司馬遼太郎の家康過少評価は異常at HISTORY
司馬遼太郎の家康過少評価は異常 - 暇つぶし2ch300:日本@名無史さん
13/03/05 13:13:16.36 .net
>>299
秀吉存命中に本気でやっても、朝鮮南部を占領してただけなんだから、
その後に頑張っても朝鮮北部の占領は難しいだろ。

今の時代と違って対馬海峡を渡るのは大変な時代なのに、
南部だけ維持し続けるのは大変だ。

301:日本@名無史さん
13/03/05 15:21:43.34 .net
>>297
琉球に攻め込んでるじゃないか

302:日本@名無史さん
13/03/05 15:54:27.88 .net
琉球に攻めようと朝鮮人からしたら知ったことではないからな。

303:日本@名無史さん
13/03/05 21:49:10.59 .net
>>297
チョンチョンいいながらそのチョンの妄想史を鵜呑みにするような
頭の悪いお前は知らないだろうが
秀吉が朝鮮攻め込んだせいで
朝鮮人よりも出征負担でむしろ日本人の方迷惑したんだがなw
朝鮮人で迷惑したのなんてふんぞり返ってた王族や両班だけで
大多数の民衆は元々生き地獄だから大差ねえw
中には日本軍を歓迎して見チンないした奴らまでいたんだぞw

304:日本@名無史さん
13/03/05 21:52:08.84 .net
道案内なw
そーいや扱いの悪い朝鮮ヘの帰国を断り、日本への帰化を願った
陶工をまるで故国に帰りたかったかのように書いたのも司馬だな
完全にウリナラファンタジーへの荷担だw

305:日本@名無史さん
13/03/05 21:57:34.13 .net
収奪するのが両班から日本軍に変わっただけだからな
しかも日本軍は必要な分しか徴発しないけど
両班は色々理由着けて法定分の税以上の物まで根こそぎ持って行くというw

306:日本@名無史さん
13/03/07 14:22:28.97 .net
>>303
さすがチョンはすげえやw
向こうで豊臣秀吉と言えば悪人の代表だぞ
日本人にとっては大出世の最たる英雄なのに

307:日本@名無史さん
13/03/07 15:12:09.09 .net
>>306
>さすがチョンはすげえやw
機能性文盲乙w

>向こうで豊臣秀吉と言えば悪人の代表だぞ
禿げ山が多い、寺院が少ないといった関係ない事まで秀吉のせいにされてるからな
都合の悪い事を全部日本のせいにするいつもの朝鮮クオリティだろw
なんでお前らって朝鮮嫌いなくせにあいつらにの言う事をちゃんと検証しないで鵜呑み
にするわけw

>日本人にとっては大出世の最たる英雄なのに
歴史に詳しくないやつにだろw
なんで「太閤記」が出世の階段登り切ったところで終わると思ってるんだ
「主人公からラスボスにクラスチェンジ」が歴史好きのイメージだよw

308:日本@名無史さん
13/03/07 15:18:00.96 .net
どうして、かまってちゃんをスルーできないのか

309:日本@名無史さん
13/03/08 11:05:04.70 .net
>>275
>>276
スレ違いかもしれないけど、
大久保利通の遺骨が平成になってようやく里帰りできたという話を聞いたときは、
いくらなんでもあんまりじゃねーか、地元贔屓や判官贔屓ってオソロシスと思ったな。

310:日本@名無史さん
13/03/08 12:31:01.57 .net
>>307
>寺院が少ないといった関係ない事まで秀吉のせいにされてるからな
何しろ李朝の廃仏から守ってやった仏像を「盗んだ」とか言ってくるカスですからね

311:日本@名無史さん
13/03/09 11:04:54.63 .net
政権維持に失敗したのだから、政治家としての秀吉には辛い点が付けざるを得ないな

312:日本@名無史さん
13/03/16 12:20:55.35 .net
秀吉は秀次事件を引き起こした上に、小早川隆景と言う後継構想のキーマンを次々に失ってるから
東国仕置を家康に頼るほかない状態だった
家康が慶長16年(大坂の陣の3年前)の秀頼との会見の時点で大坂討滅を決意したなんて全く史実と異なる

7月の方広寺鐘銘事件から半年足らずで大坂が10万の牢人を集められるわけもなく、
冬の陣で家康は最初から和睦を前提として強攻を抑えていたことからも明らか
家康が豊家討滅の決意を固めたのは、夏の陣の直前の段階

313:日本@名無史さん
13/04/11 16:15:31.08 .net
一方で大阪方は駿府の家康には恭順の姿勢を見せる一方で
江戸の秀忠政権には楯突くという不可解な行動をしている
両者が一体の物である以上無意味な行動だが
当時、家康と秀忠の親子関係がしっくり行ってないとか
徳川家が大御所派と将軍派に分かれてる、といったような風聞でも
流れていてそれを鵜呑みにでもしたんだろうか

314:日本@名無史さん
13/04/30 08:42:43.15 .net
先日、本屋で立ち読みしてたら
徳川家康の強さの秘密は
戦国最強の三河武士と
繰り返し強調されていた。

315:あ
13/04/30 14:38:04.25 .net
司馬の家康嫌いは、単に江戸に幕府を開いたのが理由だ。関西圏だったら嫌いになってない。

316:日本@名無史さん
13/04/30 17:24:02.18 .net
司馬は頼朝嫌いじゃないよ?
同じく東国に幕府を開いたが。

317:日教組は日本の癌細胞
13/04/30 17:41:31.89 .net
URLリンク(www.google.com)
絶対許すな
URLリンク(www.domo2.net)
真相真実
URLリンク(portable.blog.ocn.ne.jp)

318:.
13/05/01 06:42:00.84 .net
>>316
言葉足らずだったな。あの家康でも畿内に幕府を置いたならば、司馬は家康を不快には感じなかったと思う。

つまり、秀吉好きの司馬が徳川嫌いになるのに、江戸での幕府は十分に要素を満たした。

319:日本@名無史さん
13/05/01 07:50:09.76 .net
司馬が家康を嫌いな理由
①イメージ…外交より内政、通商より鎖国、暗黒の江戸時代と言う偏見
②倫理的偏見…主家である豊臣家の天下を乗っ取り、遺児を滅亡に追い込んだ
③大坂パトリオティズム…関東に大坂が打ち負かされたのが悔しい

結論的に言うと①②は完全なる誤り、③は司馬の勝手な被害者意識

320:日本@名無史さん
13/05/01 20:44:12.14 .net
暴走のあげく自力では牢人を排除できないと言う先軍政治に陥った豊臣家と牢人衆の切断でことを治めようとしたが、
結局、ご苦労知らずの秀頼がブチ切れて淀殿の和睦合意を蹴り、牢人衆と抱き合い心中しただけの話

321:日本@名無史さん
13/05/01 20:44:33.07 .net
>>319
思い切り乱暴な観測をするとさ、この国って関西と関東の勢力争いを延々としてきた、って見なせるよね
関西愛国の司馬さんにとって、禁中並公家諸法度を制定した徳川幕府は、やっぱり絶許だったんじゃね?
そう考えれば彼の家康嫌いも可愛いものかと

322:日本@名無史さん
13/05/02 08:04:23.31 .net
網野善彦が司馬の逆バージョンで、「日本社会の歴史」で採用したのも東西の王権の統合-分裂を軸とした世界観だから、
東西対決的発想じたいはおかしくないよ。ただし、網野は西の王権の長を敵視したり、東の王権のほうが優れてるなんて言ってはいない。
地域パトリオティズムって「中央一辺倒の歴史観に対して、地域の自律性を対置させる」ものであるわけで。

司馬の大坂パトリオティズムの場合は、西の東に対する開明性や文化的先進性を前提に話が進むんだな。
江戸時代暗黒史観がそうなんだけどさ。つまり、地域パトリオティズムを否定する方向で使われてる東西対決なんだよ

323:日本@名無史さん
13/05/03 01:24:34.18 .net
大阪人の自分は家康好きだよ
反対に司馬が嫌いだw
司馬が家康嫌いなのは別の人も言ってるように
秀吉好きなのと、江戸に幕府開いて260年余り続いたことだと思う

別に何を好きでも構わないけど、他を下げないと自分の好きなものを評価できないって
おかしいよ。

>>322
そもそも学術的に論じる場合、どちらかを敵視して、あっちが劣ってる、こっちが優れてるって
論じること自体がおかしい。とくに文化的なものに関してはね。嫉妬して他を下げるって、このへんお隣の国を思いうかべるな

司馬はその意味でまったく歴史的考察なんて出来てない。
本人は一応小説家と認識してたみたいだけど、ファンは歴史家と見做してるからやっかいなんだよ。

324:日本@名無史さん
13/05/03 09:20:28.10 .net
東京人が西郷さんの銅像が上野公園に立ってても、大村益次郎が靖国に祀られてても何にも気にしないのに、
司馬はいかにも気宇が狭い。

325:あ
13/05/03 17:44:15.19 .net
司馬の三成好きも反家康だからだろうな。家康好きの松本清張との対談は面白かった。

しかし、司馬は家康の晩年にあった豊臣潰しを酷評していが、秀吉の晩年ほど醜いものは無いんだがな…

家康好きな桑田や津本とかと司馬は対談してるのかな?

326:日本@名無史さん
13/05/05 23:49:11.89 .net
家康も酷評だが劉邦とかまあ酷い言われ方だったわ、そこまでして項羽持ち上げたいかと

327:日本@名無史さん
13/05/06 21:33:38.49 .net
>>325
そこは司馬に突っ込みたい
>秀吉の晩年について


どかだったかのスレで山内の子孫の方が、武田鉄也に対して
ウチの先祖はそこまで酷くないって不満をもらしてたって見た。

徳川の子孫も司馬に対して思うところはあるんじゃないかと思う。

反対に自分がくそみそに言われてるのはどう思うんだろう、司馬。
まあ、司馬はあれだけ他人の先祖くそみそに評価してるから文句言えた義理じゃないけど
すでに亡くなってるしねw

328:日本@名無史さん
13/05/09 12:38:27.69 .net
司馬にとって秀吉は好きで結婚した相手の過去がド腐れビッチだったことを知ったが知らんぷり
家康は嫌いなのだが、悪口言い続ける内に気に入るという典型的なツンデレ

329:日本@名無史さん
13/05/10 11:04:46.72 .net
アンチはアンチでも、妖説太閤記のような愛のあるアンチ小説なら良いと思うけどな。
いくらなんでもそりゃねーだろと何度も突っ込んだけど、
主人公に思い入れがあるからこその小説だと思う(私見)。

330:日本@名無史さん
13/05/14 01:36:56.75 .net
>>280
今更なレスだがその辺は秀吉の遺言に対する配慮もあったのかなと思ったり。

331:日本@名無史さん
13/05/15 06:29:02.71 .net
家康個人はめちゃくちゃ意識してたと思うよ実際
だからギリギリまで大坂と講和条件模索したけど、その頃になったら秀忠の意向も無視できなかったのだろ

332:日本@名無史さん
13/05/15 17:31:59.87 .net
史料には秀忠が冬の陣の段階から主戦派、家康は開戦当初から和睦を模索していた
と言うのが明確に記されてるし、家康が秀忠と意思疎通しながら大坂の処分を決めようとしていたこと、
冬の陣の講和で家康が条件的に深追いせず、伊達政宗ら有力大名が反対したこととかちゃんと書かれてるんだけど、
司馬は家康の影響力を過大視して「それぜんぶ茶番だから」と言い張ってるので始末に負えない

333:日本@名無史さん
13/05/15 23:05:15.36 .net
司馬小説読んであくまで自分が感じた印象だが
能力は認めてるけど生理的に嫌い=家康。山県有朋
能力は認めてないけど一人の人間的には大好き=乃木さん

334:日本@名無史さん
13/05/16 14:06:41.43 .net
>>281
八尾の戦いも戦雲の夢読んでると颯爽と長曾我部が勝ったような印象受けるけど
実際は違うしね

司馬さんて資料読み込んでる割には戦略に無知なんじゃないかと思えてくる
書き方多々あるよね

335:弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg
13/05/16 23:59:30.21 .net
戦争してる時点で、戦国時代の武将は全部、屑。

336:日本@名無史さん
13/05/21 10:42:02.13 .net
>>329
あれは確かに解釈を悪意に取りすぎたり、何もかも秀吉と両兵衛の陰謀に
してたりはするけど
普通の太閤記系がスルーする秀吉の残虐行為を史実通り描いてると言う面
もあるぞ

>>333
能力に関してはぶっちゃけ過大評価だw
関東転封で封土を「家康から与えられる」までは
伝来の土地の「家康に承認させて」いた三河武士団を家康が早々と掌握しているように
描いたり
秀忠政権以降が作った江戸幕府の保守的ゆえ盤石な体制を家康の発案にしたり

337:日本@名無史さん
13/05/21 19:37:12.81 .net
家康て小説だと若いころから
落ち着いて成熟してる描写おおいけど

実際どうなのよ
逸話見ると、それなりに血気盛ん

338:日本@名無史さん
13/05/21 22:12:25.16 .net
子供の時に知った歴史がオナニー歴史観だと知って愕然したわ
負けた奴ははいはい勝者のせいと敗者をびかするけど
敗者は今の民主党みたいな失敗した連中を美化しているようなもんだぞ
司馬に嫌われようが卑怯だろうがそれよりも国を破滅させなかったのがすべて

339:日本@名無史さん
13/05/21 22:29:40.99 .net
>>332
つうか、それは、知られている事実だけでも、当たり前の帰結なんだよね。
秀忠は、「関ヶ原の汚名返上」しか脳内に無く、「父の存命中に、戦闘で大活躍したい」という思いばかりが先立っている。
伊達政宗は、「豊臣征伐」が、建前上は明らかに秀吉の意志に反し、大義名分に欠くことはよくわかっている。
それでも強引に煽るのは、
徳川氏に「汚れ役」をやってもらって、ついでに徳川氏の権威も失墜させ、あわよくば「徳川の次」を狙っているから。
現実政治のパワーバランスとしては、これは妄想レベルなのだが、
ただの誇大妄想を、本当にリアル世界で実行しようとガチで試みるのが、政宗の政宗たるゆえんだw

だが、政宗の意図は、家康は重々承知だったと思われる。
逆に、家康としては、「政宗など諸侯が、豊臣氏誅滅を主張しているから、これは仕方ないんだよ」と言って、
権威の傷を、むしろ軽減させることができたわけで、政宗は、完全に家康の術中にハマっているw

340:日本@名無史さん
13/05/21 22:59:00.28 .net
政宗て家康に秀頼の身に何かあったら亡き秀吉に申し訳ないから秀頼保護しろって内容の書状出してなかったけ?

341:日本@名無史さん
13/05/24 10:28:25.10 .net
>>336
本能寺の変・秀吉黒幕説とか疑惑に過ぎない話はともかくとして、
明らかに史実である唐入り失敗と秀次一族粛清を無視せず、
秀吉が亡くなる最後の最後まで見届けてるところこそが愛だと思う。

主人公の良いところだけを見た物語なんて、作者の色眼鏡な自己満足に過ぎんよ。
判官贔屓だって、敗者の憐れなところだけを見て、敗北した原因には見向きもしないしな。
歴史ものの話を作るのなら、主人公の良いところも悪いところも見るべきだと思う。

勿論、こっちも商売だしの理由なら仕方ないし、
妖説は秀吉のヒーロー像を壊してやるという思惑も大いにあるんだろうが。

342:日本@名無史さん
13/05/26 23:20:19.66 .net
政治的に歴史を公平に見るべきだわ

343:日本@名無史さん
13/05/28 19:22:49.09 .net
司馬作品の盗作で話題になった池宮の逃げろ家康
あれは逆に家康を歪曲化しすぎだ

344:日本@名無史さん
13/06/02 09:26:51.18 .net
>>343
初期の家康と三河武士の力関係に関してはどの歴史小説より史実に近いと思う
忠犬どころか強欲な田舎者の集まりなあたり
それともあの三河武士像も史実から持ってきたんじゃなくワンクッションとして何か
元ネタ小説でもあるんだろうかw

345:日本@名無史さん
13/06/02 09:30:09.18 .net
>>337
晩年の大阪役でさえちょっと戦局不利になっただけで
「腹を切る、いや、敵に切り込んで切り死にする」と戦陣で恒例の自暴自棄癖を
炸裂さぜてました
ほとんど死ぬまで癇癪玉です

346:日本@名無史さん
13/06/04 09:25:54.34 .net
>>344
人物像に関しては
家康の人物矮小しすぎじゃね?

347:日本@名無史さん
13/06/04 22:16:23.90 .net
>>346
だからあくまで力関係の話だってば
人物像は確かに無能すぎる

348:日本@名無史さん
13/06/04 22:33:01.71 .net
むしろ天下を舐めている

349:日本@名無史さん
13/06/05 06:11:02.07 .net
当時三河武士からすると
利権奪う今川氏統治は不満だろうな

三河武士の中でも大所帯の大久保家(忠教)が
今川家の事をボロカスに書くの判る

350:日本@名無史さん
13/06/05 06:20:32.43 .net
三河そのものは搾取していたけど
広忠・家康親子にとってはむしろ後ろ盾として松平家の国主としての地位を担保してくれていた
恩人だからな義元は

351:日本@名無史さん
13/06/05 12:02:47.97 .net
清康が三河の小豪族たち駆逐し、義元が戸田氏など没落させて
国人層弱らせてくれたのも松平家の三河再統一にはプラスになったな。

352:日本@名無史さん
13/06/18 10:43:49.45 .net
そこまでお膳立てしてもまだ三河一向一揆や岡崎騒動などの
難関が家康には待ちかまえていたわけで
どんだけ難治の国だよ三河

353:日本@名無史さん
13/06/20 07:50:38.86 .net
>>341
作中人物では最後に最大の敵が逝ったのに寂寥感を感じる家康
あるいは秀吉の悪行全て知った上で「なぜかあの男嫌いにはなれませぬ」
と言った慶次あたりが作者の代弁者って感じがする

354:日本@名無史さん
13/06/20 21:40:08.98 .net
>>352
信康事件も単なる内部抗争説も根強いんだよな
最近の研究だとどういう見解になってんだろう

355:日本@名無史さん
13/06/21 01:14:58.90 .net
石川数正出奔理由も派閥争い
三河武士て本当に結束強いのかい

356:日本@名無史さん
13/06/21 01:35:01.64 .net
ケチで器が小さかったから。
秀吉をみてみろ、生きてる間はなんの反乱もなかった。

異論は認める

357:日本@名無史さん
13/06/21 10:50:41.96 .net
司馬
「家康は好きじゃないけど、実力は認めてあげるんだからね!」

山田風太郎
「アンチ秀吉本を書いたつもりで、
後天ロリとか、母妹も猿面とか、辞世の句もゴーストライターに作ってもらったとか、
色々悪口を並べちゃったけど、どうしてだか傑作と言われちゃってるんだからね!」


逆に、信長は残酷で恐ろしいと度々表現されてるけど、
これといった代表的なアンチ小説がないような気がする。

358:日本@名無史さん
13/06/21 14:10:35.89 .net
司馬の世良修蔵評価がヒドい件

359:日本@名無史さん
13/06/24 10:04:41.09 .net
>>354
信康事件が岡崎騒動でしょ
今では単なる徳川家の内部抗争に
信長が裁定役として引っ張り出されたと言う説の方が強いね
信長死後の五徳姫に対する家康の厚遇見ても

360:日本@名無史さん
13/06/24 11:03:43.46 .net
>>355
浜松派閥との政争に負けた岡崎派閥のトップだったからな数正は
同じく岡崎派の服部半蔵もこのせいで本来なら徳川四天王クラスの
家康の腹心なのにずっと下のランクになっちゃって
後世には武将ではなく忍者の頭領扱い

361:日本@名無史さん
13/06/25 00:51:29.88 .net
義信謀反と一緒か

362:日本@名無史さん
13/06/26 07:08:15.04 .net
>>360
四天王でも酒井忠次は個人的に人質時代から家康の側近だったからそういう位置にいたけど
家柄的には酒井家は本来は家康と利害衝突する三河大土豪の一つだからね
本多忠勝と榊原康政は中規模土豪の上に分家(康政にいたっては家名継いだだけ説もあるし)
井伊直政は遠江人なのと比べて一人立場が違うんだよね
忠勝、康政、直政が家康子飼いの取立てで、忠次はあくまで国人
忠勝、康政、直政が長いこと家康直下の旗本の物頭だったのに対し、忠次だけは独立部隊と
して郎党と与騎を率いて毛色が違うし
本来ならそこに他国者かつ旗本の物頭の一人であった半蔵が入ってもおかしくなかった

363:日本@名無史さん
13/06/26 16:20:02.03 .net
まあおそらく数ある~四天王で一番基準のブレたセレクトだろうな徳川四天王
岡崎→浜松時代の重鎮一人と江戸移封以降の出世頭三人だもん
ただ酒井を基準にしても本多ら三人を基準にしても、似たような身代と功績のやつが
四人揃わないから仕方なくこの四人にしたのかも

364:日本@名無史さん
13/06/26 20:03:36.39 .net
>>362
長篠くらいまでは半蔵は忠勝・康政と同格か
ことによると三方ヶ原での功績で旗本衆では頭一つ抜けた存在で
小姓から使番・奏者に抜擢されたばかりの直政よりずっと格上だったんだよな
それが江戸移封の頃には禄高十分の一以下という格差ができてた
やっぱり岡崎騒動が原因なのかね

365:日本@名無史さん
13/06/27 04:24:28.13 .net
ここで挙げられてるような忠義の三河武士()の実態だって
司馬の時代にも史料は充分あったよね
家康を本人とは似ても似つかない保守的な人間として描き
その一方で統率力を異様に過大評価してるのが司馬
字義通りの「過小評価」はしてないな

366:日本@名無史さん
13/06/27 05:27:58.94 .net
>>364
まあ服部家も半蔵が長命なら
あるいは二代目半蔵(祖父の半三から数えると三代目ハンゾー)がもう少し有能なら
関ヶ原後には譜代大名になれたと思うよ
二代目が無能すぎた

367:日本@名無史さん
13/06/27 05:30:00.51 .net
>>361
どっちも最小限の犠牲で内部抗争を終結させたと言える
武田の方は飯豊ら一部重臣にも腹切らせて相対的に親族衆の発言権を
強くした事が後々の命取りになったけど

368:日本@名無史さん
13/06/27 10:59:31.61 .net
>>365
家康が扱いかねていた面倒くさい三河武士を
江戸転封機に地盤を奪う事で国人から完全な家臣に再編成する機会を
与えたのは秀吉なんだよなw

369:日本@名無史さん
13/06/27 14:20:38.98 .net
三河一向一揆も単なる宗教信仰の問題じゃなくて
戦国大名化する上で庶家や豪族たちの力排除する必要あったとか

370:日本@名無史さん
13/07/09 NY:AN:NY.AN .net
age

371:日本@名無史さん
13/07/13 NY:AN:NY.AN .net
司馬さんの秀忠評価ってどんなんだっけ
昔の小説だと秀忠凡庸説が多かったけど
今そうな風に秀忠象書いたら史実厨が煩そうなもんだ

372:日本@名無史さん
13/07/15 NY:AN:NY.AN .net
よくある疑問「秀吉は家康を殺しておけばよかったのに」

これは現実が見えていない世間知らずの意見。
家康を殺すことは可能だったかもしれないが、
死後のほうが荒れて大変になる。
徳川家臣団の蜂起や秀吉自身の信用失墜など。

かつて、日本国内の境目は国単位だった。
現代で例えれば、朝鮮人・中国人が日本国総理大臣になっても反乱が起きるだろう。
他国の人間が支配者になるのは難しい。
よそ者の家康が関東を支配するのは苦労したという。

373:日本@名無史さん
13/07/15 NY:AN:NY.AN .net
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82~83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

374:日本@名無史さん
13/07/15 NY:AN:NY.AN .net
>>373
総力戦などしなくても秀吉が家康を殺せるチャンスは多くあった。
上洛させる時は非武装が基本だから。
大坂城で殺せただろうけど、秀吉は死後の処理が大変だと認識していた。
家康も同じ理由で自身は殺されないだろうと読んでいた。

総力戦で消そうとしても、北条家のように包囲できたかは疑問。
全ての大名家が征伐に参加するとは思えない。
特に、島津家と伊達家は秀吉の命令でも関東包囲までは行かないだろうね。

375:日本@名無史さん
13/07/16 NY:AN:NY.AN .net
織田家を乗っ取った事じたいが不徳であり、これ以上の信用失墜はどうしても避けたい秀吉は家康を殺せなかった。

家康を殺すと秀吉の野心がなおさら浮き彫りになるからな。家康を生かす事で、織田家乗っ取りは万民のためと言い訳が出来たし大義名分となった。

だが、織田家を乗っ取った不徳は家康を助けただけでは払えない。やはり、秀吉はやり方を間違えた。家康に天下を与えるべく生涯を費やしたとも言えるのが秀吉だ

376:日本@名無史さん
13/07/24 NY:AN:NY.AN .net
>>326
どんな風に書かれてたの?
関係ないけど劉邦は中国史の中でも屈指の過小評価されてる人物
無能な人物が天下取れるわけない

377:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>>376
今「項羽と劉邦」手許に持っていないんでうろ覚えだけど、
項羽の首が懸賞にかけられて、漢の兵士5人が争奪して分けあったんだが、下品な欲望がこの快男児を殺したのだみたいな小説の締めだった
正しく>>338みたいな書かれ方
項羽なんて戦闘が強いだけだろう。残酷だし。まだ本宮ひろ志の「赤龍王」の方が劉邦評価しているし項羽の実態に近いんじゃないかw

378:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
無能な人間でも天下取れるだろ
現に無能な徳川綱吉でも天下人
天下取るなんてほとんど運みたいなもん

379:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
世襲で将軍と創業者比べても・・

380:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
毛利アホ元とか馬鹿でも一歩間違えば天下取るチャンスはあったわけだしな
天下取りなんて運が90%だろ

381:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
だから取れてねえじゃねーかよw

382:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
アホ元レベルの馬鹿でも関が原でまともに戦う判断さえ下せば取れてた可能性高いんだろ
チャンスさえあれば誰でも取れるのが天下。

383:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
大内細川三好も中央での長期政権築いたけど
別に天下人として、天下でぬきんでたほどの能力や才覚があったようには見えないしねぇ
欧州の戦乱とかでも無能が国内統一とかあったんじゃなかったっけ?

384:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>>382
まともな判断下せなかった現実
2ちゃんで吠えてないで自分が取ってから言えよ

385:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>>384
天下なんてアホでもチャンスさえあれば取れる
現にアホの綱吉とか取ってるし秀忠も特段有能じゃない
有能でも逆に不運が続けば滅びる
現代でいえば麻生みたいな馬鹿でも人の上に立てるのと同じようなもん

386:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
現代でいえば運と要領の良さだけである程度出世した人間でも自分の上の重役とかその関係が不正だの病気だので
共倒れになれば自動的に自分がトップになるのと似たようなもんだろ

387:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>>379

388:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>>385
麻生の1000分の1の能力もない>>385

389:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>>387
創業者だろうが関係ない
大体一代で全てをなしえた人物なんていない
大体他人が進めてきた統一過程を途中から入れ替わってほとんど終わってたところを成し遂げたとか
とか、動乱の影響で衰退傾向にあった所を外部から入ってきて纏め上げただけとか
そういうのが大半なので、本質的には世襲するのと変わらない
イングランド王のジョンとかヨーロッパの方の王なんて無能でも国内統一とかやりまくってる。
チャンスさえあれば天下なんて誰でも取れるし運が悪ければ有能でもころされる
麻生みたいな馬鹿でもトップに立てるのと一緒

390:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
「天下をとる」を世襲の意味で使う人初めて見たわ

391:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
どうでもいいけど
大内・三好は長期政権築いてないだろ

392:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
信長や秀吉よりは長期じゃん

393:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>別に天下人として、天下でぬきんでたほどの能力や才覚があったようには見えないしねぇ
そうか?
三好政権・大内氏は当主の力量・カリスマにドップリ依存しすぎな印象だけど、
長慶、義興の才覚が抜きん出たからこそ、その死後衰退していった解釈してる。

394:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
私が思うに信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に
十河一存
斉藤義龍
1562年
三好義賢
1563年
細川晴元
細川氏綱
三好義興
1564年
安宅冬康
三好長慶

と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで
死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。
これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。

395:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>389
それはいえてるね
馬鹿輝元とかでも親父の遺産のおかげでかなりのチャンスがあったし一時は中国全土毛利って勢いだったもんね
国内の3分の2も継いだ状態で親が死んで無能な子供が継承、とかだったら本人が無能でも関係なく
普通に統一なんて余裕だわな

外国の王様とかだと例えばイングランド王のジョンとか
無能で有名な人物だけどちゃんと国内統一を果たしてるし周囲の主要人物がタイミングよく死んだり
周辺分国が衰退期に入ってたりしたら必然的に天下が転がり込んでくるわなw
戦国の動乱期なんてドミノゲームみたいにアホみたいに勢力図がめまぐるしく塗り変わってるし
これが当主の能力で入れ替わってるなんてゲーム脳もいい所だよね
国内の統治反乱支配体制とか周辺国の状況国力など様々な要因が複合的に重なって勢力図が入れ替わってるだけでしょ

396:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
自演乙

397:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
楽して天下とったといえば
司馬炎、煬帝思い浮かべるな
二人ともまったくの無能でもないけど

イギリス史詳しくないんで
ジョン王とは知らないが

398:日本@名無史さん
13/07/26 NY:AN:NY.AN .net
確かに
『関ヶ原』もそうだが
司馬先生は家康を落として三成を立てすぎだな

しかも『城塞』も 家康が主役にしてはイヤらしく描きすぎ

399:日本@名無史さん
13/07/26 NY:AN:NY.AN .net
>>398
それを間に受けて石田のファンが大暴れw
実際笑い事じゃないんだけどな
史跡での小早川への破壊行為とかまで行ったから
歴史が好きな自分は歴史小説はあまり読まない。イメージが刷り込まれるかもしれないから。
なので、実際に小説と史実混同してる人を見るとちゃんと勉強してくれって思う

なんで専門書や学術書読まないで小説読むんだろう?
小説は創作物なのに。それすらもわからない層がいるのか。

日本史系と世界史系だと日本史系の方が歴史小説から知識拾ってくる人が多いイメージがある
世界史系だとそういうことはあまりないイメージだ
ローマの勉強するのに塩野先生の本読む人はそういないんじゃないか?
やっぱり専門書の方に手を出すと思う

でも日本史だと小説に手を出す人が多い

400:日本@名無史さん
13/07/26 NY:AN:NY.AN .net
消防の頃の話だから記憶が曖昧だけど、
俺が最初に読んだ家康の本は、あおむら純が描いた児童向けの漫画の伝記で、
小説と違って過度にマンセーもアンチもないから、歴史の人物に対して極端なイメージはつかなかったな。
秀吉の本では、ねねが夫の晩年を「秀吉様は人を殺すことが嫌いだったのに…」と嘆くシーンとかあったっけ。
やっぱり第一印象って大切だね。

401:日本@名無史さん
13/07/26 NY:AN:NY.AN .net
秀吉は農民。三成は茶坊主。
両人の権力への憧れや生き様が武士らしくない。それを司馬が好きなんだとしたらアホだな。

家康や信長は武士の品格があるが、秀吉には無い。

つまり俗物が司馬は好き。
観念的な謙信なんかも嫌いだろう。所詮は司馬も俗物

402:日本@名無史さん
13/07/26 NY:AN:NY.AN .net
>>399
>ローマの勉強するのに塩野先生の本読む人はそういないんじゃないか?
司馬狂いの自分の父親が正にこれで・・
日本史は司馬、世界史というか欧州史は塩野で分かった気になっている
その他は新書ですらまず読まない

403:日本@名無史さん
13/07/26 NY:AN:NY.AN .net
一般の職場じゃ正しい歴史知識より、有名な作家の書いた本を読んでいることを周囲にアピールする方がヒエラルキーが高いんだよ。

以前俺の傍でロートル爺さん二人が「騎馬民族征服説というのがあったなぁ」と唐突に話だした事がある。
まぁ数回の会話の遣り取りで終わったから内容なんかソノ二人は殆ど知らないんだろうが、
そういう話に割って入って「騎馬民族征服説は実証されず、初期と末期では全く違うことを言っているけど。どの話?」
と聞いたら俺の負けw

「お詳しいんですね」と、ベンチャラかますのが正しい若手社会人の知恵w

404:日本@名無史さん
13/07/27 NY:AN:NY.AN .net
>>403
うちの職場は幸いにもあまりそういう人いない
反対に詳しい人がいる。
その人一度定年退職した人なんだけど
凄い話しやすい人で人生経験も豊富だし、自分もそういう人になりたいって思わせる人
みんな頼りにしてる

405:日本@名無史さん
13/07/27 NY:AN:NY.AN .net
>>403
うんそんな風に話ブツ切りしたら会社じゃなくてどんな所でも嫌われるだろうよw
向こうは血液型占いや成吉思汗=義経くらいの軽い茶飲み話で話しているだけかもしれんのに

406:日本@名無史さん
13/07/27 NY:AN:NY.AN .net
>うんそんな風に話ブツ切りしたら会社じゃなくてどんな所でも嫌われるだろうよw
>向こうは血液型占いや成吉思汗=義経くらいの軽い茶飲み話で話しているだけかもしれんのに

この板で司馬に文句を付けている香具師も、一般からみりゃドン引きだよな…

407:日本@名無史さん
13/08/09 NY:AN:NY.AN .net
>>401
武士の品格って何?
主君を裏切ったり、言いがかり付けたり、ウンコもらしたりすること?

408:日本@名無史さん
13/08/09 NY:AN:NY.AN .net
あんたうんこネタ好きだな
うんこ漏らしは史実じゃない。面白いネタだから有名だけど。
あと言いがかり云々は否定されてる説だ

ここ一応日本史板だぞ

409:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN .net
否定している人間がいるってだけ

410:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN .net
あと、うんこネタを書き込んだのは初めてだw

411:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN .net
>>409
学術界では言いがかりなんて説は支持されてないよ
これ結構前から言われてるし
いまだに言いがかりって世間では認識されてるのは理解してたが
日本史板にまでこういうこという人がいるのに驚いた
歴史が本当に好きな奴が来るところって思ってたから
小説の話を持ち込んでくるとは思わなかった

司馬小説の話がしたいなら文芸書籍サロンや一般書籍に行ってくれ
そこでなら言いがかり云々言っても否定はされないだろ
うんこネタも家康がうんこ漏らしてる描写がある小説のスレで語ればいい
その小説の中では家康は脱糞したってことになってるからな
仲間もいるだろ

412:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN .net
最初からこのスレ見なきゃいいんじゃねぃ?

413:日本@名無史さん
13/08/11 NY:AN:NY.AN .net
国家安康の件は言いがかりだよ
家康が鐘をそのまま残したことがその証拠

414:日本@名無史さん
13/08/11 NY:AN:NY.AN .net
>>411
学術界は事実を解明するところ。
言いがかりかどうかは事実じゃなく認識であり、学術界が決めることじゃない。
「学術界」なんて印籠を出してないで自分で考えて意見を言え。

415:日本@名無史さん
13/08/11 NY:AN:NY.AN .net
>>414
>学術界は事実を解明するところ。
>言いがかりかどうかは事実じゃなく認識であり、学術界が決めることじゃない。
あなたの方こそなんで全然わかってないじゃん

その言いがかりだったとういう認識自体が誤りだったということだよ
諱を入れることは無礼だし、当時の天皇の諱まで入ってひっくりかえってる
当時の豊臣家と徳川家の微妙な関係の中にあってあの鐘の銘文は疑われても仕方ないよ
徳川家に対して反意がなかったとしても、礼を失する行為

416:日本@名無史さん
13/08/11 NY:AN:NY.AN .net
家康の意図が問題なわけで、礼を失する行為だったから言いがかりじゃないってのがおかしいんだよ。
豊臣を臣従させるための口実づくりの意図がなかったと思ってるの?
本当に家康が激怒したんなら>>413が言ってるように鐘を残さないと思うんだけど。

417:日本@名無史さん
13/08/12 NY:AN:NY.AN .net
素朴な疑問なんだけど、司馬とか一部の小説家って、なんで秀吉の晩年を書かないんだ?
(横山光輝の漫画も賤ヶ岳の戦いでおしまい)
秀吉の汚点をもっと見たいでござるとかじゃなくて、純粋に歴史ものとして読みたいんだが。

外国への侵略は現代の価値観では駄目っても、人の歴史は侵略戦争の連続だし、
アレクサンドロス大王、チンギスハン、ナポレオンとかは確実にアウトで、世界史の教科書が修正の墨汁まみれになるじゃねえか。
(良いとは言わんが)秀吉のやったことって、大陸じゃ日常茶飯事に行われてることで、
世界史レベルの暴君と比べたら、秀吉は別に異端でもないと思うんだけどな。
そもそも、歴史に名を残した人物って、偉大な英雄として布団で死ぬよりも、暗い最期を迎えた方が多いと思うんだが。

家康が評価されてないというなら、秀吉だってまっすぐに評価されてないと思う。
物書きの気持ちって、いまいちワカンネ。

418:日本@名無史さん
13/08/12 NY:AN:NY.AN .net
大陸雄飛こそ男のロマンだからな。
馬賊・流賊の頭領になるのも良いな。

419:日本@名無史さん
13/08/12 NY:AN:NY.AN .net
>司馬とか一部の小説家って、なんで秀吉の晩年を書かないんだ?
終戦後、吉川英治が 『新書太閤記』の筆を何故折るのか語っている(文庫の巻末に書いてある)
大作家にああいう風に書かれてしまうと後の作家は書きづらい罠

他人に期待せず、君が先鞭をつけて秀吉の晩年を書けばいいんじゃねぃ

420:日本@名無史さん
13/08/12 NY:AN:NY.AN .net
家康がうんこ漏らした話て三河物語か何かが元ネタだっけ?
徳川方の大久保が書いたんだから本当だと思ってた

421:日本@名無史さん
13/08/13 NY:AN:NY.AN .net
浜松市住みで地元伝説集から家康逃走伝説を調べてみましたが、脱糞の話はありませんでした。そのかわり、多くの町に伝説が残っており、その数約百話。餅を食い逃げした話は有名ですが、脱糞しながら餅を食い逃げした話は現在では否定されてるみたいです。

422:日本@名無史さん
13/08/13 NY:AN:NY.AN .net
吉川英治の三国志も孔明が死んだところでオワットるやないか

423:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
>>293
確かに名古屋って場所は冷静に見ると、あの当時の交通の観点からいけば
熱田からちょっと離れていて中途半端な位置だし、水害に強いという面からみても
中途半端な位置に思える(犬山でも小牧山でも末盛でもなく、なぜか那古野)。

>>365
三河武士が強かったからではなく、むしろさほど強兵ではない分頑固なまでに
保守的で余計な事を考えず一本気だったからこそ天下が取れたのかもしれんね。
どっちかといえば、強兵な三河武士=薩摩武士って感じがする。

424:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
薩摩が強兵だったとすると
強兵薩摩軍&高性能鉄砲部隊を率いながら相良・土持・伊藤・志賀・甲斐・立花・高橋などに負けまくった島津は
武将の能力がゴミクズレベルに低かったと言う事か。

425:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
水俣城攻防戦とか耳川とか関が原とか木崎原とか明らかに島津は大軍なのに
寡兵とか捏造しまくってるからね。

426:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
>>424
要は家老・奉行クラスで優秀な指揮官はあまり多くなかったと思う>薩摩
逆にそのクラスではそこそこ優秀な指揮官はいたが、兵卒の人は中の上じゃないかな>三河

立花氏や伊東氏はどっちかといえば真田氏、村上氏、津軽氏、最上氏みたいな存在。

427:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
薩摩の文章はアテにならん(キリッ
薩摩の文章に関ヶ原では大軍だと書いている

このバカが彼方此方で薩摩を叩いているのか
薩摩否定が昨今の風潮なのか…

428:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
薩摩の文書というかあてにならんのは軍記な。
兵力に関しては比較的信憑性がマシな薩藩旧記雑録だと水俣城攻防戦で115000の大軍動員してるのがわかるし
耳川でも最近の研究だと40000以上の大軍が集結してる。
関が原合戦に関しては石田三成人数書立や慶長見聞集でちゃんと5000の兵力動員してるのがわかるし
1000だの300だのは島津の講談ネタでしかない。

429:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
耳川も沖田畷も宣教師の記録くらいしか資料がないし、沖田畷なんて有馬軍が龍造寺を破っただけの戦いで
それを島津の功責に捏造してるから酷いよな

430:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
御船城の甲斐親直に負けまくり
その子の甲斐親英にも負けまくり
御船城が攻略できずターゲットを高森城にしたら見事に謀られた島津は高森惟居の反撃に壊滅的ボロ負けを喫して相良領まで大敗走。
天正10年に島津の先鋒となり戦死した相良義陽の死と同時に相良領八代を奪い取っていた島津との最前線の堅志田城で負けまくって攻略を断念していた島津が
天正11年に堅志田城の押さえとして花山城を築いていたが、
天正13年に勝ちに乗じて堅志田城を防衛するために阿蘇軍を率いた親英に花山城が攻略されてしまう弱さを発揮。
阿蘇合戦に大敗した島津は、ついに相良を戦わず降伏させた際と同様の圧倒的大軍で北上。
それでも親英に大苦戦。
親英に勝てない義弘は、親英との和睦交渉の席でいきなり拉致り、弓矢の前では偽りもありと開き直り連行したために阿蘇氏は滅亡。
そういや宝満山城を守っていた宗茂の弟の統増に対しての和睦交渉でも
島津は城兵の命を助ける&母の宋雲院と統増の立花城への移動の安全保証の約束がありながら
宋雲院と統増を拉致り、立花城攻めにおいて高満城兵を前線に出して弓矢の盾にして宗茂に降伏すれば違う場所に城と領地を与えると提案してきたが宗茂はまったく信用しなかったな。
島津の戦を冒涜し、武門を辱める行為の数々は卑劣かつ悪質な犯罪者ですらある。
いつも負けまくり圧倒的大軍でないと勝てない弱島津の捏造マンセーは見るに耐えない愚劣さだ。

431:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
あと義弘が妻子がいる加久藤城をワザと兵を少なくして
油断させて伊東に攻めさせたとか、相良をウソ情報で撤退させたとかw
おまえ相良と婚姻関係だった大隈の菱刈氏の大口城が陥落した時点で加久藤城は背後に大口の新納が配置れてんだから安泰だろ。
油断させておびき出したとか完全に捏造デタラメw
だいたい大口陥落で菱刈氏衰退に拍車がかかったので
東郷や渋谷も島津側に走っト周辺が島津一色に塗られた状況・・・そんな状況の場所を相良がわざわざ攻めるわけねーだろw
伊東に飫肥を攻め取られた島津は日向への唯一の出入口になった大口方面に戦力集中してんだぞw
しかし島津弱いね。
相良に負けっぱなしだもんな。
薩摩からの入口に過ぎない水俣城攻防戦でも大敗しまくりで
最後は家久31000 義弘31000 義久53000で水俣城700を囲んで和睦に追い込んだにすぎんからな。
この時に竜造寺が援軍を出さなかったから助かったが
もし出してたらまた水俣攻略失敗してたなw
島津側公式記録の肥後合戦陣立日記・肥後水俣陣立記や薩藩奮記雑録

天正7年9月から琢磨・八代衆700の守る水俣城のある葦北庄侵攻を開始した島津軍は連戦連敗だよ。
特に天正8年9月の佐敷計石合戦での相良大勝はすさまじいものだったとか。
それで最後は11万5000を投入して、かる石之尾に家久・征久熊牟礼に義弘
出水本陣が義久の総力戦で相良義陽が大軍に背後を断たれる恐れから佐敷から八代へ撤退し
竜造寺に援軍を求めたものの援軍は来ず天正9年9/27に和睦開城。

432:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
軍記はダメで慶長見聞集はイイというのも面白い解釈だが
石田三成人数書立でググっても2chしかでてこんというのも何ともw
三成書状のことを指しているとして、それは何処で確認できるんだ?

433:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
慶長見聞集は軍記じゃなく名前通り見聞集だし
石田三成人数書立なんて愛知県史でも大阪編年史でも思いっきり出てきてる基本中の基本の史料なんだが。
脚色創作入れまくりの島津軍記や講談の島津の兵力捏造を盲信してる馬鹿にいっても無駄だろうけど。

434:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
wikiやネットサイトしか読まない馬鹿がこのスレにはいるんだな。

435:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
島津が兵力を捏造しまくるのは毎回の事だからね。
耳川でも木崎原でもそうやって捏造寡兵で大勝利したとか妄想をデッチあげてるし。

436:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
>wikiやネットサイトしか読まない馬鹿がこのスレにはいるんだな
幕府公史を軍記といったり、同時代に書かれていない伝聞録は軍記じゃないから信用できるとか言っている奴もいるからなw
何より俺の手元の大阪府史・市史から大津史に至るまで、ふつーに軍記・軍談が参考資料に掲載されているのに
一度も市史の類を見たことない奴が熱心に語っちゃってるところで察してやれ
「ソースは2ch」つーか「僕ちゃんが発見した新事実!」を熱心に2chで布教しているんじゃないかと思うと何とも微笑ましい

437:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
軍記とか軍功記って各大名家が作成した家記や家譜を下敷きにさらに脚色や創作いれて作っただけなんだが。

>>何より俺の手元の大阪府史・市史から大津史に至るまで、ふつーに軍記・軍談が参考資料に掲載されているのに

参考資料に掲載されたからといって信憑性があるわけではない。ただ著者が他の史料見てないか他の史料が発見されずにそれに依存するしかないから
引用してるだけ。

>>幕府公史を軍記といったり

はぁ?何の史料の事いってんだ?江戸期作成の史料なんてそれこそ同時代史料じゃないから信憑性なんか皆無だわアホ。

>>同時代に書かれていない伝聞録

慶長見聞集が同時代史料じゃないというソースは何だ?愛知県史とかでも一次資料と並べて扱われてるし
兵力の記述を見ても、石田三成人数書立とほぼ符号するし島津の糞講談とか軍記に比べりゃ遥かにマシなんだがw

>>一度も市史の類を見たことない

発行の古い郷土史とかだと一次資料の発見が遅れてて軍記に依存するしかないから仕方なくひっぱってきてるだけだろ。
例えば岡山県の地方史とかでも、80年代以前は軍記に依存しまくってたが90年代になって岸田氏によって沼本家文書とか岡家文書とかが
紹介されてようやく同時代史料に基づく旧説の再検討や新たな史実掘り起こしが進められていったんだし

438:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
島津の軍記や講談が一次資料とか陣立書より信憑性あると思ってる馬鹿はスレにこなくていいよ

439:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
歴史を語りたいなら最低限愛知県史資料編織豊3くらいは見てこないと話にならん。

440:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
島津の捏造合戦


木崎原の戦い→一次史料皆無の島津軍記オナニー
戦場が義弘統治下のホームグラウンドでありながら、義弘の兵力の方が極端に少ない謎
まるで諸葛亮孔明並みの予言力で、伊東軍の逃走経路を算出し、都合よく配置した上に、
都合よくその場所へ島津の援軍も到着する軍記丸出しストーリー
そもそも伊東氏の家臣を疑う乱政で人心がすでに離散していて自壊状態の不満を外敵へ向けさせただけのアホ戦だったとする話も。

耳川の戦い→これは宣教師の記述くらいでしかまともに史料なし。当然、当然兵力についてもまったく不明。
宣教師によればそもそも大友軍は島津と戦う気gはなく、総大将の田原からして、
島津との間で勢力圏を決めて和睦するためにきたようなもんだった。
出陣の目的は豊後から離れた場所でのキリスト教と宣教師をどういう手段で追放するかの会議だった。

沖田畷の戦い→これも宣教師の記録からしかまともなことはわからない。
宣教師によれば、もっとも竜造寺と激しく戦ったのは有馬。隆信戦死場所も有馬陣前方。
島津はロクに働いていない。島津側の資料には鍋島が島津に内通し、隆信のいる場所へ案内してくれたと記される。

戸次川の戦い→これも宣教師の記述が一番マトモに書かれている。
これによれば豊後に来た仙石はさっそく略奪を開始し、あまりの暴虐に豊後民から見放される。
大友義統などから戦闘は時期尚早と反対されるが反対意見をすべて無視して無謀な進出を強行して敗北。

泗川の戦い・露梁津の海戦→半島はザコなので自慢にすらならない。
むしろのちに関が原で一緒に戦うことになる軍団長の小西の功績を盗んで記述してる疑いが濃厚。

関ヶ原退却戦→兵力5000もいたのに、寡兵の本多や忠吉に部下をほとんど殺され、
家久の子である豊久の犠牲を強要しての単なる大敗走。豊久討ち死にで家久の家は実質滅亡。
あまりのボロ負けに、島津を親の仇と思っている立花宗茂に自分を守って九州へ連れて行ってくれと哀願。

441:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
8/19義弘→忠恒 「連連御家中在京之人衆七千人之御盛」「然処九州衆過半被成在京、当時秀頼様御用ニ被相立候
在国之衆者皆々被召上候、其上分国よりも御人衆馳走可仕由被仰聞候間」

442:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
島津は領国の兵ほとんど関が原に連れてきてる(8/20義弘→本田正親書状で惣在国之人集ハ彼表へ在番可申付と書いてる)
石田三成人数書立にも美濃口 羽柴兵庫頭(島津義弘) 五千人と書いてるし
伊達家文書の関が原合戦時の記録にも同様の人数。 後合戦後徳川が敵方島津を褒めたなんて事実はない

敵中突破って島津軍5000は徳川方にほとんどぶち殺されて数十騎で命からがら帰ってきたんだがw
真田文書・石田三成人数書立・慶長見聞書  羽柴兵庫頭(島津義弘) 五千騎
8/20義弘→本田正親書状 惣悉在国之人集ハ彼表へ在番可申付

島津が寡兵とか馬鹿じゃね

443:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
基本的に島津は戦えば必ず負ける軍隊なので毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ
例えば伊東崩れと呼ばれる伊東氏滅亡の時も圧倒的な大軍だった。

天正4年(1576年)8月島津義久が率いる30000の大軍勢から攻撃を受ける。
守りを固める伊東勘解由の高原城には370余人ほどの兵しかいなかった。
伊東義祐は城兵を救うべく援軍を出したが、圧倒的な兵数差一戦も行えなかった。
これにより伊東崩れと称される伊東氏崩壊が始まり翌年には豊後へ逃避行をしている。

相良の援軍として1556年から大口城へ入り駐屯した赤池長任とその配下の岡本頼氏
この両名に島津はフルボッコ&報復攻撃の連続で義弘は完全に涙目。
なにしろ1568年に赤池長任が死去するまでの10年以上に渡りまったく落ちる気配すらなかった。
赤池が死去した翌年にやっと落城。
ちなみに島津の豊後侵攻で大友にボコボコにされて岡城方面から肥後へ抜ける退却路を封鎖され
家久がフルボッコされながら日向へ落ちて行った佐伯地方から
義弘もズタボロになりながら脱出を図った時に
義弘が死にそうなのを助けて殿を務めて命を救ってやったのが相良からの援軍の岡本頼氏。

島津に先鋒隊蹴散らされ根白坂でも大軍の援軍到着前まで窮地に追い込まれた豊臣遠征軍より
島津を寡兵で撃退しまくった相良や伊藤、土持、伊藤、甲斐、志賀、大友の方が戦上手

444:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
佐伯惟教って日向の高城救援に向かっていた島津家久の軍勢を遭遇戦で大破してんだよな。
本戦前夜に田北鎮周が「この戦自体が反対だったが先陣を任されたからには潔く突撃して死んでみせる」と自暴自棄発言。
翌日に自殺突撃するので、これでは作戦もなにもないと嘆いて続いて自殺突撃して息子ともども殉じてしまうが、
あとを継いだ孫の佐伯惟定は義弘と義久の両方をボコボコにして秀吉から激賞されてるし、まさに島津キラー佐伯。

445:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
多分だけど『歴史群像』辺りの通俗雑誌に、島津家は関ヶ原に5千だか6千だかの兵がいたとの記事があり、
それを真に受けたのだろう。
レスの流れをみるに、もし立場が逆で、相手が『慶長見聞集』を根拠に何か言えば「北条五代記」を根拠に
『慶長見聞集』を全否定しそうな雰囲気。

他のスレでも、類似の軍記全否定発言が見られるけど、歴史学的には何が書かれているかが重要で、
軍記だから駄目という見方はしない。
このことは、以前は誰も手を出さなかった『甲陽軍鑑』が、近年では積極的に史料として採用されていることか
らも分かる。

一応書いとくけど、平成の事業(バブル末期)で各地の市町村史が再編されたが、役所が編纂したと言って
も予算の少ない町村史は、実質(実績の無い)個人への丸投げや、経緯の分からない方針で編集されてい
るから、学術誌とは明確に一線を引くべき。

446:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
>>多分だけど『歴史群像』辺りの通俗雑誌に、島津家は関ヶ原に5千だか6千だかの兵がいたとの記事があり、それを真に受けたのだろう。

何それ?何月号のどこに書いてるの?つか、こんだけ>>441-442で史料提示してるのに歴史群像引用とかアホかw

>>相手が『慶長見聞集』を根拠に何か言えば「北条五代記」を根拠に『慶長見聞集』を全否定しそうな雰囲気。

見聞集は軍記じゃねーよアホ
一応聞き書きだから聞き書きや覚書を参考にして作成された家記や家譜を下敷きにして創作や脚色交えて書かれた軍記や講談とは比較になんねーよアホ

>>軍記全否定発言が見られるけど、歴史学的には何が書かれているかが重要で軍記だから駄目という見方はしない

軍記は基本的に一次資料類が乏しい時にしかたなくひっぱってくるだけ。家譜や家記を下敷きに創作や脚色まじえて書かれた物だから
基本的に直接的なソースとしては使わない

>>このことは、以前は誰も手を出さなかった『甲陽軍鑑』が、近年では積極的に史料として採用されていることからも分かる。

軍艦も見直されてはきてるけどそれを直接のソース元になんかしねーよ馬鹿

>>予算の少ない町村史は、実質(実績の無い)個人への丸投げや、経緯の分からない方針で編集されているから、学術誌とは明確に一線を引くべき。

お前の言ってるのは通史編の方な。資料編は基本史料がそのままのってるだけだから編集も糞もない。

447:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
島津の捏造合戦


木崎原の戦い→一次史料皆無の島津軍記オナニー
戦場が義弘統治下のホームグラウンドでありながら、義弘の兵力の方が極端に少ない謎
まるで諸葛亮孔明並みの予言力で、伊東軍の逃走経路を算出し、都合よく配置した上に、
都合よくその場所へ島津の援軍も到着する軍記丸出しストーリー
そもそも伊東氏の家臣を疑う乱政で人心がすでに離散していて自壊状態の不満を外敵へ向けさせただけのアホ戦だったとする話も。

耳川の戦い→これは宣教師の記述くらいでしかまともに史料なし。当然、当然兵力についてもまったく不明。
宣教師によればそもそも大友軍は島津と戦う気gはなく、総大将の田原からして、
島津との間で勢力圏を決めて和睦するためにきたようなもんだった。
出陣の目的は豊後から離れた場所でのキリスト教と宣教師をどういう手段で追放するかの会議だった。

沖田畷の戦い→これも宣教師の記録からしかまともなことはわからない。
宣教師によれば、もっとも竜造寺と激しく戦ったのは有馬。隆信戦死場所も有馬陣前方。
島津はロクに働いていない。島津側の資料には鍋島が島津に内通し、隆信のいる場所へ案内してくれたと記される。

戸次川の戦い→これも宣教師の記述が一番マトモに書かれている。
これによれば豊後に来た仙石はさっそく略奪を開始し、あまりの暴虐に豊後民から見放される。
大友義統などから戦闘は時期尚早と反対されるが反対意見をすべて無視して無謀な進出を強行して敗北。

泗川の戦い・露梁津の海戦→半島はザコなので自慢にすらならない。
むしろのちに関が原で一緒に戦うことになる軍団長の小西の功績を盗んで記述してる疑いが濃厚。

関ヶ原退却戦→兵力5000もいたのに、寡兵の本多や忠吉に部下をほとんど殺され、
家久の子である豊久の犠牲を強要しての単なる大敗走。豊久討ち死にで家久の家は実質滅亡。
あまりのボロ負けに、島津を親の仇と思っている立花宗茂に自分を守って九州へ連れて行ってくれと哀願。

448: 忍法帖【Lv=4,xxxP】(1+0:5)
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
司馬先生は何だかんだいって薩長史観に染まってるからなあ・・・。
明治時代を良く言うためには江戸時代や家康を貶めるのは当然の帰結。

449:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
司馬の馬鹿のせいで八幡和郎みたいな薩長マンセーアンチ東国のアホ史観の輩が増えたんだよな

450:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
>司馬先生は何だかんだいって薩長史観に染まってるからなあ・・・。
>明治時代を良く言うためには江戸時代や家康を貶めるのは当然の帰結。
司馬はどっちかーつーと、軍隊時代の私怨で昭和を否定したいから明治を肯定している希ガス
大久保専制については江戸時代にも有り得ないと批判しているしな
無条件の批判は昭和だけで、明治や江戸は肯定・批判ありきと言われると一寸違うような…

451:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
最近彼方此方で見かける「グンキガー」君は同一人物っぽいね もうどうでもいいから最後に所感を書いて火病を見物しようか

>言ってるのは通史編の方な。資料編は基本史料がそのままのってるだけだから編集も糞もない
編集ってのは刊行する際の方針の事じゃねぃ
>軍艦も見直されてはきてるけどそれを直接のソース元になんかしねーよ
見直され、ソース(?)として活用されているのが現実かと
>軍記は基本的に一次資料類が乏しい時にしかたなくひっぱってくるだけ
近年の論争全否定つーか争点を全く理解してなきゃ書けない理屈だ罠
>家譜や家記を下敷きに創作や脚色まじえて書かれた物だから
意味不明 まぁ「俺が認めない文章は全てグンキ」君に軍記の定義なんか無いのは分かってるけどw
>見聞集は軍記じゃねー
公史も軍記じゃないよね 気に入らないものはグンキ・グンキと決め付けている君には、どうでもいい区別なのだろうが
>聞き書きだから
聞き書きも軍記も軍談も史料批判が必要だということでは何も変らない
>発行の古い郷土史とかだと一次資料の発見が遅れてて軍記に依存するしかないから仕方なくひっぱってきてるだけだろ
根拠の無いというより事情を全く知らない門外漢の妄想乙!

452:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
>例えば岡山県の地方史
発行が新しけりゃ内容が新しくなるのは当たり前じゃねぃ?何が言いたいのかさっぱり分からん
>愛知県史とかでも一次資料と並べて扱われてる
県史で並べて表記されているからって何?何時から県史は学術書並みになったの?
>兵力の記述を見ても、石田三成人数書立とほぼ符号するし島津の糞講談とか軍記に比べりゃ遥かにマシ
意味も分からず使用しているであろう君の大好きな言葉“一次資料”の取捨選択は君だけの特権と思い込むのは自由だが、その勢いで君の珍説を表の場で公開してはどうだろうか
匿名掲示板でだけ熱心に布教するのは人類にとっての損失(←補足が必要そうだから書いとくけどコレは当て擦りの類だからw
>江戸期作成の史料なんてそれこそ同時代史料じゃないから信憑性なんか皆無
え~と“聞き書き”は史料じゃないから江戸期作成でも無問題? 俺がバカなのかな自分でも何を言っているのか分からなくなってきた
>参考資料に掲載されたからといって信憑性があるわけではない
そう思うなら君が書いとくべきだよね 
>愛知県史でも大阪編年史でも思いっきり出てきてる基本中の基本の史料
これでは県史に採用されただけで無条件に信用すべきだと他人に強いているようにしか読み取れない 
君だけが分かっていても意味が無い。他者が読んで主張を理解できる文章を書く訓練ができてないからこういう独り善がりな文で他の同意が得られると勘違いしてしまう

453:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
>>編集ってのは刊行する際の方針の事じゃねぃ
だから資料編の編集方針が予算の少ない町村史は、実質(実績の無い)個人への丸投げや、経緯の分からない方針で編集されているから
>>見直され、ソース(?)として活用されているのが現実かと
見直されてなんかない。昔の軍記マンセー作家が書いた本ほど軍記引用が多様されてるからな
>>近年の論争全否定つーか争点を全く理解してなきゃ書けない理屈だ罠
近年の論争の基本は軍記は創作脚色だから否定→一次資料重視の流れになってるから全く理解してない馬鹿はお前
>>意味不明 まぁ「俺が認めない文章は全てグンキ」君に軍記の定義なんか無いのは分かってるけどw
そんなもん常識だろ。光成準次氏も藤田達雄氏も谷口央氏も普通に書いてる。
>>公史も軍記じゃないよね 気に入らないものはグンキ・グンキと決め付けている君には、どうでもいい区別なのだろうが
公史って江戸期の編纂史料だから信憑性なし。
見聞集って名前がついてるし創作っぽい話とか軍談とかが講釈つきで載ってないから軍記じゃないとアホでもわかるだろタコ
名前からして見聞集って書いてるじゃねぇか
>>聞き書きも軍記も軍談も史料批判が必要だということでは何も変らない
聞き書き→一応は実地体験をそのまま書いてるだけで無駄な脚色とか創作とかは入ってない(これは原文よみゃわかる)
軍記→藩士たちが幕府に提出した家譜などを下敷きに脚色創作入れまくって妄想ばかり挿入して書いただけ。
軍記よめば一次資料にない無駄な情報が後ろ付けで次々面白おかしく挿入されてていかに嘘ばっかデッチあげられてるかわかる

>>根拠の無いというより事情を全く知らない門外漢の妄想乙!
そりゃお前の事だろタコ
>>発行が新しけりゃ内容が新しくなるのは当たり前じゃねぃ?何が言いたいのかさっぱり分からん
とりあえず山本浩樹氏の「織田・毛利戦争の地域的展開と政治動向」の3ページ目でも読んで出直してきてくれ。

454:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
>>県史で並べて表記されているからって何?何時から県史は学術書並みになったの?
軍記は軍記として別個にまとめられてるしそもそも見聞集って名前がついてる時点で軍記じゃない。つか、軍記にありがちな
創作とか脚色まじえた無駄な情報とか引用が全くかかれてない。お前軍記もろくに読んだ事ないだろ。一次資料にない事を挿入されてる家譜や家記の情報に
さらに余計な創作を入れてるから、例えば長久手合戦とかでも一次資料→覚書→家記・家譜→軍記・軍功記・合戦記になるに従って物凄い創作情報が加わって
膨大な量に増えていってるんだがw
しかも物によっちゃ軍記の原文にも「~家記ニイウ、」とか引用してる事しっかり原文に書いてるんだが。

>>意味も分からず使用しているであろう君の大好きな言葉“一次資料”の取捨選択は君だけの特権と思い込むのは自由だが、その勢いで君の珍説を表の場で公開してはどうだろうか
一次資料→同時代の人間が書いた創作脚色なしの実地史料
軍記→一次資料より信憑性低い覚書や聞書を下敷きにして書かれた家譜や家記をさらに下敷きに創作脚色いれまくって書いた捏造話
匿名掲示板でだけ熱心に布教するのは人類にとっての損失(←補足が必要そうだから書いとくけどコレは当て擦りの類だからw
>>え~と“聞き書き”は史料じゃないから江戸期作成でも無問題? 俺がバカなのかな自分でも何を言っているのか分からなくなってきた
はぁ?聞き書きは直接伝聞情報をそのまま書いただけだろうがw
何も下敷きにしてないし創作も入れてないから原文読んでも実にあっさりした内容だわアホ
>>そう思うなら君が書いとくべきだよね 
何がいいたいのかわからん。
>>これでは県史に採用されただけで無条件に信用すべきだと他人に強いているようにしか読み取れない 
お前が>>432でググっても出てこないとかいうから載ってる本を教えてやったんだろうがw
>>君だけが分かっていても意味が無い。他者が読んで主張を理解できる文章を書く訓練ができてないからこういう独り善がりな文で他の同意が得られると勘違いしてしまう
だから人数書立がググって出てこないからどうこういうアホがいるからお前に教えてやったんだろうがw

455:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
島津の軍記や講談が一次資料とか陣立書より信憑性あると思ってる馬鹿はスレにこなくていいよ

456:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
歴史を語りたいなら最低限愛知県史資料編織豊3くらいは見てこないと話にならん

457:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
wikiやネットサイトしか読まない馬鹿がこのスレにはいるんだな。

458:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
時間がかかったわりに内容が無くてガッカリした
お前には失望した

もっと火病的なレスを期待したのになぁ…

459:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
つか軍記でいいなら本多の軍功記とかだとわずか500で島津軍4500を悉く討ち取って
薩摩まで敗走させたことになってるんだよな

460:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
>>459
それどころか姉川の磯野の11段崩しとかもありになる件。
北条氏康なんかは8000で80000の兵打ち破った基地外チート武将になるなw

461:日本@名無史さん
13/08/31 NY:AN:NY.AN .net
>時間がかかった

459 名前:日本@名無史さん 投稿日:2013/08/31(土) 16:51:20
460 名前:日本@名無史さん 投稿日:2013/08/31(土) 16:52:52
>>459

この間一分三十二秒の早業である
チト笑タ

462:日本@名無史さん
13/09/10 22:30:38.08 .net
戦における総大将としての家康は、はっきいって最悪に近い戦績。家康が総大将で勝った戦があったのか?と首を傾げるくらい。

信長の下での連合軍としての時に限っては勝利が多いのだが・・・姉川とか長篠とか。これは織田軍による采配の功績のほうが大きかろう。


関ヶ原では実際には到着していなかった可能性とか、大阪では圧倒的兵力差で包囲していたのにもかかわらず、真田幸村によって家康本陣は壊滅、家康本人も討ち取られる寸前だったという。

463:日本@名無史さん
13/09/11 14:35:14.00 .net
姉川で大勝利したのは大軍朝倉を蹴散らした家康のおかげだし
織田が包囲網勢に滅亡寸前までに追い込まれながら武田の猛攻を必死に支えてたのは100%家康のおかげ。
志賀の陣でも金ヶ崎攻囲戦でも徳川方は活躍してるし上洛戦にも参陣するなど
信長が畿内を平定できたのはほとんど家康のおかげといっていい。

あと大阪の陣で徳川方本陣が壊滅・家康討死寸前とかは後世の講談なので信憑性が全くない。

464:日本@名無史さん
13/09/11 14:37:00.63 .net
家康がいなかったら信長なんて武田に瞬殺されてただろうな

465:日本@名無史さん
13/09/11 14:42:11.30 .net
家康は常に寡兵で大軍の朝倉・今川・北条・豊臣・石田などと戦い常に勝利納めてきたからね
だからこそ天下を取れたわけで。
常に圧倒的大軍で寡兵の斉藤・長島一向宗・北畠・武田・浅井・朝倉・本願寺・赤井など相手に負けたり
苦戦をしまくって光秀に殺されて滅ぼされた信長より遥かに戦上手でしょ

466:日本@名無史さん
13/09/11 14:43:12.29 .net
氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、
宇都宮、梁田、那須、小山、太田

その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。

信長は、浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。



氏康>>>>>>>信長

信長や秀吉は畿内や美濃に大苦戦し生涯を終えた。

家康は武田に苦戦したが畿内や美濃は瞬殺した。

武田>>>>家康>>>>>>>>>>>>>>>>雑魚織田

信長は山県、馬場、家康より弱い。

信玄は山県、馬場、家康よりずっと強い。

謙信は信玄より強い。

謙信>>信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長

467:日本@名無史さん
13/09/11 21:14:09.77 .net
>姉川で大勝利したのは大軍朝倉を蹴散らした家康のおかげだし
また妄想厨の連投かよorz

468:日本@名無史さん
13/09/11 21:56:43.63 .net
大久保が法螺話を書いたなんて根拠は全くないし
例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
当代記のその方面の記述は基本的に信長記のトレースだから全く参考にならない
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう

姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ

織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。

10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。

469:日本@名無史さん
13/09/11 21:57:41.92 .net
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない

また織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。

 遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。

470:日本@名無史さん
13/09/11 21:59:52.01 .net
姉川は例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。

遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。

姉川の徳川活躍が嘘とか言ってるのは谷口とか堀とかアンチ徳川の史料無視の馬鹿学者くらいだよ
上記のように根拠もあるし信長も書状で徳川が1万五千もの圧倒的大軍の朝倉勢を切り崩したと書いてる(6月28日付け細川藤孝宛て書状)
また水藤氏は朝倉はこの合戦に関する史料を残さず、逆に徳川側には豊富に存在するのも徳川の勝利をよく表していると書いてる(大日本史料第10篇之4)
また一乗谷にはたくさんの石塔・石仏に混じって「元亀元年6月28日為春捜全芳禅定門」やまたその他数種類の銘文を持つ石塔や石仏が残され
いずれも姉川の合戦で徳川と戦った朝倉勢の討ち死にした者を弔うために残された一族が造設したとされる

471:日本@名無史さん
13/09/11 22:01:08.33 .net
wiki丸ごとコピペの張り合わせw

472:日本@名無史さん
13/09/14 17:42:53.29 .net
>>465
石田相手の時は寡兵ではないと思うが。西軍は見かけの数は多くても内情はアレだから。

473:日本@名無史さん
13/09/14 18:57:28.29 .net
東軍も三成にくしで凝り固まってるだけの軍隊じゃん。
西軍は一応内府たがい条とか家康の専横に対して諸大名連署で結成された公儀の軍。
当時石田三成襲撃事件後失脚した三成でもあれだけ大軍が集結したんだから、いかに
家康の傲慢なやり方に異を唱える連中が多かったって事だろ。

474:日本@名無史さん
13/09/14 19:57:43.03 .net
>石田相手の時は寡兵ではないと
寡兵ではないが大身の武将は殆どいないから烏合の衆ではある罠
別の言い方をすると家康本体は軍としての体を為していない

475:日本@名無史さん
13/09/14 22:40:54.91 .net
西軍は畿内方面だけで18万もいたからな。
無理矢理私婚を推し進めまくったり島津の領土問題に介入して豊臣蔵入り地を削ったり
奉行衆らの糾弾に対して軍事力で跳ね除けたりもうめちゃくちゃやってるからな。
家康が「天下殿」の風聞を得た後でさえ西軍に大量に兵が集まったのは、ひとえに
この勝手な振る舞いをけしからんと思った大名が多かったからだろうし

476:日本@名無史さん
13/09/20 15:14:01.01 .net
家康の事を書いた「覇王の家」は途中で書くのが嫌になったかのように投げっぱなしで終わる。
なんか、家康の事を好きになろう、理解しようと頑張ってみたがやっぱダメだったという感じ。

477:日本@名無史さん
13/11/24 03:16:42.05 .net
司馬遼太郎は家康が秀頼を討伐する意思は一貫していたというけど、
史料を見る限り家康は大坂とは講和模索派であって、秀忠と一線を画していたのは明白。
だから何回も何回も大坂退去で秀頼と牢人衆を切断しようとしている。

478:日本@名無史さん
13/11/25 14:35:38.02 .net
>>475
まったく関係ないよ
西軍の主力は上杉討伐のために動員された諸侯で、石田家や宇喜多家ですらその例外ではない
三成が豊臣公儀から勝手に命令を引き出して足止めを食わせたに過ぎない

正統性だけで言えば、手続を踏んで節刀を賜った家康の側のほうが圧倒的にある

479:日本@名無史さん
13/11/25 14:47:26.99 .net
司馬だって「関ヶ原」で、三成の「義」に対して唐入りに疲れた天下人心の「仁」を対置させ、
さらに戦後に三成に「わしの義は諸侯に利を食らわせたにすぎなかった」と悟らせて終わらせてるのに

司馬が大坂オナニーのために書いた小説を本気で信じ込んでるのが信者

480:日本@名無史さん
13/12/15 12:13:54.58 .net
>>479
私はおおらかな歴史を持つこの民族に生まれたことを誇りに思う。 (司馬遼太郎

481:日本@名無史さん
13/12/15 12:41:02.93 .net
あれだけよく書いても人気が出ないって相当だよな

482:日本@名無史さん
13/12/15 13:07:06.07 .net
司馬遼太郎に名家好きと評された家康が、成り上がりとは言え豊臣関白家を根絶やしにしたのは残念

483:日本@名無史さん
13/12/15 20:41:32.57 .net
いや秀吉は名家じゃねぃし

484:日本@名無史さん
13/12/16 00:08:36.32 .net
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる

485:日本@名無史さん
13/12/16 00:09:24.89 .net
木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)

あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)

清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる

486:日本@名無史さん
13/12/16 00:10:10.81 .net
津田や木下は織田の一門でしょ。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに織田家でかなりの地位にいたことがわかるし
一次資料初見は重臣や大名しか出せない領土安堵状。
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる

487:日本@名無史さん
13/12/16 00:10:51.81 .net
マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた

488:日本@名無史さん
13/12/17 07:17:29.67 .net
東照大権現

489:大阪人顔=ダウン症顔
14/02/06 00:20:13.40 .net
■日本人(モンゴロイド)が差別される理由~人種差別の本質は容姿差別~

皆さんはダウン症をご存知でしょうか?染色体異常が原因と思われる病気で、身体、
知能の発達が著しく低くなります。この病気は世界中で見られるのですが、とても奇妙な、
そして興味深い特徴があるのです。それはこの病気を持って産まれた人はいかなる人種でも
皆同じ顔をしていると言う事です。そして、その顔とはまさにモンゴロイドそのものなのです。
欧米でも中東でもアフリカでもモンゴロイドの顔をした人がしばしば産まれているのです。
そのため、外人はモンゴロイド顔にとても敏感なのです。
勿論、周りの人はそれが遺伝子に異常を持って産まれたであろう事を知っていますが…
これは同じモンゴロイド顔をした日本人同士が議論していても決して理解できる物ではありません。

■「ダウン症候群」=「Mongolism(蒙古人症)」または「mongolian idiocy(蒙古痴呆症)」

ダウン症は、1866年に英国の医師ジョン・ラングドン・ハイドン・ダウンが初めてその存在を発表しました。
ダウン医師は発達の遅れを持つ子供の中に両親は違っていても、兄弟のようによく似た子供達が
いることを発見しました。ダウン症の特徴は、モンゴリアン(蒙古人)の特徴とよく似ていることから、
ダウン医師はヨーロッパ人の中で能力の劣った蒙古系の人種が生まれてきたと考えました。
そしてモンゴリズム(蒙古症)という名を付けたのです。その後、1965年にWHOによって
ダウン医師の名前から「ダウン症候群」を正式な名称とすることが決定されました。

■ダウン症の特徴はモンゴロイドの特徴

ダウン症の容貌の特徴に短頭・首が太く短い・低身長・短い手足
凸凹してない平面顔・筋緊張低下・内眼角贅皮(蒙古ひだ)・厚いまぶた
平坦な鼻根・あごが未発達・エラなし・直毛…
全ての特徴が現れる訳ではありませんが、モンゴロイドはダウン症の特徴が多く集まっています。
コーカソイドでも、この病気を持って生まれてくるとモンゴロイドのような顔になります。

490:大阪人顔=ダウン症顔
14/02/06 00:21:10.53 .net
ダウン症白人
URLリンク(www.webhealthguides.net)
URLリンク(pds.exblog.jp)
URLリンク(home.comcast.net)
URLリンク(farm4.static.flickr.com)
URLリンク(farm5.static.flickr.com)
URLリンク(farm1.static.flickr.com)
URLリンク(farm3.static.flickr.com)
URLリンク(farm5.static.flickr.com)
URLリンク(farm8.staticflickr.com)
URLリンク(farm3.static.flickr.com)
URLリンク(farm4.static.flickr.com)
URLリンク(farm1.static.flickr.com)
URLリンク(farm1.static.flickr.com)
URLリンク(farm1.static.flickr.com)
URLリンク(farm3.static.flickr.com)
URLリンク(farm4.static.flickr.com)
URLリンク(farm3.static.flickr.com)
URLリンク(farm4.static.flickr.com)
URLリンク(farm3.static.flickr.com)
URLリンク(farm3.static.flickr.com)
URLリンク(farm3.static.flickr.com)
URLリンク(farm7.staticflickr.com)
URLリンク(farm7.staticflickr.com)

491:大阪人顔=ダウン症顔
14/02/06 00:22:19.46 .net
蒙古ひだの写真
URLリンク(waynesword.palomar.edu)
URLリンク(en.wikipedia.org)
URLリンク(www.nlm.nih.gov)
URLリンク(www.se-biyou.com)

ダウン症の顔は後頭部と顔面の骨格が未発達なため顔を
押しつぶした扁平な顔であり、彫が極端に浅い究極の童顔である。
そして最も童顔であるアジア人はダウン症の顔に近いと言われており、
白人のダウン症児はアジア人の最大の特徴である蒙古ひだを持っている。
これは別の言い方で蒙古症とも言われている。

モンキーライン
URLリンク(2ch.jpn21.net)
URLリンク(www.gazou.me)

URLリンク(www.biyo.2-d.jp)
百年後の日本人の顔は、いまよりもっとあごが退化した顔になると言われています。
それは、柔らかいものばかりたべているせいです。
あごの骨は硬いものをかめば咬むほど発達しますが、柔らかい食べ物では、発育不良化が進みます。
鼻が高く、あごも発達している白人は、Eラインの人が多いのですが、日本人では
美人系芸能人にまれにあるぐらいで、ほとんどがモンキーラインなのです。

492:日本@名無史さん
14/02/08 17:23:15.10 .net
1 名前: 名無し三等兵 [本代を返せ!] 投稿日: 2013/04/24(水) 07:17:16.64 ID:???
俺が大学1年生の時、日露戦争100周年と言う事で、TVでは
色々な特番が組まれ、関連書籍も多く出ていた。

そこで、以前から人気のあった「坂の上の雲」を読んだ後、
歴史・軍事の専門家の書いた日露戦争の書籍を読んだ。
そして、ショックを受けた。

司馬はフィクションを封印し真実しか書かず、資料は参謀本部が
残した前線の地図だけで物語を演繹的に構成したと言っていたが、
「坂の上」は、機密日露戦争史を丸パクリしただけの一から十まで
大嘘のオンパレード小説もどきだったことが判明した。

実際には乃木は有能な将官だったし、海軍がゴリ押しした二○三高地
攻略も必要なかったし、第三軍に児玉の干渉はなかったし、東郷は
日本海海戦の直前に連合艦隊を対馬近辺から移動することも考えたし、
児玉は参謀次長になった時、田村怡与造の作戦案を滅茶苦茶に修正
しまくり だったし、・・・

司馬に騙されている人は専門書とか読まないの?

3 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2013/04/24(水) 08:37:55.15 ID:???
司馬で歴史を語る奴がいるのは事実だが
それは司馬のせいじゃない

4 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2013/04/24(水) 10:05:59.17 ID:???
歴史小説を一瞬でも史実だと思い込んだ>>1が悪い

5 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2013/04/24(水) 10:12:51.15 ID:???
>>1
大学生になっても歴史書と歴史小説の区別が付かないとか、どんだけ頭が悪いんだよ
これがゆとり脳か…

493:日本@名無史さん
14/03/25 09:40:22.37 .net
考えてみりゃ家康の独立は朝鮮の独立みたいなもんだな。
今川が敗れたドサクサで独立。戦はしてない。

494:日本@名無史さん
14/03/25 09:44:52.72 .net
評価してなかったっけ?

495:日本@名無史さん
14/03/25 09:47:00.88 .net
司馬に限らず
家康の能力は認めるが嫌いって小説家多くないか

496:日本@名無史さん
14/03/29 18:28:25.50 .net
大抵史実の戦馬鹿でうっかりさんの家康と似ても似つかぬ
家康像を勝手に作って勝手に嫌ってるけどね

497:日本@名無史さん
14/03/29 18:40:29.85 .net
前にも言われてたけど
徳川幕府が捏造した「幕府を打ち立てた神君様」という虚像を
信じちゃってるんだよね
政治能力に関しては逆に過大評価している

498:日本@名無史さん
14/03/30 10:45:39.12 .net
徳川幕府が「幕府を打ち立てた神君様」なんて全く作ってないし
むしろ江戸期は秀吉のハッタリ逸話ばかり流行しまくってて
江戸期を通じて秀吉はかなり人気があったし
家康は逆に本人が情けない姿を書かせたりして謙虚だったから
今に伝わるようなぶひぶひいいながら逃げ回る小物みたいな虚像ができて
司馬はそれをさらに創作脚色しまくって、現代のドラマみたいなアンチ家康路線が完成した。
家康が信玄相手に脱糞したとか大坂の陣で幸村相手に逃げ回ったとか国家安康にケチをつけて宣戦布告したとか
家康が秀吉の墓を暴いたとか、大坂の陣で主戦派で、無理矢理講和して堀を埋める路線を主張したとか
全部江戸期の講談だしな。

499:日本@名無史さん
14/03/31 08:21:33.60 .net
>>496
江戸時代にも徳川政権にも秀吉が人気ってことは


秀吉って人気者だったんじゃね?

500:日本@名無史さん
14/03/31 14:06:20.34 .net
江戸期の講談や創作が秀吉マンセーな逸話だらけだったから大衆受けしただけ。

墨俣一夜城や中国大返し、美濃攻めでの活躍、金ヶ崎の退き陣、城攻めの達人、農民からの出世話。上月で秀吉が涙したという逸話
全部同時代史料にはない江戸期の創作にしかないハッタリ逸話。
勿論初出は秀吉が書かせた天正記に端を発するものもあるがな
逆に家康はクソもらしの小物とか悪く描かれるようになった。

501:日本@名無史さん
14/03/31 15:41:56.72 .net
>>500
秀吉って人気あったんだなあ
江戸時代でも秀吉が人気あるって凄くないか
秀吉が大衆に元から嫌われているなら、秀吉が死んでから間もない時代のマンセー小説なんて受け入れないしなwwwww

秀吉が死んでからの時代に大した開きはないから、正当性のない残虐非道祭りなら大衆はそんなマンセー話は受け入れないしな常識的に考えてwww
徳川政権でさえ受け入れたりしている時もあるって事は、好敵手なんだろうな

502:日本@名無史さん
14/03/31 15:45:53.21 .net
普通なら「悪人を褒め称える作品なんてやめろ!こんなのいらない!」ってなるよね

503:日本@名無史さん
14/03/31 16:01:59.54 .net
はだしのゲン騒動を思い出した

504:日本@名無史さん
14/03/31 16:32:49.26 .net
過小評価もそうだし、日本の偉人を侮辱し、もう片方を上げるやり方は嫌いだわ

505:日本@名無史さん
14/04/01 01:38:47.86 .net
人気もクソも江戸幕府の創作した逸話が秀吉マンセーのアホ脚色ばっかだったから
秀吉は一般大衆に人気が出たってだけだろ。
大体、天正記を元ネタにした創作エピが太閤記やそれを元にした各大名家の家譜など時代を下るにつれて
大袈裟に書かれて一般に広まっただけだし、結局秀吉がハッタリ喧伝しまくった
大返しだの墨俣一夜城だの農民からの出世話が、秀吉マンセーな軍記とか、アンチ家康の親秀吉の大名家などに
語り継がれて、家康は逆にクソ漏らしだの豊臣の国家安康にケチをつけただの、
無理矢理停戦させて騙し討ちで堀を埋めようとしただのアホみたいな捏造エピを書かれて、それが元で
家康は人気がなくなり、秀吉は人気が出ただけ。

506:日本@名無史さん
14/04/01 01:39:38.02 .net
江戸期は秀吉のハッタリ逸話ばかり流行しまくってて
江戸期を通じて秀吉はかなり人気があったし
家康は逆に本人が情けない姿を書かせたりして謙虚だったから
今に伝わるようなぶひぶひいいながら逃げ回る小物みたいな虚像ができて
司馬はそれをさらに創作脚色しまくって、現代のドラマみたいなアンチ家康路線が完成した。
家康が信玄相手に脱糞したとか大坂の陣で幸村相手に逃げ回ったとか国家安康にケチをつけて宣戦布告したとか
家康が秀吉の墓を暴いたとか、大坂の陣で主戦派で、無理矢理講和して堀を埋める路線を主張したとか
全部江戸期の講談だしな。

507:日本@名無史さん
14/04/01 03:54:03.41 .net
安定した時代になると支配階級も固定化され庶民は出世の道を閉ざされてしまう
要するに夢を持てなくなるわけ

秀吉人気はそうした時代背景があったからこそとも言える

固定化された支配層に対するアンチテーゼだよね

508:日本@名無史さん
14/04/01 04:28:16.05 .net
つまり、江戸幕府や大衆から好かれているって事だろ

悪い奴なら死後間もない時期からこうも持ち上げられない
受け入れられないって事への反論がない

コピペしかできない機械状態だから、コピペを超えるレスをされたら壊れた機械のように返答できなくなるのか

509:日本@名無史さん
14/04/01 05:46:48.13 .net
普通なら「悪人を褒め称える作品なんてやめろ!こんなのいらない!」ってなるよね

↑正論

510:日本@名無史さん
14/04/01 07:59:30.28 .net
嫌われてるなら人気でないわなwww

511:日本@名無史さん
14/04/01 14:16:32.51 .net
いや、秀吉の垂れ流した天正記の逸話を元に、
江戸幕府や江戸時代の講談家によって秀吉の虚像が作られただけなんだが。

512:日本@名無史さん
14/04/01 14:18:27.63 .net
そもそも秀吉って元々高い身分だったんだろ。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。

513:日本@名無史さん
14/04/01 14:18:54.17 .net
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる

木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)

あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる

514:日本@名無史さん
14/04/01 14:20:36.15 .net
秀吉はかなり残虐な性格だったけど、江戸幕府と江戸の講談でいい人みたいに捏造して
現代ドラマみたいな虚像が出来ただけ。
フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに

515:日本@名無史さん
14/04/01 14:22:23.09 .net
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる

516:日本@名無史さん
14/04/01 14:22:58.82 .net
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。

517:日本@名無史さん
14/04/01 14:23:28.01 .net
宇留津城の悲劇

秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。

そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。

そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。

浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。

518:日本@名無史さん
14/04/01 14:23:53.24 .net
秀吉は既に不忠をやらかしまくってるからな。
本来なら信雄や信孝を主君に彼らの命令で織田家の政務に励むのが筋目。
何せ、自分を相当な身分まで引き立ててくれた家の恩人の息子なんだからね。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった
同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してる
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくる
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐

519:日本@名無史さん
14/04/01 14:24:35.54 .net
織田家後継者として利用した秀信や一時的な当主となった信雄や、信孝など有名どころ以外でも
信純、秀勝、信勝、信包など織田一族は悉く秀吉によって改易か行方不明(おそらく暗殺)か所領大減少だもんな。
本来なら、彼らの下で、織田家のためにつくすのが織田家家臣である秀吉の役目。
何せ、自分を相当な身分まで引き立ててくれた家の恩人の息子なんだからね。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる

520:日本@名無史さん
14/04/01 14:29:50.38 .net
ドラマみたいな馬鹿な妄想の秀吉像が出来上がったのは秀吉が書かせた天正記とか太閤記に端を発し
次に江戸幕府の各藩が提出した家記や家譜が太閤記をトレースしまくってかかれさらに脚色や創作を入れまくって作らされたから
アホみたいな秀吉の虚像ができあがったってだけの話。
中国大返しも農民からの出世話も金ヶ崎の退陣も墨俣一夜城も美濃攻めでの活躍話も播磨で上月で涙したとかも
全て悉く太閤記や天正記などのハッタリ喧伝に端を発する、秀吉やその周辺のホルホル脳が垂れ流した歪曲情報が元で広まっただけだし
江戸時代になるとますます秀吉マンセーのアホ創作逸話が脚色つきで語られるようになったからな


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