15/05/06 17:20:11.14 .net
>>104
いや、怨恨説よりも、むしろ“焦慮説”かもよ。
光秀と柴田勝家の対立は、激化していたみたいだし、
同じ佐久間一族が、柴田勝家の家臣に居て、
佐久間信栄の復帰の線で、かなり動いていたみたい。
それと光秀は、信忠への代替わりを嫌がっていた可能性もある。
織田弾正忠家が将軍家になり、織田幕府が正式に開始されたら、
旧幕臣系や旧守護系の部将(外様衆)は、どうなるか判らないからね。
信忠の世襲を支持していたのは、譜代衆(尾張国人系)で、
旧幕臣系や旧守護系の部将(外様衆)は、むしろ>>78の言う
割拠状態(織田家の領国の切り分け)を、望んでいたかも知れない。
清洲会議の結論も織田家の領国の切り分けになってしまったし、
光秀が幽斎に出した手紙にも、領国の切り分けと、忠興の擁立の話しが書いてある。
この光秀の手紙は、謀反直後にも関わらず、
信忠の存在を全く無視した文章だとも言える。
一応、信長は隠居して、信忠が主君になってる時期なんだけどね。