神武天皇即位年について その3at HISTORY
神武天皇即位年について その3 - 暇つぶし2ch121:日本@名無史さん
16/01/31 12:58:46.88 .net
紀元前666年が正解

122:日本@名無史さん
16/01/31 18:14:13.93 .net
卑弥呼がモモソ媛命ならば、
神武は1世紀中ごろから後半ぐらいの人物だよ。

123:日本@名無史さん
16/01/31 18:25:19.74 .net
計算しても無駄だw
おまえら記紀の数字を信用してないんだもん
計算するに値する数字もってこれないだろw

124:日本@名無史さん
16/02/01 00:50:43.43 .net
<正直な小学生たちがいだく疑問>
林修先生も?大学入試問題で正答率低かった難問@
『神武天皇』
1,古事記・日本書紀より、初代天皇&紀元前660年即位(笑)
2,古事記では、137歳まで生存(大笑い)
3,日本書紀では、127歳まで生存(オイオイオイ、はっはっはっ、笑)
「問題」なぜ、もっと控えめなウソを付けなかったのか?
<解答と解説>
スレリンク(history板:120番)
----------------------------------------------------------
「素朴な意見」
⇒『奈良の山奥の一豪族の末裔たち』が、
今も、国民からの税金で豪遊し特権を得ていのはおかしくないか
⇒なんの権限があって今の座に居座ってるの?
スレリンク(history2板)l50

125:日本@名無史さん
16/02/01 00:52:00.76 .net
『神武天皇』
1,古事記・日本書紀より、初代天皇&紀元前660年即位(笑)
2,古事記では、137歳まで生存(大笑い)
3,日本書紀では、127歳まで生存(オイオイオイ、はっはっはっ、笑)
「問題」なぜ、もっと控えめなウソを付けなかったのか?
<解答と解説>
スレリンク(history板:120番)
----------------------------------------------------------
「素朴な意見」
⇒『奈良の山奥の一豪族の末裔たち』が、
今も、国民からの税金で豪遊し特権を得ていのはおかしくないか
⇒なんの権限があって今の座に居座ってるの?
スレリンク(history2板)l50

126:日本@名無史さん
16/02/01 02:25:48.68 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

127:日本@名無史さん
16/02/01 02:26:14.41 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

128:日本@名無史さん
16/02/01 04:31:45.52 .net
>>121
>>123
>おまえら記紀の数字を信用してないんだもん
紀元前7世紀には日本列島に王権があったとか、
当時の豪族は百数十歳生き、遅くできた子どもに
後を継がせていたみたいな考古学的物証が出ているのかい?
天皇の系図にはめちゃくちゃ省略が多いんなら>>1を信じてもいいけど
系図のほうから建国年を推定すると紀元前よりも紀元後のほうが
信用できるんですわ。

129:日本@名無史さん
16/02/01 04:59:11.32 .net
>>128
実際は前660年よりももっと前から続いてる
便宜上前660年としただけ

130:日本@名無史さん
16/02/01 05:14:39.51 .net
まだ続いてるの?
『2ch 猿田』

131:日本@名無史さん
16/02/01 05:21:53.20 .net
>>125
「血が繋がっていない」あるいは
「初めはまだ偉くなかったから」も一つの解答だ。
[6332] 天皇とは何か? h21.1.15
大昔の天皇の寿命が百歳を超えているのは…
www.h3.dion.ne.jp/~jituzai/tetunikki_6301~6400.htm

132:日本@名無史さん
16/02/01 09:52:18.00 .net
[22502] 神とは何か? h28.1.25
URLリンク(www.h3.dion.ne.jp)
ここまでまとめると
「この世に神はいない」「神は古代人の勘違い。妄想」
神武天皇がナガスネヒコの軍勢と戦っていたとき、
金鵄(光の玉)が空から現れてナガスネヒコの軍勢に打撃を与えた
と言われています。
この光の玉の正体は花火かプラズマのような自然現象で、
神武天皇の側で発光現象を見た古代人は神武天皇が超自然現象を
起こしたと思い込み、神武天皇を神に祭り上げたようです。
この世に神がいないのなら
神武とそれ以降の天皇はみな神ではなく人間ということになるし、
神代の神話も作り話ということですかな。
今時淡路島、四国や九州がイザナギとイザナミの
セックスで生まれたなんて信じている人を見つけるほうが難しい。
神武天皇から三世代前の天孫降臨が百七十九万二千四百七十余年
も昔の出来事だって?
やはり神はいないという前提で神武天皇即位年を議論すべきでは?

133:日本@名無史さん
16/02/01 14:28:35.34 .net
>>833「先祖が奈良の山奥の一豪族であれ、
結果的には天皇家が歴史の勝者になったのだ 」
>>120 >>124 >>125 の3つを書いた者だけど、
確かに、客観的な事実だよ!
そして、俺が言いたいことは、だれでも知ってることだよ
つまり、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「19世紀列強の国々」の領土拡張で、
米・加・露・オーストラリア等々、広大な<<征服地域>>を手に入れた。
現在、国土として、その<<既得権>>を持っている!!!!
同様に、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
『奈良の山奥の一豪族の末裔たち』つまり、
「大和朝廷から続く歴代の中央政権」が、<<征服地域>>を広げていった(主に東へ)。
現在、国土として、その<<既得権>>を持っている!!!!
URLリンク(ja.wikipedia.org)
----------------------------------------------------
しかし、同じく833 が言う「日本政府が日本列島を支配していい根拠は天皇だけ」
これは、客観的な間違いだ。
18-20世紀のフランス革命・ロシア革命、20世紀のイラン革命・エジプト革命、
いずれも「この国を支配していいのは、その王族だけ」と思っていたが、追い出された。
現在、イギリス王室も、不要論など世論からその岐路に立たされている。
平和的なやり方以外にも、21世紀といえども、
純クーデター的なやり方で、支配者がかわる可能性もないわけでない(笑)
私はないと思ってるけ(笑い)
-----------------------------------------------------
つまり、俺が、
「『奈良の山奥の一豪族の末裔たち』が、
今も、国民の税金で豪遊し特権を得ていのはおかしくないか 」
と書いたのは、ただのうさばらしだよ(笑)

134:日本@名無史さん
16/02/01 17:57:16.33 .net
林修先生も?? 大学入試問題で正答率が低かった難問@@@
『神武天皇』
1,古事記・日本書紀 より、初代天皇&紀元前660年即位!(笑)
2,古事記 では、137歳まで生存!(笑)
3,日本書紀では、127歳まで生存!(笑)
⇒なぜ、もっと控えめなウソを付けなかったのか??
<解答と解説>
URLリンク(twitter.com)

135:日本@名無史さん
16/02/02 22:04:59.61 .net
>>132
金鵄は鵄=登美大王家(ナガの
国=わが国のほとんどを支配した。蘆原中津国と誤魔化した)の
大王権(眩く金色に光輝く。光輝満てるモノ)をマンマ表した比喩。
此の大権が神武天皇、、、天村雲尊(建位起命(大和初代大王との極秘伝)。ホホデミ/ホアカリ/スサノオ(素尊))に委譲された。
故に敵味方全てがひれ伏した。

136:日本@名無史さん
16/02/04 01:11:44.52 .net
重要な天皇の即位年はたぶん
60年の倍数を足して過去に繰り上げているとオモ。
神武は邪馬台国の終わりの動乱期の人物ではないかと。
神武 241年? → 前660年(60×15=900年前)
崇神 324年? → 前97年(60×7=420年前)
垂仁 332年? → 前29年(60×6=360年前)
応神 390年? → 270年(60×2=120年前)
仁徳 433年? → 313年(60×2=120年前)
履中 460年? → 400年(60×1=60年前)
当時の天皇は35~50歳で亡くなっていたと思う。
中には20歳未満で亡くなった天皇もいただろうが、
子供の数などから推測して60歳、70歳も生きた天皇は
いたとしてもまれだったろう。

137:日本@名無史さん
16/02/04 02:23:06.17 .net
神武天皇は葛城の事代主神の娘との間に綏靖天皇を儲けた。
綏靖天皇の諱には「耳」が付くので手研耳命と同様神武の息子であろう。
綏靖天皇も事代主神の娘で母の妹に当たる五十鈴依媛命との間に
安寧天皇をもうけた。安寧天皇も事代主神の孫娘、渟名底仲媛命との間に
息石耳命と懿徳天皇をもうけた。従って神武~懿徳までの4代は
一連の血統と考えられる。綏靖・安寧・懿徳の三天皇の
寿命は水増ししてはいようが中世でも十分ありえそうだ。
懿徳天皇は兄息石耳命の娘の天豊津媛命を娶って孝昭天皇を
儲けたとされる。息石耳命には後続する氏族がない。おそらく
早死にしたのだろう。しかし77歳も生きた懿徳天皇が姪との間に
48歳の時に生れた孝昭天皇しか子供がいないのは妙であるし、
また孝昭の代から皇后の出自が変わるとはどういうことだろうか?
同様に第6代孝安天皇も137歳まで生きたのに、姪との間に86歳の時に生れた
孝霊天皇しか子供がいない。孝昭天皇についてはそれまでの天皇の外戚だった
磯城県主系もしくは鴨君系の天皇という説がある。また孝昭は前代の懿徳より、
孝霊は前代の孝安より年上であったとしたらどうだろう?
ある天皇より年上の人物を姪の子にするためには天皇の年齢を水増しせざるをえなく
なるのではないか?私の推測では神武・綏靖・安寧・懿徳の4代50数~60年で、
神武の直系は断絶。その後孝昭・孝安がほんの短期間在位、孝霊・孝元・開化
(開化は孝元と同世代?兄弟?)の3代20数年でいわゆる葛城王朝は終わった。
日本書紀で在位年数の異常に長い天皇が実際には在位期間が短くてバタバタ天皇が入れ替わった
のかもしれない。和風諡号から考えて孝霊・孝元・開化は同じ一族、崇神・垂仁は同じ一族か
そのとおり親子であろう。崇神天皇から始まるとされる三輪王朝では、垂仁・景行の二天皇は
事績の多さから在位年数はそれぞれ20数年あると思われる。仲哀天皇は言うに及ばず、
崇神、成務両天皇の在位期間もあまり長くなく若死にだったとすると、崇神・垂仁・
景行・成務・仲哀の5代は合計70年ほどでないかと思う。

138:日本@名無史さん
16/02/04 02:40:10.07 .net
新しい天皇が即位して前の天皇の埋葬が行われる場合、
皇位継承が順調にいき、逆に前の天皇の埋葬が終わってから
次の天皇の即位へ移る場合、皇位継承がそう順調にいかなかったか
のような印象を受ける。
必ずしも全ての場合に当てはまるかどうか分からないが。
神武~仲哀までの14代の間だと、神武―綏靖、懿徳―孝昭、
孝安―孝霊、開化―崇神、垂仁―景行、成務―仲哀
と六ケ所も見られる。

139:日本@名無史さん
16/02/04 23:09:21.14 .net
蘇我氏の功績を聖徳太子の功績に置き換えたように
神武・崇神天皇の功績は応神天皇一人のものだと言うんですか

140:日本@名無史さん
16/02/05 02:42:38.17 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

141:日本@名無史さん
16/02/05 02:44:39.78 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

142:日本@名無史さん
16/02/05 17:09:24.14 .net
古事記の干支は正しいんじゃないかね。
親子関係が正しいと仮定して、記録に残る正確だろうといわれる最古の天皇、
舒明天皇の出生年593年から一代25~27年として逆算していくと、それほど
矛盾は生じない。崇神天皇は三世紀半ばの出生になり、まあ微妙なところだけどな。
崇神天皇を「ハツクニシラススメラミコト」と言ってるんだから、それより
以前は大王ではなかったということになる。
崇神は、トヨの後、266年にトヨらしき朝貢の記事があるからそれより後だろうな。
神武について詳細な記録がある。また、2~9代の婚姻関係も詳しい。
にも関わらずヒミコの記述がない。トヨもないから、少なくとも崇神の親ではないのだろうな。
同じ一族(遠い親戚)ではあるが、親やじじばばではない存在。
爺さんのいとことか、親かじいさんの妻のうちの崇神の直系ではない人とか。
>孝昭の代から皇后の出自が変わるとはどういうことだろうか?
このあたりから国家統一の流れが出来て、豪族たちが広域に姻戚になろうと
するんじゃないかなあ。もしくは、この時に談合が成立し都を作り、江戸屋敷の
ように都の周辺に豪族の屋敷が出来て相互に嫁取りをした。
纏向を囲むように、各地の地名があるんだよな。

143:日本@名無史さん
16/02/05 17:24:36.19 .net
神武は、天皇家の始祖ではあるがヒミコ以前の男王の家系ではないと思う。
崇神が318年没として、記紀の伝承があったのは600年代。
欽明や舒明天皇は500年代の人だ。
わずか200年余前の先祖の系譜をでっち上げるのは難しい。
2~9代の系譜は、伝わっているものを書いたのだろう。
700年頃には没落している氏族のことも出てくる。
藤原氏の先祖が特段優遇されて書いてあるわけでもない。
天皇家の先祖は紀元100年前後にヤマトへ入った。
「神代」のお話は、500~700年頃の有力者達には共有されていたのだろう。
九州から来たという神武はよく分からんけどな。

144:日本@名無史さん
16/02/05 17:55:54.47 .net
王位争いの伝承が気になるんだよな。
崇神の時:武埴安彦(大叔父)の反乱。母は河内青玉繋の娘
垂仁の時:狭穂彦(従兄弟)の反乱。父は彦坐王、母は春日建国勝戸売の女
関係ないけど、土器の庄内式の源は河内の八尾あたりらしいね。
崇神の爺さんのところへ嫁に来た河内青玉繋の娘がつくり手達を連れてきたなら
時期も合うんだよなあ。

145:日本@名無史さん
16/02/05 20:45:43.44 .net
>>132
違うよ。
西欧の神と日本の神さまは違う。
日本の神さまはご先祖さんも含む自然のなかのもの。
山に神さまがいて嵐を起こす神さまがいて、「我々」を作った神さま(つまりご先祖)が
いて、まあギリシャ神話に近いな。
天皇が神っていうのは明治になって言い出したというか、それを戦後になって
さらに歪めたというか。
日本人はみんな神さまの子孫。何故なら、先祖が神さまだからw
一族の始祖は神さまで、土地神様で、氏神様で守り神。
「日本は神の国」の真意は、そういうこと。この場合「神」は「かみさま」であり、
「God」ではない。

146:日本@名無史さん
16/02/06 02:27:39.49 .net
武埴安彦って神武じゃないかね

147:日本@名無史さん
16/02/09 06:28:54.05 .net
王朝交替説とか欠史八代説とかその他様々な説があるがどれも多くの矛盾がある。
記紀は嘘っぱちだ、不比等のでっち上げだ、物部の陰謀だ、昔の人のつくり話だ、
天皇家を絶対視するために作ったものだ・・・
中でも欠史八代説は、古い歴史学者の「聖書」になっており、これを批判すると
破門されるという恐ろしいものだ。
彼らにとって古代史は学問ではなく宗教であり、批判は許されない。
文献を批判的に読まねばならないが、欠史八代説は批判してはならないw
ある場所では「記紀は捏造だから信じてはいけない」ある場所では「記紀によれば」
と自在にかき分け、その矛盾に気がつかない、矛盾だとも認識していない。
かくして。日本の古代史は「記紀はでっちあげである教」の信者と。
反対の「記紀は真実である教」の宗教争いであるw

148:日本@名無史さん
16/02/09 09:58:52.44 .net
日本は北朝魏の歴史のパクリ
神武天皇、欠史八代=成帝~聖武帝
始祖崇神天皇=始祖神元帝
建国者天武天皇=建国者道武帝

149:日本@名無史さん
16/02/09 10:07:41.77 .net
箸墓古墳が卑弥呼の墓なら
神武は西暦1世紀くらいの人物だよ。

150:日本@名無史さん
16/02/09 11:33:01.77 .net
欠史八代の天皇は実在の人物だが、彼らが
当時の倭国の国家元首だったかどうかは分からない。
もし、卑弥呼の正体が箸墓古墳の被葬者ならば、
いわゆる倭国大乱と欠史八代が同時期ということになるw
倭国大乱とは、魏志倭人伝の話の流れからみて、
王位継承争い。
つまい、欠史八代の時期に、大規模な王位継承争いがあったことになるw
だからこそ、欠史八代の時期は詳しくは書かれていない。

151:日本@名無史さん
16/02/26 21:35:31.45 .net
>>148
諡号はその人の経歴みて決めるんだから似て当たり前だろw

152:日本@名無史さん
16/03/04 22:39:08.71 .net
>>147
それは古代史マニアという狭い世界でのこと
一般人は呆れてそういうのから遠ざかってしまった

153:日本@名無史さん
16/03/04 22:47:32.78 .net
聖書を信じない人は「聖書を信じない教」なのか?
コーランを信じない人は「コーランを信じない教」なのか?
そんなわけないよな

154:日本@名無史さん
16/03/04 22:52:37.75 .net
なんか読解力ないやつきたな

155:日本@名無史さん
16/03/04 23:35:26.37 .net
自己紹介か

156:日本@名無史さん
16/03/05 00:37:09.88 .net
>>147がいってるのは記紀を否定することに拘ってる連中のこと
つまりアンチってことだろ
だから読解力ないっていったんだよ
わかってあえて>>153のような反応なら、
つまり>>153が記紀伝承に対して疑ってかかるよくありがちなタイプってだけのことに過ぎない
そうじゃないなら「読解力がない」人か
どっちかでそ

157:日本@名無史さん
16/03/05 01:12:20.43 .net
それをわかったうえで
アンチと信者しかいないわけがないだろ、って事なんだが

158:日本@名無史さん
16/03/05 15:06:27.46 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

159:日本@名無史さん
16/03/05 15:06:58.44 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

160:日本@名無史さん
16/03/06 00:05:25.15 .net
>>151
天皇、皇帝になってない事績不明の何十代前の先祖まで諡号するやり方がパクリ

161:日本@名無史さん
16/03/06 00:54:38.32 .net
A「神武天皇から元正天皇まで27世代44人の天皇が存在した」
B「神武天皇の時代から元正天皇のときに日本書紀が編纂されるまで
1380年ほど経過している」
少なくともこのどちらかが嘘か間違いだ。小学生でも分かる。
おそらくBが中国と張り合うためにでっちあげた嘘だね。
Bが正しかったらAが間違い。神武天皇と元正天皇の間にもーっと
世代間隔があるということだ。神武天皇と奈良時代の天皇を
無理に血筋で繋げてるだけだ。赤の他人が天皇になってても分からんわ。

162:日本@名無史さん
16/03/07 14:15:12.23 .net
神武天皇はいたと思うよ。
正確にいえば。天皇家が初代と決めた人物が神武だけどな。
誰にも親がいるんだから。
ただまあ、当時は「天皇」ではないし、大王でもなかっただろうな。
尾張の祖の娘を嫁にするまでは、盆地の中にいくつもの有力者がいる状態に見える。
磯城の県主が出てくるが、それが唐古鍵の王だったのかも知れん。
神武は「東征」していない。大軍を率いてはいない。
徳川の先祖のような存在だろうな。
徳川は源氏にくっつけたけど、神武はアマテラスにくっつけた。

163:日本@名無史さん
16/03/12 18:50:25.66 .net
>>161
日本書紀の年代を批判するのはもうやめようよ。
信じろって意味じゃなくて、逆。
聖書の「神が人間を作った」っての議論するのと同じさ。

164:日本@名無史さん
16/03/13 09:39:26.58 .net
栄光の初代にふさわしく長大な事歴が記録されており、また一方その内容は
栄光とほど通りルンペン旅で、兄二人も戦死して死出の熊野路を行軍して、
だまし討ちでようやく奈良盆地の南端に根拠を貰うという悲惨としか言いよ
うがない初代www
あと、地名で「南方の北を回って」という一文が、この記録の信憑性をリア
ルなものにしている。弥生時代南方の北が河内湖への水路だったのである。
以後八代は実在しないと言うが、漢風諡号は事歴の乏しさからやむを得ない
ものと言え、実在はしたと考える方が自然。古代における口伝の正確さは世
界中で証明されている。ただ、崇神までは王権にふさわしい内実が無かった
と言うだけ。九州に発する天孫の一族でかつその初代という事で特筆された
ものと思われる。
では先行一族のニギハヤヒ=物部についてだが、まずその庇護者の長髄彦に
神武が勝利したとは確定しがたい、八代のほとんどが「志貴の県主」から嫁
を貰っている記録などから、事実は当時は物部・ニギハヤヒ=長髄彦朝とい
うべき実体があり、その後歴史の書き換えがあったのでは無いか、と推測さ
れる。
これらのことから、イツセ・サノの兄弟達の移住は3世紀ぐらいが妥当。
卑弥呼は共立女王で霊力を持つ傀儡と考えるなら、当時最強の軍事氏族は物
部で、相当の軍事力を備えるに到るのは応神まで待たなければなかった。

165:日本@名無史さん
16/03/14 12:23:44.50 .net
エリアが違うから神武天皇は
わからないが
東海地方の神社を調べていると
ヤマトタケル尊は実在したと思えてならない。
地元の伝承を記した人たちから
したら、そんなに超古代でもなく
まあだいぶ昔には違いないが
そんな人もたしかにいたよ的な感覚で。
日本はたしかに神話と歴史がつながって
いる国だと実感します。

166:日本@名無史さん
16/03/14 16:57:24.09 .net
ヤマトタケル神話とかは前後の時期のエピソードより新しく作られたものっぽいが、
それに限らず、記紀神話は諸地域の有力豪族に関連する神話や祖先譚を網羅的に組み込んで編集したものだろうし、
まあ、なんらかの形で原型はあったんでしょうな
征西神話と東征部分と熱田神社関連の話はそれぞれ別の地域の神話由来な気がするけども。

167:日本@名無史さん
16/03/14 19:47:27.47 .net
地元は福岡の小さい町なんだが、地元に伝わる伝説があって
地元には都から流されてきたべっぴんさんが働いていたんだけど
反抗勢力の討伐の道中のヤマトタケルに見初められて子どを身籠って、
でもヤマトタケルは討伐に行かないといけないからと去っていったんだと
全国に似たような話があるらしいからどんだけ各地に女を作ってたんだと
(ただ単に地元の有力者をヤマトタケルの子孫にしたいと思った人が各地にいただけのような気がするけど)

168:日本@名無史さん
16/03/14 19:59:35.34 .net
まあ基本的にカッコ内のとおりだろうな。平安時代の武士ですら、同様な現地妻伝説が全国に広まってる人は何人も居る。
ほとんどの場合は、祖先を著名人に結びつけたいだけの作り話だよ。

169:日本@名無史さん
16/03/14 20:11:31.55 .net
実際にヤマトタケルが通る道中になったであろう場所だから
結びつける有名人としてヤマトタケルを選んだだけじゃないかなあと思ってる
ちなみにヤマトタケルが苗木をくれたと言うイチョウの木があるんだけど樹齢調べたら800年かそこらしかなかったらしい

170:日本@名無史さん
16/03/14 22:14:00.62 .net
ヤマトのタケル、つまり普通名詞じゃ無いかな。
ヤマトが倭か大和(大倭?)か知らんが、タケルは日本古来の人気1位の名前。
特に戦士っぽい。(武、猛、剛、健・・・)未だに人気と言うことは、相当印象的な
歴史があるんだよきっと。
やたらと戦闘的な部族だったとか、権力の末端だから結びつきたがられたとか、そん
な感じ。何でもアマテラスに宗旨替えしたり、何でもお大師様の事績にしたりっての
とおんなじでさ。

171:日本@名無史さん
16/03/14 22:35:01.35 .net
古事記の記述だとヤマトのガキみたいな名前だったけど宴に女装して潜り込んで反乱分子のタケル(強い男)を頃す直前にそのタケルさんからタケルの名前を貰ったとかだったかな
日本武尊はヤマトの強い尊みたいな名前と言うかあだ名か通名っぽい印象
あの時代各地にタケルっていたんだろうなあ

172:日本@名無史さん
16/03/26 11:00:26.67 .net
盛大なホワイトハウスカーニバルの中に
1人だけ違和感のある人が・・・・・・
URLリンク(i.imgur.com)

173:日本@名無史さん
16/03/31 16:24:04.79 .net
>>165
ヤマトタケルはいたと思うな。
熱田神社が現に存在していて、しかも「三種の神器」の草薙剣があるからね。
そして、そのことは事実と受け止められているということ。
というか、歴史時代の天武天皇のときの記述がある。
その剣を、普通に考えると天皇家が「さっさと返せ」と言っても良さそうなのに、
そうはしていないこと。天皇家の神器なんだから、それ以外のものが持っている
なんてありえない。なのに、熱田神社にある。
熱田神社というか宮簀媛は、それを持つ資格がある人だったとしか思えない。
草薙剣を渡した倭姫命の母は日葉酢媛であり、丹波の道主の娘だ。
尾張氏は丹波氏(海部氏)と同族と伝わる。さらに、天火明命の後裔とも。
その時代、宮簀媛は草薙剣を持っていてもおかしくない身分であり、
天皇家と並ぶ一族のヒメだったということだと思う。
開化、崇神、垂仁の后の多くがその一族出身で、逆に見ると、天皇家はその一族の
力を背景に有力者にのし上がったと見ることも出来る。

174:743
16/04/03 18:21:32.97 .net
久しぶりに書かせて頂きます
本日は神武天皇2600年祭ですので、記念も含めまして。
改めて、大和の地形を考えますと秋津・中西遺跡の交通路としての重要性が浮かび上がるのではと
飛鳥時代に大道が整備されるまでは、河内と大和を結ぶ交通の結節点として秋津の地は水越峠と風の森峠を経て紀の川水運に繋がる地の交差路にあたります。
そこから、葛上斜行道路が橿原神宮前駅付近の軽の地を経て山田道に繋がり、長谷街道を経て東国に向かう列島の東西の交通の要路だった事が伺えます。
丁度、日本列島の東西交通の中心にあたり、神武天皇紀にある通りではないでしょうか?
もう一つの河内と大和を結ぶ交通の要路、大和川水系を押さえていたのは神武天皇紀に現れる磯城彦の勢力だったのは?
これこそが唐古鍵遺跡の勢力ではと考えています。
また、もう一つの東西交通、淀川から瀬田川、琵琶湖水運を押さえていたのがニギハヤヒ・長髄彦の物部氏の勢力ではと
物部氏の勢力はやはり生駒山系に中心を置き、その中枢は交野市の河内磐舟神社だったのでは?
神武天皇の勢力は御所市付近を地盤とする鴨氏との合流によって、基盤を築いたのではと
紀の川水運の要衝五條市と秋津とを結ぶ風の森峠には鴨神遺跡が有り、高鴨神社が鎮座します
さらに葛上斜行道路の北には鴨都波神社が鎮座し、鴨氏の勢力だったのは確かです。
この秋津の地付近の御所市柏原こそが、神武天皇の橿原宮と考えています。
磯城彦・物部氏が后妃を天皇家に入れ一体化するのは、孝霊天皇以降で、それまでは大和南部こそが天皇家の拠点と考えています。

175:日本@名無史さん
16/04/03 18:30:02.15 .net
>>174
戦前の本の引用か、長すぎて引用の要件を満たさなくなってないといいな

176:743
16/04/03 23:44:54.53 .net
以前、崇神天皇の名ミマキイリヒコのミマと倭人伝に現れる邪馬台国四等官の次席弥馬升、三席弥馬獲支との関連について述べました
イリヒコから崇神天皇がミマの地への入婿ではと考えました。
また、雄略天皇紀に現れる御馬皇子と皇子が殺された三輪の地付近かと述べました。
しかし、同じ雄略天皇紀に天皇の吉野宮行幸記事に吉野宮付近の御馬瀬が登場します
この事から紀の川から名を変えた吉野川の大和上市駅から津風呂湖あたりではと考えるようになりました。
丁度、磐余の地から南下した地であり、紀の川水運との交通の結節点とも考えられます。
磐余の地から南は阿部氏の勢力圏であり、崇神天皇の岳父で阿部氏の遠祖大彦命との関連が考えられます。
この地には天皇陵に匹敵する桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳が存在し、大彦命と大彦命の子タケヌナカワワケの墓ではと考えています。
また、倭人伝の弥馬升と弥馬獲支が大彦命とタケヌナカワワケの可能性もありうると思います。
さらに大彦命の父孝元天皇の軽宮の地は阿部氏との関連が後世に至るも確認出来、乙巳の変後に即位した孝徳天皇が軽皇子であり、阿部内麻呂の女婿で有馬皇子をもうけています。
この阿部氏の勢力圏に鎌足を祀る談山神社や暗殺された崇峻天皇の倉橋宮が存在するなど、まだまだ消えた歴史があるのかもしれません。
磐余の地から吉野川に至る交通路は天皇家の拠点が纒向の地に移った時のもう一つの東西交通の幹線だったのではと考えています。

177:日本@名無史さん
16/04/13 01:21:15.18 .net
倭人伝に出てくるトヨってヨロズハタトヨアキツシヒメじゃないの、トヨを祭っている神社が豊の国ある八幡総本宮宇佐神宮じゃないの。
記紀が記される200年ほど前に造られたされる英彦山神宮の主祭神はアメノオシホミミだけなのでこの二人の子供がミマキ(現水巻)のミマキイリヒコじゃないの。

178:日本@名無史さん
16/04/13 11:27:41.02 .net
邪馬台国九州説が成り立たなくなった以上、トヨも畿内にいたんだろ

179:日本@名無史さん
16/04/13 22:58:44.45 .net
>>177
いきなり地元の地名が出てきてワロタ
ミマキって御牧大橋の御牧か?
こんな大雨の度に沈むような所にミマキイリヒコがいたとは思えないけど神武東征の時にワザワザ関門海峡を越えて寄り道するほどの有力者が岡(遠賀)にいたと言う話は聞いたことがある

180:日本@名無史さん
16/04/13 23:02:41.11 .net
神武東征神話とかヤマトタケル神話とかは奈良時代にリメイクされて作られた神話で、登場人物の大半は天武朝の有力者たちの祖先だろ

181:日本@名無史さん
16/04/14 08:17:41.19 .net
神武天皇や卑弥呼達は本当にかわいそうだよね?
だって 人の記憶から忘れさられて
ただ 文字や絵でしか知られてないんだもん
歪んだ現実は神武天皇や卑弥呼の 実際の姿や
思い出すら人々から忘れられている
みんなに聞いても神武天皇や卑弥呼の生き様や
笑顔や思い出を教えてくれないし
誰も覚えていないんだもん
本当にかわいそうだよね?

182:日本@名無史さん
16/04/14 11:49:23.48 .net
神武は大伴氏の先祖に密命して諷歌倒語で自分で消してるので、可哀想も何もないな。

183:日本@名無史さん
16/04/14 17:40:04.50 .net
>>179
神武とは崇神のことだろう。
神武東征とは崇神つまりミマキイリヒコの東征だろう。

184:日本@名無史さん
16/04/14 22:44:34.27 .net
>>183
じゃあミマキイリヒコが着たからミマキって地名にした可能性があるのか
どこに牧場があったのかと思ってたけどなるほど

185:日本@名無史さん
16/04/14 23:54:47.42 .net
>>184
先代旧事本紀を見てみると遠賀川沿いの地名と物部氏の一族の名前に関連性がみられる、ミマキイリヒコも物部氏に関連があるのだろう。

186:日本@名無史さん
16/04/15 16:34:05.56 .net
そりゃ、崇神天皇の母はイカガシコメ、祖母はウツシコメだから
崇神は物部氏と深い関係があるんじゃないの?
しかし崇神一代で東征から四道将軍の派遣、出雲国の服従
までやるとしたら超人的だね。崇神が成したとされる業績は
実際には数代前の天皇の業績が混じっているんじゃないかな?
また日本書紀は、神武以降数代の天皇が出雲系のコトシロヌシ
の血筋から妻を迎えていたこと、崇神がアマテラスを宮殿から
(追い)出してオオモノヌシに頼ったあたり、崇神はアマテラ
スに繋がる血筋ではなかったのではないかと思う。

187:日本@名無史さん
16/04/15 17:16:02.86 .net
物部氏って、単一血縁集団じゃなくて複数集団が擬制的に同祖として集まったものだから、
物部のうちどの集団かで意味内容が変わるけどな

188:日本@名無史さん
16/04/20 07:40:05.63 .net
>>142
崇神が三世紀後半に生まれたとすると、三世紀初期と言われる纏向の創設に
関わった先祖は、四世代くらい前の先祖ということになる。
4世代前は孝安天皇なんだが、彼に関しては非常に気になる系譜になっている。
父は孝昭天皇で后は尾張の祖で世襲足媛、彼には息子が二人おり、
長男 天足彦国押人命
次男 日本足彦国押人尊(大倭帯日子国押人命) 孝安天皇
孝安は兄の娘を嫁にしたことになっている。
名前からすると、兄が天下を治め、弟がヤマトを治める。
もっとも、この名前が後世に付けられたものかどうかは分からんが。
後継者である兄が若死にし、弟が後継者になるにあたって前王の娘を嫁にする。
天足彦国押人命には後継氏族が多いから、息子がいなかった訳じゃないが、
子どもでは一族を率いることが出来ないからだろうな。
倭国統一の時代(卑弥呼共立の時代)、卑弥呼が死んでトヨを共立した時代(開化?)
誰が王だったのかは分からんが、どちらにも丹波一族が登場するのが興味深い。
そして、景行(母は日葉酢媛)の時代には後継争いが起きていないらしく見える
のもおもしろい。
日葉酢媛の墓と伝わる古墳があるが、この古墳は全国の古墳時代前期後半の有力者の
古墳の型状と一致するらしい。

189:日本@名無史さん
16/04/29 23:02:09.05 .net
月刊WiLL 2016年6月号
URLリンク(web-wac.co.jp)
神武天皇は存在した!
■鍛冶俊樹
神武東征の地政学

190:日本@名無史さん
16/04/29 23:26:23.14 .net
神武東征神話は奈良時代の律令政府の地理認識で作られた話なんだから、現実の地理に適合してるのが当たり前で、
それを論拠に神武実在とか言い出すのは頭がおかしいと思う。

191:日本@名無史さん
16/04/30 01:04:31.38 .net
邪馬台国・神武天皇と恐竜の因果関係を
研究している者です
アマテラスや神武天皇の時代には
もしかしたらまだ巨大な恐竜がいた可能性もある
つまり神武天皇の死因は恐竜に食べられた
とも考えられる
邪馬台国が滅んだのも肉食恐竜に襲われた可能性も
あります
きっと恐竜は神武天皇や邪馬台国の人々を
襲って命を繋いでいったんだと考えられます
こう考えると 辻褄が合います
この件は引き続き調べてみます

192:日本@名無史さん
16/04/30 02:04:08.44 .net
そりゃすげえ。
神武天皇は哺乳類じゃなかったのかよw

193:日本@名無史さん
16/04/30 11:14:11.63 .net
ダイダラボッチvsヤマタノオロチ

194:日本@名無史さん
16/05/03 08:57:13.75 .net
>>188
丹波一族って、しょっちゅう出てくるよな。
そんで不思議なのは、出てくる重要人物が男じゃなくてみんな女だということ。
孝昭天皇の后の世襲足媛
開化の妻の竹野比売
垂仁の后の日葉酢媛
ヤマトタケルの宮簀媛
伊勢神宮の外宮の豊受大御神

195:日本@名無史さん
16/06/26 15:39:42.02 .net
天皇家の初代はいたと思うよ。
だって、今現在も天皇家は存在するのだから。
でもまあ、神武の話は「盛ってる」ねえ。
それでも「東征」とは程遠い。
九州から東征してきたのじゃなく、新天地を求めてさまよっていたと言うべきか。
少数の親衛隊を連れて。吉備で長居をしたあげくにまた旅だった。
居心地が良くなかったのか、開拓がうまくいかなかったのか。
奈良盆地では、地元の有力者の婿になり、新天地も確保できた。
未開の土地を開く権利を与えられて、3代~4代かかって力をつけたのだろうな。
アマテラス神話は、天皇家がなくても成立する。
天皇家以外にもアマテラス神話を伝承する一族がたくさんいるから。
コメだけが特別扱いではないことから、弥生開始期とかではなく、もっと古い
時代からの伝承だろう。

196:日本@名無史さん
16/06/26 16:07:00.38 .net
>>195
そうだね
日本書紀読めば大阪の長髄彦まで争いらしい争いはない
逆に仲良くやっている あるのは盗賊退治
問題なのは神武天皇と聞くといつも湧き出てきて頓珍漢なことを主張する在日外国人
特に在日朝鮮人の神武天皇への攻撃はいつもひどい

197:日本@名無史さん
16/06/27 16:43:03.05 .net
栽培植物や地名を考えると、3~4000年前頃のどこかって感じだな。
遠賀川式よりも以前で、突帯文土器か。
縄文時代に漆があったりひょうたんがあったりするんだよな。
何よりも、縄文土器が有り過ぎる。

198:日本@名無史さん
16/06/27 17:25:23.08 .net
記紀に書いてあるニダ!とか
ウリナラファンタジーは現実とファンタジーの区別がつかないウリナラDNAが原因なので
本人はそれがおかしいと思わない。

199:日本@名無史さん
16/06/27 18:32:17.74 .net
神武がいたであろう時代って邪馬台国の記録のある時代より後だろ。
記紀の年代がさば読みすぎて紀元前になってるだけで。

200:日本@名無史さん
16/06/28 22:30:02.37 .net
日曜のNスペでやってた諏訪大社にまつわる伝説を鵜呑みにすると
諏訪にもともといた神様は狩猟民で
タケミカヅチから逃げて諏訪に来たタケミナカタは稲作なんだよな
稲作だから弥生文化なんだろうけどそのあとからやって来たタケミカヅチの勢力は何なんだろう?
>>197
遠賀川式って弥生土器だよね

201:日本@名無史さん
16/06/29 16:02:30.61 .net
>>199
神武天皇が建てた国も邪馬台国も日本列島に割拠していた
国々の一つで両国が同時代に並立していたという見方も可能じゃん。
神武天皇は3世紀末とか4世紀初めの人物と言う人がいるけど
それだと神武天皇から倭の五王に比定(あくまで比定だが)される
大王たちの時代まで在位期間の異常に短い天皇がすし詰め状態になる。

202:日本@名無史さん
16/06/29 19:04:20.95 .net
1代あたり平均が20年を越えることはないだろ、近現代じゃないんだから。

203:日本@名無史さん
16/06/29 22:27:03.85 .net
在位年数10年未満の天皇だらけというのも
にわかに信じがたい。

204:日本@名無史さん
16/06/30 18:50:30.35 .net
仁徳以後武烈までの頃みたいな、成人してから人脈を駆使して武力抗争して即位、みたいな事情で在位期間が長くない(記紀の記述としては長いけど)上体がそれ以前にも布衍できるなら平均十年は有り得る範囲。
30~40代の頃に即位して十年ちょっとの治世で寿命を迎えるとかでな。
ただ、その場合は父子相続は珍しかったことになってしまうんだけどな。

205:日本@名無史さん
16/07/05 00:02:41.13 .net
天皇家は北魏の皇室神格化の歴史をパクリまくってるから、三国志の鮮卑の檀石槐や倭の卑弥呼の正確な歴史と矛盾するんだよ!

206:日本@名無史さん
16/07/10 20:03:45.43 .net
神武否定説なんて今では当たり前のようになっているが、
それは戦後主流になった風潮というだけで根拠はない。
戦前の津田説を踏襲しているだけのもの。
日本書記の紀年法はすでに明治初期の研究によって、
推古朝から1260年遡らせたということも常識。
問題はでは実際神武のヤマト建国、といっても、
ただヤマト盆地の南東部の一画にを支配した族長という規模のものだったが、
それがいつかというが、なかなかはっきりしないこと。
紀元前ということはほぼないが、
それ以後いつだったか、おぞらく100年~200年くらいの間だったのではないか。
崇神の崩年干支から考えると、そこら辺りがだと妥当だろう。


207:日本@名無史さん
16/07/10 20:20:49.87 .net
>神武否定説なんて今では当たり前のようになっているが
研究の基本としては、証明されていないものを論拠にしてはイカンってのがあるからな。
実在を証明できないものは、幽霊やUFOと同列の扱いしか受けられないんだよ。
まあ、「今では」じゃなくて「戦後史学では」だがな。

>日本書記の紀年法はすでに明治初期の研究によって
書紀の暦日を信用しうる上限は雄略期、それ以前の暦日は後世の造作。
といっても、暦日が正しいからといって記事も正しいとは限らんけどな。
>崇神の崩年干支から考えると
崇神の時期の暦日は信用の余地がない。

208:日本@名無史さん
16/07/10 22:12:38.89 .net
実在の証明出来ないのに馬鹿なの?
倭の五王以前は実在が証明出来ないから全てノーカン

209:日本@名無史さん
16/07/11 00:18:33.82 .net
これは私見だが
崇神や仲哀の崩年干支は古事記著者が後代の天皇の
年代と調和させるために憶測で決めたんだろう。
実際の年代とは十数年~二十年ぐらいのずれはあるかも
しれないがいい目安になる。
あと5世紀の大王、仁徳・履中・反正・允恭・安康
の実年齢は古事記の年齢から30歳ほど差し引いて
丁度いい。

210:日本@名無史さん
16/07/11 00:39:49.09 .net
物部氏の系図だと、垂仁朝の廷臣の物部十千根がウマシマジから
7世代目、武烈・継体朝の廷臣の物部麁鹿火が14世代目で、
武烈が平郡鮪と麁鹿火の娘影媛を取り合った話がある。
しかし古事記では平郡鮪と揉めたのは顕宗になっている。
武烈の場合だと父仁賢が亡くなったとき10歳ほどだから
影姫に求婚したのは顕宗だと思う。神武の年齢はニギハヤヒ
よりウマシマジに近いとして、神武から垂仁まで7世代、
顕宗・仁賢まで15世代ぐらいとみて間違いないのでは?

211:日本@名無史さん
16/07/11 01:01:10.88 .net
その他、孝昭の皇子、天足彦国押人命を祖とする
和珥氏では、開化天皇の妃姥津媛が孝昭から4世代目、
崇神・垂仁朝の廷臣の彦国葺が5世代目、神功皇后の
とき、押熊皇子の討伐に遣わされた武振熊が7世代目になる。
よく知られているように武内宿禰は孝元から4世代目、
仁徳天皇の皇后磐之媛は武内宿禰の子、葛城襲津彦の娘なので、
履中・反正・允恭の三天皇は孝元から7世代目と言える。
景行の皇后でヤマトタケルの母とされる播磨稲日大郎姫は
孝霊の孫とされていて景行より四世代前になるが、孝霊~景行
までどこか同世代の天皇が親子扱いされてるか、孝霊の孫を
孝霊のひ孫が玄孫ぐらいに改めないと無理ありそう。

212:日本@名無史さん
16/07/11 01:46:44.76 .net
神武天皇が即位したという辛酉の年とは西暦181年だとする
八木荘司の説が意外に正しいかもしれん。本当に神武天皇
が辛酉の年に即位したのかは分からないが、日本書紀では
神武天皇は52歳で即位したことになっているので、西暦181年
当時、神武が52歳だとすると西暦130年生まれということになる。
>>210のように顕宗・仁賢まで15世代だとすると、武烈・継体まで
16世代、安閑・宣化・欽明まで17世代。一見正確そうな5~6世紀
初頭の天皇の誕生年や在位期間でさえ訂正する必要がありそうだが、
継体が485~490年頃生まれ、武烈・安閑・宣化が505~510年頃
生まれ、欽明とその皇后石姫が520年代生まれで大体辻褄が合うのでは?
中世の天皇同様、17世代370~400年ぐらいじゅうぶんありうる。

213:日本@名無史さん
16/07/11 07:38:45.25 .net
>>189 
WiLL 5月26日(木)
神武東征の地政学
URLリンク(zasshi.news.yahoo.co.jp)

214:日本@名無史さん
16/07/11 17:22:00.19 .net
>>212(続き)
当時50歳を超えて生きるのは長生きなほうで
神武の二男の神八井耳命と三男の綏靖が、神武が52歳
以降の子どもなのか疑問ではある。綏靖が皇太子にな
った年齢は14歳なので神武の在位年数は76-60=16年はあった
と思われるが、当時の平均寿命を考慮して、神武が即位した
年は181年より十数年繰り上げるほうが妥当かもしれない。

215:日本@名無史さん
16/07/21 14:07:42.35 .net
男王が王位に着いたが相争うこと暦年。
神武?
金印:57年にもらったころは、100国か30国。
それから150年後だ。

216:日本@名無史さん
16/07/21 14:10:31.74 .net
>>188
天足彦国押人命 が怪しいよね。
東大寺山古墳出土の象嵌鉄剣をあまり指摘されないのは何故だろうな。

217:日本@名無史さん
16/07/21 14:22:12.55 .net
金象嵌の中平年銘鉄刀
中平(後漢末、霊帝治世の西暦184年から189年)
後漢が成立してすぐに使いを送っているらしい。
魏が成立したときもすぐに送っている。

218:longinus_bouz
16/07/21 15:08:41.71 .net
>神武天皇即位年について その3
>>1 > 日本書紀編纂時の原理は紀元前660年です//
■■は日本が一番ニダ、という事なんだと思います。
>>(2スレの)255
スレリンク(history板:255番)
> 那珂通世(1851~1908)曰く
三善清行の革命勘文に引用された緯書により知られる辛酉革命の思想では//
革命勘文というシロモノは、エキセントリックなだけで支離滅裂だと思います、全然計算合わないし。
辛酉である901年に、どうしても改元したいんだ(昌泰 >> 延喜)、なんて飼い主にゴルァされて、
我田引水に及んだだけでしょう。神武即位年なんかどうでもよく、清行が何らかの見識があった訳ではない。
何やら美化される向きもある三善清行ですが、単なる御用学者としか思えません。
>>121 > 紀元前666年が正解//
  チャンスタイム中に引き戻す事は滅多にありません。

219:longinus_bouz
16/07/21 18:57:29.87 .net
>>43
> 邪馬台国の四等官は卑弥呼の時代と思われますが、その首席伊支馬は卑弥呼没後に即位した男王で//
であるならば、魏志倭人伝にその様に記載されると思います。卑弥呼トヨたん間の男王は、彼女たちの親戚だと思う。
あるいは、トヨたんの実父が卑弥呼没後の男王なのかも知れません。
復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定
このクダリは、卑弥呼の養女だったトヨたんを王とした、と解するのが一般的ですが、どうでしょうかねえ。
宗女というのは宗家の娘、とでも解する方がよいのでは。とすれば、父ないしは祖父は一族の長、という事になります。
卑弥呼一族の長が王に立ったが國中不服だった。以降の男系継承が予定されてしまうからだと思います。
卑弥呼というのは単なる呼称で、また、卑弥呼だけでは王とは限らない、と考えてみればどうでしょうか。
卑弥呼一族での卑弥呼というのは、斎宮的な位置にあり、別段、王ではなかったが、
桓霊の間の紛争を経て、斎宮的な卑弥呼が女王として共立された。
トヨたんもまた、魏に遣使した卑弥呼の死を受けて、斎宮的な卑弥呼の立場は引き継いだが、
王には卑弥呼一族の長が立ち、トヨたんは斎宮的な立場のままだった。
しかし男王では復た、國中不服だった。よって、復た斎宮的な卑弥呼を王とした。
宗家の娘で年十三のトヨたんを卑彌呼に立て、復た王に成したら、國中遂定まった。
立と成の二つの動詞があるので、目的語も二つ、斎宮的な卑弥呼と王、という事です。
以降の男系継承予定は取敢えず留保される結果となって妥結したのだと思う。
(続く)

220:longinus_bouz
16/07/21 18:58:46.42 .net
>>219の続き
>>43
> 卑弥呼没後に即位した男王で、開化天皇の可能性があるのでは?//
  いわゆる欠史8代というのは、卑弥呼らを輩出した一族を充てる事が予定されてた様にも思えますが、
結局、前王朝の記録はシカトしちゃってるので、あんまり拘る必要はないと思います。
> 邪馬台国の四等官・・・次席の弥馬升と三席の弥馬獲支はミマの地の名を持つミマキヒメの父大彦命と
ワケを名に持つタケヌナカワワケの可能性があるのでは?//
次官の弥馬升は、ずばりミマキイリヒコ・崇神ではないでしょうか(四字名の弥馬獲支はシックリこない)。
卑弥呼トヨたんの次代の王朝が大和朝廷だとすれば、前王朝についての記載に名前があっても不思議ではない。
というか、新王朝の主がいきなり登場するという方が不自然です。名前の類似も必然だった、という事になります。
本能寺の変の二年ほど前に、織田政権の最高幹部だった佐久間信盛が失脚しています。
その際に折檻状が発給されているのですが、その第3と第4条は、以下の様になります。
URLリンク(ja.wikisource.org)
> 一、丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。然うして、池田勝三郎・・・
一、柴田修理亮、右の働き聞き及び・・・//
二番目の者がその後の政権を得た事は周知かと存じます。
お猿さんは突然涌いて政権を襲った訳ではなく、実績があったがゆえです。
弥馬升(ミマキ・崇神か)の実績は不明ですが、次官という立場から考えて、何かはあったのでしょうね。
魏志倭人伝は正始八年(247)の、トヨたん即位と張政の洛陽送還を以て筆を措いていますので、
その後の王朝交代経緯は分かりませんが、二代続けての入婿といった手続きを経たのではないでしょうか。
> 弥馬升(大彦命)の子トヨ(ミマキヒメ)を共立し//
  トヨたん = ミマキヒメ に異存はありませんが、ミマキ入彦、ではないでしょうか。
記紀に矢鱈と登場するトヨなんとかというキャラは、全てがカモフラージュなのだと思います。

221:日本@名無史さん
16/07/22 00:28:32.02 .net
◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか

日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。

222:日本@名無史さん
16/07/22 13:38:45.83 .net
神武が3世紀としても、それは畿内での話。
卑弥呼は九州だから、直接は記録に残さなくてもよかった。
むしろ、記紀は畿内が長らく政権の中心であったことを捏造するため、卑弥呼を意図的に無視した。

223:日本@名無史さん
16/07/22 18:55:49.82 .net
その時代をきちっと研究してる学者(非アマチュア)の大半がすでに邪馬台国九州説を支持しなくなり、
卑弥呼が九州にいたとは考えないようになったんだがな。

224:日本@名無史さん
16/07/22 21:30:31.38 .net
卑弥呼をアマテラスと見なしてその子孫が3世紀末
~4世紀初めに東征したとなると、神武以降十数人の
天皇がすし詰め状態になる。その場合、欠史八代の天皇は
ほぼ全く実在することが無理で、神武と崇神を同時代の
人物と見なしたほうが自然である。記紀は神武と崇神を
業績も家族構成も異なる別の人物と書いている。
神武と崇神が別人なら女王卑弥呼の国が発展して大和政
権になったという仮定を見直さなければならない。

225:日本@名無史さん
16/07/22 21:46:05.95 .net
崇神の崩御年が258年と318年のどちらに
近いのかという問題が存在するが、
どちらにせよ崇神と神武が別人なら、
神武を卑弥呼と同じ時代かそれより
いくらか前の時代に設定せざるを得ない。
卑弥呼の国は神武の国と無関係か敵対関係かにある
別の国か、もしくは神武が作った王朝の一時期で、
卑弥呼は天皇家の皇女か皇后と見なすかの
どちらかしかない。

226:日本@名無史さん
16/09/19 19:13:41.84 .net
神武天皇はたしかに存在した ―神話と伝承を訪ねて
産経新聞取材班 (著) \1,512
URLリンク(www.amazon.co.jp)

227:日本@名無史さん
16/09/19 19:28:42.58 .net
邪馬台国がどこかなんて、気にしてるやつのほうがおかしい

228:日本@名無史さん
16/09/19 19:46:28.39 .net
古代史好きなら気にするのは普通だと思うぞ
ここしかないと思い込む奴らがおかしいだけだ

229:日本@名無史さん
16/09/19 20:04:13.13 .net
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか

経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

230:日本@名無史さん
16/09/19 22:03:58.84 .net
>>224
逆に、欠史八代を無視すれば、神武が3世紀に、おそらくは卑弥呼の没後の内乱の際に畿内へ逃走したと考えられます。
欠史八代ば他の王朝の伝記をつないだという意見が根強くあります。

231:日本@名無史さん
16/09/19 23:10:14.10 .net
記紀にとって、中国に朝貢してた邪馬台国の時代は消したい歴史だからねぇ
神武と欠史八代を無視すべきで、崇神が畿内に逃げてったんだと思うけど
神武なんて天皇家に捨てられてた天皇だしな

232:日本@名無史さん
16/09/20 18:02:12.67 .net
紀元前660年とか神武年代は北イスラエル王国崩壊後の継承だろ
それを考えると日本は大陸の王族末裔たちの集合体じゃないかと思う

233:日本@名無史さん
16/09/20 18:38:15.94 .net
紀元前660年は、今の歴史学では周の恵王の17年に当たります。
ところが平安時代の三善清行は「革命勘文」で、神武天皇元年は周の僖王の3年に当たり、斉の桓公が初めて覇者になった年だと述べています。
これは紀元前679年で、今の歴史学とは19年もずれています。
斉の桓公は紀元前685年に即位したので、神武東征が7年かかったことと関連があるかもしれません。
桓公の生年は不明ですが、父の僖公は紀元前730年に即位したので、東征開始時に45歳だったこととの関連も考えられます。
享年の127歳は古事記の137歳と同様、古来からの言い伝えだったと思われます。

234:日本@名無史さん
16/09/20 20:02:25.97 .net
神武天皇即位後の記事では、31年の「国見」の記事も斉の桓公を思わせるところがあります。
桓公も即位から35年目、覇者になってから29年目の紀元前651年、葵丘の会盟で得意の絶頂に立ち、泰山で封禅の儀式をしたいと言い出します。
封禅は歴代でも傑出した聖王だけが行える儀式で、さすがに宰相の管仲は猛反対し、桓公はついに諦めました。
このあと神武紀は42年に太子を決めた記事と76年の崩御記事だけですが、42年はほぼ桓公の在位期間に等しく、死後の状況も似たところがあります。
もちろん神武天皇の全てが桓公のコピーではなく、遥か後世に実在した人物の記憶だろうと思いますが・・
ちなみに桓公の名が「小白」というのも、太伯伝説を思い出させて面白いです(^^)

235:日本@名無史さん
16/09/20 21:42:57.31 .net
即位以後の具体的な治績がないから漢籍からいろんな記事を寄せ集めて継ぎはぎしただけだろ

236:日本@名無史さん
16/09/20 22:34:31.69 .net
封禅について調べてみましたが、始皇帝・武帝・光武帝はいずれも即位からおよそ三十年で封禅の儀式をしています。始皇帝は秦王時代から数えますが。
始皇帝以前に最後に封禅を行なったのは周の成王ですが、斉の桓公を諫める管仲の発言に出てくるだけで、始皇帝の時代には昔の知識は失われていたようです。

237:日本@名無史さん
16/09/20 23:58:56.36 .net
斉の桓公と神武天皇の類似点?
桓公の父、僖公は前730年に斉の君主に即位しているので
桓公は前685年に即位したとき45歳の可能性がある?
(87歳も生きたとなるとかなり長生きだ。)
斉の桓公が諸侯たちと会盟した年が紀元前667年で
これが日本書紀だと神武が東征を開始した年になる。
桓公は42年在位し晩年に公子昭(孝公)を次の斉君にすると決めた。
神武も在位42年目に神渟名川耳命(綏靖天皇)を後継者に決めた。
神武にも斉の桓公と同様に後継者問題があり、家臣の全員が全員、
神渟名川耳命を支持したとは思われない。吾田から一緒に来た家臣
たちの多くは手研耳命を支持したのではなかろうか?
なお
宰相管仲の死(前645年)から無詭暗殺・孝公即位、
桓公の葬儀(前642年)までの期間に60年を足すと
神武天皇崩御(前585年)から手研耳命暗殺(前582年)までの期間になる。

238:日本@名無史さん
16/09/21 00:21:59.67 .net
中国の史書の「論衡」に
「周の時、天下太平、倭人来たりて暢草を献ず」
とあるので、日本書紀編纂者は日本の歴史を倭の歴史
と見なし、はじめ神武天皇即位を周代の成王の時代の
出来事にしようと考えた。が、やっぱり無理と思ったんだろうか、
紀元前660年の即位に変更した。前660年は周の成王より四百年
は後の楚の成王の時代である。

239:日本@名無史さん
16/09/21 08:42:43.63 .net
三善清行の革命勘文は西暦901年に書かれたが、それより90年古い811年の「歴運記」でも神武天皇元年=周の僖王三年としていて、清行だけの間違いでは無いようだ。
宋史日本伝に引かれる「王年代紀」(984年に宋に渡った日本僧が太宗に献上)では神武天皇即位は甲寅で周の僖王の時代とする。
そもそも前漢の武帝以前は干支で日を表しても年を表すことはなく、ナントカ王の何年としか書いてないので間違いやすい。
鎌倉時代の「愚管抄」では神武天皇元年について僖王三年説と恵王十七年説を併記。
「神皇正統記」でようやく恵王十七年に確定した。
日本書紀の編者も正しく対照できていなかったかもしれない。

240:日本@名無史さん
16/09/22 12:55:41.20 .net
>>237
>87歳まで生きたとなるとかなり長生きだ
そうですね。日本書紀は神武天皇が15歳で立太子したと書いていますが、これに従って紀元前715年ごろに生まれたとするほうが合理的です。
神武天皇42年に神渟名河耳命を太子とした記事の「42年」が桓公の在位年数に近いことから見て、日本書紀の編者は「太子から太子まで」を桓公の生涯に相当する期間とし、これを前後にふくらませて「127歳」という伝承に合わせたのではないでしょうか。

241:日本@名無史さん
16/09/22 13:34:41.71 .net
>>237
>>238
日本書紀の編者が日本の天皇と中国の王の年代を正しく比べていたと考えておられますが、どうでしょうか。正しい知識が平安時代の初期には失われ、鎌倉時代に復活したということでしょうか。
私は一度疑ってみる必要があると思います。

242:日本@名無史さん
16/09/23 13:33:59.86 .net
神武天皇4年の鳥見山の祭祀と、31年の腋上丘の国見の記事は封禅の儀式が意識されていると思われる。
鳥見山は泰山の封(天)国見山は梁父山の禅(地)に当たる。
ただ、封と禅が27年も離れているのは謎。

243:日本@名無史さん
16/09/25 18:53:01.96 .net
封と禅の差27年は、即位3年後と30年後ではなかろうか。

244:日本@名無史さん
16/10/12 09:29:50.69 .net
神武=カムヤマトイハレビコ
綏靖=カムヌナカハミミ
この二人は諡号が「神」から始まるので追尊だと思われる。
司馬炎が晋王朝を建てたとき、父の司馬昭と祖父の司馬懿も皇帝にされたようなこと。
実質的な初代は安寧天皇で1世紀の後半。
二代目の懿徳天皇=倭国王帥升。

245:日本@名無史さん
16/10/12 11:44:49.35 .net
綏靖がシキ県主の妹と結婚して、安寧の名がシキツヒコということから
天皇氏がシキ氏から国を引き継いだ(奪った?)のが真相のように思える。

246:日本@名無史さん
16/10/12 18:34:08.91 .net
オレ的予想では、当時の奈良盆地周辺で最大級の勢力があった二大巨頭の根拠地たるオオヤマトとイワレをはじめて統合して奈良盆地を制圧したのが神武だと思う
名前にヤマトとイワレがはいっている理由がそれ、という妄想だ。
つまり日向の地とは無関係だったって想定。

247:日本@名無史さん
16/10/13 07:36:51.27 .net
「カムヤマトイハレビコ」と「カムヌナカハミミ」の「カム」は、元は「カモ」だったんじゃないの?
神武と綏靖は鴨王への入り婿、安寧は磯城県主への入り婿とか。
神武は名前にも物語にも複数の要素が入り込んでいる気がする。

248:日本@名無史さん
16/10/13 09:42:01.33 .net
日本書紀には、懿徳天皇の母はヌナソコナカツヒメと言い、鴨王の娘だと書いてあるので
「カモ」と「ヌナ」は関係ありそうだ。まさか新潟のヌナ川じゃないよね(^^)
磯城(石の城)と磐余(石寸)は同意という話もある。
神武の和名は綏靖、安寧、懿徳の名を組み合わせたようにも見える。

249:日本@名無史さん
16/10/13 10:39:25.48 .net
綏靖=カモのヌナカハミミと安寧=シキのヒコタマテミの婿入りが、神武伝承に取り入れられた?
日本書紀はカモの事代主、古事記はシキの大物主の話になっている。

250:日本@名無史さん
16/10/13 16:25:28.07 .net
日本史板きってのトンデモスレ。

251:日本@名無史さん
16/10/13 20:57:15.71 .net
安寧のシキは大和でなく河内っぽい。
神武の和名は「カムヤマト」を削って「イハレのヒコホホデミ」が本来の形と思われる。

252:日本@名無史さん
16/10/14 07:43:11.27 .net
日本書紀第二巻の末尾、一書第二と第三には「神日本磐余彦火火出見尊」
第四には「磐余彦火火出見尊」とある。
「神日本」は後世に付加されたと思われる。

253:日本@名無史さん
16/10/14 08:06:18.41 .net
一方、懿徳天皇の名「オホヤマトヒコスキトモ」には余分な部分がなく、ここで初めてヤマトを名乗ったようだ。
倭面土国王帥升かもしれない。

254:日本@名無史さん
16/10/14 13:01:22.97 .net
ホホデミは称号。
本名はイワレビコ。

255:日本@名無史さん
16/10/14 13:43:26.01 .net
磐余彥、本名じゃないような、坂東太郎みたいなのでしょう?

256:日本@名無史さん
16/10/14 14:22:14.57 .net
日本書紀 巻第三冒頭「神日本磐余彦天皇 諱彦火火出見」
本名はヒコホホデミ。

257:日本@名無史さん
16/10/14 14:55:57.65 .net
綏靖天皇の名前の「ヌナ」は沼より海の意味かもしれない。
崇神天皇の妃「尾張大海媛」がヌナキイリヒメを産んでいたり
天武天皇「大海人」の和風諡号にヌナが入っていたりする。
大海原、海坂など海をウナと読む例もある。
大阪湾は古くはチヌ(血沼、茅渟)の海と呼ばれた。

258:日本@名無史さん
16/10/14 19:57:49.16 .net
神渟名川耳=漢倭奴国王だった(^^)

259:日本@名無史さん
16/10/14 21:35:30.40 .net
綏靖天皇は南北朝時代の書物で「人を食っていた」と書かれたり、不可解な天皇ではある。
名前も初期の天皇の中では変わっている。「彦」を含まない天皇は応神までいない。
奴国王はさすがに無いと思う。

260:日本@名無史さん
16/10/14 22:04:14.47 .net
当時はヒコという語が王に相当する倭語だったと思うんだ
ヒコを名前に含まないということは、王と認めてもらえてなかったって意味だろう

261:日本@名無史さん
16/10/14 22:25:02.89 .net
「ヒコ」が王を意味するか。
そういえば、第四代懿徳天皇の兄もオキソミミでヒコが付かないね。
なぜ彼は天皇になれなかったのか?父安寧天皇より先に早死にしたので、
弟が彼の娘アマトヨツヒメを引き取った?
日本書紀の天皇の在位年数を見ると綏靖天皇は孫息子が、
安寧天皇は孫娘が生れるまで生きていたことになるので、
古事記が四十歳代と記してるのは合ってるんだろうな。

262:日本@名無史さん
16/10/14 22:42:25.14 .net
カムヌナカワミミってカムは父親の神武から取ったんだろうけど
ミミはタギシミミやカムヤイミミと同じ兄弟ということ。
これは安康天皇の「穴穂」や継体天皇の「男大迹」、崇峻天皇の
「泊瀬部」と同じで諱をそのまま天皇の和風諡号にしてしまった
ってことだよな?

263:日本@名無史さん
16/10/14 22:50:58.12 .net
>>261
年齢は全員が「上げ底」だろ
最低でも半分以下に減らさないと、
あり得ないレベルの不自然な長寿が多数を占めてしまう

264:日本@名無史さん
16/10/15 00:40:41.82 .net
>>263
綏靖・安寧・懿徳の三代の天皇は、日本書紀なら
84歳、67歳、77歳だからちょっと長生きかな
と思う年齢設定だけど、古事記ならそれぞれ
45歳、49歳、45歳だから異常とは思えないよ。
全員が百歳以上の長寿じゃないのになぜかスルーする奴らがいるんだ。
日本書紀では懿徳は綏靖29年の誕生(祖父綏靖80歳のとき)、
天豊津媛が孝昭を生むのは懿徳5年(祖父安寧の死後5年目)
だから、孫が生まれるまで生きた天皇がいたってことだね。
当時の結婚年齢なら35~38歳ぐらいで嫡孫が生れたことだろう。

265:日本@名無史さん
16/10/15 01:20:46.51 .net
史実かどうかはともかく日本書紀の立場としては
神武・綏靖・安寧・懿徳の四代は事代主神系の妻を娶り、
その血を引く男子を跡継ぎにしたということにしなけ
れば困るんだろう。

266:日本@名無史さん
16/10/15 19:01:19.59 .net
漢倭奴国王はともかく、なぜ神渟名川耳の名前に越のヌナ川が入っているのか分からん。
大彦命の子の武渟川別は越に行ったかもしれないが、神渟名川耳とは何の関係も無さそうだが。

267:日本@名無史さん
16/10/15 20:09:49.95 .net
古事記では神八井耳の兄で日子八井耳という人物がいるが、何の行動もしていない。
神八井耳の別名のように思われる。

268:日本@名無史さん
16/10/15 20:42:30.61 .net
>>266
たとえばさ、ヤマトと無関係の、ヌナ川周辺の地方豪族の祖先を、
なんらかの経緯でヤマト朝廷関係者に組み入れる必要が出て、
系図を差し替えたとかな

269:日本@名無史さん
16/10/15 22:42:51.67 .net
>>268
なるほど。河内も治水は大変だから、「川耳」はそのままかもしれんな。
仁徳天皇(讃)が思い出される。

270:日本@名無史さん
16/10/15 23:36:45.21 .net
ヌナ川って新潟県の糸魚川のこと?
古事記でオオクニヌシが越の国の
ヌナカワヒメを娶った話と何か関係あるのか?
古事記で安寧天皇の妃の名前がイトイヒメというのも
それと関係がある??出雲神話のオオクニヌシには越をも
大和をも支配できるだけの権力があったということか。

271:日本@名無史さん
16/10/16 07:52:24.73 .net
>>270
糸魚川は市名で、川の名は今は「姫川」。氾濫が多い川なので「厭い川」が別名になった。
古代からヒスイの産地でヌナ川は「宝石の川」の意味。
古事記で安寧の后はアクトヒメ。イトイヒメは日本書紀の一書。

272:日本@名無史さん
16/10/17 07:22:24.25 .net
綏靖=神渟名川耳=漢倭奴国王は有り得る。
懿徳=オホヤマトヒコスキトモ=倭面土国王帥升(等)
孝昭、孝安でオホヤマト中断=桓帝、霊帝の倭国大乱
孝霊、孝元でオホヤマト復活=邪馬台国女王卑弥呼
開化=ワカヤマト=邪馬台国女王台与
こんな感じ。

273:日本@名無史さん
16/10/17 08:48:10.93 .net
越の国といっても広くって、後の越前から越後まで、福井県から新潟県までの範囲ですよ。

274:日本@名無史さん
16/10/17 11:44:36.99 .net
神武~今上まで72世代の天皇系図に一番合いそうな
「辛酉」の年は61年で、綏靖が即位した「庚辰」の
年は80年になる。二十数年ほどのズレを考慮して
綏靖=漢倭奴国王はありえるかもしれない。
しかし建国を紀元1世紀として他の豪族たちの系図
と矛盾が出てこないかな?俺は神武~応神まで
何人か同世代の天皇がいて、建国は紀元2世紀半ば
だと思う。

275:日本@名無史さん
16/10/17 12:41:42.76 .net
稲荷山鉄剣の「辛亥年」が471年として、那珂通世の一世28年を用いて七世前のオホヒコの年代を推定すると275年。
これが崇神天皇の時代とすると、まあ穏当な数字といえる。
三世前の孝霊天皇は191年で、倭国大乱が終わったころ。
六世前の懿徳天皇は107年、綏靖天皇は51年となる。
他の豪族の問題はあるが、天皇の世代は記と紀で一致していて難しいところ。

276:日本@名無史さん
16/10/18 10:53:10.94 .net
物部氏をはじめ諸豪族の系譜から見ると、神武から崇神までは6~7世代になるようだ。
やはり神武は2世紀で、委奴国と帥升は九州と見るのが妥当かもしれない。

277:日本@名無史さん
16/10/18 13:26:52.59 .net
むしろ、神武と帥升が同時代じゃないのか。
同一人かどうかは分からないが。

278:日本@名無史さん
16/10/18 16:35:52.35 .net
神武の「神日本(カムヤマト)」は「漢委面土」だった?

279:日本@名無史さん
16/10/18 22:14:44.80 .net
結局、神武は筑紫にいられなくなった半端者。

280:日本@名無史さん
16/10/19 08:27:30.79 .net
神武=帥升(等)の場合、磐余彦と同意の磯城彦を名乗ったと思われ。
あるいは磯城人、磯城友かもしれない。

281:日本@名無史さん
16/10/19 15:14:11.68 .net
綏靖の名「神渟名川耳」は本来、神武の父か兄か、東征前の神武の名ではなかったか。
日向の美々津(耳川の河口)付近に漢委奴国があったのかもしれない。
なぜ神武の子の名前になったのかは分からない。
畿内にも川があり、委面土が委奴から続く国だという意味かもしれない。

282:日本@名無史さん
16/10/20 03:32:18.93 .net
いまひとつ考えられるのは、「神渟名川耳」は「手研耳」の本来の名前だったということである。
熊襲がヤマトタケルに討たれる前に名前をたてまつったという伝説も思い出される。
実際、古事記では神沼河耳はタギシミミを討ったから「建沼河耳」ともいうと書かれている。
タギシミミなら耳川に因む名前を持っていてもおかしくない。

283:日本@名無史さん
16/10/20 11:17:27.10 .net
南九州(倭国の極南界)にあった倭奴国の東遷が神武東遷ではないか。
金印の委奴国は重なるかもしれないが、一応別と考える。
金印が志賀島で出土したため、倭奴国は滅びたという印象が定着してしまったが、
後代の中国史書では「日本は倭奴国から始まった」という認識が普通であった。

284:日本@名無史さん
16/10/21 09:26:03.59 .net
「帥升」は正しくは「師升」で、神武が名乗った中国名と思われる。
「師」は磯城(師木)のシ、「升」は容量の単位だが上昇や豊作も意味する。
仁徳天皇が「倭讃」と名乗ったのに似ている。

285:日本@名無史さん
16/10/21 12:02:15.26 .net
「倭面土国」については、古事記の国生みの記事が連想される。
九州と四国は身は一つで面が四つあるという、面白い記事である。
古代日本では島を人体にたとえる思想があり、「倭面土国」にもその思想が反映されている?
とすれば「倭面土国」は倭人の誇り高い自称であったことになる。
しかし、この文字を見た中国人は倭人の入れ墨の風習と結びつけて軽蔑したかもしれない。

286:日本@名無史さん
16/10/21 12:16:17.35 .net
全くの想像であるが、「漢委奴国王」の金印を志賀島に投げ捨てたのは神武=師升だったかもしれない。
「奴」の意味を彼は知っていたからである。

287:日本@名無史さん
16/10/21 12:57:29.17 .net
投げ捨ててなどいない。
大石の下から出土した。
帥升の帥は筑紫の支配者の意味がある。
太宰の帥としても知られる。
帥の制度は明治初期まで続く。

288:日本@名無史さん
17/04/23 18:17:16.15 .net
>>257
>綏靖天皇の名前の「ヌナ」は沼より海の意味かも・・・・・・・・・・・
苦しいな。定説通り「沼河」=瓊玉の採れる河=とすると、「ヌナカワ」の
人名を持つ古史書に記された人物は、以下の3名。
     沼河比売(ヌナカワヒメ)---------------------------------越頸城地方の女酋     
     神渟名川耳>>266神沼河耳(カムヌナカワミミ)--------------綏靖天皇(母伊須気余理比売)
     武渟川別>>266建沼河別(タケヌナカワワケ)----------------越遠征四道将軍大彦子息
兄弟の名である日子八井・神八井耳・手研耳と比べても地名と思え、
伊須気余理比売の在地(神沼河耳生育地)の大和南部にも、当時は玉の採れる
河が在ったのか?

289:日本@名無史さん
17/07/10 03:51:26.82 .net
これは楽しみだ。
神谷さん頑張って。
神武天皇の年齢研究‐出版予告
URLリンク(www7a.biglobe.ne.jp)

290:日本@名無史さん
17/07/26 08:52:27.10 .net
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆

291:日本@名無史さん
17/07/26 08:54:07.07 .net
物部・中臣・鴨・三上祝など各系図との比較で
神武天皇から崇神天皇まで6世代と推定される。
妃が複数人いる孝霊天皇が初代の大王だとすると
孝霊は3世紀後期の人物なんだろうから、本田利明が
1798年頃に日本は建国から1500年しか経っていないと
指摘したのは正しい。ただ神武天皇即位から~とい
うのはどうだろうか。390年頃即位の応神天皇まで100年
間に15人の大王が短期に交替するというのは不自然。
神武の頃の天皇家の主は九州から大和に移住したというだけで
まだ大王の地位になかったのだろう。孝霊から見て高祖父の世代
の神武は西暦200年頃の人物。辛酉の年に即位した(即位自体が
嘘の可能性が高いが)とすれば西暦181年が一番近い。
第2代綏靖天皇は大和で生まれたのならこの辺りの誕生になる。
神武も綏靖も西暦1世紀の人物とは思えない。

292:日本@名無史さん
17/09/15 20:42:44.05 .net
ヌナカワミミ⇒ナカトミだよ

293:日本@名無史さん
17/09/15 22:32:23.62 .net
>>291
神武天皇は複数の方の投影。
皇統譜のいわゆる神武から始まる欠史8代は実際には概ね大倭国初代大王の天村雲命/建位起命に始まる大王家(海部氏)の系譜。
その御輿を(仕方なく)担いだのが、葛城の出雲族(出雲帝国の分家。高鴨家、登美家。併せて鴨(神/カモ)族と呼ばれた)ら。

途中、ニギハヤヒを形代にした九州物部王家の一派が大倭国(畿内)に侵攻して、
葛城の出雲族(鴨族)の内応(裏切り)を得て天村雲命流の王家を放遂。
いわゆる第8代孝霊天皇が大倭国を維持出来ずに逐われて吉備国を建てた云々。
葛城の鴨族が新たな御輿に大王家が物部氏(ウマシマジ~)を担ぎ、代を重ねて飼い慣らしに成功しつつ有ったも束の間
今度は、本家本命の九州物部王家が畿内を窺い、侵攻を開始。
いわゆる崇神はその準備中に宮崎の都万で死去。
遺児の三兄弟が実際には出師。
瀬戸内海は敵の勢力圏内の為、豊予海峡~日向灘を南下して土佐沖合いを迂回して紀ノ川(吉野川)河口から侵攻開始、、、待ち構えていた大倭国勢に迎撃されて
兄の1人が負傷~死亡。押し返され紀伊半島を南下迂回して熊野に上陸、侵攻開始、、、すぐに高倉下命の子孫らに迎撃され、執拗なゲリラ戦を仕掛けられてまさに進退窮まる。
その際にもう1人の兄も死去。(彼を祀ったのが熊野本宮(砂州に鎮座(元地))の始まり)

294:日本@名無史さん
17/09/19 02:42:09.74 .net
>>279
三輪神社山頂近くの高宮神社 日向御子が祭神
あの神社はいつからあそこにあるんだろうね 

295:日本@名無史さん
18/01/02 22:46:45.62 .net
>>251
片塩浮孔宮(現.奈良県橿原市四条町)に宮処を置いたとされる
第3代安寧天皇(磯城津彦玉手看)の和名シキは、
通説の大和国磯城郡でなく
志紀県主神社の坐す河内国志紀郡(現大阪府藤井寺市.)とされる
理由は、何なのですか?

296:日本@名無史さん
18/01/03 00:45:46.75 .net
>>279
神武東遷時の河内上陸戦での五瀬命負傷の地碑が、
近鉄石切駅から1Kmほど北へいったところ、日下の集落からの
「日下直越の道」の路傍にあるらしいね。
ログ 1999/10/14
URLリンク(kamnavi.jp)

297:日本@名無史さん
18/01/03 17:41:18.54 .net
明治や大正あたりのヒトが想像で場所を決めて建てただけの信憑性のない石碑だろうがな

298:日本@名無史さん
18/01/21 11:10:11.54 .net
綏靖、安寧、懿徳は後漢の皇帝たちに因む名前らしい。
「綏」は105年から121年まで摂政だったトウ太后・綏
「安」は121年から125年まで親政をした安帝
「懿」は125年に数ヵ月だけ在位した少帝・懿
孝昭・孝安・孝霊・孝元天皇も音読すると
孝順・孝桓・孝霊・孝献皇帝にそっくり。

299:日本@名無史さん
18/01/21 11:18:18.26 .net
>>298
たしかに、そう思いました

300:日本@名無史さん
18/01/21 12:18:09.88 .net
>>298
それ、名前の付け方が諡号の基礎ルールのままだった時代の命名だからでしょ
業績によって先代を評価して命名するのが隋代まで当時の諡号。まあ漢字一文字だけだけど。
で、尊称として(?)上にもう一文字、「孝」をつける。
それだけじゃん

問題は。そのルールにおいて、あまり良くない評価で用いられる文字まで混じってることだよな。
業績の記録がないのに評価が悪いって、何か原因があったのかな?

301:日本@名無史さん
18/01/21 15:08:43.52 .net
>>300
中国人と違って、日本人にとって「霊」は悪い文字ではなかったように思える。
古事記では欠史八代で唯一、孝霊天皇の吉備平定が語られ、桃太郎伝説と繋がる。後漢の霊帝は悪い君主だが、同時代と思われる孝霊天皇は重要視されている。

302:日本@名無史さん
18/01/21 17:45:11.01 .net
中国の諡号ルールは後漢の独自ルールじゃなくて殷周時代からずっと使われてる(てた)伝統的な規則だ
それを輸入したのであれば意味を変更してるはずはない
霊帝だけじゃなく霊王、霊公などの名前も調べてみるべきだよ

303:日本@名無史さん
18/01/21 19:04:41.30 .net
後漢の霊帝では黄巾の乱が起こり、それと重なる孝霊天皇の時代には吉備の乱の平定が古事記に記され、これが中国では倭国の乱と呼ばれた。
国が乱れたのは同じこと。事情はそれぞれ違うが。

304:日本@名無史さん
18/01/21 20:55:11.33 .net
後漢書や梁書では霊帝の時代に倭国が乱れたとあるので、孝霊天皇と孝霊皇帝(霊帝)が同時期の可能性はある。
偶然か意図的かはともかく、トウ太后綏・安帝・少帝懿と綏靖・安寧・懿徳(実在すれば)は時期が近そうに思う。綏靖と107年の帥升も気になる。

305:日本@名無史さん
18/01/21 21:12:58.63 .net
歴代王朝で謚号の濫用が多いのは中国後魏と日本だけ!

306:日本@名無史さん
18/01/21 22:57:26.17 .net
北魏の諡号はたしかに変だけど、唐の諡号の無茶苦茶さに比べたら可愛いものだ
あまりにも長すぎる諡号をマトモに呼べないから略称ないし宗廟名で呼ぶぐらいに。

307:日本@名無史さん
18/01/22 17:10:12.90 .net
>>1
何に即位すんだよ? 土人の酋長かい? 日本史デビューてか、
新生日本の神の一角に祀りあげられたのなら700年とかだろw

308:日本@名無史さん
18/01/30 16:06:09.75 .net
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
I9C7E

309:日本@名無史さん
18/05/03 13:04:51.49 .net
>>189 >>213
月刊WiLL:2018年6月号
URLリンク(web-wac.co.jp)
もはや神話と言わせない!
■新保祐司×長浜浩明
神武東征は史実だった(承前)

310:日本@名無史さん
18/05/04 00:48:32.62 .net
>>298
綏靖、安寧、懿徳、それと孝霊は
後漢の皇帝たちに因むというのは確実みたいだね
これは淡海三船の推測に基づく歴史解釈というこ
とでいいんだろうか。
光武帝から霊帝までちょうど七世代なので
神武天皇の「武」も単に神の武威でもって建国した
という意味だけでなく光武帝の頃の人物だという
淡海三船の残した暗号かな。

311:日本@名無史さん
18/05/04 00:52:03.58 .net
倭の五王に比定される大王たちから見て皇室系図に
よく調和する神武天皇の即位は四百年前の西暦1世紀
の出来事なんだろうねえ。。。
ただ、本当に17世代も父子継承がほぼ順調だったのか、
すなわち天皇の系図は他の有力豪族の系図より4、5世
代ほど長めで、第17代履中天皇より前にも同世代の天皇
が何人か混じっているのではないかという疑問は残るんだよな。

312:日本@名無史さん
18/05/04 01:35:19.87 .net
干支と皇室系図の世代数は正しいと仮定すると
神武天皇の生没年と在位期間は
生没年:日本書紀…前711(庚午)~前585(丙子) 127歳
     修正後→後10(庚午)~後76(丙子) 67歳
在位期間:日本書紀…前660(辛酉)~前585(丙子) 76年
 修正後→後61(辛酉)~後76(丙子)  16年
綏靖天皇は神武76年に父が亡くなったとき48歳だったとされるので、
神武42年に皇太子になったときは14歳だったことになる。
実際には神武天皇が即位の前年に皇后に迎えた媛蹈鞴五十鈴媛命との間に
即位の元年に神八井耳命を、三年に神渟名川耳命を儲けたとすると、
神武は在位16年目のちょうど亡くなった年に14歳になった神渟名川
耳命を後継者に指名したことになる。神武崩御の後に本当に3年間空
位があったのかとても気になる。神武天皇の在位期間が西暦1世紀の
ことであれば、第10代崇神天皇は卑弥呼や台与より少し後ぐらいに現
れた天皇になるだろうか。

313:日本@名無史さん
18/05/05 21:19:21.89 .net
>>310
光武帝じゃなく魏武帝の時代だろ、二百年ほど違うと思う

314:日本@名無史さん
18/05/11 03:24:12.54 .net
古事記の成立が西暦712年で第43代元明天皇のとき、
日本書紀の成立が西暦720年で第44代元正天皇のとき。
では、この女帝から42、3代前の天皇は実際には何百年前の
天皇なのか推定してみようと、後代の天皇について43人が
即位したら何百年になるかを調べると
例えば
第33代推古天皇(593年即位)~第75代崇徳天皇(1123年践祚、1164年崩)…21世代530年(~571年)間
第50代桓武天皇(781年践祚)~第92代伏見天皇(1287年践祚、1317年崩)…21世代506年(~537年)間
第53代淳和天皇(823年践祚、840年崩)~第95代花園天皇(1308年践祚、1348年崩)…21世代485年(~525年)間
第58代光孝天皇(884年践祚)~第100代後小松天皇(1392年即位、1433年崩)…23世代508年(~549年)間
中世であれば天皇が43人即位しても大抵500年ぐらいで600年を超えることはまずない。
ここでは神武天皇は東征を開始したとき、既に長男を従軍させたので、
左側にできるだけ40歳かそれ以上で即位した天皇を持ってきた。
それ未満の場合は長男が成年に達するようにプラス何十年とか補正する。
右側の天皇には院政期の幼少の天皇が現れるかもしれないが、元明天皇や
元正天皇と同じ年齢になるようにプラス25年とか40年とかして補正すれば、
古代の天皇の在位年数を復元できるのではないだろうか。

315:日本@名無史さん
18/05/11 03:29:32.57 .net
しかし、後花園天皇以降を含めるとだんだん600年を軽く超えてくる。
第67代三条天皇(1011年践祚)~第109代明正天皇(1629年践祚、1696年崩)…27世代618年(~685年)
第77代後白河天皇(1155年践祚、1192年崩)~第119代光格天皇(1779年践祚、1840年崩)…25世代624年(~685年)
今上天皇の42代前は第83代土御門天皇(この天皇から29世代目)で、今から800年も前の人物だ。
で、神武天皇から元明天皇までは記紀では26世代だけど、もし十数代目までの天皇に
同世代間の皇位継承があった場合、実際には何世代になるのかが問題だね。

316:315
18/05/11 03:42:54.26 .net
間違った。
>今上天皇の42代前は第83代土御門天皇(この天皇から29世代目)で
28世代目だね。
聖武天皇や桓武天皇も神武天皇から28世代目ということにはなってる。

317:日本@名無史さん
18/05/11 12:10:49.22 .net
幼帝の即位が可能になった文武以後で(それか、平安中期か)一代あたりの在位期間が変わってると思うのだが

318:日本@名無史さん
18/05/11 23:10:44.97 .net
応神天皇や清寧天皇、武烈天皇、欽明天皇とかが
即位当時十代ぐらいだったって見解もあるけどね

319:日本@名無史さん
18/05/11 23:21:46.59 .net
欠史八代の天皇でも即位当時文武天皇と同じ15歳ぐらいで
亡くなった時も20代とか30代ぐらいだったって人物もいたんじゃないの?
古事記では神武天皇が亡くなった後で長男の手研耳命が
未亡人になった媛蹈鞴五十鈴媛命を妻に娶ったという話がある。
彼女産んだ綏靖天皇らが13、4歳ぐらいでも長兄タギシミミの暗殺は
可能だし、ヒメタタライスズヒメも十代そこらの子どもがいる
三十代の未亡人だったから再婚が可能だったと考えることもできる。
幼帝が即位可能になったのは文武と平安期以降に限るとは言い切れないね。

320:日本@名無史さん
18/05/11 23:31:07.12 .net
だいたい神武天皇から奈良時代の天皇までその通り
男系継承がうまく続いていたのかさえ疑わしいんだけどな。
ただ43人の天皇が続いたというだけだ。
中国のように幼少の天皇が即位した後で外戚や有力豪族
が力を増して皇位簒奪したケースもあったかもしれんぞ。

321:日本@名無史さん
18/05/12 00:27:49.94 .net
成人して即位した天皇が多かったであろう
5~7世紀でも天皇がしょっちゅう入れ替わってる。
第17代履中天皇(5世紀のいつ即位したか不詳)
~第29代欽明天皇(539年即位)まで5世代なのに13人も
天皇が即位している。欽明天皇が亡くなった後は皇女の
推古天皇が即位するまで22年間の間に3人も天皇が替わった。

322:314
18/05/12 01:44:12.90 .net
>>317さんの指摘が気になったので…
第26代継体天皇(507年即位)~第38代天智天皇(671年崩)…6世代165年間
あたりを基準として過去に遡ってみよう。この間の欽明、推古の2天皇は
在位期間がかなり長い天皇だが、継体は普通、敏達、舒明の2天皇はまあまあ、
その他は10年未満の天皇だ。過去の天皇も13人につき2人ほどは在位33年の天皇で、
1人は25年、2人は13年ぐらい、その他8人は6年ぐらいだったと考えると
ちょうどいいかな?
仲哀~武烈の間は神功皇后の摂政期間も加えて13代=165年とすると
第14代仲哀天皇(342年即位)~第25代武烈天皇(506年崩)…7世代
第1代神武天皇(177年即位)~第13代成務天皇(341年崩)…7~8世代?
神武天皇の即位元年は177年頃ではないだろうか。
やはり、奈良時代から南北朝時代の天皇から適当に43人を選んだ場合と
それほど変わらないのでは?

323:314
18/05/12 02:06:31.61 .net
第14代仲哀天皇(342年即位)~第25代武烈天皇(506年崩)…7世代
詳細は
在位期間が33年ぐらい…応神・仁徳
在位期間が25年ぐらい…雄略
在位期間が13年ぐらい…允恭・仁賢
在位期間が6年ぐらい(10年未満)
…仲哀・神功・履中・反正・安康・清寧・顕宗・武烈
となりそうだが、いかが?

324:日本@名無史さん
18/07/12 15:43:23.65 .net
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
N90

325:日本@名無史さん
18/07/27 00:13:05.32 .net
私はこのカラクリの解き方がさっぱり分かりません。
しかし、推定年代は私と30年も40年もはずれていない
ように感じます。
URLリンク(marishi.weblogs.jp)
・西暦1年が偶然にもニニギ暦元年です。神武天皇は
ニニギ暦137年に生れました。古事記の御年137歳は
誕生年を表しています。
・神武天皇は西暦162年に即位し14年間在位したそうです。
神武天皇の王朝は懿徳天皇を最後に西暦195年に途絶え、
諡号に「孝」がつく一族が代わりに即位します。
・卑弥呼が女王に即位したのは196年で、孝昭、孝安
と共治のようです。もちろんヒミコと神功皇后は時代が
合いませんので同一人物ではありません。
・崇神天皇の元年は西暦302年でこの王朝は仲哀天皇が380年に
亡くなるまで続きます。381年が応神天皇の元年で、神功皇后は
架空の人物で全く摂政していません。ただし、三韓征伐に相当す
る出来事はちゃんとありました。
URLリンク(marishi.weblogs.jp)
>日本書記の講義の締め括りの言葉
>「この講義を受けているあなたたち(皇子や貴族の子弟)は、これから国を動かしていく立場にある。
>従って正しい歴史と解読方法を教えたが、前に述べた理由(国威発揚と応神の正当性)から年代や年齢、
>文言など誇張して書かれている。あなたたちが知っていれば良く、国民に事実を知らせる必要はない。
>特に、正しい復元年代の解読方法は、他言無用である。」
>というわけで、いつの間にか正しい解読方法は忘れられ、古事記及び日本書紀に記載された通りの内容が国内に広まった。

326:日本@名無史さん
18/07/28 06:28:35.60 .net
三輪 氏   安曇氏  物部氏    三上氏   忌部氏    紀国造家   久米氏  大伴氏 中臣氏  皇室  
櫛御 方   穂己都久 宇摩志麻治 彦伊賀都   天富        天道根   大久米     道臣 天種子  1神武
健飯 勝   摩幣区利 彦湯支    天夷沙比止 彌麻爾支     伊麻枳利 布理祢     味日 宇佐津臣2綏靖3安寧
健甕 尻   意伎布根 意冨祢    川枯彦     和謌富奴     比古麻   味耳       稚日 御食津臣4懿徳
豊御 食主  小栲梨   出石心大臣 . 坂戸毘古   佐久耳       知名曽   五十真手   大日 伊賀津臣5孝昭6孝安
健飯 賀田巣麻曽杵   大綜麻杵   . 国忍富     阿加佐古   .久志多麻 久米大人  角日 梨津臣  7孝霊8孝元9開化
大 田々根子大栲成吹 伊香色男.  .大加賀美   玉久志古    大名草彦 押志岐毘古 豊日 神耳勝  10崇神
大御 食持  百足足尼 十市根    鳥鳴海    多良斯富   .宇遅比古 七拳脛    武日 大鹿島  11垂仁12景行
大友 主   勝海足尼 胆咋       八倉田    麻豆奴美足尼 等与美々 祢久良支   武以 臣狭山  13成務14仲哀
志多 留   大浜    .五十琴    室毘古    佐岐大人足尼 豊布流   伊与足尼  佐彦 雷大臣  15応神
石床      浜子    .伊呂弗    比賀多    多比古足尼   塩籠    加志古     山前 大小橋  16仁徳

327:日本@名無史さん
18/07/28 06:30:42.39 .net
⑩崇神(310年頃 318年没)
⑨開化
     ⑧孝元
          ⑦孝霊   
トヨ津        ⑥孝安 ⑤孝昭
トヨ津   (250年頃)④懿徳 
ヒメ踏鞴        ③安寧
ヒメ踏鞴        ②綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) ①神武 
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武~孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。

328:日本@名無史さん
18/07/28 06:44:55.39 .net
ヒメ(踏鞴五十鈴)媛は日本書記ではお父さんが事代主神、お兄さんが鴨王と書かれている。
神と王である。
そして夫の神武に先立たれ、義理息子のタギシミミと再婚するが死別。
【年已長大、無夫壻】
この時代の王はヒメ(踏鞴五十鈴)媛のお兄さんで鴨王である天日方奇日方だろう。
彼が食国政申太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)に退き、
ヒメ(踏鞴五十鈴)媛を女王に立てた。
【有男弟佐治國】だ。

329:日本@名無史さん
18/07/28 06:53:10.91 .net
日本書記でなぜ神武東征紀があれほど誇張されてるのか。
答:神武の時代が女王国であったから。

330:日本@名無史さん
18/07/28 07:02:34.39 .net
ではなぜ女王国を猛々しい男王国に変えたのか。
答:ヒミコが誰なのか分ってしまうと、約100年5世代前の倭国王・帥升が誰なのか分ってしまう。
  倭国王・帥升とは、ヒメ(踏鞴五十鈴)媛と神武夫妻から約5世代前、スサノオだ。
  つまり日本の歴史は中華皇帝・安帝への土下座から始まった。
  この【屈辱的史実】を7世紀の朝廷は書けなかった…
  だから基点となる神武時代をBC660年などと大きくずらした。

331:日本@名無史さん
18/07/28 07:11:06.80 .net
朝貢年
266年 台与        天トヨ津媛
 ・
238年 卑弥呼       ヒメ(踏鞴五十鈴)媛
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
107年 倭国王・帥升     スサノオ



後漢書東夷伝の倭国王帥升とはスサノオである。

332:日本@名無史さん
18/07/28 07:35:29.64 .net
7世紀に「天皇・皇后」という称号はなぜできたのか。
答:女王を消すためだ。
  実際は今のイギリスのように「女王・婿」であったが
  新しく「天皇・皇后」を採用し、婿の神武を天皇、女王であったヒメを皇后にした。
  そしてヒメに出雲族の象徴である「踏鞴」と妹と同じ「五十鈴」を付け足した。
  姫蹈鞴五十鈴媛
  ここからヒミコを連想できる人物はなかなかいないであろう、天才のわし以外は。
  

333:日本@名無史さん
18/07/28 08:12:40.60 .net
卑弥呼の墓はどこにあるのか。
答:鴨(神)族の聖地・高天原だ。
  この聖なる地に日本最古の神社があり、
  その境内に径百余歩の塚があり、
  倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
  (リンクできないので画像はなし)
  
   埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。

334:日本@名無史さん
18/08/21 10:41:02.90 .net
【偽装された、ルーツ】 皇室はへブル語を公用し、公文で〝北イスラエル″を公言してる、嘘つきは廃止
スレリンク(liveplus板)
日本人がユダヤ人なわけない、嘘つきの天皇は廃止しろ!

335:日本@名無史さん
18/08/21 20:38:03.83 .net
半万年と1年前です

336:日本@名無史さん
18/08/23 00:45:46.67 .net
継体天皇が武烈天皇の死後、武烈天皇の姉を娶らされ、
天皇に決まったにも関わらず20年間もあちこちに遷宮して
ようやく大和の玉穂宮に入ったという話は日本書紀編纂者
の大嘘です。雄略天皇が亡くなると大和政権は弱体化し各地は
群雄割拠の状態になりました。継体は清寧天皇の元年頃に琵琶湖以北の
王として立ち上がり、清寧+顕宗+仁賢の19年間は大和の大王たち
とは緊張状態にありました。仁賢天皇が死に武烈天皇が即位した
年に大伴金村の手引きで大和を占拠しました。この時に平郡氏が
滅ぼされました。継体天皇と彼の二人の皇子が武烈天皇の姉妹を娶った
のはこの頃です。百済本紀に継体天皇25年(531年)に「日本の天皇・
皇子・皇太子がみな死んだ」と記されたのは、おそらく継体天皇が
武烈天皇の一族を滅ぼしたことを意味しているのかもしれません。
継体天皇の崩御年が534年とも記されているのは皇位を簒奪した継体も
数年後に亡くなったということでしょうか。あるいは継体が大和入りした
年が武烈天皇の元年であれば武烈天皇8年は533年になり、その翌年が
安閑天皇元年と一致するので、武烈天皇から皇位を簒奪したのは安閑天皇
ではないかとも考えられます。
>>322を修正すると
第27代安閑天皇(534年即位)~第38代天智天皇(671年崩)…5世代138年間
第14代仲哀天皇(369年即位)~第26代武烈天皇(533年崩)…7世代165年間
第1代神武天皇(204年即位)~第13代成務天皇(368年崩)…7世代165年間

337:日本@名無史さん
18/08/23 01:17:20.98 .net
なんで頭の中にセックスと金以外何もはいっていない天皇なんてものに夢を持つのか
夢見る少女なのか
サンタクロースを待ち続ける少年か
いずれにしても正常とは言えない

338:日本@名無史さん
18/08/25 14:15:49.04 .net
>>337
日本人としては正常な考え方じゃないな
特定の人々に固有な考え方だ

339:日本@名無史さん
18/10/09 10:54:57.11 .net
そもそも「欠史八代」っていう発想がおかしいよ。
創作なら「欠史三十代」や「欠史五十代」にしたほうが自然な系譜になるのに
何故そうしなかったのか?
欠史八代と言われてる天皇は実在した。
天皇の年齢は改ざんできても、天皇の代数は改ざんできなかった。
そう考えると辻褄が合う。
当時、天武天皇は「第40代天皇」というのが知れ渡ってたので
いきなり「第90代天皇」には変更できなかった。
だから年齢のほうをイジったんだよ。BC660年を起点にして年齢のほうをイジった。
年齢をイジったので第2~9代天皇は異様に長生きになった。
だけど代数はイジってないので2~9代天皇も実在した人物。

340:日本@名無史さん
18/10/09 11:18:38.11 .net
気になる材料を羅列してみると、

渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。

複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。


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