邪馬台国畿内説 Part 29at HISTORY
邪馬台国畿内説 Part 29 - 暇つぶし2ch1:日本@名無史さん
15/01/13 23:34:44.97 .net
邪馬台国の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつけつつ
敗者に肩を貸してやりましょう

前スレ
スレリンク(history板)l50

2:日本@名無史さん
15/01/13 23:36:48.53 .net

2世紀末に建設された纏向遺跡が前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは夙に知られている

現・纏向駅近くに計画的に建築された大型建物群は3世紀前半のものと公式発表された
これに比肩するものは弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
付近で宗教的行事が行われた痕跡も発見された

この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いことを勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である

箸中山古墳は日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり
初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者は女性であるという伝承が残る
その葬制の総花的性格から、初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性と考えられる

その死亡時期は3世紀中葉である
この地に中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることを勘案すると
箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここが邪馬台国の所都である

3:日本@名無史さん
15/01/13 23:37:34.71 .net

この大型建物が廃絶時には解体され、柱まで抜き取って撤去されたことは後世の遷宮との関連も考えられるが、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる

またこの建物は三輪山稜線からの日の出の遥拝を意図して設計された可能性があり、主人が女性である可能性を強く示唆する

4:日本@名無史さん
15/01/13 23:39:34.76 .net

2世紀末は、一時的に寒冷化が進んだ時期であることが知られている
これが農村の疲弊や北方民族の南下を引き起こし、中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である

寒冷化による海退は砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に発達したいくつもの海浜集落を廃絶に追い込んだ
しかし、この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する

このクロスナ層中の遺物の共伴するのが庄内併行期の土器である

5:日本@名無史さん
15/01/13 23:40:17.91 .net

3世紀初頭から半世紀+αの時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる

この時期は、先行する弥生Ⅴ期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、宗像地区あたりを手始めに博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
ちなみに、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域である

6:日本@名無史さん
15/01/13 23:42:20.05 .net

日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である

その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく

3世紀前半末に曹魏を通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纏向以外にありえない

7:日本@名無史さん
15/01/13 23:42:58.99 .net

◆今後議論して整理していく重点項目
 *箸墓=卑弥呼冢説
 *△鏡舶載説

◆参考1
ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
URLリンク(www.city.sakurai.lg.jp)
纒向学研究 第2号(PDF)
URLリンク(www.city.sakurai.lg.jp)

◆参考2
文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国市論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収


8:日本@名無史さん
15/01/14 00:21:21.21 .net
どう考えても入植地だから畿内説は

9:日本@名無史さん
15/01/14 00:27:15.73 .net
理由をひとことも言わずに「どう考えても」などと言うのは、何も考えていない人間

10:日本@名無史さん
15/01/14 00:34:26.93 .net
弥生時代の痕跡が少ないんで、
古墳時代に一気に入り込んできたのは間違いないでしょうね。

11:日本@名無史さん
15/01/14 00:37:21.46 .net
田舎各地のひとが上京してきたんだね

12:日本@名無史さん
15/01/14 00:38:28.50 .net
人があまり住んでいないところのほうが、
大型古墳を作りやすいからね。

13:日本@名無史さん
15/01/14 00:40:28.23 .net
倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山東に依りて国邑を為る。
帯方郡より倭に至るには、
↓韓国
↓【南】海岸水行7000里
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里
津島国(方400里、千戸)
↓海渡1000里
一支国(方300里、三千家)
↓海渡1000里
末盧国(四千戸)
↓【東南】陸行500里
伊都国(千戸)※大率が置かれる
↓【東南】100里
奴国(二万戸)
↓【東】100里
不弥国(千戸)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)
↓【南】水行10日・陸行1月
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)→【東】海渡1000里、国あり皆倭種
↓【南】4000里
侏儒国
↓【東南】船行1年
裸国・黒歯国

◎女王国以北
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国
その南に狗奴国あり。男王・卑弥弓呼。その官に狗古智卑狗あり。女王国に属せず。
◎帯方より女王国に至るまで12000里
◎倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施5000里

14:日本@名無史さん
15/01/14 00:42:44.13 .net
>>12
だれが作るの?

15:日本@名無史さん
15/01/14 00:45:15.69 .net
>>14

周囲の大集落の人たちでしょうね

16:日本@名無史さん
15/01/14 00:45:22.77 .net
古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)
のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。
 従って、水行は、河川航行との主張は合理的と考えます。
URLリンク(app.m-cocolog.jp)

17:日本@名無史さん
15/01/14 00:47:31.21 .net
>>14
人民を使役できる、大量の労働力を動員できる権力者が作らせた

18:日本@名無史さん
15/01/14 00:47:59.99 .net
古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)
のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。
 従って、水行は、河川航行との主張は合理的と考えます。
URLリンク(app.m-cocolog.jp)

19:日本@名無史さん
15/01/14 00:50:12.27 .net
>>16
根拠がないので合理的でない

20:日本@名無史さん
15/01/14 00:53:09.81 .net
九州の小さな諸王国は畿内の邪馬台国に滅ぼされました。そして九州人は奴隷になりました。

21:日本@名無史さん
15/01/14 00:54:10.47 .net
はえーよ、バカ

22:日本@名無史さん
15/01/14 00:54:26.00 .net
ってか…「従って」の前と後に因果関係が無くね?

23:日本@名無史さん
15/01/14 00:56:09.92 .net
帯方郡
↓水行七千里
狗邪韓国
↓海渡千里
津島国
↓海渡千里
一支国
↓海渡千里
末盧国
↓陸行五百里
伊都国
↓(東南)百里
奴国
↓(東)百里
不弥国
↓(南)水行20日
投馬国
↓(南)水行10日・陸行1月
邪馬台国

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり


畿内説は、邪馬台国から東に海を渡った倭人の住む国を明らかにせよ!

24:日本@名無史さん
15/01/14 00:57:41.91 .net
>>20が妙に東遷厨のナリスマシくさい件について

25:日本@名無史さん
15/01/14 01:05:29.08 .net
畿内説のなりすましは基本的に知識ないからすぐバレるよなw

26:日本@名無史さん
15/01/14 01:09:42.55 .net
山削ってこさえた古墳のサイズとか云々しても意味とか無いのにね

27:日本@名無史さん
15/01/14 01:11:16.36 .net
知識がないという点では>>26も光ってるね

28:日本@名無史さん
15/01/14 01:12:52.09 .net
証明で畿内説

29:日本@名無史さん
15/01/14 01:15:57.67 .net
証明の強固さで、やはり畿内説が決定的だなあ
という意味ですね

30:日本@名無史さん
15/01/14 01:18:02.89 .net
ところで糸島から金印でたけど
57年の奴国の金印が伊都国地域から出土したのはなぜなんだ?

31:日本@名無史さん
15/01/14 01:19:45.08 .net
でてないし

32:日本@名無史さん
15/01/14 01:21:43.32 .net
出土したのは志賀島ですね

33:日本@名無史さん
15/01/14 01:23:28.34 .net
このアホさ・・・東遷厨?

34:日本@名無史さん
15/01/14 01:32:40.61 .net
三雲地区で盗難にあったらしいし

35:日本@名無史さん
15/01/14 01:35:45.62 .net
尾根先端頂とかに地山整形でしでかしたのが多いよ

36:日本@名無史さん
15/01/14 02:18:53.65 .net
卑弥呼時代の朝鮮半島は弁辰、馬韓に倭人が積極的にかかわっていた時代の一つなのは確か。
しかも百済時代と人種編成がかなり異なっていた。

37:日本@名無史さん
15/01/14 02:30:15.65 .net
>>7のリンク切れてる

38:日本@名無史さん
15/01/14 02:31:59.58 .net
気象学からアプローチして、邪馬台国大分説を唱えたのが、山口大学名誉教授だった
山本武夫さん(故人)である。
山本さんは、朝鮮半島の古代史書『三国史記』から、異常気象の記録を抽出し、紀元
1世紀から7世紀の古代において、100~250年のあいだ、東アジアが極端に冷涼な気候
だったことを導いた。
倭国が大いに乱れて卑弥呼が共立されたのが184年ごろ、死んだのが248年ごろと推定
されており、この寒冷期に一致する。
中国でも、220年に後漢が亡びて戦乱の三国時代になり、朝鮮半島でも朝鮮族が中国の
出先機関を襲撃している。
これらの動乱の原因が、気候悪化であった、というのが山本説である。
山本説に基づけば、3世紀に寒さのきつい奈良盆地に、南方的な風俗で描かれている邪
馬台国はあり得ない、ということになる。
その点、豊国は、今よりは涼しいが、米も作れれば、蚕も飼えるような気候条件だった。
4世紀にヤマト政権の基礎が固まると、卑弥呼の事績は神格化され、宇佐八幡に比売大
神として祀られてもおかしくはない、というのが岩田氏の推論である。
URLリンク(mugentoyugen.cocolog-nifty.com)

39:日本@名無史さん
15/01/14 08:10:18.08 .net
データが古くてもう使えない研究だけどね

40:日本@名無史さん
15/01/14 09:25:25.76 .net
コピペ厨って、何考えてんの?

41:日本@名無史さん
15/01/14 12:54:47.34 .net
>>2
>箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここが邪馬台国の所都である


ブッブー♪

箸中山は纏向4類(後)であり、
4世紀初頭の西殿塚・桜井茶臼山の【一段階前】。

3世紀中頃にするには無理がある。
ま、270年前後だろう。

42:日本@名無史さん
15/01/14 15:03:49.96 .net
畿内説は、魏志倭人伝ではなく、記紀を読んで、邪馬台国を特定しようという
本末転倒した馬鹿が信奉する宗教。

43:日本@名無史さん
15/01/14 15:26:25.54 .net
>>41
根拠なし

44:日本@名無史さん
15/01/14 15:28:07.29 .net
テンプレに記紀のことが一文字も書かれていない事実をみれば、>>42が真っ赤なウソであることは明白

45:日本@名無史さん
15/01/14 15:54:42.74 .net
>>41
出所不明情報で反論しようとしても無駄だろう

46:ローガン
15/01/14 16:29:34.19 .net
>>41
URLリンク(yamatai.cside.com)

の図17かな? ちょうどいいんじゃない。
周濠底土器の年代観の下限が、270年頃。
周堤内の布留0古相は、勿論それ以前。
死後、作塚を始めたなら、ちょうどいい。

47:日本@名無史さん
15/01/14 18:10:53.04 .net
古墳上祭祀が首長霊継承儀式であるという通説に即して考えると、卑弥呼の死後に着工された彼女の墓の上で閏位された男王とうより最終的に後継者として確定した壱与の儀式が行われたと考えるのが当を得ているだろう
年代が史料とほぼ合致すると言える

48:日本@名無史さん
15/01/14 19:02:40.01 .net
息するように嘘を吐く畿内説

49:日本@名無史さん
15/01/14 19:53:13.86 .net
嘘だと断定する理由は?

50:日本@名無史さん
15/01/14 19:55:44.73 .net
>>46
その表でも布留0古相は250年にはなってないが?
250~280の間が布留0古相だよね?
屁理屈言えば265年になる。

51:日本@名無史さん
15/01/14 20:30:32.46 .net
>>46

南溝黒褐色土1で小形丸底壷と小形器台の組み合わせが完成、
これをもって布留0の始まりで纏向4類(後)だよね。

箸墓をそれ以前の南溝黒褐色土2である纏向4類(中)にもってはこれない。

したがって箸墓は卑弥呼の死亡時期ではない。

52:日本@名無史さん
15/01/14 20:35:51.90 .net





息するように嘘を吐く畿内説 wwwww





53:日本@名無史さん
15/01/14 20:45:22.45 .net
>>52ちゃんはセロイセローイって言ってるチョンか?

54:日本@名無史さん
15/01/14 21:07:51.59 .net
布留0=260として±10の幅を見て(本来的にはできるだけその幅を見ないのが正しいが±10ぐらいなら妥当?)
どうにか卑弥呼の墓になりうるか…
まあその辺が限界かな?

考えるべきはは100m前後の纏向型(それでも従来の弥生墳丘墓に比べれば十分巨大)から
200m代後半のものに一気に大型化したその理由だな

1つの考え方が親魏倭王だった卑弥呼の墓でその威光を全国に示すもの…だろうが

実は一気に大型化した箸墓こそが「ハツクニシラススメラミコト」の墓であるという見方もできそうなw

その後の前方後円墳の被葬者の「割り当て」がどうなるか知らん
(♪俺はこの板で一番無責任と言われた男~www

55:日本@名無史さん
15/01/14 21:16:47.64 .net
西晋滅亡後の4世紀に日本でも政権が不安定になり
以後はじめてプレ大和政権が確立する前提が整ったとの見解がかつては支配的であったと思うが
邪馬台国が畿内にあり、3世紀の時点でプレ大和政権が発足していたとなると
4世紀プレ馬韓への南下してきたプレ百済の扶余勢力と
狗邪韓国から弁辰へと発展するプレ任那の倭勢力の角逐を考えなおさなければならなくなる。
その前に半島の歴史を見なおしてみる。

56:日本@名無史さん
15/01/14 21:17:02.29 .net
箸墓は台与の墓なんでねぇの?

57:日本@名無史さん
15/01/14 21:17:21.49 .net
参考:URLリンク(upload.wikimedia.org)
・前108年(元封 (漢)3年)、衛氏朝鮮を滅ぼしその故地に楽浪郡を、周辺に真番郡・臨屯郡の2郡を設置。
・前107年(元封4年)に遼東郡の東・楽浪郡の北に隣接する地に玄菟郡が設置され、幽州に属した。
・前82年(始元5年)に漢四郡のうち真番郡・臨屯郡が廃止され、そのうち臨屯郡の6県が楽浪郡に編入された。
 玄菟郡はこのとき廃止をまぬがれたものの、夫租県が楽浪郡に編入された。
 臨屯郡の6県+玄菟郡の夫租県=7県(嶺東7県)は楽浪郡東部都尉の管轄とされた。
・前75年(元鳳6年)になると、未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、
 統治費用が嵩むとして直接支配を徐々に放棄して、冊封体制下での間接支配に切り替える方針になり、
 玄菟郡は西へ縮小移転された。
・12年新(始建国(新)4年)、異民族蔑視政策を進めた王莽が高句麗を下句麗へ改名した為に、
 高句麗が玄菟郡を侵犯するようになる。
・30年(建武(後漢)6年)に楽浪郡東部都尉は廃止となり、嶺東7県の直接統治は放棄され、それぞれ県侯として冊封して独立させた。
・107年(永初元年)になると、玄菟郡はさらに西に移転し遼東郡の内部に移された。
・189年、公孫度は後漢により遼東太守(太守とは郡の長官)に任命されたが、そのまま後漢から自立。
 後漢末、遼東太守の公孫氏が独立すると、隣接する旧玄菟郡西端部から高句麗を駆逐した。
 さらに半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた。
・204年、公孫度の嫡子である公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置し、韓や倭を勢力下に置く(是より後、倭・韓遂に帯方に属す)
参考:URLリンク(www.eonet.ne.jp)
・238年、魏が楽浪・帯方郡を接収し、翌年(一説には同年)倭女王卑弥呼も帯方郡を通じて魏と通交した。
・313年(建興元年)、遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、
 朝鮮半島南半に孤立した帯方郡は晋の手を離れ情報も途絶した。

58:日本@名無史さん
15/01/14 21:23:53.48 .net
畿内説のテンプレには、魏志倭人伝がない。

59:日本@名無史さん
15/01/14 21:53:39.17 .net
桓霊之末 韓ワイ彊盛 郡縣不能制民 多流入韓國。

建安中 公孫康 分屯有 縣以南荒地 爲帯方郡、 

遣(公孫模・張敞・等)[収集]遺民[興]兵[伐]韓?。

舊民稍出。是後倭韓遂属帯方。

桓霊年間の半島は、韓ワイが強盛となり、住民を統制することができなくなって
民が多く韓国に流入したとあるが、なぜ韓国へ流入したのだろうか?
おそらく流入の源は満洲地域にあり、そこからの玉突きで半島南部へ人が押し出されたのではなかろうか?
これは単なる憶測の域にとどまらない。
なぜなら、この傾向は朝鮮半島の歴史で何度も繰り返されてきたことであるからだ。
 新羅が靺鞨人系の高麗にかわり、高麗はモンゴルに従属、
 その高麗は満州人系の李成桂によって倒されるというようにである。。
よって、3世紀初頭の馬韓地域は、桓霊年間の混乱によって
わずかに辰国時代の遺風を残しながらも、相当な扶余系移民が国内に
入り込んでおり、百済へ発展する気配をすでに見せていたと思われる。

60:日本@名無史さん
15/01/14 22:29:39.88 .net
半島北部:箕氏朝鮮→衛氏朝鮮→前漢→新→後漢→公孫氏→魏――→高句麗
 
                                 辰韓(12国)       新羅
半島南部:辰国――ワイ貊・倭・秦人乱入――→馬韓(54国)――→百済
                                 弁辰(12国)       任那 

殷に出自をもつ箕氏朝鮮が衛満に滅ぼされたとき朝鮮侯箕準は韓地へ亡命したとある。
また燕に出自をもつ衛氏朝鮮の宰相・歴谿卿が衛右渠を諌めたが受け入れられず、東の辰国へ亡命したとある。
『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝、『晋書』辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、
馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。
いずれにしても、馬韓・辰韓は中国人亡命者が多かったようである。
かつて信仰された箕氏朝鮮も、近代に入って以降中国人に出自をもつことを恥じ、現在の韓国ではもっぱら檀君神話を信奉する傾向にある。

61:日本@名無史さん
15/01/14 23:43:52.67 .net
テンプレから倭人伝の記述が読み取れないのは情弱

62:日本@名無史さん
15/01/14 23:48:48.26 .net
>>51
「もってこれない」という理由が不明なんだが

63:日本@名無史さん
15/01/15 00:22:26.34 .net
754 名前:日本@名無史さん :2015/01/15(木) 00:14:06.15
卑弥呼も邪馬台国も、陳寿の頭の中では明確に特定されてる。
陳寿は、倭国は周旋五千里ばかりとし、邪馬台国は不弥国から南へ水行20日、さらに
南へ水行10日、陸行1月とした。

「そのままだと九州を通り越す」と言う奴は馬鹿。保証する。

天才陳寿は、出鱈目を書いたのではない。
彼の地図に矛盾はない。

水行は、河川交通。
魏志において、河川でなく海の場合は、必ず海と書いてある。
川を遡るのは時間がかかる。江戸時代、川越から日本橋の往復で2週間。
上りが多く、整備されていない川だと、20日で数十kmがやっとだ。

道無き道を歩くのも大変で、1日5kmも進めない。
街道が整備された江戸時代の例から、1日20km進めると言うやつはキチガイ。

陳寿が明確に特定した邪馬台国は、東に海がある。

以上を総合すると、邪馬台国は、大分から宮崎の辺り。
それ以外にはあり得ない。

64:日本@名無史さん
15/01/15 00:33:19.13 .net
妄想パズルは九州(クズ)スレでやってくれ

65:ローガン
15/01/15 00:56:53.85 .net
私の前レスは>>41の ブッブー♪ の
その年代観の根拠とは、石野編年ではないの?
という意味なんだが。
石野さんの言でも旧編年3新を3世紀後半の前とみるか
後とみるかは研究者によって違う
さて、その石野さんの案で、豊前赤塚は、3世紀に編年され(1995古墳集成)
1990の古墳時代史では周濠内出土の壺口縁部から、庄内期としている。
三角 出てるし。


        

66:日本@名無史さん
15/01/15 01:18:01.62 .net
ここのテンプレ、魏志倭人伝を無視してるね。

67:日本@名無史さん
15/01/15 01:29:37.05 .net
魏志倭人伝は東日流外三郡誌と双璧をなす偽書

68:日本@名無史さん
15/01/15 01:35:44.06 .net
してるって断定する理由は?

69:日本@名無史さん
15/01/15 01:40:04.99 .net
倭人伝の邪馬台国には興味ない。

70:日本@名無史さん
15/01/15 01:40:22.88 .net
>>67はまた東遷厨のナリスマシかな

71:日本@名無史さん
15/01/15 01:47:40.51 .net
>>69も東遷厨のナリスマシだな

72:日本@名無史さん
15/01/15 05:53:18.94 .net
■京都工芸繊維大学名誉教授 布目順郎氏  名著『絹の東伝』(小学館)

弥生後期の絹製品を出した遺跡もしくは古墳は、すべて北九州にある。
したがって、弥生後期に比定される邪馬台国の所在地としては、絹を出した遺跡の、現時点での分布からみるかぎり、
北九州にあった公算が大きいといえるであろう。

わが国へ伝来した絹文化は、はじめの数百年間、北九州で醸成された後、古墳時代前期には本州の近畿地方と
日本海沿岸地方にも出現するが、それらは北九州地方から伝播したものと考えられる。

73:日本@名無史さん
15/01/15 08:35:46.62 .net
>>2
阿波国中心説です
三輪山の宗教的指導者は阿波国から入植していった忌部族と思います
忌部族、海人である海部族などが阿波国からの神武東征に先立って地ならし
的に開発した所が纒向と思います
>>54
私も箸墓古墳は東遷していった神武天皇と思います
>>63
末虜国(博多)→伊都国(直方辺り)→奴国(田川、飯塚辺り)→不弥国(椎田、行橋辺り)
→投馬国(四国宿毛)途中 若杉山で丹採掘の視察→邪馬台国(徳島国府の矢野集落)

74:日本@名無史さん
15/01/15 08:48:57.06 .net
>>72
邪馬台国より北の国々や女王国より北に置かれた一大卒についての比定はしてるのかねこの御仁は?
九州説でも奴国が北九州の認識は多いが邪馬台国を北九州にするのは九州王朝東遷言いたい人達だけだろ

75:日本@名無史さん
15/01/15 08:51:46.80 .net
東遷否定の人は、神武東征神話をどう解釈してんの?

76:日本@名無史さん
15/01/15 08:52:46.12 .net
経路を見ると、末盧国に着いた後、一度も海を渡ってないし、海岸を水行もしてないので、
九州以外に出てないんだよ。
邪馬台国は、福岡から南に水行計30日、更に徒歩1月。かなり南下しているようだ。

77:日本@名無史さん
15/01/15 08:54:36.67 .net
>>75
天から日本列島に降りてきたので、もともと朝鮮の人だろ。
それが、北九州から東征して、畿内で力をつけてから熊外とか九州を攻めてるね。

78:日本@名無史さん
15/01/15 08:56:21.82 .net
九州説が悪く言われる原因はこういった東遷厨のせいだろ
卑弥呼以降数百年間の間で衰えた九州の勢力を勢力を増した畿内の勢力が飲み込んだと見るべきで
邪馬台国と大和王朝に直接の関係はない
地名の相似は九州から移住して来た、又は奴隷等で連れてこられた人々が元居た地名を付けたものだろう

79:日本@名無史さん
15/01/15 08:59:20.77 .net
>>75
倭人伝と数百年後の記紀を一緒くたにする輩はどうもなあ
畿内説にもいるだろ桃がどうたらとかw

80:日本@名無史さん
15/01/15 09:00:05.86 .net
>>76
>更に徒歩1月

徒歩1月だと関東だな
徒歩1日の誤りだろう。

81:日本@名無史さん
15/01/15 09:06:37.99 .net
前を歩く人も見えないような道を、1日何キロ歩けると思ってるんだ?

宿屋に飛び込めない、燃料も現地調達で歩くと、昼には宿営地を決めなければ
いけないわけで。

82:日本@名無史さん
15/01/15 09:09:10.75 .net
>>80
関東は、北九州から見て東だろ。
お前は、東と南の区別もできないバカか?

83:日本@名無史さん
15/01/15 09:17:39.66 .net
>>81
>前を歩く人も見えないような道を

それは末廬國の話
この付近は海が山に迫った地形だか
他に比べ特に道が険しかったから記録されたんだ。

>宿屋に飛び込めない、燃料も現地調達で歩くと、

招待したお客様を迎えるのだから宿泊地や食事は倭人が準備してるよ

良く考えてね。

84:日本@名無史さん
15/01/15 09:19:06.38 .net
今だって、阿蘇周辺は人家もまばらなのに。

85:日本@名無史さん
15/01/15 09:23:33.83 .net
>>84
それで?

86:日本@名無史さん
15/01/15 09:25:14.22 .net
3)混一彊理図(混一彊理歴代国都之図)

世界地図として1402年に朝鮮で作図された混一彊理図(こんいっきょうりず)
では、日本列島を南北に配置している。このことから、古代中国では日本を朝鮮半島
の南に南北に連なる列島と誤認し、結果として邪馬台国は畿内大和が妥当としてき
た。ところが、この混一彊理図はもともと中国での地図に日本からもたらされた行基
図を朝鮮で合成したものである。

最近、別の混一彊理図が長崎県で発見され、それでは日本列島は東西に配置されて
いる。従来の混一彊理図は地図のスペースの関係で日本を南北に配置したのでは、と
推測されているのが昨今の状況である。このように、混一彊理図は畿内説の根拠とし
ては影が薄れている。だいたい、1402年と言えば邪馬台国から1000年以上も
新しい。邪馬台国から1000年以上も後世の合成地図で畿内説の根拠とするのは本
来ナンセンス。

URLリンク(homepage3.nifty.com)


地図とコンパスがない時代ほど、太陽の向きを重視するわな。

87:日本@名無史さん
15/01/15 09:43:16.60 .net
阿波国中心説

 行程(魏志倭人伝に矛盾しない)
 丹山(徳島阿南の若杉山遺跡 卑弥呼の時代はここだけ)
 東に海渡1000里倭種有り(紀伊水道を海渡 畿内に倭種)
 神武東遷(阿波から畿内へ 東国平定のため)
 大嘗祭必須の貢進物麁布(古代より阿波忌部氏に依頼)
 古事記の神々を祀る式内社多数(全国に阿波からの勧進多数)
 他いろいろ

他説に無い強みと思いますがこれでも否定ですか

88:日本@名無史さん
15/01/15 10:03:29.91 .net
>>87
7万戸の大国であることが説明できないし
何よりも考古学と矛盾してるから可能性ゼロだな

89:日本@名無史さん
15/01/15 10:09:29.07 .net
>>86の説は、混一彊理図以前から日本を南北に配置した地図が多数実在する事実によって、実に簡単に否定された

90:日本@名無史さん
15/01/15 10:12:18.28 .net
奴国が2万戸なんだよな。
ちょっとサバ読んでそう。

宮崎全体なら、その3.5倍くらいあったかな。

91:日本@名無史さん
15/01/15 10:12:44.20 .net
>>72のように学問的見地から畿内説に反論する人は、もはやみな故人になってしまった
彼らが基づいていた根拠はすべて過去のものであり、今日には通用しない過去の説になってしまっているのが現状

92:日本@名無史さん
15/01/15 10:14:22.53 .net
>>88
大河吉野川流域、讃岐、伊予、吉備の連合国では

考古学の矛盾とは何でしょうか 教えてください

93:日本@名無史さん
15/01/15 10:34:27.16 .net
>>86の説がダメなのは、日本が正位置の混一彊理図が本来のもので従来の混一図は地図のスペースの関係で日本を南北に転倒配置したと、根拠なく決めつけていて、転倒位置版が本来の混一図で正位置のものが正しい知識による修正版である可能性を斟酌していない点にある

94:日本@名無史さん
15/01/15 10:55:23.22 .net
彼らが基づいていた根拠はすべて過去のものであり、今日には通用しない過去の説になってしまっているのが現状

↑これひどいね

考古学者 森浩一氏

ヤマタイ国奈良説をとなえる人が知らぬ顔をしている問題がある。(中略)
倭人伝では、”養蚕をおこない、糸をつむぎ、細やかな(けん)や緜(めん)を作っている”。
作っていただけでなく、魏へ二度めに派遣された使者が献じた品物のなかに、”倭錦、青、緜衣、帛布”などがある。
(中略)
布目氏(布目順郎氏、京都工芸繊維大学名誉教授)の名著に『絹の東伝』(小学館)がある。目次を見ると、
『絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在地等を探る』の項目がある。

簡単に言えば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、
つまり4世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。
布目氏の結論はいうまでもなかろう。倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり、ヤマタイ国もそのなかに
求めるべきだということである。この事実は論破しにくいので、つい知らぬ顔になるのだろう。

95:日本@名無史さん
15/01/15 10:58:26.50 .net
要するに当時の魏にとっては、倭国などにはほとんど何の関心もなかったということ。
だから地図がデタラメであったわけでw 西域のような軍事上の脅威があったわけでも
ないのだから当然。だから方角や距離については当てにならない。さらに「金印を授与
したのだから、魏が大国と認めた」も何の根拠にもならないだろう。倭国の情勢など
魏にとってはどうでもいいことだった。「挨拶に来たから労をねぎらった」だけだろうな w

96:日本@名無史さん
15/01/15 11:05:51.58 .net
それはおまえがチョンで基本的な知識がないからそう思えるだけ
卑弥呼をはじめ9人も人名が記載されてるのは東夷伝でも異例の扱い
魏は三国時代で他国と対立状態にあったから、狗奴国とのことも無視できなかった

97:日本@名無史さん
15/01/15 11:08:17.83 .net
>>95は粗雑な脳味噌の持ち主だな
自分の頭の悪さを棚に上げ
書いて有る事が全てデタラメだとして片付けようとしてるwww

98:日本@名無史さん
15/01/15 11:10:02.98 .net
>卑弥呼をはじめ9人も人名が記載されてるのは東夷伝でも異例の扱い

  そうかねw 報告者が「ちゃんと仕事しました」というアリバイを作った
 だけだろ。邪馬台国も狗奴国も取るに足らない雑魚国に過ぎんわ www

99:日本@名無史さん
15/01/15 11:18:57.36 .net
なんの反論もできない>>94が、また死んだ老人の名前を並べているよ
そんな過去の肩書や権威で九州説を再生することは不可能

100:日本@名無史さん
15/01/15 11:20:19.69 .net
ひとつわかったこと
畿内説と、ここはチョンだらけ

101:日本@名無史さん
15/01/15 11:43:54.37 .net
罵倒の応酬ばかりで虚しくならないのかなwww

自信を持って持論を展開できないから相手を罵倒することに熱心なのかなwww

102:日本@名無史さん
15/01/15 11:46:01.33 .net
古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)
のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。
 従って、水行は、河川航行との主張は合理的と考えます。
URLリンク(app.m-cocolog.jp)

103:日本@名無史さん
15/01/15 11:54:12.61 .net
>>102
しかしながら、日本には河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)
のような超大河は存在しないのであった よって不合理

104:日本@名無史さん
15/01/15 11:55:11.45 .net
畿内説は、不弥国をどこだと考えてるの?
そこから南に水行でしょ。

宇美町だったら、南に水行は、御笠川しかないやん。
太宰府も、博多湾から御笠川で行ってたわけだし。

105:日本@名無史さん
15/01/15 11:59:00.37 .net
>>104
>>102
しかしながら、日本には河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)
のような超大河は存在しないのであった よって不合理

106:日本@名無史さん
15/01/15 12:01:26.47 .net
古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)
のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。
 従って、水行は、河川航行との主張は合理的と考えます。
URLリンク(app.m-cocolog.jp)

107:日本@名無史さん
15/01/15 12:14:36.32 .net
>>106
なんでそのトンデモ説
何度もはってるの

108:日本@名無史さん
15/01/15 12:15:37.48 .net
断言するけど、畿内説は、日本列島における支配者は皇統以外あり得ないという信仰
が生み出した幻想。

109:日本@名無史さん
15/01/15 12:18:17.77 .net
アンチ畿内説はコピペ荒らししか能がないの?

110:日本@名無史さん
15/01/15 12:20:55.28 .net
中国人が日本に来て日本にもこんなに大きい河が在ったのかと驚くのが瀬戸内海
日本の河川は河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)などと比べ物にならない。

111:日本@名無史さん
15/01/15 12:28:31.71 .net
理由をひとことも言わないで断定的な書き込みばかりするアンチ君も、荒らしと変わらないね

112:日本@名無史さん
15/01/15 12:32:10.97 .net
水行厨は、たぶん最初に書き込んだ人とは別人のコピペ荒らしだろ

113:日本@名無史さん
15/01/15 12:38:20.35 .net
>>110
優秀な魏使が、日本の水先案内を受けて瀬戸内海を大河と間違えるとはwww
魏の特使も大したことないんだな

114:日本@名無史さん
15/01/15 12:43:25.37 .net
間違えたと断定する理由は?

115:日本@名無史さん
15/01/15 12:57:34.91 .net
>>113みたいな、「オマエはこう言っている」と俺様解釈を作ってそれを批判して見せるインチキ手口は、アンチ畿内説が常用する詐欺手法だ

116:日本@名無史さん
15/01/15 13:03:48.82 .net
>>115
畿内説は本当に瀬戸内海を大きな河と間違えたと思うのか?

117:日本@名無史さん
15/01/15 13:04:15.69 .net
魏志倭人伝を読めない人が畿内説を妄信してるんだろうなあ。

118:日本@名無史さん
15/01/15 13:05:00.05 .net
海か淡水か分からない馬鹿なのかw

119:日本@名無史さん
15/01/15 13:12:10.71 .net
畿内説はないわ。

南と書いてあったら東?
水と書いてあったら海?
東に海と書いてあったら琵琶湖の淡水?

全部、魏志倭人伝と違うじゃないかwww

120:日本@名無史さん
15/01/15 13:13:06.75 .net
このように、畿内説がひとことも言っていな主張を捏造して畿内説批判であるかのように装う詐欺を繰り返すのがトンデモ説

121:日本@名無史さん
15/01/15 13:13:36.03 .net
>>111
魏志倭人伝を読め。
不弥国から南へ水行だ。
邪馬台国の東には海がある。その向こうも倭人が住んでる。

122:日本@名無史さん
15/01/15 13:15:44.92 .net
今度はきっとナリスマシが出るぞ

123:日本@名無史さん
15/01/15 13:18:49.25 .net
アンチ畿内は、海には水があることも知らない池沼揃いなのであろうか

124:日本@名無史さん
15/01/15 13:25:44.31 .net
>>123
だと、何?

125:日本@名無史さん
15/01/15 13:29:04.91 .net
陳寿や魏の使節が馬鹿なのか、畿内説支持者が馬鹿なのか。

後者だと思うなぁwww

126:日本@名無史さん
15/01/15 13:30:27.21 .net
>>123
魏志では、海の場合はそれを明記してますけど?

海と書かれていないのに、海と思っちゃう理由が知りたい。
不弥国から南に海ってあるの?

127:日本@名無史さん
15/01/15 13:31:49.59 .net
アンチ畿内説は、理由をひとことも言わないで結論だけ連呼する人と、なにやら理由めいたものは書くが結論が無い人と、どちらも足りない人ばかりなんだが、ほんとに足りない人ばかりなんだろうか

128:日本@名無史さん
15/01/15 13:33:52.70 .net
>>126
という理由は?

129:日本@名無史さん
15/01/15 13:34:05.70 .net
海を航行する場合も単に水行と記述されるのは
ローマへの行程を記述した例ですでに証明されている

130:日本@名無史さん
15/01/15 13:55:02.82 .net
ローマの文でも、海と明記されてるね。
必ず、はっきりさせてるんだよ。海の場合は海と書いてある。

131:日本@名無史さん
15/01/15 13:55:32.44 .net
陳寿がバカなのか、畿内説論者がバカなのか

132:日本@名無史さん
15/01/15 13:58:44.58 .net
アンチ畿内は、海には水があることも知らない池沼揃いなのであろうか

↑煽りなのか、チョンなのか、レベル低すぎ

シナ人の「海」観と日本人のそれは全然違うという重要なポイントでしょ?

133:日本@名無史さん
15/01/15 13:59:57.47 .net
不弥国から海と考える合理的な理由があればいいんだが、ないんですよね。

海を渡ってきた船は降りて陸行しているし、九州北岸の南に海はないし。

134:日本@名無史さん
15/01/15 14:23:26.14 .net
降りたと断定する理由は?

135:日本@名無史さん
15/01/15 14:24:46.91 .net
>>132
違うと断定する理由は?

136:日本@名無史さん
15/01/15 14:26:56.20 .net
>>132
また差別発言をしているのは東遷厨だな

137:日本@名無史さん
15/01/15 14:28:33.67 .net
長い間、神武が南九州であるという事が自分の中で引っ掛かってました。
北九州に比べさほど発展もしてなかった地域からひょこっとやって来て、
はたして王権樹立などできるものか、疑問でもありました。

ところが最近、この疑問が解決しました。
南九州ならではのポテンシャルがあったと思ってます。

それは弓であり、その弓を作る真竹です。

氷河期、日本列島や朝鮮半島で唯一残った真竹の分布地域が南九州だったそうです。
百年に一度咲くと言われる竹の花の開花時期が日本と半島で同じなのは、
竹が日本(九州)から半島に渡って行った証拠でしょう。

この真竹という植物は自分で分布地を拡げれません。
人の手を介さなければ分布地を拡げれないのです。
今日、西日本どこでも見られる竹林は昔だれかが植えたものです。

したがって古代は原産地である南九州が圧倒してたと推測されます。

隼人の乱の後、畿内に強制移住させられた隼人たちが竹細工を生業としたのも、
南九州ならではの話です。

(続く)

138:日本@名無史さん
15/01/15 14:29:02.06 .net
>>130
海の場合は海と明記していると断定する理由は?

139:日本@名無史さん
15/01/15 14:30:03.14 .net
その真竹で作られる弓という圧倒的な武器があったからこそ、
神武軍が王権樹立できたのでしょう。

考古学者の岡安光彦さんによると古墳時代の倭軍の主体は弓兵だったそうです。
人物埴輪のいでたちから判明できるそうです。

倭軍の弓兵には騎馬軍を持ってた高句麗も苦戦したでしょう。

またニギハヤヒと神武が見せ合った歩靫(かちゆき)もおそらく竹細工ではなかったかと想像してます。

天理市の布留遺跡は物部氏の遺跡ですが、
ここから出てる円筒埴輪が竹細工を模したものであることを指摘する人があまりいないのは残念です。
URLリンク(mizusato-gakuto.c.blog.so-net.ne.jp)

ニギハヤヒは自分たちと同じく竹細工という天表(あまつしるし))を持ってた神武を見て天孫と捉 え、そして従ったのでしょう。

140:日本@名無史さん
15/01/15 14:33:23.81 .net
>>133
海だとする合理的根拠なら再三書き込まれているが、アンチさんたちが誰も反論せず、ただただ無視している件について

141:日本@名無史さん
15/01/15 14:33:28.60 .net
海と書かれていないのに海だと思っちゃうのって、何か変だよね。
南が東になっちゃうし。

142:日本@名無史さん
15/01/15 14:34:35.77 .net
変だという理由は?

143:日本@名無史さん
15/01/15 14:35:57.93 .net
>>86

奈良ヤマトしかありえないという証拠

144:日本@名無史さん
15/01/15 14:40:53.28 .net
アンチ畿内説の人って何か変だよねー
絶対に理由を言おうとしないし

145:日本@名無史さん
15/01/15 14:42:30.78 .net
有明海なんかは大洋ではなく湾のようなものだが、
そういうのも中国は海を行く、海を渡る、のように考えるんだろうか。

知らんので質問なんだが。

146:日本@名無史さん
15/01/15 14:43:23.29 .net
>>143が皆目意味不明な件について

147:日本@名無史さん
15/01/15 14:58:56.28 .net
>>141
畿内説は妄想の産物だから。

148:日本@名無史さん
15/01/15 15:01:37.63 .net
>>145
帯方郡がソホルでも楽浪でも、湾になってるけど、水行は海岸と記してるね。

149:日本@名無史さん
15/01/15 15:05:41.64 .net
お前らみたいな能無しは、地図の前に正座して、陳寿様の書いた通りに、なぞればいいんだよ。
南を東とか読み替えるな。失礼にもほどがある。

150:日本@名無史さん
15/01/15 15:07:04.12 .net
>>147
そう断定する理由は?

151:日本@名無史さん
15/01/15 15:09:19.10 .net
>>149
どうぞニューギニアにいらして下さい

152:日本@名無史さん
15/01/15 15:11:38.29 .net
澤散王屬大秦 其治在海中央 北至驢分 水行半歳 風疾時一月到

紅海を航行する場合でも単に「水行」のみ

153:日本@名無史さん
15/01/15 15:13:15.88 .net
>>151
真性のバカか。自分で川を遡ってみろ。

154:日本@名無史さん
15/01/15 15:13:23.14 .net
つねに理由に基づいて判断する畿内説
判断する理由を聞かれても答えられないアンチ畿内説

勝敗は明らか

155:日本@名無史さん
15/01/15 15:13:43.04 .net
>>152
それ、はっきり海だと明記されてるからね。

156:日本@名無史さん
15/01/15 15:16:04.07 .net
>>154
いたら何?

157:日本@名無史さん
15/01/15 15:27:45.12 .net
>>154
畿内説の根拠なんて一度も聞いたことがない。
纏向を邪馬台国とする根拠は何かと何度も聞いているが、
一番肝心なこれに答えるものは一人もいない。

158:日本@名無史さん
15/01/15 15:28:54.24 .net
素人質問でわるいが4世紀(2世紀?)
というか息長足姫命の足ってどういう意味?
息長ってのは潜水や鍛冶に関連してるってのは
わかるけど、”足”(タラシ)ってどういう意味?
何で「日巫女」とかじゃないの?

159:ローガン
15/01/15 15:33:14.41 .net
「東北至新羅,西渡海至越州,南渡海至倭國,北渡海至高麗。」
旧唐書百済。 百済、高麗間の渡海。

>>145
「以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界、以故縱城爲新沓縣以居徙民。」
三国志魏書三少帝紀。 遼東、斉間の渡海。  など。
地続きの渡海。

160:日本@名無史さん
15/01/15 15:42:28.41 .net
>>157
テンプレに書いてあるのをおまえが理解できないだけ

161:日本@名無史さん
15/01/15 15:50:25.23 .net
というか、纒向を邪馬台国とする根拠を聞いたことがあるのに畿内説の根拠を聞いたことがない、という意味がわからんのだが

162:日本@名無史さん
15/01/15 15:56:04.43 .net
いまどきアンチ畿内説なんか叫んでいるのが論理の初歩も理解できない低知能人だということでしょ

163:日本@名無史さん
15/01/15 16:06:03.16 .net
>>157
一番肝心なことがお前の晩飯ならば、誰もこの掲示板で答えてくれる見込みはない

164:日本@名無史さん
15/01/15 16:14:24.77 .net
断言するけど、畿内説は、日本列島における支配者は皇統以外あり得ないという信仰
が生み出した幻想。

165:日本@名無史さん
15/01/15 16:16:21.14 .net
渡海とも海岸水行とも書いてないのに、海と考える根拠ってあるのかな?

166:日本@名無史さん
15/01/15 16:16:40.29 .net
断言するけど、それは幻想

167:日本@名無史さん
15/01/15 16:18:21.79 .net
水行と書いてあったら、特段の根拠がない限り川ですね。

168:日本@名無史さん
15/01/15 16:18:30.58 .net
>>165
過去レスを読め

169:日本@名無史さん
15/01/15 16:19:54.01 .net
>>167
そう断定する理由は?

170:日本@名無史さん
15/01/15 16:23:59.60 .net
また ぶり返しか

171:日本@名無史さん
15/01/15 16:28:18.95 .net
結論だけ連呼するけど、理由はひとこともは言わない変な人々
それがアンチ畿内説

172:日本@名無史さん
15/01/15 16:54:46.93 .net
アンチ畿内説がいつまでたっても一歩も進化できない理由はコレか

173:孝霊厨
15/01/15 16:58:04.48 .net
川なら当然そう書くよ。
倭人伝に最初に地形が山島が連なる様子が書いてある。

174:日本@名無史さん
15/01/15 17:25:34.74 .net
倭人伝には、海なら海と書いてありますね。
書いてない場合は、川でしょう。

175:日本@名無史さん
15/01/15 17:28:54.55 .net
注輦國東距海五里,西至天竺千五百里,南至羅蘭二千五百里,北至頓田三千里,自古 不通中國,水行至廣州約四十一萬一千四百里。

URLリンク(zh.wikipedia.org)

水行とあるけど、どうみても海使ってますね
インドから川使って広州には行けないですから

176:日本@名無史さん
15/01/15 17:34:14.85 .net
河川厨憤死ww

177:日本@名無史さん
15/01/15 17:49:54.14 .net
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。

ここ読む限り、倭人は島に住んでるね。
そこに着くまでに海を渡ったとも書かれてる。
上陸してからは、一度も海を渡っていない。

ということは、不弥国からの水行は河だよ。
不弥は宇美。福岡から東南に内陸に入り、そこから河で南下。

答え、出ちゃったじゃん。

178:日本@名無史さん
15/01/15 17:50:48.96 .net
>>175
そこにもはっきり、「海」だと書いてあるね。
海の場合は、海だとわかるように海と書いてるわけだ。

179:日本@名無史さん
15/01/15 17:51:36.09 .net
南北百里,北岸則羅越國,南岸則佛逝國,佛逝國東水行四五日, 至訶陵國,南中洲之最大者

佛逝國・・・シュリーヴィジャヤ
訶陵國・・・シャイレーンドラ

これも海でしか行けないですね

180:日本@名無史さん
15/01/15 17:52:04.01 .net
倭人伝でも、海の場合は海岸とか書いてあったような。
ない時は川?

181:日本@名無史さん
15/01/15 17:52:36.47 .net
>>179
だから、海と書いてありますね。

182:日本@名無史さん
15/01/15 17:53:36.33 .net
海の場合は、海とか岸とか書いてあるのか。なるほどね。

183:日本@名無史さん
15/01/15 17:55:31.48 .net
そもそも、不弥国の南に海があるか?
不弥国をどこだと考えてるの?

184:日本@名無史さん
15/01/15 17:58:53.97 .net
赤土國,扶南之別種也。在南海中,水行百餘日而達。

流求國居海島,當建安郡東,水行五日而至。

これも海ですね

185:日本@名無史さん
15/01/15 18:02:40.27 .net
>>181
佛逝國に上陸して以降、海とは書かれていないですね

186:日本@名無史さん
15/01/15 18:07:00.03 .net
ぐぅの音もでないほど河川説は否定されたな

187:日本@名無史さん
15/01/15 18:13:17.84 .net
生み

URLリンク(maps.google.co.jp)

188:日本@名無史さん
15/01/15 18:45:58.48 .net
水行厨ってなんか宗教の人?

189:日本@名無史さん
15/01/15 18:46:15.89 .net
>>59
補足
『隋書』(656年)よりわずかに早く編纂された『周書』(636年)には、
「百済の祖先は恐らく馬韓の属国であり、夫余の別種である。
仇台(きゅうだい、クデ)というものがあって、帯方郡の地に国を興した」とある。
周書は、扶余や高句麗がワイ貊系であり、>>57にあるように
扶余は紀元前後に臨屯郡にあたりに流入してきた一族であったことを
裏付けている。

190:日本@名無史さん
15/01/15 18:53:01.51 .net
>畿内説の根拠なんて一度も聞いたことがない。

この板(のゴミクズレベル九州説)で学んだこと…

結局こんな2ちゃんの板で聞いてくるような奴は何度言っても理解しない
「ほれ俺様を納得させてみろ」
とほざいてるだけ

こんな所で聞かなくても普通の脳みそなら考えれば分かる
それが分かれば「畿内説の弱点」も分かる

今でも(東遷説の安本はチョット毛色が違いすぎるので別にしても)
関裕二とか九州説の作家の本は本屋に結構あるが
現在の考古学を(風味付けとしてw)入れながら尚且つ九州説を唱えられるのは
そのごく単純な弱点をついてるからだ

理解できない、否定するのならそれでも相手がそういう主張であると知って話を継続させるのならまだいいが
次になったら全てリセットして
「根拠がわかんなーい」
と繰り返す池沼がゴミクズレベル九州説

まあこのスレは畿内説前提なのでそんなことすらわからない低脳ゴミクズレベル九州説は去れ

191:日本@名無史さん
15/01/15 19:29:13.44 YOcv4WBEr
っていうか・・・
纒向を邪馬台国とする根拠を聞いたことがある
畿内説の根拠を聞いたことがない
って・・・頭、おかしくね?

既にゴミクズってレベルですら、ないんじゃ・・

192:日本@名無史さん
15/01/15 19:19:22.90 .net
>>137
>ところが最近、この疑問が解決しました。
>南九州ならではのポテンシャルがあったと思ってます。
>それは弓であり、その弓を作る真竹です。

こういうのが九州説(特に東遷説)の典型www
ある日「グッドアイデア」を思いついて小躍りする
…まあそこまではいいがw(そこまでは誰にでも覚えはあるだろうからw)
それで頭に血が上って突っ走って自説を客観的に見ることができなくなる
(ワンアイデア暴走型)

大体戦争において飛び道具が主体なのは古今東西当たり前の話
できれば相手の攻撃が及ばない安全圏から一方的に攻撃したいのは誰でも考える
海外の文化圏なら弓矢が発達してなくてもベルトに石を挟んで振り回して遠心力を利用する投石機とか…

いきなり鉄剣振り回して突撃するのは東遷厨の脳内の九州無敵鉄器軍団(笑)だけ

百億歩譲って竹による矢の生産が効率が良くても九州から
どんだけの数の矢を持ってきたんだよ?って話だwww
飛び道具は基本数ばら撒いての勝負

その利を活かして版図を広げるならその竹の繁殖地域を東に広げる必要があるわなw

尚「矢竹」が大いに利用され結果をあげた事例では徳川秀忠が
結局関ヶ原に遅参してしまう原因を作った「上田合戦」とかあるが
それも防衛戦(この辺は戦国ヲタなら詳しいかな?)

193:孝霊厨
15/01/15 19:52:59.69 .net
10日や20日も川を進んで行く場所なんて日本には無いです。
しかもそこは北部九州よりはるかに戸数が多いとかw
日本の地形や倭人伝の記述を無視しちゃダメです。

194:日本@名無史さん
15/01/15 20:02:52.72 .net
真竹・・・
第三紀中新世以降に日本や朝鮮半島から化石が見つかっている

まだ人類がいない件

195:日本@名無史さん
15/01/15 20:04:33.41 .net
まあ行程記事の暗号解読ゴッコなんか興味ないが
河川を遡上する場合の表記がどうなるかは多少気になるwww

畿内説で瀬戸内ルートを取る場合最後は大和川の遡上になるだろうから

196:日本@名無史さん
15/01/15 20:14:39.69 YOcv4WBEr
あんまり意味ない
歩きかもしれない

197:日本@名無史さん
15/01/15 20:46:26.13 .net
〇三国志
其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立為王〔1〕。
土地肥美,宜種五穀及稻,曉蠶桑,作?布,乘駕牛馬。嫁娶禮俗,男女有別。以大鳥羽送死,其意欲使死者飛揚〔2〕。
國出鐵,韓、ワイ、倭皆從取之。諸?買皆用鐵,

〔1〕魏略曰:明其為流移之人,故為馬韓所制。
〔2〕魏略曰:其國作屋,橫累木為之,有似牢獄也。

〇北史
又辰韓王常用馬韓人作之、世世相傳、辰韓不得自立王、明其流移之人故也。恒為馬韓所制。

三国志で弁辰について書かれている部分が、北史では辰韓の部分で書かれていることが分かる。
いずれにせよ、弁辰、辰韓は雑居状態であったため、実情は両国とも変わらなかったはずである。
つまり、弁辰、辰韓は馬韓の属国であり、辰王に属しながらも、辰王を選ぶ権限はなかったのである。
しかも、その理由については、弁辰、辰韓は外国人であったからとある。
それはつまりこういうことではないか。
朝鮮半島南部はこの時期(前漢から魏の時代まで)、辰国、韓地などと呼び方が二通りがあるが
王名は辰王とされており、なんらかの連帯の下、一つの統一性をもっていた。
そこから、周辺の流民がなだれ込んで来て混血、あるいは土地を借りるという形で韓地が
馬韓・弁韓・辰韓の三つに分けられた。
よって、弁辰、辰韓は周辺異民族がその特異性のゆえに馬韓の許しをえて建てた自治国である可能性がある。
(この時点で扶余は馬韓の属国にすぎない。)
新羅本紀や記紀の記述から考えれば、辰韓や弁辰には倭や秦人がいたので、この二つの異民族が
自治国家を立てていたのではないかと考える。

198:日本@名無史さん
15/01/15 21:13:35.02 YOcv4WBEr
おまえ畿内説と無関係だろ
空気読めよ

199:日本@名無史さん
15/01/15 21:07:03.76 .net
土人酋長が辰王を選ぶという行動はなかろ

辰王は雌で女王蜂の如き役割

土人酋長連のは雄蜂

200:日本@名無史さん
15/01/15 21:12:28.47 .net
URLリンク(img.whisper-voice.tracisum.com)

ここで少し疑問がある。
これは4世紀の朝鮮半島の地図であるが、
馬韓の多くが扶余人の国である百済に支配されたと言っても
馬韓の全土が占められているわけではなかった。
全羅道地域は、弁辰には含まれいないため、
馬韓から、任那、あるいは加羅へと発展した地域のはずである。
よって、弁辰が倭人系帰化人の国家であったとしても
任那は辰王のいた馬韓の系統が弁辰と協力する形で成立した可能性があるのである。

201:日本@名無史さん
15/01/15 21:23:49.60 .net
>>157
あーこいつ前にも同じこと言ってたわ
レベル低いカキコミしてたやつだったから印象に残ってる
理解する意思もなければ能力もないから今後は無視でいいだろうな

202:日本@名無史さん
15/01/15 21:27:18.08 .net
>>192
>>137
>今日、西日本どこでも見られる竹林は昔だれかが植えたものです。
これが神武東征の証拠ということだろう
邪馬台国は関係ないけど

>海外の文化圏なら弓矢が発達してなくてもベルトに石を挟んで振り回して遠心力を利用する投石機とか…
100年戦争当時フランスは弩でイギリスの長弓に対抗しようとしたけどダメだった

>どんだけの数の矢を持ってきたんだよ?って話だwww
上にあるように矢を運んできたわけではなく原料を育てたということだな
とすると神武東征は一方通行ではなく畿内と南九州の貿易路の開拓だったとも言えるかもね

203:日本@名無史さん
15/01/15 21:29:14.47 .net
畿内説は帯方郡から萬二千里という記述を完全に無視して成り立ってる説やからね。
纏向や箸墓が卑弥呼の墓という根拠も何一つないし。
ただ大和地方に強大な政権があって女王の墓があるということしか言っていない。

204:孝霊厨
15/01/15 21:30:01.35 .net
瀬戸内海や畿内周辺の水運の話は、パズルとは別にかなり興味深い。
奈良から瀬戸内海へ出るなら大和川ルートが最重要だが、
逆の場合は河内北部から木津川経由の方が遡上するなら楽だろう。
実際木津の名前はここが木材運搬の港でもあった証拠でもある。
箸墓の石の運搬話でも、大和川の水運ではなく、
人手で運んでいるのは、日本の川は基本的に遡上には向いていない証拠。

205:日本@名無史さん
15/01/15 21:33:37.25 .net
木津川の地名の由来は奈良時代なんだけど

206:日本@名無史さん
15/01/15 21:36:09.57 .net
答え、出ちゃったじゃんwww

207:日本@名無史さん
15/01/15 22:02:46.49 YOcv4WBEr
>>203
無視してると断定する理由は?

208:孝霊厨
15/01/15 22:55:36.36 .net
>>205
水運の事情を説明してるだけで、別に問題はないと思うけどな。
椿井大塚古墳の存在は、やはり当時から水運で重要な場所なのを
証明するものだろう。

209:日本@名無史さん
15/01/15 23:09:28.94 .net
〇漢書
傳子至孫右渠、所誘漢亡人滋多、又未嘗入見。
真番、辰國欲上書見天子、又雍閼弗通。
満の孫の右渠、漢の亡命者を誘致して国益を増したが、未だ天子に入朝せず、
真番や辰国は天子に入朝を求める上書をしたかったが、塞いで通行を妨げた。

倭がシナの歴史書に出てくるのは漢書が初出である。
倭人が武帝に朝見したとある。
その理由は、楽浪郡を置いたためであり、
これは、魏が帯方郡を訪れてはじめて倭の卑弥呼の朝見をうけたのと同じ事情である。
しかるに、武帝が楽浪郡を置いた約紀元前100年ごろ、ワイ貊が臨屯郡になだれ込む少し前には
倭はすでに楽浪郡のあたりにいた衛氏朝鮮と交易をもっていたことが分かる。
考古学的には、日本列島は紀元前4世紀までには組織的な水田稲作が始まり、人口の増加とともに
安定した国家経営が整う時期であるが、文献と付合させれば、半島南部にも日本列島からの富を背にした
倭人諸国家が形成され、楽浪郡地域と行き来があったと見るのが妥当であろう。
とすれば、半島における倭人諸国家の形成はかなり早い。
辰韓の成立が、秦始皇帝の労役から避難してきた時期、遅くとも紀元前210年ごろであることから
馬韓の辰王は秦人を倭人牽制のために辰韓を分地したとも考えられる。

210:日本@名無史さん
15/01/15 23:28:30.69 .net
2chの運営終わってるな

211:日本@名無史さん
15/01/15 23:32:27.88 .net
それが邪馬台国畿内説と一体どういう関係が?

212:日本@名無史さん
15/01/15 23:47:01.52 .net
公孫氏が朝鮮半島を支配していた時代
その前後にワイ貊が東から西へ、北から南へと国境を伸長させていた時期であった。
公孫康は東夷九種を服属させたとあるので、帯方郡が置かれて後
ワイ貊も従ったはずであるが、魏が帯方郡を接収すると、治安が乱れたようである。

帯方太守は、おそらく劉昕→劉夏→弓遵→王?と変わるのであるが
そのうち景初年中に太守となった者が劉昕、劉夏である。
三国志の記述に正確に従うのであれば、倭の卑弥呼は公孫淵が殺される
景初2年8月以前に魏に遣使している。
三国志には
景初中 明帝密遣帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣 越海 定二郡,
諸韓國臣智 加賜邑君印綬 其次與邑長。
との記述があることから、明帝は、公孫淵を囲い込むために
その征討以前に秘かに周辺国を懐柔していたものと思われる。
その懐柔策の中に倭国女王卑弥呼もいるのだろう。
ところで、劉昕は劉夏と異なり、他の史書にその名前が上がらない。
ひょっとすると劉昕と劉夏は同一人物の可能性がある。

213:日本@名無史さん
15/01/15 23:53:01.81 .net
帯方郡
↓水行七千里
狗邪韓国
↓海渡千里
津島国
↓海渡千里
一支国
↓海渡千里
末盧国
↓陸行五百里
伊都国
↓(東南)百里
奴国
↓(東)百里
不弥国
↓(南)水行20日
投馬国
↓(南)水行10日・陸行1月
邪馬台国

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり


畿内説は、邪馬台国から東に海を渡った倭人の住む国を明らかにせよ!

214:日本@名無史さん
15/01/15 23:57:22.36 .net
さて、帯方太守が弓遵に代わると、彼は正始6年(245年)に嶺東へ遠征して東ワイを討った後、
それまで帯方郡が所管していた辰韓八国を楽浪郡へ編入することとしたが
その決定を現地に伝えた際、通訳が誤訳を犯して臣智激韓を激怒させ、郡内の韓族に帯方郡の崎離営を襲われる。
彼は楽浪太守劉茂と兵を興して韓族を滅亡させたが戦死することとなった。
おそらく事情はこうである。魏は公孫氏を滅ぼすために、東ワイ・韓に印綬を授けたが
長期的には前漢の漢四郡の栄光をとりもどすべく旧臨屯郡・真番郡に割拠していた東ワイ・韓による間接統治から
魏による直接統治へ切り替える意図をもっていた。
その伏線として、遠交近攻の定石に基づき、一番遠い倭に金印を与えたのだと思われる。
中華王朝では昔から戦わず勝つのが上策であるが、いざとなったら、
倭に東ワイ・韓を討つ助けとなってもらうつもりであったのだろう。
だが、弓遵のやり方はまずく諸韓首長たちは危険を感じ、一致団結して魏と戦う姿勢を見せることとなり
結果、弓遵は戦死することとなった。
以後、半島における魏の戦略は停滞し、その状態が西晋の滅亡までつづくこととなった。

215:日本@名無史さん
15/01/16 01:34:46.82 .net
〇魏時代前後における新羅本紀における倭(wikiから抜粋)
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三月に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿?の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。

216:日本@名無史さん
15/01/16 01:58:24.45 .net
>>192
で能書きはいいけど、畿内は何で弓を作ってたの?

217:日本@名無史さん
15/01/16 02:02:46.45 .net
新羅本紀によれば、卑弥呼の年代が倭人伝と比べやや古く遡りすぎとなる。
だが、239年に金印の加賜があり、魏が倭の半島における治安関与に期待していたのだとすれば
新羅本紀における倭の活躍はその裏付けとなると言うに十分である。
また、同時期の百済に関する記述も存在する。百済も倭に増して新羅に侵攻しており、
ワイ貊系流民が南下してきていたことがうかがえる。
一方、魏に関する記述は一切ない。これは百済本紀も同様である。
なるほど、この時期の百済・新羅は魏に認識されるほどの大国ではなく、
また記録や伝承も残らなかったのかもしれない。
239年から弓遵が戦死する245年の間、魏は直接支配を試みたものの
間接統治となって以降、後漢の時と同じように、冊封された東ワイ・韓・倭などによって
争いが起きるようになったことは想像に難くなく、新羅本紀はその一端を表しているものと
思われる。馬韓もその争いの中で滅びて行ったのであろう。

新羅本紀には馬韓の記述がある。伝説の域を出ないものであるが、

紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に「辰・卞二韓は、わが属国であったのが、
近年には貢物も送らない。大国につかえる礼が、これでいいのか」といった。これに対して瓠公は「わが国は二聖が国をたててから
人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人にいたるまで恐れ、
かつ、したわないものはありません。・・・・

とあり、馬韓が弁辰・辰韓を統属させていたこと。
一方、紀元前後より他の二国が独立性をもちはじめていたこと
二つのことをうかがわせている。

218:日本@名無史さん
15/01/16 03:36:23.62 .net
古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)
のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。
 従って、水行は、河川航行との主張は合理的と考えます。
URLリンク(app.m-cocolog.jp)

219:日本@名無史さん
15/01/16 03:43:58.70 .net
>>200
つうか、そこが和人の故郷だろ。天照が生まれ死んだ土地。

220:日本@名無史さん
15/01/16 06:24:15.70 mxrxeU9gn
ここまで荒らすって、アンチ畿内説は一体どれほど通説が怖いんだろうね

221:日本@名無史さん
15/01/16 09:53:18.19 .net
>>217
>魏が倭の半島における治安関与に期待していたのだとすれば

  何妄想してるんだよ  バカじゃねーか www

222:日本@名無史さん
15/01/16 10:46:32.68 mxrxeU9gn
外臣になったんだから当然期待されるだろ

223:日本@名無史さん
15/01/16 11:13:09.37 mxrxeU9gn BE:3378704494-2BP(0)
二郡が韓と戦闘状態に入ったら倭には魏側として参戦するか、少なくとも背後で韓を牽制するくらいの役目は期待されたろ

224:孝霊厨
15/01/16 11:19:07.42 .net
明日香でまた最大規模の方墳らしき遺跡が発表されましたね。
まだまだ古代史を再考するような遺跡はこれからも続きますよ。
当然邪馬台国畿内説を補完する事になります。

225:日本@名無史さん
15/01/16 11:25:29.46 .net
過度の期待は禁物

226:日本@名無史さん
15/01/16 11:38:30.60 .net
邪馬台国は陳寿が示した通り、福岡県の南にある。

227:日本@名無史さん
15/01/16 11:40:10.20 .net
896 名前:日本@名無史さん :2015/01/16(金) 10:47:45.13
>>894
倭人伝には卑弥呼の墓について「径百余歩」と書かれている。
これから連想される卑弥呼の墓は、直径145m程度の円墳。
全長280mの前方後円墳である箸墓とは全く似ていない。
おまけに箸墓は宮内庁の管轄で内部の調査は行われていない。

こんな箸墓がどうして卑弥呼の墓となりえたのか。
元々、箸墓は中期の古墳と言われてきた。大型の古墳であり、
平野部に築かれていて、前方部が発達した前方後円墳の完成形で
あることを理由にしていた。年代も全然違っていたわけだ。

大きさも形も年代も違い、おまけに調査も行われていない箸墓が
どうして卑弥呼の墓になりえたか。
畿内説の考古学者は、年代合わせに奔走した。そして、年代を合わせ、
年代が合うから卑弥呼の墓だといったわけだ。

それはおかしいんじゃないかと言われるのが普通だろうが、
あまり反対の声も出なかったらしい。
そして、現在、箸墓は年代が合わないから卑弥呼の墓ではないと
畿内説の考古学者は言い出した。唖然として言葉もない。

これが畿内説の考古学なんだな。三角縁神獣鏡も同じ。

228:日本@名無史さん
15/01/16 11:40:22.47 .net
なにを醜く言い張ってるの?
もうあきらめたら?

229:日本@名無史さん
15/01/16 11:44:55.41 .net
>>227
まいど熱心な学史捏造活動あつかれさまです

230:日本@名無史さん
15/01/16 11:53:16.73 .net
こんな現代の話さえ平然と偽史を作っちゃう東遷説が
古代でいったい何をしてるかは、お察し

231:日本@名無史さん
15/01/16 11:57:17.16 .net
箸墓が卑弥呼の墓と言われる理由は
物的証拠があるから

・天皇の墓は三段築成
・箸墓は四段築成

古墳の形状という物的証拠から
当時の人々は、箸墓は天皇より偉い人の墓と認識していたことがわかる

箸墓は、女性の墓、モモソ姫の墓と言い伝えもあるので
卑弥呼の墓の候補になっている

232:日本@名無史さん
15/01/16 12:01:14.66 .net
断言するけど、畿内説は、日本列島における支配者は皇統以外あり得ないという信仰
が生み出した幻想。

233:日本@名無史さん
15/01/16 12:01:55.66 .net
一番偉い人(卑弥呼)の墓を四段にしてしまったので
それ以降は三段までしか作れず
だから古墳は広さはあっても高さがないんだろうね

卑弥呼より高い墓を作るのは不敬なので

234:日本@名無史さん
15/01/16 12:02:13.91 .net
箸墓の公式調査報告書が出てるのを知らない人がいるのか

235:日本@名無史さん
15/01/16 12:03:48.67 .net
>>232
そういう幻想を振り撒いてるのって、東遷説の安本とかじゃね?

236:日本@名無史さん
15/01/16 12:07:05.68 .net
天智天皇から1代あたり10何年とかで遡って神武天皇が西暦何年とか、天照大神が西暦何年とか言ってる東遷説は、まさに日本列島における支配者は皇統以外あり得ないという信仰が生み出した幻想を必死で宣伝しているかのようだが

237:日本@名無史さん
15/01/16 12:07:48.14 .net
>>233
その発想、変だよ。

箸墓は、畿内で偉い人の古墳かもしれないというだけで、それが卑弥呼の墓だという
証拠や論理が欠けてる。

238:日本@名無史さん
15/01/16 12:23:52.18 .net
>>237の発想はヘンだよ
というか、事実と合っていない

箸墓は畿内で一番じゃなくて日本で一番高く大きな墓なのだから
「畿内で偉い人の古墳かもしれないというだけ」というのは道理に合わないし

同時代に日本で最も大きな墓だから卑弥呼の墓だという証拠も論理も明瞭そのものだ

239:日本@名無史さん
15/01/16 12:42:27.14 .net
いまどき箸墓を中期古墳だなどと言いだしても、一笑に付されるだけだしな
ましてやその唯一の理由が、もともと昔はそういう説だったから、などと言ったら
とんだ笑い者だろう

240:日本@名無史さん
15/01/16 12:43:04.19 .net
俺が日本で一番大きな古墳を作って墓にしたら、俺が卑弥呼になるのか。

241:日本@名無史さん
15/01/16 12:50:04.24 .net
三世紀に行って作ってこい

242:日本@名無史さん
15/01/16 12:54:23.49 .net
>>237の発想が変なのは間違いない
畿内限定にする発想がね

243:日本@名無史さん
15/01/16 12:57:22.59 .net
畿内で偉い人の古墳かもしれないというだけだ、という
証拠や論理が欠けてるww

244:日本@名無史さん
15/01/16 13:00:26.71 .net
卑弥呼は日本列島で一番という発想から根拠がないね。

245:日本@名無史さん
15/01/16 13:01:19.71 .net
>>240の思考から「同時代」が欠落している点が歴史板関係者失格っぽくて笑える件にていて

246:日本@名無史さん
15/01/16 13:01:35.52 .net
>>224
数百年後の遺物をもって邪馬台国にこじつけるゴッドハンド
それが畿内説

247:粟国
15/01/16 13:01:39.60 .net
卑弥呼の時代だったら墳丘墓程度じゃないですか

248:日本@名無史さん
15/01/16 13:03:11.82 .net
>>244
根拠は「親魏倭王」

249:日本@名無史さん
15/01/16 13:04:20.58 .net
俺が今、日本で一番大きい古墳を作っても、俺が今の日本で一番ではない。
同じように、3世紀頃の一番の古墳の主が、一番の権力者だったかは分からない。
そもそも、卑弥呼が、当時の日本列島全体の支配者だったかも分からない。

250:日本@名無史さん
15/01/16 13:05:39.56 .net
箸墓や巻向はヤマト王朝が征服した蝦夷の遺していた遺跡だろ
後の遺跡は連続性がなくデカくしているわけで
もといた民族を上回りたかったんだろ

251:日本@名無史さん
15/01/16 13:06:12.34 .net
>>244
ぼくちゃん
一番でない人が中華帝国から種人を綏撫することを期待されるかどうか
よく考えてみようね

252:日本@名無史さん
15/01/16 13:06:38.02 .net
>>234
箸墓内部をいつ調査したんだw

253:日本@名無史さん
15/01/16 13:08:23.28 .net
>>249
>・・・俺が今の日本で一番ではない。

むしろ最低だろう

254:日本@名無史さん
15/01/16 13:09:54.25 .net
中国の見方を重視するなら、中国では、邪馬台国は不弥国の南にあることを重視しようね。

その邪馬台国の東には海があり、海の向こうににも倭種が住むが、当時、そっちには興味
がなかった。日本列島全体のことなんか見てないんだよ。

255:日本@名無史さん
15/01/16 13:10:12.99 .net
>>249
分からない理由は
ばかだから

256:日本@名無史さん
15/01/16 13:12:50.26 .net
倭人伝の記載は九州とその南の種子島、沖縄を指していて
東の海の向こうの倭種が畿内だと素直に読めよ

257:日本@名無史さん
15/01/16 13:15:15.36 .net
>>252
誰も言っていない架空の主張を創作して非難してみる東遷説の捏造体質が笑える件について

258:日本@名無史さん
15/01/16 13:16:37.24 .net
倭人伝を読めば、邪馬台国は九州以外に考えられないけどね。

259:日本@名無史さん
15/01/16 13:19:13.76 .net
考古学の発達が、九州だけを倭国として切り離すような尻尾切り説を既に許さないことを、未だに認識できない有様だから、九州説は学問の世界から脱落した落伍者の落語になり下がった

260:日本@名無史さん
15/01/16 13:24:31.64 .net
日本神話でヤマタノオロチにされた部族がいた場所は
あの豪雨災害があった広島だろ?昔の地名がそのままだよな

ヤマタノオロチ=邪馬台雄呂血
邪馬台国は広島なんじゃね?

イズモを興したスサノオが邪馬台国を攻撃し邪馬台国の勢力は畿内に落ち延びた
これが東征に置き換えられ
数百年の後畿内大和が出雲を征服したと言うわけだ

261:日本@名無史さん
15/01/16 13:26:55.28 .net
>>242がまた何か捏造している件について

262:日本@名無史さん
15/01/16 13:29:01.59 .net
>>260
どんだけやけくそに必死なんだよアンチ畿内説

263:日本@名無史さん
15/01/16 13:29:59.76 .net
>>259
>>260の妄想は差し置いても
中国地方に出雲の勢力があったわけで倭国は九州ないでないとおかしい
畿内が西日本統一するには出雲を押さえた上でなければ九州を治められない
つまり邪馬台国の時代には別の地域国家であったはず

264:日本@名無史さん
15/01/16 13:30:46.78 .net
魏志倭人伝上に根拠を求められない畿内説の負けだよね。

265:日本@名無史さん
15/01/16 13:34:15.25 .net
畿内説は倭人伝を横に置いて、邪馬台国から遥か時代をくだる文献から卑弥呼をこじつける
まるで人間が桃から生まれたようなトンデモ

266:孝霊厨
15/01/16 13:35:58.70 .net
邪馬台国は間違いなく畿内が中心ですよ。
但し巻向は祭祀施設と交易場なだけですが。

267:粟国
15/01/16 13:36:24.09 .net
>>263 邪馬台国の時代には別の地域国家であったはず

それは阿波国周辺です

268:日本@名無史さん
15/01/16 13:36:48.86 .net
魏志倭人伝上に根拠を求められない、とか
畿内説は倭人伝を横に置いて、とか
非難する理由は何なの?

269:日本@名無史さん
15/01/16 13:40:19.98 .net
畿内が倭国又は邪馬台国であるなら
当時の敵対勢力の蝦夷の記述があってしかるべき
倭人伝には南九州にいる敵対勢力狗奴國(クマソ)の記述がある

270:日本@名無史さん
15/01/16 13:41:37.68 .net
>>268
方角をねじ曲げないと主張出来ない出来損ない説

271:日本@名無史さん
15/01/16 13:45:33.56 .net
>>263
「中国地方に出雲の勢力があった」という理由
それだから「倭国は九州ないでないとおかしい」という理路
どれも不明なんだけど

祭祀同盟的連合政権説をとっている畿内説では「九州を治める」とか「畿内が西日本統一する」という状況を想定していないし、卑弥呼生前のうち既に出雲も九州も連合の一員(傘下)とみているわけだから

弥生終末の地域間交流をみるに「邪馬台国の時代には別の地域国家であったはず」という理由が全く見つからない

272:日本@名無史さん
15/01/16 13:48:59.11 .net
>>270
伊都国を糸島、奴国を那ノ津とする通説はみんな方向を「ねじ曲げ」てるんだけど?
それが一体いかなる理由で「出来損ない」だと?

273:日本@名無史さん
15/01/16 13:49:53.57 .net
754 名前:日本@名無史さん :2015/01/15(木) 00:14:06.15
卑弥呼も邪馬台国も、陳寿の頭の中では明確に特定されてる。
陳寿は、倭国は周旋五千里ばかりとし、邪馬台国は不弥国から南へ水行20日、さらに
南へ水行10日、陸行1月とした。

「そのままだと九州を通り越す」と言う奴は馬鹿。保証する。

天才陳寿は、出鱈目を書いたのではない。
彼の地図に矛盾はない。

水行は、河川交通。
魏志において、河川でなく海の場合は、必ず海と書いてある。
川を遡るのは時間がかかる。江戸時代、川越から日本橋の往復で2週間。
上りが多く、整備されていない川だと、20日で数十kmがやっとだ。

道無き道を歩くのも大変で、1日5kmも進めない。
街道が整備された江戸時代の例から、1日20km進めると言うやつはキチガイ。

陳寿が明確に特定した邪馬台国は、東に海がある。

以上を総合すると、邪馬台国は、大分から宮崎の辺り。
それ以外にはあり得ない。

274:日本@名無史さん
15/01/16 13:52:39.75 .net
畿内説が倭人伝を無視してるというレスにマジレスすると
畿内説では倭人伝で明らかな誤りがあると判断された場合には、別の方法を探っているだけ
一方、九州説では倭人伝で明らかな誤りがあった場合でも解釈を捻じ曲げたり捏造までして
九州にあったという恣意的な結論を導いている
倭人伝を正しく読んでるのは明らかに畿内説の方

275:孝霊厨
15/01/16 13:53:07.84 .net
出雲で多くの伝承を残してるのは孝霊天皇ですからね。
つまり畿内の王は瀬戸内から出雲で賊を退治してる訳です。
具体的には月支国の船団だとされていますが。
これが他ならぬ倭国大乱でしょう。孝霊の名も霊帝に合わせて名を付けている訳です。

276:日本@名無史さん
15/01/16 13:53:42.34 .net
>>269
一体いかなる理由で、当時の敵対勢力が蝦夷だと?
卑弥呼と卑弥弓呼という王号(おそらく)の類似からみて同一文化圏とみるほうが自然でない?

277:日本@名無史さん
15/01/16 13:56:21.53 .net
熊本説だと、何も修正しなくていいけどなあ。

278:粟国
15/01/16 13:58:32.10 .net
>>273 それ以外にはあり得ない。

有り得ます
末盧国(博多)→伊都国(直方辺り)→奴国(田川、飯塚辺り)→不弥国(椎田、行橋辺り)
→投馬国(四国宿毛)→途中 若杉山の丹採掘視察→邪馬台国(徳島国府の矢野集落)

279:日本@名無史さん
15/01/16 13:58:55.60 .net
大名行列
行列の速度については、宿場などを通り過ぎる時は整然とした隊列を組んでゆっくりと行進するが、
街道などそれ以外の場所を移動する際は隊列を崩してやや早い速度で移動していた。
旅人が12日から13日程度かかる道のりであれば、それより2日程度早くたどり着く速さであった。
これは、街中では大名の権威と格式を誇示するため長時間をかけて進み、それ以外は経費節約のため出来るだけ行程を
短縮する狙いがあったものと考えられている。これの極端な例として、1643年(寛永20年)に前田家4代目の光高が
約120里(約480km)の行程で、普通に行けば12泊13日で終える道程を6泊7日で移動したという記録がある。

旅人平常速度:480/13=37 [㎞/day]
大名行列MAX速度:480/7=69 [km/day]

280:日本@名無史さん
15/01/16 14:01:11.33 .net
>>273
魏志において、河川でなく海の場合は、必ず海と書いてある
という証拠は?

281:日本@名無史さん
15/01/16 14:01:11.44 .net
>>277
距離と戸数が合わないけどね。

282:日本@名無史さん
15/01/16 14:06:18.53 .net
羽柴秀吉の中国大返しでは、
200キロの道のりを7日で返している。
30キロ弱である。

それは当時の行軍では考えられない早さであり、
昼夜兼行で駆け抜け、先行隊が村々に炊き出しなどを命じていて、
その書状も残っている。


博多と二日市の宿との間は約15キロ。
健康な壮年男性なら歩ける距離であるが、
老人や女子供には苦しい距離であり、
のちに雑餉隈に宿ができている。

283:日本@名無史さん
15/01/16 14:09:56.14 .net
>>281

距離は松浦までの距離から計算できる。
普通の里との乖離は、
短里でも、誇大に記録したでも良い。

戸数は江戸時代には倭人伝の戸数の3~5倍の
人口が確認されているわけなので、
容量は十分あると見て良い。

284:日本@名無史さん
15/01/16 14:13:18.17 .net
>>283
そういうどうでもいい妄想はクズスレでやれ
アホが

285:粟国
15/01/16 14:15:36.62 .net
266さん あり得るでしょ

286:日本@名無史さん
15/01/16 14:19:17.02 .net
古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、すなわち揚子江)、淮水(淮河)
のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。
 従って、水行は、河川航行との主張は合理的と考えます。
URLリンク(app.m-cocolog.jp)

287:日本@名無史さん
15/01/16 14:19:18.32 .net
>>282
秀吉の行軍は万単位の重武装と多少の食糧を携帯してのもの。
遣使のそれとは比べることはできない。

宿場町は一日の行程距離で間隔が空いているわけではない。
東海道の平塚宿・大磯宿の間隔はわずか27丁。
旅人が野宿して夜盗に襲われることがないように
地理と需要を考慮して作られているにすぎない。
難所の近くでは短く距離を刻んでいる。

288:日本@名無史さん
15/01/16 14:20:53.70 .net
馬牛がいない当時は道も整備されていないわけで、
1日に歩ける距離は、数キロだよ。

289:日本@名無史さん
15/01/16 14:22:13.60 .net
熊本は東に海がない。そもそも熊本が、邪馬台国と対立して奴国と戦争した狗奴国だろ。

290:日本@名無史さん
15/01/16 14:23:43.33 .net
江戸時代の街道の宿場間距離は、16キロ程度が上限であり、
それを超えることは殆ど無い。

健康な壮年男性ならば、一つ飛ばして行く程度は余裕だろうが、
荷物を運ぶ場合など、色々な条件があるために、
ある程度余裕を持った距離で配置されている。

291:日本@名無史さん
15/01/16 14:23:46.41 .net
1日に歩ける距離が数㎞とかどんだけ遅いんだよ。

292:日本@名無史さん
15/01/16 14:27:37.98 .net
>>290
老婆が旅をすることはほとんど考えられていないだろう
そんな需要がほとんどない

293:日本@名無史さん
15/01/16 14:29:38.71 .net
>>287

宿場に必要性と需要があれば、
距離が短くなるぶんには、休む場所が増えるだけで、
問題はないだろう。

しかし、ある程度余裕を持った旅を考えると、
最長でも16キロ程度に押さえなければ
実用的ではないのである。

身軽な壮年男性ばかりではないのだから。

294:日本@名無史さん
15/01/16 14:31:01.60 .net
>>292

老婆じゃなくて男性の老人かも知れないが、
15キロでは長すぎて、中間点に近い
雑餉隈の宿は需要があったようである。

295:日本@名無史さん
15/01/16 14:32:08.90 .net
他スレにも書いたから、気づいているはず

『北斗の拳』主人公の胸の傷は
「白羽の矢」

ヤマトタケルの話と同じ
生贄のようなものだよ

神殿、祭壇があって「チェーンソーゲーム」のようにされる

祭壇を調べてみて

296:日本@名無史さん
15/01/16 14:33:24.88 .net
なんにも理由を言わず結論だけ頑なに連呼する>>286ってのは、九州説の典型なのか?
それとも九州説の恥なにか?

297:日本@名無史さん
15/01/16 14:39:41.47 .net
忘れてはいけません
行程論で邪馬台国の位置を求めようとしてる九州説の皆さんは、1里が何キロで1日の行程が何キロであることを特定しないと、邪馬台国が特定できないんですよ
何キロで「ありうる」「あってもおかしくない」では用を為さないんです

その距離が「絶対正しい」でなければ、あなたの邪馬台国の位置も「絶対正しい」になってくれないんですよ

298:日本@名無史さん
15/01/16 14:39:58.82 .net
それと天孫降臨、サルタも関係してる

謎の書き込み「神様の真似なんてしてるから、こんなことになった」

299:日本@名無史さん
15/01/16 14:40:00.55 .net
ボットなんじゃね?
でも、すぐ反論してくるからチョンの工作かもね

複数人でルーチンを回してるから、まだ論破されてるって情報が上司に報告されない間は
しばらく同じコピペを貼りつづけることになるのかも

300:日本@名無史さん
15/01/16 15:01:20.36 .net
畿内説信者は妄想がひどいなw
精神病煩ってんじゃね?

301:日本@名無史さん
15/01/16 15:08:54.53 .net
コピペ貼りつづけているほうがよっぽど精神病んでるですけど
そんなイカレた人間を想像したくないからチョンの工作なんてものが現実味を帯びる

302:日本@名無史さん
15/01/16 15:17:37.81 .net
断言するけど、畿内説は、日本列島における支配者は皇統以外あり得ないという信仰
が生み出した幻想。

303:日本@名無史さん
15/01/16 15:27:23.28 .net
邪馬台国が畿内なら王宮は軽境原宮か春日率川宮

304:日本@名無史さん
15/01/16 15:32:18.32 .net
畿内説は、帯方郡から萬二千里という記述を完全に無視して成り立ってる説やからね。
纏向や箸墓が卑弥呼の墓という根拠は何一つない。
ただ大和地方に強大な政権があって、大きな墓があるということしか言っていない。

305:日本@名無史さん
15/01/16 15:38:27.31 .net
倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山東に依りて国邑を為る。
帯方郡より倭に至るには、
帯方郡
↓韓国
↓【南】海岸水行7000里
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里
津島国(方400里、千戸)
↓海渡1000里
一支国(方300里、三千家)
↓海渡1000里
末盧国(四千戸)
↓【東南】陸行500里
伊都国(千戸)※大率が置かれる
↓【東南】100里
奴国(二万戸)
↓【東】100里
不弥国(千戸)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)
↓【南】水行10日・陸行1月
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)→【東】海渡1000里、国あり皆倭種
↓【南】4000里
侏儒国
↓【東南】船行1年
裸国・黒歯国

◎女王国以北
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国
その南に狗奴国あり。男王・卑弥弓呼。その官に狗古智卑狗あり。女王国に属せず。
◎帯方より女王国に至るまで12000里
◎倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施5000里

306:日本@名無史さん
15/01/16 15:51:23.13 .net
>>300
鏡だよ乙

>>301の指摘通りだ
病んでますよ、アンチ畿内説さん
>>286もそうだし、>>302>>304-305mみんな連続コピペだ
何をどう反論されても知らん顔
患ってますね

307:日本@名無史さん
15/01/16 16:02:34.77 .net
また散々論破された神獣鏡かよwww

308:日本@名無史さん
15/01/16 16:04:47.32 .net
どうしようもないコピペ攻勢を続けるアンチの気持ち、というか頭の構造がわからない
そんなこと、すればするほど、九州説や東遷説がもうダメ末期症状だと知れ渡るだけだろうに

309:日本@名無史さん
15/01/16 16:05:10.60 .net
いまどき三角縁の鏡持ち出すとかニワカか馬鹿か

310:日本@名無史さん
15/01/16 16:09:18.11 .net
三角縁(舶載)は魏鏡でほぼ確定だろ?

311:日本@名無史さん
15/01/16 16:14:57.69 .net
畿内説息するように嘘をつき
大量の国産鏡が根拠の畿内説ww

中国からの鏡は主に九州の出土ですがw

312:日本@名無史さん
15/01/16 16:16:13.65 .net
唐突に神獣鏡の話を思い出しちゃう>>307にとって三角縁がトラウマらしい件について

313:日本@名無史さん
15/01/16 16:19:28.81 .net
畿内説は本当にたちが悪い
でっち上げが破綻するとまた次のでっち上げを続ける
ゴッドハンドのスクツ

314:日本@名無史さん
15/01/16 16:19:38.91 .net
>>311
証拠もなく言い張ってもダメじゃん

315:日本@名無史さん
15/01/16 16:22:40.58 .net
>>313
破綻したでっち上げとは具体的に何のことで、破綻したという証拠は何かね?

316:日本@名無史さん
15/01/16 16:27:36.47 .net
証拠もなく>>311>>313みたいなことを言うことを
世間は悪質な中傷というんではないの?

317:日本@名無史さん
15/01/16 16:33:35.85 .net
三角縁三神三獣鏡みたいに細かい種類があるけど、
どれが舶載で、どれが国産かはわかってるんだろうか?

それとも、それらの種類の中でも、舶載と国産が
混在してるのだろうか?

318:日本@名無史さん
15/01/16 16:43:26.26 reHWgJGt8
古田某の三角縁の銘文字体問題ってどうなの?
龍の字が魏・晋時代にはなかったとかいうやつ

319:日本@名無史さん
15/01/16 16:36:18.00 .net
合金の組成でわかる
もっとも全部中国製だという説もあるが

320:日本@名無史さん
15/01/16 16:39:54.62 .net
>>316
畿内説信者は痴呆ばかりですか?
自分たちが今迄ぶち上げて破綻した説は全て忘却の彼方ですかねw

321:日本@名無史さん
15/01/16 16:42:29.82 .net
主だった鏡は全部成分検査してはっきりさせるべきだと思うな
景初四年とか

322:日本@名無史さん
15/01/16 16:43:23.70 .net
>>320
だから、破綻した説とは具体的に何のことで、破綻したという証拠は何かね?

323:日本@名無史さん
15/01/16 16:44:52.90 .net
あと銅鐸の成分も検査して国産鏡の成分と比較すればいい

324:日本@名無史さん
15/01/16 16:45:25.98 .net
とっくにされてる

325:日本@名無史さん
15/01/16 16:52:25.13 .net
科学的分析をした人の報告書は、みんな魏鏡説支持側だな

326:日本@名無史さん
15/01/16 16:58:32.93 .net
具体的な話で問い詰められると必ず逃げる>>320は詐欺師の東遷厨

327:日本@名無史さん
15/01/16 16:59:08.28 .net
なんとか景って「美穂だったのかい」
ヘッドフォンとかして人の真似していたヒトだろ

ロデオ、カウボーイw

328:日本@名無史さん
15/01/16 17:03:44.11 .net
畿内説が有利という話を聞くと、どうしてそういうことになるのか不思議でなりません。
邪馬台国論争という観点からすると、畿内説の論点は破綻し続けているからです。

たとえば、以前、畿内説の推す邪馬台国は唐古・鍵遺跡でした。
しかし、吉野ヶ里遺跡の登場で、これは放棄されました。全く比較にならなかったからです。
吉野ヶ里遺跡は、まさに倭人伝に登場する国そのものでした。『宮室、樓觀、城柵』の跡も見つかりました。
しかし、唐古・鍵は、石器を作り続ける遺跡で、王のいた痕跡など皆無でした。
苦肉の策というわけで、纏向を邪馬台国としたわけですが、年代はいったいどうなっているのか、納得行く説明はありません。

畿内説は、考古学を重視し、その柱として三角縁神獣鏡が卑弥呼が魏からもらった鏡だとしました。
三角縁神獣鏡は国産だという九州説と激しい論争がありました。畿内説はもう三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡だと主張することはありません。
どう考えてもこの説には無理があるのです。はっきり言うと、最初から無理があったのです。年代が合わなかったのです。
もちろん、畿内説は公に負けを認めることはありません。

卑弥呼の墓についても同じです。合わない年代を無理やり合わせて、年代が合ったから卑弥呼の墓だと主張しましたが、根拠がありません。
箸墓は全く調査されていないのです。さらに言えば、魏志倭人伝の記述とは大きさも形も異なるのです。
今では年代も合わず、卑弥呼の墓にはなりえません。にもかかわらず、新聞などではいまだに『卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳』です。

『邪馬台国の最有力候補地、纏向遺跡』などの新聞記事で、畿内説有利との印象を持っている人がいるのかもしれませんが、
こういう宣伝めいた記事を書かせることは恥ずかしいことだと思います。

これは重要なことですが、卑弥呼の鏡にしろ、墓にしろ、魏志倭人伝の記述を元にしているということです。
邪馬台国も卑弥呼も魏志倭人伝に書かれていることで、考古学的に出てきたものではありません。
にもかかわらず、文献よりも考古学の方が重要というのを聞くと、本末転倒だと思います。
邪馬台国論争は本質的に文献上の問題なのです。

URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)

329:日本@名無史さん
15/01/16 17:05:04.09 .net
27 :日本@名無史さん:2014/04/15(火) 05:46:16.48
>>25
畿内説ってのは、学者も含めて自論を強硬に主張するが、破綻すると
完璧に忘れてしまう傾向がある。
そして、俺はそんなこと言った覚えはない、と来る。

何を言いたいのかというと、以前、畿内説の学者の中には、唐古・鍵が邪馬台国で
あり、ここの人々が移動して纏向を建設したと言っていた人が多かった。
これを自生説というが、今とは全く違う説を主張していたわけだ。
そして、今は誰もそれについては触れない。

なぜ、地域内の移動を否定するようになったか。つながらないんだな。
唐古・鍵と纏向ではどうしてもつながらない。
だから、各地の豪族の連合説が生まれた。

畿内説はコロコロ変わる上に、主張が非現実的なのだ。
畿内説の信者も、コロコロ変わる畿内説の学者の考えについていっていない。
未だに、三角縁神獣鏡や箸墓に拘っていたりする。

330:日本@名無史さん
15/01/16 17:06:27.81 .net
そういう創作物語はもういいから
証拠のある具体的な話をしなよ

331:孝霊厨
15/01/16 17:07:15.10 .net
倭人伝の記述に従うなら、発掘される中国製の鏡は
卑弥呼が死んだ以降、三世紀後半の遺跡に見つかればいいんだけどね。
なので九州の遺跡からは早くから沢山見つかるという、
九州説の主張なんて全くの的外れなんです。
これも安本先生の鉄器詐欺と同じ。

332:日本@名無史さん
15/01/16 17:09:39.64 .net
それより教えろよ
畿内のどこに卑弥呼の墓があるんだ?

333:319
15/01/16 17:12:28.18 .net
さいババ「銀という人がいて、家に凄い刀が飾ってあったんだよ」

確か次男か三男だよ

334:日本@名無史さん
15/01/16 17:12:49.62 .net
>>328-329って、ただの中傷じゃん
証拠のひとつも出てこない

335:日本@名無史さん
15/01/16 17:12:51.39 .net
邪馬台国の問題は歴史認識にも影響しかねないので、
コピペ連投の工作員が出動するのだろう。
それでも最近は九州説なんて有り得ない事がわかってきたので、
必死で東遷説を持ち上げてる訳です。

あの竹田氏を見てればわかりますね。

336:日本@名無史さん
15/01/16 17:14:19.45 .net
>>332 纏向

337:日本@名無史さん
15/01/16 17:15:47.57 .net
>>336
証拠は?

338:日本@名無史さん
15/01/16 17:16:35.46 .net
最終的に東北に行きつくよ

339:日本@名無史さん
15/01/16 17:17:00.56 .net
「箸墓は全く調査されていないのです」って、こんなウソあり?

340:日本@名無史さん
15/01/16 17:18:23.07 .net
>>339
えっ?
いつ墓の内部調査したんだ?

341:日本@名無史さん
15/01/16 17:18:35.92 .net
>>337
テンプレ参照

342:孝霊厨
15/01/16 17:18:41.86 .net
>>332
箸墓。百襲は台与で日女命、卑弥呼の可能性は高い。

343:日本@名無史さん
15/01/16 17:19:37.80 .net
>>341
証拠どころかただの妄想じゃん

344:日本@名無史さん
15/01/16 17:20:18.43 .net
>>340
内部調査をしようがしまいが
「箸墓は全く調査されていないのです」
はウソだな

明白だ

345:日本@名無史さん
15/01/16 17:22:34.09 .net
>>343
そう断定する理由は?

346:日本@名無史さん
15/01/16 17:23:22.46 .net
>>342
なんで台与と卑弥呼が一緒くたになってるんだ?
それに百襲は王じゃないだろ

347:日本@名無史さん
15/01/16 17:26:33.51 .net
以前から思っていたんだけど
ストーカーのような人がいるのかな?

テレビとか見てる?

348:粟国
15/01/16 17:31:23.33 .net
>>342
ホケノ山古墳より古く原型とされる萩原2号墓がすでに阿波に存在します
卑弥呼の時代には箸墓古墳のような巨大なものはまだ無理 墳丘墓程度と
思われます 箸墓古墳は神武天皇が阿波から東遷し、ヤマト政権が安定した後
築造されたものと思われます

349:日本@名無史さん
15/01/16 17:31:27.08 .net
その人の名は、東遷厨(仮名)

350:日本@名無史さん
15/01/16 17:33:20.85 .net
>>348
無理だという理由は?

351:日本@名無史さん
15/01/16 17:37:23.84 .net
不弥国はどこなんだろう?

不弥国から南に水行20日の投馬国。
宇美なら、久留米に届く。

352:日本@名無史さん
15/01/16 17:37:42.03 .net
畿内説は派手に卑弥呼の鏡やら墓やらで勝利宣言するのはいいが
突き詰めていくと間違いだとわかるんだよ
それの繰り返し
そらそうだ無理やり当てはめてんだから

353:粟国
15/01/16 17:38:58.80 .net
>>350
邪馬台国と言えども阿波国周辺では力不足 大和へ移り東国を平定などして
平和と財力を蓄えてからと思います

354:孝霊厨
15/01/16 17:40:00.81 .net
>>346
卑弥呼=女王という名前自体は中国側の見解にすぎないだろう。
卑弥呼も別名があったかもしれない。
また台与も女王なのだから、卑弥呼だった可能性は充分考えられる。

百襲は別名が日神、神大市姫なのだから、巫女王、女王の可能性は高い。

355:日本@名無史さん
15/01/16 17:40:57.21 .net
可能性だけなら、卑弥呼がアイヌだった可能性も、卑弥呼が琉球人だった可能性もある。

356:日本@名無史さん
15/01/16 17:41:16.86 .net
>>342
モモソって畿内説信者は最初は卑弥呼って言ってなかったっけ?

357:日本@名無史さん
15/01/16 17:44:34.02 .net
>>352
わかるという理由は?


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