邪馬台国畿内説 Part 29at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part 29 - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
15/01/13 23:36:48.53 .net

2世紀末に建設された纏向遺跡が前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは夙に知られている

現・纏向駅近くに計画的に建築された大型建物群は3世紀前半のものと公式発表された
これに比肩するものは弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
付近で宗教的行事が行われた痕跡も発見された

この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いことを勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である

箸中山古墳は日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり
初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者は女性であるという伝承が残る
その葬制の総花的性格から、初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性と考えられる

その死亡時期は3世紀中葉である
この地に中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることを勘案すると
箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここが邪馬台国の所都である


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