20/10/15 02:26:55.17 .net
>>732
隋書に書かれてる俀国の遣隋使(600年)が「俀王の阿毎多利思北孤は、天を以て兄と為し日を以て弟と為す。天いまだ明けざる時に出でて政を聴くに跏趺して坐す。日出ずれば理務を停めて我が弟に委ぬと云う。」
この俀王の記述って女王の祭祀と弟の政治だったのかなって思うんだけど、めっちゃ隋から見下されてトンボ帰りしたのは「仏教伝来してんのに未だに女系かよ遅れてんな」的なニュアンスだったのかしら
隋の国は仏教政治だったし、冬至の祭祀は引き継がれなかったんだよね多分
その後バタバタと国政を整えまくって、607年に2回目の遣隋使を送る時には仏教の「日出処是東方 日没処是西方」を使った内容の手紙を持たせてるし、仏教的に冠を被るようになったし、
まるで仏教アピールで媚びまくったから対等に扱われるようになったみたいな感じがする
この時に天皇記や国記が編纂されたけど、もしかすると内容はめっちゃ仏教仏教してたのかもしれないね
推古天皇より前の人たちも実は女王だったけど隠しとこうってことになったんでないのかなと思ってしまう
隋唐のお陰でシルクロードの恩恵や最新文化を色々と受けられたのは良かったけど、古来の習俗が歪み始めた転換期だったんだろうな
女をケガレと見るようになって忌み小屋に避けられたりした転換期も、この辺りからだったのかなとか