【謎の世紀】古墳時代についてマタ~リと語ろう 2at HISTORY【謎の世紀】古墳時代についてマタ~リと語ろう 2 - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト850:日本@名無史さん 21/05/19 17:25:45.46 .net 中央政権による地方制圧 https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/20/25/f0300125_21581552.jpg 中央から地方へ派遣された征討軍のルートが、横穴墓の分布と近似しています。以下、中央政権による地方制圧の記事を『日本書紀』『古事記』から見ていきたいと思います。 九州島は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します(第8図)。『日本書紀』には、景行天皇12年7月に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は九州行幸(西征)に発っています。 その経由地・滞在地を記すと、娑麼(さば)から、豊前国長峡縣(ながをのあがた)、碩田国(おほきたのくに)、速見邑(はやみのむら)、來田見邑(くたみのむら)、日向国高屋宮(たかやのみや)に移り、そこに留まって襲国(そのくに)の熊襲梟帥(くまそたける)を討ち、 その後、子湯縣(こゆのあがた)、夷守(ひなもり)、熊縣(くまのあがた)、葦北(あしきた)から海路で、八代縣の豊村、高來縣(たかくのあがた)、玉杵名邑(たまきなのむら)、阿蘇国、御木(みけ)、八女縣(やめのあがた)、的邑(いくはのむら)を経て大和に還っています。 第8図のように、横穴墓の分布とほぼ一致しています。しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。 東海道から東山道の太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています(第9図)。 若干の異同はありますが、『日本書紀』『古事記』共に記されています。『日本書紀』で見ますと、日本武尊は景行天皇40年10月に都を出て、伊勢神宮から駿河の焼津、相模を経て馳水(はしるみず)を渡り、上総国に入り、海路で葦浦、玉浦を巡り、「蝦夷の境に至」っています。 陸奥国の竹水門(たたのみなと)で蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻り、新治(にひばり)・筑波を経て、甲斐国酒折宮(さかおりのみや)に入っています。 そこから北に向かい武蔵国、上野国を経て碓日坂(うすひのさか)から信濃国に入り、信濃坂を越えて美濃国・尾張に還っています。 このルート上では、静岡県の焼津から甲斐国酒折宮の間が、横穴墓が稠密に分布する地域となります。 焼津は最初の戦闘地域であるのに対して、酒折宮で日本武尊は「蝦夷の凶(あ)しき首(ひとども)、咸(ことごとく)に其の辜(つみ)に伏(したが)ひぬ」と当初の目的が達成したと述べています。 このように、焼津から酒折宮までの間で征討行為がなされていたと考えられ、横穴墓が稠密に分布しているのです。 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch