【謎の世紀】古墳時代についてマタ~リと語ろう 2at HISTORY
【謎の世紀】古墳時代についてマタ~リと語ろう 2 - 暇つぶし2ch1:日本@名無史さん
14/08/05 22:00:32.53 .net
パート2立てました。

前スレ スレリンク(history板)

2:日本@名無史さん
14/08/06 10:29:50.21 .net
 古墳時代は、日本列島において古墳、特に前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する、考古学上の時期区分である。
 古墳の成立とその衰滅をいかに捉えるかによって、古墳時代の時期区分にも僅かな差異が生じる。
 現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。
 中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。

3:日本@名無史さん
14/08/06 10:31:48.46 .net
○時代区分
 3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、4世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期としている。
 実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半頃、関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末頃でほぼ終わる。

4:日本@名無史さん
14/08/06 10:36:12.28 .net
●古墳時代前期
 3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れる。
 その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的である。
 最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土している。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。
 埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。
 この頃、円筒埴輪が盛行。土師器が畿内で作られ、各地に普及すると、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。

●古墳時代中期
 5世紀の初頭、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化した人物埴輪が現れた。
 5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。
 5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。
 5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓が造られ始め、また、装飾古墳が出現し出した。

●古墳時代後期
 6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。
 6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行。埴輪が畿内で衰退したことで、関東で盛行するようになった。
 西日本で群集墳が盛んに造られた。

●古墳時代終末期
 全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、畿内でも方墳や円墳がしばらくの間築造されていた時期を古墳時代の終末期と呼んでいる。

5:初期ヤマト王権
14/08/06 10:38:53.53 .net
 弥生時代末期には、発掘調査の結果から北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことが判っている。
 3世紀前半に活躍した倭国王(親魏倭王)卑弥呼の所在地邪馬台国が北部九州、畿内のどちらにあったのかについては未だ学説が分かれている。
 いずれにせよ、この両地域の勢力が母体となって古墳時代のいずれかの時期に、畿内を本拠地とするヤマト王権が成立したと考えられている。

 成立の過程ははっきりしないが、考古学の成果は、奈良盆地勢力が吉備政権など列島各地の勢力と連合してヤマト王権へ成長してゆき、この過程で北部九州が衰退したことを示唆している。
 北部九州勢力が奈良盆地へ東遷の後、奈良盆地勢力を制圧してヤマト王権となったとする見解もあるが、この説は科学的に証明出来ていない。

 成立期には、従前のものより格段に大規模な墓(前方後円墳)が奈良盆地を中心に登場している。
 弥生末期には畿内、吉備、出雲、筑紫などの各地域ごとに特色ある墓制が展開していた。
 前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られるため、ヤマト王権は列島各地域の政治勢力が連合したことによって成立したとされる。

 ヤマト地方(畿内)を本拠として本州中部から九州北部までを支配したと考えられている。
 倭国を代表する政治勢力へと成長する過程では大小の勢力や種族との衝突があったと考えられる。『日本書紀』などにはそれを窺わせる記述(ヤマトタケル説話など)が残されているが、詳細な過程は不明である。

6:倭の五王の時代
14/08/06 10:40:18.29 .net
 中国の史書に266年から倭国の関係記事は皆無である。次に出てくるのは約1世紀半後の5世紀の初め、413年(東晋・義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたことが『晋書』安帝紀の記述である。
 421年(宋・永初2年)に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事があり、これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続いている。
 これが「倭の五王」である。倭の五王は、『日本書紀』に見える天皇との比定が試みられた。必ずしも比定は定まっていないが、例えば倭王武は雄略天皇ではないかと見られている。
 武については、中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されている。

 5世紀末時点ではまだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していないとされている。埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘の「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」から推測されている。
 一方島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」の銘から、6世紀中頃までには部民制の施行がうかがい知れる。
 また、大臣・大連の制度ができ、大臣には平群氏、大連には大伴氏・物部氏が選ばれた。氏と姓の制度がある程度成立していたとされている。

 4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。
 この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと『日本書紀』に記述があり、これを磐井の乱(527年)として扱われている。
 これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が北部九州に重く、乱となったと考えられるが、この時代はまだ北部九州勢力がヤマト王権の完全支配下にはなかったことも示唆している。

7:古代国家の成立
14/08/06 10:45:07.40 .net
 安閑(531年 - 535年)・宣化(535年 - 539年)・欽明(539年 - 571年)の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家を形成していった。
 王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌があった。
 地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣を作るなど、各地の豪族が部などを作り、勢力を張っていた。

 宣化朝に蘇我氏が大臣になり勢いを増した。
 後の崇峻期(587年 - 592年)を経て稲目・馬子・蝦夷・入鹿と蘇我氏が政治上重要な地位を占めることになる。この権力の掌握はは645年(皇極天皇4年)の『乙巳の変』までの約半世紀間続いた。

 欽明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の前身的な国家機構が整備された。
 また、この欽明朝では仏教の伝来があった。538年に百済から伝来した。『日本書紀』は、552年に伝わったと書いているが、他の史料から編者の改変である事が分かっている。
 仏教伝来については、蘇我氏と物部氏とが争い、蘇我氏の勝利に終わっている。

8:日本@名無史さん
14/08/06 10:53:42.12 .net
(_ _ )   < >>1さん、
 ヽノ)      乙でございます。
  ll


wikiからの丸写しなテンプレも変だといえば変なんだけど、
テンプレっぽいものがないのも変なので>>2-7までやってみた。
容量間違えて>>2>>3を2つにしてしまったり、5回連投規制に引っかかったりとけっこうドタバタした。



しかしこのwikiの要約見てもすぐに気づくくらい、空白の4世紀だなぁ  orz
やっぱり文献って偉大だよな。発掘だけでは歴史の再構成には限界があるな。
もちろん文献だけでは真偽がわかるわけでもないのも自明だけどね。

9:日本@名無史さん
14/08/07 13:52:07.57 .net
日本至上最も大規模な祭祀が行われた時代。
世界史上でも有数の規模だ。

10:日本@名無史さん
14/08/08 22:41:02.56 .net
祭祀の舞台としては最大級だよね。
巨大なモニュメントとは、それを造ったものの権威の象徴であるけど、
強大な権威が有るもの故に、それに相応しいモニュメントが造られたのか、
巨大なモニュメントに相応しい権威が欲しくて造られたのか、そのどちらかでしょうね。

11:日本@名無史さん
14/08/09 02:05:35.55 .net
大掛かりな権力の簒奪があった可能性が高くなるな。

その祭祀のしきたりも、稜の主もわずか100年後には、何もかもわからなくなってしまう、
なんてことが血筋が連続しているのに、起こりようがない。

12:日本@名無史さん
14/08/09 08:02:19.71 .net
弥生期の方形墳丘墓で40m四方程度が上限

これが
古墳時代の100m超の古墳になるときの
途中の移行期に当たる古墳とか
比定されていないのかな?

50m級とか70m級で、いわゆる纏向型のプレ形式を
持ってるとされているものがあるのかな?

13:日本@名無史さん
14/08/09 10:33:28.80 .net
しかし、盾築からして、既に80m超ではないか。

14:日本@名無史さん
14/08/09 11:13:55.01 .net
そもそも、わからなくなったわけではない。

15:日本@名無史さん
14/08/09 13:18:38.99 .net
>>11
そうだな。
平安時代の人物なのに5世紀に築造されて平城京建設の際に前方部が取り壊された古墳が陵墓になってる平城天皇も今の皇室とは関係がないな!

16:日本@名無史さん
14/08/10 01:45:44.98 .net
墳頂部を再利用している可能性は否定できないけどな

17:日本@名無史さん
14/08/11 13:32:16.71 .net
>>11
天武vs天智みたいな争いは各年代で繰り返されてきたんではないかな
つまり、その時々の政権にとっての仇はその都度抹殺される
生き延びた血統はさらに骨肉相食んで潰し合う…
つまり、広義の血脈は受け継がれてるが、政権血統そのものは100年前の祖先に義理立てするようなものではない…
とか

18:日本@名無史さん
14/08/11 13:33:12.62 .net
>>12
それがホケノ山古墳ではないのかな
違ったら失礼
いわゆるホタテ貝型で不恰好な前方後円墳だが

19:日本@名無史さん
14/08/11 13:49:06.85 .net
>>17
伝統に則って祭祀を主宰するというのは、伝統的な権力の正統性の根幹じゃないか。

カンボジアポルポト政権や、中国文化大革命のように直近の伝統を
丸ごと否定し忘却してしまうのが古墳時代の日本の権力では当たり前だったということ?

20:日本@名無史さん
14/08/11 15:32:26.49 .net
>>19
その2種の事例をなぜ同列に扱うのか意味不明だし、論調が極論で乱暴すぎる。

天皇家でも南朝・北朝の分裂期に相手の祭祀に関しては無視しただろうし、
(こちらは幸いにも60年程度でちおう再合一ということになったけど)
もちろん1百年では短いだろうけど、2~3百年も廃れていたのなら
比較的簡単に忘れ去られてしまい、伝承のみが残るようになると思う。

21:日本@名無史さん
14/08/11 16:48:11.90 .net
南北朝は祭祀の破壊とは正反対の事例だよ。
ひとつの祭祀をめぐってどちらが祭祀の主宰として正統なのかという争いだ。

河内古墳群の規模の大きさからして、当時の余剰経済力のありったけをあの稜に
注ぎこんだのは間違いなく、当時の国家の政の根幹を成していた可能性が高い。
なのに、100年後の仏教伝来時の論争にはこれらの古墳群についてまともな言及がない。

古墳の墓守が間違えたとかいうくだらん問題じゃないんだよ。

22:日本@名無史さん
14/08/11 17:09:32.87 .net
>>21
文書の類いが見つからないとこを見ると口伝だった蓋然性が高い
口伝者が死んだらどうなるだろうか
致死率の高い時代だ。何もかも弟子に伝えて死んでくれただろうか
古代人が伝承を死ぬより大事にしていた、という前提も、我々現代人の誤解かも知れんよ
人間、大事なのはまず自分だからねぇ

23:日本@名無史さん
14/08/11 17:17:04.16 .net
>>20
祭祀つったって平安時代の陰陽道重視の祭祀はそれ以前のものと大分異なってるしね
この点は吉野裕子の研究が面白かった

いろいろと事情はあるが、我々がアメリカ化を意識しないのと同様、中国化(唐)を無邪気に進めた時代もあったというわけだ
人間はその時代の空気の中にしか存在しない。無邪気に流行を追うだけだ

江上波夫のように、ここで埴輪が変わってる、馬に乗り始めてる、服装が遊牧民風になってるだとかで、
わざわざ民族移動を想定する方が異常だった

24:日本@名無史さん
14/08/11 23:00:23.79 .net
中央の人達にとっては文書化していたかも知れないけど
現地レベルで墓守する一般住民?にとっては又聞きの口伝レベルなのはありそう。
中央とて、火災などで焼失したり、没落が長引けば散逸するのは普通にあるきがする。


ややスレチだけど、無邪気というか、より高い文明・文化に触れたらそれは積極的に
取り込みたいのは世の常、人の常だも知れない。

25:日本@名無史さん
14/08/12 00:33:44.27 .net
>>11
つーか>>15もいうように平安時代の平城天皇陵ですら取り違えてるのに
古墳時代の天皇陵がすべて正確なわけないじゃんって前スレで突っ込まれてたろが
そんなことも忘れるぐらい頭が悪いのか?

26:日本@名無史さん
14/08/12 12:56:27.36 .net
>>25
頭が糞悪いやつだな。

平安時代は、稜は政の中核でもなんでもない。ただのお墓なんだよ。

27:日本@名無史さん
14/08/12 13:58:40.27 .net
相手が先にしてきたから自分もやり返すとか、
同レベルでしか争いは起こらない説は確かに正しいかもしれんw

28:日本@名無史さん
14/08/12 15:05:12.62 .net
>>25
その祭祀のしきたりも、稜の主もわずか100年後には、何もかもわからなくなってしまう

この前提がすでに間違いなんでは?
当時はきちんとわかっていたの
ただその後長い月日を経てわからなくなったというのが真相
記紀編纂時はきちんとわかっていた。わかる?

29:日本@名無史さん
14/08/12 15:41:52.15 .net
>>28
頭が腐ってるんか?

大古墳時代、何が行われていたか、記紀にまっとうな記載があったら、
5世紀は謎の世紀でも何でもない。

スレッドタイトル自体にケチつけてるようなもんだw

30:日本@名無史さん
14/08/12 16:05:36.82 .net
ん?
ちゃんとこの天皇はどこそこに埋葬されたって書いてあるじゃん?
ちゃんと読んだ?

31:日本@名無史さん
14/08/12 16:20:18.96 .net
記紀に書かれている地域に、
10や20の古墳があることも
ざらだけどな。

32:日本@名無史さん
14/08/12 18:00:10.61 .net
仲津山古墳こそが仲哀天皇陵だと思うんだけど、どう?
他に候補ある?

33:日本@名無史さん
14/08/12 18:13:07.54 .net
>>29
> 大古墳時代、何が行われていたか、記紀にまっとうな記載があったら、
> 5世紀は謎の世紀でも何でもない。
>

正論だね

34:日本@名無史さん
14/08/12 18:16:20.62 .net
>>31
天皇家陵以外の陪墳の説明なんかもキッチリ書き記してあると良かったろうが、無い物ねだりだろうなぁ

35:日本@名無史さん
14/08/12 21:38:12.77 .net
>>29
は?これはひどいジョークだね
記紀には5世紀のことについてちゃんと書かれてる

はい論破

36:日本@名無史さん
14/08/12 22:32:01.99 .net
>>35=池沼さん

37:日本@名無史さん
14/08/13 21:17:06.08 .net
五島にも古墳があるんだね。
「此の嶋の白水郎は、容貌、隼人に似て、 恆に騎射(つねにうまゆみ)を好み、其の言語は俗人(くにひと)に異なり。」
とか風土記に書かれてるのに。

38:日本@名無史さん
14/08/13 21:52:29.65 .net
見てるだろうが、参考までに。

蘇我馬子の父、稲目の墓?都塚古墳、国内初の構造も(14/08/13)
URLリンク(news.tv-asahi.co.jp)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(i.ytimg.com)
URLリンク(www3.nhk.or.jp)

都塚古墳は“ピラミッド型”か
URLリンク(www3.nhk.or.jp)


蘇我稲目より前の蘇我氏は出自が不明。記紀の武内宿禰の子孫云々は
史実とみなされていない。
記紀によれば、稲目の父の名は蘇我高麗、祖父の名は蘇我韓子。
墓のつくりは高句麗のそれそっくりで、もはや古墳とは呼べないような代物だ。

39:日本@名無史さん
14/08/14 00:04:39.16 .net
ちなみに記紀には、蘇我高麗はでてこない。
結構、知識が試される部分である。

40:日本@名無史さん
14/08/14 00:56:35.17 .net
>>38
高句麗人を妻にしてたとか知らんかったな
日本書紀は読んだんだけど

やはり渡来系なのか?しかし葛城系なんだろ?

41:日本@名無史さん
14/08/14 01:05:53.78 .net
>>39
おっしゃるとおり。記紀と書いたのは間違い。

>>40
稲目以前の蘇我氏の出自については、通説すらない状態。
葛城系というのも、秀吉が平氏だったレベルの話。

42:日本@名無史さん
14/08/14 03:24:54.50 .net
蘇我氏
具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、
それ以前に関しては以下の諸説がありよく分かっていない。

河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町
一須賀あたりと特定される説もある)の土着豪族という説

葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)の土着豪族という説

43:日本@名無史さん
14/08/14 03:27:26.39 .net
蘇我氏渡来人説

門脇禎二が1971年に提唱した[1]が、現在は否定されている。門脇が提唱したのは応神天皇の代に渡来した、
百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説で、鈴木靖民や山尾幸久らの支持[2]を得た一方、
加藤謙吉や坂本義種らが批判[3]したように、史料上の問題点が多い。根拠が不十分であり、現在では支持する研究者はいない[4]。

問題点は整理すると以下の通りであり、木満致と蘇我満智を同一人物であると実証することは不可能である[5]。

「木満致」の名が見える『日本書紀』の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と
「木刕満致」の名が見える『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(西暦475年)とでは時代が異なる
百済の名門氏族である木満致が、自らの姓を捨て蘇我氏を名乗ったことの不自然さ
渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以降であること
木刕満致が「南行」したとの『三国史記』の記述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと
百済の名門氏族出身でありながら、孫の名前が高句麗を意味する高麗であること

満智の子は韓子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高麗(こま)という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっているが、
水谷千秋は「蘇我氏渡来人説」が広く受け入れられた背景を蘇我氏を逆賊とする史観と適合していたからではないかと述べている[6]。
また、韓子は『日本書紀』継体天皇24年秋9月の条の注に「大日本人娶蕃女所生為韓子也」(大日本人、蕃女(となりのくにのめ)
を娶りて生めるを韓子とす)[7]とされているように、外国人との混血児の通称であり、実在の人物名としては考えがたいとする[8]。

44:日本@名無史さん
14/08/14 03:29:25.14 .net
蘇我高麗

蘇我 高麗(そが の こま)は古墳時代の豪族。蘇我韓子の子。
蘇我稲目の父[1]。本名は蘇我 馬背。母は、高麗毘賣(こまひめ)[2]。
母が高麗(高句麗)人だったので、高麗と呼ばれたとする説がある。
業績はいっさい不明で『古事記』『日本書紀』にも登場しない。

45:日本@名無史さん
14/08/14 07:55:55.73 .net
大伴狭手彦が高句麗を攻めたときの戦利品として、高句麗の姫を欽明天皇に献上した。
高麗毘賣は大臣の蘇我稲目に下賜されて、妻となった。
というのが日本書紀のストーリー。

46:日本@名無史さん
14/08/14 08:10:53.02 .net
高麗という名前が初めて出てくるのは、紀氏家牒で、
蘇我高麗ではなく、「蘇我馬背宿祢、亦曰二高麗宿祢一」という形で出てくる。

同資料に「物部守屋大連亦曰二弓削大連一」とあるから、
本名は馬背であり、高麗というのは母方に由来するのだろうといわれる。

47:日本@名無史さん
14/08/14 09:30:29.17 .net
>>42
雄略に滅ぼされた葛城氏が『我は蘇る』と名乗った…という合理化は一応できるね

48:日本@名無史さん
14/08/14 09:33:09.38 .net
>>43
キタナマロみたいに悪名つけたりするもんな

49:日本@名無史さん
14/08/14 11:48:46.51 .net
蘇我氏の系図で怪しいと言われる理由の一つに他の武内宿祢の子孫と違い石川から高麗まで分家が全く出てない点がある
蘇我氏は武内宿祢の直系の子孫ではなくて葛城氏か平群氏の分家だったのかもしれない

50:日本@名無史さん
14/08/14 11:53:16.30 .net
なぜか紀氏家牒に系譜が出てくるから紀氏の分家じゃないの?

51:日本@名無史さん
14/08/14 12:03:45.61 .net
そう言われれば確かに紀氏の可能性が高いかも

52:日本@名無史さん
14/08/14 13:12:28.10 .net
そういえば奈良の都塚古墳が
基壇を整えてその上に階段状に積み上げられていた方墳?だったと
発掘でわかったとかいう記事がでていたね。

実際に稲目なのかどうかはわからんらしいけど。

53:日本@名無史さん
14/08/14 17:00:56.72 .net
武内宿禰関連の子孫云々の記述は他の豪族も全部あてにならんだろう。

何百年も生きたという人間の子孫がどうのという記述を素で受け取るやつは
頭がおかしいとしか思えない。

武内宿禰について書いてたやつは、漢文は下手くそとは言え、当時の朝廷内での
知性は卓越していたろう。当然そんな記述の非現実性については重々承知。

そんな非現実的なことを書いた理由は、当時のいくつかの豪族の格付けを同格と
位置づける手段が、血筋しかなかったからだ。
伝承上の人物の年齢を何百歳と書こうと誰も困らんが、
朝廷権力の担い手同士の諍いは非常にまずい。

書いた当人も、よもや千数百年後の人間が、その記述を素で受け取るほど
頭が悪いとは思っていなかったろうさ。

とはいえ、蘇我以外の名前が挙がる豪族は歴史的に実在した可能性が高い。
蘇我については、そもそも豪族だったのか?というのが問題の出発点だ。

蘇我のように自身の祖神を持たない「豪族」というのは一種の形容矛盾だろ。

54:日本@名無史さん
14/08/14 17:31:49.67 .net
寿命の長さがありえないことが
武内宿禰の実在性や子孫の系図を否定する根拠にはならない

55:日本@名無史さん
14/08/14 18:24:33.73 .net
なんていうか「古代史のなぞ」的な本読んでそれで古代史語ってる感がすごい
武内宿祢の年齢を理由に非実在とすれば多くの学者が実在と認める120歳の崇神・110歳の応神・124歳の雄略ですら非実在になるんだが

56:日本@名無史さん
14/08/14 18:28:31.90 .net
第一すでに没落した葛城・平群と中堅豪族の紀、大臣を出し続けた蘇我をどうしたら同ランクに見えるんだw

57:日本@名無史さん
14/08/16 22:32:05.62 .net
都塚古墳関連で、稲目が高句麗の女を娶った話は信じられている割に、
狭手彦が高句麗の姫を奪って来た話が信じられていないのは何で?

58:日本@名無史さん
14/08/17 03:38:34.07 .net
武内宿禰って武内が姓じゃないの?
宿禰が姓なの?
この人の身内ってナントカの宿禰ばっかりだよね。
五月みどり、小松みどり姉妹みたいなもん?

59:日本@名無史さん
14/08/17 09:58:09.73 .net
質問に答えるよスレがあるんだからそちらでどうぞ。
単発Q&Aなモノを書いてもスレチでしかない

60:日本@名無史さん
14/08/17 11:14:17.38 .net
サデヒコは批判しかできない学者が重箱の隅をつついて
この話は信用できませんねえとか言ったんじゃないの

武内宿禰の時代は姓は未発達だし、そもそも皇族なので姓はない
宿禰はこの時代の豪族の尊称の一つで豪族なら貴賤に関わらず使われた

61:日本@名無史さん
14/08/17 14:31:38.53 .net
「宿禰」で興味深いのは、日本書紀における6世紀代の実例が、蘇我稲目・蘇我馬子・紀男麻呂の3名に限られること、
紀男麻呂が皇別の紀氏出身なら「紀臣男麻呂」あるいは「紀男麻呂臣」とでも書かれていて良さそうなのに(神別の紀氏なら紀直)、
欽明朝~崇峻朝まで一貫して「紀男麻呂宿禰」という記載であること、
そして、蘇我馬子についても「宿禰」の称が付されるのは基本的に崇峻朝までであり、その後は回顧的記事での使用を除けば、
天武朝の八色の姓の「宿禰」(むろんそれまでの宿禰とは意味が違う)まで、上記の称号としての「宿禰」の用例は見当たらないこと、
などが挙げられる。

62:日本@名無史さん
14/08/17 14:32:26.60 .net
>>58
スクネは役職というか身分みたいなもんで子孫に継承されるんだな
スクネの子もスクネ

63:日本@名無史さん
14/08/17 14:33:46.36 .net
>>61
稲荷山鉄剣の【足尼】がスクネだとする見解もあるがどうなのかねぇ
デキスギのような気もするが

64:日本@名無史さん
14/08/17 14:55:37.40 .net
>>63
たしか続日本紀に、「足尼」は「宿禰」とするように、とかいう記事があったと思う。
その他、古文献で「足尼」と「宿禰」が対応するようだから(例えば平群の都久宿禰と都久足尼)、
まず間違いないと思う。

65:日本@名無史さん
14/08/17 15:53:47.33 .net
宿禰って象眼するのは難しそうだし。

66:日本@名無史さん
14/08/17 16:28:11.19 .net
蘇我稲目も上宮聖徳法王定説・天寿国繍帳で足尼って書かれてるな

67:日本@名無史さん
14/08/17 17:05:01.08 .net
>>65
なるほど実務上の問題だな

68:日本@名無史さん
14/08/17 17:11:57.30 .net
刀禰は、戸主 > toushi > toshi > toji > 刀自のように、戸の兄(tonoe)からきている気がするけど、
宿禰ってどういう意味なんだろうか?

69:日本@名無史さん
14/08/17 17:24:10.21 .net
大兄(オホエ)に対して少兄(スクナエ)ではないかと。

70:日本@名無史さん
14/08/17 17:40:13.47 .net
あるいは
オホアニ(ネ)→オホネ〔大尼・大禰〕
スクナアニ(ネ)→スクネ〔足尼・宿禰〕

71:日本@名無史さん
14/08/17 18:32:10.06 .net
大碓命 オホウス
小碓命 ヲウス
のようにオホエとヲエになるんやないかという疑問はあるけど、
ありえそう

72:日本@名無史さん
14/08/17 18:56:04.15 .net
孝元天皇の子には、大毘古命(大彦命)と少名日子建猪心命(少彦男心命)という例があるね

73:日本@名無史さん
14/08/17 20:55:40.39 .net
三国史記の将軍「于道朱君(ウチシュクン)」が武内宿禰で葛那古は葛城襲津彦

倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。
于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて
「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。
倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、
わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。
于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、
私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って
「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、
軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。
倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。

74:日本@名無史さん
14/08/17 21:08:40.60 .net
>>73
三国史記は時代的には日本書紀を参照可能なんだが、こんな屈辱的な話が朝鮮の記録に独自に存在したんだろうか

75:日本@名無史さん
14/08/17 21:10:30.30 .net
"大兄"去来穂別(履中)と雄朝津間稚子"宿禰"(允恭)ってのも似たような範疇かも。

76:日本@名無史さん
14/08/17 21:10:36.76 .net
>>70
興味深いけど、これだと音読み訓読みごっちゃになるよね
その辺掘り下げてみたい

77:日本@名無史さん
14/08/17 21:21:34.88 .net
于道朱君おもしろいね
URLリンク(wwr2.ucom.ne.jp)

これを読む限り、三国史記って、
全然史料批判されずに、基本無視されつつ、都合のいいところをひっぱられている印象を受ける

78:日本@名無史さん
14/08/17 21:31:10.80 .net
>>76
大尼・大禰のことでしょうか。
これは「先代旧事本紀」に出てくる、物部氏の役職や一種のカバネ的名称です。
実際にあったかどうかは分かりませんが、伝えられてきたのだとすれば無論後世の当て字と思われます。

79:日本@名無史さん
14/08/17 21:38:38.07 .net
つか奴らが資料使うときって、チェリーピッキングしてる所しか見たことが無いんだがwww

対馬は昔朝鮮領だった~とか實聖尼師今七年の記事(倭国が対馬に軍営を置いて兵糧を蓄え、我が国に侵攻しようとしている!)知ってたら絶対言えんわな。
瓠公とか絶対知らんだろうし。

80:日本@名無史さん
14/08/17 21:54:43.02 .net
>>75
確かに天皇なのにスクネっているんだよね
となると、役職やカバネだと説明つかなくないか?!

81:日本@名無史さん
14/08/17 21:55:56.81 .net
>>78
初めて知ったよ、ありがとう

82:日本@名無史さん
14/08/17 21:57:35.12 .net
>>79
日本人を絶対的劣等民族と言っときながら、片方で古代朝鮮人の子孫だと言うからな

83:日本@名無史さん
14/08/17 22:12:59.55 .net
>>80
カバネというよりカバネ的「名称」かな。
○○ワケ天皇(皇子)、なんてのも相当するかも。
時代は違うけど、○○大兄皇子とかもね

84:日本@名無史さん
14/08/18 07:29:46.90 .net
武内宿禰って武内が名字じゃないの?
なんか身内の名前がナントカの宿禰ばっかりなんだけど。
宿禰が姓なの?
五月みどり、小松みどり姉妹みたいなもん?

85:日本@名無史さん
14/08/18 07:37:08.62 .net
ごめんなさい>>84=>>58です。
うちのケータイが>>56で止まってたんで
二度質問してしまいました。

86:日本@名無史さん
14/08/18 08:24:51.24 .net
>>83
となると、>>70が真実味を帯びてくる
単なる大小を指す言葉なのか

ところで、仁徳天皇紀にスクナという怪物が出てくるが無関係なのか

87:日本@名無史さん
14/08/18 20:22:33.18 .net
もしかしたら邪馬台国の時代から蘇我入鹿まで二重統治制だった?

邪馬台国時代は聖権の卑弥呼と俗権の男弟とによる祭政二重統治制
崇神天皇~蘇我入鹿は聖権の大兄(オホネ)系の天皇家と俗権の少兄・(スクネ)系の宿禰の祭政二重統治制

88:日本@名無史さん
14/08/18 20:59:03.31 .net
二重統治じゃなくて多元統治だろ
王族含め諸豪族がそれぞれ土地と人民をもつ小首長
大王はそれらの最終的なまとめ役
7世紀はそこから天皇を頂点とする公地公民・中央集権・官僚体制への移行の歴史

89:日本@名無史さん
14/08/25 13:32:59.55 .net
武内宿禰の話が嘘っぱちとは思わないね。
成務天皇と同日生まれで、5代の天皇に仕えた。
日本書紀の120歳とかを信じるとうそっぱちかもしれないけど。

有栖川宮幟仁親王は73歳まで生き、4代の天皇に仕えた。
亡くなった時大正天皇は生まれていたから、5代ともいえないことはない。
どんな庶民でも、祖父、父、自分、子、孫の5代を知ることは難しくはない。
特別長寿と書かれているんだから、80歳に近かったのかもしれないが。
活躍したのが、30代~50代に相当する働き盛りの期間だと考えられる。
でっち上げる必然性はない。

90:日本@名無史さん
14/08/29 21:03:40.09 .net
>>87
ありえるかも

『隋書』「東夷傳俀國傳」より
俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟
(訳)
倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して座す。
日出ずれば、便(すなわ)ち理務を停め、いう、我が弟に委ねんと

兄 大兄 オオエ 天皇 祭 聖 
弟 少兄 スクネ 宿禰 政 俗(軍)

91:日本@名無史さん
14/08/30 06:35:53.72 .net
二頭政治という指摘は今までにもあったと思うけど、
それを大兄、宿禰という名前と結びつけたのは画期的かも。

乙巳の変によって「宿禰」の意味が分からなくなって、
記紀ではその扱いがぞんざいになった可能性もある。

また、大王が亡くなって次の大王が決まるまでの間、宿禰が大王になる、
あるいは兼任するということもあったのかもしれないが、
そういったことが乙巳の変によって失われてしまったということも考えられる。

そう、考えると、兄弟統治(実際の兄弟である必要はないが)ということで、
一つの名前で記されてたとすると、
一人の天皇が100年以上も生きたという事も説明がつくかも。

92:日本@名無史さん
14/08/30 17:06:31.01 .net
二王制ってスパルタかよ

新羅の王家が三系統あるってのも意味わからん

93:日本@名無史さん
14/08/30 20:30:34.43 .net
日本書紀は年齢を盛ってるね。
だけど、古事記には年齢はなくて没年の干支がある。
崇神没年318年説を取れば、武内宿禰の年も荒唐無稽ではないかな。

94:日本@名無史さん
14/09/01 23:41:33.07 .net
継体の晩年になって、それこそどこの馬の骨ともわからん蘇我がいきなり登場し、
以降他の豪族を押しのけ、継体後の歴代天皇の外戚となる。
まあ、そもそも継体自身もどこの馬の骨ともわからんやつだが。

仏教導入時にも、他の豪族の「んなよその宗教入れて、祖神はどうすんだよ!」という
猛反対にもかかわらず、蘇我と天皇は、受け入れ強行。
「もうでかい古墳なんてつくるんじゃねーぞ」と禁止令まで出す。

異文化の二人組み押し込み強盗にのっとられたんだよ、畿内は。

95:日本@名無史さん
14/09/02 04:04:47.88 .net
>>94
継体天皇の皇子が続々即位しちゃって王権が乱立したってのも結構リアルだよね

96:日本@名無史さん
14/09/06 18:59:51.44 .net
>>90
欽明天皇→蘇我稲目
用命天皇→蘇我馬子
聖徳太子→蘇我蝦夷
山背大→蘇我入鹿
生没年から検証しました。

97:日本@名無史さん
14/09/06 22:41:23.22 .net
>>94
傍流が何かの拍子で王統を継いだ場合権威づけに外来の思想や宗教持ってくる
ってホントどこにでもある話だな

98:日本@名無史さん
14/09/06 23:48:13.90 .net
>>91
ヤマトタケル(明治以前の読みはヤマトタケ)=「武」内宿禰(弟は「甘美」内宿禰)
景行天皇=武雄心説があるみたいだね

ヤマトタケルは武内宿禰(たけうちのすくね)の若き姿
URLリンク(www.geocities.jp)

この幻の皇統系譜説を参考にするとこんな感じかな

  皇統    スクネの系譜
開化天皇   大彦
崇神天皇   彦太忍信命
垂仁天皇   景行天皇=武雄心
仲哀天皇   成務天皇=日本武=武内宿禰
麛坂皇子   応神天皇
仁徳天皇   宇治稚彦皇子(武・内宿禰の内は宇治に通ずる>>77)   
履中反正   允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰)宿禰から異例の即位 倭の五王済は前王との関係不明

99:日本@名無史さん
14/09/07 00:46:11.14 .net
>>96
ちなみにこれは天智天皇が山背王=蘇我入鹿暗殺して、日本書記を編集したという意味です。武内宿禰以降の子孫は歴代の天皇ということになります

100:日本@名無史さん
14/09/07 01:53:17.61 .net
基地あらわる

101:日本@名無史さん
14/09/07 10:55:24.47 .net
う~ん、こういうのはどうなんでしょうね?
古墳を潰して宅地にしたところに住みたいですか?
知ってたら無理ですよね。

↓小倉北区日明一本松塚古墳

URLリンク(kitaqare.d.dooo.jp)

102:日本@名無史さん
14/09/07 15:04:51.64 .net
>>101
こえぇな
連続殺人とか起きそう

103:日本@名無史さん
14/09/09 18:26:48.86 .net
古墳時代前期~中期の天皇(大王)実年代化(古事記の没年情報+中国皇帝への朝貢記録+同時代人)チラ裏

★三輪(佐紀)朝=【列島統一→半島派兵(高句麗・新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を獲得)】
10祟神(~318年)…纏向に東遷280年頃(西晋滅亡前夜)?四道将軍派遣290年頃?大田田根子
11垂仁(情報なし)…330年頃没、新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没、日本武尊の熊襲討伐・東征340年頃、大臣・武内宿禰(~応神)
13成務(~355年)…国造/県主設置  
14仲哀(~362年)…新羅派兵に反対し、神罰により崩御(暗殺か)
神功(※~389年)…「旨」三韓征伐(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→「神功52年」372年百済・近肖古王より贈呈)
★河内朝=【半島派兵(高句麗との戦い&百済支援)本格化】
15応神(~394年)…「禰(でい)」
16仁徳(~427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(~432年)…「倭国王」(430年)
18反正(~437年)…「珍」(438年)
19允恭(~454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(~489年)…「武」①(477年/478年)←「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)23顕宗(情報なし)24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」②(502年)

※神功皇后…日本書紀による没年情報

104:日本@名無史さん
14/09/09 18:31:34.80 .net
「倭の五王」の正体判明!「倭の七王」だった!~隠れていた2人の倭王(17代履中と25代武烈)~

413年/421年/425年「賛/讃」…仁徳
430年★「倭国王」…履中
438年「珍」…反正
443年/451年「済」…允恭
460年/462年「倭国/興」…安康
477年/478年「武」①…雄略
502年※「武」②…武烈

★430年の「倭国王」が履中 → 438年「讃の弟珍立つ」の真相
430年に中国の南朝(宋)に朝貢した「倭国王」が「讃」ではなく、「讃の子」で、
その8年後の438年に「珍」が朝貢した時に、倭国の使臣が「先代の弟」と説明したとすると、
台与以来約150年ぶりに朝貢してきた倭王=「讃」のイメージが強烈だった宋側にしてみれば、
名前不明で影の薄い先代「倭国王」の弟ではなく、先々代「讃」の弟と錯誤した可能性がある。
もし【父「讃」→「倭国王」/「珍」兄弟】ならば【父(仁徳)→(履中/反正)兄弟】となり、
記紀(大和朝廷)の天皇系譜と合致する。

※倭王「武」は2人いた。
502年、南朝(梁)の「武」帝が征東大将軍に進号した倭王「武」が、477年/478年の倭王「武」(興の弟)とは別人で、
雄略(幼武)の孫の武烈とすれば、雄略の没年489年や、雄略没後の大混乱(24年間の朝貢中断)とも整合する。

∴①讃(仁徳)→②倭国王(履中)→③珍(反正)→④済(允恭)→⑤興(安康)→⑥武1(雄略)→⑦武2(武烈)
「倭の七王」となる。

105:日本@名無史さん
14/09/13 19:28:19.23 .net
古墳時代の倭王や豪族って、早い話が華僑でしょ。

106:日本@名無史さん
14/09/13 21:52:33.81 .net
そういう推測は倭王の名前からできるが、中国は勝手に外人の姓名を漢字に直すんだよね

クシャーナ朝のヴァースデーヴァは波調だし

107:日本@名無史さん
14/09/19 21:42:24.95 .net
自然科学分野では光の速さは一定だなんてありえない!なんて言う馬鹿はいないのに
人文科学分野では105みたいな知ったかが湧くのってなんでだろう

108:日本@名無史さん
14/09/20 18:35:20.99 .net
泰氏が漢族はどうかはわからんが、漢文明圏からの移民であるというのは通説だろ。
他の連中にも同類がいても何の不思議もない。
記紀にある各豪族の勢力圏なんてのは、後世の記述だからそれ自体は何の根拠にもならない。
オーストラリアは昔からイギリスの領地でした、というレベルの話。

109:日本@名無史さん
14/09/21 08:46:36.86 .net
泰氏w

>>107
本当に知ったかがわくねえ

110:日本@名無史さん
14/09/21 14:27:29.58 .net
単純に機織りが秦で、事務係が文部アヤベだっただけの気がする
あるいは辰韓(秦韓)の移民という内容が含まれるのか
後で始皇帝の子孫とか言い出したから秦の字が着いてるだけじゃないのか
日本人はシャレの表記を楽しむ風情があるからね

111:日本@名無史さん
14/09/21 19:36:30.35 .net
>>109
>>110
通説にたいして適当な妄想垂れてんじゃねーよ、池沼

112:日本@名無史さん
14/09/22 07:45:55.37 .net
>>111
おまえの知ってる通説を簡単に説明してくれや

113:日本@名無史さん
14/10/01 21:05:08.46 .net
恵下山山手遺跡群
URLリンク(www.youtube.com)

114:日本@名無史さん
14/10/02 01:09:16.32 .net
>>110
無教養まるだしw 却下w

115:日本@名無史さん
14/10/04 21:54:09.09 .net
結局、逃走か。

116:日本@名無史さん
14/10/05 13:30:18.15 .net
当時は子供で死ななきゃ50歳ぐらいが平均寿命?

117:日本@名無史さん
14/10/05 20:51:25.50 .net
仲哀天皇は302年崩御
応神天皇は394年崩御
神功皇后の胎中にて即位したとされる応神天皇と
394年崩御の応神天皇とが同体であるということは
天皇位の継承が名跡継承方式であったことを物語る。
胎中天皇が仲哀天皇の実の子であれば、
却って天皇位継承権がなかったのではないか。
神功皇后が出産遅延の努力をしたのはこのためである。

118:日本@名無史さん
14/10/09 18:34:15.36 .net
>>117
景行朝から仁徳朝まで仕えた武内宿禰がいるのだから、応神天皇がそんな長生きだったとは考えられずむしろ短命だったのでは。
那珂道世博士は仲哀天皇崩御年を362年としていてこちらの方が正しいと思われる。
また血統を重んじていたことは顕宗天皇・継体天皇の例を見ても明らか

119:日本@名無史さん
14/10/09 19:01:26.76 .net
>>116
年代が比較的明らかな時代の安閑天皇以降でみると
安閑天皇70歳
宣化天皇73歳
欽明天皇63歳
敏達天皇48歳
用明天皇48歳
崇峻天皇40歳
推古天皇75歳
聖徳太子47歳
舒明天皇49歳
皇極天皇67歳
弑逆された崇峻天皇を除くと平均60歳

120:日本@名無史さん
14/10/09 21:08:02.45 .net
>>104
502年は中国側の王朝交代により進号で高句麗や百済にも同時に進号させているのでその時代に倭王武(もしくはそれの後継者)が朝貢したわけではないと思われ

121:日本@名無史さん
14/10/10 17:57:26.66 /Bgr/5sZt
国家的策略だった東シナ海における倭寇

URLリンク(music.geocities.jp)

日本は歴史が始まって以来、侵略を繰り返していた。

( URLリンク(sky.geocities.jp) )

( URLリンク(music.geocities.jp) )

122:日本@名無史さん
14/10/12 14:27:32.24 .net
古墳の周濠、あれって、大阪人ならボートレースをしてたと思うよな。
10人漕ぎの大型軽野(カヌー)が一団となってコーナーを抜けるには、
仁徳天皇陵のような大型レース場が要る。
古墳時代の土豪というには、住民から税金を取っていたわけではない。
寺銭が主な収入源だし、大きなボートレース場を持つことが大王の条件。

江戸時代には、地外法権で規制の緩い寺の境内が賭博場として使われ、
寺に寄進した場所代が寺銭と呼ばれた。

123:日本@名無史さん
14/10/12 14:40:13.63 .net
今、地方に行って立派な建物と言えば、役所などの公共施設とパチンコ屋。
3~7世紀に次々と造られた前方後円墳はあまりにも豪華すぎる。
なぜそんなものが必要だったのか?誰が金を出したのか?
日本人は昔から賭け事が大好きで、大王は賭博王だったと言うのは頷ける。
大型古墳は、ボートレース、競馬、相撲などの複合賭博場だったのだ。
賭博で負けて土地を失った農民を人夫として働かせ、大型古墳の賭博場を全国に展開した。
運だけで大王になれた時代、いや、運が悪いと奴卑、すごい時代だった。

124:日本@名無史さん
14/10/12 16:04:33.49 .net
古代住之江ボートの元締めが住吉大神様であった、ということですか?
初めて知りました。納得です。ありがとうございます。

125:日本@名無史さん
14/10/12 16:11:39.82 .net
お前らって例に出したものの起源が無茶苦茶だな

126:日本@名無史さん
14/10/12 19:19:39.98 .net
>>123
古墳を作るのは大変だから
仏教を取り入れて火葬になったと思う

127:日本@名無史さん
14/10/12 19:24:21.49 .net
>>43
50年差で同じ名前の人物が登場するのに別人とはそちらの方が不自然
どちらかの記事が時代を誤って書かれているとみるべき

128:日本@名無史さん
14/10/12 19:50:44.49 .net
>>127
むしろ名前が同じだから同一人物に違いないという考えが不自然

129:日本@名無史さん
14/10/12 23:07:39.37 .net
古事記にしても日本書紀にしても編纂者は本当に愚かなことをしてくれたよな?
天皇制の権威づけのために系統や歴史を盛りすぎたせいで
実在したであろう君主や巫女の記述があいまいになり
あげく「架空の人物」に近い扱いで教科書にすら取り上げられない
何やってるんだか全く

130:日本@名無史さん
14/10/12 23:50:23.08 .net
またキチガイが沸いたか

131:日本@名無史さん
14/10/13 00:45:14.83 .net
121から123までの自演臭がひどいな

132:日本@名無史さん
14/10/13 12:48:28.44 .net
古代住之江ボートでツケマイというテクニカルは
あったのでしょうか?

133:日本@名無史さん
14/10/13 14:39:13.83 .net
蘇我氏渡来人説とか寝言は寝て言えって感じだな
百済と高句麗の区別もつかない奴が学者できるってのもすごいが

134:日本@名無史さん
14/10/13 16:21:43.90 .net
>>128
仮に同一人物でないにしても
氏族名+官名
で両者が一致した、つまり親族の可能性が高いわけで

135:日本@名無史さん
14/10/14 18:41:37.95 .net
どうしても渡来人にしたいやつがいるんだね。
心配しなくても渡来系といえば、みんなアフリカからの渡来人だよw

記紀の時代、どの氏族が渡来人かの記録があるのに、わざわざ詐称する必要は
ないだろ。

136:日本@名無史さん
14/10/16 06:41:54.54 .net
>>134
色々ツッコミたいけど、
あなたのいう一致している「氏族名」と「官名」って何?

137:日本@名無史さん
14/10/16 21:22:59.89 .net
>>129
神武天皇や決死八代はともかくそれ以降は全員実在して
事績も誇張はあるにせよ記紀の通りだと考える学者は最近多いよ

138:日本@名無史さん
14/10/17 18:44:50.80 .net
欠史八代とか王朝交替説とか訳の分からん説よりも、記紀のほうが考古学と
整合性があるんだよな。なんという皮肉

139:日本@名無史さん
14/10/17 19:04:44.49 .net
箸墓、西殿塚古墳、西山古墳、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳、このあたり誰なんだろ。
開化陵ってどんな評価なんだろ。見たことないからなあ。
改修されて元の形が不明で発掘もしてないから評価の仕様がないのかなあ。

140:日本@名無史さん
14/10/17 21:16:40.02 .net
どっかのサイトの受け売りだが、
主神でアマテラスを祀ってるのが1200,
副で祀ってるのが5000だとか

141:日本@名無史さん
14/10/17 21:18:38.79 .net
誤爆スマン

142:日本@名無史さん
14/10/17 21:52:55.89 .net
>>139
崇神天皇陵より古いとなると、それこそモモソヒメ命やいわゆる四道将軍のだれかくらいかなあ
吉備津彦兄弟や丹波道主王は地方に下ったみたいだけど彦坐王や大彦命は崇神天皇より年上だろうし、本人が地方に下ったわけでもないみたいだし可能性は大きいと思う

143:日本@名無史さん
14/10/18 09:32:29.14 .net
>>142
初期の大きめの古墳がヤマトに多すぎるんだよな。
天皇だけだと余ってしまう。卑弥呼とトヨを入れても余る。
なんというか、有力者がヤマトに集住し、そこで古墳をつくったかのような。

144:日本@名無史さん
14/10/18 16:52:24.26 .net
天皇陵だけじゃなくて皇后陵も考えればいいんじゃない?
御間城姫命は父が大彦命、兄が武渟川別命だし全員皇族だからみんなあのあたりに埋葬されててもおかしくないし

145:日本@名無史さん
14/10/18 18:28:33.36 .net
箸墓:モモソヒメ命
西殿塚:孝元天皇
西山:伊香色謎命か欝色謎命
櫻井茶臼山:大彦命
スメリ山:彦坐王
まあこんなところか?
でも延喜式に見える孝元天皇陵が小さい古墳だというのはむしろ誇張等をしておらず正確な気がするから分からんなあ…

146:日本@名無史さん
14/10/19 00:54:29.21 .net
>>15応神(~394年)…「禰(でい)」
>>16仁徳(~427年)…「讃」(413年/421年/425年)

仁徳の弟らが、倭珍、倭済であり
後期九州王朝へ分岐している。
軍事指導専従の統合参謀本部として
かつての「倭国」の名義を再興したわけだ。

147:日本@名無史さん
14/10/19 11:58:54.42 .net
>>142
大彦は中央の安倍氏の祖先だから中央にいた可能性あるが
彦坐王は但馬に下ってんじゃないの?

148:日本@名無史さん
14/10/20 08:21:18.13 .net
>>147
そこに住む一族の初代が磐余彦・吉備津彦みたいな称号を名乗るケースが多いみたいだから
丹波道主王こそ初代で彦坐王は下ってないと思ったんだけどどうだろう
と思っていろいろ調べてみたら彦坐王墓って岐阜なのか…

149:日本@名無史さん
14/10/22 14:31:01.43 .net
彦坐王ってなんか岐阜と関係あるっけ?
なんで岐阜ってのを宮内省も認めたんだ?

150:日本@名無史さん
14/10/24 17:38:44.96 .net
彦坐王は近江・山城・春日じゃないのか。
椿井大塚山古墳あたりはどうだろ

151:日本@名無史さん
14/10/24 21:05:52.81 .net
確かに椿井大塚山古墳の方が大きさ的にもいいとは思うんだけどね…
たしか群馬のある古墳が毛野氏の祖先の皇族の陵墓にしてはどうかと働きかけがあったとき
「それなりの証拠がないと比定出来ない」と言われたという話を聞いたことがあるんだが
あんな小さな古墳のどこを見て皇族の陵墓と認めたんだろうか

152:日本@名無史さん
14/10/25 19:35:12.67 .net
>>147
但馬は当時は丹波だし、古墳から見ても丹波一族がいたんじゃないかなあ。

153:日本@名無史さん
14/10/25 21:57:58.70 .net
トヨと崇神の関係が気になるなあ。
トヨは248年頃に13歳で、266年に朝貢しているっぽい。
崇神の一世代上くらいじゃないかと思うけど、記紀に出てくる誰かであっても
おかしくないね。

154:日本@名無史さん
14/10/25 23:13:53.39 .net
応神天皇の崩年が甲午で394年で、
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年
成務天皇の崩年が乙卯で355年
崇神天皇の崩年が戌寅で318年か258年とされるが、
垂仁・景行・成務三天皇は直系で相続しているので崇神崩318年は無理があるから
むしろトヨは崇神の一世代後で豊城入姫命こそ正しいと思う
その場合卑弥呼はモモソヒメ命だろう

155:日本@名無史さん
14/10/26 10:11:17.72 .net
応神天皇の崩年が甲午で394年 → 正解 
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年 → 303年
成務天皇の崩年が乙卯で355年 → 295年

ですっきりするでしょう。
303年~394年が、半島から実力者が次々にやって来た時代で、
万世一系の建前が成立しないので、記紀が書けなかった。

156:日本@名無史さん
14/10/26 10:20:56.57 .net
おいおいw
またチョンコロが喜びそうな説に持っていってるなw

157:日本@名無史さん
14/10/26 12:06:37.62 .net
154
それだと崇神天皇の崩御年は198年になるんだが
つーか当時の朝鮮人自身が朝鮮人に渡海侵攻能力はないって言ってるから

158:日本@名無史さん
14/10/26 12:25:45.67 .net
分かってるよwww
邪馬台国だの魏志倭人伝だの突然、話が湧き上がってきたのは
日本国内からだからな
チョンコロが後世になって日本国内に住み着いて威張りだしたか
あるいは当時の宗教関係などから利用するように生まれたのか?

どっちにしろロクなもんじゃあないんだよ

遡及方を適用するなら朝廷関連やら徳川だの過去の日本国内の
戦犯には償ってもらわなきゃな

159:日本@名無史さん
14/10/26 12:30:33.10 .net
歴史では美化されてるけど実際の性格なども違うようにも描かれてもいるんだよなw

これはマスゴミの犯罪な、小説家やら思い入れで評価は変わるからなw
どうやって手段絡みに持っていったんだ?お前らな

160:日本@名無史さん
14/10/26 14:46:18.40 .net
日本語でしゃべれ

161:日本@名無史さん
14/10/26 19:15:17.08 .net
>>68
俺の妄想説では宿祢の「スク」は 佐、介、助 つまり次官のことだと思う
たとえば信長の称した上総介は上総守が上総国長官で、その次官になる。
大国主命の国造りを助けた神が「スクナヒコナ」。少彦名と書かれるが
助ける彦 と云うのが元の意味だったのではないか

武内宿禰、蘇我稲目宿祢と書かれるのは彼らが大王を助けて政務を執る立場
大臣だったから。そういえば武内宿禰の後継氏族から大臣でている

162:日本@名無史さん
14/10/26 22:17:16.62 .net
>>153
卑弥呼 垂仁の異母兄姉弟の豊鍬入姫
台与   景行の同母兄妹の倭姫命

21 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 17:42:31.06
神武天皇を1世とした時の世代数
25世. (38代)  天智天皇.  626-672
42世. (77代)後白河天皇 1127-1192
72世(125代)  今上天皇 1933-
古代~中世 1世代平均29.47年 25世   天智天皇(生年. 626)から42世 後白河天皇(生年1127)まで
中世~現代 1世代平均26.87年 42世 後白河天皇(生年1127)から72世   今上天皇(生年1933)まで
古代~現代 1世代平均27.81年 25世   天智天皇(生年. 626)から72世   今上天皇(生年1933)まで

時代が古くなるほど1世代あたりの年数は長くなる
生年が確定している天智を起点に父の父の父の・・・と1世代29.47年で遡ると・・・
626 25天智 626-672
596 24舒明 593-641
567 23押坂彦人大兄皇子
537 22敏達 538.?-585.?
508 21欽明 509.?-571.?
478 20継体               (武烈)
449 19彦主人王     (清寧)(仁賢)
419 18乎非王       (雄略)(市辺押磐皇子)
390 17意富富等王   (允恭)(履中)
360 16若野毛二俣王 (仁徳)
331 15応神
301 14仲哀
272 13日本武尊
242 12景行
213 11垂仁  田道間守(たぢまもり)=難升米(タヂマ)
183 10崇神  四道将軍=倭国大乱

163:日本@名無史さん
14/10/26 23:04:23.69 .net
なるほど
一応崩御年も妥当な範囲にあるな

164:日本@名無史さん
14/10/27 19:26:32.30 .net
磯城県主って三輪氏と同族で、磯城県主家が絶えて大物主神の祀り方がわからなくなったから大田田根子が呼ばれたんじゃね?
って思ってたら太田亮の姓氏家系大辞典に俺の説がそのまま乗っててわ
戦前の学者ってすごいな

165:日本@名無史さん
14/10/27 21:03:10.80 .net
>>162
天智天皇~孝明天皇までにした方がいいと思う。明治以降は条件が違いすぎるから
だいたい1世代27年だった。

古代史は史料が少なすぎて所詮、水掛け論になってしまうのだが、継体以前の
大王位は血縁による世襲ではなかったと云う説も有力になってる。

166:日本@名無史さん
14/10/27 21:07:49.96 .net
164
だが系図を見れば血縁で結んであるけどな
つうか系図の見方を変えた方がいいって話なのかな

167:日本@名無史さん
14/10/27 21:50:09.66 .net
>>165
学者の言う「世襲王権が確立した」を曲解した奴が言ってるだけだ。
それ以前は即位には豪族による推挙の過程があったのが欽明朝以後なくなったってだけだろJK

第一倭の五王は中国側に姓が倭だと名乗り出てるんだぞ、血統の概念はあったに決まっている

168:日本@名無史さん
14/10/27 21:55:27.71 .net
あと、古代は職掌は伴造、国造、県主みたいな一般官吏だけでなく大臣や大連のような要職に至るまで世襲だったからな
だったら大王も世襲と考えるのが当たり前だろ
なのに王朝が一つでなかったなどというのは万世一系を否定したいだけのただの妄言と言わざるを得ない

169:日本@名無史さん
14/10/27 22:09:40.66 .net
>>165
天智天皇~孝明天皇は1世代平均28.02年

だいたい28年

170:日本@名無史さん
14/10/27 22:16:13.63 .net
>>166
記紀以前の聖徳太子関係だったと思うが、継体天皇から後は、大王位はその血統より外に出た
ことがない書かれている史料があった。それ以前は一系で世襲されていなかったということだろう。

倭の5王の讃、珍、が兄弟で後、済=允恭、興=安康、武=雄略と世襲されるのだが
珍と済=允恭の続柄が中国側史料に書かれていない。允恭は雄朝津間稚子宿禰尊と書紀に
書かれているのだが、宿禰という姓は王族らしくない。
記紀は天皇家が日本を統治する正統性を述べるものであるから、本来一系でなかった王統を
一系に作り変えたのだと思う。

171:日本@名無史さん
14/10/27 22:22:34.95 .net
>>169
>古代~現代 1世代平均27.81年 25世   天智天皇(生年. 626)から72世   今上天皇(生年1933)まで
>天智天皇~孝明天皇は1世代平均28.02年

矛盾してないか

172:日本@名無史さん
14/10/27 22:28:47.54 .net
矛盾してない

173:日本@名無史さん
14/10/27 22:46:00.15 .net
>>168
大王にふさわしい人物が倭国を構成する有力氏族によって大王に推戴されていたのだと思う

遥か後の時代である飛鳥時代でも、即位儀礼として形式的になってはいたが
臣(まえつぎみ)が新大王を推戴する形をとっていた。

174:日本@名無史さん
14/10/27 23:03:30.73 .net
>>170
以前読んだ本にあったのがソースかよ
それこそ左翼学者の脳内妄想だろ
それに天武天皇は諡に真人が入るから血統が変わったてか?
幾つも王等があったってじゃあ残りの王統は何処に消えてなんでわざわざ越前から継体天皇が来たんだか説明ができない。
記紀通りの系譜であったほうが自然

175:日本@名無史さん
14/10/27 23:06:06.01 .net
あと允恭天皇の宿禰は履中天皇の大兄に対応すると思われ

176:日本@名無史さん
14/10/28 00:42:33.12 .net
>>170
宿禰が允恭天皇の姓? 名前の後ろについてるのに?w
あと五王の倭王済は「倭済」って書いてあるの知らんの?
姓が倭氏なら倭讃と同姓だから男系で同族だっていう表現だろ。通説だがねw

177:日本@名無史さん
14/10/28 08:55:16.78 .net
その時代、姓はまだ無かった
俺の妄想説では宿祢は大王を助ける地位にあった人物
だから、珍の死後、珍の大臣にあたる地位から大王位に就いた

178:日本@名無史さん
14/10/28 08:59:15.12 .net
妄想乙

179:日本@名無史さん
14/10/28 09:37:42.43 .net
妄想だ、ええ妄想なんだよ
撮り鉄、乗り鉄、車両鉄 皆、鉄道会社の社員でもない素人が鉄道で楽しんでいる
古代史なんて史料が少なすぎて最後は水掛け論に終わるんだから
歴史の探求はプロであるその道の専門家に任せて、素人は自説を妄想することを楽しんだらいい

180:日本@名無史さん
14/10/28 09:51:05.37 .net
最高にアホだな、コイツ

181:日本@名無史さん
14/10/28 11:23:54.84 .net
「僕は専門家じゃないから妄想を垂れ流してもいいんだ」って考え方、最低だな
チラシの裏にでも書いてろ
人としての礼儀を考えろよ

182:日本@名無史さん
14/10/28 18:01:20.50 .net
基本となるのが、崇神の崩年干支を318年と定めるかどうか。
ほぼ文献的、考古学的にほぼそれが定説になっていて、
他の説だと牽強付会の感をまぬがれない。
318年から考察していくと、流れがだいたい見えてくる。
初代、神武からはじまじって、十代崇神でヤマトの王から、
日本(大八洲)の統治者になっていく流れが。

183:日本@名無史さん
14/10/28 18:13:19.98 .net
鉄器を作り始めたのが7世紀ころってのはハッキリしてんだろ
伊賀甲賀は忍びの里、近江商人は武器商人
まあ畿内で始まってるわな

184:日本@名無史さん
14/10/28 18:13:24.79 .net
鉄器を作り始めたのが7世紀ころってのはハッキリしてんだろ
伊賀甲賀は忍びの里、近江商人は武器商人
まあ畿内で始まってるわな

185:日本@名無史さん
14/10/29 12:13:23.22 .net
>>173
そうだよ、だから別々の氏族に押される皇族同士で皇位争いがあったんだろ
そこまでは記紀の伝承と矛盾しないじゃん。
万世一系を否定する根拠にならんよ。
モンゴルのクリルタイも父系血統の範囲内でしか候補は選ばれない。
群臣が推戴する形があったからといって
血筋まったく無関係に王が選ばれた証拠にはならない。

186:日本@名無史さん
14/10/29 14:44:31.07 .net
>>185
なぜ群臣が推戴するのか。大王が後継者を指名すればそれで済むことだ
そうでないのは昔は倭国を構成する有力氏族が自分たちの中から大王を選んでいたからだと思う
モンゴルの例も、もっと昔は選挙王政だったのでは
中国でも夏王朝から血統による世襲は始まった。それ以前の三皇五帝時代は世襲ではなかった
しかも、夏王朝1代目禹、2代目啓が即位するにあたって別の候補者がいたが諸侯が彼らを支持した
ことにより即位している

187:日本@名無史さん
14/10/29 18:32:27.25 .net
>>162
卑弥呼が豊鍬入姫だったら
卑弥呼の墓=ホケノ山古墳となるから
箸墓古墳みたいな年代の矛盾はなくなるな

188:日本@名無史さん
14/10/29 19:31:21.56 .net
>>154
応神天皇の崩年が甲午で394年で、
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年
成務天皇の崩年が乙卯で355年
崇神天皇の崩年が戌寅で318年か258年とされるが、

崇神の没年は318年でも矛盾はないよ。
事績等から、崇神は平均より長命、成務は後継者も残さず早死していると思われる。
仲哀も長命ではなかろう。神功皇后は応神の成人までは生きていたはずだが。

崇神没年が258年ならば、まさに魏志倭人伝に書かれた最中の人になる。
同時代にもかかわらず、何も記されていないのは矛盾する。

189:日本@名無史さん
14/10/29 19:57:56.98 .net
桓武天皇の祖父志貴皇子の生年が不明。
天智天皇生年626年、志貴皇子、光仁天皇(709年)、桓武天皇(737年)、嵯峨天皇(786年)
嵯峨天皇は桓武の49歳の子。桓武は父の光仁天皇も当初は皇位を継ぐ予定ではなかった。
当然桓武も末端の王族でしかない。天武系の生きている子孫の多くが臣籍降下し、
王族がほとんど残っていなかったからか、高齢で生まれた皇孫である父が急遽
皇位を継ぎ、桓武が皇太子になり、后を取り高齢で子をなした。
そのため、天智天皇から4世代後の嵯峨天皇まで160年にもなる。

他の10世代が平均26年で260年、この4世代が160年、合わせると14世代で420年で
平均すれば30年になる。
だからといって、天智天皇から遡る場合、平均を30年にするのが正しいとは
思えない。

190:日本@名無史さん
14/10/29 22:15:38.34 .net
>>189
欽明は安閑宣化が継体と同じ仁賢天皇の皇女を皇后にしたことから
継体が50歳以上の時の子だろうし
応神も神功が麛坂皇子忍熊皇子らと戦ったことを考えれば
仲哀は少なくとも40歳、50歳や60歳の時の子の可能性もある

191:日本@名無史さん
14/10/30 06:43:07.50 .net
代数より世代で考える方が数値は安定してる。27年~30年だな。安本なんて天皇の代数で1代10年だから
卑弥呼が天照大神になってしまう。
だだし、古い時代は末子相続の可能性や、兄弟なのに親子として
記録に残されているかもしれない。兄弟相続が履中以降なのはおかしい

192:日本@名無史さん
14/10/30 11:06:42.87 .net
前スレで諸豪族との系譜比較で崇神天皇が神武天皇の5世孫あたり、
垂仁・景行と成務・仲哀が同世代とした方がよいって表があったな
それなら崇神崩年が318年でもおかしくない範囲になるし巻向遺跡との整合性も取れるしいいんじゃないかと思うんだが

193:日本@名無史さん
14/10/30 16:15:41.31 .net
諸豪族は第1夫人の子が跡を継ぐけど
拡大期の大王家は政略結婚によって第2夫人(30の時の妻)第3夫人(40の時の妻)が皇后になることが多い
だから諸豪族より1世代が長くなる

194:日本@名無史さん
14/10/31 06:52:21.09 .net
>>191
古い時代にあったのは兄弟相続じゃなくて末子相続。
履中以降に現れる兄弟相続は末子相続から長子相続への移行期だと思えば
ぜんぜんおかしくない。
それと兄弟相続でも最後は末弟にいくんだから一世代あたりの平均年数は
兄弟相続と末子相続では同じ年数になると思われ。

>>193
そうともいえない
諸豪族の系譜でも兄弟が記されてる例では末子相続が多いことから
系図上で一子しか記されてない場合でも
その子は末子が少なくとも長子でない可能性が高い

195:日本@名無史さん
14/10/31 07:37:53.74 .net
崇神の時代の逸話は、記紀で内容が違うんだよな。
四道将軍とかモモソヒメとか、古い伝承で何時のことかはっきりしないのを
全部崇神の代にまとめたって感じがするね。
古事記では、吉備との関わりはもっと古いんだよな。

崇神のころにヤマト王権を支えていた有力者を、「崇神が支配下においた」
という形で書いてるというか。

系譜は捏造してるとは思えんな。そのように伝わっていたのを書いた。
他の氏族との関わりがあるから、A家から嫁に来た妃を消すわけにいかんし、
そんなことしたら自分の先祖を消すことになるし、作ったとすれば先祖でない
人を先祖にすることになる。そんなことをする必然性もないし。

捏造ではなくて、後の天皇家につながる系統だけを取り出して書いていると
いうことだね。崇神以前は、特出した権力は持っていなかったんだろう。
崇神以降も王位継承の争いが頻繁に起きている。
そのような時代に、40歳の時の子供をわざわざ後継者に選ぶ必然性はない。
早ければ早いほうが良い。少なくとも20代のうちの子供だ。

196:日本@名無史さん
14/10/31 11:22:29.69 .net
>40歳の時の子供をわざわざ後継者に選ぶ必然性はない。
>早ければ早いほうが良い。少なくとも20代のうちの子供だ。

史料を重視する限りそれはなさそうだな
思い込みを優先して史料の所伝を歪曲するのは賛成できない
むろん史料のかたる伝承がそのまま事実とは限らないが
伝承に訂正を入れる場合は確たる証拠がないとね

197:日本@名無史さん
14/10/31 12:01:34.19 .net
資料を読んでも「わざわざ40歳以降の子を後継者に選んだ」って見つからんけどな
130歳を信じるならそうかもしれんが

198:日本@名無史さん
14/10/31 15:21:15.72 .net
>>150
西求女塚古墳も気になるね。

199:日本@名無史さん
14/10/31 15:51:17.27 .net
諸豪族とは違って崇神、垂仁、応神、継体などは第2夫人第3夫人以降の嫁が皇后になっている

200:日本@名無史さん
14/10/31 18:36:38.01 .net
崇神の皇后は大彦の娘で第1夫人。垂仁が生まれる。
垂仁の第1夫人はサホ姫だが、皇子は口がきけずないから、
皇后に地位にはつけない。さらに、兄サホ彦とともに反乱で焼け死ぬ。
継体の皇后は欽明を生んだ正式な第1夫人の手白河皇女。

201:日本@名無史さん
14/10/31 19:17:03.18 .net
継体の場合、入り婿だから手白香皇女を皇后にするしかないな

サホ姫は皇后だよ。兄が反乱を起こしたとき兄とともに焼け死んだから
ヒバス媛を2代目の皇后にした

202:日本@名無史さん
14/10/31 19:56:05.89 .net
皇后という身分がその頃あればだけどね。

203:日本@名無史さん
14/10/31 20:57:59.05 .net
家康も正室→継室と晩年に正室を新しく置いているね
古代諸豪族と同じく家康側近の四天王は正室だけ
長子優先が確立していたから秀忠が継いだけど
崇神の時代なら秀忠でなく尾張徳川義直、紀伊徳川頼宣、水戸徳川頼房の
誰かが跡を継いでいたかもしれない
兄の豊城入彦は弟の活目入彦より20歳以上年上の可能性もあるな

204:日本@名無史さん
14/10/31 20:58:25.94 .net
狭穂姫の残された皇子は誉津別命というのだが命がついている割に白鳥をみて
初めて言葉を発したとかショボイ伝承があるだけで、皇統には何の影響も与えていない
この人が応神天皇ではないかという人もいる
私は天智天皇の皇子である建皇子がモデルだと思っている

205:日本@名無史さん
14/10/31 21:04:34.04 .net
崇神 遠津年魚眼眼妙媛→御間城姫 晩年の皇后の子が継いでいる
垂仁 狭穂姫→日葉酢媛 晩年の皇后の子が継いでいる
仲哀 大中姫→気長足姫 晩年の皇后の子が継いでいる

206:日本@名無史さん
14/10/31 21:09:22.04 .net
継体も2代目皇后やね
目子媛→手白香皇女

207:日本@名無史さん
14/10/31 21:43:42.45 .net
目子媛は継体の地方豪族時代の夫人だから皇后じゃあないだろ
手白香皇女と婚姻して、即位できたと考えるべきだ

208:日本@名無史さん
14/10/31 21:59:43.40 .net
晩年に婚姻した2代目皇后(正室)の子が跡を継いだ天皇

崇神 遠津年魚眼眼妙媛→御間城姫
垂仁 狭穂姫→日葉酢媛
景行 播磨稲日大郎姫→八坂入媛
仲哀 大中姫→気長足姫
継体 目子媛→手白香皇女

209:日本@名無史さん
14/10/31 22:04:55.61 .net
不毛な議論しとるのぉ

210:日本@名無史さん
14/10/31 22:08:44.65 .net
>>208
長じて即位してから有力者の姫を娶ったのかな

211:日本@名無史さん
14/10/31 22:29:52.06 .net
崇神~応神は晩年の皇后の子が継いでいたが
応神の晩年の皇后の子の菟道稚郎子が仁徳に皇位を譲って自殺(仁徳に殺されて?)から
晩年の皇后の子は継がなくなる

崇神~応神と応神~天智の1世代の長さはかなり違う
応神~天智が30年で崇神~応神は40年ってこともあると思う

212:日本@名無史さん
14/10/31 22:33:19.77 .net
大仙陵古墳ほどの国家の大事業が記紀に載ってない
当時全長800m超の墳墓を造るのは大したことじゃなかったのかな

213:日本@名無史さん
14/10/31 22:42:05.11 .net
大したことじゃなかったんだろうね

214:日本@名無史さん
14/11/01 00:49:51.54 .net
>>98
事代主直系の向家・富家に伝わる話がベースの擦り合わせ神代系譜で
大国主より以前の神代系譜は・・

・御中主命=国常立命(クナト大神)
クナト大神-八島篠-布葉之文字巧為(ふはのもじくぬす)-八束水臣津野-赤衾伊努意保須美比古佐倭気-大国主・・八千矛(大穴持)┬伊佐我(伊佐波)
                                                                                    ├阿遅須枳高日子
                                                                                    └高照光姫

・出雲・大国主神・・八代:八千矛神-九代:阿遅須枳高日子神-十代:鹽冶毘古能神=長髄彦-十一代:古事記の速甕之多気佐波夜遅奴美神=神門 速甕之建沢谷地乃身神(初代:旧出雲大社(杵築大社)司祭:神門氏)
・・十代神門 阿多神-十一代:出雲(神門)振根命=(倭健命)日本武命-十二代:神門鹽手命=神門伊賀曽熊命の子
建部氏(武部)、武内宿禰・葛城襲津彦・・蘇我馬子=島大臣。※①百済国、第二十五代:武寧(武内)王=斯摩王
出雲(神門)笠夜命、斯摩宿祢、島津(志摩)国造家の斯摩、志摩、島(直)氏の島族・・※②百済渡来島族の武蔵・千葉国造家

※①は、三韓討伐以降の在地官人が王族化し、その末代が倭史・和史と名乗り、白村江の敗退で、日本へ渡来。
し、日本国内でも、朝廷や出雲族と争い、神門神社を頼った記録が九州の神門神社周辺に残っている。
※②は、同じく百済から渡来し、島族として帰化に成功した百済人が、武蔵・千葉国造家として関東平野へ移住した事を示している。
大宮・氷川神社などの祭神がそのようですね。

215:日本@名無史さん
14/11/01 00:51:36.10 .net
ゆえに、関東平野・東京湾周辺の古墳群を神門古墳群と呼ぶのでしょうか・・

216:日本@名無史さん
14/11/01 13:32:06.31 .net
>>215
新門古墳群て初めて聞いたな。具体的にどの古墳の集団を指すの?
まぁあまり歴史に詳しくないので検索してみたけどやはりヒットしなかったので。

217:215
14/11/01 13:34:58.69 .net
>>215
ああ、失敬。漢字間違えて検索してた(笑)ごめんごめん、理解したわ。
千葉に昔いたけど、市原の方には目が向いてなかった。

218:日本@名無史さん
14/11/01 21:52:14.96 .net
神門→カムド

219:日本@名無史さん
14/11/01 23:01:28.97 .net
>>218
神門→ゴウド

220:日本@名無史さん
14/11/02 05:16:55.25 .net
>>219
シモン

221:日本@名無史さん
14/11/02 05:17:47.72 .net
神度剣→神門氏

222:日本@名無史さん
14/11/02 05:18:58.31 .net
鴨氏族で神門と書いて、カモとも読む。

223:日本@名無史さん
14/11/02 13:04:21.56 .net
>>222
カモーン?

224:日本@名無史さん
14/11/03 07:52:00.34 .net
なんで日葉酢媛命陵が晩年の妃なんだよ。
サホヒメが死んだのは赤ん坊を産んで間なしじゃん。

225:日本@名無史さん
14/11/03 11:06:37.59 .net
大古事記展やってるなあ。七支刀の現物が見られる。

226:日本@名無史さん
14/11/03 14:38:11.17 .net
第一皇后の狭穂姫は垂仁天皇即位後2年目
第二皇后の日葉酢媛命陵は即位後15年目
即位したのが30として45歳

227:日本@名無史さん
14/11/03 15:42:31.58 .net
>>225
見たいと思ったら奈良かよ…。さすがに東京からはいけねぇな

228:日本@名無史さん
14/11/03 16:40:43.82 .net
>>226
140歳を信じるのか。驚きだ。
サホヒメが死ぬ前に言い残したんだから、その時にお年ごろですぐに
嫁にもらったと普通は考えるけどな。

229:日本@名無史さん
14/11/03 19:50:49.14 .net
『釈日本紀』に引く『尾張国風土記』逸文では誉津別皇子は7歳になっても話すことができなかったとある
即位したのが30歳とする
狭穂姫との婚姻を即位直後(日本書紀は2年目)として
誉津別が生まれたのが32歳、7歳の時に垂仁は39歳
狭穂彦の乱直後(日本書紀は10年後)日葉酢媛と婚姻したとしても39歳
日葉酢媛2皇子・2皇女を産んでいる(15年以上か?)ので垂仁39歳~54歳
十分晩年と言える

230:日本@名無史さん
14/11/04 21:43:08.20 .net
なんで7歳で乱になるのさ。
乱の時に生まれてすぐと書いてあるじゃん。

231:日本@名無史さん
14/11/04 23:18:17.37 .net
日本書紀には誉津別命は壮年になるまで話さなかったとある
日本書紀を信じるなら誉津別命は30歳以上
尾張国風土記逸文を信じるなら7歳以上生きたことになるね

232:日本@名無史さん
14/11/04 23:46:29.07 .net
>>226-231
いや両立するやん。矛盾は回避できてるやん。なんの議論だね?
>>228のツッコミがわからないんだが第二皇后が若い分には
垂仁天皇からしたら問題ないよね? あとホムツワケが何歳かは関係なくね?
サホヒコの謀叛は即位当初のことだろうからその頃うまれたんだろ

233:日本@名無史さん
14/11/05 21:29:01.82 .net
垂仁天皇はホムツワケが7歳にならないと再婚できないのか。

234:日本@名無史さん
14/11/06 20:19:49.29 .net
>>233
えw オマエは現代の庶民の結婚と同レベルで考えてんの?w

ここでいう結婚ってのはあくまで正式な結婚だろ
それならできるだろうけどするかしないかは本人の自由
あるいは政治的な事情もあったかもしれんしなかったかもしれん
少なくとも側女はいくらでもいるだろうから
性欲のはけ口って意味では女に不自由してないだろうし

235:日本@名無史さん
14/11/07 07:37:34.29 .net
どのスレで聞いたらいいのかわからんのでここで聞くけど
倭王武=雄略の頃って少なくともすでに関東九州の統一は終わってんだよね
これって景行天皇の時に征服したってこちょなのかな?

神武天皇は少なくとも日向・北九州・山陽・近畿南部と畿内は支配したんだよな?
崇神天皇の時は東海・関東・北陸・会津・丹波まで
景行天皇の時に出雲・南九州・陸奥の南部までほぼ統一?

邪馬台国が畿内説の場合、その時代は南九州のぞいて西日本統一→景行以前の状態?
邪馬台国が北九州だと、ヤマト朝廷が邪馬台国と別の勢力だったとしても記紀にあてはまる時代がないね
邪馬台国が南九州って説にするなら景行天皇以前の状態には合うが。

236:日本@名無史さん
14/11/07 07:42:54.02 .net
景行天皇から神功皇后までは、
いきなり福岡にワープして、
九州を平定する話ばかりなので、
九州福岡の豪族のエピソードを引き写した話だと思っている。

237:日本@名無史さん
14/11/07 07:46:47.80 .net
現在の日本を見ていてわかる
やってる事が間違ってるからなw

238:日本@名無史さん
14/11/07 08:07:18.68 .net
>>236
いきなりワープ?
ちゃんとその前の代までに吉備や出雲は征服された話が先行してるじゃん
記紀が描いてる歴史の全体の流れみないで
あなたが「いきなりそのページだけみて」感想いってるだけじゃないの?

239:日本@名無史さん
14/11/07 08:09:43.98 .net
景行天皇に吉備や出雲の話、あったっけ?

240:日本@名無史さん
14/11/07 08:14:04.56 .net
あれ、スサノオの話だけどw三貴神

241:日本@名無史さん
14/11/07 08:17:16.92 .net
景行天皇から神功皇后まで、
応神天皇が生まれるまでに、
一回くらい畿内に帰ったんだろうか?

242:日本@名無史さん
14/11/07 08:18:22.98 .net
天皇の話なんてあるの?

243:日本@名無史さん
14/11/07 08:23:25.50 .net
天皇と天と、いわゆる神様の天は違うみたいだよ
詳しい人に聞いてみると良いよw

244:日本@名無史さん
14/11/07 09:05:22.51 .net
>>239
出雲の話はあるな。

>>241
何度も帰ってるだろ。日本書紀よんだことないの?

245:日本@名無史さん
14/11/07 11:04:28.22 .net
景行天皇は、熊襲退治の時は、7~8年は帰ってないね。

いきなり下関にワープし、戦を重ねて宮崎に6年仮宮、
さらに熊本、筑後を巡幸、ここでは戦闘なし。
この辺は非常に細かく書かれている。

筑後の浮羽まで行ったところで巡幸終了。
そこにどのくらいいたのかは不明。

また畿内までワープ?

けっきょく、下関だけ本州で、あとは九州の事跡だけで終わってる。

246:日本@名無史さん
14/11/07 11:06:41.93 .net
景行天皇の熊襲退治は、
九州内で道筋を書けるくらいに詳しく細かく書かれている。

ただし、畿内への道は全く書かれていない。

247:日本@名無史さん
14/11/07 21:29:29.42 .net
>>235
神武天皇の勢力範囲は葛城だけ。東遷も王権の移動というより貴種流離譚に属する流浪の旅と考えたほうがいい。
全国展開するのは崇神から。

248:日本@名無史さん
14/11/07 23:19:03.04 .net
>>241
畿内じゃなくて奈良へ帰ったのかなって思うね。
景行は大津に宮を移し、次の成務も大津のまま。
仲哀は敦賀から出発して、宮は九州になっててそこで死んでる。
ヤマトタケルがヤマトを歌ったうたがあるからヤマトにいたんだろうけど。
新羅から帰った時、ヤマトに入れない話があるから拠点はあったのかな。

巻向遺跡は四世紀中頃には廃れてるらしいね。

249:日本@名無史さん
14/11/08 01:40:01.93 .net
倭王武の上表文のような「大征服の時代」っていうイメージは
崇神天皇にはないね。これは完全に景行天皇だろうな

250:日本@名無史さん
14/11/08 11:18:07.25 .net
上表文にある「渡りて海北を平らぐること、九十五国」はいつの時代?
広開土王碑の時代かな?

251:日本@名無史さん
14/11/08 17:01:17.95 .net
事績で重なるのは

大乱~崇神 信長
景行~応神 秀吉
雄略~継体 家康

252:日本@名無史さん
14/11/08 23:35:21.40 .net
>>250
もっとずっと前。卑弥呼よりずっと前。

253:日本@名無史さん
14/11/09 01:52:12.06 .net
>>235
神武の頃はそこまでいってないだろ
ヤマトで地盤固めしてるくらい

254:日本@名無史さん
14/11/09 02:13:20.05 .net
古い神社の伝承って面白いね。
そういうところの周辺を発掘したらおもしろそうだけどなあ

255:日本@名無史さん
14/11/12 17:41:16.69 .net
考古学って面白いね。
寺沢氏なんか「ヤマトには纏向を生むものは何もない」って言い切ってる。
どこかの勢力が来たんだよな。

でも、なんで纏向だったんだろうな。
あの一体は、纏向以前は荒れ地だったらしい。縄文晩期に洪水が起きて、
弥生時代は人も住まない荒野たっだんだとか。

256:日本@名無史さん
14/11/12 21:49:57.39 .net
川からはずいぶん離れてて不便そうだし、何より平地の真ん中になんか作るってのが奈良以前の日本人の美意識から見て不自然なんだよな。

257:日本@名無史さん
14/11/13 00:47:54.90 .net
ん?南北を川で区切られた地域だし、中にも水路は多いと思うが?

258:日本@名無史さん
14/11/13 12:47:03.09 .net
学問板でなに言ってんだよ

259:日本@名無史さん
14/11/14 11:39:07.68 .net
纏向のことなら平地の真ん中ではないな。
山裾の小高い扇状地の裾というか。

260:日本@名無史さん
14/11/15 18:37:05.14 .net
>>255
>寺沢氏
の本は何か読んだけど、まったく内容に記憶がないほど、
印象がなかったけど、
「ヤマトには纏向を生むものは何もない」
ならば、
東海の土器が多いから、そこら辺りから来たとかいう、
デンパに近い研究者だったか。

261:日本@名無史さん
14/11/16 08:21:43.89 .net
東日本住民における顔面平坦度度の地域差と時代変化
URLリンク(ir.library.tohoku.ac.jp) 
川久保善智

東北地方や関東地方の集団では縄文時代から古墳時代にかけて平坦さが著明に
増加する変化が認められた。この平坦性の増加は渡来人の遺伝的な影響である
可能性がすでに指摘されているが、本研究においても顔面骨に著しい平坦性が
認められる西日本弥生人と東北地方や関東地方の古墳時代人の類似性が認めら
れた。

その結果、全ての平坦指数において北海道では縄文時代から近世までほとんど
変化がみられなかったが、関東地方や東北地方では縄文時代から古墳時代にか
けて著しく平坦性が増し、その後再び立体的になるという時代変化が認められ
た。東北地方や関東地方において縄文時代から古墳時代にかけてみられた時代
変化は先行研究によって遺伝要因の関与が指摘されているが、古墳時代より後
の時代変化には環境要因も大きく関わっていることが明らかになった。

262:日本@名無史さん
14/11/16 11:54:18.63 .net
環境要因で顔が立体的になるの?
遺骨が残る身分のサンプリングの違いな気がする。

263:日本@名無史さん
14/11/16 17:30:03.31 .net
>>261
遺伝子的にも形質的にも
>西日本弥生人と東北地方や関東地方の古墳時代人の類似性
が認められる、ということは、
崇神の四道将軍派遣以降、ヤマト王権がますます
関東、東北(といっても福島、宮城あたりまでだろうが)
及んだことの証左でもある。
文献的(記紀)にも一致する。

264:日本@名無史さん
14/11/18 15:25:53.51 .net
漢字以前の日本の歴史が曖昧なのは今の国境区分けでは受け止められない
入り乱れた状況があったからかも知れない

265:日本@名無史さん
14/11/19 19:55:15.07 .net
文字のない時代の歴史が曖昧なのは当たり前だろう。

266:日本@名無史さん
14/11/19 23:30:33.28 .net
以前、>>73
>三国史記の将軍「于道朱君(ウチシュクン)」が武内宿禰で葛那古は葛城襲津彦

って話があったけど、葛那古は5世紀に新羅征伐に半島に渡った蘇我韓子の可能性もなかろうか?

三国史記の時系列や編年があってるかどうかもきちんと検討されていないみたいだし、
新羅の記録や伝承の混乱、創作もありえると思う

267:日本@名無史さん
14/11/23 19:53:41.50 .net
>>261
専門家によって言い方が違うんだよな。
「近畿の人間は朝鮮人にそっくりだから遺伝的にも近いに違いない」
とかいう専門家と、この違いはなんなんだろ。

268:日本@名無史さん
14/11/23 20:35:18.60 .net
メスリ山古墳に登ってきた。

269:日本@名無史さん
14/11/24 00:02:05.15 .net
>>267
挑戦がらみとか武洛がらみとかになると学者も平気でころころ主張かえるよ
学者ってのは院生から這い上がるまで想像を絶する苦労してて
性格が捻じ曲がってるからな
血みどろでつかみとった地位を絶対捨てなくないと思うし。

270:日本@名無史さん
14/11/26 19:08:44.19 .net
どうでもいいことかも知れんが、古代の「ヤマト」は磐余地域ってのが定説
らしいけど、いつから定説になったんだろう?
奈良の人間なんだが、どうも違和感があるんだよなあ。
葛城山の麓の方がふさわしいというか。
両方含んでいたような気もするけどね。
そこに立って周りを見回すと、ここがヤマトタケルの故郷だと実感するんだ。

271:日本@名無史さん
14/11/29 02:04:50.42 .net
>>262
環境要因でもなる
そもそも寒地に適応して平坦顔になったんだから

272:日本@名無史さん
14/11/29 13:20:32.36 .net
斉藤某が出雲でDNA調査をしたらしいな。
調査はいいけど、結論の導き方がいいかげんなんだよな。

273:日本@名無史さん
14/12/01 00:08:39.38 .net
■古代の測量に関連するページ
URLリンク(www.geocities.jp)

274:日本@名無史さん
14/12/01 23:44:26.78 .net
>>270
そういう説があるのはもちろん知ってるけど
別に定説になってるような感じもしないと思うけどな…?

元来のヤマトは奈良盆地の南半分なんじゃないの、普通に考えて。

275:日本@名無史さん
14/12/03 19:22:47.49 .net
>>274
そうか。
たまたまなのかなあ。最近読んだ本に2つもあった。
いつの間に定説になったんだ?と不思議で。

最近南の方へ行くようになって葛城山(含む金剛山)の存在感に圧倒される。

276:日本@名無史さん
14/12/05 06:12:05.10 .net
ヤマト王権は最初は磐余を含む奈良盆地南東部、
それから葛城地方などの南西部を収めて、
崇神の時代以前にすでに奈良盆地全体を掌握していたのだろう。
のみならず、奈良盆地に近接する地域も婚姻によって、
勢力圏になっていたのは、妃の名(出身地)でわかる。
河内はもともとが物部氏が大きな勢力を占めていた。、
当初のヤマト王権は奈良盆地南東部を中心に河内をも収めていたから、
ますは南西部の葛城地方を支配下に置くのは、
当然の流れになるだろう。

277:日本@名無史さん
14/12/05 19:44:08.69 .net
>>233
>ここでいう結婚ってのはあくまで正式な結婚だろ

現代的な意味での「結婚」という概念は当時なかったと思うが
そもそも当時に正室や妾という中国的な概念があったかどうかすら怪しい
通い婚が基本だし

278:日本@名無史さん
14/12/05 22:41:22.64 .net
側室がいたんだから正室は7年まって再婚したっておかしくないって言い分に
結婚という概念や正室や妾という概念があったかどうかわからないって返答は答えになってねーだろ
たとえ側室が居ようと7年も待つ必要はないって答えればいいだけだろ

279:日本@名無史さん
14/12/06 00:00:45.43 .net
九州の幾何学模様壁画の古墳がまったく話題にならないのはなんでよ。

280:日本@名無史さん
14/12/06 00:01:53.98 .net
文献の紀年が正しいか矛盾してるかのはなしをしてるんで、正室側室とか七年とかは本質じゃない。

281:日本@名無史さん
14/12/06 00:03:09.98 .net
>>279
異端の学者の領分だから。
常世に通じてたりヒルコが出てきたり。

282:日本@名無史さん
14/12/06 06:30:33.54 .net
鹿児島県の霧島温泉の近くに、「熊襲の穴」というのがあって、
洞窟の中に装飾古墳みたいな落書きが書いてある観光スポットがある。

装飾古墳って熊襲の文化じゃねえよな、とか思いつつ、
「西の正倉院」とか、観光のために捏造される地方史には辟易させられる。

283:日本@名無史さん
14/12/06 21:04:08.36 .net
妃というのはあるが「皇后」という概念があったかどうかは分からんね。
天皇も皇后も、後に作られた用語だし。
中世の天皇の妃だって、出路に応じた身分が付くが、正妃というのは特に
ない時期もある。
天皇家には、正妃と側室という区分けはないよね。
すべてが臣下であり、対等な関係はないんだろ。
唯一、天皇の娘を妃にした時はそれが第一婦人になるが。

284:日本@名無史さん
14/12/06 21:08:00.26 .net
>天皇家には、正妃と側室という区分けはないよね。

そんなことはない

285:日本@名無史さん
14/12/07 13:10:15.99 .net
>>283
桓武天皇とか源氏物語とか、母の出自と地位が問題にされる例はたくさんあるが。

286:日本@名無史さん
14/12/08 02:10:04.22 .net
>>283
古い時代になると天皇や皇族の母の名としてしか夫人の名が残らなかったらなのか、後の天皇を生んだ妃を後から皇后だったと呼んでる感がある

287:日本@名無史さん
14/12/08 19:52:56.16 .net
成務天皇とか清寧天皇の皇后がいないことになってるのって、
子供がいなかったからその母親たる皇后も名前が伝わらなかったのかもね

288:日本@名無史さん
14/12/10 08:20:24.71 .net
>>287
その二人は皇后を娶れる歳以前に亡くなったんじゃないか?

289:日本@名無史さん
14/12/10 10:20:57.69 .net
>>283
古代大王家では皇族出身の大后が強い権力を持ち
皇位継承に第一の発言権を持ち夫の死後即位した例も多い
推古天皇、皇極天皇、持統天皇、すべて大后(皇后)出身

藤原道長らが娘の立后にこだわったのも
正后とその他大勢の女御更衣とではまるで妃の待遇も発言力も違ったため

室町時代には天皇家にも公家にも金がなく摂関家も娘の入内に消極的だった
そのために正后が立てられず天皇のお手付き女官が次代天皇を産んでいた

江戸時代、明治時代にも正后とそのほかの側室たちとは全く扱いが違う

290:日本@名無史さん
14/12/10 10:25:22.35 .net
>>287>>288
成務天皇は子供いるよ
女子のみだが
母親の名前も記紀に書かれてある
いずれも豪族の娘で皇后は立てられなかったようだ

清寧は41歳まで生きている
生まれつき白髪の虚弱体質でおそらく童貞で生涯を終えられた

291:日本@名無史さん
14/12/11 13:02:09.75 .net
うまくは表現出来んが、江戸時代の武家のような、御台所と側室というような
区別はないように見えるね。
将軍家が前田と伊達と黒田から妃を迎えているような感じ。

292:日本@名無史さん
14/12/11 13:06:11.79 .net
后位についてもっとよく調べた方がいいんじゃね

293:日本@名無史さん
14/12/11 18:35:36.22 .net
古墳時代のスレなのに、律令国家の制度や平安を引き合いに出すのって変。

294:きんき創生クラブ 
14/12/15 09:38:53.54
以下講演会紹介します

特別セミナー開催
飛鳥で新型古墳!!  奈良のピラミット・蘇我稲目の墓か?

実際に都塚古墳の発掘調査に携わってこられ、また飛鳥周辺数々の古墳の発掘にも加わられ飛鳥に精通されている
 西光 慎治先生をお招きし、都塚古墳の発掘状況、明日香の古墳群 蘇我氏との関係についてお話いただきます。

日時:2015年2月7日(土)受付け開始 13:00~
講演:13:30~15:30
場所:TKP神田ビジネスセンター4F  401会議室
   東京都千代田区神田美土代町3-2
講師:文学博士 西光 慎治
   明日香村教育委員会・関西大学非常勤講師
参加費: 2,000円
申し込み:FAX  06-6533-3206
     mail  kinki.sosay.club@gmail.com
    (先着順、定員200に名になり次第締め切ります。)
問い合わせ:きんき創生クラブ (なにわ制作技研内)
      06-6533-3206

URLリンク(naniwaseigi001.chobi.net)

295:日本@名無史さん
14/12/27 20:55:42.85 .net
【文化】韓国で形象埴輪出土 日本から伝わった可能性 [12/25](c)2ch.net
スレリンク(news4plus板)

296:日本@名無史さん
15/01/12 01:51:48.07 .net
★各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…西南九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側

▼札幌医大・松村博文先生(兵庫県出身)
URLリンク(www.frpac.or.jp)
『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』

▼形質学から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・大阪大学教授による)
     頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人  76.55   23.65   44.60   55.14
東北人  80.16   23.07   44.46   54.33
畿内人  84.98   22.67   43.99   54.23
朝鮮人  85.16   22.35   43.30   53.48

297:日本@名無史さん
15/01/25 08:26:27.25 .net
未盗掘の首長級墓から大量の副葬品!
宮崎県えびの市・島内地下式横穴墓群
URLリンク(www.nishinippon.co.jp)

宮崎県えびの市教育委員会は19日、同市島内の島内地下式横穴墓群から
2体の人骨と武具や装飾付き馬具など大量の副葬品を納めた
古墳時代中期末-後期初頭(5世紀末~6世紀初頭)の未盗掘の墓が見つかったと発表した。
副葬品が土に埋もれずほぼ完全な状態で見つかるのは極めて珍しい。
朝鮮半島製とみられる大刀(たち)や、大和政権との関係を示す甲冑一式も出土しており
首長級の有力者が埋葬されたとみられる。

遺体を安置する墓の玄室(奥行き2.25メートル、高さ0.94メートル、幅3,1メートル)には
女性の遺骨1体と男性とみられる遺骨1体とともに、矢羽根周辺に黒漆を塗ったものを含む
約300本の矢や箱に入った状態の鏡など計400点を超える副葬品があった。

銀メッキで鞘などを装飾した銀装円頭大刀が出土したのは九州で初めて。
朝鮮半島=百済ないしは伽耶=で作られた物と様式が酷似しており半島製と判断できるという。
また衝角付冑と短甲、肩甲などが完全にそろって出土した甲冑は、
他の国内遺跡から出土した大和政権下で作られたものと様式が似ており、
大和政権との政治的関係を示している。

玄室が土に埋まらなかった為、馬具や大刀の柄に繊維や革など有機物も残っており
当時の製法や使用法の解明についても期待できる。
調査に当たった鹿児島大総合研究博物館の橋本達也准教授(考古学)は
「武器や馬具の特徴から埋葬された人物は朝鮮半島で軍事や交易の交渉に関わるなど
大和政権と政治的関係を持っていた可能性がある」と話している。

ソース 西日本新聞
URLリンク(www.nishinippon.co.jp)

298:日本@名無史さん
15/01/25 08:32:17.15 .net
妄想が膨らんできてるね~

299:日本@名無史さん
15/01/25 17:53:22.10 .net
>>296
>『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
> 『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
> 『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
> 『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
> 『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
> 『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
> 『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
>『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』

これって東アジアの人種ならすべて当てはまるんじゃね

300:日本@名無史さん
15/01/25 20:38:07.29 .net
手足が長い。
中頭
湿った耳垢且つワキガ
物凄い福耳
髭は普通
奥二重
蒙古襞は有るな
歯はコンプレックスなくらい小さい
こんな俺でも東洋人で日本人だ。

301:日本@名無史さん
15/01/28 08:50:58.59 .net
統計的特徴の話をしてるんだから、はずれ値は小さくなってなさい。

302:日本@名無史さん
15/01/28 09:45:02.86 .net
>>297
なんでもかんでも朝鮮半島製ってほんとかよ、とこのごろ思う。

303:日本@名無史さん
15/01/31 23:48:17.73 .net
百済ないし伽耶という書き方も不思議であるよなあ
全然わかってない感がスゴイ

304:日本@名無史さん
15/02/01 15:39:19.67 .net
南九州の石積石室墓から発展したのが、前方後円墳だと思う。
外側は違うけど、中の構造がよく似てる。

305:日本@名無史さん
15/02/02 06:33:57.26 .net
何か根拠があって「朝鮮半島製」とか「朝鮮半島から来た技術」とか言ってるのかな?
陽線半島の古い製鉄遺跡は発見されていない。
魏志東夷伝に書かれた記事のみが根拠とか。

306:日本@名無史さん
15/02/02 07:12:32.77 .net
>>296
人類学者が比較に持ち出す「朝鮮人」って、現代人ばかりな気がするなあ。
弥生開始期以前の朝鮮人と比較するならわかるけどさ。
半島南部に倭人が住んでいる、三韓には中国人が移住していると書かれているのに
混じった後と比較してもしょうがないんじゃないかな。
弥生文化が到来した時の遺跡の人骨と、その時代直前の朝鮮半島人が、人骨も
文化も全く同じってならだけど、そんあものはどこにも存在しないんだよな。
鉄は弁辰とかいうくせに、朝鮮で製鉄の遺跡なんか一つも出ていない。

307:日本@名無史さん
15/02/02 07:15:11.53 .net
前方後円墳は吉備と出雲が合体説も怪しくなってきたね。

308:日本@名無史さん
15/02/02 09:36:53.15 .net
>>306
渡来系弥生人の頭蓋骨といって、北九州あたりにおいてある図があるけど、
渡来系というぐらいなら、同時代の半島の頭蓋骨を並べるくらいしろよ、とは思う。
なんていうか、学問的にしょぼい。

309:日本@名無史さん
15/02/03 08:11:10.55 .net
絵になってたり比較で持ち出すのって、山口の土井ヶ浜の遺骨が多いんだよな。
あれって、弥生の平均とかじゃなくて、特殊なやつじゃん。
あたかも、「ここに流れ着いた渡来人がその後日本中に広まって弥生人になった」
かのように書いてる奴もある。
弥生時代がというか水稲稲作が始まって随分経ってからの遺跡なのに、未だに
弥生文化をもたらした渡来人そのものかのような扱いは変。
人類学者って考古学を馬鹿にしてるのか知らんが、前後関係とか文化とか
無視して、「人骨が縄文人と違うからこれこそが・・」みたいな決め付けを
するから信用できん。

310:日本@名無史さん
15/02/15 18:06:12.39 .net
大和古墳群の中でも、北の方の一群に興味があるなあ。
100m超えのがいっぱいあるんだよな。

311:日本@名無史さん
15/02/15 19:38:31.09 .net
縄文人と弥生人の区分って使ってた土器による超ザックリしたものだから
人骨で判断なんて無理
割目遺跡みたいに途中から住民が縄文人から弥生人になった場合とかどうすんだって話

312:日本@名無史さん
15/02/15 19:43:11.30 .net
>>311
そこでいう縄文人と弥生人って、同じ遺跡で土器が混在してるって話?
それとも人骨の話?

313:日本@名無史さん
15/02/23 19:41:58.75 .net
割目遺跡は縄文時代から弥生時代まで時代をまたいで存在した集落の跡だよ
途中からこの集落の住人は縄文土器から弥生土器を使う「弥生人」になったが
生活遺物は断続の跡が見られず縄文時代からいた人々の子孫とみられている

314:日本@名無史さん
15/02/25 13:50:58.43 .net
古墳時代の豪族の館が南北朝時代の武士の館と同じに感じた
古代からぜんぜん発展してないのかね
三ツ寺Ⅰ遺跡
URLリンク(www.ranhaku.com)

315:日本@名無史さん
15/02/27 18:24:48.79 .net
>>313
つまり人骨の話じゃなくて土器の話ね
>>309
いや、全国的なのは土井ヶ浜タイプのほうで、
吉野ケ里タイプのほうが北九州に局所的なものと聞いたが…?

316:日本@名無史さん
15/02/27 20:03:38.85 .net
南北朝の武士の館より古代の豪族居館のほうがレベル高いぞ
土台が高いし堀幅も広いし何げに横矢もあるからな

317:日本@名無史さん
15/02/28 13:39:18.86 .net
>>316
劣化してるのかw
トイレとかどうだったんだろうね

318:日本@名無史さん
15/03/08 10:21:40.09 .net
土井ヶ浜の方が例外だろ


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