邪馬台国 畿内説九州説VS他説at HISTORY
邪馬台国 畿内説九州説VS他説 - 暇つぶし2ch150:日本@名無史さん
18/05/09 12:53:12.01 .net
頭がおめでたいんだよ。

151:日本@名無史さん
18/05/09 13:11:51.94 .net
>>136
今どきどんな風に「共立」を理解してる学者はいないねw
>>144
無益だよw
魏志にかかれた統治システムからみて倭国の統合性の水準が高いのは明白

152:日本@名無史さん
18/05/09 14:45:09.38 .net
>>149
>魏志にかかれた統治システムからみて倭国の統合性の水準が高いのは明白
「国内」はそうだが、倭種の領域全体ではそうでもない。

153:日本@名無史さん
18/05/09 22:12:47.26 .net
ちゃんと統治されている畿内のようなところもあれば、それぞれの首長が好き勝手にやっているところもある

154:日本@名無史さん
18/05/10 10:47:05.32 .net
>>151
畿内が誰に統治されていた?
その根拠は?

155:日本@名無史さん
18/05/10 15:48:00.94 .net
あれ? 以前は東遷厨のスレあったんだけど今ないのか
…東遷厨にネタ振ろうと思ったのに…w

156:日本@名無史さん
18/05/10 15:53:32.27 .net
>>152
>畿内が誰に統治されていた?
>その根拠は?
畿内第V様式土器の時代に、「大和、河内+環大阪湾」の範囲で、土器形式の
統一が見られ、それまでの在地の土器が消失する
これは、背景に文化、経済圏、流通の統一によるものと想定でき、その経済流通圏の
一体性を国とみなすことができる
これは後に、布留式土器の時点で北部九州も含め列島の広範囲で見られる土器形式の
統一と同じ事象だと考えられる
一つの国としてまとまることを、統治の存在の根拠としている
誰に、というのは、金石文でも出ない限り、個人名での指摘は無意味
統一形式の土器製作地の首長を、統治者とみなすことになる

157:日本@名無史さん
18/05/10 16:31:19.29 .net
>>154
>畿内第V様式土器の時代に、「大和、河内+環大阪湾」の範囲で、土器形式の
統一が見られ、それまでの在地の土器が消失する

その理由:倭国(阿波)からの東阿波型土器(畿内第V様式土器)工法の畿内拡散の為。  @阿波 

158:日本@名無史さん
18/05/10 16:34:56.63 .net
>>154
>これは、背景に文化、経済圏、流通の統一によるものと想定でき、その経済流通圏の
一体性を国とみなすことができる
その経済流通圏の中心が倭国(阿波)ということ。  @阿波

159:日本@名無史さん
18/05/10 17:23:20.43 .net
>>153
>あれ? 以前は東遷厨のスレあったんだけど今ないのか
>…東遷厨にネタ振ろうと思ったのに…w
「♪邪馬台国東遷説 その15 [転載禁止]©2ch.net」は、
4月7日に倉庫送りになってるね
今、お鏡さんが伊都国東遷スレとか立ててるから、遊んでやったら?w

160:日本@名無史さん
18/05/10 17:24:36.33 .net
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況

161:日本@名無史さん
18/05/10 17:24:52.27 .net
 2に、河内と吉備の交流の深さ

162:日本@名無史さん
18/05/10 17:25:44.27 .net
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の
機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を
支配する首長たちの利益共同体であろう。

163:日本@名無史さん
18/05/10 17:26:11.30 .net
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。
その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。

164:日本@名無史さん
18/05/10 17:26:41.82 .net
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

165:日本@名無史さん
18/05/10 17:27:06.64 .net
 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、
寒冷化が進んだ時期であることが知られている。

166:日本@名無史さん
18/05/10 17:27:43.55 .net
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を
決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、
世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった。
倭国乱もこの時期である。

167:日本@名無史さん
18/05/10 17:28:10.95 .net
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、
潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。

168:日本@名無史さん
18/05/10 18:08:37.64 .net
>>154
>これは後に、布留式土器の時点で北部九州も含め列島の広範囲で見られる土器形式の
>統一と同じ事象だと考えられる
なんで畿内説は後世の話ばかり持ち出すの?
>誰に、というのは、金石文でも出ない限り、個人名での指摘は無意味
史書を信頼できないとか言って無視し続けた結果だよね?
自分たちが日本の歴史に暗黒のベールを被せていることに気がつかない?

169:日本@名無史さん
18/05/10 18:10:34.13 .net
>>160
貧弱な遺跡しかない土地をこんな風に言いくるめるなら、どこだって都にできてしまう。
こんなものは根拠にならない。
これが伊勢でも近江でも出雲でも諏訪でも成り立ってしまうからだ。

170:日本@名無史さん
18/05/10 18:11:03.72 .net
>>163
> 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、
>寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
奈良は寒いぞー。

171:日本@名無史さん
18/05/10 18:11:46.35 .net
>>166
>なんで畿内説は後世の話ばかり持ち出すの?
畿内第V様式は、邪馬台国より前だ

172:日本@名無史さん
18/05/10 18:15:39.98 .net
>>166
>史書を信頼できないとか言って無視し続けた結果だよね?
>自分たちが日本の歴史に暗黒のベールを被せていることに気がつかない?
史書にも絶対年代は付いていないから、結局、十分な信頼性を担保して
考古学的な事象との対応付けを行うことはできない
それだけのこと
大国主の宗像三神との妻問い記事をもって、出雲と北部九州の交流の反映と
見ることは可能ではあるが、大国主と宗像三女神を実在の同時代人と見るのは
意味がない

173:日本@名無史さん
18/05/10 18:19:32.15 .net
>>167
>貧弱な遺跡しかない土地をこんな風に言いくるめるなら、
例えば、唐子・鍵遺跡より充実した弥生時代の拠点集落は、そうそうないと思うぞ?
どこだかで、ワシントンDCとニューヨークの関係がどうたらと言ってる人がいたが、
纏向遺跡がワシントンDCで、唐子・鍵遺跡がニューヨークみたいなものだ

174:日本@名無史さん
18/05/10 18:28:32.77 .net
>>171
>例えば、唐子・鍵遺跡より充実した弥生時代の拠点集落は、そうそうないと思うぞ?
はあ?
あんなど田舎の遺跡、どう充実しているんだよ。
しかも古墳時代前期には放棄され衰退する。
そもそも魏の使いが滞在した九州北部と弥生時代には交流がないから、魏から存在すら認識されていなかったろう。
銅鏡文化圏の九州に対して唐古・鍵遺跡は銅鐸文化圏であり、卑弥呼の時代には滅亡する遺跡だ。
それがどうやったら邪馬台国になるんだ?

175:日本@名無史さん
18/05/10 19:20:31.49 .net
>>172
>あんなど田舎の遺跡、どう充実しているんだよ。
個人の感想ですね!
例えば吉野ヶ里よりも、集落遺跡部分は唐子・鍵の方が広いんですよ
吉野ヶ里を大集落というなら、唐子・鍵はそれ以上に充実した大集落
>しかも古墳時代前期には放棄され衰退する。
>>166
「なんで畿内説は後世の話ばかり持ち出すの?」って書いてたのは>>172じゃないの?
古墳時代のことは、後世の話なんじゃないですかね?
>そもそも魏の使いが滞在した九州北部と弥生時代には交流がないから、魏から存在すら認識されていなかったろう。
そんなことはない
北部九州には、畿内第V用式土器の時代から、ずっと継続して畿内様式甕が流入し続けている
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251-312
URLリンク(m-repo.lib.meiji.ac.jp)
九州北部と畿内には土器を伴う人の交流がずっと続いてるよ
九州北部のみの倭国は、通用しない

176:日本@名無史さん
18/05/10 19:20:50.46 .net
>>172
>銅鏡文化圏の九州に対して唐古・鍵遺跡は銅鐸文化圏であり、卑弥呼の時代には滅亡する遺跡だ。
銅鐸の廃絶時期は難しいが、標準的な多数説では、畿内第V様式に変わる時期に画期があり、
その画期に銅鐸祭祀が終了したと考えられている
卑弥呼の時代は、その後、余裕を持って迎えられるよ
>それがどうやったら邪馬台国になるんだ?
纏向遺跡の前身と言ったらおかしいが、近江の野洲川下流域の伊勢遺跡の廃絶と
纏向遺跡の建設開始がほぼ時を同じくして起こる
ここに、畿内第V様式の国の始まりという画期に続く、一つの画期があるのは確実で
これが卑弥呼の共立を契機とする新しい秩序の始まりと考えるのが畿内説の考え方だ

177:日本@名無史さん
18/05/10 19:39:18.79 .net
年代詐欺てんこ盛り

178:日本@名無史さん
18/05/10 19:40:37.54 .net
>>173
>九州北部と畿内には土器を伴う人の交流がずっと続いてるよ
>九州北部のみの倭国は、通用しない
畿内といっても、纒向を除く、だろ。
しかも九州北部へは西日本全域から一極集中。

179:日本@名無史さん
18/05/11 07:46:22.35 .net
>>176
>畿内といっても、纒向を除く、だろ。
「畿内」の本来の範囲は何度も何度も書いているが、
「大和+河内~環大阪湾」の畿内第V様式の段階で共通の土器を
使うようになった共同体の領域のことだ
纒向は、その王都として「新しく」「計画的に」作られた都市
建設前は何もなかったというのがどうして批判になると思えるのかが不思議
>しかも九州北部へは西日本全域から一極集中。
港町だからね
成田空港は通過人口は大きいし、空港の売店には各地から持って来た土産物を
売っているけれど、特に成田が都市として栄えている訳ではないし、
もちろん首都でも何でもない
北部九州は、倭国外との出入り口として重要だけれど、それがその土地の実力を
示す訳ではない

180:日本@名無史さん
18/05/11 10:02:12.14 .net
>>177
>纒向は、その王都として「新しく」「計画的に」作られた都市
王都であったという根拠は?
邪馬台国と関係あるという根拠は?

181:日本@名無史さん
18/05/11 10:05:36.90 .net
>>177
>売っているけれど、特に成田が都市として栄えている訳ではないし、
>もちろん首都でも何でもない
成田は空港の外が未だに田舎だが、博多奴国は2万戸の大都市だったわけで、比較にならんよ。
纒向が各地と交流して物資をやり取りしていたから王都だという主張は引っ込めたのかい?
関西の中でも周囲との交流がむしろ乏しい奈良盆地が王都なわけないだろ。

182:日本@名無史さん
18/05/11


183:10:07:05.04 .net



184:日本@名無史さん
18/05/11 12:41:18.85 .net
>>179
>博多奴国は2万戸の大都市だったわけで、比較にならんよ。
都が置かれた邪馬台国は7万戸で、奴国の3.5倍の大都市
奴国が女王の都、邪馬台国じゃないのははっきりしてるじゃないか
それを、各地の土器が集まるから都って言ってるから間違いだって
書かれているんだよ
成田は都じゃなくても、玄関口の港町なら文物が集まるという例であって
街の大きさが本論じゃないだろ
反論のポイントが、ずれてる
見当違い

185:日本@名無史さん
18/05/11 12:51:39.75 .net
>>178
>王都であったという根拠は?
弥生終末期の最大規模の遺跡で、かつ新しく作られた都であること
多くの地域からの土器が検出されており、広範囲の人的交流の拠点であったと認められること
纏向大溝から建設が始まるなど、自生的な都市ではなく計画都市であること
以上を整合的に説明するには、「広範囲に影響を与える存在」の号令によって建設が
始まったとするのが最も合理的
「広範囲に影響を与える存在」は、古代国家においては第一義的に「王」を想定する
ことになるのが当然
以上より、纏向遺跡は王都であると考えるのが普通
>邪馬台国と関係あるという根拠は?
弥生終末期に、倭国において王とされているのが卑弥呼である以上、
上記の王が卑弥呼であると考えるのが最も蓋然性が高い
また、纏向遺跡では東西に軸線を合わせて作られた大規模建物が検出されており
さらにそれを囲む柵列がある
この居館域の広さは最低でも東西150m、南北100m前後の規模
大型祭祀土壙SK-3001がこの建物群に付随して発掘されており
宗教的行事が行われた痕跡として確認できる
宗教的権威として共立された卑弥呼の存在を、
祭祀遺構から直接推定できる遺跡でもある
根拠としては、十分だろ

186:日本@名無史さん
18/05/11 12:55:36.71 .net
>>180
>摂津や河内ならまだ瀬戸内海をまとめる要所だったが、纒向では擁護のしようがない。
>そんなところを持ち上げるのは町おこしの役人だけ。
九州のような、地域王権の発達の遅れる地域ばかり見ていると理解できないんだろうな
大和+河内~環大阪湾の範囲が、畿内第V様式土器を共通に使う一つの経済流通圏を
作っている
摂津や河内と大和を分けて考えるのは、ためにするごまかしだよ
その畿内第V様式の国の首都として作られたのが、纏向遺跡だ
そこに卑弥呼がいたなら、そのまま倭国の王都ということになる

187:日本@名無史さん
18/05/11 18:07:07.29 .net
>>182
>多くの地域からの土器が検出されており、広範囲の人的交流の拠点であったと認められること
でも魏と確実に繋がりがあった筑紫からの土器はないでしょ?
魏と交流がなかった田舎ですね。
>「広範囲に影響を与える存在」は、古代国家においては第一義的に「王」を想定する
>宗教的権威として共立された卑弥呼の存在を、
>祭祀遺構から直接推定できる遺跡でもある
根拠なし。
期待?妄想?

188:日本@名無史さん
18/05/11 18:08:00.24 .net
>>183
>大和+河内~環大阪湾の範囲が、畿内第V様式土器を共通に使う一つの経済流通圏を
>作っている
纒向はその流通から取り残された空白地域だよ。

189:日本@名無史さん
18/05/11 18:08:25.22 .net
>>183
>そこに卑弥呼がいたなら、そのまま倭国の王都ということになる
循環論法?

190:日本@名無史さん
18/05/11 18:53:33.04 .net
>>184
>でも魏と確実に繋がりがあった筑紫からの土器はないでしょ?
でも、大陸王朝の出先の楽浪郡と確実につながりがあった出雲の土器は出てるよ
筑紫の土器を大和に運ぶ理由がなかったんだよ
筑紫の人間が、大和に来るときは吉備か出雲を経由するし、筑紫の土器に
特段の価値がなければ、大和までわざわざ運ぶ理由がない
逆に、同じ距離で吉備や出雲を経由するのに、畿内様式の土器が九州で
出土するのは、畿内様式土器がスタンダードだからだよ
>魏と交流がなかった田舎ですね。
魏と交流がなかったら、魏の年代を入れた鏡は作りません

191:日本@名無史さん
18/05/11 18:57:07.86 .net
>>185
>纒向はその流通から取り残された空白地域だよ。
新しい都を作るために、空いてる土地に作ったんだから、纏向で都市建設が
始まる前は空白地域だよ
何を当たり前のことを言ってるんだ?
そして、邪馬台国7万戸の範囲は、「大和+河内~環大阪湾」の畿内第V様式の国
それだけ面積の範囲なら、山のてっぺんとか、扇状地で水が得にくいところとかに
人のいないところも当然にある
その中で、三輪山信仰に都合のいい扇状地の空白地帯を選んで、纏向の
建設を始めているんだよ
なんだか、反論というかケチの付け方が的外れなんだよな

192:日本@名無史さん
18/05/11 18:57:53.68 .net
>>186
>循環論法?
>>182とセットで読んでね

193:日本@名無史さん
18/05/11 18:59:05.42 .net
>>184
>根拠なし。
北部九州で、確実な祭祀遺構があったら教えてね
祭祀跡として確実な遺跡ってのは珍しいんだよ
十分な根拠だ

194:日本@名無史さん
18/05/11 19:57:02.87 .net
>>184
3世紀に関西地方と魏との交流の形跡は全く無いですからね。

195:日本@名無史さん
18/05/11 20:03:49.56 .net
>>187
三角縁神獣鏡は北部九州で作られて全国に配られたものだろう。

196:日本@名無史さん
18/05/11 21:05:35.73 .net
祭祀跡の遺跡が出たらなんで邪馬台国になるのん?
キナイコシの世界はわからんわあ

197:日本@名無史さん
18/05/11 23:28:07.33 .net
>>191
つ 三世紀の魏の年号

198:日本@名無史さん
18/05/11 23:29:37.09 .net
>>192
>三角縁神獣鏡は北部九州で作られて全国に配られたものだろう。
そんなこと言うヤツは、九州説の嘘つきしかいないよ?
書けばいいってもんじゃない

199:日本@名無史さん
18/05/11 23:33:02.94 .net
>>193
つまり鬼道をよくした(事鬼道能惑衆)とされる
卑弥呼の祭祀を思わせる遺跡は「九州にはない」んだね

200:日本@名無史さん
18/05/12 07:52:07.58 .net
平原遺跡に古代神道の祭祀の跡があるよ。

201:日本@名無史さん
18/05/12 07:53:24.17 .net
>>194
後世の記念品。
キナイコシは卑弥呼より後のことばかり根拠にしようとする。

202:日本@名無史さん
18/05/12 07:55:21.24 .net
卑弥呼の墓なんだからそりゃそうだ。

203:日本@名無史さん
18/05/12 07:56:54.11 .net
>>198
江戸を持ち出して16世紀以前から首都だったと主張しているようなもんだよな。

204:日本@名無史さん
18/05/12 08:13:06.63 .net
>>157
お鏡さん? 
お鏡、句読点連続男、岡上、伊都屑ってぜんぶ同一人物であってる?

205:日本@名無史さん
18/05/12 08:59:13.14 .net
ぜんぶ別人

206:日本@名無史さん
18/05/12 09:12:12.64 .net
そいつら同士でちょくちょく言い争ってるだろがw

207:日本@名無史さん
18/05/12 13:32:09.76 .net
全部バカ何だから区別する必要なくね?

208:日本@名無史さん
18/05/12 13:33:09.63 .net
なりすましは九州説の基本スキルなんだし

209:日本@名無史さん
18/05/12 14:16:06.05 .net
あげ

210:日本@名無史さん
18/05/12 16:35:41.62 .net
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた

朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺
URLリンク(youtu.be)
URLリンク(youtu.be)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(youtu.be)

211:日本@名無史さん
18/05/12 23:48:50.08 .net
>>197
>平原遺跡に古代神道の祭祀の跡があるよ。
その柱跡が、きちんと長方形になっていないんだよ
歪んで、平行四辺形になってる
建て方がかなりいい加減
いろんなところに発掘記録の平面図があるから自分でも確かめてごらん
金印をもらった女王の墳墓祭祀がそんないい加減っていうのは「ない」よな
この辺も平原1号墓が卑弥呼の墓ってのはないという理由だ
そして、神道には鏡を割る儀式はないよ
天照大神を祀る神明社のご神体が鏡なんだから

212:日本@名無史さん
18/05/14 07:55:08.30 .net
最近は�


213:ワた地震が頻繁に起こっているが、吾等が倭国は先史より大きな天変地異の被害を被って来た。 前期旧石器時代、倭国には人類が居なかった…と推察されているらしいが果たして其うなのか。 其れは喜界カルデラ等の巨大噴火に依って列島全域が酸性土に覆われ痕跡が残らなかっただけでは無いのか。 縄文時代の人口分布は見つかった人骨だけのものなのか(其れからまた推察されたモノなのか)、今の関東から東北地方が其の密度は高いとされているが…。 南西諸島のカルデラからの噴煙が多くの西日本の人類の痕跡をも消してしまったのであろう。 在家の草考古、古代史ファンは学者の「推察」や他国の古文書にあきめくらにされているのだと思う。 http://1st.geocities.jp/huhito80/Fanta-nennpyou-yonago.html



214:日本@名無史さん
18/05/15 05:46:43.63 .net
>>209
邪馬台国も噴火で埋まってしまったんだなw

215:日本@名無史さん
18/05/15 11:05:22.94 .net
東遷説じゃなくて逆に「西遷説」は無いのかよ

216:日本@名無史さん
18/05/15 11:06:20.12 .net
ないよ。
日本の歴史は常に西から東。

217:日本@名無史さん
18/05/15 19:19:37.63 .net
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

218:日本@名無史さん
18/05/15 19:24:40.97 .net
>>213
>従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
こういうのを妄想と言う。

219:日本@名無史さん
18/05/15 19:26:10.41 .net
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

220:日本@名無史さん
18/05/15 20:47:08.28 .net
邪馬台国ヤマタイコク、狗奴国クナコク、一体、誰が其う読んだのか。
臺タイか壹イチかは取り敢えず置いといたとして邪馬はジャマじゃ無いのか。
狗奴、クドゥ…国栖、葛のクズだろう。
ちなみにジャ、ジャパン、ジャマイカ、ジャワ、ジャカルタ…共通するのは何処も海に面している、ヤマなどでは無かったと思われる。
時代区分の縄文〜弥生…此の定義も原日本人を分断されたが、考古の資料では何ら実証されたモノじゃ無い。
寧ろ、縄文遺跡からは既にかなり進んだ文化を持っていた事は証明されている。
先ず先に言って置くと「ググれ!誇り高い日本国民よ」他国の古文書や事なかれ主義の学者の推察がどれくらい信用に足るモノか感じよう。
 「取り敢えずみんなググろう」

221:日本@名無史さん
18/05/15 20:50:16.56 .net
>>215
河内庄内式は博多湾へ流入 → 筑紫倭国王へ(鉄器)
大和庄内式は大和へ流入 → 大和大物主へ(無鉄器)
【問題】
大物主の倉庫が邪馬台国時代と決まったら、神武東征はいつ?

222:日本@名無史さん
18/05/15 20:55:22.34 .net
その少し前、倭国大乱で神武は筑紫を脱出した。

223:日本@名無史さん
18/05/15 23:57:29.27 .net
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
   
 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。
   
 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。

224:日本@名無史さん
18/05/16 01:29:49.37 .net
喜界カルデラ、南海トラフの影響を一切考慮せずに簡単にまとめられた「縄文時代の人口」とか…。
学者さんたちは邪馬台国論争など火付けして嘲笑ってると思う。
縄文時代の人口は、縄文早期の2万人から縄文中期の最盛期の26万1千人まで順調に増加したが、縄文中期を過ぎると反転し急激に落ち込み、縄文後期は16万人、縄文晩期は7万6千人まで減少した。 1万年ほど前、日本列島の年平均気温は現在よりも約2度低かった。
人口から読む日本の歴史 - Biglobe
www2u.biglobe.ne.jp › ~itou › hon › hito
縄文時代(便宜上そう言っておく)の人口の減少を気温だけか、、、。

225:日本@名無史さん
18/05/16 07:59:26.63 .net
3世紀半ばがやたらと登場するが、これは卑弥呼の死後に急に発展した、つまりは大和は卑弥呼に搾取されていた土地ということだ。
卑弥呼は2世紀末には即位していたと考えられるから、卑弥呼とともに発展したなら、2世紀末から発展していなくてはいけない。
大和は卑弥呼の死後にしか発展していない。

226:日本@名無史さん
18/05/16 08:07:42.74 .net
ちょっと前「ゴミの分別を!」と喧しく言われていた。
各家庭では、真面目に?いくつか指定されるままゴミを分別し出し…。
あろう事かその後ゴミ回収業者が一括りに処理していた事が判明。
此れは、邪馬台国論争等と言うデマカセを信じた(信じさせられた?)草古代史ファンと少し似たニュアンスを感じる。

227:日本@名無史さん
18/05/16 09:48:36.61 .net
「字を持た無かった倭人」其れは本当なのか「神代文字はトンデモ」確かにトンデモないモノまで混ぜられては居るやも知れんが。
人類の痕跡が認められている(誰に…)だけでさえ三万年程もつづく先史の世に果たして本当に文字は無かったと言い切る学者たちを信じられるのか、、、。
阿比留草、神社のお札等に遺されているのだが、、、。

228:日本@名無史さん
18/05/16 09:59:59.95 .net
>>221
>卑弥呼は2世紀末には即位していたと考えられるから、
これが、根拠がまったくないとは言わないが、相当に希薄
(ほぼ)同時代資料の魏志倭人伝には、倭国乱の時期も、
その後の卑弥呼の共立の時期も「一切書いてない」
2世紀末だという言辞の根拠は、『後漢書』「桓霊間(一四六〜一八九)」、
『梁書』「漢霊帝光和中(一七八〜一八四)」だが、後漢書の成立は432年、
梁書の成立は636年とかなり後代になる。後漢書、梁書の倭国記事の多くは
魏志倭人伝を下敷きにしているのが明らかであり、魏志倭人伝にいれられ
なかった事実が、100年200年後まで別に伝わっていたとするのも不合理
漢末の中原の動乱が、夷狄の領域にも乱を齎したという中華思想から挿入されたと
考えた方が妥当だろう
二世紀末に共立だと、3世紀半ばに死ぬ卑弥呼の没年齢が70以上になってちょっと
弥生時代の寿命としては不自然
不可能ではないけれど

229:日本@名無史さん
18/05/16 10:02:56.82 .net
縄文、弥生…なんの意図もなく便宜上で区分されていたとしても、結局は原日本人を分断してしまったんだろう。
弥生人とは渡来人…嘘なんだろうと思う。

230:日本@名無史さん
18/05/16 10:04:25.72 .net
実際あったという>>222の実例
・ほとんどの人がマトモに分別しないため分別まで回収業者が請負っていた
・自治体が分別しなくても燃やせるガス化溶融炉を持っているが
 隣の市町村との関係で分別基準を合わせていた

231:日本@名無史さん
18/05/16 10:20:00.16 .net
古代中国江南から朝鮮半島済州島、更に北米、南米、太平洋のバヌアツ辺りまで縄文人らしき人類が遺したかも知れん痕跡は指摘されている。
そして、、、。
佛教経典の薬王菩薩品事品の中に「遥か昔(少なくとも薬王事品が成立する)遥か東(ヒマラヤ辺りから)に『佛國土あり』また『佛國土に十六人の王子あり』其々が十六方面に飛んで行った」と言う一節がある。
確か、其の一人が「此方へ飛んで来た」と言う。
縄文時代(あくまで便宜上)の倭国と倭人の人の流れの事じゃ無いのか。

232:日本@名無史さん
18/05/16 12:35:47.08 .net
>>224
あれもこれも信用できないと言い張るしかない畿内説は哀れだな。

233:日本@名無史さん
18/05/16 19:28:57.27 .net
「稲作はじめ文化は弥生人(渡来人?)大陸由来半島経由」、、、大嘘でした。
(前略)
今後、更なる発見によって"縄文稲作"の年代は更に遡る可能性があります。
いずれにせよ、世界最古級とされてきた支那大陸の河姆渡遺跡から僅か300年で日本に伝播するのか、
また「弥生人が日本に稲作を伝えた」と俗説は強調しますが、"縄文"時代に"弥生人"が渡来するのか大いに疑問です。
此等を踏まえて信じ込まされた古代論を一旦リセットせねば。

234:日本@名無史さん
18/05/16 19:34:57.52 .net
史料批判という文献史学の基本のキを理解していないため恥を晒し続ける九州説

235:日本@名無史さん
18/05/16 19:51:38.56 .net
全否定しないと成り立たないラノベ説がなんか言うとる

236:日本@名無史さん
18/05/16 19:57:07.91 .net
歴史と考古の研究方法を全否定してたやつならいるぞ

237:日本@名無史さん
18/05/16 20:00:28.91 .net
鉄器が溶けるドジョウとか?

238:日本@名無史さん
18/05/16 23:27:03.51 .net
実際、文献史学の信憑性はどうなのか。権威には従順な仔羊になってしまうのは判るが。

239:日本@名無史さん
18/05/16 23:31:02.00 .net
問題なのは文献そのものの信憑性

240:日本@名無史さん
18/05/17 07:03:50.44 .net
稲作伝播、、、。此れを検証するのはプラントオパール。
そしてプラントオパールを考察し其処から弾き出される米の流れ。
文献史学の手に負える物では無い。考古学、農学、気象学らの成果が証明している。
米は、稲作は列島から半島、大陸へ。逆説を強弁する文献の信憑性など…以下略。

241:日本@名無史さん
18/05/17 07:12:31.26 .net
>>234
>実際、文献史学の信憑性はどうなのか。権威には従順な仔羊になってしまうのは判るが。
都合の悪い文献を全て焚書したいのが畿内説の本音でしょう

242:日本@名無史さん
18/05/17 07:30:42.91 .net
ちなみに自分は邪馬台国論争自体に興味が無い。魏志倭人伝に記載された其の時に列島の中心が何処であったかよりも、人の流れと其の理由と目的が知りたい。
其れから導かれる、大陸由来半島経由、と言う嘘…と言うか古代列島の真実を知りたい。

243:日本@名無史さん
18/05/17 07:55:22.67 .net
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

244:日本@名無史さん
18/05/17 09:43:46.58 .net
稲作伝播は列島から大陸へ。
URLリンク(ameblo.jp)
太平洋ルートは無かった…え?
小笠原諸島で行なわれた先史時代の遺跡調査 編集
東京都教育委員会では、1972年(昭和47年)に東京都遺跡地図を作成する中で小笠原諸島の遺跡についても調査を行った。
この中で父島の大根山遺跡から打製石斧などの石器類、そして母島からも骨角器と貝製品を採取し、有史以前、小笠原諸島に人が居住していたことが明らかとなった。
その後1984年、1985年(昭和59、60年)と、国際基督教大学考古学研究室の手によって父島、母島の調査が行われ、母島から中世の頃


245:の可能性がある素焼きの土器が発掘された[11]。 文献史学の及べない権威主義の崩壊。



246:日本@名無史さん
18/05/17 10:48:34.58 .net
>>227
あの釈迦は其の「佛國土から王子のひとりが飛来した」とされる古代北インドに在って小国を為したシャカ族の王子だが、其の父親の名前はまさに「浄米王」とか本当に意味深ではある。

247:日本@名無史さん
18/05/18 09:43:26.74 .net
古代人に思いをやる時に気付かされる事のひとつに衣食住がある。
食は採ったり獲ったりした糧を生で或いは焼いて…そう思わされて来たが、ふと、縄文クッキーを考えると、、、。
拾って来たドングリをクッキーに焼く日常とは、皮、薄皮までも剥いて粉にして水分で溶かしつなぎとする其の工程は技術の結晶なんだろう。
中には大葉など香草を練り込んでいたと言う。
古代人は現代人の想定など遠く及ばない知恵を持っていた事を念頭に置かないと真の古代史など見えるものでは無い。

248:日本@名無史さん
18/05/18 13:11:01.79 .net
倭国には製鉄技術があり、養蚕技術と紡績技術、水田稲作もあった。
倭人は想像以上に技術力が高かったようだ。
奈良盆地を除いて。

249:日本@名無史さん
18/05/19 10:39:35.78 .net
>>243
>倭人は想像以上に技術力が高かったようだ。
これは同意
弥生時代はおろか、縄文時代から文明社会だよ
>奈良盆地を除いて。
そして、縄文時代から広域流通が日常的に行われており、
奈良盆地だけ「取り残しておく」方が難しいww

250:日本@名無史さん
18/05/19 12:11:37.35 .net
伝説の神、実在しなかった!とアカデミズムに貶められてる神武天皇がやけに気になって来た。ちょっと詳しく調べてみたいと思った。
あと皇紀がさもトンデモみたいなのも。

251:日本@名無史さん
18/05/19 12:16:18.97 .net
>>244
広域流通の手段は船なんだよ。
当然、発展するのは海沿いの地域になる。
内陸の奈良盆地は取り残される。

252:日本@名無史さん
18/05/19 12:22:59.59 .net
URLリンク(jp.stanby.com)
二千六百年がトンデモだとか…。一千年越えの歴史を持つ会社が九つもある事実。

253:日本@名無史さん
18/05/19 12:27:22.53 .net
盆地は取り残さる…。
古代の大阪湾は生駒の麓ちかくまで湾岸線の筈。更に大地震による巨大津波が…。震災後に高台へ拠点を置いたのが高地性集落。

254:日本@名無史さん
18/05/19 12:30:22.18 .net
>>246
基本的に内陸部は「山の幸」だけ。 塩も採れない。
一方、海沿いの地域は「海の幸」は勿論、「山の幸」にも恵まれる。
人が生きていくには、まずは「海沿い」だろう。  @阿波

255:日本@名無史さん
18/05/19 12:32:25.33 .net
>>248
津波の影響は一過性で、復興する。
奈良盆地まで引きこもることはない。

256:日本@名無史さん
18/05/19 12:43:34.30 .net
>>250
だかしかし、古代列島には航路に繋がる川がある。
これで見れば判るが琵琶湖から河内湾へと注ぎ込み複数の支流を持つ大和川は古代の物流に此れ以上ない要衝。しかも巨大津波の被害も及ばない。
URLリンク(jumgon.exblog.jp)

257:日本@名無史さん
18/05/19 12:50:57.72 .net
と言うか瀬戸内から更に東、東海関東の東日本に行くなら
大和川を遡上するのが近道
紀伊半島南端まで迂回するのか?
東西の接合点として奈良は外せない

258:日本@名無史さん
18/05/19 12:54:48.22 .net
>>251
大和川が琵琶湖から河内湾に注ぎ込むとか頭沸いてるのか?

259:日本@名無史さん
18/05/19 12:56:29.63 .net
>>252
土器の流れからは、東海は日本海側と陸地を越えて結びついているが、奈良は経由していない。
瀬戸内海と東海の交流が少ないのは、紀伊半島を回るのは難所だったからかもしれないね。

260:日本@名無史さん
18/05/19 12:59:12.37 .net
あと、関東へのルートは甲信越地方を経由したらしい。
筑紫に討伐された出雲の残党が諏訪に逃げ込んでいるね。
関東を最初に開拓したのも出雲だったから、古代の倭国では日本海勢力が優勢だったことがわかる。

261:日本@名無史さん
18/05/19 13:00:14.74 .net
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津

262:日本@名無史さん
18/05/19 13:00:59.99 .net
>>249
平城京跡から出土した木簡だが。件の川で阿波、淡國から調として納められていた模様。九州も機内も四国も古代倭国にとって重要な土地だったのは間違いない。邪馬台国等のまぼろし?を追うよりもな。
魏志倭人伝(他国の古文書)に惑わされず古代の史実を知りたい。
路国三原郡阿麻郷戸主海部□麻呂戸口同姓嶋万呂調塩三斗・○□○平寶字
五年十月四日

263:日本@名無史さん
18/05/19 13:02:33.57 .net
>>253
いいや。

264:日本@名無史さん
18/05/19 13:04:40.17 .net
>>254
>土器の流れからは、東海は日本海側と陸地を越えて結びついているが、奈良は経由していない
でもよく知られるように大和には東海系の土器が流れ込んでる

265:日本@名無史さん
18/05/19 13:07:50.78 .net
しかし瀬戸内海と奈良の関係は希薄である。
大和川は流通に用いられた形跡がない。

266:日本@名無史さん
18/05/19 13:08:41.69 .net
ちなみに弥生時代の人口の推定とか見れば東山道とか結構人が多いんだよな
交易港を擁した海岸沿いが発展し内陸は置き去りにされる
・・・なんてのは現代のイメージをそのまま古代に持っていってるだけ

267:日本@名無史さん
18/05/19 13:12:52.64 .net
>>261
やたらと広範囲な東山道を持ち出されてもコメントしにくいけど、甲信越地方は出雲の勢力が上越あたりから侵入していたらしいと、以前のレスに書き込みがあった。
関東最古の大社を名乗る埼玉県の鷲宮神社も出雲の関連だ。
諏訪経由でこの地方は発展していたが、奈良盆地はそのような条件には恵まれていない。

268:日本@名無史さん
18/05/19 13:15:03.25 .net
今のと古代の大和川は、、、まあいいや…()

269:日本@名無史さん
18/05/19 13:18:01.76 .net
>>263
付け替えだろ?
でも水位とか今よりも条件が良くだろう

270:日本@名無史さん
18/05/19 13:24:55.22 .net
でも纒向から瀬戸内系の遺物が出ない不思議

271:日本@名無史さん
18/05/19 13:26:03.56 .net
>>248
>震災後に高台へ拠点を置いたのが高地性集落。
一つの高地性集落が数世紀に渡って営まれてたりする
一時的な避難場所でもない
高地性集落=一時的な避難場所
というイメージなら大昔の異物

272:日本@名無史さん
18/05/19 13:29:24.00 .net
>>265
・・・?
手っ取り早くwikiだが
URLリンク(ja.wikipedia.org)
吉備播磨西瀬戸内系と出てるが

273:日本@名無史さん
18/05/19 18:13:37.60 .net
>>253
>大和川が琵琶湖から河内湾に注ぎ込むとか頭沸いてるのか?
直接はつながっていないね
それは、少し筆が滑ったんだろう
大和川を遡って、奈良盆地に入り佐保川を遡っていった地域が、
垂仁天皇のときの狭穂彦の乱の本拠地の「狭穂」
そこからそれほど高くない平城山を越えた背後が、「山背」で
山背側の祝園も、崇神天皇のときの武埴安彦命の乱に地名説話が
出てくるヤマトの直接の勢力範囲
山背の木津川は、そのまま琵琶湖に行けるから、物流経路としては妥当だろ

274:日本@名無史さん
18/05/19 18:15:28.79 .net
>>255
>関東へのルートは甲信越地方を経由したらしい。
>筑紫に討伐された出雲の残党が諏訪に逃げ込んでいるね。
だったら、>>246
「当然、発展するのは海沿いの地域になる。
 内陸の奈良盆地は取り残される。」
は、否定されるね!
内陸も交通路になるんだろ?

275:日本@名無史さん
18/05/19 18:18:11.78 .net
>>260
>瀬戸内海と奈良の関係は希薄である。
>大和川は流通に用いられた形跡がない。
九州説側は、よくこの論旨を使うけれど、瀬戸内海と河内の結びつきは顕著なんだよ
そして、河内と大和は大和川で直結されていて、文物の交流も顕著
というよりも、一体として動いている

276:日本@名無史さん
18/05/19 18:21:42.19 .net
「大和+河内~環大阪湾」の範囲が、畿内第V様式土器を共通に使う範囲
この範囲が、邪馬台国七萬餘戸の範囲として妥当

277:日本@名無史さん
18/05/19 19:13:44.39 .net
>>268
かつて豊臣秀吉が干拓するまで京都に存在した巨椋池(おぐらいけ/巨大な池で、池と言うより湖)琵琶湖から木津川で巨椋池へそして河内湾へ。
それは伊賀とも川で繋っていたと言う。
URLリンク(best-times.jp)

278:日本@名無史さん
18/05/19 19:17:57.20 .net
>>272
スマン
木津川☓
宇治川○

279:日本@名無史さん
18/05/19 19:37:38.50 .net
>>262
>関東最古の大社を名乗る埼玉県の鷲宮神社も出雲の関連だ。
倭国(阿波)を発った忌部一族を祀る神社ですね。  @阿波

280:日本@名無史さん
18/05/19 19:39:41.76 .net
>>262
>関東最古の大社を名乗る埼玉県の鷲宮神社も出雲の関連だ。
その「出雲」も 倭国(阿波)を発った忌部一族の拓殖地ですね。  @阿波

281:日本@名無史さん
18/05/19 22:09:36.35 .net
>>272
巨椋池が干拓されたのは昭和だが

282:日本@名無史さん
18/05/19 23:24:34.33 .net
>>276
なんかそう思い込んでたけどちょっとググってみる。

283:日本@名無史さん
18/05/19 23:44:31.47 .net
秀吉が行ったのは長大な築堤による宇治川と巨椋池の分離と
巨椋池内への築堤による街道整備だよ

284:日本@名無史さん
18/05/20 10:52:11.95 .net
>>276
ありがとう、なんか記憶違いしてた。琵琶湖→瀬田川(宇治川)→巨椋池→浪速津河内湾は繋がってた模様。
上の方で、西遷、と言う事が出てたが古事記の「日を背にして戦う」神武天皇の件はひょっとして其れかも知れん。

285:日本@名無史さん
18/05/20 12:58:06.47 .net
ひょっとしてって何が?w

286:日本@名無史さん
18/05/20 14:19:23.87 .net
>>270
>九州説側は、よくこの論旨を使うけれど、瀬戸内海と河内の結びつきは顕著なんだよ
土器からは否定されるわけだが、何を根拠にそう言うのか?

287:日本@名無史さん
18/05/20 16:24:15.58 .net
古事記の神武天皇の「(土蜘蛛征討?に)日の天子は東から回り込んで日を背に、、、」的な件を考えると「西遷」を示しているのかも。
しかし、更に考えると戦略ひとつで全方位から攻める事が出来る勢力を持っていたとも考えられるか。
葛城?の牙城を包囲するような勢力か、、、。
アカデミズムが伝説上の…と言う程なにか秘密が隠れてそうな気はする。

288:日本@名無史さん
18/05/20 20:44:26.10 .net
もはや誰も止められないw
@阿波みたいw

289:日本@名無史さん
18/05/20 23:02:28.94 .net
貶し合い専門の紋切り型のモン吉くんかな。相手せんとこ。

290:日本@名無史さん
18/05/21 07:21:30.31 .net
>>282
伊都国の王城が高祖宮だとすると、倭王は高祖山から昇る太陽を背にして君臨することになる。
東側に山がある地形が太陽信仰にとって重要であったのかもしれない。

291:日本@名無史さん
18/05/21 07:44:51.85 .net
太陽を背にしちゃいかんだろ、日向じゃないと

292:日本@名無史さん
18/05/21 10:06:25.71 .net
纏向古墳群の東田大塚古墳と纏向矢塚古墳、箸中山古墳の主軸の方向が揃っていて、
きっちり夏至の夜明けの方角を向いてる

293:日本@名無史さん
18/05/21 10:32:58.51 .net
それがどうしたんじゃ?

294:日本@名無史さん
18/05/21 12:09:51.69 .net
>>286
いいんだよ。
天神は太陽を背にしなくてはいけないと神武�


295:ェはっきり言っている。



296:日本@名無史さん
18/05/21 17:47:51.89 .net
でもって、東田大塚古墳が、竜王山を向いてて、箸中山古墳が穴師山を向いてる
三輪山から夏至の日の出が見られるところに、大神神社がある
東の稜線と夏至の日のでは、いろいろと意識されてるっぽい

297:日本@名無史さん
18/05/21 17:50:22.84 .net
東に山があるのが神仙思想だと孝霊厨が言っていたが、ますます九州伊都国説を補強するだけだった。

298:日本@名無史さん
18/05/21 18:30:00.30 .net
>>290
偶然だな

299:日本@名無史さん
18/05/21 18:40:13.47 .net
九州伊都国説がゴミすぎて笑えた

300:日本@名無史さん
18/05/21 19:08:54.85 .net
>>293
具体的に何処が?

301:日本@名無史さん
18/05/22 09:34:14.44 .net
>>292
>偶然だな
自分でも調べてごらん
東田大塚古墳から竜王山のラインには、きっちり渋谷向山古墳が入っているし
箸中山古墳から穴師山「ゲシノオオダイラ」のライン上には穴師坐兵主神社があるよ

302:日本@名無史さん
18/05/22 12:19:22.73 .net
>>295
ラインに入ってるだけ

世界地図
直線引けば
あら不思議

303:日本@名無史さん
18/05/22 15:09:06.49 .net
>>296
>ラインに入ってるだけ
任意の地点で任意の日付の日の出の方角を
調べられるウェブページがあるから、ちょっと調べてごらん
東田大塚古墳の後円部墳頂からの夏至の線を引くと、それがぴったり
前方部を通る古墳の中心線を通っていて、かつ竜王山を向いてて、
途中の渋谷向山古墳の古墳の軸も通ってるんだよ
纏向矢塚古墳も箸中山古墳も平行に同じ方向を向いていて、
箸中山古墳のラインは、穴師山「ゲシノオオダイラ」と
穴師坐兵主神社の本殿をぴったり通る
三輪山から夏至の日の出が見られるところに、大神神社がある
纏向矢塚古墳の夏至の日の出方向には、何もなさそうだけれどねww

304:日本@名無史さん
18/05/22 15:15:51.49 .net
>>297
URLリンク(www.geocities.jp)

305:日本@名無史さん
18/05/22 16:49:01.05 .net
>>298
「箸墓古墳の主は「夏至の祭り」を主宰していた?」
それは、忌部一族が「夏至の祭り」を主宰していたってこと。  @阿波

306:日本@名無史さん
18/05/23 13:08:19.43 .net
阿波が、と言うか、阿波も先史から倭人の重要な拠点であった事実は動くものじゃないし、千葉県の安房は忌部氏の東遷と言うが、総國=麻國かな。
吾は倭、吾倭、阿波、安房。
其の忌部氏のルーツを夫余に求める説などは、倭人の広大な圏内のひとつをルーツとしてしまったのか。
なんでも大陸半島経由にされた弊害であろう。

307:日本@名無史さん
18/05/23 14:58:20.39 .net
>>297
しかし、阿蘇山がない

308:日本@名無史さん
18/05/23 15:15:52.80 .net
いるのか?

309:日本@名無史さん
18/05/23 18:48:42.74 .net
大陸中華には火山が(ほぼ)ないから、僻地のことでも、
耳目にとまり、特記したくなったんだろう

310:日本@名無史さん
18/05/23 18:51:45.88 .net
大和に向かうなら、阿蘇には立ち寄れない。
倭が阿蘇を含む国だったから記録に残した。

311:日本@名無史さん
18/05/23 18:57:49.83 .net
>>304
寄って阿波もダウト

312:日本@名無史さん
18/05/23 20:48:41.16 .net
>>304
>大和に向かうなら、阿蘇には立ち寄れない。
立ち寄ったとは書いてないだろ?
それに隋書だよ?
遣隋使は大和朝廷からの派遣
>倭が阿蘇を含む国だったから記録に残した。
そうだよ? 大和朝廷の国造や県主他に、九州の豪族も任命されてる
阿蘇のある辺りも当然倭国で何の疑問もないけれど?

313:日本@名無史さん
18/05/24 08:20:59.70 .net
>>306
>遣隋使は大和朝廷からの派遣
根拠は?

314:日本@名無史さん
18/05/24 10:00:51.45 .net
九州説さんの言い分だと、日本書紀は筑紫倭国の史書を盗んで書いてるんでしたっけ?w

315:日本@名無史さん
18/05/24 10:14:06.95 .net
畿内は推古天皇の時代なのに、天多利思比孤(垂らし彦)という明らかな男王の名が記されているしね。

316:日本@名無史さん
18/05/24 11:14:47.92 .net
>>309
推古・孝徳紀は後から書き直されてることが判明済みなので、別におかしくない
当時は従兄弟の有明子が即位してて何の不思議もない
ヘンテコな九州説を唱える根拠にならないな

317:日本@名無史さん
18/05/24 11:36:40.40 .net
>>307
ほかに国がないから

318:日本@名無史さん
18/05/24 11:45:01.02 .net
>>310
>当時は従兄弟の有明子が即位してて何の不思議もない
これ、何の話?
「有明子」って誰?

319:日本@名無史さん
18/05/24 11:54:01.95 .net
>>310
畿内説お得意の、史書はすべて信用ならぬが発動かな?

320:日本@名無史さん
18/05/24 11:54:20.52 .net
>>311
ないという根拠は?

321:日本@名無史さん
18/05/24 12:01:50.99 .net
>>313
>畿内説お得意の、史書はすべて信用ならぬが発動かな?
隋書と日本書紀の記述の対応が取れるのに、
それを認めない、大和朝廷の遣使ではないと言っている=記紀も隋書も信じない、と
言っているのは九州説の方だろう?
何を言ってるんだ?

322:日本@名無史さん
18/05/24 12:02:59.49 .net
>>314
>ないという根拠は?
いや、あるならどこにあるのか示してくれればそれで済むだろ?
ないのか?
ないんだな?
ならいいじゃないかww

323:日本@名無史さん
18/05/24 12:05:00.25 .net
日本国ではなく、倭国についての記録がたくさんあるから、それが証拠だよね。

324:日本@名無史さん
18/05/24 12:14:16.32 .net
雄略天皇の頃も、推古天皇の頃も、畿内の大和朝廷が倭国朝廷を名乗ってるんだが?

325:日本@名無史さん
18/05/24 12:42:19.70 .net
>>318
証拠は?

326:日本@名無史さん
18/05/24 16:06:46.01 .net
九州の大王が遠く離れた畿内に
四天王寺や法隆寺を建てたという珍説

327:日本@名無史さん
18/05/24 17:21:55.24 .net
>>319
考古学

328:日本@名無史さん
18/05/24 17:56:31.79 .net
>>321
名前が書いてあるわけでもなかろうに。

329:日本@名無史さん
18/05/24 17:57:50.79 .net
>>320
九州から移築したらしいよ。

330:日本@名無史さん
18/05/24 18:00:44.95 .net
【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。

331:日本@名無史さん
18/05/24 18:25:25.93 .net
>>319
>証拠は?
「証拠は?」って聞くのはこちら側なんだが?
「倭の五王」、特に最後の倭王武が雄略天皇というのは、教科書レベルの定説
それに異を唱えるなら、それなりの根拠と論証をしてもらわないと
年代論で言えば、継体17年が武寧王の没年に当たるというのが、記紀と
武寧王の墓誌で確認できるので、そこを基準年として遡っていけば、
倭の五王の年代と、雄略天皇の在位年が重なることからも確認できる
あと、雄略天皇の宮が稲荷山鉄剣に斯鬼宮、記紀に泊瀬朝倉宮とあるが、
畿内だと磯城に初瀬、朝倉の地名があり整合性がある
九州にも、初瀬、朝倉の地名は単独ではあるが、離れた場所にあり、
泊瀬朝倉宮にはならない

332:日本@名無史さん
18/05/25 11:35:39.91 .net
九州ガー畿内ガー、と言うより件の時代に近いのか、今の群馬県渋川辺りでも甲を着た兵士と思しき人骨が「こいつら発想力が乏しすぎワロタ」と嗤ってるやも。
URLリンク(style.nikkei.com)

333:日本@名無史さん
18/05/25 11:40:20.93 .net
>>326
ただ、マスゴミらしくお困りの国のゴリ押しを絡めてるが。
半島で出たのが真実()としても其れは倭人の兵士と思われる。

334:日本@名無史さん
18/05/26 16:46:44.02 .net
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略   「自帯方至女國万二千余里」
後漢書  「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書   「去帶方萬二千餘里」
隋書   「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書  「去京師一萬四千里」
新唐書  「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを
続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ

335:日本@名無史さん
18/05/27 10:24:45.09 .net
>>328
>この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
都合が悪いのでそう思いたいんだね。
かわいそうに。

336:日本@名無史さん
18/05/27 10:35:12.99 .net
>>328
九州説には、王都と見られる集落遺跡もないし、
径百歩級の大墳丘墓=卑弥呼の墓の候補もない
結局、魏志倭人伝は「こう読むのが正しい」という、文献史学頼りでがんばるしかない
そして、その根幹が、「短里で読めば萬二千里は九州」って1点にかかってるんだよなww
3世紀の遺物・遺跡に見るべきものががない九州説を信じ続けるのは大変だw

337:日本@名無史さん
18/05/29 20:42:43.64 .net
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

338:日本@名無史さん
18/05/29 20:43:15.61 .net
 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

339:日本@名無史さん
18/05/29 20:51:54.75 .net
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
URLリンク(yamatai.cside.com)

340:日本@名無史さん
18/05/29 20:52:17.54 .net
【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」-「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」-魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
-邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」-「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
URLリンク(www.infokkkna.com)
「魏志倭人伝」-「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
-弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。

341:日本@名無史さん
18/05/29 20:58:51.09 .net
>>334
>福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
国産の水銀朱は、一箇所も使われておらず、弥生時代には九州には辰砂の
鉱脈、鉱山は知られていなかった
九州だけの倭国を主張する限り、其山有丹で即死

342:日本@名無史さん
18/05/30 00:35:01.48 .net
平気で嘘をつく病気がある?大人の虚言癖の心理・原因と対処法!
URLリンク(lovely-media.jp)

343:日本@名無史さん
18/06/04 06:45:44.17 .net
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

344:日本@名無史さん
18/06/04 06:46:25.39 .net
 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

345:日本@名無史さん
18/06/04 06:47:08.44 .net
 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

346:日本@名無史さん
18/06/04 06:47:27.92 .net
 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

347:日本@名無史さん
18/06/04 07:20:40.27 .net
纒向と瀬戸内は交流が乏しいよ。
纒向は東海の傘下にあったことが土器の流通からわかる。

348:日本@名無史さん
18/06/04 09:40:50.75 .net
>>341
>纒向と瀬戸内は交流が乏しいよ。
>纒向は東海の傘下にあったことが土器の流通からわかる。
必ずこれが湧いて出るけど、瀬戸内と河内は交流が分厚いだろ?
大和+河内~環大阪湾の地域は、畿内第V様式土器の時代から、一つの地域だよ
そして、乏しいというが、吉備の特殊器台をそのまま受け継いでいるし、
その前から弧文円板など、吉備系の祭祀具が出ている
乏しいっていうのは、為にいう文言に過ぎない

349:日本@名無史さん
18/06/04 15:29:25.15 .net
河内は瀬戸内だが、大和は違うだろ。
>>342
>乏しいっていうのは、為にいう文言に過ぎない
それは畿内説が伊都とか平原に対してよく使うレトリックだろ。
一緒にするな。

350:日本@名無史さん
18/06/04 16:01:06.56 .net
「為にいう」w

351:日本@名無史さん
18/06/04 17:51:07.61 .net
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2


352:世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征 →瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入 2世紀末に銅戈が大阪湾上陸 →畿内から庄内式土器が博多湾へ流入 3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入 →畿内から布留式土器が博多湾へ流入



353:日本@名無史さん
18/06/04 17:52:31.34 .net
隣接地に絞ると纏向遺跡の出土土器は
河内10%
近江5%
紀伊1%
山城0%
摂津0%
河内と大和は大和川一本でつながっているし、畿内第V様式土器以降、
庄内式土器、布留式土器への変遷も歩調を揃えて、進んでいる
どう考えたら、別勢力になるのかが不思議
奈良と大阪の土器はちょっと違う ←せやな
つまり奈良は名古屋で、大阪は九州だ ←は?

354:日本@名無史さん
18/06/04 18:00:12.47 .net
纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す遺跡であり、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとする研究者もいる。
しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降の可能性がある[2]。
wikiより

355:日本@名無史さん
18/06/04 18:02:59.07 .net
纒向の搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
紀伊系 : 1%

356:日本@名無史さん
18/06/04 19:12:14.25 .net
ここで言う、どこどこ系土器、というのが、基本的に飯炊き甕で
あることには注意が必要
途中で煮炊きしなければならない距離の移動なら、飯炊き甕を持参する
必要があるが、すぐに行ける距離や、行った先で飯が出るなら甕を持って
出かけなくてもいいだろう
それと庄内式の頃から土器製作地の集約が進み、ある範囲には特定の製作工房から
土器が配布(事実上の販売かも)されていたこと
河内南西部と奈良盆地西部にそれぞれ土器の製作中心があったから、わざわざ持って
行く必要がなかっただけだと思うな
まあ、証明はできないけど、河内の土器が奈良盆地での出土が少ないから交流が
なかったはずだと短絡的に考えるより筋が通ってると思うがね

357:日本@名無史さん
18/06/04 19:30:06.37 .net
証拠もなく都合のいい想像で済ませる。
さすがはでっち上げ畿内説!

358:日本@名無史さん
18/06/04 19:57:15.00 .net
>>348
>纒向の搬入土器の出身地割合
それ、各地の忌部一族が持ち寄った「東阿波型土器」だから。  @阿波

359:日本@名無史さん
18/06/04 20:08:18.81 .net
目と鼻の先の河内と大和の交流が少なかったのは、何が理由なんだろうね。
大和川が水運に適さない河川であったのもあるだろうが、政治的に別のグループでもあったのだろう。
弥生末期の西日本がいくつもの集団に分かれていたことがうかがえる。
そんな状況の中で、地理的に圧倒的に有利で、富を集積していた筑紫を差し置いて魏と交渉できた勢力があり得ただろうか?

360:日本@名無史さん
18/06/04 20:16:01.07 .net
証拠もなく都合のいい想像で済ませる。
さすがはでっち上げ●●説!

361:日本@名無史さん
18/06/04 20:16:19.35 .net
>>352
>富を集積していた筑紫を差し置いて魏と交渉できた勢力があり得ただろうか?
なんと、それがあり得たんですよ。  @阿波

362:日本@名無史さん
18/06/04 20:38:10.26 .net
>>352
>大和川が水運に適さない河川であったのもあるだろうが、
??
寺澤先生の論文「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」から引用
「縄文時代晩期後半の突帯文土器様式のうち、(中略)
 突帯文様式の遺跡は一見して、菩提山川と大和川を結ぶ盆地の南部に集中する様子が
わかる。とくに突帯文様式単純の遺跡(J 型)は、唯一、秋篠川上流の西隆寺下層を
除けば、大和川本流(初瀬川水系)以南にほぼ限られており、おそらくは朝鮮半島-玄界灘
沿岸地域ルートで伝来し、北部九州の穀物センターにおいて定着を果たして初期の
不完全な農耕文化の揺籃を開始した突帯文系様式は、瀬戸内海ルートで河内潟に入り
河内平野への入植を介して大和川を溯上して初瀬川をさらに遡上したことがわかる。」
そもそもからして、奈良盆地の集落は、河内平野への入植~大和川を遡上~初瀬川へ、と
河内の集団が奈良盆地へ伸張して行ったものと見られる
最初から本質的に同根・同祖だね
なぜ別集団だと考えるのか?

363:日本@名無史さん
18/06/04 20:38:58.51 .net
>>352
>富を集積していた筑紫を差し置いて
集積してないよ? 3世紀には既に田舎

364:日本@名無史さん
18/06/04 20:43:15.45 .net
>>356
田舎だという根拠は?

365:日本@名無史さん
18/06/04 20:45:02.68 .net
>>356
>集積してないよ? 3世紀には既に田舎
まぁ、そうなんだけどw  @阿波

366:日本@名無史さん
18/06/05 06:51:42.25 .net
>>357
いつも言ってるんだが、逆質問で「ごまかす」な!
まずは、富の蓄積を根拠・論拠を示してきちんと論証しなさい
話はそれからだ
>>358で阿波が無条件で同意するくらいの常識だぞ
3世紀の北部九州はただの田舎

367:日本@名無史さん
18/06/10 10:47:36.19 .net
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた

朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺
URLリンク(youtu.be)
URLリンク(youtu.be)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(youtu.be)

368:日本@名無史さん
18/07/12 15:00:05.75 .net
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
HGK

369:日本@名無史さん
18/07/17 09:59:24.23 .net
このスレ、2016年に立てられてるんだな
存続理由もないし、適当に使いつぶしてもいいかな?

370:日本@名無史さん
18/07/18 14:58:43.02 .net
墳丘長200メートル以上の大古墳は、全国に40基ある
奈良県 20基
大阪府 15基
岡山県 造山古墳
    作山古墳
    両宮山古墳 
群馬県 太田天神山古墳
京都府 神明山古墳 
トップ101で数えると墳丘長137メートルまで数えることになるが、
奈良県 34基
大阪府 27基
岡山県 9基
群馬県 5基
京都府 5基
兵庫県 茨城県 宮崎県 3基
三重県 2基
宮城県 山梨県 愛知県 鹿児島県 福岡県 千葉県 
岐阜県 福井県 石川県 香川県 埼玉県
が1基ずつだね
ちなみに福岡県は岩戸山古墳で80位 筑紫君磐井の墓だね
これで、古墳時代の間中ずっと存続していたという九州王朝を
どうやったら想定できるのか

371:日本@名無史さん
18/07/18 15:01:03.52 .net
史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
  尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
  咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之


372:書 今拘學或抱咫尺之義 言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事   咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味   日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想 咫を円周を測るのに使っている例はない



373:日本@名無史さん
18/07/18 15:01:21.95 .net
漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
  尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
  咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
  咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である
咫を円周を測るのに使っている例はない

374:日本@名無史さん
18/07/18 15:01:39.64 .net
三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
  咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない

375:日本@名無史さん
18/07/18 15:01:55.31 .net
後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
  尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
  咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
  咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない

376:日本@名無史さん
18/07/18 15:02:16.81 .net
史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺    で使われているのが23件  
   尺有咫   で使われているのが 7件
   八寸曰咫  で使われているのが 6件
「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる
「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ
要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」      長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」
咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない
これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね
つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない

377:日本@名無史さん
18/07/18 15:02:45.29 .net
平原1号墓出土鏡を、円周が八咫だから、八咫の鏡という人がいるが、
咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で
咫を長さを表すのに使っている例は、石砮や矢の長さで「尺有咫」という慣用句的な
決まった表現で18寸を表す場合だけで、基本的には「咫尺」で「わずかな長さ」を
比喩的に表す熟語でしか使わない
平原1号墓が卑弥呼の頃であることを想定するならば、その時代に「咫」で
具体的な長さを測ることはない
したがって、平原1号墓出土鏡が円周が八咫であると認識されることもないし
八咫鏡と呼ばれることも、考えられることもない
しかも、破鏡供献されているので、千年以上後になって、発掘され復元されるまで
その間、その周囲の長さが知られることもない
この鏡が八咫鏡の語源となることもない
つまり、どうやっても平原1号墓出土鏡は八咫鏡とは無縁の鏡である

378:日本@名無史さん
18/07/18 15:04:46.32 .net
邪馬台国の時代を含む大陸史書の全例検索をしても、
「咫」が長さの単位として使われている例が、事実上ない
「尺有咫」という決まり文句中で使われる例はあるが、
そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、当時、既に「咫」が
実用される長さの単位ではなかったことが分かる
その状態で、「何かを測った」「何を測ってもいい」と主張すること自体が
意味を持たないんだよ

379:日本@名無史さん
18/07/18 15:05:06.11 .net
大きい鏡という意味の普通名詞ではない、と考える限り
八咫鏡の「本物」は誰が何と言おうと、伊勢の神宮の御神体の鏡だ
そして、その八咫鏡は見てはいけない鏡なので、実見記録はないがその入れ物については実見記録がある
八咫鏡は遷宮の際に、御桶代に入れた上で御船代に載せて、移動するが
「そのオケの大きさが平原の鏡と一致する」と主張する伊都国説の人がいる
しかし、神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に 「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、 蓋口径九寸であると記録されているそうだ
また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、 その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、円の直径は九寸としている。
この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう
どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない
八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな
本物の伊勢の八咫鏡と、平原1号墓出土鏡は大きさが異なることが明らかであり、
その意味で平原遺跡出土の大型内行花文鏡は記紀において八咫鏡と呼ばれる鏡ではない

380:日本@名無史さん
18/07/18 15:06:15.36 .net
>八咫鏡は一尺六寸三分(49センチほど)と記載がある。
それ、八咫鏡の大きさじゃなくて、御樋代の大きさだよ
八咫鏡そのものは誰も見てはいけないから、大きさも測った人はいない
この御樋代の大きさから、八咫鏡の大きさを想定している人が多いけれど、
その中にさらに黄金鑵があって、八咫鏡はその中に入っている
黄金鑵の内径が9寸という話
平原出土鏡は入らないでしょ?
『皇太神宮儀式帳』は、遷宮のときに新しく用意する御道具が記載されていて
黄金鑵は遷宮のたびに作ったりしないから、載っていない
原本引用しておくから確認してみて
『皇太神宮儀式帳』
URLリンク(edb.kulib.kyoto-u.ac.jp)
御樋代一具 深一尺四寸 内八寸三分 
      径2尺   内一尺六寸三分
『延喜式』は電子テキストで参照できる
『延喜式』4(伊勢大神宮)・造備雑物条〔24〕
URLリンク(21coe.kokugakuin.ac.jp)
樋代一具。正宮料。高二尺一寸。深一尺四寸。内径一尺六寸三分。外径二尺。

381:日本@名無史さん
18/07/18 15:07:01.65 .net
そもそもウィキペディアの「八咫鏡」のページの
説文解字の解釈が大間違いだからな
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、「周を計る尺度」なり)
「周を計る尺度」が誤訳もいいとこ
「周(の時代)の尺である」が正しいのは、説文解字の注釈まで
ちゃんと読めば確認できる
このウィキペディアの記載は、既に修正されているけれど

382:日本@名無史さん
18/07/18 15:17:07.76 .net
本物の威信財、伊勢神宮の八咫鏡とは大きさが合わないってのも
既に論証済み
伊勢神宮の八咫鏡を入れるオケの大きさに一致するとか言ってたやつがいるけれど
神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に
「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、
蓋口径九寸であると記録されているそうだ
また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、
明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、
その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、
円の直径は九寸としている。
この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう
どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない
八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな

383:日本@名無史さん
18/07/18 15:19:30.15 .net
説文解字の「咫」は、清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》を載せていて、
それに拠ると以下のとおり
周尺也。
通典引白虎通曰。夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
 按奄字未詳。疑是手之誤字。
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。

384:日本@名無史さん
18/07/18 15:37:12.91 .net
周尺也。  
周尺である
通典引白虎通曰。
「通典」の引用する「白虎通」に曰く
夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
夏王朝の法は「日」で、太陽の数が10なので、10寸を尺とした
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
殷王朝の法は「十二月」で、1年が十二月なので、12寸を尺とした
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
周王朝は地によりて生じた、地は陰であり、それで婦人を法とした
婦人の奄を広げると八寸になるので、八寸を尺とした
 按奄字未詳。疑是手之誤字。
 奄の字はよく分からない、手の誤字ではないかと疑う

385:日本@名無史さん
18/07/18 15:44:02.03 .net
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
ここまで述べてきた文で見るように、尺は十寸である 
ここに及び、その字、これより下では、周制(周の制度)では、八寸を尺としたという話だ
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
周代の制度でも古い時代とは異なる別の制度があった
王制(礼記の一篇)によれば、いにしえには周尺の八尺を歩としていた
今は、周尺の六尺四寸が歩である
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
鄭注では、周尺の数(長さ、寸の数)はいまだに詳しいことははっきりしない
礼制の(記述)から考えて、周(の制度で)も、なお十寸で尺としていたようだ(と鄭注に書いてある)
 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
 考えてみるに、春秋戦国時代には、変乱法度が多かった。
 あるいは周尺は八寸と言う
 歩を以ってさらに八をなす(歩はさらに八尺である)
 ハッパ六十四である(今以周尺六尺四寸爲步と一致する)

386:日本@名無史さん
18/07/18 15:50:47.08 .net
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
鄭注の(鄭玄の、としてもよいが)意味するところは、八寸で尺と為すということだ
周末にこれ(一尺八寸)が始まった
異なる説も当然成り立ちうる
そうではあっても、またいうことには、
諸侯(六国の王)が(王制、礼制ではない)力政を行っている
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
(周朝が衰え、天下が)分かれて(秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙の)七国を為す
田のうねは畮を異にする
農作物の植え方、農地の区画の仕方が、国ごとに異なる様子をいう
車の涂(みち)は軌を異にす
涂は、途(みち)の意味 軌は車輪の幅 交通手段、車の規格が国ごとに異なる様子をいう
律令は法を異にす
律令も、国ごとに異なる法令を使っていた
律令の法が国ごとに異なるということは、公定尺の長さも異なることになる
則ちその説くところ、また、未だ嘗て合わざらずなり
結局は周代の尺が10寸と8寸の両方あって説くところが合わないという話になる

387:日本@名無史さん
18/07/18 15:53:14.20 .net
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
佐伝 天子の威光、咫尺に顔を違らざる
咫尺を並べていう 二尺とは言わざるなり(咫と尺は同じ長さ(=八尺)ではない)
左伝には、「天(子の)威(徳)、(龍)顔を違らざること咫尺」と書いてある
左伝は、左氏春秋伝のこと 左丘明の作と伝えられる「春秋」の注釈書
咫尺を並べて言うということは、区別があるということ
だから、二尺とは言わない
この部分全体が、説文解字の「咫」の「周尺也」の注な訳だが
「周尺=咫」ではないことが分かる

388:日本@名無史さん
18/07/18 15:58:36.49 .net
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
国語(春秋外伝)では、列子皆その長さを「尺有咫」という
またその長さを二尺とは言わざるなり
これ、周はいまだかつて八寸を尺と為さざる証というべきや
「国語」でも、「列子」でも、みんな、その長さ「尺有咫」という使い方をしている
『国語』は、21巻から成る国別の春秋時代史で、
『春秋左氏伝』の著者とされる魯の左丘明の編纂といわれている
『列子』は春秋戦国時代の人、列禦寇の著書とされる道家の文献
国語には「石砮其長尺有咫」、列子には「其劍長尺有咫」という表現がある
(天威咫尺で二尺と言わなかったように)また、二尺とは言っていない
「左伝」でも「国語」でも「列子」でも、
咫と尺を並べて使っていても、二尺とはしていない
こうしたことは、周の時代にいまだかつて八寸を尺と
したことはないという証と見てよいだろう
咫と尺はあくまで区別されている

389:日本@名無史さん
18/07/18 15:59:34.71 .net
《王制》 出自《礼记》是指古代君主治理天下的规章制度,
内容涉及封国、职官、爵禄、祭祀、葬丧、刑罚、建立成邑、选拨官吏以及学校教育等方面的制度。
禮制,漢語詞彙,漢語拼音為lǐ zhì,
是德治夢想的具體化,指的是通過禮儀定式與禮制規範塑造人們的行為與思想;
通過法律的懲罰維護禮法的絕對權威。
據史實而論,西周王朝的禮制和官制顯然受先周禮制文明的影響,尤其.
對夏、商二代之禮制及官制有其沿襲的軌跡。
究其遠源,姬周王朝官制與禮制之形. 成,實際上應追溯到堯舜時代。
鄭注
後漢の鄭玄(じょうげん)による経書の注釈

390:日本@名無史さん
18/07/18 16:00:03.20 .net
纏向遺跡と出雲、吉備の間は、双方向の土器の移動が確認できる
吉備甕は、北部九州から畿内まで出土している
北部九州の土器は、畿内ではあまり出ないが、北部九州では畿内様式土器が
畿内第V様式から順に、畿内の土器形式の変遷に合わせて出土している
この部分については、ソースをつけておくから確認してくれ
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所�


391:I要 第66冊 (2010年3月31日)251-312 https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf



392:日本@名無史さん
18/07/18 17:21:01.23 .net
>>382
>纏向遺跡と出雲、吉備の間は、双方向の土器の移動が確認できる
>吉備甕は、北部九州から畿内まで出土している
それは当然の現象。 倭国(阿波)を発った忌部一族が各地で「東阿波型土器」の製法を広めたからね。

>北部九州の土器は、畿内ではあまり出ないが、北部九州では畿内様式土器が
>畿内第V様式から順に、畿内の土器形式の変遷に合わせて出土している
それも当然の現象。 倭国(阿波)を発った忌部一族が各地で「東阿波型土器」の製法を広めたからね。
佐々木憲一氏も考古学者なら知ってる筈。 @阿波  

393:日本@名無史さん
18/07/18 17:46:01.37 .net
地域別人口の超長期的推移
URLリンク(www2.ttcn.ne.jp)
honkawa/7240.html  
地域別人口規模の順位の変遷
URLリンク(www2.ttcn.ne.jp)
honkawa/7242.html  
鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
「弥生時代から奈良・平安初期にかけて
 畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が揃ってシェアを拡大し、
 そのうち畿内周辺は全国1になっている。この5地域は平安前期には、
 やはり揃って地位を低下させている。
 ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして他地域を凌駕する人口扶養力を
 養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉えることができる。」

394:日本@名無史さん
18/07/18 17:46:19.89 .net
奈文研の遺跡データベースで検索した時のヒット数のことだろ?
でも、そのデータベースの説明で
「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
 1 遺跡地図
 2 遺跡地名表
 3 発掘調査報告書(報告書抄録)
 遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
 最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
 地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」
と書いてある
『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
九州説はこのデータベースのヒット数で、福岡県の方が多いと「言える」と
思っているようだけれど、そんなことはないんだよ

395:日本@名無史さん
18/07/18 17:46:54.37 .net
実際に検索してみると
0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件 「弥生時代の集落遺跡」
2. [福岡県] 1703件
3. [調査 (除外検索)] 723件   「調査を除外」
福岡県の「弥生時代集落」のデータのうち、980件が調査報告の件数で遺跡数ではない
0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件
2. [奈良県] 229件
3. [調査 (除外検索)] 47件
奈良県だと、「弥生時代集落」のデータのうち、182件が調査報告の件数で遺跡数ではない
また、奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵
それに対して、糸島の三雲遺跡群は5件のデータとして、データベースに登録している
341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2
結局、何を以って遺跡数とするかは、その地方自治体の考え方次第ってことで、
奈文件のデータベースは、それをそのまま記載しているってことだ
これで、福岡の方が奈良より遺跡が多いとか、言ってもしょうがないだろ?

396:日本@名無史さん
18/07/18 17:47:56.56 .net
福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる
一つの遺跡の中の、遺構・遺物を一つ一つ登録してるんだから
そりゃぁ、数が多くなるのが当然だわ

397:日本@名無史さん
18/07/18 17:48:30.04 .net
ごめん、三雲遺跡群、もっとたくさんあった
三雲・井原遺跡で地区登録が15件 その他個別登録で9件
合わせて24件だった
341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403739 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ2582・2583地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ2582・2583
403734 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ428・429地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ428・429
403738 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ434地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ434
403726 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西526-1地区 福岡県糸島市三雲字下西526-1
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2

398:日本@名無史さん
18/07/18 17:48:48.26 .net
153426 個別 40230 三雲・加賀石支石墓 福岡県糸島市三雲加賀石 333236.3 1301440.0
348190 個別 40230 三雲井ノ川遺跡 福岡県糸島市三雲
153421 個別 40230 三雲原際所在7-729墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際 333223.5 1301400.3
153432 個別 40230 三雲原際所在7-740墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際
153430 個別 40230 三雲屋敷所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲屋敷
153431 個別 40230 三雲所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲
153428 個別 40230 三雲柿木所在7-736包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
153429 個別 40230 三雲柿木所在7-737包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
445195 個別 40230 三雲郡所在包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲郡

399:日本@名無史さん
18/07/18 17:49:54.57 .net
唐子鍵遺跡 1件と三雲遺跡群24件を比べて、福岡県が24倍って言ってもしょうがないだろ?

400:日本@名無史さん
18/07/18 17:50:35.63 .net
例えば、桃の種2000個が見つかったのは、祭祀土坑のあとで、供献土器も同時に出ている
3世紀当時の直接的な祭祀・宗教行事の直接的な考古学的遺構としては、ほぼ唯一の発掘成果だ
纒向遺跡の一番の重要性は、前方後円墳祭祀が統合・完成された、宗教的な中心都市だった点にある
箸中山古墳に先行する纒向型前方後円墳時代の纒向古墳群の時点で当時の列島最大の墳丘墓であり、
埋葬部分、墳墓そのものが最重要の遺跡なんだよ

401:日本@名無史さん
18/07/18 17:51:01.77 .net
魏志倭人伝には
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
と書かれている
つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ
大きな墓を作らない地域は倭王の所在地としては除外してよい
そして卑弥呼の墓の候補は、その当時の最大の墓がまず第1候補となる
纒向石塚古墳から箸中山古墳まで累代的に築造されたと考えられている纒向古墳群の
5つの墳墓はいずれも列島最大であり、編年によってそのうちのどれに当たるかは前後しても
纒向古墳群のいずれかが卑弥呼の墓の第1候補となることには変わりがない
編年が今後より古い方にスライドすれば、箸中山古墳が卑弥呼の墓の確率が高くなる

402:日本@名無史さん
18/07/18 17:56:21.43 .net
>>391
>纒向遺跡の一番の重要性は、前方後円墳祭祀が統合・完成された、宗教的な中心都市だった点にある
人が暮らした痕跡がない以上、とても「都市」とは言えない。  
古墳造成前線基地だろうね。  @阿波

403:日本@名無史さん
18/07/18 18:03:30.64 .net
>つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ
誤訳です

404:日本@名無史さん
18/07/18 19:21:08.16 .net
剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ
普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね
畿内では大王墓は発掘できないand/or盗掘済みで、出てないってだけだよ

405:日本@名無史さん
18/07/18 19:21:29.95 .net
山梨県の笛吹市平林2号墳でも揃ってるね
自分でもちょっとググってごらんよ
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ
つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ
平原1号墓を、副葬品だけで王墓と主張するのはピント外れなんだよ
そもそも伊都国に邪馬台国を持ってきたら、邪馬台国七万餘戸も満たせないし
平原1号墓も径百歩に合わない
本当に無理な屁理屈、アクロバティック解釈を重ねないと通らない説は、
正しくないと判断するのが当然

406:日本@名無史さん
18/07/18 19:21:56.16 .net
「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩
URLリンク(f.jigen.net)
#1歩(あゆ)む。足をふみ出してゆく。
#2歩(ある)く。歩行する。
#3止は左足の足あと、𣥂は右足のあしあと。左右の足あとを連ねて歩行の意とする。武は半歩、歩は六尺、合わせて「歩武堂々」のようにいう。足を地に接して歩くことは、その地の地霊に接する方法で、重要な儀礼に赴くときには歩するのが常法であった。(字通)
#4右の足+左の足。左と右の足をふみ出すことを示す。(漢字源)
URLリンク(jigen.net)
説文解字
步,行也。从止𣥂相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と𣥂の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。

407:日本@名無史さん
18/07/18 19:22:12.91 .net
実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ
長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更)

408:日本@名無史さん
18/07/18 19:22:48.52 .net
伊能忠敬の歩測では、複歩で約138センチで秦漢代の一歩とほぼ等しい
単歩で69センチだな
現代では、歩測は複歩で150センチになるように調節する訓練をするそうだ
この場合は単歩で75センチ
ソースも付けておこうか
URLリンク(www5a.biglobe.ne.jp)
さらに、年齢別の単歩の集計結果も見つけたので、貼っておく
男性は、15歳から49歳の範囲で、70センチを超えてるよ
URLリンク(pt-matsu.com)


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