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驢分王屬大秦、其治去大秦都二千里。從驢分城西之大秦渡海、飛橋長二百三十里、渡海道西南行、繞海直西行。
「二千里」というのは、後述される「二百三十里」以下の行程の総距離である。
倭人条で、「南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月。」が帯方郡からの行程であるなら、
「自郡至女王國萬二千餘里。」を行程記事の末尾に、わざわざ「自郡至女王國」を改めて書き加えて置く理由が分からない。
近接して「南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月、凡萬二千餘里也。」とでも書けば良かったではないか。
「南至邪馬臺國」と「自郡至女王國」は離れて記されており、わざわざ「自郡至女王國」と断っているのだから、
「水行十日、陸行一月」と「萬二千餘里」とがイコールではないことが知れよう。
此上三國、堅昆中央、
俱去匈奴單于庭安習水七千里、南去車師六國五千里、西南去康居界三千里、西去康居王治八千里。
ある地点から複数の地点の距離を示すには、「去」を使った構文がある。
行程記事の途中で、伊都国や帯方郡からの分岐記事を示すのであれば、「去」構文にしたと考えるのが自然である。
より分かり易い「去」構文があるのに、「自」「従」「至」「到」に微言大義を与えて解釈するのは、邪道ではないか。