」35.7センチ 大阪紫金山古墳出土
URLリンク(lh6.googleusercontent.com)

6位 「変形方格規矩鏡」34.9センチ 佐紀陵山古墳出土
URLリンク(shoryobu.kunaicho.go.jp)
7位 「直弧文帯縁内行花文鏡」34.3センチ 佐紀陵山古墳出土
URLリンク(shoryobu.kunaicho.go.jp)
8位 「変形方格規矩鏡」32.7センチ 佐紀陵山古墳出土
URLリンク(shoryobu.kunaicho.go.jp)
9位 「四仏四獣鏡」30.4センチ 千葉 祇園大塚山古墳出土
URLリンク(shoryobu.kunaicho.go.jp)

526:日本@名無史さん
18/08/28 17:32:37.00 .net
>>512
中国人が読むとそう読めるらしいよ

527:日本@名無史さん
18/08/28 23:55:00.36 .net
>>515
>中国人が読むとそう読めるらしいよ
そう主張するなら、中国人が読んでそうなるという根拠を
誰でも確認できる形で具体的に示してね

528:日本@名無史さん
18/08/28 23:55:31.60 .net
小規模河川の川の水行は、大陸正史に一切書かれていない
川での移動は、川を遡るときは「泝流」下るときは「順流」が主に用いられ、具体的な川を出すときは「泝漢水」のように用いる

529:日本@名無史さん
18/08/30 11:08:47.86 .net
盗掘後の残り物だけで桜井茶臼山古墳からは
判定できたものだけで81面が出土しており一つの墳墓からの出土では、
枚数、鏡種ともに最高数だよ
その内訳は
三角縁神獣鏡       26面
内行花文鏡(国産)    10面
内行花文鏡(舶載)     9面
画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 16面
半肉彫神獣鏡        5面
環状乳神獣鏡        4面
だ龍鏡           4面
細線獣帯鏡         3面
方格規矩鏡         2面
単き鏡           1面
盤龍鏡           1面
副葬されたのは古墳時代でも、かなり古い鏡種も多く出ている
筑紫の勢力が進出したのだとしたら、
どうして平原1号墓の時に埋能しなかったのかな?
平原遺跡は、仿製鏡がてんこ盛りなんだけど?

530:日本@名無史さん
18/08/30 13:31:25.22 .net
卑弥呼は自分が造らせた新しいピカピカの鏡の方を好んだんだよ。
もう漢は滅んでいたから、漢からもらった鏡にこだわる理由もないしね。
茶臼山にあったのは卑弥呼が好まなかった中古品と、卑弥呼より後世の粗製乱造の三角縁。
それでも、筑紫から進出した王家の末裔であることは間違いない。

531:日本@名無史さん
18/08/30 19:41:00.24 .net
妄想を根拠に断定w
おかしさもここに際まれりw

532:日本@名無史さん
18/08/30 20:38:44.91 .net
>>520
反論になっていないよ。
伊都説は考古学的に妥当だ。

533:日本@名無史さん
18/08/31 00:21:09.48 .net
>>519
>卑弥呼は自分が造らせた新しいピカピカの鏡の方を好んだんだよ。
贈られたのは新しいピカピカの魏鏡だろ
その後も朝貢してるのに、それを鋳つぶして新しい鏡を作りましたとか、
まじめに考えてないだろ?

534:日本@名無史さん
18/08/31 01:34:21.15 .net
>>521
伊都クズの言う「考古学的」が考古学界で相手にされていないトンデモであることは既にバレている

535:日本@名無史さん
18/08/31 17:05:01.68 .net
>>521
>伊都説は考古学的に妥当だ。
考古学的に妥当だとする、根拠・遺物を一つでも二つでも挙げてくれ
順に否定してあげるから

536:日本@名無史さん
18/09/19 16:22:42.40 .net
ヤマトンヤマトンヤマトントン♪

537:日本@名無史さん
18/09/19 16:35:02.29 .net
キナイコシって一日中張り付いているの?
無職プーなの?

538:日本@名無史さん
18/09/19 18:23:04.85 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

539:日本@名無史さん
18/09/19 19:35:22.34 .net
>>526
そうですね

540:日本@名無史さん
18/09/19 21:26:36.51 .net
で、伊都説が考古学的に妥当だという「具体的な根拠・遺物」は?

541:日本@名無史さん
18/09/19 23:59:30.28 .net
三種の神器

542:日本@名無史さん
18/09/20 00:45:51.94 .net
三種の神器が弥生にさかのぼるなんて考えている研究者はいない
酒井利信「三種の神器に関する研究:『剣の観念』の中世的展開」『武道学研究』36-1、2003年
(前略)
三種の神器に関する先行研究はおびただしい数にのぼり、本論の論旨において重要なも
のも多くあるが9)、これらを全て紹介することは不可能であるため、後に本文中で必要に
応じて取り上げていくこととし、ここでは三種の神器について、潜在する問題点を示唆し
我々に新しい視点を与えてくれるものの代表として、津田左右吉氏の「日本古典の研究」10)
をあげておきたい。津田氏の業績で最も評価されるべきは、当時常識とされていた三種の神
器像に、はじめて学問的な批判を加えたことにある。以下、氏の論旨を要約する。氏の研究
の前提にあるものは、『日本書紀』(以後『紀』)の本文に神宝の記述がなく、第ニノー書に
鏡のことがみえ、『古事記』(以後『記』)と『紀』の第一ノー書には勾玉・鏡・剣が記され、
『古語拾遺』には鏡剣二種の神宝が記される、といったように色々異説があるのをどう解釈
するかという問題である。ここでは既に、従来常識とされていた固定的解釈からの脱却がみ
られる。このことは後世に与えた影響として非常に重要であると考えられる。氏は、諸々異
説が存在することから想起される問題点について自問自答する。具体的な事柄をあげてい
くと、先ず歴史的事実として神宝が何々であると思われていたか、という問題である。これ
については、勾玉・鏡・剣の三種の前に鏡・剣の二種の時代があったとしている。
(中略)

543:日本@名無史さん
18/09/20 00:46:35.26 .net
中略)
我々は、先にみた『帝室制度史』にみるような三種の神器像が唯一真実であり、既に定説
ででもあるかのような錯覚に陥りがちだが、実はその限りではないようだ。これら津田氏を
はじめとする先学が示唆するところの第一は、三種の神器の問題は決して一般的に理解さ
れているように決定的・固定的に捉えきれるものではないということである。いうまでもな
く社会制度、政治の問題であるため、その時代々々による政治的立場によりこれの捉えられ
方は流動的であった。つまり、史実さえ変えられた、あるいは歪められた可能性があるとい
うことである。このことを念頭に置いた解釈が必要である。従って、定説というものはいま
だ存在せず、また成立しにくいとも言える。
(後略)

544:日本@名無史さん
18/09/20 00:53:44.53 .net
考古学的に弥生応募から出土しているのに。
その学者は妄想家なのか?

545:日本@名無史さん
18/09/20 01:12:17.73 .net
一般的な三種の神器のイメージは日本書紀編纂段階ですら確立してたかどうか怪しいってこと
まあ、全てにおいてイメージでしか語れない伊都クズ説には相応しい主張だな

546:日本@名無史さん
18/09/20 01:19:38.84 .net
伊都厨のいう「考古学的に~」は考古学界では相手にされていない内容ばかり

547:日本@名無史さん
18/09/20 06:17:51.54 .net
まあ、弥生時代の北部九州ではそのときに
保有していた宝物を副葬していたが、
それらのセットが後世に定番化
したってことだろうな。

548:日本@名無史さん
18/09/20 06:24:23.18 .net
畿内ではそれらの宝物を入手するのが困難で
鏡のみになる場合も多い。

549:日本@名無史さん
18/09/20 10:33:40.58 .net
>>537
>畿内ではそれらの宝物を入手するのが困難で
>鏡のみになる場合も多い。
それをきちんと具体的なデータで示せると、論拠のある主張になるんだけどね

550:日本@名無史さん
18/09/20 10:52:08.85 .net
鏡のみになるとか、発掘成果をまったく知らないことが丸わかり
伊都説じいさんの主張する「考古学的」がデタラメって本当だな

551:日本@名無史さん
18/09/20 11:32:37.39 .net
>>538
三種の神器がほとんど畿内から出土していないね。

552:日本@名無史さん
18/09/20 11:45:53.25 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

553:日本@名無史さん
18/09/20 16:00:03.42 .net
鏡のみになる(1種)とか言ってたはずなのにすぐに三種の神器(3種)に枠組みを変更w
伊都クズはボケがかなり進行してる老人か根っからの嘘吐きかのどちらかだなw

554:日本@名無史さん
18/09/22 08:25:26.62 .net
>>542
根っからのウソツキで、かつ、
まともな論拠がないからその場しのぎでいうことをコロコロ変える
それが、九州説のデフォだよw

555:日本@名無史さん
18/09/22 16:01:46.12 .net
>>542
そりゃ、あんたが理解しようとしていないだけ。
筑紫にいた頃はちゃんと三種の神器だったのに、畿内では鏡だけに簡略化された理由を考えないから。
大和の勢力が博多湾沿岸の勢力の末裔であるという事実ときちんと向き合えよ。

556:日本@名無史さん
18/09/22 16:42:01.46 .net
>>544
その伝で行くと、円筒埴輪は吉備の特殊器台を受入れたものだから、
大和の勢力が吉備の勢力の末裔であるというのが事実ってことになるなww
あと、前方後円墳で重要な墳丘全面への葺き石は、出雲の四隅突出墓のの葉式だから
大和の勢力が出雲の勢力の末裔であるというのも事実になるw

557:日本@名無史さん
18/09/22 17:27:02.76 .net
>>544
"弥生時代に三種の神器"なんて主張してる歴史学者も考古学者もいないよ
それが科学的な学問の結論
ウソつきが1000回唱えても現実は変わらない

558:日本@名無史さん
18/09/22 18:31:11.07 .net
まあ、北部九州の時代は
たまたま保有している宝物を副葬しただけだろう。
いつしかそれが定型になり
神聖視されて皇室に残っただけのこと。

559:日本@名無史さん
18/09/22 19:53:37.59 .net
連続性を実証してからほざいてね

560:日本@名無史さん
18/09/23 00:53:57.90 .net
そのいつしかというのが弥生時代なんだろ。
平原遺跡では副葬品のほとんどが装飾品と鏡なのに、刀を一本だけ入れて三種の神器の様式に合わせているから、その時点ではすでに定型化されていたことがわかる。

561:日本@名無史さん
18/09/23 00:55:52.85 .net
>>545
>大和の勢力が出雲の勢力の末裔であるというのも事実になるw
三輪山の事代主の話があるから、間違いではないのだろう。

562:日本@名無史さん
18/09/23 04:44:05.93 .net
>>549
三種の神器は剣で刀ではない

563:日本@名無史さん
18/09/26 12:56:04.78 .net
>>545
>大和の勢力が出雲の勢力の末裔であるというのも事実になるw
奈良県の朝倉から宇陀に抜ける街道沿いに、出雲という地名があるんだよな
大和と出雲が古い付き合いなのは間違いない
魏志倭人伝の、投馬国(出雲)から邪馬台国(大和)の水行10日陸行1月は、
この出雲と大和の往還路をそのまま使ったのだと思う

564:蘭シ無史さん
18/09/26 13:26:14.61 .net
筑紫にも出雲という地名があったような。

565:日本@名無史さん
18/09/26 23:47:52.30 .net
大牟田市に出雲町って地名があるけれど、かなり小さな地名だね
あと福岡市西区に出雲大社の分院があるけどそっちのことかな?

566:日本@名無史さん
18/09/28 09:42:17.83 .net
福岡の出雲がどこにあるのか知ってる人、いる?

567:日本@名無史さん
18/09/28 09:49:49.17 .net
大牟田

568:日本@名無史さん
18/09/28 11:22:38.23 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

569:日本@名無史さん
18/09/28 14:07:04.48 .net
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)

.

570:日本@名無史さん
18/09/28 19:11:32.79 .net
>>556
>大牟田
それは>>554にも書いてある
小学校の学区よりも小さな地名で、
古代に重要な拠点があったような場所とも思えない

571:日本@名無史さん
18/10/06 13:46:00.75 e2CwnY4Yx
いろいろ変わった見方はしてたけど結局邪馬台国がどこかの結論は出なかった
URLリンク(blog.goo.ne.jp)

572:日本@名無史さん
18/10/07 09:31:02.07 .net
筑紫と出雲の関係はそれほど深くないと思うけどな
宗像三神と大国主の絡みくらいで

573:日本@名無史さん
18/10/07 10:48:42.86 .net
現代に語り継がれるくらいにはふかいつながりだろ。
吉備なんて、大勢力だっただろうけども伝承そのものが残っていない。

574:日本@名無史さん
18/10/08 23:13:00.50 .net
>>562
>現代に語り継がれるくらいにはふかいつながりだろ。
何が語り継がれてる?
記紀のことを言ってるの?

575:日本@名無史さん
18/10/09 09:05:51.16 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

576:日本@名無史さん
18/10/09 12:14:16.97 .net
出雲王権が倒されて、筑紫王権が倭国(対馬海峡、日本海の国)の覇権を握ったのが、記紀にある出雲の国譲り。

577:日本@名無史さん
18/10/09 22:56:27.65 .net
>>565
>筑紫王権が倭国(対馬海峡、日本海の国)の覇権を握った
記紀のは日向三代であって、筑紫王権なるものは出て来ないんだがね

578:日本@名無史さん
18/10/10 07:35:15.16 .net
日向三代は、イザナギが住吉三神を生み出したのと同じ筑紫の日向の倭王だよ。
それは博多湾沿岸を舞台とする物語だ。

579:日本@名無史さん
18/10/10 14:50:37.82 .net
>>567
>それは博多湾沿岸を舞台とする物語だ。
そう言い張るのは、一部の九州説(伊都国説)ぐらいしかいないマイノリティ
例えば、天孫降臨後のサルタヒコとアメノウズメの婚姻の場であるという荒立神社の
伝承のようなものが、筑紫の博多湾岸にはない
URLリンク(www.kuis.ac.jp)
神話や説話から考えると、日向の高千穂はやはり宮崎県が舞台と考えた方が蓋然性が高い

580:日本@名無史さん
18/10/10 16:21:42.28 .net
猿田彦神社は福岡市早良区の古の倭国王都にある。
後に猿田彦は邇邇芸を迎えて、倭国は筑紫の日向の中で東の早良から西の糸島に遷都したんだね。

581:日本@名無史さん
18/10/10 16:27:00.44 .net
邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
天忍日命と天津久米命が武装して先導した。
天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの、天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの、それぞれ祖神である。
邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」
東に平野、西に平野、北に韓国への海路が開けているのは福岡の高祖山。
宮崎では平野は東だけ、韓国は遠い。

582:日本@名無史さん
18/10/10 16:29:43.96 .net
>>568
>伝承のようなものが、筑紫の博多湾岸にはない
筑紫の日向においてイザナギが禊をした時に生まれたのが住吉三神であり、それを祭るのが筑前一宮である博多住吉神社。
神道の最も重要な祝詞となっていて、中心教義の一つである。

583:日本@名無史さん
18/10/10 18:35:27.82 .net
美々津も宮崎にあるし、日向三代は、日向=宮崎だよ

584:日本@名無史さん
18/10/10 18:36:45.07 .net
そんなところに遺跡はないだろ。
福岡なら、王墓もなんでもある。

585:日本@名無史さん
18/10/10 22:02:11.94 .net
宮崎の古墳群だね。
福岡が圧倒的なのは間違いないけど
九州はどこも遺跡が豊富なので
無いというと間違うよ。
注意せよ。

586:日本@名無史さん
18/10/10 23:37:33.16 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

587:日本@名無史さん
18/10/11 13:26:29.44 .net
宮崎は第二の勢力である投馬国(宮崎県都万)

588:日本@名無史さん
18/10/11 18:55:01.85 .net
>>576
>宮崎は第二の勢力である投馬国(宮崎県都万)
残念ながら、魏志倭人伝に投馬国は邪馬台国以北と書かれているから、
宮崎に投馬国を置くと、邪馬台国の比定地で詰むよ

589:日本@名無史さん
18/10/12 08:58:13.43 .net
以北なんて書いてないよ。
嘘つくな。

590:日本@名無史さん
18/10/13 17:55:20.74 .net
>>578
>以北なんて書いてないよ。
>嘘つくな。
あー、漢文の読めない人かw
南至投馬國『水行二十日』(官名略)『可五萬餘戸』
南至邪馬壹國、女王之所都、『水行十日、陸行一月』(官名略)『可七萬餘戸』
「自女王國以北、其『戸數』『道里』可得略載」
と連続で書いてあって、邪馬台国も投馬国も、『戸数』『道里』が略載されてるんだから
当然に「女王国より以北」だろ?

591:日本@名無史さん
18/10/13 18:08:00.29 .net
投馬国はなんらかの理由でそこに挿入されただけ。
前置き、溜め、なんだよ。
文学的表現だな。

592:日本@名無史さん
18/10/15 11:42:10.80 .net
>>580
>投馬国はなんらかの理由でそこに挿入されただけ。
>前置き、溜め、なんだよ。
>文学的表現だな。
投馬国行きの道里と、邪馬台国行きの道里の記載がまったく同じ形式
何らかの理由も何も、北部九州から先の長距離水行を含むところだから
同じ形式で書かれている
邪馬台国行きの水行が、帯方郡起点だと主張するなら、
当然に投馬国息も帯方郡起点でなければならないが、そうなると
投馬国の比定地が注に浮く
九州説の読み方はいつも捏造を交えた無理読みなんだよ

593:日本@名無史さん
18/10/15 11:44:26.57 .net
で、どう読んだら畿内にたどり着くんだ

594:日本@名無史さん
18/10/15 11:47:38.24 .net
>>581
無理矢理じゃないよ。
独特の読み方があるから難しいと中国の考古学者も言ってたから。
倭人伝の他にも色々あるらしい。

595:日本@名無史さん
18/10/15 12:27:53.09 .net
投馬国は倭人から日程だけ聞き取りしたけど、里程はない。
わかるのは、投馬国が邪馬台国より南だということ。
邪馬台国が九州北部で、投馬国は九州南部。

596:日本@名無史さん
18/10/15 12:42:28.63 .net
やはり殺馬なんやろか

597:日本@名無史さん
18/10/15 12:49:47.06 .net
投馬国の中心は都万神社だよ。
今でもそのままの名前だろ。
屈指の古墳群を抱える西都市にある、日向国総社だよ。
郡使は伊都までしか行かなかったけど、第二の都市である投馬国の情報だけは仕入れていたわけだ。

598:日本@名無史さん
18/10/15 16:43:41.02 .net
>>583
>独特の読み方があるから難しいと中国の考古学者も言ってたから。
その「独特の読み方」とかいうのが、無理読みなんだってば
人に物事を伝える文書が、解読が必要なものだったら困るだろ?

599:日本@名無史さん
18/10/15 16:46:15.68 .net
>>584
>わかるのは、投馬国が邪馬台国より南だということ。
だから、それは「自女王國以北、其戸數道里可得略載」に反するからダメだって言ってるだろ?
「南至投馬國水行二十日」官曰彌彌、副曰彌彌那利「可五萬餘戸」
    ↑                     ↑
    道里                    戸数
投馬国は道里、戸数が略載されている女王国以北の国

600:日本@名無史さん
18/10/15 18:02:45.60 .net
里程は書いてないな。
日数だけだから、倭人からの伝聞だ。

601:日本@名無史さん
18/10/15 18:20:57.44 .net
>>586
とうの西都原の博物館の展示には熊本から宮崎(西都原含む)にかけて集中して出土する免田式土器の分布域が狗奴国であるという説は魅力的だとあったよ

602:日本@名無史さん
18/10/16 10:10:34.88 .net
>>589
>里程は書いてないな。
>日数だけだから、倭人からの伝聞だ。
魏志倭人伝に書いてあるのは「其戸數道里可得略載」であって、
里程が略載されているとはどこにも書いてない
そして、日数も道里の記載として普通の表現
 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、
倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
水行は魏人にとってなれない移動法だから、距離の換算ができなくて
日数のまま記録しただけだろう

603:日本@名無史さん
18/10/16 10:11:29.64 .net
屁理屈

604:日本@名無史さん
18/10/16 14:01:16.94 .net
「道里」という言葉一つきちんと解釈できないから、九州説なんてやってるんだろ?w
今の世の中では、史書・古典もデジタル化されてて、検索も容易になってるんだから
自分で調べればいいのに
『九章算術』も「道里」で検索をかけて見つけたんだよ

605:日本@名無史さん
18/10/16 14:04:50.04 .net
>>582
>で、どう読んだら畿内にたどり着くんだ
奴国までは定説どおりでいい 奴国は福岡平野の比恵那珂遺跡群を中心とする国
福岡付近から、出雲まで水行20日
ただし出雲の場所が決めがたく、
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野か、
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野か、
あるいは妻木晩田遺跡のある大山付近か、いずれかが候補
そこから丹波へ行くまでが水行10日
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う
どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい
水行中の日数は、夜に浜辺で休んだ日数や潮待ち、天気待ちも含むと思う
投馬国滞在日数は含まないんじゃないかな これはあくまで「かな」程度
陸行部分は、途中の集落の滞在日数も含むと思うが、そんなに大きな町も途中にはなさそう
あっても、丹波国の竹野付近と与謝野町くらいかな
遺跡の分布や神社の名前からして、出雲と大和の往来はこのルートでいいだろう
その出雲と大和の往還路を魏使ももたどったと考える
ただ、丹後半島を縦断するより、回りこんで若狭湾に入った方が楽かもしれないとも思う

606:日本@名無史さん
18/10/16 14:06:07.29 .net
>>593
そっちの使い方が間違っているのでは?
キナイコシは都合のいい部分だけ文献を信用するんだな。

607:日本@名無史さん
18/10/16 22:25:10.36 .net
>>595
『九章算術』は長く使われた、計算問題にスタンダードだよ
ここに使われている用語の使い方は、大陸知識人には常識
日数も道里だってこと
都合のいいも何も普通の用法なんだよ
自分でも調べてごらん

608:日本@名無史さん
18/10/16 22:26:10.23 .net
>>595
ああ、ゴメン
「キナイコシ」は漢文が読めないんだったねww
できないことを要求して申し訳ないww

609:日本@名無史さん
18/10/17 02:21:12.88 .net
倭人伝の内容だけ見れば
九州説は距離以外はほぼ問題無し
畿内説は方角以外も問題だらけ
違う?

610:日本@名無史さん
18/10/17 04:14:28.01 .net
2018/10/14
【古代】「魏志倭人伝」に記された「末盧国」か、住居跡や水路 13日現地説明会 唐津市相知町黒岩前田遺跡
スレリンク(newsplus板)
>>477
2018/10/17
【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★3
スレリンク(newsplus板)

611:日本@名無史さん
18/10/17 14:29:11.45 .net
>>598
>畿内説は方角以外も問題だらけ
その問題だらけを具体的に指摘してみて
答えられることは答えるよ
その前に九州説では、投馬国の比定地とセットのまともな説がない

612:日本@名無史さん
18/10/17 20:10:25.09 .net
投馬国は薩摩も妻も単独じゃ人口規模的に無理があるよね。宮崎+鹿児島全部足しても5万戸は無理だと思う。
弥生時代の九州全部の推定人口が10万でしょ。末期だから古墳時代の推定人口で考えてみても九州全部で20万人いくかどうかくらいだし。
かと言って畿内説日本海ルートの出雲でも中国地方全部で10万くらいだから5万戸じゃなくて5万人なら有り?ってくらいだしなぁ。
結局倭人の言ってることをそのまま記しただけで、全然信用できませんよってなるよな。
そうなると畿内説も九州説もどっちも問題なしだし。

613:日本@名無史さん
18/10/17 20:25:59.36 .net
当時の「戸」には「人」の意味があり、むしろその使い方の方が多いと説明している。
URLリンク(kazunohi.exblog.jp)

614:日本@名無史さん
18/10/17 20:27:13.93 .net
URLリンク(iss.ndl.go.jp)

615:日本@名無史さん
18/10/17 20:31:57.19 .net
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰

616:日本@名無史さん
18/10/17 20:35:00.45 .net
高貴高度な文明は南から生み出され南に帰る

617:日本@名無史さん
18/10/17 20:42:02.01 .net
>>601
対馬(千余戸)の50倍は無理なのか?

618:日本@名無史さん
18/10/17 20:56:01.39 .net
>>602,603 ありがと~実際は単純に人で多く見せるために戸とか家って書いたのだろうと考えていました。
>>606 面積で、対馬約700㎢、宮崎+鹿児島約16,900㎢(離島含む)面積比較で約25倍。
可住地域の広さとか生産力とか考えると単純比較はできないけどもちょっと厳しいかと。
あと、和名類聚抄での郡の数が対馬9、宮崎+鹿児島102郷で10倍程度しか無いので50倍の人口は当時は居なかったと考えます。
対馬は離島なので1郷の戸数が本土より少なかったとかも考えれなくはないけど。

619:日本@名無史さん
18/10/17 22:16:22.43 .net
>>601
>結局倭人の言ってることをそのまま記しただけで、全然信用できませんよってなるよな。
奴国・福岡平野二萬戸を一つの基準にして、投馬国五萬戸ははそれより人口が多い
邪馬台国七萬戸はさらに多い、くらいに読めばいいと思う
実際の数を数えたってことはないだろうし、二万と五万だから2.5倍ってこともないだろう

620:日本@名無史さん
18/10/17 22:24:17.25 .net
邪馬台国と投馬国は併記されている。
しかし奴国は他の国邑と同じ内訳に過ぎない。

621:日本@名無史さん
18/10/17 23:23:27.42 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

622:日本@名無史さん
18/10/17 23:24:19.16 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

623:日本@名無史さん
18/10/17 23:55:37.18 .net
>>609
>邪馬台国と投馬国は併記されている。
>しかし奴国は他の国邑と同じ内訳に過ぎない。
国と国を重ねてダブルカウントするのは二重帳簿詐欺だよ
投馬国の内訳はなしかい?w

624:日本@名無史さん
18/10/18 01:08:50.45 .net
投馬国は行っていないから内訳なんかわからなかっただろうね。

625:日本@名無史さん
18/10/18 23:43:46.74 .net
梯儁さんは皇帝詔書を携えた除正使だから卑弥呼に金印を渡すのが仕事で
ヤマト国まで行ってるし、張政さんも台与に檄を告喩してるからヤマト国まで行ってる
投馬国はその経路上の国だからちゃんと見てるよ

626:日本@名無史さん
18/10/19 08:27:56.68 .net
投馬国には里程がないし、邪馬台国より遠いから、郡使は投馬国へは行っていない。

627:日本@名無史さん
18/10/19 17:30:30.25 .net
>>615
>投馬国には里程がないし、邪馬台国より遠いから、郡使は投馬国へは行っていない。
それは単なる誤読
>>591に書いてあるとおりに、日数も道里の表現として普通の表現
日数だから(里程が書いてないから)道里じゃないというのは通らない
魏志倭人伝には、自女王國以北、其戸數道里可得略載と書いてあり、
投馬国は戸数も道里も略載されている女王国以北の国
邪馬台国まで行っている除正使梯儁は、当然途中の投馬国にも寄っているよ

628:日本@名無史さん
18/10/19 17:40:44.75 .net
畿内の大御所は、とっくにトンズラした。
残っているのは、雑兵ばかりなりwww

629:日本@名無史さん
18/10/19 17:43:34.06 .net
>>617
畿内説を推してるのは、桜井市教育委員会と毎日�


630:V聞だけ。



631:日本@名無史さん
18/10/19 17:47:29.97 .net
>>617
>畿内の大御所は、とっくにトンズラした。

トンズラした理由は九州説に負けた訳ではないからw  
トンズラした理由は倭国(阿波)の実体を知ったから。  @阿波

632:日本@名無史さん
18/10/19 23:22:37.71 .net
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?

633:日本@名無史さん
18/10/20 00:27:24.24 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。


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