邪馬台国四国説 part1at HISTORY
邪馬台国四国説 part1 - 暇つぶし2ch424:日本@名無史さん
18/02/01 07:45:07.15 .net
「若杉山遺跡(阿南)坑道発見」
「辰砂採掘 弥生後期 日本最古か」
阿南市と徳島県教委は31日、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけ、赤色顔料「水銀朱」の原料となる辰砂が採掘されていた若杉山遺跡(同市水井町)で、
辰砂を採掘していた坑道が見つかったと発表した。これまでは露天掘りなどの手法が取られていたとみられており、
より高い技術が必要な坑道で採掘されていたことは分かっていなかった。日本最古の坑道の可能性があり、今後、詳しく調べる。
遺跡は、太龍寺山(標高618m)の標高約140~250mの地点の斜面にあり、坑道は約250mの地点で見つかった。奥行きは約14m、高さは約70~90cmある。
市が国史跡指定に向けて昨年8月から行った調査では、入り口付近から辰砂の原石が22点、石杵が10点、内部から石杵が12点見つかった。
このため、辰砂の鉱脈を含む岩を横穴式に掘り進んだ坑道だと断定した。入り口から約50m離れた斜面では、掘削する際に出たがれきなどが捨てられた「ズリ場」も確認された。
その付近で弥生土器の破片が発見されており、坑道も弥生時代に使われていた可能性があると判断した。
市などは来年度以降、坑道内部の調査を本格化させ、時代の特定につながる土器などを探す。付近で他の坑道の有無も調べる。
現在、日本最古の坑道は奈良時代に銅を採掘していた長登銅山(山口県美祢市)とされている。
若杉山遺跡調査検


425:討委員会の大久保徹也・徳島文理大学教授(考古学)は「この時期は、むき出しの岩を石杵で砕くなどして辰砂を採掘していたと考えられていたため、 これまでの考え方を覆すかもしれない」と指摘している。  徳島新聞 平成30年2月1日  @阿波



426:日本@名無史さん
18/02/01 11:34:23.87 .net
やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
 90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
 防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
 創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
 防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
 不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
 私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
 防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
 ※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
スレリンク(bouhan板)

427:日本@名無史さん
18/02/01 14:53:12.69 .net
「若杉山遺跡(阿南)坑道発見」
「辰砂採掘 弥生後期 日本最古か」
阿南市と徳島県教委は31日、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけ、赤色顔料「水銀朱」の原料となる辰砂が採掘されていた若杉山遺跡(同市水井町)で、
辰砂を採掘していた坑道が見つかったと発表した。これまでは露天掘りなどの手法が取られていたとみられており、
より高い技術が必要な坑道で採掘されていたことは分かっていなかった。日本最古の坑道の可能性があり、今後、詳しく調べる。
遺跡は、太龍寺山(標高618m)の標高約140~250mの地点の斜面にあり、坑道は約250mの地点で見つかった。
奥行きは約14m、高さは約70~90cmある。
市が国史跡指定に向けて昨年8月から行った調査では、入り口付近から辰砂の原石が22点、石杵が10点、内部から石杵が12点見つかった。
このため、辰砂の鉱脈を含む岩を横穴式に掘り進んだ坑道だと断定した。
入り口から約50m離れた斜面では、掘削する際に出たがれきなどが捨てられた「ズリ場」も確認された。
その付近で弥生土器の破片が発見されており、坑道も弥生時代に使われていた可能性があると判断した。
市などは来年度以降、坑道内部の調査を本格化させ、時代の特定につながる土器などを探す。付近で他の坑道の有無も調べる。
現在、日本最古の坑道は奈良時代に銅を採掘していた長登銅山(山口県美祢市)とされている。
若杉山遺跡調査検討委員会の大久保徹也・徳島文理大学教授(考古学)は「この時期は、
むき出しの岩を石杵で砕くなどして辰砂を採掘していたと考えられていたため、
これまでの考え方を覆すかもしれない」と指摘している。  徳島新聞 平成30年2月1日  @阿波

428:日本@名無史さん
18/02/03 18:25:21.32 .net
沖縄にも久米村とか久米が多いね
徳島と関係あるんかな

429:日本@名無史さん
18/02/06 18:17:22.34 .net
丹山は北部九州にあるじゃん
『出真珠青玉 其山有丹』
なんだから、山に丹があるだけで倭人伝の条件を満たす
丹を採掘しているなら、
『出真珠青玉丹』
『出真珠青玉 其山出丹』
になるはずだよね。


だから阿波は真っ先に脱落。

430:日本@名無史さん
18/02/06 18:18:26.54 .net
☆☆☆ @阿波 注 意 報 ! ! ☆☆☆
@阿波は単なる荒らしです。
反応を釣りだすのを楽しんでいるだけで、
理をもって説き伏せても同じ内容を何度も書きこんで煽ってくるクズです。
@阿波には根拠もないし、真面目に


431:議論する気もありません。 他説が反応しやすいコピペをひたすら繰り返すだけです。 スレ汚しになるから相手しないように。 どうしても反論したいなら、たん壺に吐き出せば@阿波は必ず目を通します。 (ageれば他の皆も見てくれます) たん壺 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1458389654/l10



432:日本@名無史さん
18/02/06 19:05:10.10 .net
>>414
何言ってるかわからないwww

433:日本@名無史さん
18/02/06 19:07:50.23 .net
@阿波はアホかw
阿波の西には
北部九州を中心とする中国朱を大量に使用していた広大な地域があるわけだぞ。
その地域を抜けて東に阿波があって、
阿波でこじんまりと阿波朱を採掘していた。
つまり
阿波は海外交易圏から外れて
自前の丹で必死に自活していた田舎ってことだ。

434:日本@名無史さん
18/02/06 19:15:35.19 .net
>>417
坑道も新たに見つかって大規模だったこと知らんのかw

435:日本@名無史さん
18/02/06 19:17:53.25 .net
>>418
だからこそ邪馬台国じゃない

436:日本@名無史さん
18/02/06 19:20:32.03 .net
丹山は北部九州にあるじゃん
『出真珠青玉 其山有丹』
なんだから、山に丹があるだけで倭人伝の条件を満たす
丹を採掘しているなら、
『出真珠青玉丹』
『出真珠青玉 其山出丹』
になるはずだよね。


だから阿波は真っ先に脱落。

437:日本@名無史さん
18/02/06 19:28:29.51 .net
158日本@名無史さん2018/02/05(月) 12:08:56.49
>>157
>末蘆國----唐津中原遺跡
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし。
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。  @阿波

159日本@名無史さん2018/02/05(月) 20:10:13.88>>162
1596年の朝鮮通信使は名護屋(東松浦半島)に上陸している。
(日本往還日記)
この時点で@阿波はいつもの大嘘。

@阿波は詐欺師

438:日本@名無史さん
18/02/06 19:29:40.44 .net
162日本@名無史さん2018/02/05(月)
>>159
>1596年の朝鮮通信使は名護屋(東松浦半島)に上陸している。
(日本往還日記)
その名護屋(東松浦半島)は、「往」じゃないく、「還」のはなし。
165日本@名無史さん2018/02/05(月)
>>162
「往」の旅行日誌が詳しく記されている。
末蘆国は唐津。
歴史文献上も考古学上も、定説通りで確定。

@阿波は詐欺師

439:日本@名無史さん
18/02/06 19:30:39.61 .net
164日本@名無史さん2018/02/05(月) 20:37:47.07
>>160
>さらに、楽浪土器は伊都までしか到達しておらず、
当然として、楽浪土器が最も出土しているのも、末羅国の宗像方面。  @阿波
228日本@名無史さん2018/02/06(火) 19:23:01.93
@阿波は、伊都に集中する楽浪土器が、宗像から一番出てるとか嘘を平然とつく詐欺師だからな

@阿波は詐欺師

440:日本@名無史さん
18/02/06 19:31:27.43 .net
史書に『出真珠青玉 其山有丹』
とあるなら邪馬台国はこの三つを産出している
と解釈しないとだめだろ
其山という書き方は邪馬台国が山国だったということ

441:日本@名無史さん
18/02/06 19:40:24.79 .net
其山有丹=邪馬台国の山には丹が有りますよ
それ以上でもそれ以下でもない
むしろ
丹を採掘しているなら、
『出真珠青玉丹』
『出真珠青玉 其山出丹』
になるはず。

442:日本@名無史さん
18/02/06 19:47:34.13 .net
丹が有るから採掘してるんだよ
採掘跡が無いからって酷い言いがかりだな

443:日本@名無史さん
18/02/06 20:19:27.25 .net
其山有丹=邪馬台国の山には丹が有りますよ
それ以上でもそれ以下でもない
むしろ
丹を採掘しているなら、
『出真珠青玉丹』
『出真珠青玉 其山出丹』
になるはず。

444:日本@名無史さん
18/02/06 20:44:02.10 .net
>>42
>其山有丹=邪馬台国の山には丹が有りますよ
分かったから、
じゃ、なんという丹山なの?  @阿波

445:日本@名無史さん
18/02/06 20:49:26.44 .net
>>427
馬鹿じゃないのw
採掘されてる事実があるから
其山出丹て書くのよw
丹が有るだけなら日本の複数の地点にばらけるよ
九州説の馬鹿は早くその時代の採掘跡を見つけろよw

446:日本@名無史さん
18/02/06 20:52:01.01 .net
>>429
だから其山出丹て書かれてないので、採掘されてる事実はなかった。
丹が有るだけなのだから、日本の複数の地点にばらける。
よって、阿波説は真っ先に邪馬台国候補から脱落。

447:日本@名無史さん
18/02/06 20:54:24.93 .net
>>430
>其山有丹=邪馬台国の山には丹が有りますよ
分かったから、
じゃ、なんという丹山なの?  @阿波

448:日本@名無史さん
18/02/06 21:03:20.55 .net
>>431
倭人伝には丹を採掘していたとは書かれていないでござる丹山

449:日本@名無史さん
18/02/06 21:06


450::45.76 .net



451:日本@名無史さん
18/02/06 21:07:32.84 .net
丹山は北部九州にあるじゃん
『出真珠青玉 其山有丹』
なんだから、山に丹があるだけで倭人伝の条件を満たす
丹を採掘しているなら、
『出真珠青玉丹』
『出真珠青玉 其山出丹』
になるはずだよね。


だから阿波は真っ先に脱落。

452:日本@名無史さん
18/02/06 21:11:12.27 .net
>>434
>丹山は北部九州にあるじゃん
分かったから、
じゃ、なんという丹山なの?  @阿波

453:日本@名無史さん
18/02/06 21:17:35.05 .net
>>430
話にならん
丹が有るということは採掘されてるのと同意だろ
当時、丹は重要な意味を持ってたんだから
魏志に残ってるわけだよ
中国産の丹以外にこの国でも丹は出ますよと

454:日本@名無史さん
18/02/06 21:26:51.07 .net
>>436
話にならん
山に丹がある
山の丹を採掘している
ぜんぜんちがう

455:日本@名無史さん
18/02/06 21:27:26.71 .net
@阿波はアホかw
阿波の西には
北部九州を中心とする中国朱を大量に使用していた広大な地域があるわけだぞ。
その地域を抜けて東に阿波があって、
阿波でこじんまりと阿波朱を採掘していた。
つまり
阿波は海外交易圏から外れて
自前の丹で必死に自活していた田舎ってことだ。

456:日本@名無史さん
18/02/06 21:35:51.59 .net
>>438
中国朱を使う事と其山有丹は別の話だろ
自前の丹を使えるように採掘したのが若杉山だ
このレベルの丹山の遺跡はここ以外日本には存在しない

457:日本@名無史さん
18/02/06 21:43:21.66 .net
>>439
だから何?w
倭人伝には
『出真珠青玉 其山有丹』
邪馬台国では真珠や翡翠が産出するけど、
邪馬台国の山には丹があるだけ
と書かれているだけ~
まさかの拡大解釈してるの?w

458:日本@名無史さん
18/02/06 22:00:01.62 .net
>>440
さっさと丹山の遺跡探しにいけよw
無いものが有る方にいちゃもんつけてるだけだぞw

459:日本@名無史さん
18/02/06 22:08:44.74 .net
>>441
>無いものが有る方にいちゃもんつけてるだけだぞw
そうだな。
中国朱が大量消費されている北部九州を中心とする倭国地域に対して
東方倭種の属国達が
いちゃもんをつけているだけだ

460:日本@名無史さん
18/02/06 22:24:32.53 .net
>>442
辰砂の発掘の歴史とかちゃんと調べてみろw
恥ずかしいわw

461:日本@名無史さん
18/02/06 22:35:39.41 .net
>>440
>邪馬台国の山には丹があるだけ
>と書かれているだけ~
じゃあ、その「丹があるだけ」の山ってなんという山? これなら答えられるかな? やっぱり無理かな?  @阿波

462:日本@名無史さん
18/02/06 22:37:28.73 .net
おそらく
丹を採掘した跡は発掘される
しかし丹があることはわかっていても、必要ないから採掘されていない場合は
跡が残らないから、
そこをついているのだろう
ただそれだけ
@阿波という詐欺師が考えそうなことだ

463:日本@名無史さん
18/02/06 22:38:59.12 .net
倭人伝には
『出真珠青玉 其山有丹』
邪馬台国の山には丹が有りますよ
と書かれているだけ
山に丹が有ればそれでいい
採掘していたらむしろ負けw

464:日本@名無史さん
18/02/06 22:43:55.50 .net
>>445
>しかし丹があることはわかっていても、
じゃあ、その「丹があることはわかっている」山ってなんという山? これなら答えられるかな? やっぱり無理かな?  @阿波

465:日本@名無史さん
18/02/06 22:45:40.33 .net
よかったじゃないか
朱儒国=丹をわざわざ自国で採掘する小さい人たちの国
とわかってw
三国志東夷伝倭人条に記載されるだけでも
すごいことだぞ!

丹なんて山にいっぱい有るけど
中国朱を大量に輸入して大量消費していた
北部九州邪馬台国なんて気にするな!
上 見て 暮らすな 下 見て 暮らせ www

466:日本@名無史さん
18/02/06 22:46:32.14 .net
>>446
>邪馬台国の山には丹が有りますよ
じゃあ、その「丹が有りますよ」の山ってなんという山? これなら答えられるかな? やっぱり無理かな?  @阿波

467:日本@名無史さん
18/02/06 22:47:21.96 .net
>>447
絶対答えられないから意味無いですよ
こいつら丹の重要性さえ無視したただのキチ外ですから

468:日本@名無史さん
18/02/06 22:47:43.78 .net
☆☆☆ @阿波 注 意 報 ! ! ☆☆☆
@阿波は単なる荒らしです。
反応を釣りだすのを楽しんでいるだけで、
理をもって説き伏せても同じ内容を何度も書きこんで煽ってくるクズです。
@阿波には根拠もないし、真面目に議論する気もありません。
他説が反応しやすいコピペをひたすら繰り返すだけです。
スレ汚しになるから相手しないように。
どうしても反論したいなら、たん壺に吐き出せば@阿波は必ず目を通します。
(ageれば他の皆も見てくれます)
たん壺
スレリンク(history板)

469:日本@名無史さん
18/02/06 22:48:59.33 .net
答えられないようだね。 答えられるはずもなし。
倭国(阿波)ではね、「若杉山」っていうんだよ。 目をつぶっているから見えないかな?  @阿波

470:日本@名無史さん
18/02/06 22:49:32.39 .net
>>450
詐欺師の言う丹の重要性とは
倭人伝が全て
だがその倭人伝に書かれているのは
丹山は北部九州にあるじゃん
『出真珠青玉 其山有丹』
なんだから、山に丹があるだけで倭人伝の条件を満たす
丹を採掘しているなら、
『出真珠青玉丹』
『出真珠青玉 其山出丹』
になるはずだよね。


だから阿波は真っ先に脱落。

471:日本@名無史さん
18/02/06 22:51:42.75 .net
おいおい
@阿波よう
お前の頭の上に踵を乗っけて聞くわw
>倭人伝に 『出真珠青玉 其山有丹』
>なんだから、山に丹があるだけで倭人伝の条件を満たす
だろ?w
反論してみろや詐欺師w

472:日本@名無史さん
18/02/06 22:55:21.51 .net
>>454
>なんだから、山に丹があるだけで倭人伝の条件を満たす
だから、「丹があるだけの山」ってなんという山? それも無いのかな?  @阿波

473:日本@名無史さん
18/02/06 22:55:40.03 .net
>>454
丹はおいといてw
真珠、青玉のことで聞きたいw

474:日本@名無史さん
18/02/06 23:00:52.96 .net
>>454
九州には丹山がないけど
倭国(阿波)ではね、「其山有丹」の山 「若杉山」っていうんだよ。 目をつぶっているから見えないかな?  @阿波

475:日本@名無史さん
18/02/06 23:03:15.50 .net
丹山は北部九州にあるじゃん
『出真珠青玉 其山有丹』
なんだから、山に丹があるだけで倭人伝の条件を満たす
丹を採掘しているなら、
『出真珠青玉丹』
『出真珠青玉 其山出丹』
になるはずだよね。


だから阿波は真っ先に脱落。

476:日本@名無史さん
18/02/06 23:04:34.75 .net
邪馬台国と丹を結びつけるのは倭人伝が根拠だろ?
その倭人伝を検討することから必死に逃げ回ってい�


477:驍フが@阿波 つまりは 詐 欺 師 



478:日本@名無史さん
18/02/06 23:06:13.97 .net
真珠は四国で取れるのは当たり前で宇和島で養殖してる
青玉が何を指すのか明確でないが青石を加工したものなら
中央構造線に沿った徳島は吉野川以外でも
海岸が青石まみれ
那賀川水系の勝浦川の海岸が青石だらけで驚くわ

479:日本@名無史さん
18/02/06 23:08:14.15 .net
>>459
意味不明
おまえが詐欺師

480:日本@名無史さん
18/02/06 23:11:29.50 .net
>460
吉野川支流の川田川では翡翠が取れていたらしいですよ。  @阿波

481:日本@名無史さん
18/02/06 23:13:13.92 .net
あれあれ?
先進国である北部九州倭国が阿波で開発してくれた品々を
自らの功績にするつもりですか?
それでいいの?
@阿波に「誇り」は無いの?

482:日本@名無史さん
18/02/06 23:16:30.17 .net
厳密に言うと北部九州倭国の産物じゃないかも?
うーん
けど、
北部九州倭国の軍隊が占領した先で
採掘したものであれば、
北部九州倭国の産物と言えるよね?
現地人を指揮して採掘していても
管理しているのは北部九州倭国人だし
ねえ、そうだよね???
北部九州倭国から下賜されないと手に入らない
中国系の銅鏡
鉄器
などなどが
まったくゼロの遺跡のものなら独自と認めよう

483:日本@名無史さん
18/02/06 23:18:42.11 .net
>>463
筑紫忌部に開発されたんでしょ。 筑紫は倭国(阿波)に感謝しなきゃ。 罰が当たるよ。  @阿波

484:日本@名無史さん
18/02/06 23:20:45.62 .net
>>465
筑紫忌部に開発されたんでしょ。 @阿波は倭国(筑紫)に感謝しなきゃ。 罰が当たるよ。

485:日本@名無史さん
18/02/06 23:20:53.54 .net
>>464
>まったくゼロの遺跡のものなら独自と認めよう
「若杉山遺跡の丹」  @阿波

486:日本@名無史さん
18/02/06 23:21:27.47 .net
>>462
はい、翡翠のことも知ってるんですけど
徳島の青石が畿内に莫大に流入しますよね
異常なくらい

487:日本@名無史さん
18/02/06 23:24:35.70 .net
>>468
縄文時代から青石製の石棒や石斧が畿内などに流れ込んでいますね。  @阿波

488:日本@名無史さん
18/02/06 23:32:45.64 .net
辺境は辺境なりに辺境の歴史があるのだなあ

489:日本@名無史さん
18/02/06 23:35:21.03 .net
>>469
青石が豊富だった以外に葬祭に伝統的な使用例があって
阿波式石棺というものが残っています
縄文からの伝統かもしれません

490:日本@名無史さん
18/02/06 23:38:05.48 .net
北部九州邪馬台国と無関係の自己レスが続きます

491:日本@名無史さん
18/02/06 23:44:22.93 .net
>>472
北部九州に邪馬台国無いんだから問題無し

492:日本@名無史さん
18/02/06 23:49:23.15 .net
>>473
もはや議論する内容すら持ち合わせない辺境の国が
精一杯の一言

493:日本@名無史さん
18/02/06 23:52:19.95 .net
>>474
議論する内容もないくせにw

494:日本@名無史さん
18/02/06 23:55:19.85 .net
>>474
議論持って来いよおらおらw

495:日本@名無史さん
18/02/06 23:57:53.03 .net
議論する内容もない泡沫スレ

496:日本@名無史さん
18/02/07 00:00:33.40 .net
>>477
はい終了
議論持って来い九州馬鹿

497:日本@名無史さん
18/02/07 00:01:27.14 .net
丹山は北部九州にあるじゃん
『出真珠青玉 其山有丹』
なんだから、山に丹があるだけで倭人伝の条件を満たす
丹を採掘しているなら、
『出真珠青玉丹』
『出真珠青玉 其山出丹』
になるはずだよね。


だから阿波は真っ先に脱落。

498:日本@名無史さん
18/02/07 00:07:03.09 .net
>>479
採掘してないところを外国が有とか記すはずないだろw
いつまでこんなことに拘ってるんだよw
さっさと九州の採掘跡探して来いよwwwww

499:日本@名無史さん
18/02/07 00:08:43.78 .net
『出真珠青玉 其山有丹』
真珠青玉は出る
丹は山に有るだけ
考古学的に北部九州では中国朱が使われているのだから
その辺境でいくら採掘していようが
ド田舎の辺境である証明にしかならない

500:日本@名無史さん
18/02/07 00:14:01.44 .net
>>481
ど田舎で結構だけど
徳島の古墳も中国朱使われてるぞ
問題は国産の辰砂は徳島以外その時代の


501:遺跡が無いのよ



502:日本@名無史さん
18/02/07 00:37:59.33 .net
>>481
九州が今の天皇制ではど田舎だと早く気付け
薩摩の呪縛からは逃れられないかw

503:日本@名無史さん
18/03/01 09:02:17.31 .net
「四国初の並列粘土槨」
「石井の山ノ神古墳 墳丘と同時造成」 徳島新聞朝刊 平成30年3月1日
石井町教委は28日、古墳時代前期とみられる前方後円墳「山ノ神古墳」(同町石井)の後円部の墳頂で、木棺を粘土で包んだ埋葬施設「粘土槨」が2基並んだ状態で見つかったと発表した。
粘土槨が墳丘と同時並行で築かれたことも判明し、いずれも四国で初めての出土例。 専門家は「全国的にも珍しい事例で、古墳研究の基礎資料になる」としている。
粘土槨は、墳頂部の地表面から約50~70cm下で発見された。箱形木棺(幅約1.15m)と割竹形木棺(約1.2m)とみられ、約1.1mの間隔を空けて置かれていた。
全国の豪族は長辺を南北に向ける配置が多いが、県内の他の古墳に見られる特徴と同じく、東西に向ける形で埋められていた。
先に墳丘を完成させ、後で土を掘って木棺を埋め戻す方法が一般的だが、山ノ神古墳では盛土の堆積状況から、墳丘と粘土槨が同時に造られたことが分かった。
同様の事例は国史跡の和泉黄金塚古墳(大阪府)など近畿地方にみられるが、四国では見つかっていなかった。古墳調査に詳しい兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は「墓を造り、葬送儀礼をしてから墳丘を仕上げる過程が分かる珍しい事例。
徳島の古代文化の独自性や、近畿政権との関係を考える材料にもなる」としている。
山ノ神古墳は2014年に発掘調査を開始。全長57mで、前方後円墳としては県内3番目の規模であることが分かっている。17年には、前方後円墳に隣接する円墳周辺で、県内2例目となる筒型銅器が出土している。
この「山ノ神古墳」は、東隣に鎮座する「白鳥神社」と合わせて、「日本武尊」の陵墓とみられている。  @阿波

504:日本@名無史さん
18/03/08 23:13:09.07 .net
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ-ネットの世界では、目立つのだよね。

505:日本@名無史さん
18/03/10 01:14:27.46 .net
徳島にはユダヤ伝説もあるらしいし、
三好長慶などという基地外のような馬鹿もいる。
特殊な日本だったのかもしれない。

506:日本@名無史さん
18/03/10 01:19:42.78 .net
三好か・・・幼稚園(同じクラス)にいたよ、川崎区の話だけど、
あと島津もいたw

507:日本@名無史さん
18/03/10 01:23:57.92 .net
かなり多いのかな?少ないのかな
人口的な話ね
ちなみに神奈川県の川崎だよ

508:日本@名無史さん
18/03/10 01:28:17.37 .net
『サイバーパンクspecial』
伝説のロトの勇者?
川崎区に住んでいるような話。
ドラクエのロトの事だと思う。

509:日本@名無史さん
18/03/10 08:22:59.34 .net
県西部の急傾斜地農法 「世界農業遺産」に認定  徳島新聞朝刊 平成30年 3月10日
傾斜地農耕システムは、斜度40度にも及ぶ急斜面の畑で作物を栽培する独自の農法で、美馬・三好・つるぎ・東みよしの各市町で雑穀や野菜を生産している。
日照量に応じて作物を選び、カヤを土壌流失の


510:防止に役立ててきた。カヤ場と呼ばれる採草地を確保し、秋にはカヤ刈り、「コエグロ」を作る。 先人たちの知恵と技術、工夫が今の剣山系の傾斜地に詰まっている。 阿波では古来より、県西部の剣山系山岳集落を指して「空・ソラ」と呼ぶ。 まさにそこは、古代高天原「空・ソラ」の地なのである。  @阿波



511:日本@名無史さん
18/03/10 17:45:30.66 .net
>>484
>この「山ノ神古墳」は、東隣に鎮座する「白鳥神社」と合わせて、「日本武尊」の陵墓とみられている。  @阿波
最後の一行抜きの、事例報告(新聞発表?)だけなら面白かったのに、最後の一行の妄想で台無しww
ヤマトタケルの墓は、津堂城山古墳が一番妥当だと思うよ
まあ、景行天皇から応神天皇に繋ぐまでは、記紀の系譜もぐちゃぐちゃだから
なんとも言えないけど
景行天皇の三太子について、阿波の立場から何か言うことはあるかい?

512:日本@名無史さん
18/03/10 19:01:18.92 .net
>>491
>ヤマトタケルの墓は、津堂城山古墳が一番妥当だと思うよ
理由は?  @阿波

513:日本@名無史さん
18/03/10 22:38:02.50 .net
天武系は磐余系神武系だろうが、最終的に自滅したからね。
天武と天智天皇は全く別の血筋だろうし。
大津皇子が天武の子かどうかも怪しい。
大津皇子可哀想だな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。

金烏臨西舎 鼓声催短命 
泉路無賓主 此夕離家向 
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。
我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろう。
息長氏(敦賀、鈴)、神功皇后、応神天皇。

514:日本@名無史さん
18/03/12 12:00:25.24 .net
2013年、畿内説は破綻しました。。。。

515:日本@名無史さん
18/03/14 13:39:20.39 .net
初心者にも説明すれば、良いのではないのかな。。。
スレリンク(history板)

516:日本@名無史さん
18/03/15 18:06:59.75 .net
江戸時代、盆踊りって各藩でやってたが
治安上の理由から徳川幕府が禁止したんだってね、阿波を除いて
で阿波踊り400年の歴史に繋がる
阿波だけを特別扱いした理由って何?

517:日本@名無史さん
18/03/15 18:15:50.68 .net
徳川家康が関ヶ原の戦いにて天下に名を上げるや
我が名を松平元康から徳川に改名し
阿波藩も急遽、徳島藩とするよう命じた。(「道は阿波より始まる」岩利大閑)
この「徳川」や「徳島」という名称由来は、
仏教史書である「佛祖統紀」の彦子神武が、竺紫(とくし)城にて即位という部分や
竺紫(とくし)の日向(徳島県) の橘(阿南市)の小門の阿波岐原を由来とする可能性が高い。   @阿波

518:日本@名無史さん
18/03/19 08:59:04.34 .net
2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、

519:日本@名無史さん
18/03/19 09:07:27.29 .net
    ↑
こいつが乱立荒らしの犯人です

520:日本@名無史さん
18/03/25 22:17:40.60 .net
畿内説を論破されてしまった既知害キナイコシが、必死に荒らしているね。。。

521:日本@名無史さん
18/03/25 23:53:49.98 .net
既知害必死だな

522:日本@名無史さん
18/03/28 14:36:32.50 .net
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。

523:他スレをあらすな
18/04/29 15:36:01.20 .net
さらしあげ

524:日本@名無史さん
18/05/01 16:11:41.31 .net
邪馬台国全解決を読んだ。でも徳島説優位の丹、青石、カササギ・牛馬なしなど
への言及が一切なく里程で解決しているのみ。魏の使いは10年で四回来たらしい。
これからは推測だが正使は伊都国までしか来ていないのではないか。阿波を守る
ためには中国の使いを本地までは連れてこないだろう。阿波王国は伊都国に一大率
を置き、使者には阿波の風俗を説明しただけじゃないだろうか。ただし壬申の乱迄
阿波が舞台というのはどうしても受け入れられない。天智天皇はやはり京都山科で
沓を残して死んでしまったのがぴったり来る。阿波→河内進出はもっと早く、奈良
で蘇我専制が始まったと考えたい。

525:日本@名無史さん
18/05/01 19:18:31.31 .net
>>504
>ただし壬申の乱迄 阿波が舞台というのはどうしても受け入れられない。
それを観音寺木簡や飛鳥寺院跡や蘇我氏神社古墳群が証明している。  @阿波

526:日本@名無史さん
18/05/02 16:27:02.78 .net
>>504
白鳳地震684年で阿波壊滅し
津波のこない畿内へ遷都した

527:日本@名無史さん
18/05/02 17:14:51.08 .net
>>506
白鳳地震684年より、白村江の敗戦だろうね。 遷都を決断した切っ掛けは。
何故か、白村江の戦前後から、奈良方面への行幸が活発になっている。  @阿波

528:日本@名無史さん
18/05/04 03:35:58.94 .net
あげ

529:日本@名無史さん
18/05/12 14:25:49.89 .net
あげ

530:日本@名無史さん
18/05/28 16:54:20.88 .net
温暖で住みやすかったんだろうとは思うけど、今日の四国の姿が証明しているようにわざわざそこに住む人は少ないんじゃないかな?
現代ならまだしも、橋も大型の高速船もない時代に、覇権国家の拠点があったとは考えにくい

531:日本@名無史さん
18/06/08 15:35:45.04 .net
>>510
当時は川の大きさ=都市の規模
インダスにしろエジプト文明にしろ河とセットで生まれた
理由は簡単
飲み水にしろ、農作物を育てるにしろ、近辺に川がないと話にならない
古代人が豊饒な吉野川をスルーするわけがない
ここが国家の拠点だと一発で悟ったはず

532:日本@名無史さん
18/06/08 16:29:30.31 .net
>>510
>現代ならまだしも、橋も大型の高速船もない時代に、覇権国家の拠点があったとは考えにくい
古代史を探求するセンスに欠けるのかな?
弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。
温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み
県北部(邪馬台国)には、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石
県南部(狗奴国)には、辰砂が採れる。
阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。   @阿波

533:日本@名無史さん
18/06/08 17:37:40.16 .net
徳島は明治初期は日本10大都市だった
江戸時代までは交通のメインは船だったので川の多い徳島は有利だった
(船だと重い物資を大量に一気に輸送できる)
明治時代に


534:なり船から車へモーダルシフトが起こり 平野の広い場所の方が有利になり、川だらけ徳島は衰退していった 徳島の歴史は川に振り回された歴史である



535:日本@名無史さん
18/06/08 17:44:53.29 .net
平成になってからは逆に川を活かした街づくり、
水都徳島で観光客を呼び込もうと努力してるがまだまだ道半ば

536:日本@名無史さん
18/06/09 00:19:10.63 .net
近代化で川が国土交通省管轄になったからね、
治水に重きを置きすぎて通商としての河川利用ができなくなったから

537:日本@名無史さん
18/06/09 20:46:43.90 .net
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた

朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺
URLリンク(youtu.be)
URLリンク(youtu.be)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(youtu.be)

538:日本@名無史さん
18/07/06 08:49:00.86 .net
阿南
国内最古の鉄製造工房 10軒
URLリンク(www.yomiuri.co.jp)

539:日本@名無史さん
18/07/06 09:26:52.26 .net
「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊  
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末~後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30~40㎝で、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。
17年2月には出土品の分析などから、南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。  @阿波

540:日本@名無史さん
18/07/06 09:50:06.14 .net
>>518
これが南の「狗奴国」「長国」です。 北の「邪馬台国」「粟国」に対抗する強大な勢力ですね。  @阿波

541:日本@名無史さん
18/07/12 13:55:54.48 .net
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
L5M

542:日本@名無史さん
18/07/12 14:00:01.23 .net
脳内ホルホル系です @阿波

543:日本@名無史さん
18/07/12 14:00:58.47 .net
キモくてすいません これからもです @阿波

544:日本@名無史さん
18/07/12 17:39:17.42 .net
まだまだ書きこみたいからゆっとくよ
ぼく思い込み激しいバカなのよ これからも注目してね  @阿波

545:日本@名無史さん
18/07/13 17:54:47.25 .net
トリップつけろ阿波

546:日本@名無史さん
18/09/07 12:50:56.96 .net
邪馬台国かどうかわからないけど、徳島は後のヤマト王権の礎を築き
大きな影響を与える何らかの大きな部族があったのは間違いないでしょうね。

547:日本@名無史さん
18/09/07 12:58:36.68 .net
老婆が言うには菅原?
そういう話もしていたんだけど、
老婆の実家の裏のほうに、そういう神社があって・・・とか

548:日本@名無史さん
18/09/07 13:00:54.38 .net
お前の家の~~みたいな事を言っていたりw
家は『松傾』?のような名前の家なんだけど、読み方が何やらとか

549:日本@名無史さん
18/09/07 13:09:46.93 .net
発電、電気の話をしていたり、
実際に電気(普通の電気)を起こしていて、何やら様とか言われていたとか

550:日本@名無史さん
18/09/07 13:17:04.65 .net
>>525
>大きな影響を与える何らかの大きな部族があったのは間違いないでしょうね。

だから、後にも先にも「忌部一族」以外の部族なんてどこにも存在しないでしょ。  @阿波

551:日本@名無史さん
18/09/07 13:26:43.03 .net
老婆の旧姓:渡辺
ほとんど合致している?日本昔話みたいな話

552:日本@名無史さん
18/09/07 13:29:35.64 .net
橋、牛?の話とか

553:日本@名無史さん
18/09/07 13:36:37.14 .net
機織りの話とか、
本当はどういう話なんだろう

554:日本@名無史さん
18/09/07 13:39:20.25 .net
橋姫関係の話?

555:日本@名無史さん
18/09/07 14:24:49.91 .net
>>525
>大きな影響を与える何らかの大きな部族があったのは間違いないでしょうね。

北の「邪馬台国」「粟国」 も 南の「狗奴国」「長国」もみんな「忌部一族」だよ。  @阿波
 

556:日本@名無史さん
18/09/07 14:32:07.25 .net
本当に謎の川俣町という掲示板

奈良とか平安の頃の~話をしている人がいたり

557:日本@名無史さん
18/09/07 21:27:55.43 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

558:日本@名無史さん
18/09/09 12:30:38.25 .net
阿波文字は忌部が作ったの?

559:日本@名無史さん
18/09/09 13:15:49.53 .net
>>537
>阿波文字は忌部が作ったの?
それ以外はない。
ただし、 ここでいう忌部とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。  @阿波

560:日本@名無史さん
18/09/09 13:3


561:0:33.28 .net



562:日本@名無史さん
18/10/06 22:40:50.02 .net
邪馬台国畿内教の教条
邪馬台国が畿内に確定すれば
天皇の大陸への臣従史観が証明され
日本が天皇を御旗にあげて再び大日本帝国になり
中国・韓国に侵略戦争を仕掛けるための士気を損なえる
ゆえに邪馬台国を畿内とさせなくてはならない
パヨクは頭おかしいでほんま

563:日本@名無史さん
18/10/06 23:01:49.82 .net
◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

. 

564:日本@名無史さん
18/10/07 22:37:07.34 .net
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

565:日本@名無史さん
18/10/09 08:07:39.86 .net
邪馬台国は徳島だっただの、神武天皇は徳島出身だっただの、徳島県民ってどうして歴史を捏造をするの?恥ずかしくないの?
徳島なんて江戸時代以前の史料がほぼ無いに等しい県なのに。

566:日本@名無史さん
18/10/09 09:09:53.24 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

567:日本@名無史さん
18/10/09 11:40:43.57 .net
各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。  @阿波
「阿波国風土記」    
URLリンク(sites.google.com)
通説では、天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、 何故、その地誌「阿波国風土記」で唯一、天皇の称号について書かれているのだろうか?
役人が天皇に献上する書である。 上記の天皇が阿波に関係なければ、風土記なんぞに書ける訳がないのである。 「お前、何書いとんねん!」では済まされる話ではない。 

568:日本@名無史さん
18/10/10 07:45:48.08 .net
「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊  
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末~後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30~40㎝で、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。17年2月には出土品の分析などから、南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。  @阿波

569:日本@名無史さん
18/10/10 08:53:23.29 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

570:日本@名無史さん
18/10/10 10:50:22.79 .net
そもそも「松浦ー唐津ー糸島ー福岡ー門司など北部九州沿岸」は「其山有丹」で即、アウト!



571:謔チて、最初から邪馬台国論争に参加する資格無し。  @阿波



572:日本@名無史さん
18/10/10 11:03:10.89 .net
「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。  @阿波

573:日本@名無史さん
18/10/10 12:59:58.16 .net
>>543
なんの長所もない県なんだからファンタジーや妄想に頼らないと何もないんだよ。許してくれよ。

574:日本@名無史さん
18/10/10 13:02:13.55 .net
その大和には、長国(狗奴国)のような権力の元となる鉱物資源・海洋資源がないんだよ。
そんなところに有力勢力など勃興するわけないでしょ。  何を考えているんだかwww  @阿波

575:日本@名無史さん
18/10/10 13:18:16.67 .net
魏志倭人伝は倭国(阿波)の事象を大変分かりやすく記述してくれている。  @阿波
・帯方郡の東南の大海の中に在る
・男子は大人、子供の別なく、みな顔面と身体にいれずみをしている。
・倭の水人は、好んで水中にもぐって魚や蛤を捕る。
・稲や貯麻を植え、桑で蚕を飼って紡績をおこない、麻糸・きぬ・綿を産出する。
・倭の土地は温暖である。
・中国で白粉を用いるように、朱や丹を身体に塗る。
・その葬儀には、「棺」はあるが、「槨」はない。盛り土をして「冢」をつくる。
・真珠、青玉を産出する。
・山には「丹」を産出する。
・生姜、橘、山椒、茗荷が採れる
・東に海が在る
・その海を渡り、1000里行くと倭国(阿波)とは別の国が在る
・倭の地は周囲5000里
・銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を与えられた
・倭王は丹を献上した
・卑弥呼が死んだ時、倭人は直径百余歩の塚を盛大に作った

576:日本@名無史さん
18/10/10 18:19:01.13 .net
長野県諏訪市にある「諏訪大社」は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社 御祭神 建御名方命」から移遷された、と社伝にあるそうだ。
その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。
つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ徳島県石井町諏訪の「多祁御奈刀弥神社」に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。
それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。  @阿波

577:日本@名無史さん
18/10/10 18:40:53.83 .net
全国、広しと言えども 「倭」と明記された「物証」があるのは、唯一「阿波」だけ。
当然、倭国ではない九州にも畿内にも有りません。  @阿波

578:日本@名無史さん
18/10/10 18:46:23.57 .net
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の「画文帯神獣鏡」
同じく魏の水銀朱が使われた�


579:V河別神社古墳群出土の「斜縁二神二獣鏡」 この「画文帯神獣鏡」か「斜縁二神二獣鏡」 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。  @阿波



580:日本@名無史さん
18/10/10 20:55:24.95 .net
「纒向石塚古墳」朱塗の鶏形木製品の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波

581:日本@名無史さん
18/10/11 07:12:31.02 .net
纏向遺跡「朱塗りの盾」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。 
箸墓古墳に日本産「朱」が使われていたら、即 倭国(阿波)で決定となるんだよ? 分かってんのかな?  @阿波

582:日本@名無史さん
18/10/11 08:13:47.31 .net
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)

.

583:日本@名無史さん
18/10/11 11:59:57.11 .net
「一貴山銚子塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波

584:日本@名無史さん
18/10/11 12:12:19.68 .net
「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ないにも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地7か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。  @阿波
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」

585:日本@名無史さん
18/10/11 12:17:36.02 .net
「倭人伝に基づく物証」は九州にも出雲にもない。
有るのは、唯一倭国(阿波)だけ。  @阿波  

586:日本@名無史さん
18/10/11 12:49:05.82 .net
古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「阿波の忌部一族(海人族)」だけ。  
今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した倭国(阿波)の「忌部一族」のように、
畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。  @阿波

587:日本@名無史さん
18/10/11 15:58:46.81 .net
古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「阿波の忌部一族(海人族)」だけ。  
今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した倭国(阿波)の「忌部一族」のように、
畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。  @阿波

588:日本@名無史さん
18/10/11 17:25:13.62 .net
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とは、徳島県阿南市橘町周辺を指している。
その証拠に、その沖合に浮かぶ伊島には「当所神社」が鎮座しており、御祭神に奥津三神(下記)が祀られている。
・奧疎神(おきざかる)
・奧津那藝佐毘古神(おきつなぎさびこ)
・奧津甲斐辨羅神(おきつかいひべら)
面白い事に、この奥津三神は、伊邪那岐が黄泉の国から帰還した際、
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊祓をした時に、最後に産まれた神々である。
しかも、この奥津三神は、日本で唯一、伊島にのみ見られる神で、
日本の他の神社で、他に奥津三神を祀る神社は、何処にもない。
「奥津三神」 なぜ、阿波のみで祀る必要があろうか? 推して知るべし  @阿波

589:日本@名無史さん
18/10/11 20:44:29.38 .net
「ホケノ山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  
ホケノ山古墳の取り扱い、どうするの?  @阿波

590:日本@名無史さん
18/10/11 21:00:10.57 .net
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の「画文帯神獣鏡」
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の「斜縁二神二獣鏡」
この「画文帯神獣鏡」か「斜縁二神二獣鏡」 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。  @阿波

591:日本@名無史さん
18/10/11 22:08:47.83 .net
>>543
史料が無いから怪しいんだよ
歴史は勝者のもの
都合の悪い歴史はデリートされる

592:日本@名無史さん
18/10/12 06:35:52.79 .net
>>567
>史料が無いから怪しいんだよ

本当に「阿波国」は怪しい所ですね。
各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。
「阿波国風土記」  @阿波  
URLリンク(sites.google.com)
通説では、天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、 何故、その地誌「阿波国風土記」で唯一、天皇の称号について書かれているのだろうか?
役人が天皇に献上する書である。 上記の天皇が阿波に関係なければ、風土記なんぞに書ける訳がないのである。 「お前、何書いとんねん!」で済まされる話ではない。 

593:日本@名無史さん
18/10/12 09:43:45.07 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

594:日本@名無史さん
18/10/12 22:17:12.69 .net
>>567
いくら怪しくても史料がなけりゃ妄想定期
当時の四国はただの流刑地だよ
それだけはちゃんと史料が残ってるよ
よかったな。四国の歴史が知れて。

595:日本@名無史さん
18/10/12 23:09:53.84 .net
興味で立ち寄った素人の徳島人だけど
邪馬台国徳島説は昔聞いた事ある
そんときは
なにいってんだおっさん( ´_ゝ`) プッ
と思ってたけど色々知ってきたらそれもありえるかなぁと思うようになった
安徳天皇徳島(うちの近く)逃亡説とか前科があったから信じてなかったけど
興味が湧いた
関係ないけど県外に出たら色んな古墳があるよね
古墳王国の奈良や大阪、以外と九州にも多い
徳島には巨大墳墓は少ないけど銅鐸とかある
小学校で習うほど常識だが県外人はほぼ知らん
調べてみたら島根兵庫滋賀徳島和歌山で多く出土してんだって
なんで大和国を避けるように回りで発達したんだろうなぁ

596:日本@名無史さん
18/10/12 23:35:28.20 .net
クマ除けだからだよ

597:日本@名無史さん
18/10/12 23:37:57.04 .net
「徳島県の銅鐸出土地」
『日本古代遺跡37徳島』14ページより  後ろの数値は銅鐸の高さ(cm)
                       
1. 檜銅鐸           鳴門市大麻町檜字乾谷    90
2.神宅銅鐸         板野郡上板町神宅      41
3. 川島銅鐸          麻植郡川島町神後     45.6
4. 森藤銅鐸         麻植郡鴨島町森藤      21
5. 牛島銅鐸         麻植郡鴨島町上浦      34.7
6. 伝久勝銅鐸        阿波郡阿波町久勝   
7. 久千田銅鐸        阿波郡阿波町久勝      30
8. 伝榎瀬銅鐸        徳島市川内町榎瀬      44.5
9. 星河内美田1号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
10. 星河内美田2号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
11. 星河内美田3号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
12. 星河内美田4号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
13. 星河内美田5号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
14. 星河内美田6号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
15. 星河内美田7号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田

598:日本@名無史さん
18/10/12 23:38:16.70 .net
16. 源田1号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
17. 源田2号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
18. 源田3号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   52.0
19. 安都真1号銅鐸     徳島市入田町安都真     29.5
20. 安都真2号銅鐸     徳島市入田町安都真     21.7
21. 安都真3号銅鐸     徳島市入田町安都真     24.6
22. 安都真4号銅鐸     徳島市入田町安都真     21
23. 名東銅鐸        徳島市名東1丁目       40
24. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     90.9
25. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     45.4
26. 伝福万谷銅鐸      徳島市八万町福万谷     
27. 勢合銅鐸        小松島市立江町赤石     36
28. 畑田銅鐸        阿南市下大野町畑田     54.02
29. 八貫渡銅鐸       阿南市下大野町八貫渡    
30. 才見銅鐸        阿南市才見町
31. 長者原1号銅鐸     阿南市山口町長者原     64.25
32. 長者原2号銅鐸     阿南市山口町長者原     41
33. 田村谷銅鐸       阿南市山口町田村谷     62 
34. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          42.4
35. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          31
36. 伝長生銅鐸       那賀郡長生町
37. 榎名銅鐸        三好郡西祖谷山村榎名     推定55
38. 伝吉野川沿岸銅鐸   美馬郡脇町拝原        6.2
39. 伝脇町銅鐸
40. 伝阿波銅鐸
41. 江原小銅鐸
伝脇町銅鐸というように、「伝」が付いているものは、現在は存在しなくて言い伝えが残っているものです。
残っているものは、19遺跡から32個の銅鐸が出土しています。
こんなに多くの遺跡で銅鐸が出土するのは、全国でも倭国(阿波)だけなのです。
銅鐸も倭国(阿波)発祥とみるのが自然ですね。  @阿波

599:日本@名無史さん
18/10/12 23:42:04.32 .net
>>571
>調べてみたら島根兵庫滋賀徳島和歌山で多く出土してんだって
それは、倭国(阿波)を発って「島根兵庫滋賀徳島和歌山」方面へ忌部一族が進出開拓していった痕跡ですね。  @阿波

600:日本@名無史さん
18/10/13 00:01:07.12 .net
>>575
阿波は徳島ではないんですか?

601:日本@名無史さん
18/10/13 08:35:40.34 .net
「先代旧事本紀 巻五 天孫本紀」では饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖神と仰ぎ、六代目にあたる伊迦賀色許売(いかがしこめ)、
伊迦賀色許男(いかがしこお)姉弟は、倭の土着豪族として朝廷に仕えた蘇我氏、葛城氏、物部氏の祖にもあたる。
伊迦賀色許男(イカガシコオ)姉弟は、
日本で唯一、忌部の郷、徳島県旧麻植郡の延喜式式内社「伊加々志神社」に祀られている。
「伊加加志」(イカガシ)を社名・御祭神とする神社は、全国でここ一箇所だけなのである。
それが、忌部の郷 麻植の地に鎮座している。
徳島の神社 延喜式式内社 伊加々志神社
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波

602:日本@名無史さん
18/10/13 08:47:18.64 .net
狗奴国も強大だよ。 その源泉が、「辰砂鉱山」と「黒潮の恵み」と「海洋航行技術」。  @阿波
※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡          
【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡

603:日本@名無史さん
18/10/13 08:52:19.24 .net
>>570
流刑地ならなぜ四国の山奥に天皇家のお抱え業者がいるの?

604:日本@名無史さん
18/10/13 09:05:04.79 .net
「践祚大嘗祭に麁服を調進する大役を太古から担う御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家」  @阿波
阿波から奈良大倭への遷都(7世紀後半~710年)によって、忌部の本家は阿波に留まる一方、その一部が奈良大倭に渡り、
やがて諸国の忌部を統括することになる。これが中央忌部である。阿波に残った忌部の本家は、同家の本源的職掌である
麁布・木綿及び高天原の山の幸を由加物として、践祚大嘗祭の度ごとに新都に送った。母国からの調進である。
忌部の本家が阿波に残った理由は、天照大神以来、天孫(天皇)の祭祀に必要な神具は「高天原で採取調整されなければならない」という、
天岩屋戸神話に由来する神典を墨守したからである。
「由加物使」一行が阿波から京に向かうに、通過する国々の道路は掃き清められ、国司らが出迎えるという『延喜式』の別格規定は、
高天原から新都に向かう「宗国からの使」という意味からである。また、「麁布」がすべての貢進物の中で、唯一神祇官扱いになるなど、
超絶した扱いとなっているのは、記紀神話で、天照大神が高天原において機織女を召して織らしめ、また大神自らも織られたとする
「神御衣」と見立てているからであり、それを忌部の本家(阿波忌部)が、畏れ多くも代行厳修し、麁布として織り上げたものを、
新天皇が践祚大嘗祭に奉奠して天照大神にお示しし、大神から、日嗣の認承を賜る「物�


605:タ」(正当な皇位継承者であることを大神の御前で証明するための品) と観念されたからである。



606:日本@名無史さん
18/10/13 09:11:54.47 .net
>>570
いずれにせよ、九州説や畿内説では逆立ちしても絶対無理だということ。  @阿波

607:日本@名無史さん
18/10/13 09:28:11.58 .net
◆中国の釜

中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた

. 

608:日本@名無史さん
18/10/13 09:50:06.55 .net
「瀬戸内海を航行できるようになったのは、五世紀 雄略天皇の時期」  @阿波
「風待」港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備しないと、瀬戸内海は通し航行できなかった。
そして「それ」が整備されたのは、雄略天皇の五世紀頃だった。
瀬戸内海沿岸諸国を統制する体制が整い、そういった設備が整ったのは、雄略朝を待たなければならなかった。

609:日本@名無史さん
18/10/13 10:28:04.27 .net
>>583
航行する[方法]を明らかに明記できた時期でしょ
実際は有象無象が現代では無謀と思える航行を普通に成功させてたでしょ

610:日本@名無史さん
18/10/13 10:30:11.02 .net
もちろん普通に死んでただろうし

611:日本@名無史さん
18/10/13 12:07:35.25 .net
「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
「祇園山古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波

612:日本@名無史さん
18/10/13 19:48:31.57 .net
女王・卑弥呼のおわす《邪馬台国 阿波》到着(七万戸)
↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)
女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。
当時の畿内は文化後進国の倭種なり。  @阿波

613:日本@名無史さん
18/10/13 20:35:57.11 .net
「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  
「椿井大塚山古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波

614:日本@名無史さん
18/10/14 08:32:52.98 .net
「末廬国(諸説あり)」???  末廬国が未定では、伊都国以降も比定出来ない。 
大陸からの玄関口「末羅國」の痕跡 「田熊石畑遺跡」」「今川遺跡」「手光於緑遺跡」「新原・奴山古墳」  
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。 
奴国は上本町遺跡・、下伊田遺跡・五徳畑ケ田遺跡・真崎遺跡などがある「田川辺り」だね。 

不弥国は 築城五反田遺跡、上別府沖代遺跡、安武・深田遺跡、安武・土井の内遺跡、赤幡森ヶ坪遺跡
などがある「築上町辺り」だね。  @阿波

615:日本@名無史さん
18/10/14 09:25:48.42 .net
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

URLリンク(search.yahoo.co.jp)越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

616:日本@名無史さん
18/10/14 09:42:08.58 .net
「黒塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
「黒塚古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波

617:日本@名無史さん
18/10/14 09:44:36.62 .net
崇神天皇陵のすぐ近くにある、「黒塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  
「黒塚古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波

618:日本@名無史さん
18/10/14 12:10:36.76 .net
「天牟久怒命」=「天村雲命」を祀る、日本唯一(またまた)の式内社 阿波國麻殖郡「天村雲神伊自波夜比賣神社」が、 阿波国旧麻植郡射立郷「村雲」に鎮座する。
この天村雲神の別名がなんと、「天五多底命 ( あめのいだてのみこと )」 なのである。 御祭神の天村雲命は、「 射立神 」とも呼ばれる。 
「天村雲命は、別名「天五多底命(あめのいだてのみこと)」とも呼び、射立の神。鎮座地周囲は、湯立という字が残っているが、これは射立からの転訛。
もし、天村雲命=射立神だとすると、天村雲命=五十猛命とも考えられる。 五十猛命は、素盞嗚尊の御子神であり、伊達神。」
全国3132座ある式内社で、「天村雲」を冠する日本唯一の神社なのである。  @阿波

619:日本@名無史さん
18/10/14 13:01:43.62 .net
「カネガ谷遺跡」
出土した弥生土器・石器から、弥生時代後期初頭の集落であることが分かった。
特に、注目される遺物として朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧が出土した。  @阿波
URLリンク(awakouko.info)

620:日本@名無史さん
18/10/14 14:09:18.24 .net
「畿内から魏鏡の三角縁神獣鏡が大量に見つかる」という、
「椿井大塚山古墳」や「黒塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部や大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  
「椿井大塚山古墳」や「黒塚古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波

621:日本@名無史さん
18/10/14 14:31:55.75 .net
九州で「丹」が見つからない
だから九州 (没)   @阿波

622:日本@名無史さん
18/10/14 17:23:03.22 .net
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力・旧吉野川流域南岸勢力・鮎喰川下流域勢力)
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力・海部川流域勢力)
こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。  @阿波

623:日本@名無史さん
18/10/14 17:30:34.44 .net
「前もって、その母体となる種族の一定の広がりがあってこそ国・王朝は成立する。」
今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した阿波の「忌部一族」のように、
畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。  @阿波

624:日本@名無史さん
18/10/14 22:26:25.96 .net
「九州からは祇園山が出て、」
その「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。 
「祇園山古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波

625:日本@名無史さん
18/10/15 06:38:44.61 .net
「九州には、弥生銀座を始め、大量の遺跡が十分にあるが、」
大量の遺跡が十分にあるが、取るに足らない、パッとしない遺跡ばかりなんだよね。  @阿波

626:日本@名無史さん
18/10/15 06:54:07.74 .net
「黒塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
桜井茶臼山古墳も下池山古墳も黒塚古墳も
倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波

627:日本@名無史さん
18/10/15 07:28:17.03 .net
阿波にわ阿波レベルのお似合いな
いにしえの阿波踊り国でも創っとけば?

628:日本@名無史さん
18/10/15 09:06:55.07 .net
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

629:日本@名無史さん
18/10/15 18:54:54.04 .net
纏向遺跡「朱塗りの盾」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
纏向遺跡も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」の遺跡と何度言えばw  @阿波

630:日本@名無史さん
18/10/15 18:59:22.88 .net
「ホケノ山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
「ホケノ山古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波

631:日本@名無史さん
18/10/15 19:01:14.39 .net
>九州には、弥生銀座を始め、大量の遺跡が十分にあるが、
大量の遺跡が十分にあるが、取るに足らない、パッとしない遺跡ばかりなんだよね。  @阿波

632:日本@名無史さん
18/10/15 19:35:10.87 .net
>郡使がいた九州北部にしか邪馬台国はあり得ない。
「其山有丹」で九州北部は邪馬台国はあり得ない。  @阿波

633:日本@名無史さん
18/10/15 20:53:07.07 .net
>倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。

「其山有丹」で筑紫、現在の福岡県は倭国の都はあり得ない。  @阿波

634:日本@名無史さん
18/10/15 21:20:51.99 .net
>「真剣に、真剣に、広く、広く、深く、深く」考えていくと「理性的な人であれば、九州島に到達せざるを得ない」と思いますね!

「其山有丹」で、即アウト!  @阿波

635:日本@名無史さん
18/10/16 07:18:10.79 .net
>今月末から宮内庁は、
>仁徳天皇陵の内堤の一部を堺市と共同で発掘調査・・・するらしいな

仁徳天皇陵も倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓。  @阿波
「子安観音古墳」
徳島県小松島市・子安観音古墳から、金銅製の甲冑の破片4点が出土している。これは、金を施した希少なも


636:のである。 5世紀中ごろの制作と推定され、金銅製の甲冑は1872(明治5)年に国内最大の前方後円墳大仙凌古墳(旧称仁徳天皇凌)の出土例があるだけ。 大仙凌古墳の前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられる点から、子安観音古墳が大仙凌古墳より古い可能性が高い。 よって、大仙凌古墳の被葬者は、倭国(阿波)中央政権から極めて高い地位を与えられたことを示している。 こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波



637:日本@名無史さん
18/10/16 07:39:21.37 .net
>渡辺義浩・早大教授(中国古代史)は、魏の文帝が「寿陵は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、
「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。

少なくとも初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。
初代~第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には
まず神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、
初期の天皇陵は、 山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。  @阿波

638:日本@名無史さん
18/10/16 08:13:34.68 .net
「大仙古墳」の石棺水銀朱は、まず間違いなく和泉忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波

「大仙古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw   @阿波

639:日本@名無史さん
18/10/16 08:40:51.24 .net
>卑弥呼の都なら、弥生銀座地域が最も可能性が高いし、

その「弥生銀座地域」は、取るに足らない、パッとしない遺跡ばかりなんだよね。  @阿波

640:日本@名無史さん
18/10/16 08:43:50.25 .net
>卑弥呼の都なら、弥生銀座地域が最も可能性が高いし、

その「弥生銀座地域」は、取るに足らない、パッとしない遺跡ばかりなんだよね。  
倭国(阿波)の爪の垢を煎じて飲むとよい。   @阿波

641:日本@名無史さん
18/10/16 10:04:06.56 .net
>「会稽東冶之東」一発で
>九州説が致命傷負ったから
そんなことより、九州説の致命傷は「其山有丹」。  @阿波

642:日本@名無史さん
18/10/16 10:07:48.65 .net
九州説、致命傷大杉

643:日本@名無史さん
18/10/16 10:11:36.31 .net
>将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった
「将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった」のは、
倭国(阿波)の発掘成果によるところが大きい。  @阿波

644:日本@名無史さん
18/10/16 11:31:20.06 .net
>平原1号墓のガラス製品は、卑弥呼の即位後の年代のものであり、つまり平原1号墓は卑弥呼の墓のものである可能性が高い。

ガラス製品など、倭国(阿波)の遺跡からいっぱい出てるよ。
たとえば、「矢野遺跡」や「加茂宮ノ前遺跡」等々。  @阿波

645:日本@名無史さん
18/10/16 12:19:48.03 .net
>平原遺跡以外の卑弥呼の墓の候補は、現状では見つかっていない。

「井の中の蛙大海を知らず」
「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。  
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」   @阿波
「八倉比賣神社」
URLリンク(bqspot.com)
URLリンク(kamnavi.jp)

646:日本@名無史さん
18/10/16 16:01:57.18 .net
>…倭…在海中洲嶋上…周旋五千余里

まさに、倭国(阿波)だね。  @阿波

647:日本@名無史さん
18/10/16 16:18:48.48 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その�


648:y器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。



649:日本@名無史さん
18/10/16 16:20:03.47 .net
>超大型内行花文鏡は副葬品としては永久欠番となり、天皇家と伊勢神宮に継承されるだけとなったのだろう。

その九州が、宮中最高祭祀「践祚大嘗祭」でお呼びがかからないというお粗末。  @阿波

650:日本@名無史さん
18/10/16 18:17:02.62 .net
>佐々木先生ははっきり書いていないけれど、畿内から派遣された一大率の居所の可能性がある

倭国(阿波)から派遣された筑紫忌部だよ。  @阿波

651:日本@名無史さん
18/10/16 18:26:47.90 .net
>桜井茶臼山古墳一つで、200キロ以上の水銀朱が使われてるんだけど?

「桜井茶臼山古墳」や「下池山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
桜井茶臼山古墳も下池山古墳も黒塚古墳も
倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波

652:日本@名無史さん
18/10/16 18:41:14.70 .net
>大型建物群は3世紀半ば以前には解体撤去されていたとされている

倭国(阿波)の古墳造営前線基地だから。  @阿波

653:日本@名無史さん
18/10/16 18:59:26.22 .net
>「内行花文鏡」39.8センチ 柳本大塚古墳出土
>「内行花文鏡」39.6センチ 下池山古墳出土
「柳本大塚古墳」と「下池山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
「柳本大塚古墳」も「下池山古墳」も
倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波

654:日本@名無史さん
18/10/16 21:20:03.90 .net
>そもそも、モモソ姫という人物がおったかどうか、怪しい。
「倭迹迹日百襲姫命」は徳島市国府町(旧黒田村)の第七代孝霊天皇「黒田廬戸宮跡」で幼少期を過ごし、
阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。
そして、その類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭祀されている。
阿讃山脈を越えて留まった地域が「水主神社(香川県東かがわ市水主1418)」付近。
「水主神社」から北上すると倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、
船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある「鱸懸神社(東かがわ市馬篠440番443番)」。
「鱸懸神社」を少し北上すれば「袖掛神社(東かがわ市小磯)」。そして西へ移動して高松市内に鎮座する「船山神社(高松市仏生山町大字百相神宮寺)」。
船岡山は倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。
船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わる。
当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所である。
次は讃岐一宮の「田村神社(高松市一宮町286)」。倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(別名 吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命を祭神とし、
これを「田村大神」と総称する。  @阿波

655:日本@名無史さん
18/10/16 21:24:30.86 .net
倭迹迹日百襲姫命の父にあたる第七代孝霊天皇の陵墓と黒田廬戸宮跡は、旧黒田村であった徳島市国府町芝原の蔵殊院あたり、
百襲姫の弟君にあたる日子刺肩別命は、蔵殊院から東に5km隔てた徳島市不動町の式内天佐自能和気神社で祀られている。
王族らによる阿波(倭)から讃岐(山背・難波)への進出は、孝霊天皇の御子時代から盛んになり、
第十五代応神天皇の御宇に至って、ついに香川県さぬき市津田の前期難波宮」に皇居を営むことになる。  @阿波

656:日本@名無史さん
18/10/16 21:39:55.07 .net
>葛城の土蜘蛛は脛が長かったと言われているね

だから、鳴門萩原のナガスネヒコと何度言えばw  @阿波

657:日本@名無史さん
18/10/16 21:40:44.29 .net
葛城神社も鳴門市  @阿波

658:日本@名無史さん
18/10/17 07:33:49.10 .net
>弥生時代の倭国は農業国。
「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
阿波忌部は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。

659:日本@名無史さん
18/10/17 07:48:33.81 .net
阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、
オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神
豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。
元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。  @阿波
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。

660:日本@名無史さん
18/10/17 09:12:37.64 .net
>【稲作の分布】
弥生時代の稲作分布じゃないと意味ないよ。  平安時代じゃ、意味なし。
弥生時代前期末から中期初頭(2400年~2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。 
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。  @阿波

661:日本@名無史さん
18/10/17 11:59:02.79 .net
>大きさがまちまちだから一概には言えないが、300くらいか。
>まあ、畿内では多いほうかな?
だから 「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。  @阿波
「椿井大塚山古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波

662:日本@名無史さん
18/10/17 12:02:06.06 .net
>大きさがまちまちだから一概には言えないが、300くらいか。
>まあ、畿内では多いほうかな?
だから 「椿井大塚山古墳」の鉄器は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「倭国(阿波)産」だよ。  
「椿井大塚山古墳」も倭国(阿波)の鉄器を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw  @阿波

663:日本@名無史さん
18/10/17 12:07:29.17 .net
>古墳時代に大土木工事をやっているのは畿内
>古墳時代に一番鉄が出土するのも畿内

古墳時代に大土木工事をやっているのは倭国(阿波)
古墳時代に一番鉄が出土するのも倭国(阿波)  @阿波

664:日本@名無史さん
18/10/17 15:12:53.49 .net
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんて


665:あり得ないのである。



666:日本@名無史さん
18/10/17 17:51:07.28 .net
高尾山古墳は、「蛇紋岩製勾玉」から、倭国(阿波)の「忌部はん」のお墓に決定済み。  @阿波

667:日本@名無史さん
18/10/17 19:57:04.11 .net
>倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
>皆、徒跣。屋室有り。
>父母、兄弟は異所に臥息す。
>朱丹を以ってその身体に塗る。
>中国の紛を用いるが如し。
まさに倭国(阿波)だね。  @阿波

668:日本@名無史さん
18/10/17 20:05:58.82 .net
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰

669:日本@名無史さん
18/10/17 20:10:28.20 .net
>女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
>常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。

その一大率は「筑紫忌部」だよ。  @阿波

670:日本@名無史さん
18/10/17 21:31:35.78 .net
>忌部さんの名もみえるが、服部さんの名もみえる。

「服部さんは帰化人」だよ。
『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。
この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。  @阿波

671:日本@名無史さん
18/10/18 07:03:20.25 .net
「田上郷戸籍断簡」は日本で最初の戸籍。
この中に「建部」と見えますが「建部」とは景行天皇御宇に日本武尊命の功名を記録しようと定められた御名代部です。
日本武尊命の西討東伐の道筋に置かれました。
この「田上郷戸籍断簡」には11名の「建部」が見えます。
阿波に日本最古の戸籍。
阿波に「建部」
阿波ってなに?  @阿波

672:日本@名無史さん
18/10/18 09:26:02.09 .net
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
URLリンク(www.seibutsushi.net)

.

673:日本@名無史さん
18/10/18 16:00:19.33 .net
「あらたへの藤原かうへに」
御殿(藤原宮)は、藤原のほとりに造営されたが、枕詞からそこは「あらたへ」と関係する土地であろう。鴨島町は和名抄にいう旧「麻植郡(おえぐん)」である。

いうまでもなく麻植郡は阿波忌部の本貫地である。紀の神代一書にも天石窟(あまのいわや)の神事に、粟国の忌部の遠祖天日鷲が作(は)ける木綿(ゆう)を懸(とりし)でて」とみえる。
この阿波忌部の職業は天皇祭祀中、最も重要な大嘗祭において如何なく発揮されており、その調進物の中で、大嘗祭内陣に奉供される「麁布」が最も重要とされている。
このように阿波麻植郡の鴨島の地は、阿波忌部が麁布をつくるまさに聖地である。この麻植郡の聖地を説明するのに、枕詞「あらたへの」が用いられたのである。
しかも天皇にとって最も神聖で、最もめでたい品、皇祖天照大神が織らしめたという衣(あらたへ)を最上の賛辞として、柿本人麻呂が持統天皇に捧げたというのがこの歌の神髄である。
持統天皇は、持統6年、新益京の造営が奈良盆地で進む中、自らの治世中は、皇祖神から授けられた百敷(ももしき)の倭(阿波)にとどまりたいと決意し、鴨島の地(藤原宮地)で地鎮祭を行った。
これを天神地祇あらゆる民がことほぎ、御殿の造営に我を忘れ奉仕した様子がこの歌である。  @阿波

674:日本@名無史さん
18/10/18 16:52:37.28 .net
『藤原宮の役民の作る歌』 この歌は柿本人麻呂の作であろう。
「もののふの 八十氏河(やそうじがわ)に」
これは先に挙げた阿波国田上郷戸籍がすべてを語っている。32氏のうち武人の姓をもつものとしては、「物部」「久米」「佐伯」「大伴」が確認できる。
またこの32氏には、孝元・開化・垂仁・景行・応神・仁徳・欽明の各天皇の後裔氏族や、御名代の姓のほか、倭朝廷の有力豪族の子孫の名を持つ氏人が揃っている。
まさに、阿波吉野川下流域は、八十氏の居住する地域で、そこに流れる川(吉野川下流域)を、八十氏河」と呼んだ。
対岸の吉野川南岸の徳島市に「矢三(やそ)旧矢三村」という地名が遺っているが、これも八十氏に関係すると思われる。
民(たみくさ)は、檜の丸太を川に浮かべ、綱をつけて岸辺から引き、檜村から上流へ河川を利用して泉の河まで運んだのである。  @阿波

675:日本@名無史さん
18/10/18 17:38:31.34 .net
『藤原宮の役民の作る歌』
歌は持統天皇の宮室(おおみや)造りを称え、これに天つ神、国つ神も寄り添い、賛同し、民(たみくさ)も我を忘れて奉仕し、他国も賛意を表すという、すべてを祝詞(ことだま)でうたいあげた讃歌である。
また、この歌は、田上山から藤原宮まで宮材を運ぶ搬路が順次語られ、通過するそれぞれの土地神と民とが祝意をもって参画するという歌になっている。
「石走(いわば)る 淡海(あふみ)の」
海岸の荒磯に押し寄せる波、その波が岩の表面をさざめいて走る、その淡海の国の、という意味であろう。
「石走る」という枕詞は、滋賀県の琵琶湖では生まれようがない。
「淡海」は原義どおり阿波の海のことで、東と南を海で囲まれた地形故に、海に浮かぶ国、阿波の海に囲われた国(土地)の意味である。  @阿波

676:日本@名無史さん
18/10/19 00:11:28.93 .net
歴史的根拠とか全く考察してないけど
四国より九州の方が平野部が多くて生産力が高い
すると商売人が台頭する
商売人から貴族に転職するのも多い
しかし日本人の特徴として必ず上を尊重しながら出世する

677:日本@名無史さん
18/10/19 14:21:54.23 .net
磯上乃古事記
阿波は磯の上にあるの?

678:日本@名無史さん
18/10/19 17:27:03.94 .net
天長2年(825年)に空海が
「磯輪上乃秀真国之阿波国也」(しわがみの ほつまのくにこれあわくになり)
と断定した文章が太龍寺に修められて残っているそうだ。  @阿波

679:日本@名無史さん
18/10/20 07:26:20.55 .net
416: 千葉県人:2015/02/22(日) 13:20:34.54 ID:.net  
土器のことに関心があるようなので専門家の見解を少し書き込みます
東阿波式


680:土器とは、厚さ2~3ミリと、他地域の土器と比べ極端に薄く材料の粘土には 細かくすり潰された阿波の青石(結晶片岩)が含まれている 桜井市埋蔵文化センター著「ヤマト王権はいかにして始まったか」(平成19年編の)の中で 「纏向では、近年阿波系の土器が調査が進むにつれ増加しておりその傾向が研究者の間で 脚光を浴びている」とされている 大阪府文化財センター技師の方が書かれた「大阪府出土の讃岐・阿波・播磨系土器」では 「淀川以北摂津東部の6遺跡で阿波系が17個、摂津中部11遺跡で阿波系16個、旧大和川 周辺沖積平野の41遺跡で阿波系208個、和泉市11遺跡で阿波系19個など」 阿波系土器が圧倒的に多いことが明かされている       千葉県人さん投稿転載  @阿波



681:日本@名無史さん
18/10/23 07:06:03.04 .net
「名東遺跡(縄文時代)」
縄文時代晩期の土器「突帯文土器」が出土
1987年(昭和62)年徳島市教育委員会によって、天理教国名大教会の建設地点の調査が行われている。
調査区からは溝状の窪地が検出されており、縄文時代晩期終末の「突帯文土器」がまとまって出土している。
その他に石鏃・石棒などの石器類も出土しており、徳島の縄文時代の終末期を考える上で重要な資料である。  @阿波

682:日本@名無史さん
18/10/23 07:38:21.23 .net
「芝遺跡」
URLリンク(1st.geocities.jp)
3、旧河道出土資料について
旧河道からは弥生時代終末頃~古墳時代前期前半頃にかけての外来系土器が多く出土した。
報告書では旧河道をそれぞれ溝12164、溝33239~溝33241、溝33244とし、主に上層と下層に分けて、
遺物の取り上げを行った。
特に溝12164は幅5m以上、深さ1.1mを測り、大きく上層・中層・下層の3層に分層できた。
下層から布留甕1個体が出土し、上層からは東阿波型土器や布留式土器がまとまって出土しており、時期差の可能性が
考えられる出土状況が確認できた。
図3は旧河道出土土器の内、実測し、報告書に掲載している個体総数の内訳を表したものである。
この割合が遺跡全体の割合を表しているわけではないが、参考として提示した。
実測総数196個体に対して、
阿波97個体で48%、畿内39個体で20%、在地36個体で18%、讃岐7個体で4%、土佐3個体で2%、
吉備3個体で2%、産地不明が12個体で6パーセントである。
約半数が阿波(東阿波型土器を含む吉野川下流域)の土器で占めており、次いで畿内系土器、在地時の出土数が多い。
讃岐や土佐、吉備の出土数は数%に留まる状況を示している。

683:日本@名無史さん
18/10/23 08:11:05.04 .net
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められるが、
特に吉野川下流域土器は弥生時代を通じて恒常的に出土すると考えられる。
弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになるものの、
普遍化した出土状況は見られない。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められる
ようになる。
以上のような搬入土器の出土状況や共伴関係の検討から、
吉野川下流域の搬入時を主体とし、複数地域からの搬入土器が混在する第一段階(弥生時代終末頃~古墳時代初め頃)。
吉野川下流域地域の土器・畿内系土器が主体となる第二段階(古墳時代前期前半頃)に分類することができると考えられる。
第一段階は伝統的な交流からの脱却の揺籃期、第二段階は交易ルートの確立を意味し、この現象は吉野川下流域、
なかでも鮎喰川下流域集団の影響が大きく、朱を媒介として交流が盛んに行われていたものと考えられる。
朱の搬出や食料供給に阿波南部地域集団が関係(菅原1992、岡山 2002)していたことを示す資料である。

684:日本@名無史さん
18/10/23 08:47:37.68 .net
吉野川下流域地域で、あまり搬入土器が見られない現段階では、吉野川下流域地域を主体とし、
間接的に阿波南部地域が関わっていた場合と阿波南部地域が直接的に交流・交易を行っていた場合が考えられる。
そして、土佐のタタキ甕や布留式土器などが本遺跡で出土したことは、吉野川下流域地域を主体とした間接的な交流・交易を行いながら、
他地域との直接的な交流・交易も行っていた可能性を示していると推定される。

685:日本@名無史さん
18/10/23 08:56:04.61 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

686:日本@名無史さん
18/10/23 09:20:55.27 .net
4、周辺の遺跡の様相
本地域は発掘調査がほとんど行われていないため、資料数が少ないが、海部川河口砂堆に所在する大里松原神社遺跡において若干の土器が採集されている。
東阿波型土器や下川津B類時が出土しており、在地産土器と外来系土器が混在する状況を示している。
時期は大きく弥生時代後期後半と古墳時代前期初頭の2時期に分かれ、
この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。(菅原1992)
この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに限られ、
出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。

687:日本@名無史さん
18/10/23 09:42:04.27 .net
5、まとめ
芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。
県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、
本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。
また、弥生時代終末頃~古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、
出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。
土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。
本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、
芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、
大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、
本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。
芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿いルートを想定できる遺跡であり、
海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。

688:日本@名無史さん
18/10/23 10:39:55.70 .net
「弧帯文土器」
楯築繋がりとして
徳島県内では、銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる思想を表現した弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)
が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土した土器にみられる。

689:日本@名無史さん
18/10/23 11:49:30.21 .net
「樋口遺跡」
弥生時代終末期の集落遺跡
眉山の南西の麓、園瀬川の自然堤防上に営まれた集落遺跡。1983年(昭和58年)以降数次にわたる発掘調査により、弥生時代の終末期の竪穴住居跡や奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかっている。
竪穴住居跡からは土器や石器など多数の遺物が出土しており、中でも東阿波型土器が多く含まれる点は遺跡の大きな特徴である。
そのほか注目すべきは、赤い顔料である朱が付着した土器が多数出土していることである。これらの土器の分布範囲は広く、人々の交流が活発であった様子がわかる。
樋口遺跡の集落内には、幅広い交易に関わった人々が暮らしていたのであろう。
URLリンク(awakouko.info)

690:日本@名無史さん
18/10/23 12:40:29.96 .net
黒谷川郡頭遺跡:東阿波型土器 弥生時代後期の土器編年の標識遺跡
庄内式、布留式土器は畿内第Ⅴ期東阿波型土器(薄型軽量土器)の技法伝播を示唆する。

691:日本@名無史さん
18/10/23 17:58:06.06 .net
鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。

692:日本@名無史さん
18/10/23 18:55:14.56 .net
全国ニュースにならないような無駄な発掘ばかりやってるね

693:日本@名無史さん
18/10/23 21:02:13.98 .net
神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
西山谷2号墳は 標高74mの尾根上、
南北径20m、東西径18m・高さ2mの円墳
中央に南北方向の結晶片岩石積の竪穴式石室がある。
竪穴式石室は全長4.72m、北幅1.05m、南幅0.83m
墓壙は南北6.5m、東西4.8mで全体が結晶片岩で覆われている。
石室には粘土でつくられた棺台があり、刳抜式木棺があったと考えられている。
石室の床には水銀朱が塗られていて、特に北側が多量だった。
棺内北側から鉄鏃、ヤリガンナ、鉄剣、鉄斧、鉄片、青銅鏡など多くの副葬品が出土
棺外からは鉄槍や土器が出土した
3世紀半ばの築造と推定されている。

694:日本@名無史さん
18/10/23 21:06:30.55 .net
神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、吉野川北岸阿波市の「建布都神社」で祀られている。
一方、長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。
長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。

695:日本@名無史さん
18/10/23 21:09:45.68 .net
「天河別神社4号墳」 
以前は前方後円墳といわれていたが、径20~25mの円墳と訂正されている。
埋葬部もほとんど消滅していたが、礫敷きの粘土槨に割竹形木棺があると考えられている。
舶載斜縁二神二獣鏡片・鉄剣・鉄槍・鉄鏃が副葬されていた。

696:日本@名無史さん
18/10/23 21:18:12.73 .net
「蓮華谷古墳群(Ⅱ)二号墳出土品」
当物件は、平成2年に四国縦貫自動車道建設に伴い発掘調査された板野郡板野町犬伏所在の蓮華谷古墳群(Ⅱ)二号墳の出土品である。
調査により古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)の粘土槨を持つ円墳であることが判明し、本県の粘土槨の始原を考える上で重要な古墳である。
副葬品には銅鏡1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄鉇1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、
徳島県立埋蔵文化財総合センターで展示されている。
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は仿製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
URLリンク(www.isekiwalker.com)


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