15/06/14 07:07:48.96 .net
やや強引だったがw譜代衆の定義が固まれば、もう一方の外様衆については自ずと決まる。それ以外だ。
となると肝腎なことは、光秀は果たして譜代と外様の、何れに属するのかということだ。
また結論から先に言うと、明智光秀は織田弾正忠家から譜代衆として遇されていた、と見てよい。
まず、前歴不詳で、織田家に仕えてからみるみる出世したという点で、光秀は秀吉や一益と境遇が似ている。
先に挙げた京都馬揃に関連して考えると、このパレードに参加して名前を記された武将は、殆ど尾張か美濃の出身者である。
相撲大会から登用された青地を除けば、出自が不明なのは光秀と村井貞勝の二人である。
貞勝の出自は、「太閤記」が近江とする以外、史料に乏しく不明であるが、臣従時期は美濃衆と同じくらいか。
貞勝の登用は、先に挙げた秀吉や一益と似ていると思われる。
秀吉や一益を譜代と称してよいなら、貞勝も譜代と称して構わないだろう。
では光秀はどうか。
馬揃の主要メンバーで、光秀一人が外様だったと捉えて、その理由を捻り出すより、
光秀も譜代に含めて遇されていたと考えた方が、自然ではなかろうか。