邪馬台国畿内説 Part 29at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part 29 - 暇つぶし2ch57:日本@名無史さん
15/01/14 21:17:21.49 .net
参考:URLリンク(upload.wikimedia.org)
・前108年(元封 (漢)3年)、衛氏朝鮮を滅ぼしその故地に楽浪郡を、周辺に真番郡・臨屯郡の2郡を設置。
・前107年(元封4年)に遼東郡の東・楽浪郡の北に隣接する地に玄菟郡が設置され、幽州に属した。
・前82年(始元5年)に漢四郡のうち真番郡・臨屯郡が廃止され、そのうち臨屯郡の6県が楽浪郡に編入された。
 玄菟郡はこのとき廃止をまぬがれたものの、夫租県が楽浪郡に編入された。
 臨屯郡の6県+玄菟郡の夫租県=7県(嶺東7県)は楽浪郡東部都尉の管轄とされた。
・前75年(元鳳6年)になると、未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、
 統治費用が嵩むとして直接支配を徐々に放棄して、冊封体制下での間接支配に切り替える方針になり、
 玄菟郡は西へ縮小移転された。
・12年新(始建国(新)4年)、異民族蔑視政策を進めた王莽が高句麗を下句麗へ改名した為に、
 高句麗が玄菟郡を侵犯するようになる。
・30年(建武(後漢)6年)に楽浪郡東部都尉は廃止となり、嶺東7県の直接統治は放棄され、それぞれ県侯として冊封して独立させた。
・107年(永初元年)になると、玄菟郡はさらに西に移転し遼東郡の内部に移された。
・189年、公孫度は後漢により遼東太守(太守とは郡の長官)に任命されたが、そのまま後漢から自立。
 後漢末、遼東太守の公孫氏が独立すると、隣接する旧玄菟郡西端部から高句麗を駆逐した。
 さらに半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた。
・204年、公孫度の嫡子である公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置し、韓や倭を勢力下に置く(是より後、倭・韓遂に帯方に属す)
参考:URLリンク(www.eonet.ne.jp)
・238年、魏が楽浪・帯方郡を接収し、翌年(一説には同年)倭女王卑弥呼も帯方郡を通じて魏と通交した。
・313年(建興元年)、遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、
 朝鮮半島南半に孤立した帯方郡は晋の手を離れ情報も途絶した。


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