神武天皇即位年について その3at HISTORY
神武天皇即位年について その3 - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
15/09/06 08:56:13.30 .net
立て乙

3:日本@名無史さん
15/09/06 21:20:11.09 .net
スレたてたとたんに書き込みが途絶えたけど、生きてる?
新スレ自体も即死チェックみたいなのがあったよね?

4:743
15/09/07 00:04:49.48 .net
スレ立てお疲れ様です
神武天皇~欠史八代の天皇の実在性が認め難いのは陵墓の存在の不確実性と系譜の不確かさだと思いますが、
開化天皇より前は古墳時代では無く、可視的な陵を見いだせない為だと思います。
神武天皇の岳父である事代主と関係性の深い鴨都波1号墳は弥生時代の方形周溝墓から古墳時代前期の方墳に至る墓域でした。
その墓域は地中深く埋没いていた事などから、可視的に見いだせない、或いは現天皇陵とされた中に存在するのかも知れません。
神武天皇・綏靖天皇・安寧天皇に后妃を入れたのが葛城の事代主でありながら、4代懿徳天皇までの陵墓が畝傍山周辺にある事など、日本書紀に現れない要因があるのかも(欠史八代ですが)。
また、系譜においても初代神武天皇~13代成務天皇までの父子継承となっている点ですが、
16代仁徳天皇から系譜が正確性をを帯びてくる点などから、天皇の名はわかっていたが系譜に関する伝承が失われていた為、父子継承としたのではと考えていますが。
特に仁徳天皇以降においては、天皇空位の期間が頻発しますが、古代に行く程、天皇崩御すぐに即位の傾向となります。
例外は神武天皇崩御後に綏靖天皇が異母兄のタギシミミを討った説話くらいでしょうか。
また推古天皇、皇極・斉明天皇、持統天皇、元明天皇。元正天皇など女帝による中継ぎとしての即位は飯豊皇女、神功皇后にもあてはまりそうで、
卑弥呼、トヨも倭国の乱に伴う中継ぎの即位だった可能性もあると思います。

5:日本@名無史さん
15/09/07 16:12:36.37 .net
欠史八代説に囚われすぎなんだと思いますね。
戦中に一学者が唱えた説というだけなのに、弾圧されたことにより戦後に
ヒーローにされてしまい、あたかも真実のように扱われ、国家神道と逆の意味で
バイブルになってしまった。誰も異を唱えることが出来ず、触れることも出来ず、
まともな学者は避けて通り、信奉者は欠史八代を呪文のように唱える。
国家神道も罪なことをしてくれたもんだと思いますけどね。
神武と崇神が同一人物では無理があると思います。
ある日突然小数でやって来た人物が巨大な墓を作るほどの力を持っていることになる。
大彦も彦坐王も狭穂彦も架空の人物ということになる。武内宿禰も。
100%信じるというのではないが、婚姻関係や出てくる氏族は伝承を書いている
と思えますね。
欠史八代ではないほうが、発掘調査と整合が取れる。
尾張の祖の伝承、尾張の土器、丹後の遺跡。
黒田を発掘すれば、三世紀初期の豪族館が見つかるかもしれない。

6:日本@名無史さん
15/09/07 20:08:03.65 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

7:日本@名無史さん
15/09/07 20:08:33.34 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

8:743
15/09/08 00:22:36.04 .net
何度か述べましたが中国史書に現れる日本列島の状況が後漢~隋・唐に至るまで、倭国と言うただ一つの国が有り、ヤマトに都を置いていると述べている。
これは日本書紀の内容と同一としか読めないのでは?
後漢書・三国志に現れる百余国と東テイ人の二十余国を合わせた120余国は倭王武の上表文に現れる征した121国や隋書の軍尼120国と対応していると思います。
倭人伝の30国は何度か述べたように倭国の乱の後に邪馬台国によって統合された領域で、時期として四道将軍派遣前の状況だと思います。
倭国の乱の前には百余国の統合があったのではと(統合自体は後世より緩やかな状態だと思いますが)。
東テイ人は会稽海外の存在から、九州熊襲即ち狗奴国に該当すると思います。

9:日本@名無史さん
15/09/08 19:36:24.74 .net
継体以前の天皇を半年暦説にすると紀元前51年頃
面白い事に新羅は高墟村の徐那伐が紀元前57年頃に建国
神日本磐余彦尊(神武天皇)の兄稲氷命は母の国である海原へ入坐としたとのみ記されている。
母の国(ワタツミ)は福岡志賀島一帯を本拠地とする海洋民族。新羅辺りも抑えていたのではないかなぁ。
半年暦説だといろいろ繋がるかもなぁ・・・ト学ですまん。

10:日本@名無史さん
15/09/08 23:23:18.84 .net
>>9
半年暦(って、「二倍歴」とか言ってなかったか?)はデタラメで荒唐無稽。無意味な推計だ。

11:日本@名無史さん
15/09/08 23:29:55.15 .net
神武天皇は新羅系と海洋民(南方系?)の混血なのでは?
天孫降臨とはやっぱりご先祖が大陸からこの国に来ました
ってことだと思うけど。神話の舞台は南九州の日向。
ニニギの子孫は九州一帯を支配した大豪族だったのだろうか?
むしろ朝鮮から日向まで定住地を求めてさまよったのでは?
先祖は海幸彦でなく山幸彦。狩りをして肉を食べていた人たち。
日本書紀の異伝では出雲のスサノオは新羅から来たとある。
日本から朝鮮に進出したのは神功皇后の時代からとされる。
その前に崇神天皇のとき出雲国が大和朝廷に降った後、
任那が朝貢してきたという。だからそれまで朝鮮南部を
抑えていたのは日向の豪族でなく出雲の豪族と考えるのが自然でしょう。

12:日本@名無史さん
15/09/09 00:00:44.93 .net
神武天皇はアマテラスとタカミムスビという異なる
二系統の神を先祖に持っていてどちらが皇祖なのか
が長いこと議論されてきたね。

13:743
15/09/09 00:55:10.10 .net
記録に現れる事を中心に述べていますが、後漢書においては倭人(倭国)と中国との接触は前漢の武帝が朝鮮を征した時に始まるとなっています。
対して百済・新羅が史上に現れるのは4世紀中頃、500年近い開きが有り、日本の始祖に百済・新羅を考えるのは無理があると思います。
むしろ新羅の古い王が広域丹波に該当しそうなタバナ国から渡来したとする三国史記の記述や但馬に渡来した新羅王子アマノヒボコが純倭風の名を持つ事から辰韓に植民した倭人集団が新羅の始祖ではと考えています。
日本書紀においても朝鮮半島も城に韓人のモノにはサシを、倭人のモノにはキの音を当て区別している事から新羅はシラ城であり、倭人によって作られた事を物語っているのでは。
三国志で辰韓の地は亡命中国人が多く居る地とされている点も踏まえ、中国人・倭人・韓人の混交」の地だったのでは?
新羅は5世紀の宋書においても独立の伝は立てられず、倭国伝の中で配下として登場するのみで、辰韓も登場する事から辰韓地域の征服も終わってない状況と考えられます。
新羅が独立した国と考えられるのは6世紀になってからでしょう。
三国史記にあるように新羅の王統は途中から倭人から韓人に代わったのでしょう。
6世紀中頃に新羅が任那を征したのでしょうが、日本書紀による限り7世紀に至るも任那の貢がなされているように完全な新羅の征服は半島統一の直前にまで掛かったのではと考えられます。

14:743
15/09/09 01:18:47.09 .net
百済においては、その姓扶余、高句麗の分かれとなっています。
思うに西晋滅亡時、連絡の途絶えた帯方郡地域に派遣された高句麗王族が独立したのでは?
その頃に馬韓地域の倭人集団の後援を受け、高句麗から独立したのでは?
時期的にも神功皇后の三韓征伐の時期にも当たっており、七支刀の年代にも合致しそうです。
その直接、372年に百済が高句麗を破った事にも対応しそうです。
日本書紀において、朝鮮半島の韓人の村にはスキ、倭人の村には牟羅の音を当て区別している事などから雑居状態が伺えます。
百済の官人には韓人・倭人さらに中国人が居る記述もあります。
朝鮮半島の前方後円墳が5~6世紀に馬韓に築かれている事から倭人地域が推定出来るかと思います。

15:日本@名無史さん
15/09/09 02:57:37.70 .net
日本書紀が「新羅」と呼んでるのは後世新羅と呼ばれる
地理上の場所、地名ですよ。スサノオが出雲にやってきたとき
アマノヒボコが但馬にやってきたときの「新羅」は当時は
後に新羅と呼ばれる国に包含される集落(ムラかクニという言葉が
妥当かな?)の一つに過ぎなかったと思います。
垂仁天皇が西暦3世紀後期か4世紀前半の人物なのは確かでしょう。
しかし垂仁がアマノヒボコの渡来からその曽孫か玄孫のタジマモリの時代まで
生きるということはまず無理ですから、アマノヒボコは垂仁の何世代か
前の天皇の時代に既に渡来していたはずです。
当然この時代に新羅国は史上に現れていませんが、
新羅へと発展する国は既に存在したのでしょう。倭人の国かもしれませんが。
新羅の伝承上の建国は紀元前57年。日本書紀はおそらく垂仁天皇の治世を
この直後に合わせたのではないですか?

16:日本@名無史さん
15/09/09 08:51:12.73 .net
神武って分からんねえ。
天孫降臨ならニニギーアメノホアカリで充分なんだよな。
九州に降臨して海神と婚姻し、母も祖母もワニとくる。
アメノホアカリの子孫も海部で海神なんだよな。
元々あった伝承があるが、それでは中国風の支配者の体をなさないから
くっつけたのか、何時だかわからないほど古い時代から統治していますだと
野蛮人扱いだったのか。

17:日本@名無史さん
15/09/09 16:35:27.42 .net
>>13
>三国史記にあるように新羅の王統は途中から倭人から韓人に代わったのでしょう。
新羅の王、丹波出身の脱解尼師今の昔氏の血統は日本
韓国で朴と勝手につけられた赫居世居西干の血統も繋がりを考えると日本
味鄒尼師今からの金氏は古韓国系では。

18:日本@名無史さん
15/09/09 19:12:25.23 .net
神武天皇(この時代、天皇号はなくて精々、大王。同じ意味では大国主尊。また、天照皇大神)は後世のイメージ。
神倭磐余彦天皇。
複数の一書に曰く。として、、、
神倭磐余彦ホホデミの命。
要するに、ホホデミの命と言われた。
彦火明命/天火明命の亦名が天火火出見命。
家名として当主がホホデミを継承しても不思議ではありませんから、
お伽噺の神武天皇と同時代の登場人物を検証すると実体が朧気ながら見えてくる?
九州からヤマトへ御来臨の伝承が複数。
神武天皇は亦、狭野命(サノの命)と言った。
素(もと。始祖)のサノの命(王、男(オノコ))。、、、スサノオ

19:日本@名無史さん
15/09/09 20:04:01.57 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

20:日本@名無史さん
15/09/09 20:04:37.54 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

21:日本@名無史さん
15/09/09 20:46:23.51 .net
天之忍穂耳の父親はスサノオ

22:日本@名無史さん
15/09/09 20:51:08.75 .net
諱も幼名も即位名も全部一緒くたにするとか、流石2ch

23:日本@名無史さん
15/09/09 21:48:22.86 .net
>>17
新羅の金氏の出自が記録とは無関係で実は金官国の王族、併合時に占領支配したんじゃなく政略結婚で統合した
みたいな経緯でもあったら面白いのにな。

24:743
15/09/12 00:41:48.78 .net
大和と出雲に弥生時代前期に至る交流がある事は大和の最も古い神社に祀られる神が出雲の神と何度か述べました。
葛城で弥生時代前期からの鴨都波遺跡に存在する鴨都波神社、銅鐸を出土した名柄神社、高鴨神社。
三輪の大神神社等。事代主や大物主神を祭神とする大和南部は出雲の文化圏だったのでは?
倭人伝の魏使の経路でも述べましたが出雲~丹波~播磨~大和が弥生以来のルートではなかったかと。
出雲~筑紫さらに新羅に至るコースが相当古くから存在したのではないかと。

25:743
15/09/12 01:13:29.78 .net
古代の日本海ルートがひょっとして呉越の民の渡来に至る鳥越憲三郎の説に繋がる可能性もあるかもしれません。
神武天皇以来、天皇家と出雲系とは事代主の例の如く婚姻を通じて友好的で、おそらく播磨~大和への移動は大和川を移動手段としているのでは?
対して、奈良市域は神武東征時の長髄彦や皇族でもタケハニヤスヒコ等天皇家と対立関係になる事が多かったのでは?
四道将軍の大彦命が北陸へ向かう時、ワニ坂を経由している事など上ツ道を経て、淀川・宇治川水系は東国・北陸との親和性が高かったのでは?
それが後に佐紀古墳群の王家に繋がっていくのでは?
あるいは広域丹波の中でも但馬は大和川水系の天皇家、丹後は佐紀の王家との繋がりが多くなるのかもしれません。
垂仁天皇の2人目の皇后ヒバスヒメからも。

26:743
15/09/12 01:38:57.13 .net
何度か述べているように中国史書に日本列島が登場して以来、倭人・倭国以外登場しない。
弥生時代前期より、緩やかな統合があったのではと考えています。
やはり、最初は出雲であったと。日本人の均質性が象徴していると思いますが。
そして神武天皇の統一も緩やかなな統合だったのではと。
強力な統合が行われたのは倭国の乱を経た邪馬台国からではないかと。
倭人伝に現れる官・副は邪馬台国から派遣された官僚で、邪馬台国時代は簡単な官僚機構が整備された国家だったのではと考えています。

27:日本@名無史さん
15/09/12 07:22:16.01 .net
>>17
金氏も倭人系だよ
>>23
金官国との関係は6世紀になって婚姻関係を結んだのが最初
金氏という姓を名乗ったのもその頃
そもそも5世紀以前の新羅王家は金氏と名乗ってないし金官国とも関係ない

28:日本@名無史さん
15/09/13 07:02:21.09 .net
天皇家の起源は何ですか→10億年前にはクラゲと呼ばれる崇高なる職業をなされていました
我が家の起源は何ですか→10億年前にはクラゲと呼ばれる崇高なる職業をしていました
世の中なんてそんなモン

29:日本@名無史さん
15/09/13 08:54:39.37 .net
20万年(25万年?)前に西アフリカで分化発生したのが我々のホモサピエンス類
食糧事情からその総人口は約2万人程度で推移。
五万年前、急激な環境変化による寒冷化(東南アジア(インドネシア)で超メガ火山噴火による噴煙物質が太陽光を遮る『噴火の冬』だとされる)に遭遇。
急激に食糧事情が悪化して飢饉~絶滅へのカウトダウンが始まる中、
生き残る為、発生分化以来の故郷を捨て
新天地を探すグレートジャーニーへと旅立つ一団があったそうです。
(出アフリカ)
この時の一団の人数は僅か数十人だった?
現在の70億人の人類は種としては『ホモサピエンス種のみの単種 』
過去に地球上に様々存在した別種類の人類は自然淘汰やご先祖様に駆逐される等して
全て絶滅。
70億人になんなんとするホモサピエンス種ですが、近年、世界的な遺伝子の科学的な解析から
5万年前のたった『9人の母親』に集約される。と言う結果が出ています。
正に、出アフリカの一団に至ると考えられる結果?

30:日本@名無史さん
15/09/13 11:11:13.34 .net
出アフリカは複数回の説が主流だろ、2回説>3回>1回って感じじゃなかった?

31:日本@名無史さん
15/09/13 11:40:21.33 .net
>>29
黒人の扱いどうするの?

32:日本@名無史さん
15/09/13 20:10:52.56 .net
ヤマト朝廷というか、ヤマト王権でもいいが、
出雲と結びつける考え方が、出雲神話に引っ張られすぎではないか。
近年の荒神山遺跡の発掘とか新たな知見はあっても、
出雲神話は「極論」すれば机上の理念的産物というのは変わらない。
三輪の神と大物主との結びつきの話とかは、神話的なものを取っ払ってしまえば、
ほとんどまったく関係がない。
近辺に出雲に関連した地名が残っているとかというのも、
強引に関連づけようとしたいわば牽強付会説。
邪馬台国に関係に限らず、一応まともな研究者と見なされている人々でさえ、
そうものが横行しぎているのが、今の古代史といえばいえるが。

33:日本@名無史さん
15/09/13 21:21:37.17 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

34:日本@名無史さん
15/09/13 21:22:16.17 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

35:日本@名無史さん
15/09/13 21:44:24.83 .net
>>31
確かに黒人無視してる書き方だよね
むしろその9人の母はみな黒人のはずなのにね

36:743
15/09/14 00:41:34.87 .net
何度か述べていますが、日本書紀が軽視されすぎだと思います。
日本書紀は天武天皇の時代から30余年の歳月をかけて考証された結果のモノです。
崇神天皇の時代は倭人伝の記事の直後と考えていますが、大規模な初期古墳はヤマト王権の中心に集中している。
古墳の大きさによると考えられる中央集権体制が整ったのでは?
古墳時代の多くの古墳造営は整備された権力機構の存在無しにはありえないと考えられます。
日本各地の大規模な古墳は地方の在地勢力の成長などでは無く大和政権のコントロールの元に行われたとしか考えられない。
古墳の規模は天皇>皇后>皇族>大豪族の序列で作られたとしか思えないのでは?
日向・吉備・広域丹波・毛野の大古墳すべて地方に下った皇族に淵源すると考えられます。
これは専制でない中央集権だったのでは?
各地の大古墳の終焉は専制者たる雄略天皇の登場と符号するのではと。
畿内から地方に至る神社や伝承の多くは日本書紀との符号している事を日本書紀以降に合わせたとはとても考えられない。
日本書紀が元の伝承を記述したと考えるほうが自然なのでは。
日本書紀で崇神天皇からの伝承が詳しくなるのは中央集権体制が整ったと考えた方が合理的では?
倭人伝にも倭国の乱以前の王統について記述してますし、年期はともかく加上がわずか9代で伝承もないのは、造作などでは無く伝承の喪失とした方が合理的だと思います。
戦後史学は皇国史観の反動から余りに日本書紀を蔑ろにしているのでは?
近年の考古学の発掘結果によって漸く日本書紀の再認識が進んだのではと思います。

37:日本@名無史さん
15/09/14 02:45:57.50 .net
うんうん、それで?

38:日本@名無史さん
15/09/14 02:49:17.05 .net
誰も全部嘘だなんて言ってないから

39:日本@名無史さん
15/09/14 20:14:50.75 .net
>>17
金氏も倭人系だよ。新羅の王は最後まで倭人系。

40:743
15/09/15 00:11:09.78 .net
倭人伝で魏使が経由した奴国と傍国21国の最後に現れる奴国を同一のモノと考え、大和から最遠の地が筑前に当たる奴国ではとしました。
その南の狗奴国が筑後川以南の熊襲ではと述べました。
対馬から不弥国に至る国々の副にヒナモリの設置は狗奴国との臨戦体制の結果なのでは?
また、ヒナモリは後世の防人と同一のものと考えられますし、北九州に王都が有った場合、地元の軍に鄙を守る鄙守とは名付けないでしょう。大和から遠方の守備兵こそ相応しいのでは?
以前にも述べましたが、魏使は伊都国に治する一大卒を刺史の如きと記しているように、官・副を郡太守・都尉の様に理解しているのでは。
邪馬台国と狗奴国との争いは、魏や三韓の地との交易の拠点である筑前の争奪戦で、戦争の舞台は筑後川を挟んだ地域なのでは?
後の仲哀天皇・神功皇后の熊襲遠征と同じ地で有り、伊都県主の祖が加わるのも同様だと思います。
また邪馬台国に置かれた四等官の首席伊支馬は活目の可能性が有り、次席の弥馬升と三席の弥馬獲支は弥馬の本家と分家と捉えられます。
これは、垂仁天皇の名、イクメイリヒコと崇神天皇の名ミマキイリヒコに通じるのではないでしょうか?
以前にミマキイリヒコ、イクメイリヒコとも入婿で入ったので、その名となったのではと述べましたが、卑弥呼を支える王族もしくは豪族だったのでは?
彼等の墓はオオヤマト古墳群の100M超の古墳に有るのでは?
雄略天皇紀に現れ、雄略天皇に殺された御馬皇子は三輪の地で戦い殺されました。
おそらく御馬の地は三輪の近く、もしくは三輪そのものだった可能性が有ります。
御馬の地に築かれた城の名を持つミマキヒメに入婿で入ったミマキイリヒコが倭人伝の時代に続くのではと。

41:日本@名無史さん
15/09/15 01:26:02.76 .net
北九州が要所だったから北九州の記述が多く
それが九州説という誤解を生む結果となったという事かな

42:743
15/09/15 22:39:33.13 .net
邪馬台国九州説が現れた背景として、通常の郡・三韓との交流、交易は伊都国で行われた為ではないでしょうか。
倭人伝に現れるように皇帝の勅使は大和にまで向かったようですが、それ以外は北九州で決済していたようです。
詔書を伴う場合は金印が必要になってきますが、邪馬台国より派遣された使者にも魏の官職と銀印が下賜されており、通常決済と封泥は銀印が使用されたのでは。
また、難升米・牛利等の使者は北九州の人間だったのでは。指摘もされていますが、難升米は奴国との関係があるのかもしれません。
帯方郡より北九州までは里程表記で、北九州から邪馬台国までが日程表記なのは郡が北九州までは何度も往来し里程を認識していたのに対して、邪馬台国までは勅使の往来の時だけであり、その時の報告が基になったためではないでしょうか。

43:743
15/09/15 23:40:59.38 .net
邪馬台国の四等官奴佳テ(ヌカテか)は日本書紀に対応する人物はみいだせませんが、飛鳥時代の大伴糠手に通じるように倭人の名前としておかしくないと思います。
垂仁天皇の名イクメイリヒコはイクメへの入婿ではと考えましたが、イクメの地は不明ですが佐紀古墳群の王家への入婿では述べたように、奈良市域ではないでしょうか?
何度か述べたように、その地は開化天皇に始まる佐紀古墳群の大勢力へ発展する所であります。
邪馬台国の四等官は卑弥呼の時代と思われますが、その首席伊支馬は卑弥呼没後に即位した男王で、開化天皇の可能性があるのでは?
次席の弥馬升と三席の弥馬獲支はミマの地の名を持つミマキヒメの父大彦命とワケを名に持つタケヌナカワワケの可能性があるのでは?
大彦命の子ミマキヒメがトヨに当たるのでは?
倭国の乱は全国的な争乱だと思いますが、狗奴国との争いは北九州に限られた争乱で、遠方である大和より近くの帯方郡へ連絡が達したのでは。
対して卑弥呼没後の争乱は大和付近に限られたのでは?
日本書紀に言うタケハニヤスヒコがこれにあたるのでは?
タケハニヤスヒコは開化天皇の一族(兄弟か?)で、この争乱の為に王位を去ったのでは?
その後にミマの地を地盤とする弥馬升(大彦命)の子トヨ(ミマキヒメ)を共立し、後に王族からミマキイリヒコを入婿として迎え崇神天皇となったのでは。
その後に開化天皇の子孫にイクメイリヒコを婿入りさせ垂仁天皇となったのでは?
その相手がサホヒメで有り、後にはサホヒコの乱にも繋がるのでは。
タケハニヤスヒコの乱もサホヒコの乱伴、奈良市から南山城が争乱の舞台で佐紀の王家がかかわっているのは間違いないと考えます。
佐紀の王家は複数に分かれており、生き残った王家が後に神功皇后をはじめ、后妃を天皇家に送り、古墳群の造営も続いたと考えます。

44:743
15/09/16 00:25:57.75 .net
初期天皇の内、国風諡号と思われる4・6~9代の天皇の名を見ると
神武天皇のイワレヒコは磐余の地、綏靖天皇のヌナカワミミは不明(タケヌナカワワケと関連あるか?)
安寧天皇のシキツヒコタマテミは崇神天皇や稲荷山鉄剣に見えるシキと秋津洲宮近くのタマテを合わせた地
孝昭天皇のミマツヒコエシネは三輪付近と不明を合わせた名です。
葛城に都した天皇の多くに纒向遺跡近くの名前が現れます。
特に地名+ツの名前は大和川水系から長谷街道の結節点の地でなかったかと、初期の天皇は葛城とこの地を抑える事が基盤だったのではと思います。
もう一つの東国へのルートは淀川~宇治川~瀬田川で後の佐紀の王家さらに息長氏が抑えており、大和南部の天皇家と対立したのでは。
さらに遡るとトミの長髄彦も奈良市付近に盤踞していたのでは?
開化天皇もしくはその先代が長髄彦の一族の地に入婿で入ったのではと思います。

45:743
15/09/16 00:28:47.66 .net
上文、4・6~9代以外の天皇についてでした。
申し訳ないです。

46:743
15/09/16 23:54:43.10 .net
日本書紀に現れる名を天皇中心に考えてみますと、
国風諡号・諱・土地の名・土地の名+諱、それと神武天皇・綏靖天皇に見える頭に神がつくパターンがあるようです。
安寧天皇のシキツヒコタマテミは地名が2つ
孝昭天皇のミマツヒコエシネは地名+諱か?
神武天皇の神日本磐余彦は尊号+地名
成務天皇のワカタラシヒコは諱等です。
倭人伝との繋がりで述べた崇神天皇はミマキイリヒコイニエと垂仁天皇のイクメイリヒコイサチは地名+諱だと思います。
倭人伝の時代を含む時代に氏はまだ無かった筈ですが、自己の領地や在所等と諱が有ったのではと思います。
そこから倭人伝をみますと、地名の名と職務による名と考えてよいのではと考えます。
邪馬台国の四等官、首席伊支馬次席の弥馬升三席の弥馬獲支は土地の名によりそうですし。狗奴国のククチヒコも土地の名でしょう。
対馬の官・副のヒコ・ヒナモリは職による名でしょう。
そして卑弥呼の名は日巫女による職名の可能性が有り、諱は別にあるかもしれません。
大彦命についても述べましたがオオヒコは諱で土地の名として弥馬升があった可能性を提起します。
邪馬台国に現れる人名は土地名によるモノで、諱ではないのでは?
ただ、魏への使者難升米・牛利等は皇帝に謁見しているので本名としての諱だったのではと思います。

47:日本@名無史さん
15/09/17 00:46:51.19 .net
伊支馬:生駒 …北西
 活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)=イクメ、イコマ
 皇居は纒向珠城宮(桜井市穴師)だが、陵墓は菅原伏見東陵(奈良市)でかなり北方
彌馬升:加茂・葛城鴨…南西
 観松彦香殖稲尊(孝昭天皇)=ミマツ
 皇居と陵墓が葛城掖上(御所市)に 阿波国長国造の祖に「事代主神の子孫の観松彦」がいる
彌馬獲支:三輪・纏向…東
 御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)=ミマキ
 皇居は磯城瑞籬宮(桜井市金屋)、陵墓は山邊道勾岡上陵
奴佳提 …三者に囲まれた中央(ナカト)
 孝霊天皇の皇居が黒田廬戸宮(田原本町黒田)

48:日本@名無史さん
15/09/21 13:28:39.92 .net
よく石上神宮が物部だって出てくるけど、あおれって後になってからだと思うね。
記紀には、武器庫の管理をしたとは書いてあるけど、そこが物部の拠点というのは
おかしいとおもうな。
都がその周辺にあったから武器庫がそこにあったわけだし、天理が物部氏の拠点とは
違う。天理は、天火明命系の拠点であって孝昭は火明命家に婿入りしている。
三条遺跡、岩室遺跡からは北近畿系の土器が出ている。
記紀の伝承、土器、古墳の金象嵌鉄剣、初期ヤマト王は火明命一族だ。
ただし、争いが起きるほどだったから絶対権力は持っていなかった。
もしくは、内部の有力者の主導権争いが耐えなかった。
後に、神武系統が主導権を握るが、それは崇神以降であって、神武は大王ではない。

49:日本@名無史さん
15/09/21 15:12:38.86 .net
まだあった。
三種の神器のうちの草薙剣が熱田神宮にある。
また、伊勢神宮の外宮の神、豊受大御神の存在。

50:743
15/09/24 00:02:50.65 .net
上文でトヨの可能性として、ミマキヒメをあげましたが、トヨの名から崇神天皇の庶長子トヨキイリヒコについても考えてみます。
ただ、崇神天皇の子供世代なので、トヨの地の継承者の王族に入婿の形で入った可能性もあるかと思います。
トヨから崇神天皇の継承時期を考えてみますと魏・西晋への遣使の時期から
239年・266年は公孫氏平定と西晋朝成立の慶賀に伴う形で行われたのに対して、280年の西晋の天下統一への慶賀使は派遣されていない。
当時の西晋は武帝の治世下で、唯一の全盛期、この時に慶賀使を派遣しないのは倭国独自の天下観念が発生した事、崇神天皇の即位があったのでは?
時期としては270~280年頃ではないかと考えます。

51:743
15/09/24 00:38:49.76 .net
倭人伝から読み取れる時系列を考えてみますと、
100~180年が本亦男子を以て王と為し住まること70~80年の時期。
日本書紀での神武天皇から数代の天皇の時期、後漢書に現れる倭国王帥升が神武天皇に該当すると思います。
180~270年が倭国の乱、さらに卑弥呼共立からの邪馬台国時代。
纒向遺跡の成立時期にも合致しそうです。
倭人伝に現れる時代が、この頃だと思います。
倭国の乱から暫くの間に相当の空位があったのではと考えています。
また卑弥呼、日本書紀のモモソヒメの墓とも寿陵では無く、死後の造立らしき記事風で、魏使が墓の全貌を見ていない可能性があるのでは?
邪馬台国時代らしき日本書紀の記事は崇神天皇紀に収斂されたのではと考えています。
270年~が崇神天皇によって、日本の大部分が統一された時代となるのではないかと。
オオヤマト古墳群に権力者の古墳が集中する中央集権国家となったのでは?
むしろ、崇神天皇より後代が各地に古墳群が成立し、中央集権が弛緩したようです。

52:743
15/09/24 00:54:30.60 .net
一考として神武東征の時期を90~100年頃と考えると弥生時代後期に途絶する大和最大の環濠集落、唐古鍵遺跡を考えないといけないかもしれません。
長髄彦との戦いの前に戦った、磯城彦が該当する可能性がありそうです。
磯城郡にあたる式上・式下郡は桜井市・天理市・三宅町・田原本町にまたがり、唐古鍵遺跡の地も該当しそうです。

53:日本@名無史さん
15/09/25 16:02:28.37 .net
唐古鍵遺跡が途絶したのは弥生時代中期末で、洪水によるもの(登呂遺跡もこの頃に洪水で滅んだ)
すぐに復興して弥生後期にはむしろ最盛期を迎えている
縮小したのは古墳時代前期以後

54:日本@名無史さん
15/09/25 22:36:23.16 .net
晋書本紀等によれば、倭とは特筆されないものの、東夷諸国はしばしば晋に朝貢している。
漢魏以来の友好国で、司馬懿の功績の証でもある倭国の使者も、この中に含まれると見てよかろう。
京都府木津川市の上狛古墳からは、晋の元康年間(291-299)の紀年銘鏡も出土している。
倭国独自の「天下」概念が登場するのは、せいぜい5世紀以後の話。
泰始二年(266)十一月已卯、倭人來獻方物。
咸寧二年(276)二月、東夷八國歸化。秋七月癸丑、東夷十七國内附。
   三年(277)是歳、西北雜虜及鮮卑、匈奴、五渓蠻夷、東夷三國前後十(千)餘輩、各帥種人部落内附。
   四年(278)東夷六國來獻。是歳、東夷九國内附。
太康元年(280)六月甲申、東夷十國歸化。秋七月、東夷二十國朝獻。(3月に呉を滅ぼし天下統一)
   二年(281)東夷五國朝獻。夏六月、東夷五國内附。
   三年(282)九月、東夷二十九國歸化、獻其方物。(282-287、張華が都督幽州諸軍事をつとめる)
   (張華伝)東夷馬韓新彌諸國、依山帯海、去[幽]州四千余里、歴世未附者二十余國、并遣使朝献。
   七年(286)八月、東夷十一國内附。是歳、扶南等二十一國、馬韓等十一國、遣使來獻。
   八年(287)八月、東夷二國内附。
   九年(288)九月、東夷七國詣校尉内附。
   十年(289)五月、鮮卑慕容隗來降、東夷十一國内附。是歳、東夷絶遠三十餘國、西南二十餘國來獻。虜奚軻男女十萬口來降。
太熈元年(290)二月辛丑、東夷七國朝貢。
永平元年(291)是歳、東夷十七國、南夷二十四部、竝詣校尉内附。

55:743
15/09/26 01:27:03.59 .net
唐古鍵遺跡については神武東征説話からも訂正しておきます。
磯城彦のうち、兄磯城は討伐されましたが、弟磯城は赦され、磯城県主となり記紀で異なりますが、天皇家に后妃を入れています。
唐古鍵遺跡と纒向遺跡は直線距離で1K程、纒向遺跡は唐古鍵遺跡の住民によって、建設された可能性がありそうです。
日本書紀からも神武天皇以来、天皇家と敵対する勢力は奈良市から山城南部さらに北河内に至る淀川水系に割拠しています。
やはりニギハヤヒをはじめとする物部氏の祖となりそうです。
長髄彦討伐後にニギハヤヒの帰順、その後に勢力圏を維持し開化天皇の皇后伊香色謎命を出しています。
入婿の点から考えますと王族を迎え、王を出すまでになったようです。
先に述べたように邪馬台国の四等官首席伊支馬で、卑弥呼没後の男王であり、開化天皇に該当するのではと。
開化天皇に始まる王家は、度々の反乱の舞台となりながら佐紀古墳群の主体となったのではと。
中途で王位を去った開化天皇の陵の候補として、淀川水系に現れた出現期の大古墳、椿井大塚山古墳をあげます。

56:743
15/09/26 02:12:42.79 .net
先に述べたように、陵墓の位置から崇神天皇から暫くは崇神天皇~景行天皇の王統と、
佐紀の王家に入婿で入った垂仁天皇~成務天皇の王統の2系に分かれたのではと述べました。
倭人伝に現れる邪馬台国の四等官はすべて王族ではないかと考えています。
倭人伝の時点でも、他の東夷伝に現れる諸国と異なり、倭国には中央集権と官僚機構の要素が見て取れます。
ただ、専制ではなく天皇・皇后・王族の合議ではないかと。
オオヤマト古墳群への大古墳の集中がこれを裏付けると考えます。
また、これだけ膨大な倭人の記録を残しながら、魏朝による冊封は卑弥呼一代で終了しており、冊封体制から離脱しています。
ここに倭国独自の天下観の誕生が見てとれるのでは?
2度にわたる勅使の派遣は卑弥呼の時代に限られており、(2度目は卑弥呼死亡後の到着でしたが)
送使は西晋建国の慶賀使を兼ねたようですが、以後、勅・表を伴う正使の往来は絶えています。
倭人伝にも記されているように、帯方郡との伊都国との郡使の往来は続いたようですが(鉄資源の入手が必要ですし)、冊封体制からは離脱したと考えていいのでは?
また、東夷諸国は邑長程度の印綬をもらった小国ではないかと。
郡と北九州との交流は銀印と魏の官位を持つ北九州の豪族に任されていたのでは?
漢書にも記されているように歳時つまり毎年、通交があったのでは?

57:日本@名無史さん
15/09/26 02:42:57.57 .net
>>56
歳星の周期に合わせて11か12年に一回だったとも解釈可能だろ

58:日本@名無史さん
15/09/26 12:03:57.87 .net
「歳時」をそんな意味で用いている事例がない

59:743
15/09/26 17:26:23.90 .net
欠史八代の天皇を概観しますと、葛城付近を拠点にした6代孝安天皇までと、子女に著名の皇子女の多い7代孝霊天皇・8代孝元天皇
大和北部に拠点を置く開化天皇の3グループに分かれるようです。
倭人伝に現れる本亦男子を以て王と為し住まること70~80年の時期が葛城を中心とした6代孝安天皇までの時期なのでは。
年代としては100~180年頃なのでは。
孝霊・孝元天皇の皇子女は多数、日本書紀に登場しますが、系譜から考えますと崇神朝の四道将軍は孝霊天皇から見て子の吉備津彦と、玄孫の丹波道主が同時に派遣されるなど系譜の混乱がありそうです。
思うに孝霊・孝元天皇は同世代(兄弟か?)で、それぞれの皇子女系譜があったのを縦に繋いだのでは?

60:743
15/09/26 18:06:27.51 .net
日本書紀に見える孝霊天皇の子女としては倭迹迹日百襲姫命・吉備津彦命・稚武彦命。
孝元天皇の子女としては大彦命・武埴安彦命・彦太忍信命(武内宿禰の祖父)が著名なところです。
孝霊天皇の皇后細媛命は磯城県主の娘、宮は黒田の地。
磯城県主は唐古鍵遺跡に繋がり、黒田宮は唐古鍵遺跡の西1K程、纒向遺跡に繋がる地です。
倭迹迹日百襲姫命の父、孝霊天皇に繋がりそうです。
孝元天皇は宮の地は葛城に近い軽の地ですが、皇后は物部氏本宗家と言われる穂積氏に繋がる欝色謎命。
淀川水系の大豪族に繋がり、孝元天皇と開化天皇は父子だったのでは?
孝霊天皇~卑弥呼の系譜と孝元天皇~開化天皇の系譜の2系があったのかもしれません。

61:743
15/09/26 18:36:09.85 .net
年代は難しいのですが、倭国の乱に伴う混乱は180~200年頃か?
180~200年の混乱期に孝霊・孝元天皇の在位があったのでは?
卑弥呼共立は暫くの空位の後、3世紀初頭頃では?
また、宮が大和中央に築かれたのは、それを支える豪族と伴に、乱に伴って大和川近くに本営を構えた可能性もあるのでは。
魏使が訪れた時代は乱の混乱も収まり、邪馬台国を中心とした中央集権が整いつつある時代だったのでは。
卑弥呼はその後幾度も現れる、中継ぎの女帝として即位した可能性がありますが、在位が長期に及び、統治も上手く行われた為、次世代の男王に服せず、再びトヨを立てたのでは?
後世の推古天皇が中継ぎながら長期の在位となったように。

62:743
15/09/26 23:24:02.02 .net
欠史八代の天皇の伝承は間違いないと考えていますが、系譜については相当の錯誤があると思います。
崇神紀で活躍する、倭迹迹日百襲姫命や吉備津彦は年齢が200歳前後になってしまいます。
故に7代孝霊天皇~9代開化天皇の伝承が崇神紀に入り込んでしまったのではないでしょうか?
その中で、中継ぎの女帝であった卑弥呼とトヨの伝承も失われたのではないかと。
最初の巨大陵墓、箸墓の伝承もその一端だったのでは?
卑弥呼没後の男王即位に伴う争乱は武埴安彦命の乱に上手く対応するのでは?
系譜上からも武埴安彦命と開化天皇は兄弟で、淀川近くでの戦いは佐紀の王家に対応しそうです。
武埴安彦命の敗死により王位を去った男王こそが、開化天皇ではと。

63:日本@名無史さん
15/09/27 01:03:22.58 .net
神武天皇から開化天皇までは葛城王朝、
崇神天皇から仲哀天皇まで三輪王朝というように
古代の天皇は王朝交替したと見る説があるが、
神武から開化の間でさえ順調に一族間の王位継承が
行われていなかった、それはかなり後代まで
続いたと考えるのが妥当かもしれませんね。

64:日本@名無史さん
15/09/27 01:09:28.98 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

65:日本@名無史さん
15/09/27 01:10:05.23 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

66:日本@名無史さん
15/09/27 01:10:16.45 .net
>100~180年が本亦男子を以て王と為し住まること70~80年
王一世代がおよそ在位20年とすると、神武天皇の直系はおそらく
四世代ほどで断絶したんではないかな?日本書紀では5代目孝昭天皇から
后妃の出自が変わってくるんだよね。天皇の寿命が伸びる計算になるのも
何かわけがあるのかもしれない。卑弥呼とトヨが中継ぎの女帝であった
とするなら万世一系の系図を創作する上で邪魔になるため削除された
とも考えられるのでは?

67:743
15/09/27 23:17:01.72 .net
実際の在位期間は現状の資料からは、わからないのというところです。
2倍歴の可能性はありますが、孝安天皇の在位103年や垂仁天皇の在位99年はそれでもおかしいでしょう。
ただ、神道の6月と12月の晦日の祓えは2倍歴に通じるかもしれません。
倭人伝から100~180年頃の男王の系譜を神武天皇~孝安天皇に当てると、
倭の五王の410~480年頃の相続系譜に近いかもしれません。
また、欽明天皇や推古天皇等の安定した王権なら30~40年の在位がありますので、卑弥呼の在位もこれに近いかもしれません(年長大の表記もありますし)。
古代においても強大な王権であれば、前漢武帝の在位54年や高句麗長寿王の在位79年(413~491年)98歳没、南越趙佗の在位68年(BC203~BC137)100余歳没など。
やや不確かながら、古墳の編年から王の在位は20年前後位かと考えています。

68:743
15/09/27 23:46:49.52 .net
欠史八代後半の内、孝元天皇は皇別氏族の祖となっており、開化天皇は佐紀の王家の祖となっています。
それでは、孝霊天皇はその後の天皇家の祖かもしれません。
神武天皇時点では、鴨氏をはじめとする出雲系の豪族との連帯で王権を確立したのでしょうが、その後の王家からの入婿によって、ほぼ全てが王族となったのでは?
初期天皇家の拠点であった葛城をはじめ、ニギハヤヒの後裔の大和北部・淀川水系。
そして磯城県主の地盤も馬見古墳群の勢力になったのでは?
卑弥呼を共立したのは、これら王族の合議だったのではないでしょうか。

69:743
15/09/28 01:15:49.44 .net
倭国の乱を経た、卑弥呼の時代の記事は日本書紀に断片的に記されているだけですが、壬申の乱に神武天皇陵と伴に箸陵記事が現れるように、大和王権の祖としての記憶があったのでは?
崇神天皇紀より、地方に下る皇族が現れた後、大古墳が築かた地方は全て皇族が下った地であり、地方においても大古墳は大和の承認の元、皇族にのみ許されたのではないでしょうか?
倭人伝の時代を経て、崇神天皇の時代は中央集権の時代。
さらに景行天皇の西征によって、瀬戸内航路が復元して、中央集権が完成したのではないでしょうか?
さらに吉備・丹波・播磨・毛野と伴に、日向に築かれた大古墳は景行天皇が現地に残した豊国別皇子に関わりそうです。
筑後川以南の熊襲の拠点とも言うべき地に前方後円墳が現れる4世紀中頃は仲哀天皇・神功皇后の西征によって、熊襲の反乱記事が見られなくなった時期と符号します。

70:743
15/09/28 23:34:23.19 .net
倭人伝や日本書紀、さらに隋書倭国伝による限り、倭国の都は後漢の時代以来大和に有り続け、王統も続いているとしか読めない。
そして、神武天皇以来の王統は卑弥呼、崇神天皇、雄略天皇の時に大きな変化が有ったと。
それは、前方後円墳の創始、中央集権体制と皇子の要衝への配置、天皇の専制化だと思います。
雄略天皇が登場する5世紀後半から、天皇陵とそれに次ぐ規模の皇族や皇別氏族の為の大古墳が畿内・地方とも途絶し、天皇陵のみが突出するようになったように思います。
皇別氏族以外の物部氏や大伴氏、皇別氏族ながら系譜不確かな蘇我氏が台頭するのも専制を図った雄略天皇の時代だったのでは。

71:743
15/09/29 00:08:59.55 .net
個人的見解ながら、古墳の比定を試みたいと思います。
オオヤマト古墳群では
箸墓古墳は卑弥呼、西殿塚はトヨ、崇神天皇陵は崇神天皇、景行天皇陵は景行天皇
天皇陵に次ぐ規模の桜井茶臼山・メスリ山古墳は阿部氏の拠点に有り、阿部氏の遠祖である大彦命とタケヌナカワワケの墓。
佐紀古墳群では
佐紀古墳群最古に編年されている佐紀陵山が垂仁天皇2人目の皇后であり、垂仁天皇より先に崩御したヒバスヒメの陵
近年、編年が古くなった垂仁天皇陵は垂仁天皇
佐紀陵山古墳に隣接する成務天皇陵は成務天皇(先のように2系の王統があったと考えると成務天皇はヒバスヒメの皇子となり、隣接して母子の陵が築かれた可能性がある)
神功皇后陵は神功皇后、系譜が開化天皇の子孫であり、佐紀王家として本願地に築かれたのでは。
百舌鳥・古市古墳群は難しく、比定出来ないのが多いのですが
古市古墳群で天皇陵規模で最古に編年されている仲津山古墳が仲哀天皇陵
古市古墳群で天皇陵規模に次ぎ最古の大古墳である、津堂城山古墳は仲哀天皇の父である日本武尊ではないかと。

72:743
15/09/29 00:32:17.97 .net
馬見古墳群はやはり皇族の墓域と考えられ、葛城氏ではないと思います
葛城氏からは、宮山古墳がソツヒコの墓
ソツヒコの子であり、雄略天皇に滅ぼされた円大臣に繋がる玉田宿禰は極楽寺ヒビキ遺跡に近い掖上鑵子塚古墳
ソツヒコの子のもう一つの系統である葦田宿禰は屋敷山古墳
宮山古墳が大和と河内をつなぐ水越峠の大和側の要衝に築かれたように、
もう一つの大和と河内の間の竹内峠の大和側の要衝に築かれた大和高田市の築山古墳は武内宿禰の墓ではないでしょうか?

73:日本@名無史さん
15/09/30 12:28:37.84 .net
中国の文化はペルシャの文化がもと
日本の文化は中国の文化がもと
神道はユダヤ教で旧約聖書に日本神話の元がある
天下るとは大陸の王朝からヤマト国へ帰化すること
大和朝廷以前の王は当然日本人でもない
大陸の王を指してるはず

74:日本@名無史さん
15/09/30 14:18:13.75 .net
っ。豊葦原中津(都)国。
中津国、ナカの国、ナガの国が我が国の古名。
国都(ヤマト)は金剛山(=高天山)の東麓一帯(高天原)の葛城、高尾張(奈良盆地南部)~吉野地域

吉野山の東西には結界の伊勢の滝原宮と伊雑宮(東)。淡路島の先山(淡路富士。吉野山と全く同じ緯度。イザナギ、イザナミ、天照大神。天照大神荒魂(弁財天)
)

75:日本@名無史さん
15/09/30 14:27:03.63 .net
豊葦原、、、豊(トヨ。トミ(王家)) 、
葦は王権、尊称のアジの仮借では?
原。ワラ・・・和国
、、、トミ大王家の和国、ナカの国

76:日本@名無史さん
15/09/30 22:16:02.15 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

77:日本@名無史さん
15/09/30 22:16:33.77 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

78:日本@名無史さん
15/10/02 11:11:31.09 .net
>>28
なんで知ってるんだw
それと『311 神武』調べてみて
その頃に放送されていたドラマなど
先住民系の人物(わかりやすく言うと、おばま大統領など)の台詞
「おまえは 叶マサミチだな!!」

79:日本@名無史さん
15/10/02 11:23:34.98 .net
たしか、このようなシーンだった
男女二人?が酒を飲んでいる所に現れた人物、それがマミチ?マサミチ?
飲み屋のドア(扉)が開く… ギィ~…そこへ現れたのが

80:日本@名無史さん
15/10/02 11:29:09.08 .net
そしてマミチは追い出された、
そのような物語だった
酒盛り~扉のようなものが開く~何々が現れる
何の話だと思う?

81:日本@名無史さん
15/10/02 13:15:52.61 .net
うるせえぞサイキバ
お前には2chにも現実世界にも居場所はない
さっさと消え失せろ

82:743
15/10/03 02:13:33.45 .net
欠史八代の系譜について考えたいと思います、あくまでも可能性として。
先に述べたように、欠史八代は神武天皇~孝安天皇までと、孝霊天皇~開化天皇に分かれると思います。
孝安天皇までの宮は葛城を中心として分布してますが、より詳細にみますと、
神武天皇の橿原宮を御所市柏原と考える場合、御所市域に2代綏靖天皇・5代孝昭天皇・6代孝安天皇と
やや離れた地域に3代安寧天皇の片塩浮孔宮と4代懿徳天皇の軽曲狭宮に分かれます。
これは、神武天皇が嫡子の綏靖天皇に御所市域の地を譲り、その弟の安寧天皇・懿徳天皇に郊外の地に封じたともとれます。
また、孝昭天皇・孝安天皇の代に再び葛城の地に宮が戻ったともとれます。
また、安寧天皇の片塩浮孔宮の地は大和高田市高田市駅付近説の他に橿原市四条町説があります。
懿徳天皇の軽曲狭宮は橿原市大軽町付近です。
これに神武天皇の庶長子手研耳命の片丘(香芝市~王寺町付近)と
綏靖天皇の兄神八井耳命を子孫である多氏の本願地の田原本町多付近と考えると
神武天皇は子息を葛城を中心に大和南部にそれぞれに配置した可能性もあるのでは?

83:743
15/10/03 02:36:57.20 .net
手研耳命の片丘の地は後世、馬見古墳群となる地ですし、神八井耳命の多の地は唐古鍵遺跡に隣接するなど、かなりの要衝の地ではと考えられます。
神武天皇~孝安天皇の時代は倭人伝に現れる本亦男子を以て王と為し住まること70~80年の時期と考えていますが、
その中心として、今発掘が進んでる御所市の秋津・中西遺跡付近ではないかと?
現状、発掘されている場所は4世紀初頭の比定がされているので、付近により古い遺跡が埋没しているのではと考えています。
初期の王統は神武天皇~綏靖天皇~孝昭天皇・孝安天皇の系統が本流で
安寧天皇・懿徳天皇は傍系だった可能性があると考えています。

84:743
15/10/03 03:03:57.40 .net
孝安天皇と孝霊天皇の間付近で、倭人伝に言う倭国の乱が発生したのではと考えていますが、
孝安天皇の後、葛城の地に宮が築かれず、葛城氏の地となる事から、孝安天皇で一旦、王統が途絶し、傍系に引き継がれたのかもしれません。
7代孝霊天皇の宮、黒田は神八井耳命の多の地に近く、また橿原市四条町説を取れば安寧天皇の片塩浮孔宮からも遠くありません。
孝霊天皇は安寧天皇からの系統だった可能性があるかもしれません。
8代孝元天皇の宮の地は軽に有り、これはおそらく懿徳天皇からの系統だったのでは?
特に孝霊天皇は皇后を磯城県主の娘から迎えており、唐古鍵遺跡~纒向遺跡に至る集団の上に君臨している可能性があり、
倭迹迹日百襲姫命の父である事から、卑弥呼に至る系譜の祖である可能性があります。
以後の皇統の祖に位置付けられるかもしれません。

85:日本@名無史さん
15/10/10 21:38:46.66 .net
開化以前は大王だったとは思えないねえ。
開化の兄弟、崇神の兄弟に王位争いの話が出てくる。
狭穂彦や武埴安彦命にも継承権があったから争った訳だ。
崇神はその争いに勝ったんだろうけどさ。
開化、崇神、垂仁の后を見ると、この時代の有力者様子が覗える。
じゃあ、ヤマトの中に王がいたのかっていうと、それほと大きな弥生の墓は
出ていないんですよね。ヤマトの中から大王が生まれたとは思えない。
尾張の祖が登場する頃に、大きな変革があったのではないか。
ヤマトは古墳時代以前は人口がそれほど過密ではなく、水争いをする必要も
ないほどだったらしい。江戸初期の関東のように誰でもウェルカムだった。
九州のような人を殺傷する武器というか石鏃も出てこない。
尾張の祖がキモだと思うなあ。

86:743
15/10/14 00:55:39.16 .net
日本書紀の難しい点は天皇の記録中心の為に、そこから外れた記録が大幅に欠けている点だと思います。
5世紀を中心に佐紀古墳群の東部の大古墳や馬見古墳群の記録を欠いています。
明らかに天皇・大王に次ぐ地位の王族が葬られているにもかかわらず、記録が無いため手掛かりが掴めません。
中国史書に言う本紀だけ有って、列伝がない状態なので。
その為、蘇我稲目がいきなり政治の中枢に現れたように見え、蘇我氏の出自への様々な憶測を呼んだのだと思います。
しかし、阿部氏の場合を考えると、3世紀の大彦命から300年近く史上から姿を消しますが、6世紀に有力豪族として再び登場します。
思うに、日本書紀に登場しないだけで、その系譜は続いていたと考えた方が良いのでは?
稲荷山鉄剣に見えるオオヒコの子孫、ヲワケノオミを阿部氏の一族と考える見方もあるでしょう。
日本書紀においては崇神天皇紀にそれ以前の説話をまとめて収録した傾向が有りそうと考えていますので詳細は不明な点が有りますが、崇神天皇から、それまでと比較にならない程、強力な王権となったと考えればいいのでは?
初期古墳がオオヤマトの地に集中する事が象徴していると考えます。
むしろ、崇神天皇の次世代からが、中央集権が弛緩したのでは?
崇神天皇が特筆されるのは、その成果によってではないでしょうか。
卑弥呼と崇神天皇によって、大和王権はその安定性を見たのでは?
卑弥呼以前においても倭国王帥升の107年の貢献や、倭人伝に見える男王による70~80年の統治記事は、前方後円墳を象徴とする王権とは比ぶべくもないながら、王権の存在を確認出来ます。
この神武天皇に当たるであろう王権は陵墓を象徴としない緩やかな統合の王権と考えればよいのでは?
弥生時代全体でも、西日本を中心とした各地(出雲・摂津・大和・加賀等)に加茂(鴨)遺跡が存在し、加茂の地名はそれ以上に存在する事は、さらに緩やかな統合でしょうが、出雲による王権が存在するしたのでは?
弥生時代には倭と言うまとまりが日本列島の多くを覆っていたと考えたほうが良いのでは?
天皇家による大和王権は、それらを継承したのではと考えてます。

87:743
15/10/14 01:19:50.61 .net
また、初期~中期古墳時代は天皇・大王陵に匹敵する大古墳が余り多い点ですが、
皇帝専制の中国では、考えられません、漢代の皇帝陵と臣下の墓とは隔絶した規模でした、
思うに倭国では天皇・大王と王族との間に格差はあっても、大差は無く、天皇と王族との合議によって、政権が運営されていたのでは?
その為に皇位継承の為の争いが頻発したのではないでしょうか。
吉備・毛野・広域丹波・日向などに築かれた大古墳は、地方に下った皇族と考えた方が合理的なのでは?
地方の豪族は中世の武士と同規模でしょうし、それが成長して地域王権となるのは無理でしょう。
大和の許可の元に大古墳が築かれたと考えた方が良いのでは。
大和の許可無く築かれた大古墳は筑紫君磐井の岩戸山古墳だったのでは?
そのイレギュラー性から日本書紀に特筆されたのではと。

88:日本@名無史さん
15/10/19 21:58:02.53 .net
磐井とはなんだったのかなあ

89:743
15/10/20 00:59:14.03 .net
神武天皇から離れますが、大和王権の変質は雄略天皇の登場が大きいと思います。
雄略天皇はそれまで、天皇と王族との合議によったであろう王権の専制化を図ったようですし。
即位の際に日本書紀に記されているように兄弟をはじめとする皇位継承のライバルの大量の殺害。
さらに、佐紀・馬見古墳群の大古墳の途絶は他の王族への打撃を与えた事が察せられます。
佐紀・馬見古墳群と同規模の太田茶臼山古墳も次世代を残せていない(個人的にこの古墳の被葬者として継体天皇の祖乎非王を考えています)。
また、葛城氏の大古墳も途絶しています。
このように天皇以外の大勢力を滅ぼした為に雄略天皇没後に大和王権が一挙に不安定化したのが、大和の統制を受けない、地方豪族磐井の成長を促したのでは?
特に雄略天皇の後継、清寧天皇が後継無く、おそらく若くして没した為ではないかと。
日本書紀には清寧天皇には后妃が記されてないのに、飯豊皇女の治世を記している点からも、飯豊皇女は清寧天皇の皇后だったのでは?
そして皇位が飯豊皇女の一族へ渡ったのではと考えています。
倭の五王時代は高句麗長寿王による南下政策の真っ只中で、特に雄略天皇在位中の475年には百済は漢城失陥で一旦滅亡しています。
百済の復興は大和の全面的な庇護の元、推し進められたのでしょう。
この時代から百済から任那の地に前方後円墳が大量に築かれるのも、相当の倭人勢力が入り込んだのだと考えられます。
長寿王が在位78年で493年に没した頃におそらく雄略天皇も崩御し、大和王権の統治も弛緩してしまい、半島との連絡が疎かになったのが、磐井成長に繋がったのでは?
この時代、高句麗の南下が止み、百済が弱体化で新羅の成長を促したのでは?
まさに、日本書紀にある通り、新羅の賂を受け、三韓の貢を誘致したのが磐井の勢力拡大に繋がったのでは?
磐井は前方後円墳を築いた半島の倭人勢力とも類縁関係に有った可能性も。
また、磐井は自己の勢力圏の筑後以外に大和の勢力圏であった筑前も明らかに配下に置いています。

90:日本@名無史さん
15/11/07 18:44:24.34 .net
権威造作していることはともかくも、天皇家より昔の日本を支配した
主要な神々の神話を押さえて体裁を整え、
天皇の祖先の出自が日向にあること、そしてそこから畿内へ侵入して
支配者になったのが天皇の始まりであるということ、
神武東征は天皇のルーツを語る上で動かせない史実と
日本書紀編纂者は当然考えていたはずだが、問題なのは人間離れした
天皇の在位年数とそれによって算出される長寿。
編纂者は神武天皇を文字通り一千年以上も遠い昔の人物と伝え聞き
そのまま紀元前660年に当たる「辛酉」の年を選んだのか、
神武が生きていた時代が分からなくなってしまったので適当にごまかしたか、
おおよそ分かっていたけどあえて建国の年代を大昔に引き伸ばしたため
分からなくなってしまったのか、そのあたりがはっきりしません。

91:日本@名無史さん
15/11/07 19:11:47.18 .net
天皇の系図、世代間隔は応神天皇からはほぼ正確で、それ以前の
天皇については同世代の天皇、親子ほど年が離れていない天皇が
数人は混在していた可能性を排除できません。九州から侵入してきた
神武以降の天皇はまだ絶対的な権力を持たず、崇神天皇の時代まで
豪族たちと婚姻関係を結びながら大和の統一を着実に進めている
印象があります。応神天皇については4世紀後半の人物とも
5世紀初頭の人物とも言われ、その五代ほど前の崇神天皇は、
一代在位20年と見做すと、およそ100年前の人物と考えられる。
となると大和朝廷の発展は西暦300年頃からでしょうか?
崇神天皇からさらに一代20年で遡ると、神武~開化までの九代が
180年間、すなわち西暦121年「辛酉」の年が神武即位の年になる
のではないでしょうか?ただし西暦181年の可能性もある。
この場合、神武~崇神は10世代もないことになります。
紀元前60年以前は末子相続の連続にしても無理がありそう。
後61年はありうるがちょっと古そう。
西暦241年、301年は天皇が鮨詰め状態、これ以降に辛酉の年を
持ってくると神武天皇以降十数代の天皇は架空ということになるでしょう。

92:日本@名無史さん
15/11/07 20:59:48.56 .net
人間離れさせたのは雄略期
時代繰上を頻繁に行った

93:日本@名無史さん
15/11/12 12:03:12.51 .net
魏志倭人伝が書く「女王を共立した」「邪馬台国は女王の都するところ」
「ヒミコ以前、男王がいたが争いが続いた」「ヒミコ死後にまた争った」
考古学の成果によれば、纏向建設時期、各地の弥生遺跡で激変が起きる。
二世紀代は、争いはあるが「男王」をたて国としてのまとまりを作ることに
関しては一致していた。男王は70~80年だから一人ではない。また、同じ一族
が継承したかはわからない。争いが起きているということは、いくつかの部族に
よる主導権争いの可能性もある。あるいは、遠い昔に先祖を一にするのかもしれない。
記紀によれば、10代崇神、11代垂仁の時にも王位を争う話が登場する。
大和盆地南部を地盤にしているらしい天皇家が「唯一の王家」の地位にあったとは思えない。

94:日本@名無史さん
15/11/12 12:07:46.13 .net
嘘か本当かわからない話
こんな事を言ってる人がいたでしょ
「コテハン【天皇林田】でも良い、天皇になれるんだよ」

95:日本@名無史さん
15/11/12 16:50:58.44 .net
>>93
女王共立と言えば、儒教的には共立されて即位するというのは、
王たるものの美点ではなく欠点になるらしいな
蜀の劉備も含めて。
ちなみに、蜀書先主伝の劉備sageはここだけじゃない、先主伝全体に多々ある

96:日本@名無史さん
15/11/22 21:32:22.76 .net
                 ◯              _____
                 //       ____/          \_________
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          //  \__            ______/         ̄
         //       \________/
         //
   ∧_∧ //  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ( ´∀`)// <  神武天皇万歳!!
  (    つ   \___________
  | | |
  (__)_)

97:日本@名無史さん
15/11/24 15:38:03.02 .net
 
ああん?俺様を祀る資格あるのは皇室だけなんだよ!
ゴミ屑庶民の分際で万歳とか舐めてんのか?また焼け野原にするぞ! by 神武

98:日本@名無史さん
15/11/24 20:13:43.14 .net
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

99:日本@名無史さん
15/11/24 20:14:12.02 .net
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

100:日本@名無史さん
15/11/27 21:14:59.43 .net
>>93
列挙した傍証が悉く、皇室の父祖が唯一の王権ではなかったことの論拠にならない。
>男王は70~80年だから一人ではない。
この点を争うつもりはあまりないけど、一人だった可能性は絶無ではない。
>また、同じ一族が継承したかはわからない。
分からないなら、同じ一族だったかもしれない。
>争いが起きているということは、いくつかの部族による主導権争いの可能性もある。
同族内での主導権争いの例など、古今東西幾らでもあるのでは?
>あるいは、遠い昔に先祖を一にするのかもしれない。
遠いのか近いのか断定できていないなら希望的観測でしかない。
>記紀によれば、10代崇神、11代垂仁の時にも王位を争う話が登場する。
それは、同族内での争いではないのか?
共立された卑弥呼の「男弟」が政務を担当していること。
卑弥呼の「宗女」である台与が、男王を挟んで登極していること。
これらのことは、卑弥呼自身とその血統が、倭国・邪馬台国において、相当の家系であったことを示す。
単に巫女として優れていて卑弥呼を登極させたなら、その弟に政務を担わせる必然性がなく。
巫女としての素質も経験も未知数の少女であった台与を登極させた必然性もない。
>>97
もう少し品性というものを身に付けましょう、騙りくん。

101:日本@名無史さん
15/11/29 16:14:23.41 .net
皇室の父祖が唯一の王権だったらなんで争いが起きるのさ。
全部一族の争い?クナヒコも一族?

102:日本@名無史さん
15/11/29 17:40:14.20 .net
>>101
えっ?
一族内には争いって起こらないの?

103:日本@名無史さん
15/11/29 18:47:05.19 .net
ところで卑弥呼や台与の治めた国って大和政権と繋がっているの、
それとも繋がっていないの?神功皇后が邪馬台国の女王てことは
まず時代的に無理があると思うが、
考えられるパターン
・邪馬台国が発展して大和政権になった?
・邪馬台国は大和政権の一時期?
・大和政権と邪馬台国は互いに別のところにあり、
大和政権が発展する一方で邪馬台国は衰えた?
・大和政権が邪馬台国を滅ぼした?(例えば卑弥呼と対立した
狗奴国の男王が何代目かの天皇?欠史八代の天皇が実在したと
すれば、それは2~3世紀といってもよさそうだ。)

104:日本@名無史さん
15/12/02 02:56:49.78 .net
>>103
邪馬台国と大和政権は同一
大和政権を中国語で表記したものが邪馬台国

105:日本@名無史さん
15/12/02 18:10:51.35 .net
>>104
一時期とはいっても、記紀に記録されるより前、むしろ黎明期みたいなもんだろ

106:日本@名無史さん
15/12/04 12:22:03.90 .net
>>103
卑弥呼は繋がっていないが、台与は繋がっている

107:日本@名無史さん
15/12/15 11:51:44.07 .net
今現在天皇家が存在し、遡れば雄略や崇神も存在したであろう。
彼らが存在したならば、彼らの「初代」もあったことになる。
そういう意味では「神日本磐余彦尊」は実在したと思う。
ただ、当時彼が「天皇」だった訳じゃない。
魏志倭人伝の時代に天皇家の先祖がどういう地位だったのか。
4世紀初頭と推定される崇神については否定する声は聞こえてこない。
その一世代~4世代前の天皇家の先祖の婚姻関係や、数代後の子孫の婚姻関係の
記録によれば、有力な一族だったらしいことはわかる。
だが、神武から数代はヤマトの盆地の中だけであり、王の中の王だったかは
疑わしい。

108:日本@名無史さん
15/12/15 13:53:24.09 .net
>>107
記紀に記された時代と実際に活動していた時代が一致するのは雄略以後ぐらいだろ
崇神とかの世代は記紀の年代と実年代が大きく離れてる
3世紀、魏志の時代ごろに想定しうるのは、欠史八代あたりじゃないか?
ひょっとしたら神武以前の世代かもしれんぐらい。
まあいずれにしても、記紀の記述で業績を推定することができない世代だよ
あと、天皇という称号はおそらく飛鳥時代末期、壬申の乱よりもあとの時代に出てきたものだから、
それより以前の大王を天皇と呼ぶのはおかしいよな。

109:日本@名無史さん
15/12/16 08:48:04.08 .net
>>108
日本書紀の年代を持ち出して合わないっていうのはどうかな。
古事記の年代ならば、崇神は四世紀初頭になるし、神功皇后も大陸側と
整合性がある。崇神没年258年では、ヒミコ死後の動乱の時に現役だったことになるから
早すぎるし、その後の子孫の年代や古墳とも合わないが、318年ならおよそ
繋がるからね。
130歳を前提に考える人はいないと思うよ。素人以外はね。

110:日本@名無史さん
16/01/03 13:16:14.46 .net
古い氏族の伝承は、天孫降臨の際に付き従ってきたというのが多い。
神武がヤマトへ入るよりもずっと以前のことで、まさに「神話」であり、
たった数代前のことではないだろう。
問題は、神武以前に西日本一帯に広がっていたらしき氏族のほうが多いこと。
天孫降臨にはついてきたが、神武についてきた訳じゃないって氏族の多さ。
近年天皇家と縁戚になった千家家も、神武についてきた訳じゃない。

111:日本@名無史さん
16/01/03 13:30:57.72 .net
>>103
繋がってるよ。
神功皇后について批判があるが、日本書紀の分注に引用として記されているだけで、
日本書紀が神功皇后がヒミコだと主張しているわけじゃない。

112:日本@名無史さん
16/01/03 17:18:28.24 .net
実在したとされる雄略天皇から昭和天皇まで一代当たり14.8年。
雄略天皇の前の安康天皇から一代14.8年で遡ったら神武天皇の即位は西暦160年頃。

113:日本@名無史さん
16/01/03 22:13:49.29 .net
そういう主観的にすぎる統計的手法には何の意味もない。
天皇の地位はおろか、呼称すら違うし、
生前の退位が常だった時代と稀だった時代もごちゃまぜ、
退位した上皇やら治天やらの居た時代との違い、
まともな頭があれば、そんな平均に何の意味も見出せないことくらい分かりそうだが。

114:日本@名無史さん
16/01/04 00:42:30.18 .net
>>113
しかし、成人してしっかりと経験を積んだ中年ぐらいで即位するのが普通だったとおぼしい古代には何十年も現役を続けられる事例の方が少なかっただろうがな。
平均15年とか言うと短すぎるように見えるけど、どんなに長く見積もっても30年以上ってことは考えられない。
長めに見ても平均二十年ちょっとがいいとこだろ。

115:日本@名無史さん
16/01/04 18:22:01.71 .net
>>113
目安としてはいいんじゃない。
中国側の記録とも近いところに来るし。

116:日本@名無史さん
16/01/06 18:28:34.16 .net
まあ、神武天皇が即位したとされる年代が2~3世紀のどこか
なのは動かないな。応神天皇が即位したとされる「庚寅」の年を
日本書紀の年代に120年足した西暦390年とすると、応神の6世代
後の宣化天皇崩御の年は西暦539年でガチなので、神武~仲哀の14代
と応神~宣化の14代とで在位年数の和が等しいとすると、
14代は150年で神武天皇即位年は西暦240年になる。その翌年が「辛酉」になる。
あるいは古事記の崇神天皇の崩御年西暦318年を基準にし、一代10年で遡っていく
と、神武元年は西暦219年か。

117:日本@名無史さん
16/01/06 18:40:33.33 .net
さて神功皇后の摂政期間をどうするか?

118:日本@名無史さん
16/01/27 11:13:44.02 .net
記紀の記述と古墳などの遺跡と中国の史書の記述が矛盾なく繋がる。
三世紀のはじめ頃、女王を共立してヤマトに都を置いた。
女王以降の大王には、巨大な古墳を作り、女王を担ぎ上げた豪族たちもヤマトに
葬られた(纏向型古墳)
トヨ政権を支えた有力者は、大和古墳群に葬られた。
崇神はその数世代後の大王で、もしかするとトヨの一族に繋がっているだろう。
直系だとは思えないけどね。
天皇家にとっては崇神はハツクニシラススメラミコトだったけれど、倭国には
それ以前に別の一族出身の大王がいたんだろうな。元同族というか親戚というか、
そんな関係だろうけどさ。
ヒミコ共立が200年前後で、それより70~80年は男王がいたが争っていた。
昔は100国あったが、今は30国が中国に使いを出している。
(「今」とは240年頃のことで、ヒミコ共立後もそれぞれが使いを送っていることになる)
紀元100年代に立派な王墓を持っていた地域はどこか?

119:日本@名無史さん
16/01/27 11:20:35.17 .net
神武は、いたとしても30国のうちの一つの王であり、大王ではないな。
ワニの子供なんだから、あくまでも神話の時代だと思うけどな。

120:日本@名無史さん
16/01/31 12:31:19.19 .net
『奈良の山奥の一豪族の末裔たち』が、今も、国民からの税金で豪遊し特権を得ていのはおかしくないか
古事記・日本書紀。 NHK・Eテレより、近年の”考古学上の発掘”が進んだことで
-----------------------------------------------------
当時、秋田・信州北部・奈良・山陰など、日本各地で、
日本海をはさみ、独自に大陸と、
外交・交流・交易してた多くの豪族の一地域である
『奈良の山奥の一豪族』による「自らの支配正当性主張ツールPRツール」が、
『古事記』。
後に天皇と呼ばれる身内の一人に712年献上!!!
--------------------------------------------------------
全国のどの豪族も『自らが支配者』と去勢をはるべく、、
古事記も、冒頭からご存知の通り、虚偽・誇張・脚色のオンパレード(*)
しかし、、、
『文字』を持つ「奈良の豪族」はやはり有利。
『文字』を持たない口述だけの他地域の豪族は敗退。
まさに、、、
19世紀列強の国々の領土拡張で、”『文字』を持たない多くの先住民族”が
当該国に編入されたことを思い出す(エスキモー・アイヌ・マオリ・サーミ・他多数)
-------------------------------------------------------
(*)
「ウチはお前らより千年も前の紀元前660年(初代天皇神武の即位年)から続いている家系なんだぜ」とか、、、
少しでも、
他地域の豪族に対して、優位に見せる脚色が、クズすぎる、ゴミ過ぎる!
(*)
おまけに、架空の初代天皇神武の出身地をどこにしようか、
奈良の山奥出身では、地元からも「ここに千年前いたの?」と疑問の声が出るため
わざと、
九州(日向)出身と、”離れた地”で生まれたことにするなど、、、
つじつま合わせの「虚偽」「誇張」のオンパレード、クズすぎる、ゴミ過ぎる!
------------------------------------------------------
参考 URLリンク(ja.wikipedia.org)

121:日本@名無史さん
16/01/31 12:58:46.88 .net
紀元前666年が正解

122:日本@名無史さん
16/01/31 18:14:13.93 .net
卑弥呼がモモソ媛命ならば、
神武は1世紀中ごろから後半ぐらいの人物だよ。

123:日本@名無史さん
16/01/31 18:25:19.74 .net
計算しても無駄だw
おまえら記紀の数字を信用してないんだもん
計算するに値する数字もってこれないだろw

124:日本@名無史さん
16/02/01 00:50:43.43 .net
<正直な小学生たちがいだく疑問>
林修先生も?大学入試問題で正答率低かった難問@
『神武天皇』
1,古事記・日本書紀より、初代天皇&紀元前660年即位(笑)
2,古事記では、137歳まで生存(大笑い)
3,日本書紀では、127歳まで生存(オイオイオイ、はっはっはっ、笑)
「問題」なぜ、もっと控えめなウソを付けなかったのか?
<解答と解説>
スレリンク(history板:120番)
----------------------------------------------------------
「素朴な意見」
⇒『奈良の山奥の一豪族の末裔たち』が、
今も、国民からの税金で豪遊し特権を得ていのはおかしくないか
⇒なんの権限があって今の座に居座ってるの?
スレリンク(history2板)l50

125:日本@名無史さん
16/02/01 00:52:00.76 .net
『神武天皇』
1,古事記・日本書紀より、初代天皇&紀元前660年即位(笑)
2,古事記では、137歳まで生存(大笑い)
3,日本書紀では、127歳まで生存(オイオイオイ、はっはっはっ、笑)
「問題」なぜ、もっと控えめなウソを付けなかったのか?
<解答と解説>
スレリンク(history板:120番)
----------------------------------------------------------
「素朴な意見」
⇒『奈良の山奥の一豪族の末裔たち』が、
今も、国民からの税金で豪遊し特権を得ていのはおかしくないか
⇒なんの権限があって今の座に居座ってるの?
スレリンク(history2板)l50

126:日本@名無史さん
16/02/01 02:25:48.68 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

127:日本@名無史さん
16/02/01 02:26:14.41 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

128:日本@名無史さん
16/02/01 04:31:45.52 .net
>>121
>>123
>おまえら記紀の数字を信用してないんだもん
紀元前7世紀には日本列島に王権があったとか、
当時の豪族は百数十歳生き、遅くできた子どもに
後を継がせていたみたいな考古学的物証が出ているのかい?
天皇の系図にはめちゃくちゃ省略が多いんなら>>1を信じてもいいけど
系図のほうから建国年を推定すると紀元前よりも紀元後のほうが
信用できるんですわ。

129:日本@名無史さん
16/02/01 04:59:11.32 .net
>>128
実際は前660年よりももっと前から続いてる
便宜上前660年としただけ

130:日本@名無史さん
16/02/01 05:14:39.51 .net
まだ続いてるの?
『2ch 猿田』

131:日本@名無史さん
16/02/01 05:21:53.20 .net
>>125
「血が繋がっていない」あるいは
「初めはまだ偉くなかったから」も一つの解答だ。
[6332] 天皇とは何か? h21.1.15
大昔の天皇の寿命が百歳を超えているのは…
www.h3.dion.ne.jp/~jituzai/tetunikki_6301~6400.htm

132:日本@名無史さん
16/02/01 09:52:18.00 .net
[22502] 神とは何か? h28.1.25
URLリンク(www.h3.dion.ne.jp)
ここまでまとめると
「この世に神はいない」「神は古代人の勘違い。妄想」
神武天皇がナガスネヒコの軍勢と戦っていたとき、
金鵄(光の玉)が空から現れてナガスネヒコの軍勢に打撃を与えた
と言われています。
この光の玉の正体は花火かプラズマのような自然現象で、
神武天皇の側で発光現象を見た古代人は神武天皇が超自然現象を
起こしたと思い込み、神武天皇を神に祭り上げたようです。
この世に神がいないのなら
神武とそれ以降の天皇はみな神ではなく人間ということになるし、
神代の神話も作り話ということですかな。
今時淡路島、四国や九州がイザナギとイザナミの
セックスで生まれたなんて信じている人を見つけるほうが難しい。
神武天皇から三世代前の天孫降臨が百七十九万二千四百七十余年
も昔の出来事だって?
やはり神はいないという前提で神武天皇即位年を議論すべきでは?

133:日本@名無史さん
16/02/01 14:28:35.34 .net
>>833「先祖が奈良の山奥の一豪族であれ、
結果的には天皇家が歴史の勝者になったのだ 」
>>120 >>124 >>125 の3つを書いた者だけど、
確かに、客観的な事実だよ!
そして、俺が言いたいことは、だれでも知ってることだよ
つまり、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「19世紀列強の国々」の領土拡張で、
米・加・露・オーストラリア等々、広大な<<征服地域>>を手に入れた。
現在、国土として、その<<既得権>>を持っている!!!!
同様に、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
『奈良の山奥の一豪族の末裔たち』つまり、
「大和朝廷から続く歴代の中央政権」が、<<征服地域>>を広げていった(主に東へ)。
現在、国土として、その<<既得権>>を持っている!!!!
URLリンク(ja.wikipedia.org)
----------------------------------------------------
しかし、同じく833 が言う「日本政府が日本列島を支配していい根拠は天皇だけ」
これは、客観的な間違いだ。
18-20世紀のフランス革命・ロシア革命、20世紀のイラン革命・エジプト革命、
いずれも「この国を支配していいのは、その王族だけ」と思っていたが、追い出された。
現在、イギリス王室も、不要論など世論からその岐路に立たされている。
平和的なやり方以外にも、21世紀といえども、
純クーデター的なやり方で、支配者がかわる可能性もないわけでない(笑)
私はないと思ってるけ(笑い)
-----------------------------------------------------
つまり、俺が、
「『奈良の山奥の一豪族の末裔たち』が、
今も、国民の税金で豪遊し特権を得ていのはおかしくないか 」
と書いたのは、ただのうさばらしだよ(笑)

134:日本@名無史さん
16/02/01 17:57:16.33 .net
林修先生も?? 大学入試問題で正答率が低かった難問@@@
『神武天皇』
1,古事記・日本書紀 より、初代天皇&紀元前660年即位!(笑)
2,古事記 では、137歳まで生存!(笑)
3,日本書紀では、127歳まで生存!(笑)
⇒なぜ、もっと控えめなウソを付けなかったのか??
<解答と解説>
URLリンク(twitter.com)

135:日本@名無史さん
16/02/02 22:04:59.61 .net
>>132
金鵄は鵄=登美大王家(ナガの
国=わが国のほとんどを支配した。蘆原中津国と誤魔化した)の
大王権(眩く金色に光輝く。光輝満てるモノ)をマンマ表した比喩。
此の大権が神武天皇、、、天村雲尊(建位起命(大和初代大王との極秘伝)。ホホデミ/ホアカリ/スサノオ(素尊))に委譲された。
故に敵味方全てがひれ伏した。

136:日本@名無史さん
16/02/04 01:11:44.52 .net
重要な天皇の即位年はたぶん
60年の倍数を足して過去に繰り上げているとオモ。
神武は邪馬台国の終わりの動乱期の人物ではないかと。
神武 241年? → 前660年(60×15=900年前)
崇神 324年? → 前97年(60×7=420年前)
垂仁 332年? → 前29年(60×6=360年前)
応神 390年? → 270年(60×2=120年前)
仁徳 433年? → 313年(60×2=120年前)
履中 460年? → 400年(60×1=60年前)
当時の天皇は35~50歳で亡くなっていたと思う。
中には20歳未満で亡くなった天皇もいただろうが、
子供の数などから推測して60歳、70歳も生きた天皇は
いたとしてもまれだったろう。

137:日本@名無史さん
16/02/04 02:23:06.17 .net
神武天皇は葛城の事代主神の娘との間に綏靖天皇を儲けた。
綏靖天皇の諱には「耳」が付くので手研耳命と同様神武の息子であろう。
綏靖天皇も事代主神の娘で母の妹に当たる五十鈴依媛命との間に
安寧天皇をもうけた。安寧天皇も事代主神の孫娘、渟名底仲媛命との間に
息石耳命と懿徳天皇をもうけた。従って神武~懿徳までの4代は
一連の血統と考えられる。綏靖・安寧・懿徳の三天皇の
寿命は水増ししてはいようが中世でも十分ありえそうだ。
懿徳天皇は兄息石耳命の娘の天豊津媛命を娶って孝昭天皇を
儲けたとされる。息石耳命には後続する氏族がない。おそらく
早死にしたのだろう。しかし77歳も生きた懿徳天皇が姪との間に
48歳の時に生れた孝昭天皇しか子供がいないのは妙であるし、
また孝昭の代から皇后の出自が変わるとはどういうことだろうか?
同様に第6代孝安天皇も137歳まで生きたのに、姪との間に86歳の時に生れた
孝霊天皇しか子供がいない。孝昭天皇についてはそれまでの天皇の外戚だった
磯城県主系もしくは鴨君系の天皇という説がある。また孝昭は前代の懿徳より、
孝霊は前代の孝安より年上であったとしたらどうだろう?
ある天皇より年上の人物を姪の子にするためには天皇の年齢を水増しせざるをえなく
なるのではないか?私の推測では神武・綏靖・安寧・懿徳の4代50数~60年で、
神武の直系は断絶。その後孝昭・孝安がほんの短期間在位、孝霊・孝元・開化
(開化は孝元と同世代?兄弟?)の3代20数年でいわゆる葛城王朝は終わった。
日本書紀で在位年数の異常に長い天皇が実際には在位期間が短くてバタバタ天皇が入れ替わった
のかもしれない。和風諡号から考えて孝霊・孝元・開化は同じ一族、崇神・垂仁は同じ一族か
そのとおり親子であろう。崇神天皇から始まるとされる三輪王朝では、垂仁・景行の二天皇は
事績の多さから在位年数はそれぞれ20数年あると思われる。仲哀天皇は言うに及ばず、
崇神、成務両天皇の在位期間もあまり長くなく若死にだったとすると、崇神・垂仁・
景行・成務・仲哀の5代は合計70年ほどでないかと思う。

138:日本@名無史さん
16/02/04 02:40:10.07 .net
新しい天皇が即位して前の天皇の埋葬が行われる場合、
皇位継承が順調にいき、逆に前の天皇の埋葬が終わってから
次の天皇の即位へ移る場合、皇位継承がそう順調にいかなかったか
のような印象を受ける。
必ずしも全ての場合に当てはまるかどうか分からないが。
神武~仲哀までの14代の間だと、神武―綏靖、懿徳―孝昭、
孝安―孝霊、開化―崇神、垂仁―景行、成務―仲哀
と六ケ所も見られる。

139:日本@名無史さん
16/02/04 23:09:21.14 .net
蘇我氏の功績を聖徳太子の功績に置き換えたように
神武・崇神天皇の功績は応神天皇一人のものだと言うんですか

140:日本@名無史さん
16/02/05 02:42:38.17 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

141:日本@名無史さん
16/02/05 02:44:39.78 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

142:日本@名無史さん
16/02/05 17:09:24.14 .net
古事記の干支は正しいんじゃないかね。
親子関係が正しいと仮定して、記録に残る正確だろうといわれる最古の天皇、
舒明天皇の出生年593年から一代25~27年として逆算していくと、それほど
矛盾は生じない。崇神天皇は三世紀半ばの出生になり、まあ微妙なところだけどな。
崇神天皇を「ハツクニシラススメラミコト」と言ってるんだから、それより
以前は大王ではなかったということになる。
崇神は、トヨの後、266年にトヨらしき朝貢の記事があるからそれより後だろうな。
神武について詳細な記録がある。また、2~9代の婚姻関係も詳しい。
にも関わらずヒミコの記述がない。トヨもないから、少なくとも崇神の親ではないのだろうな。
同じ一族(遠い親戚)ではあるが、親やじじばばではない存在。
爺さんのいとことか、親かじいさんの妻のうちの崇神の直系ではない人とか。
>孝昭の代から皇后の出自が変わるとはどういうことだろうか?
このあたりから国家統一の流れが出来て、豪族たちが広域に姻戚になろうと
するんじゃないかなあ。もしくは、この時に談合が成立し都を作り、江戸屋敷の
ように都の周辺に豪族の屋敷が出来て相互に嫁取りをした。
纏向を囲むように、各地の地名があるんだよな。

143:日本@名無史さん
16/02/05 17:24:36.19 .net
神武は、天皇家の始祖ではあるがヒミコ以前の男王の家系ではないと思う。
崇神が318年没として、記紀の伝承があったのは600年代。
欽明や舒明天皇は500年代の人だ。
わずか200年余前の先祖の系譜をでっち上げるのは難しい。
2~9代の系譜は、伝わっているものを書いたのだろう。
700年頃には没落している氏族のことも出てくる。
藤原氏の先祖が特段優遇されて書いてあるわけでもない。
天皇家の先祖は紀元100年前後にヤマトへ入った。
「神代」のお話は、500~700年頃の有力者達には共有されていたのだろう。
九州から来たという神武はよく分からんけどな。

144:日本@名無史さん
16/02/05 17:55:54.47 .net
王位争いの伝承が気になるんだよな。
崇神の時:武埴安彦(大叔父)の反乱。母は河内青玉繋の娘
垂仁の時:狭穂彦(従兄弟)の反乱。父は彦坐王、母は春日建国勝戸売の女
関係ないけど、土器の庄内式の源は河内の八尾あたりらしいね。
崇神の爺さんのところへ嫁に来た河内青玉繋の娘がつくり手達を連れてきたなら
時期も合うんだよなあ。

145:日本@名無史さん
16/02/05 20:45:43.44 .net
>>132
違うよ。
西欧の神と日本の神さまは違う。
日本の神さまはご先祖さんも含む自然のなかのもの。
山に神さまがいて嵐を起こす神さまがいて、「我々」を作った神さま(つまりご先祖)が
いて、まあギリシャ神話に近いな。
天皇が神っていうのは明治になって言い出したというか、それを戦後になって
さらに歪めたというか。
日本人はみんな神さまの子孫。何故なら、先祖が神さまだからw
一族の始祖は神さまで、土地神様で、氏神様で守り神。
「日本は神の国」の真意は、そういうこと。この場合「神」は「かみさま」であり、
「God」ではない。

146:日本@名無史さん
16/02/06 02:27:39.49 .net
武埴安彦って神武じゃないかね

147:日本@名無史さん
16/02/09 06:28:54.05 .net
王朝交替説とか欠史八代説とかその他様々な説があるがどれも多くの矛盾がある。
記紀は嘘っぱちだ、不比等のでっち上げだ、物部の陰謀だ、昔の人のつくり話だ、
天皇家を絶対視するために作ったものだ・・・
中でも欠史八代説は、古い歴史学者の「聖書」になっており、これを批判すると
破門されるという恐ろしいものだ。
彼らにとって古代史は学問ではなく宗教であり、批判は許されない。
文献を批判的に読まねばならないが、欠史八代説は批判してはならないw
ある場所では「記紀は捏造だから信じてはいけない」ある場所では「記紀によれば」
と自在にかき分け、その矛盾に気がつかない、矛盾だとも認識していない。
かくして。日本の古代史は「記紀はでっちあげである教」の信者と。
反対の「記紀は真実である教」の宗教争いであるw

148:日本@名無史さん
16/02/09 09:58:52.44 .net
日本は北朝魏の歴史のパクリ
神武天皇、欠史八代=成帝~聖武帝
始祖崇神天皇=始祖神元帝
建国者天武天皇=建国者道武帝

149:日本@名無史さん
16/02/09 10:07:41.77 .net
箸墓古墳が卑弥呼の墓なら
神武は西暦1世紀くらいの人物だよ。

150:日本@名無史さん
16/02/09 11:33:01.77 .net
欠史八代の天皇は実在の人物だが、彼らが
当時の倭国の国家元首だったかどうかは分からない。
もし、卑弥呼の正体が箸墓古墳の被葬者ならば、
いわゆる倭国大乱と欠史八代が同時期ということになるw
倭国大乱とは、魏志倭人伝の話の流れからみて、
王位継承争い。
つまい、欠史八代の時期に、大規模な王位継承争いがあったことになるw
だからこそ、欠史八代の時期は詳しくは書かれていない。

151:日本@名無史さん
16/02/26 21:35:31.45 .net
>>148
諡号はその人の経歴みて決めるんだから似て当たり前だろw

152:日本@名無史さん
16/03/04 22:39:08.71 .net
>>147
それは古代史マニアという狭い世界でのこと
一般人は呆れてそういうのから遠ざかってしまった

153:日本@名無史さん
16/03/04 22:47:32.78 .net
聖書を信じない人は「聖書を信じない教」なのか?
コーランを信じない人は「コーランを信じない教」なのか?
そんなわけないよな

154:日本@名無史さん
16/03/04 22:52:37.75 .net
なんか読解力ないやつきたな

155:日本@名無史さん
16/03/04 23:35:26.37 .net
自己紹介か

156:日本@名無史さん
16/03/05 00:37:09.88 .net
>>147がいってるのは記紀を否定することに拘ってる連中のこと
つまりアンチってことだろ
だから読解力ないっていったんだよ
わかってあえて>>153のような反応なら、
つまり>>153が記紀伝承に対して疑ってかかるよくありがちなタイプってだけのことに過ぎない
そうじゃないなら「読解力がない」人か
どっちかでそ

157:日本@名無史さん
16/03/05 01:12:20.43 .net
それをわかったうえで
アンチと信者しかいないわけがないだろ、って事なんだが

158:日本@名無史さん
16/03/05 15:06:27.46 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

159:日本@名無史さん
16/03/05 15:06:58.44 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

160:日本@名無史さん
16/03/06 00:05:25.15 .net
>>151
天皇、皇帝になってない事績不明の何十代前の先祖まで諡号するやり方がパクリ

161:日本@名無史さん
16/03/06 00:54:38.32 .net
A「神武天皇から元正天皇まで27世代44人の天皇が存在した」
B「神武天皇の時代から元正天皇のときに日本書紀が編纂されるまで
1380年ほど経過している」
少なくともこのどちらかが嘘か間違いだ。小学生でも分かる。
おそらくBが中国と張り合うためにでっちあげた嘘だね。
Bが正しかったらAが間違い。神武天皇と元正天皇の間にもーっと
世代間隔があるということだ。神武天皇と奈良時代の天皇を
無理に血筋で繋げてるだけだ。赤の他人が天皇になってても分からんわ。

162:日本@名無史さん
16/03/07 14:15:12.23 .net
神武天皇はいたと思うよ。
正確にいえば。天皇家が初代と決めた人物が神武だけどな。
誰にも親がいるんだから。
ただまあ、当時は「天皇」ではないし、大王でもなかっただろうな。
尾張の祖の娘を嫁にするまでは、盆地の中にいくつもの有力者がいる状態に見える。
磯城の県主が出てくるが、それが唐古鍵の王だったのかも知れん。
神武は「東征」していない。大軍を率いてはいない。
徳川の先祖のような存在だろうな。
徳川は源氏にくっつけたけど、神武はアマテラスにくっつけた。

163:日本@名無史さん
16/03/12 18:50:25.66 .net
>>161
日本書紀の年代を批判するのはもうやめようよ。
信じろって意味じゃなくて、逆。
聖書の「神が人間を作った」っての議論するのと同じさ。

164:日本@名無史さん
16/03/13 09:39:26.58 .net
栄光の初代にふさわしく長大な事歴が記録されており、また一方その内容は
栄光とほど通りルンペン旅で、兄二人も戦死して死出の熊野路を行軍して、
だまし討ちでようやく奈良盆地の南端に根拠を貰うという悲惨としか言いよ
うがない初代www
あと、地名で「南方の北を回って」という一文が、この記録の信憑性をリア
ルなものにしている。弥生時代南方の北が河内湖への水路だったのである。
以後八代は実在しないと言うが、漢風諡号は事歴の乏しさからやむを得ない
ものと言え、実在はしたと考える方が自然。古代における口伝の正確さは世
界中で証明されている。ただ、崇神までは王権にふさわしい内実が無かった
と言うだけ。九州に発する天孫の一族でかつその初代という事で特筆された
ものと思われる。
では先行一族のニギハヤヒ=物部についてだが、まずその庇護者の長髄彦に
神武が勝利したとは確定しがたい、八代のほとんどが「志貴の県主」から嫁
を貰っている記録などから、事実は当時は物部・ニギハヤヒ=長髄彦朝とい
うべき実体があり、その後歴史の書き換えがあったのでは無いか、と推測さ
れる。
これらのことから、イツセ・サノの兄弟達の移住は3世紀ぐらいが妥当。
卑弥呼は共立女王で霊力を持つ傀儡と考えるなら、当時最強の軍事氏族は物
部で、相当の軍事力を備えるに到るのは応神まで待たなければなかった。

165:日本@名無史さん
16/03/14 12:23:44.50 .net
エリアが違うから神武天皇は
わからないが
東海地方の神社を調べていると
ヤマトタケル尊は実在したと思えてならない。
地元の伝承を記した人たちから
したら、そんなに超古代でもなく
まあだいぶ昔には違いないが
そんな人もたしかにいたよ的な感覚で。
日本はたしかに神話と歴史がつながって
いる国だと実感します。


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