邪馬台国畿内説 Part 29at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part 29 - 暇つぶし2ch217:日本@名無史さん
15/01/16 02:02:46.45 .net
新羅本紀によれば、卑弥呼の年代が倭人伝と比べやや古く遡りすぎとなる。
だが、239年に金印の加賜があり、魏が倭の半島における治安関与に期待していたのだとすれば
新羅本紀における倭の活躍はその裏付けとなると言うに十分である。
また、同時期の百済に関する記述も存在する。百済も倭に増して新羅に侵攻しており、
ワイ貊系流民が南下してきていたことがうかがえる。
一方、魏に関する記述は一切ない。これは百済本紀も同様である。
なるほど、この時期の百済・新羅は魏に認識されるほどの大国ではなく、
また記録や伝承も残らなかったのかもしれない。
239年から弓遵が戦死する245年の間、魏は直接支配を試みたものの
間接統治となって以降、後漢の時と同じように、冊封された東ワイ・韓・倭などによって
争いが起きるようになったことは想像に難くなく、新羅本紀はその一端を表しているものと
思われる。馬韓もその争いの中で滅びて行ったのであろう。

新羅本紀には馬韓の記述がある。伝説の域を出ないものであるが、

紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に「辰・卞二韓は、わが属国であったのが、
近年には貢物も送らない。大国につかえる礼が、これでいいのか」といった。これに対して瓠公は「わが国は二聖が国をたててから
人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人にいたるまで恐れ、
かつ、したわないものはありません。・・・・

とあり、馬韓が弁辰・辰韓を統属させていたこと。
一方、紀元前後より他の二国が独立性をもちはじめていたこと
二つのことをうかがわせている。


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