官位とかについて緩く語ろう、関連質問・雑談OKat HISTORY
官位とかについて緩く語ろう、関連質問・雑談OK - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
12/11/09 14:39:43.45 .net
┌───────┐
│ 朝日新聞. 東京本社編集局. │
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    .  .   ┌─人_从_人_人_从_人人_从_人_人_从_人人_从_人_人_
.  .  .  .   |彡 ) おるぁ!!2ch対策室!! アク禁解除されたぞ!!
.   .  .∧,_,,∧  | Y⌒YY⌒) 徹夜じゃ!! 気合い入れていくぞっ!!!
      (=@Д@) ..|   .|   Y⌒YY⌒YY⌒YY⌒YY⌒YY⌒YY⌒YY⌒
      ( O   ).つ|)  |
 ̄ ̄ ̄ ̄し―-J  |  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 国策だ!!            ヒキコモリニートが!!        ウヨ氏ね! ウヨ氏ね!
    なぜこのタイミングで!!             陰謀だ!!          ニート部落民が!!
 カタカタ ∧_∧    カタカタ ∧_∧     カタカタ ∧_∧    カタカタ ∧_∧ 
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                 政権交代!
   ネトウヨ! ネトウヨ!        政権交代!    謝罪セヨ! 賠償セヨ!   私は悲しいのです・・
 カタカタ ∧_∧    カタカタ ∧_∧     カタカタ ∧_∧    カタカタ ∧_∧
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 |   K Y  .|三|/  .| フルタチるw |三|/  .| NYTオオニシ |三|/  | アジここ. |三|/

3:日本@名無史さん
12/11/09 21:34:38.39 .net
正親町三条実愛が大臣家をたてにごり押しして、伯爵から侯爵に
昇爵したが、実際大臣家と蔵人頭を出す羽林家、名家の旧家とは
どの様な差異があったのだろうか?
家格が完全に固定された近世においては、その差異は無いどころか、
寧ろ官位官職の補任に於いては逆転現象が見られる。
ただ、家領の領地状だけは、大臣家以上と従一位が判物、それ以下は
朱印状と区別され、平堂上は従一位にならなければ判物は受けれなかった。
その意味では大臣家は10万石以上の大名と同格の扱いではあるが。
さて、大臣家と言うからには、当然極官は大臣のはずであるが、
近世においては、三大臣家からの大臣補任はたった4例しかなく、
三条西家が1人、中院家が3人で正親町三条家は比較的短命な当主が続いたためか、
0である。
                             次へ

4:日本@名無史さん
12/11/09 21:35:25.70 .net
ただ、三条西実条と中院通村は右大臣にまで昇任しており、
大臣家の面目を保っている。
他に羽林家から3人が、名家からも3人が内大臣になっているが、
中御門宗条は東山帝の、櫛笥隆賀は中御門帝の外祖父のためと思われる。
つまり、近世においては摂家、清華家以外の任内大臣10例のうち、
大臣家の補任はたった4例に過ぎないのである。
そして、人臣の極位である従一位も大臣家の中では、
中院家しか任じられていない。一方、羽林家と名家では計23家が
従一位に昇っており、蔵人頭を出す旧家では、滋野井家、今城家、
東園家などを除いてほぼ従一位になっている。

                     次へ

5:日本@名無史さん
12/11/09 21:36:00.43 .net
従一位が補任資格となる准大臣についても、近世以前には中院家には
補任例があるが、近世では3家共その例が無い。
慶長16年に烏丸光宣が任じられてから、文久2年の広橋光成まで、
羽林家4人、名家7人の計11人が准大臣となっている。
「幕末の宮廷」に「准大臣になると御上と同様で、准大臣と従一位は、
旦那と家来ほどの違いがございます」との記述がある様に、
現官の官職ではないにせよ、摂家や清華家以下の公家から見れば、
いかに憧れの地位であったのかが分かる。
これ以外にも、従三位となる上階の年齢、参議、中納言、大納言の
就任期間の年月等、羽林家、名家の上級家とは全く差異はない。
近世においては摂家と清華家もその差が隔絶したように、幕府の統制上、
摂家とそれ以外の公家と言う区別化の中で、大臣家の様な中二階階級は
完全い埋没してしまったのだろう。
しかし、正親町三条愛の爺さんゴネ得とは言え、よく頑張ったね。

                          以上

6:日本@名無史さん
12/11/09 23:25:15.31 .net
南北朝以後、准大臣は平堂上のためのものとなって、
大臣家以上に准大臣宣下をされることはなくなった。

嵯峨家の侯爵昇爵は、爵位制度導入のため、後回しにされたもので
(導入時に功績などの個別事項を考慮しだすと収集がつかなくなったので
 岩倉、三条といった明らかな考慮事由がない公家の昇爵は後回しにされた)
そもそも、維新の功績による昇爵候補一番手であったから、
それほどゴネ得ではない

7:日本@名無史さん
12/11/10 00:01:17.78 .net
>>6
中院通淳が准大臣宣下を受けたのは宝徳3年11月19日、
時の将軍は足利義成、つまり後に改名した8代義政だ。
したがって大臣家の准大臣補任は、南北朝以後にも先例がある。

8:日本@名無史さん
12/11/10 01:05:35.73 .net
>>7
先例と言うより唯一の例。

9:日本@名無史さん
12/11/10 01:38:28.39 .net
早速余談だが、学生時代にとある『公卿補任』の影印を見ていたら、
「権大納言」とあるべきところが「権大臣」と誤っているのを見つけて、
友人と大笑いした思い出が。遂に大臣にも権官が置かれたのかとw

10:日本@名無史さん
12/11/10 09:36:06.33 .net
准大臣って、内大臣以上のように公なの?
それとも大納言のように卿なの?

11:日本@名無史さん
12/11/10 09:48:25.33 .net
>>10
准でも大臣と言うからには卿ではない。
「幕末の宮廷」の記述は>>5にある通りだ。院号もつく。
>>7の中院通淳は延命院。

12:日本@名無史さん
12/11/10 11:14:37.92 .net
前に誰かが大臣家は准大臣になるのを嫌がったみたいなことを
書いてる人がいたけど、ただ単に大臣家は准大臣まで上れなっかたって
こと?
それとも准大臣は大臣に上れない家のための官位であって大臣家は大臣に
なれる家だから准大臣にならなかったってこと?

13:日本@名無史さん
12/11/10 20:55:09.67 .net
>>12

准大臣が復活したのは、大臣昇任資格者が増加したので、
昇任優先順位の低い公卿(摂家や清華家の庶流)に対する「回り道」
(名ばかり大臣?)として用いるためというのも一因といわれている。
(他にも、源氏長者争いも絡んでいるといわれている)

それが、南北朝くらいから、平堂上の公卿への准大臣宣下の例が出始め
家格の確立とともに、大臣への「回り道」というよりも、平堂上への名誉職
として転用されるようになった。
(「大臣家」の成立により、准大臣宣下の当初の目的は必要なくなった
 家格=大臣への就任優先順位となったため)

現在の似た例で言えば、キャリア官僚にとっては通過点のポストでも
ノンキャリにとっては「到達点」というポストは存在する。
で、いつのころからか、キャリアの「通過点」としては用いられずに、
ノンキャリの「到達点」として使われるのが一般的となった

といったところか。

>>大臣にも権官
趣旨的には「数の外の大臣」という異名を持つ内大臣がそれに相当したのだろう

14:日本@名無史さん
12/11/10 21:07:18.07 .net
    ,、    /7       ,-、
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15:日本@名無史さん
12/11/10 23:24:01.08 .net
准大臣と言うと藤原伊周が「儀同三司」と称したのが有名。
だが「官職要解」によると伊周の「儀同三司」は私称であり、
本来中国の位階であって、唐の「六典」に「従一品、開府儀同三司という」と
書いてあるらしい。従って後年准大臣の意味に用いられる様になった「儀同三司は、
従一位の事が正しい。
つまり准大臣は本来従一位の中から大臣に空きが無い場合、特に年齢や功績を見て
任じられたので、早くして二位の時点で大臣になる清華や摂家は全く関係がない。

16:日本@名無史さん
12/11/10 23:48:29.76 .net
>>15
大臣家は?

17:日本@名無史さん
12/11/11 01:34:02.07 .net
大納言の異名が亜相だから、「権大臣」っていう記述もあながちおかしくないかも。

18:日本@名無史さん
12/11/11 11:53:32.11 .net
>>16
通常平堂上の場合、准大臣は従一位の位を持つ者の名誉昇進的なものである。
しかし、近世以前まだ大臣家という家格が定まっていない時代においても
大臣を出す家は大体決まっており、機会は少ないが大臣に昇る事が出来た。
そして摂家・清華家を含め、それらの家格の者は通常その昇進過程から見て
二位の内に大臣に達している。だが時にして大臣に空きの無い場合があり、
この場合大臣昇任の優先権の低い大臣家にあたる者は昇任以前に従一位に達してしまい、
これを慰めるために准大臣宣下が出されるのである。

土御門定実のように准大臣から内大臣昇進という珍しい例もあるね。

19:日本@名無史さん
12/11/11 13:10:32.08 .net
>>18
江戸時代に大臣家の准大臣宣下がなかったのは
従一位になる前に内大臣になったから
または従一位に達しなかったからであって
可能性としてはあり得たってこと?

20:日本@名無史さん
12/11/11 16:23:52.88 .net
>>19
過去に先例がある限り、可能性としては否定できないと思う。
江戸時代の大臣家の大臣任官を公卿補任で調べてみると、三条西家一人、
中院家の三人共正二位で内大臣になっている。
特に通茂は74歳でありながらまだ従一位に昇進しておらず、原因は不明だが、
平堂上家の従一位昇進と比較しても遅れている。
通茂は40歳従二位の時権大納言を辞任、43歳で正二位に昇り、
後75歳で従一位になるまで22年間正二位に止め置かれている。
その間武家伝奏にもなっているので、決して無能な公卿ではないと思うが、
確かに大臣就任に関しては、清華家・大臣家の地位は江戸時代以前と比較して、
極端に低下している。

21:日本@名無史さん
12/11/11 16:44:34.76 .net
>>20
22年間正二位に→32年間の間違い。

22:日本@名無史さん
12/11/11 17:03:40.04 .net
准大臣については
樋口健太郎「准大臣制の成立と貴族社会--鎌倉後期の家編と南北朝・室町期への展開」
年報中世史研究34号(中世史研究会) 2009年
を一読しておくとよいでしょう。

23:日本@名無史さん
12/11/11 20:26:15.69 .net
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   /\     /\     /\
 SE:え~  SE:あははは  SE:へぇ~

24:日本@名無史さん
12/11/11 22:36:01.17 .net
中山家にはなんで諸大夫がいるの?

25:日本@名無史さん
12/11/11 23:01:09.75 .net
初期の准大臣はともかく、准大臣宣下の一応の基準は
・従一位であること
・前大納言であること
の2つなので、正二位で大臣昇任となると。
准大臣宣下を経ることなく大臣となる

26:日本@名無史さん
12/11/12 10:12:39.20 .net
>>24
「幕末の宮廷」には「中山家は三代続いたという点で諸太夫を置くことになりました」
とありますが、事実とは違うので下橋敬長翁の勘違いでしょうか。
中山家は幕末の忠能を含め三人が准大臣となっていますが、続いてではありません。

27:日本@名無史さん
12/11/12 11:34:56.33 .net
>>26です。
誤「中山家は三代続いた」
正「中山家は准大臣が三代続いた」

28:日本@名無史さん
12/11/12 14:03:14.59 .net
                    Λ_Λ
                    < `∀´ > トンスル飲むニダヨ
                   \    /   
                    |⌒I │
                    (_) ノ
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29:日本@名無史さん
12/11/12 16:33:11.33 .net
「准」繋がりでひとつ。
「官職要解」に藤原基房の准摂政の事が書いてあったので調べてみた。
「公卿補任」の承安二年の摂政藤原基房の項に「十二月廿七日上表。
辞摂政。即詔為関白。廿八日又宣旨云。除目官奏等。准摂政儀行之。」
とあったが、分かる人いる?

30:日本@名無史さん
12/11/12 19:42:22.88 .net
この間、徳川吉宗に名刺を貰ったらこう書いてあった。

内大臣守正二位行右近衛大将兼右馬寮御監淳和奨学両院別当
征夷大将軍氏長者 源朝臣吉宗

と書いてあった。

31:日本@名無史さん
12/11/13 01:51:53.96 .net
一橋従三位中納言 源治済は、准大臣に任ぜられ、一橋儀同三司となる

32:日本@名無史さん
12/11/13 18:09:08.97 .net
関白上表が認められ、准摂政となる例はある。
摂政に准(なぞら)ふ。
というからには、摂政に準じた扱い、待遇にするということだ。
摂政の儀に准ひてこれを行へ。
あるいは
摂政に准ひて儀(こと)行へ。
准三宮が三宮に准ふと相似。

33:日本@名無史さん
12/11/13 20:26:01.43 .net
>>32
なるほど。サンクスです。

34:日本@名無史さん
12/11/13 20:55:56.67 .net
2012/09/18(火) 株式会社ガーラバズ(電通バズリサーチ)の2ちゃんの工作が大々的にバレる



2012/09/28(金) 株式会社ガーラバズの汚名を打ち消すために株式会社ホットリンクに統合させて社名を消滅

■ 狼の工作で有名な電通バズリサーチ(株式会社  ガーラ バズ   )が狼を監視しすぎでバーボン行きまくりのお知らせ ■ Part.4
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■ 狼の工作で有名な電通バズリサーチ(株式会社   ホットリンク )が狼を監視しすぎでバーボン行きまくりのお知らせ ■ Part.5
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【話題】 AKB、虚像の人気★2
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やっと気付いた「AKBに電通が絡んでる」ではなく「AKBの正体が電通」な件 その145
スレリンク(morningcoffee板)

35:日本@名無史さん
12/11/13 21:10:39.43 .net
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36:日本@名無史さん
12/11/14 21:04:49.04 .net
現代官職との比定もしていいの?

37:日本@名無史さん
12/11/14 23:17:58.86 .net
その名刺、偽者だろう。
征夷大将軍右馬寮御監淳和奨学両院別当氏長者内大臣正二位兼行右近衛大将 源朝臣吉宗

38:日本@名無史さん
12/11/14 23:24:01.62 .net
秀吉の時代に、大名で中納言がたくさんいますけど、誰が一番上位と下位なんですか?

39:日本@名無史さん
12/11/14 23:35:57.21 .net
秀康:先任の上杉殿が上席です。

40:日本@名無史さん
12/11/15 11:44:43.88 .net
時期にもよるが、
織田秀信のみ正三位権中納言となったので
筆頭は秀信。他者は従三位権中納言。
その中で、最後に権中納言となったのは
小早川隆景。よって、隆景が末席となる。

41:日本@名無史さん
12/11/15 16:45:56.13 .net
末席は秀忠かと思った

42:日本@名無史さん
12/11/15 18:35:06.15 .net
>>40
豊臣政権を最末期の慶長3年8月18日(豊臣秀吉崩)で見れば、
末席の中納言は、慶長3年4月20日に従三位権中納言に昇進した前田利勝だよ。
同時期の武家中納言最上席は、従二位権中納言の豊臣秀頼。
秀頼は天下人後継者であって大名に含めないとするならば、正三位権中納言の上杉景勝が最上位。
同位の織田秀信より上杉景勝のほうが昇進が先。

43:日本@名無史さん
12/11/15 20:26:53.06 .net
中納言の誰が上席で誰が末席かなんて、その年度で違うでしょう。
年度を区切らないと誰が上席なんて全く意味ない。
徳川家康と豊臣秀長が任じられた天正14年から、
徳川義直と同頼宣が任じられた元和3年まで何年経ってると思ってるの。
同年度内なら位の上位者が上席だし、同じ位なら先任者が上席。

44:日本@名無史さん
12/11/15 21:45:31.81 .net
>>43
「秀吉の時代」とあるから元和3年は入らないだろ。
最末期で慶長3年まで。秀吉政権で最も大名中納言が多かったのもこの時期。

45:日本@名無史さん
12/11/15 22:48:23.23 .net
上杉景勝は正三位になっていないだろう。
従三位留まり。正三位昇叙の文献があるなら示してくれ。

46:日本@名無史さん
12/11/16 14:10:10.34 .net
大納言と中納言はいたのに、少納言はなぜいなかったの?
中将と少将はいたのに、大将はなぜいなかったの?
そもそも、大・中・少 って、並びが変じゃない?

47:日本@名無史さん
12/11/17 23:45:46.14 .net
そういえば人民解放軍の階級に上将、上校、上尉ってあるけど、
中国の律令でも大・上・中・少って等級があったの?
日本の令制国でも大国・上国・中国・下国って等級があったからあってもおかしくはなさそうだけど。

48:日本@名無史さん
12/11/18 00:31:55.14 .net
納言については「大、中」と「少」、将については「大」と「中、少」
のくくりじゃなかったかな。両方とも、「大少」が基本で、「中」は
「大」か「少」のどちらかを分けるような形で置かれていたように
思える。
再置された中納言は大納言に近い職掌でどちらも次官相当、
少納言は判官。一方、中将は少将の上に置かれて、長官で
ある大将に対して中将・少将は次官。
それはともかくとして、大将と中少将とでは、格が全く違うね。
大将は上席の大納言か大臣が兼ねるのが恒例で、大納言
~右大臣時代の信長が就いていたり、後には徳川将軍家が
就く例になっているし。

49:日本@名無史さん
12/11/18 12:12:56.15 .net
>>48
勉強になりました

50:日本@名無史さん
12/11/18 13:23:05.18 .net
>>48
大将を「徳川将軍家が就く云々」とあるが、初期を除いて武家の任官は員外。
大将は清華家が右大将を、摂家が左大将(右大将にもなる)を兼ねるのが通例。

少納言は詔勅の宣下や天皇印・太政官印を保管する要職であったが、
後蔵人に実権が移り、その地位は低下した。
近世には各家の官職が固定されて行くに従って、
少納言は菅原家、平家、清原家の中の数家のみが就任する官職になった。
ましてや武家が叙爵しても任じられるような官職ではない。

51:日本@名無史さん
12/11/18 13:52:44.82 .net
私は近世の補任をいろいろ調べていますが、史料面で一マニアには限界があります。
公卿補任、公家事典、諸家伝、弁官補任、日本史総覧別巻通史でほぼ
主要官職は通覧出来るのですが、勿論一長一短があり完璧ではありません。
その一つが近衛少・中将です。公卿補任では上階以前に早世した公家の官歴は分からず、
諸家伝では天明・寛政あたりが下限のため、それ以後は分かりません。
雲上明覧を全部集める訳にも行かず、その印影刊行物である近世公家名鑑集成は、
高価且つ刊行が遅れているようで、入手はかなり困難です。
皆さんはどの様な史料を使っておられるのでしょうか?
どこか近世朝廷官職補任総覧と言う様な本を出す出版社はないですかねぇ。

52:日本@名無史さん
12/11/18 18:07:07.67 .net
皇族が出家したら法親王になるけど王が出家した場合称号とかあるの?

53:日本@名無史さん
12/11/18 19:38:29.26 .net
>>52
王だから法王だろう。まぁ冗談はさて置き、皇族が出家というが、王も皇族だ。
親王が出家したらの間違いだろうだろう。「法親王になるけど」といってるが、
「法法親王は出家後親王宣下を受けた場合。
親王宣下の後出家した場合は入道親王と呼称が違うのだ。
親王宣下なく出家した王は当然僧名だけ。例として後西帝の皇子の場合、
宗栄、高栄、聖安、瑞光などの名前が見える。

54:日本@名無史さん
12/11/18 20:08:53.05 .net
ちなみにそれ皆女性です

55:日本@名無史さん
12/11/18 20:45:23.94 .net
官位の上下で、つき合い方や私生活で何か変わってくるんですか?

56:日本@名無史さん
12/11/18 20:48:14.66 .net
刃傷事件の松平外記等々、武士で「外記」を称した例は良くみますね。

57:日本@名無史さん
12/11/18 22:10:48.48 .net
後醍醐皇子 元選、 後柏原皇子 道喜、 光明皇子 周尊、
亀山皇子 道性、尊哲 等々いっぱいいるぞ

58:日本@名無史さん
12/11/19 11:14:19.46 .net
>>53>>57
それ、いずれも法名。
皇族であっても、法名には親王や内親王号をつけない。
例えば、後宇多上皇の諱は世仁で、世仁親王とは呼ばれるが、
法名の金剛性に親王号は付けないということ。

59:日本@名無史さん
12/11/19 14:31:13.28 .net
親王の場合は法名に親王号つけてるでしょ

60:日本@名無史さん
12/11/19 16:33:44.19 .net
>>58
世仁親王と呼ばれるのはは即位する前までじゃないの?
前天皇や前上皇の立場の人に、何の場合にせよ親王を付けるのはおかしいだろう。

例えば伏見宮忠道親王は親王宣下後、忠道と名乗り一年後に得度して
尊誠入道親王となっている。この場合の尊誠は法名ではないのか?

61:日本@名無史さん
12/11/19 18:49:57.32 .net
>>601
即位してからも諱は一生諱だよ
例えば現在の天皇は「天皇陛下」と呼ばれるが名は「明仁(明仁親王)」
公の書類にはすべて明仁と署名する(歴代天皇も同じ。天皇と署名しない)
即位した途端諱がなくなるわけではない

62:日本@名無史さん
12/11/19 20:39:41.55 .net
>>61
論点が違う。法名に親王号が付くかどうかの話で、
天皇の名前の事なんか言っていないだろう。
それに天皇が皇親に含まれない以上、天皇は親王ではない。
現在の制度下でも天皇は皇族に含まない。
従って>>58の後宇多は即位した時点で親王ではなくなる。
だから、後宇多の法名に親王号が付かないのはあたりまえだ。
ここでは皇親の親王の得度後の法名に親王号が付くという話。

63:日本@名無史さん
12/11/19 20:59:43.11 .net
>>62
村上天皇皇子致平親王は、出家後の法名を悟円といい、これに親王号はついていない。
当時の史料を見ても「仁和寺法親王」などの用例はあっても
法名+親王号の実例なんてあったか?

64:日本@名無史さん
12/11/19 21:35:52.04 .net
一般向け書籍ではよく
○○法親王という表記を見たが、
それは俗称で正式ではないということ?

65:日本@名無史さん
12/11/19 21:57:18.83 .net
法皇って法名あるの?

66:日本@名無史さん
12/11/19 21:58:21.52 .net
>>63
それは入道親王や法親王と称するのがその後の時代だからじゃないか?
たしかに各時代の一次史料には寺院名+親王号ってのも多いだろうけど、
法名+親王号だってザラにあるぞ。

67:日本@名無史さん
12/11/19 21:59:15.22 .net
あと、出家した内親王って何と呼ばれるの?
法内親王とか入道内親王は聞いたことねw

68:日本@名無史さん
12/11/19 22:02:13.25 .net
そもそも、記録の類でなければ、貴人の名を書くこと自体が
まれだと思うが。
法親王尊雲が還俗して護良親王になった後でも、「大塔二品
親王」という記述の方が普通なんだし。
で、「皇子たちの南北朝」が引く東寺本天台座主記」「太平記」
には、尊雲の師として「承鎮親王」なる人物が上げられている
から、当時の史料にも法名+親王号の表記があるようだ。

69:日本@名無史さん
12/11/19 22:03:09.36 .net
>>65
出家なんだから、当然法名もあるでしょう?

70:日本@名無史さん
12/11/19 22:41:18.12 .net
>>63
村上帝の時代に法親王や入道親王なんてまだない。
入道親王が記録に見えるのは、三条帝の第4皇子師明親王が得度後
仁和寺に入り、性信入道親王になったのが初め。
法親王は白河帝の第2皇子(名前は不明)が得度して、
康和1年(1099)法親王になったのが最初。何れも法名に親王号が付いている。

71:日本@名無史さん
12/11/19 23:00:04.87 .net
>>70覚行法親王だった。名前が抜けていた。

72:日本@名無史さん
12/11/20 23:33:27.72 .net
2009年
「小泉に騙された!言ってることはよくわからんが、民主党なら、この閉塞的な社会を打破してくれそう。」

2012年
「民主に騙された!言ってることはよくわからんが、橋下なら、この閉塞的な社会を打破してくそう。」

2016年
「維新に騙された!言ってることはよくわからんが、今度出来る新党なら、~~~」

2020年
「新党に騙された!言ってることはよくわからんが、今度の新・新党なら、~」

以下無限ループ

73:日本@名無史さん
12/11/24 11:25:51.66 .net
石川和外「近世准三后考」日本歴史625号を
読んでいるが、この准三宮(准三后、准后)の地位の複雑さは
揉め事の種であることがわかる。
例えば、一座宣旨を受けている摂政あるいは関白と准三宮との序列上の問題。

74:日本@名無史さん
12/11/27 12:44:00.40 .net
八省の大輔や少輔は公卿昇進のどのタイミングでなるのでしょうか?

羽林家が少将や中将の時に兼任するものでしょうか?

75:日本@名無史さん
12/11/27 12:59:53.72 .net
>>67
内親王が出家してから内親王宣下された例ってないよね。
もともと内親王だった人が出家して法号受けた例はあるけど。
この場合、法名に内親王は付けない。

76:日本@名無史さん
12/11/30 20:59:15.48 .net
故森光子さんを従三位
時事通信 11月30日(金)12時14分配信
 政府は30日午前の閣議で、10日に死去した俳優の森光子(本名村上美津)さんを従三位に叙することを決めた。
森さんは生前、文化勲章、勲三等瑞宝章を受けている。
URLリンク(headlines.yahoo.co.jp)

77:日本@名無史さん
12/11/30 21:10:09.53 .net
西郷隆盛は抜けなかったかw

78:日本@名無史さん
12/12/01 12:19:51.15 .net
将軍家御台所と同格か・・・。
かつて和宮様御留で演じた観行院(正五位)よりかははるか上。

79:日本@名無史さん
12/12/08 22:02:30.29 .net
廣幡家って清華だけど内大臣しか昇れず近衛大将兼ねることが出来ない特殊な家だよね?
参議を経ないで中納言になれる以外は官途だけ見るとまんま大臣家だけど何故清華として生き残れたんだろ?

80:日本@名無史さん
12/12/08 23:30:51.88 .net
新家だからかな?と思って調べたら同じ新家清華の醍醐は普通に昇進しているし、摂家分家と天皇家分家で
差が付けられたのか?

81:日本@名無史さん
12/12/09 01:07:37.81 .net
廣幡家は、早々皇親(八條宮)の系統が断絶して、久我からの養子で繋いでいるしね。
久我の分家と考えれば、相応な扱いだな。

82:日本@名無史さん
12/12/09 13:40:12.74 .net
素朴な質問です。
大納言あたりになると近衛右大将を兼ねています。
この近衛大将って、武官の実態があったのでしょうか?
それとも単なるステータスシンボルなのでしょうか?平安時代でお願いします。

83:日本@名無史さん
12/12/09 15:35:10.27 .net
近衛右大将(笑)

84:日本@名無史さん
12/12/09 15:45:29.91 .net
単なる大納言より大納言兼大将の方が大臣になりやすい

85:日本@名無史さん
12/12/09 20:12:58.55 .net
平安時代と言っても初期と中期・後期じゃ全然違うだろうに。
初期なら、薬子の変鎮圧の時の坂上田村麻呂は、大納言で
右大将を兼ねた状態だったはずだから、紛れもなく実態を
伴った武官だね。

86:日本@名無史さん
12/12/09 21:00:34.85 .net
>>79
そもそも皇位継承権または宮家当主継承権がない皇族は、即座に仏門に入ってそこで一生を終えるのに
広幡家の祖となった忠幸王が皇族としていられたことと(長兄は宮家相続、次兄は仏門)、臣籍降下出来たこと。しかも臣下になって清華家に列することが出来たことも謎。

87:日本@名無史さん
12/12/09 21:59:50.32 .net
武官と言っても人は見れば分かるとおり公卿兼帯だったわけで軍事教練を受けていなかったのは確実だ。
だから実態の有無は近衛府が軍事組織として実体を持っていたかという議論になるだろう。

88:日本@名無史さん
12/12/09 23:54:11.54 .net
>>76
何で純粋な民間人に官位をやるんだ?
最低でも○○団体の理事とかやってないと官位は貰えないはずだぞ。

89:日本@名無史さん
12/12/09 23:56:19.94 .net
文化従三位とか名前を変えないとまずいだろ。

90:日本@名無史さん
12/12/10 00:02:52.80 .net
法親王として仏門入って天台座主になるのと臣籍降下して大納言や内大臣になるのとどちらが本人にとって幸せなんだろうか?

私なら清華の家格付いてくるなら断然臣籍降下選ぶけど

91:日本@名無史さん
12/12/10 07:04:20.90 .net
>>88

92:日本@名無史さん
12/12/10 23:34:07.91 .net
もともと役人の階級だった階位が民間人にも叙位されるなら
1000年後くらいには民間人に国家公務員Ⅰ種とか叙位されたりするようになるんだろうか

93:日本@名無史さん
12/12/11 08:54:47.38 .net
前関白という書き方をした文書を見ることがあるけど、
太閤との使い分けはどうやってるの?

94:日本@名無史さん
12/12/11 11:21:42.74 .net
>>93
原則論では、子弟が関白に就いている者に限り「太閤」とされる。

95:日本@名無史さん
12/12/11 16:05:09.41 .net
>>79
広幡家は近衛大将を兼ねられますよ。 <


96:br> 二代豊忠、四代前豊、七代基豊、八代忠礼はいずれも右大将に昇っています。 どうして徳川義直の猶子になったのかは不明ですが、公家事典によると、 徳川光友の願うところにより、堂上になると記されてあります。



97:日本@名無史さん
12/12/11 16:36:40.06 .net
>>90
そりゃ仏門は嫌だと思いますよ。経済的に許されるのなら宮家を創設して
欲しいだろうし、摂家や清華家に養子の口があれば行きたいでしょう。
瀬川淑子著の「皇女品宮の日常生活」の中の兄弟たちの項で、
弟の青蓮院宮尊証法親王について下記のような記述があります。
「青蓮院が仏門にありながら修行をおろそかにしたり、
独身禁欲生活を続ける中に偏屈になり、
人を寄せ付けなくなったことは想像できる」
結局体調の悪い青蓮院宮は、厠に行った後手水鉢石の上に落ちて胸を打ち、
吐血気絶し、介抱の甲斐もなく遷化してしまいます。
しかも、側近は不在で落下の次第は誰も知らないと言うんだから、
淋しいですね。

98:日本@名無史さん
12/12/11 17:10:06.11 .net
>>93
「官職要解」によると、関白を辞してから、その子が関白になった時の称号で、
「小右記」などにも書かれてあるとの事。藤原道長→頼通、豊臣秀吉→秀次がその例で、
つまり、間に何人かおくのではなく、直接関白を子弟に譲った前関白が太閤なんだろうね。
しかし、摂政はどうか?摂政から関白、関白から摂政、摂政から摂政なんかの場合はどう?

99:日本@名無史さん
12/12/12 18:24:31.58 .net
へぇー!そういう区別があったんだ。関白経験者の元関白を総称して太閤というと思って、
いました。>>97さんがおっしゃるように前・元摂政は、どうなんでしょうね。
摂関は、道長子孫の藤原御堂流が回り持ちしたり、同一人物が摂政→関白、関白→摂政になったりで、
区別する実益もあまりないと思われますが。

100:日本@名無史さん
12/12/12 19:09:58.41 .net
小右記の頃だと実例は藤原道長→頼通だけか。
まあ兼家が2ヶ月ほど道隆に譲って生きてたみたいだけど。

101:日本@名無史さん
12/12/12 20:41:07.61 .net
禅閤も敬称は殿下なのだろうか?

102:日本@名無史さん
12/12/12 21:19:09.94 .net
一部既出ですが、まとめますと。
太閤;手元の辞典山川『日本史小辞典』などでは、
もともと、摂政・太政大臣の敬称。
前摂政や現任の関白のほか、関白の職を子に譲った者、関白を辞して”内覧”の宣旨を受けた者。
という説明がありますね。

103:日本@名無史さん
12/12/12 21:21:35.73 .net
>>100
禅閤の正式名は「禅定太閤」だから、殿下(てんが)でいいんじゃないですか。

104:日本@名無史さん
12/12/12 21:42:04.11 .net
>>102
それでは太閤だらけで値打ちがないでしょう。
道長から近衛基実、九条兼実あたりまでは摂関は一、二系統なので、
太閤にあたる者も多かったが、五摂家分立の後は子に譲るのは難しくなりましたね。
幕末に34年間に渡り関白として実権を握り続けた鷹司政通は、安政3年8月に関白を辞した時、
長期の関白在職の功により、特別に太閤の称号を許されている。
これを見てもやはり太閤と言うのは特別のものであった事がわかるでしょう。

105:日本@名無史さん
12/12/15 22:31:17.77 .net
黄門って�


106:�納言の唐名だよね! 徳川(水戸)光圀以外に○○黄門って呼ばれていた公家(武家でも可)とかいるの?



107:日本@名無史さん
12/12/15 23:02:13.37 .net
いる

108:日本@名無史さん
12/12/15 23:58:46.08 .net
誰?

109:日本@名無史さん
12/12/16 00:43:08.59 .net
肛門痔瘻

110:日本@名無史さん
12/12/16 00:45:27.36 .net
>>107


111:日本@名無史さん
12/12/16 06:28:57.82 .net
藤黄門とか源黄門とかで検索すりゃ出てくるし
中納言以上を極官にしてる家の家名+黄門でもいくらでも出てくる。四条黄門とか。

112:日本@名無史さん
12/12/16 10:54:40.23 .net
中納言は任官者が多いから、氏、家名等で特定したわけだが、それが後代でも特定人を指すとなると、光國以外にあるんだろうか。
似たような例は、お大師様かな。空海以外にも大師号を受けた僧は多いが断らねば空海のことになる。

113:日本@名無史さん
12/12/16 12:06:10.34 .net
>氏、家名等で特定したわけだが

それより兼官でしょ。ある場合だけど

114:日本@名無史さん
12/12/16 12:20:43.07 .net
>>110
質問者ですが、110さんの背景を感じて質問しました。
中納言の水戸藩主は他にもいるけど、水戸黄門≒徳川光圀ですよね。
特定人だと光圀だけのような・・。

それと太閤も他にいるけど、ほぼ豊臣秀吉ですよね。 

115:日本@名無史さん
12/12/16 14:21:21.64 .net
講談の影響だろうな。
そもそも光圀は藩主を退き、隠居した後で権中納言を贈られている。

吉良上野介とか大岡越前みたいに諱で呼ばないのは、
史実云々よりもおもしろおかしく、なんだろう。

116:日本@名無史さん
12/12/16 20:50:40.98 .net
「地下の公卿」という言葉を見たことがあります。
公卿(三位以上・参議以上)であって、殿上人ではあらず、という意味だと思いますが。
こういうことは、時代的にはいつ頃からなのでしょうか?

自分が調べた範囲では、少なくとも平安時代はこういうことはなかったと理解しています。

117:日本@名無史さん
12/12/16 21:01:29.07 .net
>>114補足
政治的・個人的理由で昇殿を許されない者、を除きます。

118:日本@名無史さん
12/12/17 08:49:42.15 .net
今って官位を得るの難しいよね?

最低でも国会議員で何回か当選しなければならないし…

119:日本@名無史さん
12/12/17 09:38:26.81 .net
叙位は、戦後は死者だけ。
勲章も、文化勲章を除けば、生存者は70歳以上がデフォ。
褒章は、若くても貰えるがね。

120:日本@名無史さん
12/12/18 08:44:46.83 .net
>>114 三位以上の公卿ならほぼ殿上人だろ!

>>115の例外はあるけど。
ただし、六位でも蔵人なら例外的に昇殿が許される。

121:日本@名無史さん
12/12/18 14:09:41.72 .net
人間国宝って、現在官位貰ってる人より上かな

122:日本@名無史さん
12/12/18 15:08:36.64 .net
>>119
人間国宝って伝統文化の技術が一流で生きてる文化財って意味だからなあ

官位や勲章はまだまだ皇族と政治家が中心

受けている層が違う

123:日本@名無史さん
12/12/18 20:57:40.78 .net
戦後は、叙位は、死者が対象だから、生存者で官位を持ってる人は少ないし、若いときに貰ってるから高位者は希。
生存者叙勲は、成人や結婚と同時に貰える皇族を除けば、原則70歳以上。ただし、文化勲章は、業績次第なので若くても貰えることがある。
人間国宝は、若いと50代、普通は、60代かな。
伝統芸能だと、芸術院会員→人間国宝→文化功労者→文化勲章→瑞宝大綬章の順序でもらっていくが、文化功労者以上は大変だな。

124:日本@名無史さん
12/12/18 23:55:29.52 .net
>>121
伝統芸能の人間国宝あたりではで旧勳一等は貰えないだろう。
調べた訳ではないので、間違っていたら謝るが。
まぁ、文勲自体が勲一と勲二の間と言われているから、
かなりの


125:ステータスであり、ある意味大臣をやっただけという 下らない政治家の勲一よりかは、全然値打ちがあると思う。 それと、芸術院会員→人間国宝のルートは一定していない。 文化功労者も昔は上がりのポストだったが、最近は文化勲章への ステップになる事が多くなって来たな。



126:日本@名無史さん
12/12/19 00:41:57.02 .net
なんと言っても近代以後の官(軍)界の満点パパと言えば山県有朋でしょうな。

従一位 大勲位菊花章頸飾
公爵  総理大臣 枢密院議長
功一級金鵄勲章 元帥陸軍大将 陸軍大臣 参謀総長

これでは勲章の重みで歩けない!
でも山県の爺さん庭作りの他何か功績があったのかなぁ・・・?

127:日本@名無史さん
12/12/19 01:07:06.75 .net
>>121
人間国宝って、順序的には低いんだなぁ

128:日本@名無史さん
12/12/19 06:21:08.51 .net
文化勲章は、かつては、宮中で、天皇陛下臨席のもとで、総理大臣が伝達していたのだが(旧勲二等は宮中で陛下の臨席なしに総理が伝達)、今は、親授式に格上げされ、勲1等に近い扱いになっている。
中村歌衛門が、文化勲章と勲1等瑞宝章を生前にもらっている。
尾上松緑は、生前文勲、勲1等追贈

129:日本@名無史さん
12/12/19 09:47:41.24 .net
六世歌右衛門勲1の瑞貰ってるね。失礼しました。

130:日本@名無史さん
12/12/19 09:59:48.90 .net
>>124
国宝という言葉に驚くが、人間国宝はあくまでも俗称で、
重要無形文化財保持者が正しい。
つまり、伝統芸能や伝統工芸の技を伝える者を顕彰するもので、
いわば、優れた職人さんというところ。

131:日本@名無史さん
12/12/19 20:21:06.42 .net
文化勲章と言えば、ノーベル賞が決定してから慌てて文化勲章を授与する
ケースが度々あるが、あれは何とかならないものだろうか。
ノーベル賞が長い選考期間を経ていると言う事は、その分野においては、
その人の業績は世界的に知られているはずで、当然文化勲章の受章対象に
なっていなければいけないと思う。
田中耕一さんなんか、受賞の発表の時、皆誰れ?と驚いたと思うが、
ノーベル財団は長年に渡ってちゃんと、その功績を認めていたんだろう。
山中伸弥さんもそうだ。ここ何年かは、今年こそノーベル賞だと話題になっていたのに、
文化勲章は結局ノーベル賞を受賞した後。そんなに文化に寄与していないのか?
湯川秀樹が昭和18年に文化勲章を受章した時は明治40年生まれの36歳。
同時に受賞したあと6人のうち、3人が江戸時代生まれである事を思えば、
いかに早くその業績が認められていたか。ノーベル賞は6年後の昭和24年の受賞。
森英恵や森繁久弥や森光子や桂米朝(個人的には大ファンではある)に与えるなら、
もっと科学者に与えればどうなのかなと思ってしまう。

132:日本@名無史さん
12/12/19 21:01:19.59 .net
最先端科学に対する知識がないんだよ。
科学者を選考に含めると、今度は学閥とか個人的な関係とか出てきて公平にならんし。

133:日本@名無史さん
12/12/19 21:49:57.30 .net
文勲は現在、勲1等なみに天皇の勲章親授式になっている。
昭和23年に天皇臨席のもと、首相から伝達を受けるようになったが、
それ以前は、賞勲局で賞勲局総裁や、首相官邸で首相から伝達した事もあった。
文勲の気品ある美しさは抜群だと思うが、綬は首から掛けて胸に垂らす中綬。
つまり、勲3等並みだ。制定当初はその程度の扱いだったのかも知れない。

134:日本@名無史さん
12/12/20 09:48:45.26 .net
現代の話は板違い

135:日本@名無史さん
12/12/20 11:03:08.17 .net
スレ鯛嫁↑

136:日本@名無史さん
12/12/20 13:36:18.48 .net
>>132
おまえ、バカか?
板違いなスレを立てたのか?

137:日本@名無史さん
12/12/20 13:57:25.89 .net
日本史の推移として現代の話するのはいいんでないの?
ローカル読んでも特に近代史の話するなら日本近代史板行けとも書いてないし

138:日本@名無史さん
12/12/20 15:31:38.73 .net
現在も勲位制度が続いているんだから、現代を含んでもいいじゃん。

139:日本@名無史さん
12/12/21 17:57:05.59 .net
どんな場合でも、位階と官職って一対になってるのかな?
位階が苗字で官職が名前みたいなもの?

140:日本@名無史さん
12/12/21 18:42:14.70 .net
そんなことはない。
位階だけの人もいるし官職だけの人もいる。
位階だけの人は隠居じじいや散位、官職だけの人は舎人や使部といった官位相当のない下級官人。

141:日本@名無史さん
12/12/21 21:42:52.95 .net
>>136
鎌倉初期、頼朝の家人として九州に派遣され、
鎮西奉行並びに北九州諸国の守護に補任された武藤氏が、朝廷の官職・大宰少弐に任命されたことから、
後に少弐氏を名乗るようになります。官職が苗字になりました。
大宰帥は、大宰府の長官。権帥は長官代理。大宰大弐は次官、大宰少弐は次官補に当たります。

142:日本@名無史さん
12/12/22 15:18:52.05 .net
>>138
大宰府官僚の実質職務について一言。
平安時代初期ごろから、帥は親王が任じられるようになり、親王は遙任のため
臣下の権帥が政務を見たが、のち臣下の権帥は親王帥が欠員の時に置かれるようになった。
従って、親王帥の時には大弐が長官となり帥と呼ばれ、権帥の時には大弐は置かず、
少弐が次官となって政務を見た。この様に帥を大弐と呼んだり、大弐を帥と呼んだりと、
二つの職は同じ職の様になってしまった。
また保安年間ごろより権帥と大弐が、長承年間より少弐も遙任となり、在京のままとなった。

143:日本@名無史さん
12/12/22 23:51:51.75 .net
少弐も遥任だったんですね!勉強になりました。

144:日本@名無史さん
12/12/23 19:45:03.27 .net
>>138 >>139
あっ補足質問
大宰少弐が遥任でしたら、現地任用の在庁官人トップは、大宰大監でいいでしょうか?
平清盛の時代に、確か原田種直が任用されていたような。

145:日本@名無史さん
12/12/24 15:46:55.54 .net
>>141
その通りで、監・典に実権が移り、府の機構も政所や公文所などに分課していき、
政所の官人は監・典らの独占となります。
在地豪族として土着した大蔵氏、藤原氏、平氏などは府官と呼ばれ、少弐を輩出します。
のち平清盛の弟頼盛が大弐の時、大蔵氏出身の府官原田種直を養和元年に少弐とします。
鎌倉時代になると、天野遠景のあと武藤資頼が鎮西奉行となり大宰府と共存しましたが、
嘉禄2年に資頼が太宰少弐に任じられ、一体化した武藤氏は少弐を世襲し、
ついには少弐氏を称するに至りました。

146:日本@名無史さん
12/12/24 20:17:23.84 .net
大輔ってなんだよ、小説とか歴史漫画とかでだい「ふ」・「ひつ」・「ゆう」とか
書く人によって読み方まちまちじゃないのさ…
名前で使うまま「だいすけ」は、さすがにないようだけど

147:日本@名無史さん
12/12/26 00:31:01.43 .net
>>142さん
回答と詳しい解説ありがとうございました。

148:日本@名無史さん
12/12/26 23:14:57.23 .net
>>143
大輔は大輔だろう、読み方は「だいすけ」でいいんだよ。
四等官は上から「かみ・すけ・じょう・さかん」だ。
輔は大も少も八省の次官だから「すけ」。即ち「だいすけ」だ。
あんたも自信を持って「だいすけ」と信じてりゃいいんじゃない。

149:日本@名無史さん
12/12/27 00:06:06.28 .net
大輔 たいふ/おほいすけ
少輔 しょうふ(しょう)/すないすけ
じゃないのか

150:日本@名無史さん
12/12/27 23:06:49.66 .net
関白補任詔書
詔、以庸質當金鏡、妥政績於通三、以愚昧受瑤圖、増徳耀於明一、
夢不見良弼、誰能諫言、内大臣藤原朝臣、名翼翔朝、威霆驚世、
固禁闕之藩&amp;#23643;、忠信無私、居藤門之棟梁、奇才惟異、夫萬機巨細、
百官惣己、皆先關白、然後奏下、一如舊典、庶歸五風十雨之舊日、
專聽一天四海之艾寧、布告遐邇、俾知朕意、主者施行、
天正十三年七月十一日

151:日本@名無史さん
12/12/27 23:10:43.63 .net
&amp;#23643=屏

152:日本@名無史さん
12/12/31 17:05:17.76 .net
>>281
>織田信長を最初に織田って略するか?
>わからんだろ現代人には

略しません。
現代では織田右府か平右府と言えば、織田信長と連想されます。

153:日本@名無史さん
13/01/05 10:50:44.34 .net
内閣が太政官だとしたら各省大臣は卿と言うより弁官兼卿って感じかな

154:日本@名無史さん
13/01/05 11:45:02.88 .net
参議兼卿じゃないかな。閣議が陣定に相当するだろうし、明治初期がそうだった。
太政官制の欠点は、実務を行う官庁のトップの卿が最高政策決定機関のメンバーではなかったこと。
太政管制を維持してその欠点を補うためには、議政官に卿を兼任させるしかない。建武政権でも試みられたはず。
ちなみに、中国も、最高意思決定機関の政治局常務委員会に官庁トップが入っていないから、政策決定が不味い。

155:日本@名無史さん
13/01/06 20:35:13.48 .net
特定の業務を執行するときは、
公卿の中から上卿といって臨時長官をもって充てていましたね。

中国(共産党)が出たついでに、
旧ソ連(共産党)なんかは、政治局員会議が最高決定機関でした。
メンバーにはそれなりに各分野の専門家がまんべんなく配置されていました。
例えば農業とかは、後に書記長になるゴルバチョフが農業担当の書記(日本でいえば農水大臣)の資格で参加していましたね。

156:日本@名無史さん
13/01/06 21:17:58.39 .net
親王って官位はないんですか?
親王同士の上下関係はどう決めてたんですか?

157:日本@名無史さん
13/01/06 21:34:15.21 .net
>>153
親王と内親王は品位(臣下・諸王でいう位階)があり、上から一品、二品、三品、四品、無品(無位)の位があった。

158:日本@名無史さん
13/01/06 21:52:23.30 .net
>>154
身内用の位があったということですね。

ありがとうございました。

159:日本@名無史さん
13/01/07 04:43:07.72 .net
後々には皇族以外でも四品少将などど品位を名乗るようになったね。

160:日本@名無史さん
13/01/07 11:41:45.42 .net
それは、秀吉が豊臣や羽柴姓を与えたりしたのと同じようなことかな

161:日本@名無史さん
13/01/07 21:51:10.52 .net
>>156
臣下で「品」を使うのは唐風に言ったもので、黄門と同じかと。
正式には「位」です。

162:日本@名無史さん
13/01/07 22:16:47.72 .net
「伊織」「数馬」「左門」「右門」など武士の幼名に使われるこれらの官職風の呼称は、
平将門が定めた偽官で、何とか百官と言ったと思うのですが、
ご存知の方があれば教えて下さい。

163:日本@名無史さん
13/01/08 05:47:40.67 .net
東百官かね

164:日本@名無史さん
13/01/08 11:15:28.30 .net
>>160
そう、東百官でした。有難うございました。

165:日本@名無史さん
13/01/19 20:42:25.77 .net
>>151-152
中国がらみの話題が出たので、スレ違いと思いつつ質問。
よく報道なんかで、中国では部署のトップや代表として副○○での肩書きで
コメントが出されたりするけど、その部署の正式なトップはどうなってるんだ?
副○○が一番エライってのも変な話だし…

166:日本@名無史さん
13/01/19 22:51:42.71 .net
副部長であれば、日本で言う副大臣、次官だね。

167:日本@名無史さん
13/01/20 13:11:09.17 .net
今の中国の部ってやっぱり三省六部から来てるのかな

168:日本@名無史さん
13/01/21 05:04:06.30 .net
>>107を審議中】

    ∧,,∧  ∧,,∧ なんてたってウッシッシ
 ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` ) 大橋巨泉?
| U (  ´・) (・`  ) と ノ
 u-u (l    ) (   ノu-u
     `u-u'. `u-u'
   たぶん・・・  うむ・・・・・

169:日本@名無史さん
13/01/21 22:26:26.09 .net
>>162
具体的にどこの組織なのか分からんけど
例えば人民解放軍の最高指揮官は習近平だけど、こいつは政治家。
制服のトップは副主席になる。
そういう関係なんじゃね?
組織のトップは中央委員会からの派遣で実質的に組織を代表するのは副○○になると。

170:日本@名無史さん
13/01/22 21:27:32.53 .net
>>162
確か、尖閣での海保の船との衝突事件で、那覇地検の対応は「副」がしていたので、
対外広報などは「副」の所掌かもしれない。

>>151
現在の内閣も
各省大臣:参議兼省卿
無任所大臣(特命担当大臣など):参議
副大臣:大輔
政務官:少輔

と理解したほうが早い。
副大臣は省卿との代理として、各省大臣の代理はできるが
(式典に大臣代理として出席したり、大臣決裁の代決はできる)
各省大臣(参議)の代理として閣議の出席権はない。
(他の大臣が事務代理に任命されて、閣議に出席する。
 副大臣が大臣代理として閣議に出席するわけではない。)

171:日本@名無史さん
13/01/22 22:13:52.92 .net
内閣:太政官
内閣官房:弁官局
総務省:民部省
法務省:刑部省
外務省:治部省
財務省:大蔵省
防衛省:兵部省
人事院:式部省
宮内庁:宮内省
国家公安委員会:弾正台

衆議院:内記局
参議院:外記局

ところどころ苦しいがまあ大目に見て内閣を太政官風にするとこんなところかな

172:日本@名無史さん
13/01/23 23:03:37.27 .net
>>167
そういえば、民主党内閣時代、
松原副大臣を、拉致担当の副大臣にしようとしたら、

副大臣については、府省をまたぐ所掌割り当てはできない
(副大臣は府省の副大臣であって、内閣の副大臣ではない)
と異論がでたこともあった。

大臣の「○○担当」は国務大臣(参議)としての割り当て
(例:「総務大臣、拉致問題港担当」といった場合、
 「拉致問題担当」の部分は、首相の一存で割り振ることも可能
 つまり、「法務大臣、拉致問題担当」や専任の「拉致担当大臣」も可能)
なので、首相の判断による。

173:日本@名無史さん
13/01/24 08:31:02.41 .net
いくら寛容なスレでも、いつまでもスレチな話題を続けていいことにはならねえよ

174:日本@名無史さん
13/01/25 01:13:01.89 .net
この間 あるお茶の先生(60代前半の女性)に これは中納言相当の格式ですよ って話したら全く分からない様子だった

お茶の先生にも色々居るだろうが 知識が無さすぎだなって感じたわ

175:日本@名無史さん
13/01/25 21:42:40.56 .net
親の葬儀のときに寺の坊主や葬儀屋が基本的な手紙の作法も知らないことに驚いた俺からみれば










お茶の先生とやらに幻想もち杉

176:日本@名無史さん
13/01/26 00:15:16.58 .net
お茶のことはわからないけど官位ごとにお茶の格式って分かれてるものなの?

177:日本@名無史さん
13/01/27 14:15:02.90 .net
>>171
「何で>>171は伊勢海老屋の話してんの?」って思われたのかもよw

178:日本@名無史さん
13/01/27 17:53:39.26 .net
中納言なんて言われても普通の人は水戸黄門くらいしか思い浮かばない。
茶道といっても律令制の中で育まれてきた文化ではないんだから
官制での格式は後付けなもんであって知らなきゃおかしもんじゃないだろ。

179:日本@名無史さん
13/01/31 23:42:30.60 .net
江戸時代の公家の給料って天皇の領地から出てたんですか?
1番高い官位の人でいくらぐらい貰ってたんですか?

180:日本@名無史さん
13/02/01 00:32:43.05 .net
>>176
公家も所領を持ってて大体平均数百石くらいあったようです。
下級の旗本か上級の御家人程度。

摂家の近衛家で1800石で中級の旗本程度。

摂家とか上位の公家はともかく、大多数の公家は
生活できなかったので和歌や雅楽などの家元やったり
畑仕事をして生計を立てていたとか

181:日本@名無史さん
13/02/01 01:16:55.16 .net
>>177
格式も保たねばならないし大変そうですね。

詳しいご説明ありがとうございました。

182:日本@名無史さん
13/02/01 04:39:03.03 .net
近衛家などは所領に伊丹の酒所があったから実高は1万石を超えると言われた
けどね。それに五摂家ともなると縁戚の諸大名かrなおお手伝いもあるし。

183:日本@名無史さん
13/02/01 05:17:35.77 .net
中下級でも800石~1200石ある家は何とかなったと思うけど
それ以外は蹴鞠や雅楽、生け花など家業のある家は金のある地下人(商人とか)相手に○○教室のようなもの開いて
教える代わりにそれなりのお金を貰ってそれを家計の足しにしたりした。
他には家の伝統である味噌とかを売りにして八百屋経営したり、鞭の製造やったりしている家もあった。

一番悲惨なのは位階はそこそこ高いけど、仕事も回ってこない、家業もない家

184:日本@名無史さん
13/02/01 12:50:52.05 .net
「幕末公家集成」新人物往来社を見ると、
例えば、地下官人の官務(左大史)の壬生(小槻)輔世は
正四位上の位階で知行石高100石。
その中身は、山城国葛野郡小溝村で50石。
同国同郡郡村で50石と記載している。

185:日本@名無史さん
13/02/01 14:25:11.20 .net
猶子に対して、親の方はなんというのですか?
養子に対しては、養父なり養母という言葉がありますが、それに相当するものです。

186:日本@名無史さん
13/02/01 17:12:10.15 .net
近衛家は別格。ほんの一部を纏めてみると、元和元年の朱印状では1797石余であったが、
寛文元年に宇治万福寺の創建に伴う領地交換があり、この時初めて伊丹を得た。
この伊丹領1402石3斗がその後の近衛家の経済力を大きく飛躍させる事になったが、
ただ、先祖からの領地であった岡屋の地を再び家領とすべく、延宝3年
伊丹領の内から378石を交換してもらったりしている。
この間には近衛基煕夫人の父である後水尾帝の崩御に伴い、修学院村の内から
300石を贈与されたりしたが、正徳元年に幕府から一挙に1000石の加増を受けた。
この時は京都所司代松平紀伊守がわざわざ近衛邸まで伝達のため参上している。
これは基煕の娘の煕子が6代将軍家宣の御台所であった事が大きな力になったと思われる。
これで近衛家の家領は2794石(多少の増減があったため)になり公家中最高になったが、
伊丹から酒造の運上金や菜種油200石を受けていたのをはじめ、天英院(煕子)や
島津家など大名からの献金などがあり、その経済力は桁外れだった。
近衛家は諸太夫以下100人近い使用人がいたが、宝暦3年家来を手打ちにすると言う
事件を起こした桑原長視は30石御蔵米の堂上公家で、その家には手打ちにされた雑掌の
重野右兵衛の他には青侍、妾、下男がそれぞれ一人と言う少なさである。
近衛家の諸太夫筆頭進藤家は130石であった事を思えば、同じ堂上公家とは思えない。

187:日本@名無史さん
13/02/01 18:02:41.42 .net
そんな鼻くそみたいな蔵米取りでも子爵さまだものなあ~。

188:日本@名無史さん
13/02/01 20:24:01.24 .net
まあ近衛家に比べると、30石御蔵米の貧乏堂上など、虫けら同然だね。
昭和天皇の名侍従長だった入江相政の随想によると、紙を詰めた財布を
わざと人前で落として見得を張る公家や、日光例幣使に支給される
支度金を浮かせて、生活に回す公家などが描かれている。
もっと酷い公家になると「放火するぞ」と商家を脅して金を強請る行為に
及んだと言い、30石御蔵米公家の子孫である入江相政の話だけに真実味がある。
尚、入江家は冷泉家の分家である藤谷為条の次男相尚が興した家。

189:日本@名無史さん
13/02/01 21:02:06.23 .net
伊丹は、8万石の米を使って酒造りをしていたから、そこからの運上金は、莫大だったろう。
近衛家も伊丹の酒の京都進出に手を貸していたようだ。

190:日本@名無史さん
13/02/01 22:38:39.03 .net
近衛家に対する伊丹の酒造の運上金は元禄10年12月20日が初めてで800両が献金されている。
天明8年のどんぐり火事と呼ばれる京都の大火で類焼した時には、新邸再建にあたり、
酒造業者に対して2000両の御用金を用立てるように命じている。
伊丹で採れる菜種総計800石から作る200石の油も近衛家に納入するように命じているが、
200石の油を文久3年の価格で換算すると2400両にもなる。
この他にも伊丹からは数々の冥加金が近衛家に献金されている。まさに伊丹は金の成る木だった。

191:日本@名無史さん
13/02/01 23:36:20.30 .net
まあそうやって儲けた金で貧乏公家も多少は潤うんだよね。

192:日本@名無史さん
13/02/02 10:06:33.38 .net
桑原宮内権大輔長視の家来殺人事件。

宝暦3年(1753)5月3日の夜、屋敷に犬が入りこんだため、主人の長視は下男と共に、
午後10時頃これを追い出した。
しかし雑掌の重野右兵衛は部屋で休んでおり、この騒ぎにも出てこなかった。
このため長視は重野を咎めたが、重野はこれに反発、二人は口論に及び、午前2時頃まで続いた。
やがて重野が自分の刀掛けから刀を取った事から、互いに奪い合いとなり、
ついに長視が重野の腋腹を突き刺して殺害してしまった。
殺された重野右兵衛は7、8年前に桑原家に雇われた者で、請け人もなく、身寄りもない者だった。
京都所司代は、手打ちの件は止む得ないとし、摂政一条道香は桑原長視に対して、
今後の慎みの処分を厳命して、事件は落着している。

193:日本@名無史さん
13/02/02 18:30:02.34 .net
>事件を起こした桑原長視は30石御蔵米の堂上公家で、その家には手打ちにされた雑掌の
>重野右兵衛の他には青侍、妾、下男がそれぞれ一人と言う少なさである。
むしろよくその石高でそんなに人数が居たなあと思ってしまう。
この場合の30石って、同心並ってこと?
そこがよくわからない。

194:日本@名無史さん
13/02/02 18:54:16.25 .net
蔵米取りの堤家の家臣・使用人は文久年間で雑掌・用人・近習以下、下女まで15人ほどが
いたらしい。

195:日本@名無史さん
13/02/02 20:36:57.60 .net
>>190
桑原家の家禄は御蔵米30石3人扶で、総て幕府に二条のお蔵から支給される。
1人扶持は、1日2食×2合5勺の1年分なので、約1石8斗程度だろうか。
これの3人分で、合計年間5石4斗。30石と合わせて総計約33石4斗が入る。
そして、これはまるまる現米の支給のため、知行取りなら平均5公5民として計算すれば、
66石8斗程度の領地を持っているのと同じだ。
諸藩の中には10石以下の侍が数多くいた事を思えば、やって行けたとは思うが、
困窮していた事は確かだ。
江戸中期以後には、30石公家達から何度も窮状が訴えられ、拝借金願いを出している。
しかし、いつも武家伝奏や、たまたま届いても京都所司代に却下されたりと
願いは聞き入られていない。
困窮の酷い27家の少禄公家にとって、自分達の期待に応えず、幕府の意向に従うだけの
摂関や武家伝奏に対して大きな不信感を抱くようになり、風紀の乱れや、
上下関係の紊乱に繋がって行く。

196:日本@名無史さん
13/02/02 20:50:43.31 .net
>>192
微妙に計算がおかしいんじゃね?
正解は総計約35石4斗で知行取り換算で約65石4斗じゃなかろうか。
一般的な幕府換算だと3割5分だから100石取りと同じくらい。
単純に生活するだけなら家族以外に3人くらいは養える金額だけど
公家としての体面を考えると非常に厳しいな。

197:日本@名無史さん
13/02/02 21:06:58.81 .net
公家の体面の維持か・・・。具体的には、
格式に応じた門構え築地塀付の屋敷、参内・院参の際の装束と伴揃え、
法要事、家臣使用人の召抱えなどかな?

198:日本@名無史さん
13/02/02 21:23:16.25 .net
>>192

武家の場合、知行取り換算で100石なら実収入は40石だけど公家は表示高100%が実収入になるの?
だとしたら蔵米取り?の30石下級公家はともかく、一応知行取りの上級公家も表示石高=収入?

199:日本@名無史さん
13/02/02 21:55:29.88 .net
>>195
知行じゃなくて蔵米で30石だから、実収じゃないのかな。
武家の知行取なら、一俵三斗五升換算で86石弱。

200:日本@名無史さん
13/02/02 22:19:24.79 .net
蔵米って俵計算じゃね?
蔵米30石武士はだいたい30俵って聞いたが公家は違うのか?

201:日本@名無史さん
13/02/02 22:35:53.84 .net
>>197
それは、知行30石と蔵米30俵が同等という話じゃないかな。
蔵米30俵なら当然収入も30俵だけど、この場合は蔵米で
30石という話らしいから。

202:日本@名無史さん
13/02/02 23:58:40.31 .net
>>193
失礼、ご指摘の通り35石4斗でした。

堂上公家は、30石3人扶持の場合は現米支給で、後の石取りは領地拝領だ。
領地の場合、年貢として取れるのは出来高のうち40~50%だが、
近衛家の伊丹領のように、特産品があれば、運上金を命じたり、
現物を納めさせたり、また労働力を徴発したりも出来る。
豊作・凶作に左右される収入は、蔵米に比べ不安定だが、
領主権を行使出来るという意味は大きいと言わざるを得ない。
近世大名が家臣に対し、知行制から蔵米制に移行させ、農民との関係を絶ち、
領主権を確立させて行ったのも同じ事。

石と俵の話が出ているが、1石は2俵半。1俵は4斗だったと思う。

203:日本@名無史さん
13/02/03 14:19:30.86 .net
結局30石公卿ってのは、知行最低クラスの100石取と
計算上は同程度ってことで良いのかな?

204:日本@名無史さん
13/02/03 14:54:08.13 .net
岩倉家みたいに、京都町奉行に対する治外法権をいいことに、賭場経営をする奴までいたようだな。
まあ、所司代は、賭博なんかで乗り込んでは来ないし。

205:日本@名無史さん
13/02/03 22:02:57.26 .net
幕臣最下層の30俵の八丁堀同心より稼いでいるなんて下級公家って侮れないなw

206:日本@名無史さん
13/02/03 22:08:02.53 .net
いや同心は実収入いいだろ。
拝領屋敷は広いし町方と付き合いが多いから副収入が非常に多い。

207:日本@名無史さん
13/02/03 23:00:42.73 .net
1石が2俵半だから30俵だと12石か。
ちょっと乱暴だけど1石=1両=5万円換算でいくと
町方同心の年収が60万ほどってところか、副収入ないと食っていけんな。
同じ勘定の仕方で貧乏公家30石が12石の2.5倍だから、年収150万・・・
こちらも賭場でも開帳せんとやっていけんなw

208:日本@名無史さん
13/02/03 23:22:38.62 .net
摂関以外の官職はタダ働きのお飾り職
副職ないとやっていけん

209:日本@名無史さん
13/02/04 16:49:29.08 .net
公家の困窮は、超ラッキーな近衛家など別にして、摂家や宮家にまで及んでいた。
閑院宮の最初の領地は日置、灰方、質美の3ヶ村だったが、質美村は耕作に向かない荒地が多く、
灰方村は直接支配をしょうとした宮家に対して「御断書」なるものをて提出し、拒否している。
宮家もこの2ヶ村には手を焼いていたが、のち領地替えが認められたようで、支配村が変わっている。

摂家の九条家も歴代当主の若死にが続き、家運が上向かず、宝暦頃にはかなり困窮していた。
宝暦6年には、寛文印知で認められた2043石を差出して、2万両の拝借金を願い出ている。
これは3回目の願いだったが、また認められなかった。
すでに九条家では、伝来の什器などが質入されており、これが流れては体面にも関わり、
右大臣尚実や右大将道前の朝参や外の勤めに差し支えが出る危険性があった。
この様に早くも宝暦頃には、公家の財政窮乏は少禄の下級公家のみならず、
摂家などの上級公家にまで及んでいた。

210:日本@名無史さん
13/02/04 17:17:25.91 .net
新家で家業がない清華家の広幡家と醍醐家を含め羽林家・名家・半家はもっと悲惨な状況だったわけか…

211:日本@名無史さん
13/02/05 07:56:36.56 .net
江戸時代、家業でウハウハだったのは冷泉の歌道、三條西の香道、飛鳥井の蹴鞠、
四条の包丁、山科高倉の衣紋、土御門の陰陽道、錦小路の医道、神官取締りの諸家、
久我の座頭・・ぐらい?

212:日本@名無史さん
13/02/05 23:14:25.07 .net
贈位ってのは原則五位以上なの?
確か遣唐使殉職者で六位があったように思うけど、
単に六位以下だから通常は記録に残さなかっただけ?
対蝦夷戦とかの戦死者あたりだと、六位以下もありそうな気が。

213:日本@名無史さん
13/02/06 00:39:29.80 .net
奈良時代の六位と近世の六位じゃかなり価値が違う気がするが・・・・

214:日本@名無史さん
13/02/06 00:43:17.61 .net
そういや、ときわ台で自殺者助けようとして殉職した警官が正七位贈位されてたな

215:日本@名無史さん
13/02/06 03:17:07.17 .net
>>208
西園寺の琵琶も忘れないで。
公望は琵琶嫌いだったみたいだけど、首相のときに参内したら、明治帝に西園寺の琵琶が聞きたいと所望され、しかたなしに演奏したとか。

216:日本@名無史さん
13/02/06 07:53:37.57 .net
五条家の相撲もあなどりがたい。

217:日本@名無史さん
13/02/06 13:55:06.08 .net
公家好き、美術好きにとって、「天子摂関御影」は何度見ても見飽きない。
藤原為信・豪信親子の見事な似絵による天皇21人、摂関30人、大臣80人の強烈な個性が、
見事に描き分けられ、見る者を楽しませてくれる。
天皇は鳥羽院から後光厳院まで、摂関は法性寺殿藤原忠通から後円光院殿鷹司冬教まで、
大臣は藤原(花山院)家忠から今出川兼季までと、平安末期から南北朝初期にまで至り、
5代前後の世代に及んでいる。
従って、その顔を見ると、まるで絵系図の様に遺伝子の伝わり方まで分かって面白い。
例えば、近衛家。初代の基実は品のある如何にも公家顔だが、その子の基通は低い鼻の穴が、
上を向いて描かれ、醜男だ。そして、この遺伝子はさらに、子の家実、孫の家通に受け継がれ、
家実の子の兼経の子の基平にまで及んでいる。
さらに、兼経の弟の鷹司初代兼平の子である兼忠にも、その顔は伝わっている。
鷹司冬教は、眼鏡を掛ければ、桃屋のCMに出てくる三木のり平のキャラクターそっくりだし、
光源氏は物語の中だけなのか、実際の公卿達はなかなかの曲者揃いの様である。

218:日本@名無史さん
13/02/06 20:45:06.93 .net
こういう肖像画ってみんなふっくらした顔つきで目が細く描かれるけど
昔の公家や武家ってみんなこんな顔つきなの?
それともデフォルメされてるの?

219:日本@名無史さん
13/02/06 21:25:03.48 .net
とりあえず昔でいう美男美女に画いてたんだろうなぁ

小早川秀秋の画なんか本人が見たら激怒すると思う

220:日本@名無史さん
13/02/06 21:45:40.17 .net
>みんなふっくらした顔つきで目が細く描かれるけど
バンコランが光源氏のパタリロ源氏物語の方じゃなくて、
パタリロ本編の外伝でパタリロが光源氏役のやつがあって、
その中で、なんかそんな話が出てたなあ。
栄養に困ってない状況に居ると言う表現上のお約束だとかなんとか。
パタリロは自分みたいな顔が当時の美男だと言うんだけどね。
って、脱線しすぎだね、すいません。

221:日本@名無史さん
13/02/13 23:04:28.54 .net
さっきヒストリアで「和宮は御所から出る機会が少なく、一般の人と接する機械も少ない殿上人だった」
って解説があったですが、この殿上人の使い方ってあってるんですかね?
どうも昇殿を許された身分って文脈じゃなかったんですが

222:日本@名無史さん
13/02/13 23:58:39.91 .net
まあ、身分の高い貴人と言う程度の意味で言ったんでしょう。

223:日本@名無史さん
13/02/14 01:35:21.63 .net
御所にあがるには官位が必要だそうですけど、飼い猫や御殿にいるネズミとかにも官位を与えてたんですか?

224:日本@名無史さん
13/02/14 03:05:28.66 .net
上にさぶらふ御猫は、かうぶりにて、命婦のおとどとて、いみじうをかしければ、かしづかせ給ふが

225:日本@名無史さん
13/02/14 09:35:55.20 .net
>>218
違う。言ってたのは「天皇に仕える人々は一般の人と接する機会も少ない殿上人
だった」 だから大まかOK。

226:日本@名無史さん
13/02/15 15:57:33.61 .net
権中納言兼右衛門�


227:ツ藤原朝臣家通宣 奉 勅以左衛門少尉源朝臣義経 為検非違使者 元暦元年八月六日 大炊頭兼大外記中原朝臣師綱奉



228:日本@名無史さん
13/02/18 10:58:15.07 .net
>>206
その代り、公家は血筋を欲しがる大名たちに重宝されて姻戚関係を結び、
代わりに大名たちから援助してもらってただろ
摂家や宮家の息女はたびたび将軍家や御三家に嫁いだし
島津家は近衛家に、前田家は二条家に、たびたび娘を北政所として入れ、
姻戚関係を結ぶなどしていた

229:日本@名無史さん
13/02/19 23:11:47.47 .net
かなりずれる気もするけど、
臣籍降下って日本以外でもあったの?
なんか中国とかは古代はともかく、
漢以後は、罪があって庶人にされるとかは別として、
臣籍降下ってのは無かったみたいだけど。

230:日本@名無史さん
13/02/20 08:37:17.58 .net
日本史板で逸脱しすぎ

231:日本@名無史さん
13/02/20 19:50:36.92 .net
そもそも日本以外に厳密な意味での皇籍の管理があった国ってあるの?
中国で臣籍降下がないってのは皇統から離れれば自然とただの人になるってだけでしょ。

232:日本@名無史さん
13/02/20 20:24:15.50 .net
外国の王家の臣籍降下の定義がさまざまで何ともいえん。

233:日本@名無史さん
13/02/20 23:50:08.02 .net
通称として正式に任官されたわけではない百官名を苗字と本姓や諱の間につけることがありますが、
①正式に朝廷から任官された、または授けられた官職も苗字と本姓や諱の間につけることはあったのでしょうか。
②このような慣習は武士だけでなく公家にも見られたのでしょうか。
③このような慣習はいつ頃から見られるようになったのでしょうか。

234:日本@名無史さん
13/02/24 21:44:07.51 .net
>>228
完璧に王位継承権が無くなる身分じゃね?
中国朝鮮でも時代によって違うがw

235:日本@名無史さん
13/02/24 22:29:04.65 .net
>>230
それって英国だとありえないし。
外国の平民が英国王位継承権持ってることも理論上ありうるはず。
日本の臣籍降下とも違う。
日本の場合も例は少ないけど臣籍にあった者が天皇になったことがある。

236:日本@名無史さん
13/03/04 16:58:54.20 .net
保守

237:日本@名無史さん
13/03/04 17:08:51.30 .net
 

238:日本@名無史さん
13/03/09 19:15:52.82 .net
佐村河内守
URLリンク(ja.wikipedia.org)

佐村河内 守(さむらごうち まもる、1963年9月21日 - )は、広島県出身の作曲家。

239:日本@名無史さん
13/03/09 20:40:23.43 .net


240:日本@名無史さん
13/03/12 23:37:20.43 .net
秀吉が利家に筑前守を与えたのは、家臣の中で一番親しく信頼してたからと思って良いんでしょうか

241:日本@名無史さん
13/04/02 09:24:22.48 .net
もうみんな飽きた?

242:日本@名無史さん
13/04/02 09:54:22.36 .net
すまん このスレの存在忘れてた・・。

243:日本@名無史さん
13/04/02 16:25:48.17 .net
 

244:日本@名無史さん
13/04/03 02:43:15.14 .net
秀吉時代の武家官位バブル期、公家の大臣一人もいなかったらしいけど、摂関家とかどうしてたの?

245:日本@名無史さん
13/04/03 04:13:02.64 .net
近衛家は信尹が左大臣→失脚
九条家は兼孝が元関白、幸家が少将→中将と昇進、秀勝娘と結婚
一条家は内基が元関白、子はなし(後に養子をとる)
二条家は昭実が前関白、子はなし(後に養子をとる)
鷹司家は信房が大納言→大将、信尚が少将→中将と昇進


鷹司信房の出世が遅いくらいかな?
それまで通りなら秀吉時代に大臣になっててもいいはず
大臣以上は摂関家よりなりにくく、昇進スピードは清華家より早いっていう
清華家上位みたいな家格になってたのかな???

246:日本@名無史さん
13/04/03 10:54:43.80 .net
そういう状況で、秀吉が家康を内大臣にしたというのは、秀吉が自分の没後から秀頼成人までのリリーフに家康を指名したということだろうね。

247:日本@名無史さん
13/04/03 12:56:42.28 .net
五大老で見ると中納言メインで80万石の前田が大納言なら徳川は内大臣で妥当じゃない?

248:日本@名無史さん
13/04/03 13:52:51.68 .net
大臣も権官をつくれば解決

249:日本@名無史さん
13/04/03 15:00:37.67 .net
内大臣が権官的ポジションだね。それに准大臣もある。さらに作るのかな?

250:日本@名無史さん
13/04/03 18:07:57.67 .net
>>245
江戸時代、将軍が内大臣にも関わらず、同時期に公家の内大臣とかゴロゴロいたがw

251:日本@名無史さん
13/04/03 21:02:12.66 .net
武家清華はどうやって運用していくつもりだったんだろうか
徳川家以外にも大臣にするつもりがあったのか
小早川隆景が中納言で終わりだからその程度までだったのかね
徳川だけ内大臣まで昇進可能で、他はよくて大納言みたいな?

252:日本@名無史さん
13/04/03 22:52:17.13 .net
それは武家官位が定員外になってからじゃないの?

253:日本@名無史さん
13/04/04 01:00:46.75 .net
おまいらを従五位下兵部少輔に任命する。

254:日本@名無史さん
13/04/04 07:30:01.62 .net
吉良家の従三位、正三位って誰?

255:日本@名無史さん
13/04/04 07:56:44.40 .net
御殿人(みあらかんど)とは神祇官所属の地方豪族のことなのだろうか?
定義がよくわからないです。
公家や官吏とは違うのだろうか。

256:日本@名無史さん
13/04/09 21:27:04.01 .net
江戸期に京都の庶民(といっても豪商)が天皇家に寄付をした見返りに貰えた位はどれぐらいまでなんですか?

257:日本@名無史さん
13/04/10 04:40:11.31 .net
>>252
七位。その外の手としては摂家・清華あたりの諸大夫は無理としても侍として
仕官の形をとり六位をもらうとか。

258:日本@名無史さん
13/04/10 09:41:43.79 .net
地下家伝を見ると、省寮の史生で従六位下に進んだ例はいくつかあったから、
豪商の例も中には有ったかも。
それと史生は金を出してなるばかりではなく、
食い詰めた人が縁を頼ってさせてもらうこともあったらしい。

259:日本@名無史さん
13/04/17 15:38:47.23 .net
どうして近代の軍隊の階級に軍曹があって軍監がないのか

260:日本@名無史さん
13/04/17 19:59:26.71 .net
職として実在したから階級に使いにくかった。

261:日本@名無史さん
13/04/18 23:36:29.72 .net
将は近衛府から、佐と尉は衛門・兵衛府から、軍曹は鎮守府からと、
なぜかばらばら。
尉官は、大中小毅って案も有ったらしい。

262:日本@名無史さん
13/04/25 21:20:00.81 .net
維新前、どういうわけか、最高の位階正一位、最高の官太政大臣、
最高の職摂政、最高の勲位勲一等、これを全部兼ねた人は居ない。
これが日本の特殊性なのだろうか?

263:日本@名無史さん
13/04/26 05:51:00.23 .net
禅譲しかなくなるから

ただ実態は、日本人は権力に対してかなり現実主義者で妥協的であり、かつせっかちだから
帝政初期のローマ皇帝の第一人者と軍の最高司令官と神祗官を兼ねて事実上の皇帝みたいな感じで
実験力さえ握れれば欲張らなかったというか、
既存の支配層に対して目一杯背伸びして競争を勝ち抜いての政権樹立で欲張れなかった。

264:日本@名無史さん
13/04/26 06:01:03.79 .net
天皇→皇族→有力貴族→藤原氏→平家→源氏→北条→
どこの国でも時代が進むにつれ段々と主権と言うものは下降していくものだけど
日本は、地政学上外敵の影響を受けにくく、既存の枠組み内での下降を安定して辿り続けたとも言える。

日本人は、特に実態さえ得れれば後はこだわらなかった。
これが常に権力の逆転を生む要因だったわけだが、
結果これが明治維新に繋がるわけだから日本史始まって以来の各政権の失敗に学んで
世界的に類を見ない完璧な封建制度を作った幕府もここまでは読めなかったか
気づいても徳川の時点で天皇に取って代わることは不可能なんじゃないかと思う

265:日本@名無史さん
13/04/26 08:28:47.13 .net
家康、徳川幕府は、朝廷の権威の潜在的な力を十分に知っていたよ。だから、禁中並公家諸法度を出したし、紫衣事件も起きた。
でも、将軍自身が朝廷から官位官職をもらっているから限界があったんだろう。
特に、最後の将軍は、実母が皇族だしな。

266:日本@名無史さん
13/04/27 18:04:58.66 .net
細川京兆家も変わってるな。
他の2官僚家より元の家格が低いのはしょうがないけど、
実権者になっても四位どまり。

267:日本@名無史さん
13/04/28 08:42:27.55 .net
官位昇進に魅力を感じていなかったということだ。
管領の実利を優先した家系だ。

268:日本@名無史さん
13/04/29 19:58:38.32 .net
室町時代の武家って、官位と家格と権力がそれぞればらばらで、
あまり連動してない感じがする。
あくまでも印象だけど。
それを言ったら後期得宗の位階の低さも不自然だけど。

269:日本@名無史さん
13/04/29 20:52:59.72 .net
例えば、高い石高の大名なのに低い官位の方ってどんな人がいますか?

270:日本@名無史さん
13/04/30 21:45:07.71 .net
>>258
勲等は大宝令のものだと思うが、早くに廃れて実態をなしていないのではないか。
同じく正一位も、男では奈良時代の藤原永手を最後に生前には叙位されなくなっており、
贈位の為用に空位にしたのではと思うが、どんなものだろう。
従って、公卿の最高官位官職は、従一位、摂政(関白)、太政大臣という事になる。
これなら江戸時代にも、近衛家煕や鷹司政通などがいる。

271:日本@名無史さん
13/05/01 15:07:31.06 .net
太政大臣とその後継官の内閣総理大臣の歴代の位階を調べてみた。
時代によってものの見事に相場が決まってて、序々に下がってるな。

1. 大友皇子・高市皇子 皇太子格皇子であり位階外
2. 藤原不比等~ 太政大臣は空席。最有力者死亡時に公諡号・国公号・太政大臣号・正一位を贈る
3. 藤原良房~ 太政大臣は従一位。死亡時に公諡号・国公号・正一位を贈る
4. 藤原兼家~ 序々に生前に隠居・出家することが一般化し、追贈がなくなって太政大臣の死後も従一位のままとなる
5. 足利尊氏~ 足利将軍に死後、太政大臣と従一位を贈ることが慣例化する
6. 豊臣秀吉・徳川家康・秀忠 太政大臣贈正一位
7. 徳川家光~ 徳川将軍に死後、太政大臣と正一位を贈ることが慣例化(家斉だけ永年勤続で生前太政大臣)
8. 三条実美 正一位大勲位公爵。 死亡時贈正一位がかろうじて間に合ってしまっただけ。
9. 伊藤博文~ 明治の元勲の総理大臣は実は死亡後一律で贈従一位大勲位(爵位はばらつきあり)
10. 原敬~ 平民宰相は生前従二位だったらしく追贈が正二位。以後正二位が総理の追贈相場となる。
11. 若槻禮次郎 占領下まで生きたので大勲位なし。贈正二位勲一等。
12. 広田弘毅 返上第1号。無位。死亡後無位は(藤原)仲麻呂(賜姓名官位剥奪)、広田(生前返上)、田中角栄(刑事被告人)、宮澤喜一(遺族が辞退)の4名のみ
13. 中曽根康弘 存命最長老。生前叙位廃止で従六位大勲位という不思議なことに。
14. 海部俊樹 桐花大綬章受賞者。大勲位以外の勲等廃止で勲等が貰えなくなった人第一号。
15. 小渕恵三 目下歴代最後の有位者。正二位。戦後従一位は吉田茂と佐藤栄作のみ。中曽根康弘と小泉純一郎はいけるかも。
16. 森喜朗~ 存命無位。

結論から言えば太政大臣と正一位は安売りされたこともあるだけでやっぱり最初から主に追贈用のプレミアムタイトルだったということだろう。
あと令制の勲一等は元帥号や金鵄功賞みたいな武官のプレミアムタイトルの最高峰なので元々通常は行政官の最高位とは重なるものじゃない。
実際に戦場で陣頭指揮したことのある太政大臣なんて秀吉と家康くらいだろう。

272:日本@名無史さん
13/05/05 09:01:05.09 .net
15世紀後半の武家官位としての序列だと、
受領は、相模守・武蔵守・陸奥守が最上位。
その次がなぜか土佐以外の四国三国讃岐・阿波・伊予。
これも不思議なんだけど、それ以上に不思議なのが、
それ以外で一応特別扱いになる国々の中で、淡路と安房。
上総や伊勢・尾張あたりはわからなくもないけど。
なんで淡路や安房ごとき小国が格が高いんだろう?

273:日本@名無史さん
13/05/05 09:36:27.89 .net
>>268

安房国をわざわざ分離独立させた理由がよくわからん。

志摩国は伊勢神宮の管理運営に便利という理由があるから理解できるが。

274:日本@名無史さん
13/05/05 10:15:45.88 .net
安房は国力で言えば小国だけど特別な留意が払われる地
分からないんだけど神事方面で何かある気がする
バカみたいな書き込みして申し訳ないが

275:日本@名無史さん
13/05/05 10:31:31.04 .net
平安期の受領の最高到達は播磨守って聞いたことがあるんだけど、
武家と公家だと感覚が違ったのかな?

場所より誰が貰ったかによるのかね?

276:日本@名無史さん
13/05/05 11:06:24.28 .net
平安末期は播磨と伊予が徳に豊かな国ってことで格が高かった。
国そのもの財力じゃなく、荘園の多少が関係して、
実収が多い国が格が高かったらしい。
まだ国守に実利的意味があったからだろうけど。
安房は確か贄関係で独立してるとか見たことがある。

277:日本@名無史さん
13/05/05 11:30:24.92 .net
安房忌部とか?

278:日本@名無史さん
13/05/05 12:02:11.82 .net
安房神社

URLリンク(ja.wikipedia.org)

安房神社(あわじんじゃ)は、千葉県館山市にある神社。式内社(名神大社)、
安房国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

別称として「大神宮」とも。神話の時代に阿波国より渡ってきた忌部氏による創建とされる。

279:日本@名無史さん
13/05/05 13:36:45.65 .net
あと播磨と摂津が、尾張や安房と同格。
その他は全部同列で国大小とか関係ないらしい。
相模等は鎌倉幕府で格が上がった模様。

280:日本@名無史さん
13/05/05 14:19:00.69 .net
>>267

> 15. 小渕恵三 目下歴代最後の有位者。正二位。戦後従一位は吉田茂と佐藤栄作のみ。中曽根康弘と小泉純一郎はいけるかも。

鈴木貫太郎(昭和23年没)が昭和35年に従一位を贈られてる。

281:日本@名無史さん
13/05/05 17:48:23.00 .net
>>276
あ、戦後の総理だけで考えてたわ。
終戦に関する功績(それって功績なのか!?w)からとされてるし、
在任期間はたった4ヶ月のみ、海軍大将勲一等功三級、
相場的にはちょっと戦前臭いね。

中曽根さんの従六位大勲位もそうだけど、制度変わり挟むといろいろあって
興味深い。

品位は明治になったら廃止とざっくり言われてるけど、
既に品位を持ってる親王は例外だったらしく有栖川宮熾仁親王は
明治19年にもなって一品に上がってる。
一品大勲位功二級ってのも妙な組み合わせだ。

282:日本@名無史さん
13/05/06 11:51:12.77 .net
玄葉前外相っているけど、現代まで玄蕃寮が残ってて治部卿になり損なってたら
玄葉玄蕃頭なんて呼ばれてたのかな

283:日本@名無史さん
13/05/06 12:10:13.79 .net
掃部さんが掃部頭になったら掃部掃部頭殿か。

284:日本@名無史さん
13/05/06 12:11:22.61 .net
近衛左近衛大将
舎人大舎人頭または舎人正
大蔵大蔵卿

285:日本@名無史さん
13/05/06 12:35:33.31 .net
>>280
左大将は、摂関家の指定席だから、近衛氏の左大将任官も少なくないな。

286:日本@名無史さん
13/05/06 13:21:37.02 .net
そう言えば今でも少弐姓はあるのかな?

287:日本@名無史さん
13/05/06 14:43:40.21 .net
ネット右翼にしてもリアル右翼にしても
「官位を復活させろ」
と要求している人は誰もいない。

288:日本@名無史さん
13/05/07 10:23:04.63 .net
いや、官も職も廃止されてないからw

明治初期には「鉄道頭」とかもいたんだけどね。

そもそも馴れて自覚薄いけど、今の上級官職名自体、そうとう復古的な
明治の官職名の影響を強く受けてる。
内閣成員も太政大臣・左右大臣・内大臣の体制を無理矢理拡張した
名称になってるから外国閣僚の官職名を訳すときしっくり来ず、「相」の字を
使いまわして誤魔化したりしてる。
「勘定奉行」より超古臭い「大蔵大臣」が最近までいたくらいだからなあ。

位階は死者への褒章タイトルになっちゃったし、
「俸三級五号」とか官名の頭に給与等級でもつけるか?w

289:日本@名無史さん
13/05/07 14:23:41.97 .net
「大臣」が残っているのに
「大連」が残っていないのは不公平だw

290:日本@名無史さん
13/05/07 21:58:22.14 .net
それだったら納言職も欲しいところだな。
副総理なんて味気ない言い方しないで、大納言とかにすればいいのに

291:日本@名無史さん
13/05/08 09:02:50.79 .net
>>286

首相=関白太政大臣
副首相=左大臣、右大臣、内大臣

292:日本@名無史さん
13/05/08 11:11:54.51 .net
大臣の下だと内閣官房長官がそれっぽいけど、行政官庁の取りまとめって職掌だと内閣官房長官は弁官っぽいしなあ
席次が逆になるけど内閣府副大臣あたりが大納言かな?

293:日本@名無史さん
13/05/08 19:15:13.96 .net
官房長官は職掌的には「蔵人頭」っぽい。

294:日本@名無史さん
13/05/08 20:27:22.78 .net
少納言という話もあるな。

295:日本@名無史さん
13/05/09 01:35:59.83 .net
>>287
それも一瞬考えたけど、太政大臣が則闕の官(言ってみれば臨時職)であることと
大納言が大臣欠員時の代行であることも考えて
首相=左右内大臣
副首相(総理臨時代理)=大納言 で考えた。


>>288-289
弁官と蔵人頭で、ふと思ったんだが
頭弁≒官房事務副長官(事務方官僚トップ)
頭中将≒官房政務副長官(帝の側近奉仕って職掌と総理の側近議員が就くって性格が似てる気がする)
なもんで、蔵人頭は官房副長官ぽい印象がする

296:日本@名無史さん
13/05/09 09:11:11.09 .net
だけどその大蔵が何の仕事やってるか名前見ただけで分かるってのも笑える

297:日本@名無史さん
13/05/09 19:33:33.99 .net
軍の階級を律令風にするなら警察の階級も律令風にすればよかったのに

298:日本@名無史さん
13/05/09 21:58:24.75 .net
譜代で井伊だけが官位も石高も突出してるなあ。
なんかアンバランスな感じ。

299:日本@名無史さん
13/05/09 22:05:29.09 .net
そんなもん世の中に理不尽はいくらでもある。
直政で終わってれば他の譜代と同じ。
直孝が幕府に土地が余ってる時期に政権中央にいた幸運に恵まれただけ。

300:日本@名無史さん
13/05/09 22:16:03.77 .net
>>289
内閣官房長官は国務大臣だよ。それも、内閣総理大臣臨時代理の
予定リストの筆頭にあがるのが慣例と言う重職だから、公卿ですら
ない蔵人頭とは全く違うね。

301:日本@名無史さん
13/05/10 08:27:08.47 .net
戦前の内閣書記官長が、蔵人頭かな。
官房長官が首相臨時代理をすることに着目すると大納言かな。大臣が出仕しないときは政務を司るから。

302:日本@名無史さん
13/05/10 23:43:32.50 .net
律令官制と現在の官制を比較するのは無理だし、ナンセンスだろう。

303:日本@名無史さん
13/05/11 13:19:40.95 .net
残念ながらわが国の官制は律令制から継続的に移行して現在に至っているので、
無理でもナンセンスでもないんですが何か?

位階に至っては明治以降も前近代のヒトにバンバン出してるし。
本日ただ今も日本国の立派な現行制度だし。

もし断絶してても行政機構のモデルなんてそんなにバリエーションないし、
普遍要素はいくらもあるしなあ。

304:日本@名無史さん
13/05/11 21:26:05.90 .net
神社とかによく正一位とかありますけど、神様に位を授けてるんですか?

305:日本@名無史さん
13/05/11 21:46:28.30 .net
そう。
ちなみに神様以外に、犬、馬、象、鷺、船なども位階を貰ってます。

神階(神に授けられた位階)は、神に位階を授けてるのか、神社(宗教団体)に
位階を授けてるのか、そもそも神様と天皇どっちが偉いのか?などなど
いろいろ永年の間にロジックが混乱していたので、
一応明治初年に廃止されたらしいのですが、
廃止の時期や根拠法令の資料がなかなか見つからなくて…。

同様のロジックの混乱は死者に官職名を贈る贈官にもあります。
「贈太政大臣」の贈位を受けた死者は以後、本日ただ今でも、
日本国が保証する「太政大臣」の「称号」を持っていることになりますが、
生きて太政大臣を勤め、辞めたヒトは、その時点で「前(の)太政大臣」になって
もう太政大臣ではなくなってしまいます。在官のまま死亡したヒトは
退任はしていませんから、贈太政大臣と同様、「その後も太政大臣である」
可能性がありますが、その後も生きてたヒトと途中で死んだヒトと
死んでから名前だけ贈られたヒトのバランスの悪さは残ります。

306:日本@名無史さん
13/05/11 22:16:04.62 .net
>>301
位をもらった動物なら、猫を忘れちゃいかんだろう。
上にさぶらう御猫

307:日本@名無史さん
13/05/11 22:58:22.61 .net
>>301
ありがとうございます
逆に従五位ぐらいの神社も見てみたいです

308:日本@名無史さん
13/05/11 22:59:56.48 .net
>>299
継続的に移行したのは明治初期までだろう。明治8年の官制までは改廃が頻繁にあり、
常に一定していない。この間、律令の官名が復活したりと試行錯誤したが、
明治18年に太政官が廃されて内閣制度が定まり、憲法の制定、国会の開設など、
近代的な三権分立が確立して行った。
従って、以後の官制は西洋諸国の政体の模倣であり、律令との継続性は無いだろう。
特殊な例として、宮内庁の諸官に、律令的な制度や官名が存在している他は、
旧大蔵、主計、主税や将佐尉曹と言った名称が残っているだけ。

なので、官房長官は蔵人頭という類の比較はナンセンスと言っただけ。

尚、位階勲等は官制や政体ではなく、個人に与えられる名誉であり、
従って民間人も受ける事が出来る。

309:日本@名無史さん
13/05/12 10:18:52.92 .net
厳密に当てはめることは無理でも律令の官職が概ねどのような内容の職務だったか
現行の官制と比較して考察することまでナンセンスだとは俺は思わないけどなあ

310:日本@名無史さん
13/05/12 10:36:55.29 .net
まぁまぁ、遊びの世界なんだから、何を比較してもいいじゃん。

311:日本@名無史さん
13/05/12 15:35:52.92 .net
>>304
個人的かつ勝手な相場の線引きを押し付けられても同意できんよ。
そもそも「改廃」というのは継続前提の変更のことであり、
わが国の場合、全ての制度を一旦廃止して再設定したことは一度もない。

諸外国では何度かそういう節目がある例が多いがイギリスなんかは日本同様ない。

「西洋諸国の政体の模倣だから」とか情緒的な理由でありもしない
断絶を主張されても全く理屈に普遍性がないので却下。

312:日本@名無史さん
13/05/12 23:39:22.07 .net
足軽出身の豊臣秀吉が関白太政大臣までになったり、動物に位階が授けられたりしましたが、
位階や官職を授けられる身分に律令などの法的な制限はなかったのでしょうか?
もちろん家格などの不文律の慣例はあったでしょうが法的には農民、商人や被差別民などにも
官位を授け昇殿を許すことも可能だったのでしょうか?

313:日本@名無史さん
13/05/13 09:12:46.17 .net
確か奴婢のままでの叙位は無かったと思う。
解放寺奴等で叙位され、任官された例は有るので、
現に賤民でなければ制限はないのでは?
奴婢のままでの勲六等叙勲の例はあった。
被差別民は律令制度下での法的な存在ではないから、
問題がないと思う。

314:日本@名無史さん
13/05/13 09:55:58.26 .net
>>307
「勝手な相場の線引き」「理屈に普遍性」とかよく意味が分からないのは置いておくとして、
律令政体や、武家政権の政体と、現代の政体のどこが継続しているのか教えてくれ。

315:日本@名無史さん
13/05/13 10:35:24.46 .net
>>310
「政体」が継続しているなんて誰も言ってないよ。
「制度」が連続していると言っている。
その辺を混同してるから理解が出来てない。

「政体」などというのは歴史家があとから時代で括った恣意的な概念なので
「政体が違うから比較が無意味」などと言っても「俺(or偉い先生)が違うと
括ったから別のもの」と言ってるのと変わらないと言っている。

継続を前提とした制度の連続的改変を経て時代に合わせて
変質して来ているのだから、制度変更の際には常に「これまでどうだったか」が
問題にされ基準にされて来た、だから比較についても「時代が違うから無意味」とか
軽々には言えんのよ。

過去の「事実」に対するいろいろな「解釈」を楽しんでる者に対し、
ドヤ顔かつ無自覚に自分の「解釈」を押し付けてるから貧塾を買ってるの。

316:日本@名無史さん
13/05/13 10:53:17.64 .net
継続とか断絶なんて、結局は程度の問題に過ぎないわけだから、
どうやっても神学問答にしかならないと思うけどなあ。
まあ趣味の世界だから当事者が楽しければ好きにすればいいけど。

317:日本@名無史さん
13/05/13 23:37:41.03 .net
>>311
「政体」を成すものは「制度」であり「組織」であり「人事」だよ。

「継続を前提とした」と言うが、明治政権が継承したのは、徳川政権であって、
形式的な律令制度を残した朝廷じゃない。
中継ぎとして律令の官職名などを一時復古させたが、すぐに西欧的な新制度に改めている。
むしろ律令などと言う時代錯誤の制度の継続から決別する事によって、
明治新体制はスタートしている。変質ではなく、革新だ。
だから150年も経た今、比較自体に無理があり、ナンセンスだと言った。

まぁ、趣味の場に無粋であったと反省はしているので、これを最後にします。

318:日本@名無史さん
13/05/28 01:13:25.19 .net
信長は、官位とか辞退してたって聞いたんですけど、どうして右大臣は受けたんですか?

319:日本@名無史さん
13/05/29 21:48:54.31 .net
当時の武士としては官職に興味がない方だとは思えるけど、
別に官職就任を忌み嫌ってたわけでもなさそうで、
利用できる場合、断り切れない場合とかは受けてる感じ。
右大臣は確か、権大納言足利義昭の上であるという意味があるとかないとか。
で、この時代は成ったという履歴が重要であり、現職であることにさほど意味がないので、
辞めてたか辞めないとか、まあそんな風に言われているらしい。
まっ、真意は誰にもわからないけど。

320:日本@名無史さん
13/06/03 14:51:49.13 .net
252 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 21:27:04.01
江戸期に京都の庶民(といっても豪商)が天皇家に寄付をした見返りに貰えた位はどれぐらいまでなんですか?

253 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 04:40:11.31
七位。その外の手としては摂家・清華あたりの諸大夫は無理としても侍として
仕官の形をとり六位をもらうとか。

254 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 09:41:43.79
地下家伝を見ると、省寮の史生で従六位下に進んだ例はいくつかあったから、
豪商の例も中には有ったかも。
それと史生は金を出してなるばかりではなく、
食い詰めた人が縁を頼ってさせてもらうこともあったらしい。

        
             ↑

七位とか六位を取ると、具体的にはなにか良いことがあったのだろうか?

官位持っている人に対しては、幕府関係者もそれなりの配慮をしてくれるとかなんとかのメリットはあったのか?

321:日本@名無史さん
13/06/03 23:59:57.22 .net
下橋敬長の「幕末の宮廷」の記述によると、五位と六位の差は大きく、
また六位と七位の差は一段とひどいものだったらしい。
「魚屋や蕎麦屋の親父、その様な者が七位になります。七位より無官の方が、
よほど良いです」とぼろ糞の言い方だ。
諸寮の官人に頼み込むと、一応正式な手順を踏んで前任者を辞めやせ、
前記の親父を史生に任じる。こうして七位になると、七位の装束が着られる。
それが嬉しいらしい。それと、七位になった魚屋や蕎麦屋の家には、
菊の御紋のついた高張提灯を立てあり、これが一応天皇直臣としての効果を生む。
犯罪を犯しても与力同心は家には踏み込めず、外に呼び出してから
「御上意」と言って縄を掛けるとの事だ。
それと、その頃は乱暴者の公家がたくさんいて、よく金の無心などに来たらしいが、
提灯があると、決して中へは入らないとある。
「七位はそういう者がなるので、とんとありがた味がないです。甚だしいことは、
七位になりますと、摂家・親王・大臣から、御目通りと止められます。
それほど七位というものは悪かったです」と締めくくっている。散々やね。

322:日本@名無史さん
13/06/04 11:10:33.46 .net
要は名誉心を満足させてガス抜きにもなるし、
7位だけはおおっぴらに売官制度として慣例化したけど
他との区別を明確にするために色々ルールがあったってことか。

その内容読むだけで、目的がなけりゃ普通はいらねってなるな

323:日本@名無史さん
13/06/04 23:54:22.99 .net
任命する側の視点で考えろって話もあったな。
各官庁の実質的責任者が事実上の任命権を持っていて、
どういう人物を任命するかがその考え次第。
利権と考え金を取るもよし、家臣を任命するもよし、
誰かに恩を売るのもよしって感じで。
そもそもが史生とか身分を示す装飾品のごときものだとかも。
つまり武士の登城の際のお供みたいなものなのか?

324:日本@名無史さん
13/06/12 09:44:13.90 .net
現代の偉そうなおっさんが、勲章欲しがるのと同じようなものでは?

325:日本@名無史さん
13/06/29 23:08:54.41 .net
内大臣は家康が就任して一気にメジャーになったな。

内府どの~♪

326:日本@名無史さん
13/06/29 23:32:57.43 .net
従三位以上は殿上人

327:日本@名無史さん
13/06/30 22:10:20.75 .net
>>322
殿上人は四位、五位で昇殿を許された者の通称。
公卿でも昇殿を許されない者もあった。
平清盛の父忠盛が正四位下で昇殿を許された時、
それを快く思わない公卿らが闇討ちをかけた話は
平家物語でも有名だが、それ程昇殿は名誉とされ�


328:ス。



329:日本@名無史さん
13/07/01 NY:AN:NY.AN .net
>>322
従三位以上は公卿~
って方がより正しい

330:日本@名無史さん
13/07/04 NY:AN:NY.AN s7RzBsLw!.net
昇殿聴許の宣旨を受けることによって
殿上人となるから、これを受けなければ
三位以上でも殿上人とはならない。
一方、六位でも蔵人であれば、昇殿聴許の宣旨を
受けることになるので、昇殿は可能。

三位以上の非参議あるいは
参議以上の議政官が公卿となる。

331:日本@名無史さん
13/07/04 NY:AN:NY.AN .net
淀君とかの君って女性の官位のことなんですか?

332:日本@名無史さん
13/07/06 NY:AN:NY.AN .net
近衛大将、衛門督、兵衛督、大宰帥のように各府も各省や各寮などと同じように職名に府をつけないのに
なぜ鎮守府の職名だけ鎮守府将軍などと呼ばれるのですか?

333:日本@名無史さん
13/07/06 NY:AN:NY.AN .net
高橋富雄著「征夷大将軍」中公新書によると、
本来は鎮守将軍だったが、官庁としての体制が整って行くにしたがい、
恒常的官庁である鎮守府の長官としての立場が強調されて、
鎮守府将軍と呼ばれるようになったのではないか。
とかそんなことが書いてあったと思う。

334:日本@名無史さん
13/07/07 NY:AN:NY.AN .net
時代は違うが旧軍部でも、海軍の鎮守府司令長官は府をつけるが、
海軍大臣は海軍省大臣とは言わない。でも軍令部の長は軍令総長とは言わず、
軍令部総長と言う。ただ、部長制の時代は軍令部長と呼んでいた。
陸軍は大臣はやはり陸軍大臣と言い、海軍と異なり、参謀本部の長も本部を言わず、
参謀総長と言う。不思議と言えば不思議。

335:日本@名無史さん
13/07/07 NY:AN:NY.AN .net
語呂かなあ?
参謀本部総長じゃあ、やっぱり長いし語呂が悪い。
「じゅげむ」じゃないけど、参謀本部総長閣下とかいちいち言ってる間に
戦機を逸してしまうとか。

336:日本@名無史さん
13/07/08 NY:AN:NY.AN .net
舞兵庫の兵庫って兵庫頭のことですか?

337:日本@名無史さん
13/07/08 NY:AN:NY.AN .net
兵庫助だろ

338:日本@名無史さん
13/07/08 NY:AN:NY.AN .net
家老や代官クラスによく出てくる備中とか頼母って官名?

339:日本@名無史さん
13/07/08 NY:AN:NY.AN .net
備中は本来は備中守とかの略だから官名由来だが、江戸時代は単なる呼び名。
藩によっては身分によって制限されたらしい、家老限定とか平侍じゃだめとか。
頼母は東百官ってやつの一つで、一応は官名を模したものらしいんだけど、
右門とか兵馬はともかく、頼母のどこが官名を模したのか、全然理解できない。
そもそも元になった官名はなんだよ?


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