【謎の世紀】古墳時代についてマタ~リと語ろう 2at HISTORY
【謎の世紀】古墳時代についてマタ~リと語ろう 2 - 暇つぶし2ch100:日本@名無史さん
14/09/07 01:53:17.61 .net
基地あらわる

101:日本@名無史さん
14/09/07 10:55:24.47 .net
う~ん、こういうのはどうなんでしょうね?
古墳を潰して宅地にしたところに住みたいですか?
知ってたら無理ですよね。

↓小倉北区日明一本松塚古墳

URLリンク(kitaqare.d.dooo.jp)

102:日本@名無史さん
14/09/07 15:04:51.64 .net
>>101
こえぇな
連続殺人とか起きそう

103:日本@名無史さん
14/09/09 18:26:48.86 .net
古墳時代前期~中期の天皇(大王)実年代化(古事記の没年情報+中国皇帝への朝貢記録+同時代人)チラ裏

★三輪(佐紀)朝=【列島統一→半島派兵(高句麗・新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を獲得)】
10祟神(~318年)…纏向に東遷280年頃(西晋滅亡前夜)?四道将軍派遣290年頃?大田田根子
11垂仁(情報なし)…330年頃没、新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没、日本武尊の熊襲討伐・東征340年頃、大臣・武内宿禰(~応神)
13成務(~355年)…国造/県主設置  
14仲哀(~362年)…新羅派兵に反対し、神罰により崩御(暗殺か)
神功(※~389年)…「旨」三韓征伐(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→「神功52年」372年百済・近肖古王より贈呈)
★河内朝=【半島派兵(高句麗との戦い&百済支援)本格化】
15応神(~394年)…「禰(でい)」
16仁徳(~427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(~432年)…「倭国王」(430年)
18反正(~437年)…「珍」(438年)
19允恭(~454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(~489年)…「武」①(477年/478年)←「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)23顕宗(情報なし)24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」②(502年)

※神功皇后…日本書紀による没年情報

104:日本@名無史さん
14/09/09 18:31:34.80 .net
「倭の五王」の正体判明!「倭の七王」だった!~隠れていた2人の倭王(17代履中と25代武烈)~

413年/421年/425年「賛/讃」…仁徳
430年★「倭国王」…履中
438年「珍」…反正
443年/451年「済」…允恭
460年/462年「倭国/興」…安康
477年/478年「武」①…雄略
502年※「武」②…武烈

★430年の「倭国王」が履中 → 438年「讃の弟珍立つ」の真相
430年に中国の南朝(宋)に朝貢した「倭国王」が「讃」ではなく、「讃の子」で、
その8年後の438年に「珍」が朝貢した時に、倭国の使臣が「先代の弟」と説明したとすると、
台与以来約150年ぶりに朝貢してきた倭王=「讃」のイメージが強烈だった宋側にしてみれば、
名前不明で影の薄い先代「倭国王」の弟ではなく、先々代「讃」の弟と錯誤した可能性がある。
もし【父「讃」→「倭国王」/「珍」兄弟】ならば【父(仁徳)→(履中/反正)兄弟】となり、
記紀(大和朝廷)の天皇系譜と合致する。

※倭王「武」は2人いた。
502年、南朝(梁)の「武」帝が征東大将軍に進号した倭王「武」が、477年/478年の倭王「武」(興の弟)とは別人で、
雄略(幼武)の孫の武烈とすれば、雄略の没年489年や、雄略没後の大混乱(24年間の朝貢中断)とも整合する。

∴①讃(仁徳)→②倭国王(履中)→③珍(反正)→④済(允恭)→⑤興(安康)→⑥武1(雄略)→⑦武2(武烈)
「倭の七王」となる。

105:日本@名無史さん
14/09/13 19:28:19.23 .net
古墳時代の倭王や豪族って、早い話が華僑でしょ。

106:日本@名無史さん
14/09/13 21:52:33.81 .net
そういう推測は倭王の名前からできるが、中国は勝手に外人の姓名を漢字に直すんだよね

クシャーナ朝のヴァースデーヴァは波調だし

107:日本@名無史さん
14/09/19 21:42:24.95 .net
自然科学分野では光の速さは一定だなんてありえない!なんて言う馬鹿はいないのに
人文科学分野では105みたいな知ったかが湧くのってなんでだろう

108:日本@名無史さん
14/09/20 18:35:20.99 .net
泰氏が漢族はどうかはわからんが、漢文明圏からの移民であるというのは通説だろ。
他の連中にも同類がいても何の不思議もない。
記紀にある各豪族の勢力圏なんてのは、後世の記述だからそれ自体は何の根拠にもならない。
オーストラリアは昔からイギリスの領地でした、というレベルの話。

109:日本@名無史さん
14/09/21 08:46:36.86 .net
泰氏w

>>107
本当に知ったかがわくねえ

110:日本@名無史さん
14/09/21 14:27:29.58 .net
単純に機織りが秦で、事務係が文部アヤベだっただけの気がする
あるいは辰韓(秦韓)の移民という内容が含まれるのか
後で始皇帝の子孫とか言い出したから秦の字が着いてるだけじゃないのか
日本人はシャレの表記を楽しむ風情があるからね

111:日本@名無史さん
14/09/21 19:36:30.35 .net
>>109
>>110
通説にたいして適当な妄想垂れてんじゃねーよ、池沼

112:日本@名無史さん
14/09/22 07:45:55.37 .net
>>111
おまえの知ってる通説を簡単に説明してくれや

113:日本@名無史さん
14/10/01 21:05:08.46 .net
恵下山山手遺跡群
URLリンク(www.youtube.com)

114:日本@名無史さん
14/10/02 01:09:16.32 .net
>>110
無教養まるだしw 却下w

115:日本@名無史さん
14/10/04 21:54:09.09 .net
結局、逃走か。

116:日本@名無史さん
14/10/05 13:30:18.15 .net
当時は子供で死ななきゃ50歳ぐらいが平均寿命?

117:日本@名無史さん
14/10/05 20:51:25.50 .net
仲哀天皇は302年崩御
応神天皇は394年崩御
神功皇后の胎中にて即位したとされる応神天皇と
394年崩御の応神天皇とが同体であるということは
天皇位の継承が名跡継承方式であったことを物語る。
胎中天皇が仲哀天皇の実の子であれば、
却って天皇位継承権がなかったのではないか。
神功皇后が出産遅延の努力をしたのはこのためである。

118:日本@名無史さん
14/10/09 18:34:15.36 .net
>>117
景行朝から仁徳朝まで仕えた武内宿禰がいるのだから、応神天皇がそんな長生きだったとは考えられずむしろ短命だったのでは。
那珂道世博士は仲哀天皇崩御年を362年としていてこちらの方が正しいと思われる。
また血統を重んじていたことは顕宗天皇・継体天皇の例を見ても明らか

119:日本@名無史さん
14/10/09 19:01:26.76 .net
>>116
年代が比較的明らかな時代の安閑天皇以降でみると
安閑天皇70歳
宣化天皇73歳
欽明天皇63歳
敏達天皇48歳
用明天皇48歳
崇峻天皇40歳
推古天皇75歳
聖徳太子47歳
舒明天皇49歳
皇極天皇67歳
弑逆された崇峻天皇を除くと平均60歳

120:日本@名無史さん
14/10/09 21:08:02.45 .net
>>104
502年は中国側の王朝交代により進号で高句麗や百済にも同時に進号させているのでその時代に倭王武(もしくはそれの後継者)が朝貢したわけではないと思われ

121:日本@名無史さん
14/10/10 17:57:26.66 /Bgr/5sZt
国家的策略だった東シナ海における倭寇

URLリンク(music.geocities.jp)

日本は歴史が始まって以来、侵略を繰り返していた。

( URLリンク(sky.geocities.jp) )

( URLリンク(music.geocities.jp) )

122:日本@名無史さん
14/10/12 14:27:32.24 .net
古墳の周濠、あれって、大阪人ならボートレースをしてたと思うよな。
10人漕ぎの大型軽野(カヌー)が一団となってコーナーを抜けるには、
仁徳天皇陵のような大型レース場が要る。
古墳時代の土豪というには、住民から税金を取っていたわけではない。
寺銭が主な収入源だし、大きなボートレース場を持つことが大王の条件。

江戸時代には、地外法権で規制の緩い寺の境内が賭博場として使われ、
寺に寄進した場所代が寺銭と呼ばれた。

123:日本@名無史さん
14/10/12 14:40:13.63 .net
今、地方に行って立派な建物と言えば、役所などの公共施設とパチンコ屋。
3~7世紀に次々と造られた前方後円墳はあまりにも豪華すぎる。
なぜそんなものが必要だったのか?誰が金を出したのか?
日本人は昔から賭け事が大好きで、大王は賭博王だったと言うのは頷ける。
大型古墳は、ボートレース、競馬、相撲などの複合賭博場だったのだ。
賭博で負けて土地を失った農民を人夫として働かせ、大型古墳の賭博場を全国に展開した。
運だけで大王になれた時代、いや、運が悪いと奴卑、すごい時代だった。

124:日本@名無史さん
14/10/12 16:04:33.49 .net
古代住之江ボートの元締めが住吉大神様であった、ということですか?
初めて知りました。納得です。ありがとうございます。

125:日本@名無史さん
14/10/12 16:11:39.82 .net
お前らって例に出したものの起源が無茶苦茶だな

126:日本@名無史さん
14/10/12 19:19:39.98 .net
>>123
古墳を作るのは大変だから
仏教を取り入れて火葬になったと思う

127:日本@名無史さん
14/10/12 19:24:21.49 .net
>>43
50年差で同じ名前の人物が登場するのに別人とはそちらの方が不自然
どちらかの記事が時代を誤って書かれているとみるべき

128:日本@名無史さん
14/10/12 19:50:44.49 .net
>>127
むしろ名前が同じだから同一人物に違いないという考えが不自然

129:日本@名無史さん
14/10/12 23:07:39.37 .net
古事記にしても日本書紀にしても編纂者は本当に愚かなことをしてくれたよな?
天皇制の権威づけのために系統や歴史を盛りすぎたせいで
実在したであろう君主や巫女の記述があいまいになり
あげく「架空の人物」に近い扱いで教科書にすら取り上げられない
何やってるんだか全く

130:日本@名無史さん
14/10/12 23:50:23.08 .net
またキチガイが沸いたか

131:日本@名無史さん
14/10/13 00:45:14.83 .net
121から123までの自演臭がひどいな

132:日本@名無史さん
14/10/13 12:48:28.44 .net
古代住之江ボートでツケマイというテクニカルは
あったのでしょうか?

133:日本@名無史さん
14/10/13 14:39:13.83 .net
蘇我氏渡来人説とか寝言は寝て言えって感じだな
百済と高句麗の区別もつかない奴が学者できるってのもすごいが

134:日本@名無史さん
14/10/13 16:21:43.90 .net
>>128
仮に同一人物でないにしても
氏族名+官名
で両者が一致した、つまり親族の可能性が高いわけで

135:日本@名無史さん
14/10/14 18:41:37.95 .net
どうしても渡来人にしたいやつがいるんだね。
心配しなくても渡来系といえば、みんなアフリカからの渡来人だよw

記紀の時代、どの氏族が渡来人かの記録があるのに、わざわざ詐称する必要は
ないだろ。

136:日本@名無史さん
14/10/16 06:41:54.54 .net
>>134
色々ツッコミたいけど、
あなたのいう一致している「氏族名」と「官名」って何?

137:日本@名無史さん
14/10/16 21:22:59.89 .net
>>129
神武天皇や決死八代はともかくそれ以降は全員実在して
事績も誇張はあるにせよ記紀の通りだと考える学者は最近多いよ

138:日本@名無史さん
14/10/17 18:44:50.80 .net
欠史八代とか王朝交替説とか訳の分からん説よりも、記紀のほうが考古学と
整合性があるんだよな。なんという皮肉

139:日本@名無史さん
14/10/17 19:04:44.49 .net
箸墓、西殿塚古墳、西山古墳、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳、このあたり誰なんだろ。
開化陵ってどんな評価なんだろ。見たことないからなあ。
改修されて元の形が不明で発掘もしてないから評価の仕様がないのかなあ。

140:日本@名無史さん
14/10/17 21:16:40.02 .net
どっかのサイトの受け売りだが、
主神でアマテラスを祀ってるのが1200,
副で祀ってるのが5000だとか

141:日本@名無史さん
14/10/17 21:18:38.79 .net
誤爆スマン

142:日本@名無史さん
14/10/17 21:52:55.89 .net
>>139
崇神天皇陵より古いとなると、それこそモモソヒメ命やいわゆる四道将軍のだれかくらいかなあ
吉備津彦兄弟や丹波道主王は地方に下ったみたいだけど彦坐王や大彦命は崇神天皇より年上だろうし、本人が地方に下ったわけでもないみたいだし可能性は大きいと思う

143:日本@名無史さん
14/10/18 09:32:29.14 .net
>>142
初期の大きめの古墳がヤマトに多すぎるんだよな。
天皇だけだと余ってしまう。卑弥呼とトヨを入れても余る。
なんというか、有力者がヤマトに集住し、そこで古墳をつくったかのような。

144:日本@名無史さん
14/10/18 16:52:24.26 .net
天皇陵だけじゃなくて皇后陵も考えればいいんじゃない?
御間城姫命は父が大彦命、兄が武渟川別命だし全員皇族だからみんなあのあたりに埋葬されててもおかしくないし

145:日本@名無史さん
14/10/18 18:28:33.36 .net
箸墓:モモソヒメ命
西殿塚:孝元天皇
西山:伊香色謎命か欝色謎命
櫻井茶臼山:大彦命
スメリ山:彦坐王
まあこんなところか?
でも延喜式に見える孝元天皇陵が小さい古墳だというのはむしろ誇張等をしておらず正確な気がするから分からんなあ…

146:日本@名無史さん
14/10/19 00:54:29.21 .net
>>15応神(~394年)…「禰(でい)」
>>16仁徳(~427年)…「讃」(413年/421年/425年)

仁徳の弟らが、倭珍、倭済であり
後期九州王朝へ分岐している。
軍事指導専従の統合参謀本部として
かつての「倭国」の名義を再興したわけだ。

147:日本@名無史さん
14/10/19 11:58:54.42 .net
>>142
大彦は中央の安倍氏の祖先だから中央にいた可能性あるが
彦坐王は但馬に下ってんじゃないの?

148:日本@名無史さん
14/10/20 08:21:18.13 .net
>>147
そこに住む一族の初代が磐余彦・吉備津彦みたいな称号を名乗るケースが多いみたいだから
丹波道主王こそ初代で彦坐王は下ってないと思ったんだけどどうだろう
と思っていろいろ調べてみたら彦坐王墓って岐阜なのか…

149:日本@名無史さん
14/10/22 14:31:01.43 .net
彦坐王ってなんか岐阜と関係あるっけ?
なんで岐阜ってのを宮内省も認めたんだ?

150:日本@名無史さん
14/10/24 17:38:44.96 .net
彦坐王は近江・山城・春日じゃないのか。
椿井大塚山古墳あたりはどうだろ

151:日本@名無史さん
14/10/24 21:05:52.81 .net
確かに椿井大塚山古墳の方が大きさ的にもいいとは思うんだけどね…
たしか群馬のある古墳が毛野氏の祖先の皇族の陵墓にしてはどうかと働きかけがあったとき
「それなりの証拠がないと比定出来ない」と言われたという話を聞いたことがあるんだが
あんな小さな古墳のどこを見て皇族の陵墓と認めたんだろうか

152:日本@名無史さん
14/10/25 19:35:12.67 .net
>>147
但馬は当時は丹波だし、古墳から見ても丹波一族がいたんじゃないかなあ。

153:日本@名無史さん
14/10/25 21:57:58.70 .net
トヨと崇神の関係が気になるなあ。
トヨは248年頃に13歳で、266年に朝貢しているっぽい。
崇神の一世代上くらいじゃないかと思うけど、記紀に出てくる誰かであっても
おかしくないね。

154:日本@名無史さん
14/10/25 23:13:53.39 .net
応神天皇の崩年が甲午で394年で、
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年
成務天皇の崩年が乙卯で355年
崇神天皇の崩年が戌寅で318年か258年とされるが、
垂仁・景行・成務三天皇は直系で相続しているので崇神崩318年は無理があるから
むしろトヨは崇神の一世代後で豊城入姫命こそ正しいと思う
その場合卑弥呼はモモソヒメ命だろう

155:日本@名無史さん
14/10/26 10:11:17.72 .net
応神天皇の崩年が甲午で394年 → 正解 
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年 → 303年
成務天皇の崩年が乙卯で355年 → 295年

ですっきりするでしょう。
303年~394年が、半島から実力者が次々にやって来た時代で、
万世一系の建前が成立しないので、記紀が書けなかった。

156:日本@名無史さん
14/10/26 10:20:56.57 .net
おいおいw
またチョンコロが喜びそうな説に持っていってるなw

157:日本@名無史さん
14/10/26 12:06:37.62 .net
154
それだと崇神天皇の崩御年は198年になるんだが
つーか当時の朝鮮人自身が朝鮮人に渡海侵攻能力はないって言ってるから

158:日本@名無史さん
14/10/26 12:25:45.67 .net
分かってるよwww
邪馬台国だの魏志倭人伝だの突然、話が湧き上がってきたのは
日本国内からだからな
チョンコロが後世になって日本国内に住み着いて威張りだしたか
あるいは当時の宗教関係などから利用するように生まれたのか?

どっちにしろロクなもんじゃあないんだよ

遡及方を適用するなら朝廷関連やら徳川だの過去の日本国内の
戦犯には償ってもらわなきゃな

159:日本@名無史さん
14/10/26 12:30:33.10 .net
歴史では美化されてるけど実際の性格なども違うようにも描かれてもいるんだよなw

これはマスゴミの犯罪な、小説家やら思い入れで評価は変わるからなw
どうやって手段絡みに持っていったんだ?お前らな

160:日本@名無史さん
14/10/26 14:46:18.40 .net
日本語でしゃべれ

161:日本@名無史さん
14/10/26 19:15:17.08 .net
>>68
俺の妄想説では宿祢の「スク」は 佐、介、助 つまり次官のことだと思う
たとえば信長の称した上総介は上総守が上総国長官で、その次官になる。
大国主命の国造りを助けた神が「スクナヒコナ」。少彦名と書かれるが
助ける彦 と云うのが元の意味だったのではないか

武内宿禰、蘇我稲目宿祢と書かれるのは彼らが大王を助けて政務を執る立場
大臣だったから。そういえば武内宿禰の後継氏族から大臣でている

162:日本@名無史さん
14/10/26 22:17:16.62 .net
>>153
卑弥呼 垂仁の異母兄姉弟の豊鍬入姫
台与   景行の同母兄妹の倭姫命

21 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 17:42:31.06
神武天皇を1世とした時の世代数
25世. (38代)  天智天皇.  626-672
42世. (77代)後白河天皇 1127-1192
72世(125代)  今上天皇 1933-
古代~中世 1世代平均29.47年 25世   天智天皇(生年. 626)から42世 後白河天皇(生年1127)まで
中世~現代 1世代平均26.87年 42世 後白河天皇(生年1127)から72世   今上天皇(生年1933)まで
古代~現代 1世代平均27.81年 25世   天智天皇(生年. 626)から72世   今上天皇(生年1933)まで

時代が古くなるほど1世代あたりの年数は長くなる
生年が確定している天智を起点に父の父の父の・・・と1世代29.47年で遡ると・・・
626 25天智 626-672
596 24舒明 593-641
567 23押坂彦人大兄皇子
537 22敏達 538.?-585.?
508 21欽明 509.?-571.?
478 20継体               (武烈)
449 19彦主人王     (清寧)(仁賢)
419 18乎非王       (雄略)(市辺押磐皇子)
390 17意富富等王   (允恭)(履中)
360 16若野毛二俣王 (仁徳)
331 15応神
301 14仲哀
272 13日本武尊
242 12景行
213 11垂仁  田道間守(たぢまもり)=難升米(タヂマ)
183 10崇神  四道将軍=倭国大乱

163:日本@名無史さん
14/10/26 23:04:23.69 .net
なるほど
一応崩御年も妥当な範囲にあるな

164:日本@名無史さん
14/10/27 19:26:32.30 .net
磯城県主って三輪氏と同族で、磯城県主家が絶えて大物主神の祀り方がわからなくなったから大田田根子が呼ばれたんじゃね?
って思ってたら太田亮の姓氏家系大辞典に俺の説がそのまま乗っててわ
戦前の学者ってすごいな

165:日本@名無史さん
14/10/27 21:03:10.80 .net
>>162
天智天皇~孝明天皇までにした方がいいと思う。明治以降は条件が違いすぎるから
だいたい1世代27年だった。

古代史は史料が少なすぎて所詮、水掛け論になってしまうのだが、継体以前の
大王位は血縁による世襲ではなかったと云う説も有力になってる。

166:日本@名無史さん
14/10/27 21:07:49.96 .net
164
だが系図を見れば血縁で結んであるけどな
つうか系図の見方を変えた方がいいって話なのかな

167:日本@名無史さん
14/10/27 21:50:09.66 .net
>>165
学者の言う「世襲王権が確立した」を曲解した奴が言ってるだけだ。
それ以前は即位には豪族による推挙の過程があったのが欽明朝以後なくなったってだけだろJK

第一倭の五王は中国側に姓が倭だと名乗り出てるんだぞ、血統の概念はあったに決まっている

168:日本@名無史さん
14/10/27 21:55:27.71 .net
あと、古代は職掌は伴造、国造、県主みたいな一般官吏だけでなく大臣や大連のような要職に至るまで世襲だったからな
だったら大王も世襲と考えるのが当たり前だろ
なのに王朝が一つでなかったなどというのは万世一系を否定したいだけのただの妄言と言わざるを得ない

169:日本@名無史さん
14/10/27 22:09:40.66 .net
>>165
天智天皇~孝明天皇は1世代平均28.02年

だいたい28年

170:日本@名無史さん
14/10/27 22:16:13.63 .net
>>166
記紀以前の聖徳太子関係だったと思うが、継体天皇から後は、大王位はその血統より外に出た
ことがない書かれている史料があった。それ以前は一系で世襲されていなかったということだろう。

倭の5王の讃、珍、が兄弟で後、済=允恭、興=安康、武=雄略と世襲されるのだが
珍と済=允恭の続柄が中国側史料に書かれていない。允恭は雄朝津間稚子宿禰尊と書紀に
書かれているのだが、宿禰という姓は王族らしくない。
記紀は天皇家が日本を統治する正統性を述べるものであるから、本来一系でなかった王統を
一系に作り変えたのだと思う。

171:日本@名無史さん
14/10/27 22:22:34.95 .net
>>169
>古代~現代 1世代平均27.81年 25世   天智天皇(生年. 626)から72世   今上天皇(生年1933)まで
>天智天皇~孝明天皇は1世代平均28.02年

矛盾してないか

172:日本@名無史さん
14/10/27 22:28:47.54 .net
矛盾してない

173:日本@名無史さん
14/10/27 22:46:00.15 .net
>>168
大王にふさわしい人物が倭国を構成する有力氏族によって大王に推戴されていたのだと思う

遥か後の時代である飛鳥時代でも、即位儀礼として形式的になってはいたが
臣(まえつぎみ)が新大王を推戴する形をとっていた。

174:日本@名無史さん
14/10/27 23:03:30.73 .net
>>170
以前読んだ本にあったのがソースかよ
それこそ左翼学者の脳内妄想だろ
それに天武天皇は諡に真人が入るから血統が変わったてか?
幾つも王等があったってじゃあ残りの王統は何処に消えてなんでわざわざ越前から継体天皇が来たんだか説明ができない。
記紀通りの系譜であったほうが自然

175:日本@名無史さん
14/10/27 23:06:06.01 .net
あと允恭天皇の宿禰は履中天皇の大兄に対応すると思われ

176:日本@名無史さん
14/10/28 00:42:33.12 .net
>>170
宿禰が允恭天皇の姓? 名前の後ろについてるのに?w
あと五王の倭王済は「倭済」って書いてあるの知らんの?
姓が倭氏なら倭讃と同姓だから男系で同族だっていう表現だろ。通説だがねw

177:日本@名無史さん
14/10/28 08:55:16.78 .net
その時代、姓はまだ無かった
俺の妄想説では宿祢は大王を助ける地位にあった人物
だから、珍の死後、珍の大臣にあたる地位から大王位に就いた

178:日本@名無史さん
14/10/28 08:59:15.12 .net
妄想乙

179:日本@名無史さん
14/10/28 09:37:42.43 .net
妄想だ、ええ妄想なんだよ
撮り鉄、乗り鉄、車両鉄 皆、鉄道会社の社員でもない素人が鉄道で楽しんでいる
古代史なんて史料が少なすぎて最後は水掛け論に終わるんだから
歴史の探求はプロであるその道の専門家に任せて、素人は自説を妄想することを楽しんだらいい

180:日本@名無史さん
14/10/28 09:51:05.37 .net
最高にアホだな、コイツ

181:日本@名無史さん
14/10/28 11:23:54.84 .net
「僕は専門家じゃないから妄想を垂れ流してもいいんだ」って考え方、最低だな
チラシの裏にでも書いてろ
人としての礼儀を考えろよ

182:日本@名無史さん
14/10/28 18:01:20.50 .net
基本となるのが、崇神の崩年干支を318年と定めるかどうか。
ほぼ文献的、考古学的にほぼそれが定説になっていて、
他の説だと牽強付会の感をまぬがれない。
318年から考察していくと、流れがだいたい見えてくる。
初代、神武からはじまじって、十代崇神でヤマトの王から、
日本(大八洲)の統治者になっていく流れが。

183:日本@名無史さん
14/10/28 18:13:19.98 .net
鉄器を作り始めたのが7世紀ころってのはハッキリしてんだろ
伊賀甲賀は忍びの里、近江商人は武器商人
まあ畿内で始まってるわな

184:日本@名無史さん
14/10/28 18:13:24.79 .net
鉄器を作り始めたのが7世紀ころってのはハッキリしてんだろ
伊賀甲賀は忍びの里、近江商人は武器商人
まあ畿内で始まってるわな

185:日本@名無史さん
14/10/29 12:13:23.22 .net
>>173
そうだよ、だから別々の氏族に押される皇族同士で皇位争いがあったんだろ
そこまでは記紀の伝承と矛盾しないじゃん。
万世一系を否定する根拠にならんよ。
モンゴルのクリルタイも父系血統の範囲内でしか候補は選ばれない。
群臣が推戴する形があったからといって
血筋まったく無関係に王が選ばれた証拠にはならない。

186:日本@名無史さん
14/10/29 14:44:31.07 .net
>>185
なぜ群臣が推戴するのか。大王が後継者を指名すればそれで済むことだ
そうでないのは昔は倭国を構成する有力氏族が自分たちの中から大王を選んでいたからだと思う
モンゴルの例も、もっと昔は選挙王政だったのでは
中国でも夏王朝から血統による世襲は始まった。それ以前の三皇五帝時代は世襲ではなかった
しかも、夏王朝1代目禹、2代目啓が即位するにあたって別の候補者がいたが諸侯が彼らを支持した
ことにより即位している

187:日本@名無史さん
14/10/29 18:32:27.25 .net
>>162
卑弥呼が豊鍬入姫だったら
卑弥呼の墓=ホケノ山古墳となるから
箸墓古墳みたいな年代の矛盾はなくなるな

188:日本@名無史さん
14/10/29 19:31:21.56 .net
>>154
応神天皇の崩年が甲午で394年で、
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年
成務天皇の崩年が乙卯で355年
崇神天皇の崩年が戌寅で318年か258年とされるが、

崇神の没年は318年でも矛盾はないよ。
事績等から、崇神は平均より長命、成務は後継者も残さず早死していると思われる。
仲哀も長命ではなかろう。神功皇后は応神の成人までは生きていたはずだが。

崇神没年が258年ならば、まさに魏志倭人伝に書かれた最中の人になる。
同時代にもかかわらず、何も記されていないのは矛盾する。

189:日本@名無史さん
14/10/29 19:57:56.98 .net
桓武天皇の祖父志貴皇子の生年が不明。
天智天皇生年626年、志貴皇子、光仁天皇(709年)、桓武天皇(737年)、嵯峨天皇(786年)
嵯峨天皇は桓武の49歳の子。桓武は父の光仁天皇も当初は皇位を継ぐ予定ではなかった。
当然桓武も末端の王族でしかない。天武系の生きている子孫の多くが臣籍降下し、
王族がほとんど残っていなかったからか、高齢で生まれた皇孫である父が急遽
皇位を継ぎ、桓武が皇太子になり、后を取り高齢で子をなした。
そのため、天智天皇から4世代後の嵯峨天皇まで160年にもなる。

他の10世代が平均26年で260年、この4世代が160年、合わせると14世代で420年で
平均すれば30年になる。
だからといって、天智天皇から遡る場合、平均を30年にするのが正しいとは
思えない。

190:日本@名無史さん
14/10/29 22:15:38.34 .net
>>189
欽明は安閑宣化が継体と同じ仁賢天皇の皇女を皇后にしたことから
継体が50歳以上の時の子だろうし
応神も神功が麛坂皇子忍熊皇子らと戦ったことを考えれば
仲哀は少なくとも40歳、50歳や60歳の時の子の可能性もある

191:日本@名無史さん
14/10/30 06:43:07.50 .net
代数より世代で考える方が数値は安定してる。27年~30年だな。安本なんて天皇の代数で1代10年だから
卑弥呼が天照大神になってしまう。
だだし、古い時代は末子相続の可能性や、兄弟なのに親子として
記録に残されているかもしれない。兄弟相続が履中以降なのはおかしい

192:日本@名無史さん
14/10/30 11:06:42.87 .net
前スレで諸豪族との系譜比較で崇神天皇が神武天皇の5世孫あたり、
垂仁・景行と成務・仲哀が同世代とした方がよいって表があったな
それなら崇神崩年が318年でもおかしくない範囲になるし巻向遺跡との整合性も取れるしいいんじゃないかと思うんだが

193:日本@名無史さん
14/10/30 16:15:41.31 .net
諸豪族は第1夫人の子が跡を継ぐけど
拡大期の大王家は政略結婚によって第2夫人(30の時の妻)第3夫人(40の時の妻)が皇后になることが多い
だから諸豪族より1世代が長くなる

194:日本@名無史さん
14/10/31 06:52:21.09 .net
>>191
古い時代にあったのは兄弟相続じゃなくて末子相続。
履中以降に現れる兄弟相続は末子相続から長子相続への移行期だと思えば
ぜんぜんおかしくない。
それと兄弟相続でも最後は末弟にいくんだから一世代あたりの平均年数は
兄弟相続と末子相続では同じ年数になると思われ。

>>193
そうともいえない
諸豪族の系譜でも兄弟が記されてる例では末子相続が多いことから
系図上で一子しか記されてない場合でも
その子は末子が少なくとも長子でない可能性が高い

195:日本@名無史さん
14/10/31 07:37:53.74 .net
崇神の時代の逸話は、記紀で内容が違うんだよな。
四道将軍とかモモソヒメとか、古い伝承で何時のことかはっきりしないのを
全部崇神の代にまとめたって感じがするね。
古事記では、吉備との関わりはもっと古いんだよな。

崇神のころにヤマト王権を支えていた有力者を、「崇神が支配下においた」
という形で書いてるというか。

系譜は捏造してるとは思えんな。そのように伝わっていたのを書いた。
他の氏族との関わりがあるから、A家から嫁に来た妃を消すわけにいかんし、
そんなことしたら自分の先祖を消すことになるし、作ったとすれば先祖でない
人を先祖にすることになる。そんなことをする必然性もないし。

捏造ではなくて、後の天皇家につながる系統だけを取り出して書いていると
いうことだね。崇神以前は、特出した権力は持っていなかったんだろう。
崇神以降も王位継承の争いが頻繁に起きている。
そのような時代に、40歳の時の子供をわざわざ後継者に選ぶ必然性はない。
早ければ早いほうが良い。少なくとも20代のうちの子供だ。

196:日本@名無史さん
14/10/31 11:22:29.69 .net
>40歳の時の子供をわざわざ後継者に選ぶ必然性はない。
>早ければ早いほうが良い。少なくとも20代のうちの子供だ。

史料を重視する限りそれはなさそうだな
思い込みを優先して史料の所伝を歪曲するのは賛成できない
むろん史料のかたる伝承がそのまま事実とは限らないが
伝承に訂正を入れる場合は確たる証拠がないとね

197:日本@名無史さん
14/10/31 12:01:34.19 .net
資料を読んでも「わざわざ40歳以降の子を後継者に選んだ」って見つからんけどな
130歳を信じるならそうかもしれんが

198:日本@名無史さん
14/10/31 15:21:15.72 .net
>>150
西求女塚古墳も気になるね。

199:日本@名無史さん
14/10/31 15:51:17.27 .net
諸豪族とは違って崇神、垂仁、応神、継体などは第2夫人第3夫人以降の嫁が皇后になっている

200:日本@名無史さん
14/10/31 18:36:38.01 .net
崇神の皇后は大彦の娘で第1夫人。垂仁が生まれる。
垂仁の第1夫人はサホ姫だが、皇子は口がきけずないから、
皇后に地位にはつけない。さらに、兄サホ彦とともに反乱で焼け死ぬ。
継体の皇后は欽明を生んだ正式な第1夫人の手白河皇女。

201:日本@名無史さん
14/10/31 19:17:03.18 .net
継体の場合、入り婿だから手白香皇女を皇后にするしかないな

サホ姫は皇后だよ。兄が反乱を起こしたとき兄とともに焼け死んだから
ヒバス媛を2代目の皇后にした

202:日本@名無史さん
14/10/31 19:56:05.89 .net
皇后という身分がその頃あればだけどね。

203:日本@名無史さん
14/10/31 20:57:59.05 .net
家康も正室→継室と晩年に正室を新しく置いているね
古代諸豪族と同じく家康側近の四天王は正室だけ
長子優先が確立していたから秀忠が継いだけど
崇神の時代なら秀忠でなく尾張徳川義直、紀伊徳川頼宣、水戸徳川頼房の
誰かが跡を継いでいたかもしれない
兄の豊城入彦は弟の活目入彦より20歳以上年上の可能性もあるな

204:日本@名無史さん
14/10/31 20:58:25.94 .net
狭穂姫の残された皇子は誉津別命というのだが命がついている割に白鳥をみて
初めて言葉を発したとかショボイ伝承があるだけで、皇統には何の影響も与えていない
この人が応神天皇ではないかという人もいる
私は天智天皇の皇子である建皇子がモデルだと思っている

205:日本@名無史さん
14/10/31 21:04:34.04 .net
崇神 遠津年魚眼眼妙媛→御間城姫 晩年の皇后の子が継いでいる
垂仁 狭穂姫→日葉酢媛 晩年の皇后の子が継いでいる
仲哀 大中姫→気長足姫 晩年の皇后の子が継いでいる

206:日本@名無史さん
14/10/31 21:09:22.04 .net
継体も2代目皇后やね
目子媛→手白香皇女

207:日本@名無史さん
14/10/31 21:43:42.45 .net
目子媛は継体の地方豪族時代の夫人だから皇后じゃあないだろ
手白香皇女と婚姻して、即位できたと考えるべきだ

208:日本@名無史さん
14/10/31 21:59:43.40 .net
晩年に婚姻した2代目皇后(正室)の子が跡を継いだ天皇

崇神 遠津年魚眼眼妙媛→御間城姫
垂仁 狭穂姫→日葉酢媛
景行 播磨稲日大郎姫→八坂入媛
仲哀 大中姫→気長足姫
継体 目子媛→手白香皇女

209:日本@名無史さん
14/10/31 22:04:55.61 .net
不毛な議論しとるのぉ

210:日本@名無史さん
14/10/31 22:08:44.65 .net
>>208
長じて即位してから有力者の姫を娶ったのかな

211:日本@名無史さん
14/10/31 22:29:52.06 .net
崇神~応神は晩年の皇后の子が継いでいたが
応神の晩年の皇后の子の菟道稚郎子が仁徳に皇位を譲って自殺(仁徳に殺されて?)から
晩年の皇后の子は継がなくなる

崇神~応神と応神~天智の1世代の長さはかなり違う
応神~天智が30年で崇神~応神は40年ってこともあると思う

212:日本@名無史さん
14/10/31 22:33:19.77 .net
大仙陵古墳ほどの国家の大事業が記紀に載ってない
当時全長800m超の墳墓を造るのは大したことじゃなかったのかな

213:日本@名無史さん
14/10/31 22:42:05.11 .net
大したことじゃなかったんだろうね

214:日本@名無史さん
14/11/01 00:49:51.54 .net
>>98
事代主直系の向家・富家に伝わる話がベースの擦り合わせ神代系譜で
大国主より以前の神代系譜は・・

・御中主命=国常立命(クナト大神)
クナト大神-八島篠-布葉之文字巧為(ふはのもじくぬす)-八束水臣津野-赤衾伊努意保須美比古佐倭気-大国主・・八千矛(大穴持)┬伊佐我(伊佐波)
                                                                                    ├阿遅須枳高日子
                                                                                    └高照光姫

・出雲・大国主神・・八代:八千矛神-九代:阿遅須枳高日子神-十代:鹽冶毘古能神=長髄彦-十一代:古事記の速甕之多気佐波夜遅奴美神=神門 速甕之建沢谷地乃身神(初代:旧出雲大社(杵築大社)司祭:神門氏)
・・十代神門 阿多神-十一代:出雲(神門)振根命=(倭健命)日本武命-十二代:神門鹽手命=神門伊賀曽熊命の子
建部氏(武部)、武内宿禰・葛城襲津彦・・蘇我馬子=島大臣。※①百済国、第二十五代:武寧(武内)王=斯摩王
出雲(神門)笠夜命、斯摩宿祢、島津(志摩)国造家の斯摩、志摩、島(直)氏の島族・・※②百済渡来島族の武蔵・千葉国造家

※①は、三韓討伐以降の在地官人が王族化し、その末代が倭史・和史と名乗り、白村江の敗退で、日本へ渡来。
し、日本国内でも、朝廷や出雲族と争い、神門神社を頼った記録が九州の神門神社周辺に残っている。
※②は、同じく百済から渡来し、島族として帰化に成功した百済人が、武蔵・千葉国造家として関東平野へ移住した事を示している。
大宮・氷川神社などの祭神がそのようですね。

215:日本@名無史さん
14/11/01 00:51:36.10 .net
ゆえに、関東平野・東京湾周辺の古墳群を神門古墳群と呼ぶのでしょうか・・

216:日本@名無史さん
14/11/01 13:32:06.31 .net
>>215
新門古墳群て初めて聞いたな。具体的にどの古墳の集団を指すの?
まぁあまり歴史に詳しくないので検索してみたけどやはりヒットしなかったので。

217:215
14/11/01 13:34:58.69 .net
>>215
ああ、失敬。漢字間違えて検索してた(笑)ごめんごめん、理解したわ。
千葉に昔いたけど、市原の方には目が向いてなかった。

218:日本@名無史さん
14/11/01 21:52:14.96 .net
神門→カムド

219:日本@名無史さん
14/11/01 23:01:28.97 .net
>>218
神門→ゴウド

220:日本@名無史さん
14/11/02 05:16:55.25 .net
>>219
シモン

221:日本@名無史さん
14/11/02 05:17:47.72 .net
神度剣→神門氏

222:日本@名無史さん
14/11/02 05:18:58.31 .net
鴨氏族で神門と書いて、カモとも読む。

223:日本@名無史さん
14/11/02 13:04:21.56 .net
>>222
カモーン?

224:日本@名無史さん
14/11/03 07:52:00.34 .net
なんで日葉酢媛命陵が晩年の妃なんだよ。
サホヒメが死んだのは赤ん坊を産んで間なしじゃん。

225:日本@名無史さん
14/11/03 11:06:37.59 .net
大古事記展やってるなあ。七支刀の現物が見られる。

226:日本@名無史さん
14/11/03 14:38:11.17 .net
第一皇后の狭穂姫は垂仁天皇即位後2年目
第二皇后の日葉酢媛命陵は即位後15年目
即位したのが30として45歳

227:日本@名無史さん
14/11/03 15:42:31.58 .net
>>225
見たいと思ったら奈良かよ…。さすがに東京からはいけねぇな

228:日本@名無史さん
14/11/03 16:40:43.82 .net
>>226
140歳を信じるのか。驚きだ。
サホヒメが死ぬ前に言い残したんだから、その時にお年ごろですぐに
嫁にもらったと普通は考えるけどな。

229:日本@名無史さん
14/11/03 19:50:49.14 .net
『釈日本紀』に引く『尾張国風土記』逸文では誉津別皇子は7歳になっても話すことができなかったとある
即位したのが30歳とする
狭穂姫との婚姻を即位直後(日本書紀は2年目)として
誉津別が生まれたのが32歳、7歳の時に垂仁は39歳
狭穂彦の乱直後(日本書紀は10年後)日葉酢媛と婚姻したとしても39歳
日葉酢媛2皇子・2皇女を産んでいる(15年以上か?)ので垂仁39歳~54歳
十分晩年と言える

230:日本@名無史さん
14/11/04 21:43:08.20 .net
なんで7歳で乱になるのさ。
乱の時に生まれてすぐと書いてあるじゃん。

231:日本@名無史さん
14/11/04 23:18:17.37 .net
日本書紀には誉津別命は壮年になるまで話さなかったとある
日本書紀を信じるなら誉津別命は30歳以上
尾張国風土記逸文を信じるなら7歳以上生きたことになるね

232:日本@名無史さん
14/11/04 23:46:29.07 .net
>>226-231
いや両立するやん。矛盾は回避できてるやん。なんの議論だね?
>>228のツッコミがわからないんだが第二皇后が若い分には
垂仁天皇からしたら問題ないよね? あとホムツワケが何歳かは関係なくね?
サホヒコの謀叛は即位当初のことだろうからその頃うまれたんだろ

233:日本@名無史さん
14/11/05 21:29:01.82 .net
垂仁天皇はホムツワケが7歳にならないと再婚できないのか。

234:日本@名無史さん
14/11/06 20:19:49.29 .net
>>233
えw オマエは現代の庶民の結婚と同レベルで考えてんの?w

ここでいう結婚ってのはあくまで正式な結婚だろ
それならできるだろうけどするかしないかは本人の自由
あるいは政治的な事情もあったかもしれんしなかったかもしれん
少なくとも側女はいくらでもいるだろうから
性欲のはけ口って意味では女に不自由してないだろうし

235:日本@名無史さん
14/11/07 07:37:34.29 .net
どのスレで聞いたらいいのかわからんのでここで聞くけど
倭王武=雄略の頃って少なくともすでに関東九州の統一は終わってんだよね
これって景行天皇の時に征服したってこちょなのかな?

神武天皇は少なくとも日向・北九州・山陽・近畿南部と畿内は支配したんだよな?
崇神天皇の時は東海・関東・北陸・会津・丹波まで
景行天皇の時に出雲・南九州・陸奥の南部までほぼ統一?

邪馬台国が畿内説の場合、その時代は南九州のぞいて西日本統一→景行以前の状態?
邪馬台国が北九州だと、ヤマト朝廷が邪馬台国と別の勢力だったとしても記紀にあてはまる時代がないね
邪馬台国が南九州って説にするなら景行天皇以前の状態には合うが。

236:日本@名無史さん
14/11/07 07:42:54.02 .net
景行天皇から神功皇后までは、
いきなり福岡にワープして、
九州を平定する話ばかりなので、
九州福岡の豪族のエピソードを引き写した話だと思っている。

237:日本@名無史さん
14/11/07 07:46:47.80 .net
現在の日本を見ていてわかる
やってる事が間違ってるからなw

238:日本@名無史さん
14/11/07 08:07:18.68 .net
>>236
いきなりワープ?
ちゃんとその前の代までに吉備や出雲は征服された話が先行してるじゃん
記紀が描いてる歴史の全体の流れみないで
あなたが「いきなりそのページだけみて」感想いってるだけじゃないの?

239:日本@名無史さん
14/11/07 08:09:43.98 .net
景行天皇に吉備や出雲の話、あったっけ?

240:日本@名無史さん
14/11/07 08:14:04.56 .net
あれ、スサノオの話だけどw三貴神

241:日本@名無史さん
14/11/07 08:17:16.92 .net
景行天皇から神功皇后まで、
応神天皇が生まれるまでに、
一回くらい畿内に帰ったんだろうか?

242:日本@名無史さん
14/11/07 08:18:22.98 .net
天皇の話なんてあるの?

243:日本@名無史さん
14/11/07 08:23:25.50 .net
天皇と天と、いわゆる神様の天は違うみたいだよ
詳しい人に聞いてみると良いよw

244:日本@名無史さん
14/11/07 09:05:22.51 .net
>>239
出雲の話はあるな。

>>241
何度も帰ってるだろ。日本書紀よんだことないの?

245:日本@名無史さん
14/11/07 11:04:28.22 .net
景行天皇は、熊襲退治の時は、7~8年は帰ってないね。

いきなり下関にワープし、戦を重ねて宮崎に6年仮宮、
さらに熊本、筑後を巡幸、ここでは戦闘なし。
この辺は非常に細かく書かれている。

筑後の浮羽まで行ったところで巡幸終了。
そこにどのくらいいたのかは不明。

また畿内までワープ?

けっきょく、下関だけ本州で、あとは九州の事跡だけで終わってる。

246:日本@名無史さん
14/11/07 11:06:41.93 .net
景行天皇の熊襲退治は、
九州内で道筋を書けるくらいに詳しく細かく書かれている。

ただし、畿内への道は全く書かれていない。

247:日本@名無史さん
14/11/07 21:29:29.42 .net
>>235
神武天皇の勢力範囲は葛城だけ。東遷も王権の移動というより貴種流離譚に属する流浪の旅と考えたほうがいい。
全国展開するのは崇神から。

248:日本@名無史さん
14/11/07 23:19:03.04 .net
>>241
畿内じゃなくて奈良へ帰ったのかなって思うね。
景行は大津に宮を移し、次の成務も大津のまま。
仲哀は敦賀から出発して、宮は九州になっててそこで死んでる。
ヤマトタケルがヤマトを歌ったうたがあるからヤマトにいたんだろうけど。
新羅から帰った時、ヤマトに入れない話があるから拠点はあったのかな。

巻向遺跡は四世紀中頃には廃れてるらしいね。

249:日本@名無史さん
14/11/08 01:40:01.93 .net
倭王武の上表文のような「大征服の時代」っていうイメージは
崇神天皇にはないね。これは完全に景行天皇だろうな

250:日本@名無史さん
14/11/08 11:18:07.25 .net
上表文にある「渡りて海北を平らぐること、九十五国」はいつの時代?
広開土王碑の時代かな?

251:日本@名無史さん
14/11/08 17:01:17.95 .net
事績で重なるのは

大乱~崇神 信長
景行~応神 秀吉
雄略~継体 家康

252:日本@名無史さん
14/11/08 23:35:21.40 .net
>>250
もっとずっと前。卑弥呼よりずっと前。

253:日本@名無史さん
14/11/09 01:52:12.06 .net
>>235
神武の頃はそこまでいってないだろ
ヤマトで地盤固めしてるくらい

254:日本@名無史さん
14/11/09 02:13:20.05 .net
古い神社の伝承って面白いね。
そういうところの周辺を発掘したらおもしろそうだけどなあ

255:日本@名無史さん
14/11/12 17:41:16.69 .net
考古学って面白いね。
寺沢氏なんか「ヤマトには纏向を生むものは何もない」って言い切ってる。
どこかの勢力が来たんだよな。

でも、なんで纏向だったんだろうな。
あの一体は、纏向以前は荒れ地だったらしい。縄文晩期に洪水が起きて、
弥生時代は人も住まない荒野たっだんだとか。

256:日本@名無史さん
14/11/12 21:49:57.39 .net
川からはずいぶん離れてて不便そうだし、何より平地の真ん中になんか作るってのが奈良以前の日本人の美意識から見て不自然なんだよな。

257:日本@名無史さん
14/11/13 00:47:54.90 .net
ん?南北を川で区切られた地域だし、中にも水路は多いと思うが?

258:日本@名無史さん
14/11/13 12:47:03.09 .net
学問板でなに言ってんだよ

259:日本@名無史さん
14/11/14 11:39:07.68 .net
纏向のことなら平地の真ん中ではないな。
山裾の小高い扇状地の裾というか。

260:日本@名無史さん
14/11/15 18:37:05.14 .net
>>255
>寺沢氏
の本は何か読んだけど、まったく内容に記憶がないほど、
印象がなかったけど、
「ヤマトには纏向を生むものは何もない」
ならば、
東海の土器が多いから、そこら辺りから来たとかいう、
デンパに近い研究者だったか。

261:日本@名無史さん
14/11/16 08:21:43.89 .net
東日本住民における顔面平坦度度の地域差と時代変化
URLリンク(ir.library.tohoku.ac.jp) 
川久保善智

東北地方や関東地方の集団では縄文時代から古墳時代にかけて平坦さが著明に
増加する変化が認められた。この平坦性の増加は渡来人の遺伝的な影響である
可能性がすでに指摘されているが、本研究においても顔面骨に著しい平坦性が
認められる西日本弥生人と東北地方や関東地方の古墳時代人の類似性が認めら
れた。

その結果、全ての平坦指数において北海道では縄文時代から近世までほとんど
変化がみられなかったが、関東地方や東北地方では縄文時代から古墳時代にか
けて著しく平坦性が増し、その後再び立体的になるという時代変化が認められ
た。東北地方や関東地方において縄文時代から古墳時代にかけてみられた時代
変化は先行研究によって遺伝要因の関与が指摘されているが、古墳時代より後
の時代変化には環境要因も大きく関わっていることが明らかになった。

262:日本@名無史さん
14/11/16 11:54:18.63 .net
環境要因で顔が立体的になるの?
遺骨が残る身分のサンプリングの違いな気がする。

263:日本@名無史さん
14/11/16 17:30:03.31 .net
>>261
遺伝子的にも形質的にも
>西日本弥生人と東北地方や関東地方の古墳時代人の類似性
が認められる、ということは、
崇神の四道将軍派遣以降、ヤマト王権がますます
関東、東北(といっても福島、宮城あたりまでだろうが)
及んだことの証左でもある。
文献的(記紀)にも一致する。

264:日本@名無史さん
14/11/18 15:25:53.51 .net
漢字以前の日本の歴史が曖昧なのは今の国境区分けでは受け止められない
入り乱れた状況があったからかも知れない

265:日本@名無史さん
14/11/19 19:55:15.07 .net
文字のない時代の歴史が曖昧なのは当たり前だろう。

266:日本@名無史さん
14/11/19 23:30:33.28 .net
以前、>>73
>三国史記の将軍「于道朱君(ウチシュクン)」が武内宿禰で葛那古は葛城襲津彦

って話があったけど、葛那古は5世紀に新羅征伐に半島に渡った蘇我韓子の可能性もなかろうか?

三国史記の時系列や編年があってるかどうかもきちんと検討されていないみたいだし、
新羅の記録や伝承の混乱、創作もありえると思う

267:日本@名無史さん
14/11/23 19:53:41.50 .net
>>261
専門家によって言い方が違うんだよな。
「近畿の人間は朝鮮人にそっくりだから遺伝的にも近いに違いない」
とかいう専門家と、この違いはなんなんだろ。

268:日本@名無史さん
14/11/23 20:35:18.60 .net
メスリ山古墳に登ってきた。

269:日本@名無史さん
14/11/24 00:02:05.15 .net
>>267
挑戦がらみとか武洛がらみとかになると学者も平気でころころ主張かえるよ
学者ってのは院生から這い上がるまで想像を絶する苦労してて
性格が捻じ曲がってるからな
血みどろでつかみとった地位を絶対捨てなくないと思うし。

270:日本@名無史さん
14/11/26 19:08:44.19 .net
どうでもいいことかも知れんが、古代の「ヤマト」は磐余地域ってのが定説
らしいけど、いつから定説になったんだろう?
奈良の人間なんだが、どうも違和感があるんだよなあ。
葛城山の麓の方がふさわしいというか。
両方含んでいたような気もするけどね。
そこに立って周りを見回すと、ここがヤマトタケルの故郷だと実感するんだ。

271:日本@名無史さん
14/11/29 02:04:50.42 .net
>>262
環境要因でもなる
そもそも寒地に適応して平坦顔になったんだから

272:日本@名無史さん
14/11/29 13:20:32.36 .net
斉藤某が出雲でDNA調査をしたらしいな。
調査はいいけど、結論の導き方がいいかげんなんだよな。

273:日本@名無史さん
14/12/01 00:08:39.38 .net
■古代の測量に関連するページ
URLリンク(www.geocities.jp)

274:日本@名無史さん
14/12/01 23:44:26.78 .net
>>270
そういう説があるのはもちろん知ってるけど
別に定説になってるような感じもしないと思うけどな…?

元来のヤマトは奈良盆地の南半分なんじゃないの、普通に考えて。

275:日本@名無史さん
14/12/03 19:22:47.49 .net
>>274
そうか。
たまたまなのかなあ。最近読んだ本に2つもあった。
いつの間に定説になったんだ?と不思議で。

最近南の方へ行くようになって葛城山(含む金剛山)の存在感に圧倒される。

276:日本@名無史さん
14/12/05 06:12:05.10 .net
ヤマト王権は最初は磐余を含む奈良盆地南東部、
それから葛城地方などの南西部を収めて、
崇神の時代以前にすでに奈良盆地全体を掌握していたのだろう。
のみならず、奈良盆地に近接する地域も婚姻によって、
勢力圏になっていたのは、妃の名(出身地)でわかる。
河内はもともとが物部氏が大きな勢力を占めていた。、
当初のヤマト王権は奈良盆地南東部を中心に河内をも収めていたから、
ますは南西部の葛城地方を支配下に置くのは、
当然の流れになるだろう。

277:日本@名無史さん
14/12/05 19:44:08.69 .net
>>233
>ここでいう結婚ってのはあくまで正式な結婚だろ

現代的な意味での「結婚」という概念は当時なかったと思うが
そもそも当時に正室や妾という中国的な概念があったかどうかすら怪しい
通い婚が基本だし

278:日本@名無史さん
14/12/05 22:41:22.64 .net
側室がいたんだから正室は7年まって再婚したっておかしくないって言い分に
結婚という概念や正室や妾という概念があったかどうかわからないって返答は答えになってねーだろ
たとえ側室が居ようと7年も待つ必要はないって答えればいいだけだろ

279:日本@名無史さん
14/12/06 00:00:45.43 .net
九州の幾何学模様壁画の古墳がまったく話題にならないのはなんでよ。

280:日本@名無史さん
14/12/06 00:01:53.98 .net
文献の紀年が正しいか矛盾してるかのはなしをしてるんで、正室側室とか七年とかは本質じゃない。

281:日本@名無史さん
14/12/06 00:03:09.98 .net
>>279
異端の学者の領分だから。
常世に通じてたりヒルコが出てきたり。

282:日本@名無史さん
14/12/06 06:30:33.54 .net
鹿児島県の霧島温泉の近くに、「熊襲の穴」というのがあって、
洞窟の中に装飾古墳みたいな落書きが書いてある観光スポットがある。

装飾古墳って熊襲の文化じゃねえよな、とか思いつつ、
「西の正倉院」とか、観光のために捏造される地方史には辟易させられる。

283:日本@名無史さん
14/12/06 21:04:08.36 .net
妃というのはあるが「皇后」という概念があったかどうかは分からんね。
天皇も皇后も、後に作られた用語だし。
中世の天皇の妃だって、出路に応じた身分が付くが、正妃というのは特に
ない時期もある。
天皇家には、正妃と側室という区分けはないよね。
すべてが臣下であり、対等な関係はないんだろ。
唯一、天皇の娘を妃にした時はそれが第一婦人になるが。

284:日本@名無史さん
14/12/06 21:08:00.26 .net
>天皇家には、正妃と側室という区分けはないよね。

そんなことはない

285:日本@名無史さん
14/12/07 13:10:15.99 .net
>>283
桓武天皇とか源氏物語とか、母の出自と地位が問題にされる例はたくさんあるが。

286:日本@名無史さん
14/12/08 02:10:04.22 .net
>>283
古い時代になると天皇や皇族の母の名としてしか夫人の名が残らなかったらなのか、後の天皇を生んだ妃を後から皇后だったと呼んでる感がある

287:日本@名無史さん
14/12/08 19:52:56.16 .net
成務天皇とか清寧天皇の皇后がいないことになってるのって、
子供がいなかったからその母親たる皇后も名前が伝わらなかったのかもね

288:日本@名無史さん
14/12/10 08:20:24.71 .net
>>287
その二人は皇后を娶れる歳以前に亡くなったんじゃないか?

289:日本@名無史さん
14/12/10 10:20:57.69 .net
>>283
古代大王家では皇族出身の大后が強い権力を持ち
皇位継承に第一の発言権を持ち夫の死後即位した例も多い
推古天皇、皇極天皇、持統天皇、すべて大后(皇后)出身

藤原道長らが娘の立后にこだわったのも
正后とその他大勢の女御更衣とではまるで妃の待遇も発言力も違ったため

室町時代には天皇家にも公家にも金がなく摂関家も娘の入内に消極的だった
そのために正后が立てられず天皇のお手付き女官が次代天皇を産んでいた

江戸時代、明治時代にも正后とそのほかの側室たちとは全く扱いが違う

290:日本@名無史さん
14/12/10 10:25:22.35 .net
>>287>>288
成務天皇は子供いるよ
女子のみだが
母親の名前も記紀に書かれてある
いずれも豪族の娘で皇后は立てられなかったようだ

清寧は41歳まで生きている
生まれつき白髪の虚弱体質でおそらく童貞で生涯を終えられた

291:日本@名無史さん
14/12/11 13:02:09.75 .net
うまくは表現出来んが、江戸時代の武家のような、御台所と側室というような
区別はないように見えるね。
将軍家が前田と伊達と黒田から妃を迎えているような感じ。

292:日本@名無史さん
14/12/11 13:06:11.79 .net
后位についてもっとよく調べた方がいいんじゃね

293:日本@名無史さん
14/12/11 18:35:36.22 .net
古墳時代のスレなのに、律令国家の制度や平安を引き合いに出すのって変。

294:きんき創生クラブ 
14/12/15 09:38:53.54
以下講演会紹介します

特別セミナー開催
飛鳥で新型古墳!!  奈良のピラミット・蘇我稲目の墓か?

実際に都塚古墳の発掘調査に携わってこられ、また飛鳥周辺数々の古墳の発掘にも加わられ飛鳥に精通されている
 西光 慎治先生をお招きし、都塚古墳の発掘状況、明日香の古墳群 蘇我氏との関係についてお話いただきます。

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場所:TKP神田ビジネスセンター4F  401会議室
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   明日香村教育委員会・関西大学非常勤講師
参加費: 2,000円
申し込み:FAX  06-6533-3206
     mail  kinki.sosay.club@gmail.com
    (先着順、定員200に名になり次第締め切ります。)
問い合わせ:きんき創生クラブ (なにわ制作技研内)
      06-6533-3206

URLリンク(naniwaseigi001.chobi.net)

295:日本@名無史さん
14/12/27 20:55:42.85 .net
【文化】韓国で形象埴輪出土 日本から伝わった可能性 [12/25](c)2ch.net
スレリンク(news4plus板)

296:日本@名無史さん
15/01/12 01:51:48.07 .net
★各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…西南九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側

▼札幌医大・松村博文先生(兵庫県出身)
URLリンク(www.frpac.or.jp)
『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』

▼形質学から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・大阪大学教授による)
     頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人  76.55   23.65   44.60   55.14
東北人  80.16   23.07   44.46   54.33
畿内人  84.98   22.67   43.99   54.23
朝鮮人  85.16   22.35   43.30   53.48

297:日本@名無史さん
15/01/25 08:26:27.25 .net
未盗掘の首長級墓から大量の副葬品!
宮崎県えびの市・島内地下式横穴墓群
URLリンク(www.nishinippon.co.jp)

宮崎県えびの市教育委員会は19日、同市島内の島内地下式横穴墓群から
2体の人骨と武具や装飾付き馬具など大量の副葬品を納めた
古墳時代中期末-後期初頭(5世紀末~6世紀初頭)の未盗掘の墓が見つかったと発表した。
副葬品が土に埋もれずほぼ完全な状態で見つかるのは極めて珍しい。
朝鮮半島製とみられる大刀(たち)や、大和政権との関係を示す甲冑一式も出土しており
首長級の有力者が埋葬されたとみられる。

遺体を安置する墓の玄室(奥行き2.25メートル、高さ0.94メートル、幅3,1メートル)には
女性の遺骨1体と男性とみられる遺骨1体とともに、矢羽根周辺に黒漆を塗ったものを含む
約300本の矢や箱に入った状態の鏡など計400点を超える副葬品があった。

銀メッキで鞘などを装飾した銀装円頭大刀が出土したのは九州で初めて。
朝鮮半島=百済ないしは伽耶=で作られた物と様式が酷似しており半島製と判断できるという。
また衝角付冑と短甲、肩甲などが完全にそろって出土した甲冑は、
他の国内遺跡から出土した大和政権下で作られたものと様式が似ており、
大和政権との政治的関係を示している。

玄室が土に埋まらなかった為、馬具や大刀の柄に繊維や革など有機物も残っており
当時の製法や使用法の解明についても期待できる。
調査に当たった鹿児島大総合研究博物館の橋本達也准教授(考古学)は
「武器や馬具の特徴から埋葬された人物は朝鮮半島で軍事や交易の交渉に関わるなど
大和政権と政治的関係を持っていた可能性がある」と話している。

ソース 西日本新聞
URLリンク(www.nishinippon.co.jp)

298:日本@名無史さん
15/01/25 08:32:17.15 .net
妄想が膨らんできてるね~

299:日本@名無史さん
15/01/25 17:53:22.10 .net
>>296
>『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
> 『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
> 『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
> 『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
> 『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
> 『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
> 『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
>『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』

これって東アジアの人種ならすべて当てはまるんじゃね

300:日本@名無史さん
15/01/25 20:38:07.29 .net
手足が長い。
中頭
湿った耳垢且つワキガ
物凄い福耳
髭は普通
奥二重
蒙古襞は有るな
歯はコンプレックスなくらい小さい
こんな俺でも東洋人で日本人だ。

301:日本@名無史さん
15/01/28 08:50:58.59 .net
統計的特徴の話をしてるんだから、はずれ値は小さくなってなさい。

302:日本@名無史さん
15/01/28 09:45:02.86 .net
>>297
なんでもかんでも朝鮮半島製ってほんとかよ、とこのごろ思う。

303:日本@名無史さん
15/01/31 23:48:17.73 .net
百済ないし伽耶という書き方も不思議であるよなあ
全然わかってない感がスゴイ

304:日本@名無史さん
15/02/01 15:39:19.67 .net
南九州の石積石室墓から発展したのが、前方後円墳だと思う。
外側は違うけど、中の構造がよく似てる。

305:日本@名無史さん
15/02/02 06:33:57.26 .net
何か根拠があって「朝鮮半島製」とか「朝鮮半島から来た技術」とか言ってるのかな?
陽線半島の古い製鉄遺跡は発見されていない。
魏志東夷伝に書かれた記事のみが根拠とか。

306:日本@名無史さん
15/02/02 07:12:32.77 .net
>>296
人類学者が比較に持ち出す「朝鮮人」って、現代人ばかりな気がするなあ。
弥生開始期以前の朝鮮人と比較するならわかるけどさ。
半島南部に倭人が住んでいる、三韓には中国人が移住していると書かれているのに
混じった後と比較してもしょうがないんじゃないかな。
弥生文化が到来した時の遺跡の人骨と、その時代直前の朝鮮半島人が、人骨も
文化も全く同じってならだけど、そんあものはどこにも存在しないんだよな。
鉄は弁辰とかいうくせに、朝鮮で製鉄の遺跡なんか一つも出ていない。

307:日本@名無史さん
15/02/02 07:15:11.53 .net
前方後円墳は吉備と出雲が合体説も怪しくなってきたね。

308:日本@名無史さん
15/02/02 09:36:53.15 .net
>>306
渡来系弥生人の頭蓋骨といって、北九州あたりにおいてある図があるけど、
渡来系というぐらいなら、同時代の半島の頭蓋骨を並べるくらいしろよ、とは思う。
なんていうか、学問的にしょぼい。

309:日本@名無史さん
15/02/03 08:11:10.55 .net
絵になってたり比較で持ち出すのって、山口の土井ヶ浜の遺骨が多いんだよな。
あれって、弥生の平均とかじゃなくて、特殊なやつじゃん。
あたかも、「ここに流れ着いた渡来人がその後日本中に広まって弥生人になった」
かのように書いてる奴もある。
弥生時代がというか水稲稲作が始まって随分経ってからの遺跡なのに、未だに
弥生文化をもたらした渡来人そのものかのような扱いは変。
人類学者って考古学を馬鹿にしてるのか知らんが、前後関係とか文化とか
無視して、「人骨が縄文人と違うからこれこそが・・」みたいな決め付けを
するから信用できん。

310:日本@名無史さん
15/02/15 18:06:12.39 .net
大和古墳群の中でも、北の方の一群に興味があるなあ。
100m超えのがいっぱいあるんだよな。

311:日本@名無史さん
15/02/15 19:38:31.09 .net
縄文人と弥生人の区分って使ってた土器による超ザックリしたものだから
人骨で判断なんて無理
割目遺跡みたいに途中から住民が縄文人から弥生人になった場合とかどうすんだって話

312:日本@名無史さん
15/02/15 19:43:11.30 .net
>>311
そこでいう縄文人と弥生人って、同じ遺跡で土器が混在してるって話?
それとも人骨の話?

313:日本@名無史さん
15/02/23 19:41:58.75 .net
割目遺跡は縄文時代から弥生時代まで時代をまたいで存在した集落の跡だよ
途中からこの集落の住人は縄文土器から弥生土器を使う「弥生人」になったが
生活遺物は断続の跡が見られず縄文時代からいた人々の子孫とみられている

314:日本@名無史さん
15/02/25 13:50:58.43 .net
古墳時代の豪族の館が南北朝時代の武士の館と同じに感じた
古代からぜんぜん発展してないのかね
三ツ寺Ⅰ遺跡
URLリンク(www.ranhaku.com)

315:日本@名無史さん
15/02/27 18:24:48.79 .net
>>313
つまり人骨の話じゃなくて土器の話ね
>>309
いや、全国的なのは土井ヶ浜タイプのほうで、
吉野ケ里タイプのほうが北九州に局所的なものと聞いたが…?

316:日本@名無史さん
15/02/27 20:03:38.85 .net
南北朝の武士の館より古代の豪族居館のほうがレベル高いぞ
土台が高いし堀幅も広いし何げに横矢もあるからな

317:日本@名無史さん
15/02/28 13:39:18.86 .net
>>316
劣化してるのかw
トイレとかどうだったんだろうね

318:日本@名無史さん
15/03/08 10:21:40.09 .net
土井ヶ浜の方が例外だろ

319:日本@名無史さん
15/07/08 08:51:14.68 .net
【文化】東日本最古の古墳が壊される!? 卑弥呼と同時代...道路は本当に必要か [転載禁止]©2ch.net
スレリンク(newsplus板)

320:日本@名無史さん
15/07/09 15:54:19.42 .net
>>313
誰だったか学者が書いてたね。
遺跡が出た時に違いを強調するあまり、それ以前(縄文)からの伝統を軽く表現しすぎた
というようなことを。実際は、伝統的な縄文の文化にちょっとだけ新しいもの
が加わるだけらしいけどさ。
新しいものだけを取り上げると、あたかも渡来人がやって来たかのような印象を
受けるんだよな。支石墓なんかはまさに朝鮮半島からの到来文化だと思うけど、
埋葬されていた人骨は縄文人っぽいとか。
ここらへんが、発掘する考古学者は全体を見てるようだけど、人類学者とかは
一部だけを取り上げて自説に都合よく解釈しているとしか思えないんだよ。
松菊里型の住居跡も、それが出てきたことしか書いてないと、渡来人だけのムラ
が本州一帯に進出したような印象になるんだよ。

321:日本@名無史さん
15/07/09 21:42:24.11 .net
神戸女児殺害事件 宗教 ←絶対検索するな!
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)

322:日本@名無史さん
15/07/09 23:22:25.21 .net
古墳ギャルのコフィーというアニメがあってだな…。
あれは衝撃的だった。

323:日本@名無史さん
15/08/02 20:56:29.16 .net
 
お世話になります。
私、責任者の加茂と申します。以後、宜しくお願い致します。
URLリンク(www.apamanshop.com)
浪速建設様の見解と致しましては、メールによる対応に関しましては
受付しないということで、当初より返信を行っていないようで、今後につい
てもメールや書面での対応は致しかねるというお答えでした。
 
このように現在まで6通のメールを送られたとのことですが、結果一度も
返信がないとう状況になっています。
 
私どものほうでも現在までのメール履歴は随時削除を致しております
ので実際に11通のメールを頂戴しているか不明なところであります。
 
 URLリンク(s-at-e.net)

324:日本@名無史さん
15/08/02 22:31:30.67 .net
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

325:日本@名無史さん
15/08/02 22:31:59.99 .net
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

326:日本@名無史さん
15/08/04 01:16:09.70 .net
うちの所有する山に古墳らしきこんもりした盛り上がりがあるのですが確信はできないので放置してます。こういうのって何処かに言えば古墳か調べて貰えるのでしょうか?すぐ近所には邪馬台国の時代の古墳もあるので何となくロマンを感じてます…

327:日本@名無史さん
15/08/07 22:36:59.96 .net
>>318
は? 何を根拠にいってんの?

328:日本@名無史さん
15/08/07 22:51:38.70 .net
>>326
地元自治体の教育委員会の埋蔵文化財担当部署へ行って遺跡地図を見せてもらえ
すでに古墳として認知されているならば遺跡地図に表示されているはずだ
遺跡地図に載っていなかったら担当者に古墳らしいものがあると話して、見に来てもらえばいい
考古学を学んだ人間ならば人為的に造られた遺構なのか自然地形なのかはだいたい見ただけで判別できる

329:日本@名無史さん
15/08/10 12:52:05.93 .net
>>326
邪馬台国時代の古墳が有るってすごいね。
全国でも数少ないのに

330:日本@名無史さん
15/08/10 14:24:18.45 .net
古墳とアレって言うブログ?でうちの土地の古墳が載ってる…。絶対許可とってないしぜひ見学をとか書いてあるし迷惑だ。でも土地バレしてるから嫌がらせされても困るし。愚痴です、すみません。

331:日本@名無史さん
15/08/12 13:41:22.64 .net
土井ヶ浜は、あれこそが難破して漂着した徐福一団の一部じゃあなかろうか。

332:日本@名無史さん
15/08/17 14:15:36.32 .net
>>331
時代があわない。却下

333:日本@名無史さん
15/08/18 19:28:59.52 .net
>>329
つか邪馬台国の時代って古墳時代?弥生時代?
弥生時代なら古墳じゃなくて弥生墳丘墓だよね、実質同じかもしれんけど

334:日本@名無史さん
15/08/18 23:49:46.04 .net
>>290
ワカヌケ皇子とか男子もいたろ

335:日本@名無史さん
15/08/19 00:08:26.42 .net
古墳時代・・それは、国譲りで敗北した先住出雲族の誇り・・それが、古墳である。
古墳の建造、神社の修復は、先住出雲族のみの技術だった・・。
出雲大社の修復は、古来より杵築大社の元々の司祭家である神門臣家の者しか修繕改修を許され無い神聖に職業。
また、南関東国造家を記紀では、三字以音(散自出雲)と自称する者たちが、東京湾周辺の神門古墳群を形成した。
この、南関東国造を島族と言い、親筋が、伊勢志摩の志摩国造家に当たり、この志摩国造家の島(直)氏=斯摩宿禰将軍と言い
斯摩宿禰が神門臣家の子筋の先住出雲族とされており、南関東の散自出雲族の親が神門臣家で一致する。
東海道上の古墳群は、この散自出雲族=島族が造ったと、ほぼ、断定可能なのです。

336:日本@名無史さん
15/08/19 00:16:05.71 .net
>>335
おまえの訳分からない電波定義はどうでもいいんだっつのw

337:日本@名無史さん
15/08/19 01:10:54.01 .net
松浦厨を久々にみた

338:日本@名無史さん
15/08/19 03:23:01.48 .net
>>332
あれ?紀元前2世紀ごろじゃなかった?

339:日本@名無史さん
15/08/21 22:07:49.48 .net
>>338
どっちが?

340:日本@名無史さん
15/08/22 17:02:54.92 .net
毛野が上毛野と下毛野に分裂したとき、戦争はあったのかね?
日光に「戦場ヶ原」っていう湿地帯があるんだが、そこには大蛇に化けた男体山(栃木)と大ムカデに化けた赤城山(群馬)が戦ったと謂われる伝説があるんよね

341:日本@名無史さん
15/08/22 22:43:26.58 .net
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

342:日本@名無史さん
15/08/22 22:44:36.20 .net
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

343:日本@名無史さん
15/08/26 13:54:27.90 .net
>>335
シマヤのうた
URLリンク(youtu.be)

344:日本@名無史さん
15/08/26 14:17:12.12 .net
>>343
ヘブライ語で「シマヤシマヤ」とは・・「注目っ注目ぅ~」の意味。

345:日本@名無史さん
15/08/26 15:00:34.57 .net
>>133
預言者シマヤ検索・・。
ヘブライ語で「シマヤシマヤ」とは・・「注目っ注目ぅ~」の意味。
登場人物で読む聖書の物語 シェマヤ 列王記・歴代誌
URLリンク(flamboyant.jp)
JBS-iばいぶる-聖書全文検索
URLリンク(www.bible.or.jp)
Ⅰテモテ6章11~21節 「神の人として」 大田原キリスト教会
URLリンク(otawara-church.com)
投稿ナビゲーション← 民数記21章イザヤ45:1-13 レジュメ   →Ⅰテモテ6章11~21節 「神の人として」
いよいよテモテへの第一の手紙も結びの部分に入ります。
きょうは、この結びの部分から、「神の人として歩もう」というタイトルでお話したいと思います。
パウロはこの結びのところでテモテを、「しかし、神の人よ」と呼んでいます。
聖書の中でこのように「神の人」と呼ばれている人は稀です。
旧約聖書ではモーセ(申33:1)やエリヤ(Ⅰ列王17:18)、
また その弟子であったエリシャ(Ⅱ列王4:16)などが神の人と呼ばれました。
また あの有名なダビデもそのように呼ばれました(Ⅱ歴代8:14)。
その他、預言者でシェマヤ(Ⅰ列王12:22)という人や、
イグダルヤの子ハナン(エレミヤ35:4)もそのように呼ばれました。
他にそのように呼ばれた人はいません。
新約聖書でこのように呼ばれているのはテモテだけです。
パウロはこの「神の人」という言葉をテモテに用いました。
それは牧会で苦労していたテモテにとって、どんなに大きな励ましであったことでしょう。
※・・旧約聖書ではモーセやエリヤまた その弟子であったエリシャなどが神の人と呼ばれました。
また あの有名なダビデも そのように呼ばれました。
その他、預言者でシェマヤ・・。
神の人・・シマヤ

346:日本@名無史さん
15/08/26 15:04:41.49 .net
>>345>>133はアンカーミスで無関係です。
失敬。

347:日本@名無史さん
15/08/27 00:29:37.35 .net
自己レスで誤爆とか
ほんとに松浦厨は笑わせてくれる

348:日本@名無史さん
15/08/27 09:46:28.98 .net
>>347
ならっ
シマヤのうたの感想くらい書いてけっ

349:日本@名無史さん
15/09/09 08:21:24.70 .net
秋津遺跡ってなんだろうねえ

350:日本@名無史さん
15/09/11 21:26:50.80 .net
中西遺跡
URLリンク(www.asahi.com)

351:日本@名無史さん
15/10/14 04:23:23.95 .net
倭人伝における邪馬台国
○ 代々男王 → 「共立」卑弥呼 → 男王 →「復立」卑弥呼宗女である トヨ
記紀に適合可能的なものは
a 代々男王 ∧国を治めるのを補佐するヒミコの男弟  崇神  → ひみこ=ももそ → イクメ → トヨカリイリ姫
         父      叔母            長男   娘    
b 代々男王 ? →  モモソ       →  男弟 イクメ 垂仁 → トヨ  
           補佐する男弟 崇神
a と b ともに皇族家族内。 女性は3者共通して鏡とアマテラスがつけられており、なおかつ伊勢神宮の斎王であり強力
男弟 国を治める    
官   イクメ   垂仁
いずれにせよヤマトの大和朝廷、皇室、皇族内の話。
日の巫女 ももそ姫
トヨ      豊     確定 崇神の子
記紀においては崇神-ももそとよ 

352:日本@名無史さん
15/11/08 13:36:43.00 .net
しかし、あれだけ巨大な墓をつくれる古代日本って何があったんだろう?
人口?トップの宗教的権威?

353:日本@名無史さん
15/11/08 13:52:28.02 .net
最大の仁徳天皇陵で680万人日
2000人で10年位

354:日本@名無史さん
15/11/12 00:32:24.00 .net
このスレの奴らなら「古墳 悪魔教」で検索した事は容認できる訳だ
縄文人もモンゴル人もソグド人もD2遺伝子民全てゾロアスターを崇めた悪宗教だからな
日本の上に立つ神社は全てそれであって出雲族も日向族も同じ穴の貉だからな
全ての概念がひっくり返る、神一厘もメシアも全て悪宗教の偽神・真神、悪の中で完結する経綸だ
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www2.biglobe.ne.jp)
D2を持つ無宗教日本人こそ真の民と言える訳だ

355:日本@名無史さん
15/11/12 13:16:29.40 .net
>>352
なんだろうなあ。
人口推計では、弥生末期から奈良時代まで人口が急増してる。
AD200 60万 → AD725 450万
これって、150年で約二倍になった江戸初期の増加率に似てる。
平和になり、幕府や大名が率先して新田開拓を進めた。
新しい村がたくさん誕生した。
次男三男は、新田の開発に行き、そこで新しい家族を作った。
お城のようにも見えるけどな。
技術、統率力を持った人間が、庶民に給金を払い作らせた。
一大土木工事だから、そこで働いた人間が地元に戻って新田を作る技術を学べ、
食料や道具も支給されたら、喜んで来てくれるのかも知れない。

356:日本@名無史さん
15/11/12 13:25:26.87 .net
>>351
確実にアイヌの話だよ

357:日本@名無史さん
15/11/12 13:28:47.49 .net
元々住んでいた、
本当の住人や持ち主を殺害し、追い出し
盗んだ後に漢字変換、当て字か

358:日本@名無史さん
15/11/12 14:15:23.48 .net
遠方に追いやられ、
古代、古墳時代そのままの暮らしをしていたから
当時の言葉に近いんじゃないの?
日本語というか標準語より、
アイヌ、朝鮮wの言葉

359:日本@名無史さん
15/11/16 12:10:28.95 .net
                   【重大】
       放射能テロ虐殺犯の安倍が、核兵器を密造か!?
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信 三菱重工の重役でもあるらしい
これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある 書けばツイッターで速攻削除されている
URLリンク(twitter.com) iamada/status/664017453324726272
安倍晋三の兄が関与している三菱重工 核開発疑惑について いくつかツイートしたが、反応がないから変だと思って、自分のタイムラインを調べてみたら、
完全に削除されていた 私のツイートで、安倍政権に都合の悪い情報は速攻削除されている これは驚いた ここまでやるのか
URLリンク(twitter.com) iamada/status/664016524592574464
先ほど、まだ数分以内に、三菱重工の核開発疑惑について、いくつかツイートしたが、検索しても出てこない 多くの人のタイムラインに出てこない ツイート直後に消されてしまったようだ
URLリンク(twitter.com) iamada/status/664015521830952960

                   【警告】
          死亡者数、戦時なみの勢いで増加中!!
川崎病の年間患者数、史上最高に 1万5千人を突破、ピーク時を超える 最初の報告は水爆実験後。本当の原因は被曝
震災以降に死亡者数が、第二次大戦に匹敵するほど急増している
厚生労働省によると平成23年から平成25年の累計死亡者数は360万人以上に急増。今の日本は太平洋戦争時の時と同じくらいの勢いで人が亡くなっている
除染袋回収の作業員5人 疲労で動けず、自衛隊など救助  疲労じゃないだろう、被曝障害だろうよ 死んだように眠る人々(写真多数)
URLリンク(s.ameblo.jp)
【川島なお美の食べて応援が恐怖すぎる】自宅でも進んで食べて応援
1年後・軽くぶつけただけで肋骨骨折 2年後・眼球から出血は半年に一度 3年後・胆管に腫瘍、血液検査は異状無し 4年後・逝去 夫は片目失明、愛犬もがん
URLリンク(twitter.com)
・・・ 今も、原子力緊急事態宣言中… 対策本部長は安倍首相。

360:日本@名無史さん
15/11/22 22:08:38.88 .net
古墳って上から見ると「鍵穴」キーポイントはこの中にある。パンドラの箱と
同じで、鍵は開けないほうがいいと思う。

361:日本@名無史さん
15/11/22 22:32:52.49 .net
キン肉マン?

362:日本@名無史さん
15/11/23 08:33:17.45 zeMLIpYUR
金日成の北朝鮮国家主席就任日と日本史

URLリンク(music.geocities.jp)

旧暦での日本の建国記念日と一致していた。

( URLリンク(sky.geocities.jp) )

( URLリンク(music.geocities.jp) )

363:日本@名無史さん
15/12/16 22:20:52.63 /v6oW6jeT
古墳が鍵穴(≧∇≦)まだそんなこと言ってん奴おるんか(≧∇≦)死語だろ(≧∇≦)

364:日本@名無史さん
15/12/20 05:39:39.28 Kz4lqVEn9
古墳時代が謎の世紀言ってん時点で死語やろ?

このスレバカばっかしかいねー(≧∇≦)

365:日本@名無史さん
15/12/23 18:48:55.85 .net
愛知県の古墳は213箇所
断夫山古墳(だんぷさんこふん/だんぷやまこふん/陀武夫御墓/鷲峰山/団浮山/段峰山) が最大のもの
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
URLリンク(upload.wikimedia.org)

366:日本@名無史さん
15/12/23 18:50:59.08 .net
5世紀末-6世紀初頭(古墳時代後期)の築造で国指定史跡
全長150m(推定復元160m)で東海地方最大の前方後円墳だ・・・前方部が後世削られた痕跡が見つかった
前方部幅120mの高さ16m、後円部径80mの高さ13mで、3段築成で葺石・埴輪を備え、25m×17mの西部くびれ部に造出しがある
墳丘の周囲には濠がめぐる
埋葬者は、伝承では宮簀媛命(日本武尊妃)、推定では尾張氏の首長墓(尾張連草香や継体天皇の后・目子媛)とされる
尾張氏は、孝昭天皇・孝安天皇・崇神天皇・継体天皇の正妃、安閑天皇、宣化天皇、敏達天皇、推古天皇らがここの出自で古代豪族
周辺には、白鳥古墳(前方後円墳、墳丘長70メートル)や北山古墳(熱田球場の位置に前方後円墳。潰した!!)、
高蔵遺跡(古墳時代の竪穴式住居跡、貝塚、方墳や円墳、弥生時代の環濠集落)など、古墳時代の遺構がいっぱいある
断夫山の由来は、宮簀媛命(日本武尊妃)の伝承からだがヤマトタケルの伝承は4世紀なので尾張氏の墓説がこんにち有力だ
入山の受付をすれば断夫山古墳を散策できる
名古屋市博物館、見晴台考古資料館、南山大学人類学博物館、豊田市郷土資料館に出土品の埴輪、円筒、須恵器が展示されてる

367:日本@名無史さん
15/12/23 18:52:34.22 .net
熱田神宮へ行ったらついでにどうぞ
神宮西駅から徒歩5分くらいです。。。北西の位置

368:日本@名無史さん
15/12/23 19:10:09.54 .net
方墳と円墳を合わせたらあの形になっただけなんだけどね
鍵に見えるなら偶然かそれとも日本の古墳の形を真似したか

369:日本@名無史さん
15/12/23 19:32:24.15 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

370:日本@名無史さん
15/12/23 19:32:51.24 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

371:日本@名無史さん
16/02/07 00:23:17.20 .net
4世紀に文献がないっつっても「紙の文献に載ってない」ってだけで
金石文なら広開土王碑文があるだろ
空白じゃないよ

372:日本@名無史さん
16/02/09 06:58:18.84 .net
よくまああれだけ累々と作れたものだと思うわ。
特に大和古墳群と馬見古墳群。

373:日本@名無史さん
16/02/16 18:53:47.46 .net
>>352
専門家が推定しているよりも人口が多かったんだろうなあ。

374:日本@名無史さん
16/02/20 10:43:08.56 .net
……………………
「早稲田大学の大隈重信の銅像」と「慶應義塾大学の福沢諭吉の銅像」はどっちが格上だと思いますか?
早稲田大学の大隈重信の銅像
URLリンク(www.youtube.com)
慶應義塾大学の福沢諭吉の銅像
URLリンク(www.youtube.com)
……………………

375:日本@名無史さん
16/02/26 21:59:47.41 .net
>>372
古墳の大きさってのは
その大王の在位期間につくった農業貯水池の規模に比例するんじゃね
掘った分の土を積み上げるわけで

376:日本@名無史さん
16/02/29 22:27:44.30 .net
>>335
何の根拠もない妄想だろ w

377:日本@名無史さん
16/02/29 22:46:54.19 .net
>>376
それ松浦厨っていうガイキチの書き込みだよ

378:日本@名無史さん
16/02/29 23:18:50.49 .net
>>375
農業貯水池に留まらず、今の土地改良事業に相当するような大規模な土木工事
で発生した残土の利用法として古墳=墓を造成したんじゃないかと思う。最初の
うちはかなり苦労しながら試行錯誤を繰り返しただろうが、一つの定型を生み
出した後は、案外簡単に造ったんじゃないかと思う。最初から古墳=墓として
利用することが決まっていれば、玄室になる部分は最初からわかりやすい目印を
着けておき、後で掘り出す時に崩れないように予め杭を打つようにしたんだろう
と思う。某ゼネコンが大仙稜古墳を造るのに15年はかかっただろうから、天皇
が在位中から工事を進めていたはずと主張しているが、俺はそうは思わない。
飽くまでも残土利用に過ぎないのだから、死後玄室部分だけ掘削すればいいだけ
だろう。水田開墾はその集団の誰にとっても利益になるのだから強制的奴隷労働
なんかさせる必要はなかったはずだ。

379:日本@名無史さん
16/02/29 23:20:51.70 .net
まじめに語らないんだから必要ないだろ

380:日本@名無史さん
16/02/29 23:23:29.96 .net
そりゃそうだ
巨大な御陵をもつ応神仁徳の時代に治水伝説も多いってのは偶然じゃないだろう
こういう議論は戦前にすでに普通にあったけどな

381:日本@名無史さん
16/03/01 01:37:42.11 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
URLリンク(inoues.net)
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり

382:日本@名無史さん
16/03/01 01:38:07.92 .net
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww

岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
URLリンク(www.local.co.jp)
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった

383:日本@名無史さん
16/03/01 07:20:32.83 .net
箸墓古墳には箸が埋まってるのだろうか?気になる

384:日本@名無史さん
16/03/01 15:27:39.46 .net
>>383
箸は橋と同じ語源であの世とこの世を繋ぐものだから
巫女の意味だよ

385:日本@名無史さん
16/03/01 21:49:30.66 .net
箸は当て字で単に地名じゃないの? 端っこの方の土地

386:日本@名無史さん
16/03/10 04:25:59.78 .net
>>385
実際、はしっこにあるの?

387:日本@名無史さん
16/03/10 09:55:18.46 .net
倭人の勢力の端ではあるな。その後拡大するが

388:日本@名無史さん
16/03/26 12:33:07.13 .net
子供に「墳丘長ってなんて読むの?」って聞かれたけど、これ「墳丘ちょう」か「墳丘なが」のどっちなんだろうな
こういう用語ってわざと一般的じゃない読み方をすることがあるから悩んでしまった

389:日本@名無史さん
16/03/30 14:45:12.79 .net
>>378
強制労働というよりも、食料と住まいを給付した土木技術者養成所みたいだな。
あそこへ行ったら食料はくれるし住まいは用意してくれるし、技術は学べるし、
帰るときには道具も種籾ももらえる。
競争率高そうだな。

390:日本@名無史さん
16/03/30 15:11:37.69 .net
大和古墳群と馬見古墳群が気になるな。
1,纏向型ー談合政権をまとめ上げた人及び卑弥呼の時代の英雄達の墓
2,大和古墳群ー談合政権の後期とトヨの時代の有力者の墓
3,馬見古墳群ーその少し後、半島進出した時の英雄(前半と後半あり?)
2の同時代のがヤマト以外ではいくつか見られるが、数はそれほど多くはない。
2の前半は、椿井大塚山古墳や西求女塚古墳等。
次の佐紀陵山古墳の相似形のものがわりとたくさんある。
三角縁神獣鏡は、鏡作神社の伝承通り崇神天皇が作らせたというので正しい気がする。

391:日本@名無史さん
16/03/31 15:26:44.84 .net
鏡作神社周辺を発掘すれば、一気に解決しそうなんだがな

392:日本@名無史さん
16/04/01 17:07:09.66 .net
景行天皇あたりまで、王位が特出していなかったのかな。
王墓規模のが6つもある。
椿井大塚山古墳も充分大きいけどさ。

393:日本@名無史さん
16/04/02 00:10:23.78 .net
倭国王って選挙王だったと思うんだ。
有力国主たちに選ばれてなる。
時代が下っても群臣の推挙を受けて即位してるしね。
例えれば、神聖ローマ帝国とハプスブルグ家みたいな感じで、
倭国王も最初のうちはそれなりに選挙で選んでいた。
徐々に対抗馬を蹴落とした天皇家が形式的には選挙だけど実質は世襲で倭国王に即位するようになった。
何で、倭国王なんてものを選んだかが疑問なんだが、
目的は楽浪郡の先進文物と朝鮮半島の鉄を公平に配分することじゃないだろうか。
1世紀には楽浪郡や鉄の産地に近い北九州の優位は明らかなんだが、
直接交渉が困難な倭人地域の拡大に伴い北九州に対抗するために連合する。
一種のカルテルか談合組織みたいなもので、
分裂するのは簡単だけれど分裂すると皆が損するようになる。
卑弥呼即位は
分裂したままでは損だから纏まりたい。
でも、あいつ等の推す倭国王は認められない。
という妥協から共立されたんじゃあないだろうか。

394:日本@名無史さん
16/04/02 09:48:43.07 .net
大陸の動乱が関係してるんじゃないかな。
黄巾の乱で、分裂、主導権争い。その余波が日本列島にも及んだ。

395:日本@名無史さん
16/04/02 14:55:31.36 .net
亡国の軍人が、海賊になって暴れまわったんじゃないかな。
内輪もめしてる場合じゃないほどひどくて、談合政権を作ったとか。
九州の一部に、海賊と結託したのがいて、瀬戸内海を暴れまわったので、
狼煙を上げて連絡した。
終わりの方は、東海から援軍を頼んだ。
魏が成立するとすぐに朝貢したのは、海賊を取り締まってくれという意味もあった。

396:日本@名無史さん
16/04/02 15:01:57.25 .net
>>393
どうかなあ。
最有力の海人である海部一族がいるのが丹波(丹後)と尾張だからなあ。
加古川沿いに瀬戸内海まで進出してるようだし。

397:日本@名無史さん
16/04/03 01:16:44.09 .net
>>394
大陸の動乱が関係するかなあ?
中国の分裂は周辺への圧力低下を意味するから、周辺国では恐怖による求心力は低下する。
漢が健在なときでも、日本から見て朝鮮半島の小国すら制圧していない楽浪郡を脅威に感じるとは思えない。

398:日本@名無史さん
16/04/05 08:51:51.95 .net
>>397
そうじゃなくて、国が分裂→国家の統制ができなくなる→海賊などが蔓延る。
ソマリアやシリアみたいな感じ。

399:日本@名無史さん
16/05/02 01:16:00.74 .net
世界規模の気候変動で寒冷期が来ると、あちこちの地域で大国が分裂したり内乱が起きたりしてる
漢の滅亡もローマの分裂や滅亡も根源的には寒冷化の影響。
であるからして、日本列島でも飢饉多発により戦乱があった可能性はある。
それとはあまり関係ないけど、
楽浪郡あたりを支配してた国(燕、根拠地は遼東郡)は、西は北京に近い地域まで、南は山東半島北東部まで領有する、けっこう大きな国だったみたいだぞ
魏から独立してた期間は短いけども。

400:坂下千里子超うざい
16/06/18 19:14:38.56 .net
この前のヒストリア怪しい学者の前方後円墳は壺を模したもの説を異常なまでに押してたな
怪しい学者はほぼ壺で確定みたいな言いきりだったけど
どう考えても壺の線は薄いだろ

401:打倒安倍下痢三
16/06/18 19:16:44.85 .net
>>383
古墳時代の日本に箸なんてねえよ
少しは勉強しろよ

402:日本@名無史さん
16/06/18 19:23:47.37 .net
当時は炊き立ての熱い飯を手づかみで食ってたのか?
んな訳なかろう

403:日本@名無史さん
16/06/18 19:30:07.23 .net
匙だろ

404:日本@名無史さん
16/06/18 20:49:34.42 .net
黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!

赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。

それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
URLリンク(www.geocities.jp) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3)


405:日本@名無史さん
16/06/18 22:25:18.65 .net
>>402
ヘラだよ

406:日本@名無史さん
16/06/25 03:20:09.74 .net
2016/6/23
「明治の盗掘説」真相は 仁徳陵の謎を探る(3) 軌跡
URLリンク(www.nikkei.com)
URLリンク(www.nikkei.com)
明治初期、大山古墳で見つかった甲冑を描いた絵図(個人蔵)
 米ボストン美術館には大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)出土とされる古代の鏡や大刀などが収蔵されている。
「1872(明治5)年、堺県(現堺市)の県令(知事)が立場を悪用して仁徳陵を発掘した際に持ち出した品」。
こんな説が小説などを通じて広まっている。
 確かにこの年、堺県が「墳丘を清掃して石を取り払ったら穴が開き、石室を見つけた」との文書を国に提出している。
これが意図的な発掘だったというのだ。出土した石棺や甲冑(かっちゅう)などの詳しい絵図も残る。
宮内省(現宮内庁)から派遣された絵師が描いたものとされる。
 だが当時の状況を詳しく検証した元堺市博物館学芸課主幹の樋口吉文さんは
「当時の県令にそんな権限はなかった。ぬれぎぬだろう」と話す。
 江戸幕府は、周辺住民が里山として大山古墳を利用するかわりに維持管理を委ねた。
明治初期もこの状況は続いており「まきでも拾おうと住民が墳丘に立ち入り、ついでに少し石をどけたところ石室を発見。
県令が国に届け出たのだろう。通常の手続きで、文書の内容に疑わしい点はない」と樋口さんは分析する。
 絵図を描いたのは宮内省の絵師ではなく、絵の巧みな建築技師だったことも判明。「古美術に造詣が深かった技師が話を聞き、
私的な立場で現地を訪ねて描いたのでは」
 ボストン美術館の収蔵品については「大山古墳とは年代が合わない」との指摘がかねて出ている。
 宮内庁は同館で調査し2010年、成果を公表した。収蔵品は岡倉天心が買い付けたものだった。
当時の記録で唯一残る会計報告書には「古代の墓から出土」とのみ記され、「仁徳陵」の名は無かった。
 裏付けのないまま唱えられた「仁徳陵出土」との推定が一人歩きした―。調査を担当した徳田誠志・陵墓調査官はこう推察する。
「確かな情報は無く、現時点で結論は出ない。仁徳陵と結びつけることは控えるべきだ」


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