司馬遼太郎の家康過少評価は異常at HISTORY
司馬遼太郎の家康過少評価は異常 - 暇つぶし2ch169:日本@名無史さん
13/01/12 20:16:51.26 .net
>>164
「城塞」は、豊臣方は牢人諸将を上手く糾合すれば無尽蔵の財力をもって充分に徳川に対抗できた
しかし秀頼と淀殿の二元体制や、籠城諸将の裏切り、さらに譜代の旗本が腐ってたから負けたと言って悔しがってるだけで、
実態を認識していないもはなはだしいよ。

実際は牢人諸将の発言権が高まって城内が流される形になり、自滅を早めているし、
冬の陣ではオランダ船からの砲撃には大きな心理的効果があり、和睦に応じざるを得なかったのは大坂方
青木一重のように徳川-豊臣の停戦交渉に尽力した人間は裏切り者呼ばわりされてるが、実際には板挟みにあって城を出ている
夏の陣の毛利、真田らの突出も一刻ほどで終わっており、到底、情勢を覆すに至っていない

170:日本@名無史さん
13/01/12 20:20:40.57 .net
×>>164
>>169

167 も言ってるけど、司馬は自分の思い込みを投影して書き始めるので、
途中からその人物が自分の思い通りじゃなくて嫌いになると放り出してしまうんだよね。
大坂の陣の大坂方の扱い-特に秀頼や大野治長など-には、もろにそれが出てると思う。

171:日本@名無史さん
13/01/13 10:06:13.37 .net
鎖国とかアホやろ。

172:日本@名無史さん
13/01/13 17:42:24.78 .net
>>169>>170
「城塞」は知将牢人による一発逆転のチャンスの浪漫を描いた物語で
豊臣の財力をもってすれば家康と豊臣は互角の戦いだったなんてどこにも書いてない
どこをどうよんでも圧倒的家康有利の中にあって豊臣方牢人の知略が見せ場
何を読んでいるんだお前はw

173:日本@名無史さん
13/01/14 00:03:17.21 .net
>>167
胡蝶の夢ではラストになって主人公が
途中から登場した関寛斎に変わった気がする

174:日本@名無史さん
13/01/15 13:34:04.52 .net
城塞は淀君の人物造形が講談のまんまでワロタ
他のキャラが正誤はともかく一応史料などを引き合いにした「歴史小説」らしいものに
なってるだけに一際目立つ

175:日本@名無史さん
13/01/16 02:30:16.48 .net
>>172
秀頼が勝頼くらいだったら徳川と互角の戦いをさせてやれたなどと小幡景憲に言わせている
物語の開始当初は対徳川強硬派に属する大野治長マンセー、
牢人諸将の入城シーンの前は前田を叩きまくり毛利、島津、福島などにガッツリ期待
そいつらが結局大坂を見捨てると今度は牢人諸将をめちゃめちゃに過大評価
大砲ぶち込まれて数週間で講和に至った冬の陣を、徳川方が軍事的に劣勢だったのに淀殿の弱気だったかのように描く
夏の陣では長宗我部勢らが戦闘で大打撃を被った事実に触れてない
など、明らかに「問題は戦略だった」と思わせるような書き方をしている

さらに「軍師二人」と言う短編では真田、後藤の対立-広くは牢人諸将の統制困難-を描いているが城塞ではまったく触れられていない
牢人諸将が一致団結して整然と行動したようにストーリーを作っている

司馬は長編を描くときは、その前に短編でスケッチすることが多い
しかし長編になった時は短編で認識していた主人公サイドの問題点を全て捨象してひたすら好き嫌いで描く

176:日本@名無史さん
13/01/16 11:39:20.26 .net
「城塞」は大野や淀といった愚物が家康という巨人に翻弄され追いつめられ、
生き残る道さえ許されないという大筋。浪人衆のあれこれはただの彩りにすぎない。

司馬はその意味でも家康を決して過小評価していないし、当代随一の政治家であると認めてる。
ただ、とにかく嫌いなんだな、という個人的感情だけはモリモリ伝わってくるな。

177:日本@名無史さん
13/01/16 16:48:16.36 .net
「太閤記」で司馬は家康は繰り返し律義で誠実な人だと書いてるぞ。
だから秀吉は家康と敵対することを嘆き、なんとか和睦したいと願った。
寡黙で無口な家康は司馬的には主人公とするほどの魅力はなかったんだろうが
あれを読むとむしろ司馬は家康を過大評価してる気がするよ
本当に家康は信長に嫡男を殺されてもなお信長に忠誠を尽くす悲劇の被害者なのかと

178:日本@名無史さん
13/01/16 22:08:02.59 .net
>>177
>寡黙で無口な家康
そこがもう認識の間違い
大一番の戦になると居ても立ってもいられず
馬の口取りから旗持ち太刀持ちまで手当たり次第に話かける落ち着きのないオッサンだw

179:日本@名無史さん
13/01/17 03:35:31.59 .net
それが家康にとっては平常運転なのに、焦ってた証拠だとか何とか書くのが司馬

180:日本@名無史さん
13/01/17 03:38:46.11 .net
>>176
淀殿や大野と言う「愚物」に大坂の敗因を矮小化させて、新参牢人諸将に丸投げすればいい勝負になった
などと言う珍説に傾いてるのが司馬なんだよ。現実には牢人諸将の暴走で大坂と徳川の和議への努力はぶっ壊されている
青木一重を徳川の回し者のように描いてるが、彼は懸命になって冬の陣の後に豊家安泰のための努力をして拘束されてるんだぜ

大坂の実力を知ったうえで家の安泰を図ろうとするやつは「裏切り者」
身の程もわきまえず城からの退去を拒否して暴走した牢人諸将(諸将の間でも対立あり)を過大評価
それが司馬だよ

181:日本@名無史さん
13/01/17 04:23:30.83 .net
>>180
読み物だから・・
雪村かっけーは講談のまんまや

182:日本@名無史さん
13/01/17 11:12:47.22 .net
>>180
一発逆転のチャンスを書いた小説だからそうなるだろ。
真田太平記だって一発逆転を狙うからそういう書き方になる。
何、お前は「何をどうしたって馬鹿牢人たちに勝ち目はなかった、
黙って長いものに巻かれて家康様に従ってればいいのに牢人たち大馬鹿」
という小説が読みたいの?
そんな小説売れないわw

183:日本@名無史さん
13/01/17 11:17:50.38 .net
>>178
小説だから色づけはされるわな。
落ち着きのない家康wにしようが無口な家康にしようが作家の自由だと思うが。
家康が爪をかむ癖がありかなりの癇癪持ちだった、だから激昂しそうになると
爪を噛んで黙って耐えた、って結構最近出てきた説だろ。
最新の研究成果を持って司馬はなぜ40年前にこう書かなかったんだ、
と馬鹿にするのもどうかと思うぞ。

184:日本@名無史さん
13/01/17 12:51:12.92 .net
>>179
戦況が少しでも不利になると
家康「腹を切るっ!、いや、敵陣に突っ込んで果ててやる!」
死産家臣「殿が錯乱した、どうしよう」
古参家臣「またはじまった……」
それが徳川家の日常風景w

185:日本@名無史さん
13/01/17 12:52:04.12 .net
新参家臣、なw

186:日本@名無史さん
13/01/17 12:55:38.61 .net
>>183
家康の情緒不安定というか癇癖なんて三河物語はともかく
当時の日記や書簡で普通に見受けられる事だと思うが
皮肉な事に徳川幕府が家康の当時の感覚では大人物らしくない面を糊塗として
作り上げた虚像の家康像を司馬は踏襲してるんだよね
描写が正反対なだけでその点では山岡と同じという

187:日本@名無史さん
13/01/17 14:28:53.40 .net
>徳川幕府が家康の当時の感覚では大人物らしくない面を糊塗として
作り上げた虚像の家康像

家康「貿易楽しーなー」
アダムス&ヨーステン「でしょ、でしょ」

百年後

幕閣「鎖国は神君様のご遺訓じゃ」
家康(霊)「おいおい」

188:日本@名無史さん
13/01/17 14:30:37.43 .net
>>183
178は司馬の小説の表現の話でなく一般認識の話だろ

189:日本@名無史さん
13/01/17 19:24:25.83 .net
>>182
司馬って小説を書いてる間に認識が変わることが多い。
典型的なのが翔ぶが如く。思い入れの対象だった桐野や篠原がただの馬鹿だったことを隠しきれなくなると、
どうでもいいやこんな馬鹿と言う感じで放り投げて終わる。

城塞もそういうパターンだよ。何とか大坂が徳川に勝てるチャンスがあったかのように書いていこうとして、
最初は大野、次に島津や毛利、そして牢人諸将と次々に思い入れの対象を変えてるが、最後に「もともと無理だった」
と言う結論に達して、家康のアホ―!みたいなことを言って終わってるw

190:日本@名無史さん
13/01/17 19:29:11.97 .net
>>183
司馬も家康が戦場ですぐ頭に血が上るタイプなのはちゃんと認識してるよ。

191:日本@名無史さん
13/01/17 20:11:47.76 .net
>>189
そうか?
家康は虎視眈々と豊臣の首を絞めていって余念がない。
最期に家康のアホー!みたいなことは書いてない。
主人公は最初から牢人の一人でぶれていない。
大野に島津に毛利と次々主人公を変えているわけでもなし。

192:日本@名無史さん
13/01/18 22:17:51.36 .net
城塞は、タイトル通り秀吉があまりに堅固な城塞を残したことが淀殿、秀頼母子を勘違いさせ
身を滅ぼさせた、というのが主題の小説

193:日本@名無史さん
13/01/19 18:33:34.89 .net
僕は徳川家康の小さいころの名前を竹千代といいます。

ある日、竹千代と爺が川沿いを歩いていると子供たちが石合戦をしていました。
爺は人数が多いほうが勝つと言いました。
竹千代は少なくないほうが勝つと言いました。
竹千代の言うとおり少なくないほうが勝ちました。

------------------------------------------------------
中学時代の同級生の読書感想文から引用。
冒頭の「僕は」は明らかに不要だが読者を引き付ける劇的な手法。
「多いほう」と「少なくないほう」の使用法は未だに謎。

194:日本@名無史さん
13/01/23 11:33:27.12 .net
>>191
だからその観察者である小幡景憲の認識が変化してるって。
ちなみに小幡景憲は物語を回す役であって「主人公」ではない

さらに家康が豊家の首を徐々に絞めていったというのが、司馬の完全なる錯覚
家康は豊家に振り回された側
事実は
・豊家の内部分裂が全国的内乱に発展してしまい、外戚であった家康が取り鎮める
・この時点で、お家騒動も自力で鎮められない豊家には天下様である資格がないことが明瞭になる
・家康自身は孫娘を輿入れさせて縁戚関係を結び、主家のテコ入れとともに秀頼との会見を図る
・豊家が会見に応じない。その後色んな人間が両家の関係を仲介しようとするがそれにも応じない
・さらに牢人を入城させ、前田以下恩顧の諸大名を誘うなど関東に対抗する姿勢を先鋭化させる=内乱を起こそうとした側は豊臣家
・しびれを切らせた家康、方広寺鐘銘事件で諱を勝手に分断した件から大坂を呼び出し、最終的な関係正常化を模索
 ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経
・牢人の軍事力=大阪城=豊家の主 の結合が内乱の原因となっていると認識して、そのいずれかを解除するよう要求
 ちなみに、現実的にもこの時点で城出るか、証人出して対徳川家和平を実現させないと秀頼が牢人に担ぎ上げられてしまう
・アフォな対徳川強硬派がこの条件を持ち帰った手筋の片桐暗殺未遂事件を起こし、片桐が退去
 ちなみに、これは大坂方の対徳川外交の断交を意味する行為

どう見ても大坂が牢人引き入れた結果、先軍政治化していったのが両家の戦争の原因
それでも家康は講和条件として移封を条件に穏便決着の余地を残している

195:日本@名無史さん
13/01/23 11:39:27.42 .net
司馬以外は大阪の陣の原因が、「大坂方の」対徳川強硬姿勢の激化から始まっていることを認識している
開幕から10年経っても秀頼と家康の会見は曖昧な位置づけの下でしか行われてない

要はパックス・トクガワナに協力する意思がないと言うこと
諸大名が大坂方に呼応しなかったことでも明瞭だが、大坂は既に一地方政権でしかない

196:日本@名無史さん
13/01/24 00:57:25.13 .net
>ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経
>ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経
>ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経

197:日本@名無史さん
13/01/24 15:10:58.66 .net
>>195
さすがにそれは豊臣家の過小評価だわ

徳川が幕府を開いてから13年経っても尚、豊臣は
家康・秀忠が大軍を率いて攻め上り
わずか8歳の遺児さえ血祭りに上げ完全断絶させなければならなかった相手
秀吉の墓すら破壊して存在を否定しなければならなかった相手

ただの地方大名ならそれはないわ

198:日本@名無史さん
13/01/24 16:05:07.67 .net
>>2で終わってた
てか司馬読まなくたって家康を好きになる奴は少ないと思うぞ

199:日本@名無史さん
13/01/24 17:31:12.32 .net
「人ばかり」みてると、見えてこない事実もあると思うけどね。土地に着目すると、興味深いことが分かる。
・家康は、なぜか大坂城【下】にだけは、一貫して、絶対に自分の屋敷を建てなかった。
・代わりに、秀吉が死去すると、家康は、秀頼後見と称して、大坂城【内】の西の丸に、天守閣まで建てて執務した
・関ヶ原戦後、大坂城に入れなくなると、家康は、伏見と駿府を、行ったり来たりするようになる(江戸に下らない)
・伏見と駿府を往復しながら、秀頼を、何とかして【大坂から誘い出そう】と苦心する。
・それでも、秀頼はなかなか大坂から【出てこない】。最後には出てくるけどね。
・ついに家康は、「あんたら【大坂城を出りん】よ。大和郡山に城があるもんで、そこで大名すれば良いじゃん。」
・この一言こそが、【豊臣家を挙げて、完全に火病状態】にさせ、大坂の陣に本格突入する契機になる。
・そして、大坂の陣では、家康は大坂城をじっくりと攻撃し、最終的に、【城も城下も丸ごと灰にして】しまう。
・その上で、【土砂で封印】して藤堂式の新しい城を作り、城下町の中心を、上本町から船場中之島へ、【数km移動】させる。
・大坂の大改造は松平忠明にさせるが、彼はすぐに大和郡山に転封され、「徳川大坂城」は幕府直轄地になる。
家康は、一貫して「大坂城の主になること」を、望んでいたように見える。
そして、豊臣家は、これだけは、断固拒否した。
大坂の陣とは、文字通り、「徳川氏による、大坂城奪取の戦い」だった。
なぜこれが必要だったのか?と言えば、『中央政庁所在地(実質的な「首都」)は、浪速である』という考え方が、
少なくとも、徳川家康と、豊臣家中で、共有されていたからではないだろうか。
家康も、豊臣家も、その認識だったからこそ、「奈良に引っ込め」の一言で、何より激怒した。
他の大名は分からない。すでに1600年代には、外様諸侯ですら、
続々と「秀忠」の城下である江戸に、自分の屋敷をたて始めていた。
そして、江戸に政庁を置く方針が固まっていたため、大坂は壊滅させた後完全改造して「首都の記憶」を葬った。

200:日本@名無史さん
13/01/25 00:26:36.47 .net
秀吉が生きてた頃の中央政調は伏見じゃないの?

201:日本@名無史さん
13/01/25 04:25:27.08 .net
>>198
家康は徳川暗黒史観が広まっていた明治時代ですら、三傑では秀吉に次ぐ人気だよ
雑誌の特集号がある

202:日本@名無史さん
13/01/25 04:34:50.49 .net
>>197
確かに豊家譜代衆の存在で家康が扱いに慎重になったのは事実だが、彼らの意向も徳川家打倒にはなかったし、
家康もこの時点では秀頼の処分なんか考えてない。早めに徳川の御家門になっておけばよかったのに馬鹿なことをと言うのが諸侯の大勢を占める
大坂の譜代衆は暴走する牢人衆に付いていけなくなり、冬の陣後にどんどん離脱している
しょせん牢人衆は何の成算もない戦に突入して豊家を滅ぼした逆臣

ちなみに御家門と言えども、この後に忠輝、忠直などは厳しく処断されている
秀頼は牢人を集めて徳川方とことを構えたのだから当たり前

203:日本@名無史さん
13/01/25 11:29:35.80 .net
>淀殿と大野
豊臣家滅亡の責任を押し付けられて、かわいそす

204:日本@名無史さん
13/01/25 19:46:39.69 .net
責任の有無はともかく
朝鮮帰りで関ヶ原でも兜首取ってる古強者の大野を戦を知らない青びょうたんみたいに
書くのは辞めろw

205:日本@名無史さん
13/01/25 19:55:46.10 .net
秀吉に比べると人気が落ちるのは当たり前
秀吉は創業者だが、家康は当主の幼少を利して主家を乗っ取っただけ
天下統一、刀狩、検地など、全て太閤の事跡

206:日本@名無史さん
13/01/25 21:53:37.29 .net
やっぱり、人だけ見てても、状況は読み解けないんだよ。

家康が畏れていたのは、ただの秀頼ではなく、「大坂にいる秀頼」だったんだよ。
もっと戯画化して言えば、「家康が畏れていたのは、秀頼ではなく大坂」ww

1600年代(00年代)後半には、人としての徳川(家)は、
天下人家系としての地位を、ほぼ盤石なものにしていた。
誰も、徳川家以外に従おうという者は、存在しなかった。
だが、土地に目を転ずると、状況は一変する。
家康は、箱根より西の駿府に隠居所を作り、伏見と駿府を行ったり来たりしている。
江戸は、全国の大名をかりだして、ぶっ通しで整備しているが、
1610年頃まで、計画上の想定市街地は、伊達政宗が一人で作っていた仙台にすら、及んでいない。
仙台だけではない。北国の前田は、二代目が、高岡に、本格的な都市建設を行う企みを始めている。

この時期、徳川は、「天下人」の権威は得ていても、
「俺たちがいるところが、天下の政庁である」という地理的カリスマは、獲得できていない。
この時期、徳川は伏見も京都も掌握している。でも、「首都制定権」を掌握できない。
秀頼が居座る「大坂」こそが、問題の焦点になるのは、当然だろう。

207:日本@名無史さん
13/01/25 23:52:47.69 .net
>>204
明らかに三成とイメージごっちゃにされてるよな

208:日本@名無史さん
13/01/26 19:07:08.70 .net
三成だって中国戦線や淡路、賤ヶ岳で普通に槍働きしてただろ

209:日本@名無史さん
13/01/27 06:24:14.26 .net
>>205
その天下統一の際に惣無事令の東国への徹底に不可欠な役割を果たしたのが家康
さらに秀吉が放り投げた朝鮮出兵問題で撤兵から修交までぜんぶ片付けたのが家康

秀吉すらなしえなかった武力凍結政策を意図的に推進したのが家康
秀吉なんて信長の構想をちょろまかして失敗した雑魚、中継ぎ

210:日本@名無史さん
13/01/27 20:04:04.04 .net
中継ぎでしかないのは家康
天下を統一し全国統治システムの基礎を作ったのは秀吉

211:日本@名無史さん
13/01/28 03:10:34.65 .net
一つ上のレスも読めないバカ

212:日本@名無史さん
13/01/28 04:06:36.64 .net
バカにしか>>209は納得できないからな

213:日本@名無史さん
13/01/28 04:32:28.98 .net
幕藩体制は秀吉が基礎を作り家光が完成させる。
やはり家康は中継ぎだな。

214:日本@名無史さん
13/01/28 19:08:18.47 .net
>>209
雑魚に臣従して、雑魚が寿命で死なないと天下を取れなかった超雑魚が家康。
ってことになるから、そういう言い方はしないほうがいい。

215:日本@名無史さん
13/01/29 01:51:46.17 .net
ただ司馬の気持ちもわからなくはないんだよな。
俺も徳川家康が物凄く偉大な武将なのは理解してるし
秀吉死後の行動だって全然非難されるようなもんでもないし
人格的にも戦国大名の中ではかなりマトモな方だったのも知ってるが
それでも何故か生理的に好きになれないっていうかむしろ嫌悪してしまう。
多分、260年もの間江戸幕府によって神格化され続けたせいで胡散臭く見えるからかな?
俺は似たような理由で山形県民にやたら聖人君子化され
(と同時に伊達政宗や直江兼続へのネガキャンも行われてる)最上義光も嫌いだし。

でも、同じように時の政権主導で神格化された事がある楠木正成や北畠顕家は大好きなんだよね。

216:日本@名無史さん
13/01/29 08:57:32.27 .net
>>215
でも司馬の家康像はその江戸幕府の作った実像とはかけ離れた
虚像から都合のいいところを引っ張ってるだろw

217:日本@名無史さん
13/01/29 14:54:49.58 .net
新史太閤記では過小評価はされてない。

218:日本@名無史さん
13/01/29 18:33:51.47 .net
>>216
江戸幕府の作った実像=家康の実像ではないだろ

東照大権現さまってそんなに江戸時代にも
人気あったようにも見えない

219:日本@名無史さん
13/01/29 19:11:48.29 .net
明治42年1月1日に発行された冒険世界という雑誌の付録「全世界英雄番付」
東洋編
1 豊臣秀吉  2 チンギスハン  3 徳川家康  4 西郷隆盛
5 北条時宗  6 始皇帝  7 諸葛孔明  8 源頼朝  9 伊達政宗
10 織田信長 11 源義経 12 毛利元就 13 フビライハン 14 上杉謙信
15 武田信玄 16 源為朝 17 加藤清正 18 楠木正成 19 北条早雲
20 坂上田村麻呂

元勲・西郷隆盛や織田信長より家康のほうが明治人にはずっと英雄として認識されてるわけで。
ちなみに御雇外国人レフ・メチニコフの日記でも家康は「乱世をおさめた偉人」として認識されている
天下統一は秀吉の事業じゃないかと言われそうであるが、「豊臣の平和」はわずか数年で文禄慶長の役、それの後遺症としての関ヶ原の戦いで崩れ去っている

それに引き替え、パクス・トクガワーナは1615年から幕末まで250年にわたって続いている

220:日本@名無史さん
13/01/29 19:46:54.49 .net
>>219
「冒険小説」って編集長の作家・押川春浪氏の色が濃い独特の雑誌。
無差別に選んだ読者からのアンケートじゃなくて
冒険小説愛読者のアンケートなのでかなり偏ってる。

221:日本@名無史さん
13/01/29 19:53:04.52 .net
>>218
東日本では、結構広く信仰されていたようだよ>東照大権現

秀吉と信長の生誕地ずばりでもある、尾張名古屋だが、
からくり人形を載せた中京方面の山車の本場とされる、名古屋城下町最大の祭礼は、
江戸時代には、家康の命日に行われる東照宮祭だった。
明治以降gdgdになり、戦災で山車が9割方焼けてしまい、今では面影はない。

外様の仙台にも似た事情があって、
もともと天満宮があったとされる、オカルト的にも大変に重要な地を、東照宮に置き換えて、
仙台の鬼門を、なぜか家康が守る形になっている。
仙台城下最大の祭礼も、江戸期には東照宮祭だったらしく、
伊達政宗を祀る青葉神社を建てて、政宗の命日に「青葉祭り」をやるようになったのは、
明治以降のことらしい。

大坂にも東照宮があって、実際の大坂は、大坂の陣のあと、徳川氏が整備しなおして、
官需の物流を集中させて復活させた、「徳川の商業都市」なのだが、
東照宮に対しては、すでに江戸後期には、大坂の町人は冷淡だったそうな。

222:日本@名無史さん
13/01/29 20:10:02.78 .net
>>221
そら江戸時代には御家門の城下町には藩主が建てさせた天満宮があったし、
当然東照宮の祭礼もあった。
伊達忠宗は徳川家康の孫娘(秀忠養女)を正室にしておりやはり東照宮を遷宮。
そうすることが徳川将軍家への何よりの忠誠の証にもなったしな。

しかし、庶民人気があったかということは別物だろう。
庶民人気があったならば、徳川幕府が倒れた明治以降も、
地元民が東照宮の衰退を喜ばず、家康公の祭りを盛大にやっただろうから。

223:日本@名無史さん
13/01/29 20:34:00.79 .net
>>220
少なくとも家康は明治期の教科書では「偉人」として扱われている。
庶民人気がなかったら雑誌の付録とはいえ西郷超えなんてあり得ねえぞ。

ちなみに家康=権現様の事績については、明治期の御雇外国人が
庶民の芝居やら日本の通史やらを調べたあげく、英雄・偉人として認識してるんだって。
今だって家康と言えば、海外じゃ日本最大級の英雄として一般的に認知されている。

224:日本@名無史さん
13/01/29 20:40:33.84 .net
あと大衆小説のジャンルでも芳川英治、山岡荘八、山本周五郎ら圧倒的多数派は、
人格的にも家康評価派だからね。司馬みたいに家康を低評価する奴のほうが少数派。

225:日本@名無史さん
13/01/29 20:47:04.75 .net
>>223
教科書に「偉人」という項目はないw

それに、パクス・トクガワーナは、大航海時代に続き
植民地支配など戦争続きだった同時代のヨーロッパに比べ
日本の江戸時代は鎖国して海外からの影響を受けず海外へ派兵せず
大きな戦がなかったことを指していうもの。
徳川家康個人を評価したものではない。

226:日本@名無史さん
13/01/29 20:54:22.24 .net
偉人として「扱われている」と言うのが読めないのかお前は。

パックス・トクガワーナにしたって、家康の明確な国内の武力凍結政策から始まったのは明確なんだが。
だからこそ大坂城の和議で、大坂が牢人諸将を召し抱えたままだったことに対して違約と把握しているし、
家康没後になるが福島正則の処分でも、城破りを形式的な降参の作法と捉えた福島と、実質的な成果を求めた幕府で不可避的な対立が発生してるんだよ。

これだけ明確な構想を持っていた家康個人への評価ではないとか、詭弁もはなはだしい。
お前の理屈なら自分の没後に、全国的内乱に発展したお家騒動引き起こしてる秀吉はますます天下統一の評価に値しない理屈になるぞ。

227:日本@名無史さん
13/01/29 21:15:02.81 .net
>>222
もし、本当に有難がられていないのなら、大坂の東照宮がそうであったように、
公儀のお義理以外では、見向きもされないようになる。
城下最大の祭礼として、何百年も維持できるはずがない。
しかも、仙台城下の古い祭礼の山車は、風流山車であって、毎年趣向を凝らして作り直すものだった。
(今の花巻や北上の山車に近い。全国的に知られたイメージでは、システム上青森ねぶたに近い)
お義理だけで、こんな大層な行事を行うかね?
仙台には、他にも有力な神社はたくさんあった。そっちの氏神祭を発展させたって良かった。

都市の町人祭としての東照宮祭は、明治以降、軒並み消え去っていく。
だが、仙台の例が典型なのだが、
「祭りの枠組みを、家康から地元武将に置き換えてパクっている」んだよね。
「政宗の命日に青葉祭」というのは、あたかも伝統として馴染んでいるようで、
実は、「東照宮祭の伝統の、意図的な祭神すり替え」にすぎない。

列藩同盟の地域は、戊辰戦争で、二重の意味で、徳川的なるものが、否定されているはずなのだ。
その上で、屈折した形で、郷土意識が生まれている。なのに「おまえらトンキン万歳だろ」と揶揄される。
そこには、実際にはねじれた形での、奇妙な徳川側への崇敬意識があった。
本人には自覚がないのに、西国の人は、そこに変な徳川臭を見るのだろう。
会津藩士なんて、実際のところ、雪も降らないところからやってきた、ただの赤味噌野郎だぜ?

228:日本@名無史さん
13/01/29 21:23:20.64 .net
>>226
偉人として扱われている事実はない。はい、論破。
江戸幕府創設者という以上の評価は与えられていません。

パックス・トクガワーナは江戸幕府の治世350年に対する評価。
途中でどこかの将軍が開国してしまい海外派兵でもしようものなら
それですべておじゃんでござる。
うち、家康の治世わずか2年。
家康の生涯は死の前年まで戦争に明け暮れた上
大坂の町の大半を焼けきり8歳の幼児を殺すなど残忍なことをしている。

鎖国の成果は様々だ。
日本は文明に乗り遅れたわけだから。
パックス・トクガワ-ナは賛否両論。

229:日本@名無史さん
13/01/29 22:26:56.50 .net
家康が好きな人って、江戸幕府の功績の全てを家康の功績にしようとするよね
拡大しすぎなんだよ

230:日本@名無史さん
13/01/29 22:51:43.77 .net
家康が死んでから島原の乱がおこってるし。

231:日本@名無史さん
13/01/29 23:08:44.21 .net
>>227
年に一回の祭りは昔から日本にあるもの。
江戸時代は藩主自ら、東照宮を信仰せざるをえなかったため
藩を上げてやってたからでしょ。
地元民には徳川家康に思い入れがなかったために、
天満宮を庇護する藩主がいなくなった明治以降、
あっさり他の祭神の祭りを盛大にやるようになった。
それ事態、家康好きじゃなかった証拠なんだって。

232:日本@名無史さん
13/01/31 13:49:14.03 .net
>>218
よく読めよ

233:日本@名無史さん
13/01/31 22:01:26.29 .net
おなじみ、豊臣秀吉関係文書研究会の研究成果をまとめた、
「偽りの秀吉像を打ち壊す」(柏書房)が刊行されましたね。
徳川政府の罪は、奇計を用いて天下を簒奪したことや日本の針路を誤ったことはもちろん、
自身を正当化し秀吉の治世や業績を貶めるべく、歴史を捏造し、今日に至るまで一般大衆の歴史認識を歪めさせていること。
それが近年、山本博文・堀新・曽根勇二氏らの研究成果で修正されてきているわけで、
少しでも多くの国民に広まるといいな。

234:日本@名無史さん
13/02/02 07:05:42.69 .net
『河原ノ者・非人・秀吉』 服部 英雄 (著
では、逆の意味で知られざる秀吉像が出てくる。晩年、ささいなことで血縁者、側近とその係累を
無残な仕方で殺生しまくっているという情報が、フロイス『日本史』に色々あるらしい。

フロイス『日本史』は徳川政権による秀吉像の捏造とは無関係なわけだから、
このあたりどう位置づけられるのか興味深い。

235:日本@名無史さん
13/02/03 11:43:47.98 .net
>>233
いまだに鎖国なんて言ってる山本じゃ話にならないよ
だいいち、前作も2,3年前にその面子で書いてるけどまったく広まらなかったでしょ
その二番煎じが当たるとでも思ってるのかと
それも当たり前の話で、研究者の流れは圧倒的に江戸時代再評価
いくら山本が吠えてもあと100年は変わらない

>>230
島原では松倉が斬首、寺沢が改易だ。
謀反でもないのに斬首なんて厳罰下したのは家康の武力凍結政策が示した方針の具現化だろ
江戸幕府は民衆の武装に対してはまったく容赦してないよ。
そして島原を最後に民衆の無差別的蜂起は発生しなくなり、一揆・打ちこわしに作法が形成された
島原の乱の両成敗を契機に、日本では平穏な形態での請願が普及して、現代の議会制まで繋がってるわけ。
民衆の武装が引いては大名の紛争に繋がってるんだから強訴や村落の闘争の厳禁は当たり前の話
それによって暴力が公権力に独占されることになった
天に唾してどうするんだと。ちなみに民衆の武装を禁じつつ年貢をほぼ開発に回して17世紀の高度成長を実現したんだけどね
家中すら制御できず10年で崩壊した豊臣政権にこれに匹敵する業績はあった?

秀吉の処断が信長や家康以上に過酷を極めて、庶民の反感を買ったのは有名だろ。
豊臣政権は正当性の問題をとっても外征政策をとっても後継者問題をとっても、そこまで無理しなきゃいけない政権だったんだよ
その外征政策は信長の構想のパクリだし

断言してもいいが、お前が17世紀前半に生きていたら一も二もなく徳川体制の武力凍結政策を支持するよ
第二次大戦から戦後の成長への転換に匹敵する政策転換を取り仕切ったのが家康
しかも家康は通商では秀吉以上に関心を抱いていた
公使による太平洋横断は勝海舟が最初じゃないから、法螺話を史実と間違えるなよ

236:日本@名無史さん
13/02/04 01:53:59.43 .net
>島原では松倉が斬首、寺沢が改易だ。
>謀反でもないのに斬首なんて厳罰下したのは家康の武力凍結政策が示した方針の具現化だろ

島原の乱は、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。
なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工業、商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。

重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。
年貢を納められない農民に対し残忍な拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っている(その残酷さは反カトリックであったオランダ人すら辟易させるものであった)。
次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し過酷な取立てを行った。



松倉、寺沢への厳罰は搾取によって無用の乱を誘発したから。

237:日本@名無史さん
13/02/04 14:05:18.53 .net
>近年、山本博文・堀新・曽根勇二氏らの研究成果で修正されてきているわけで、

石田三成も一時期「凡将説はウソ→関ヶ原の結果は偶然」みたいな論理飛躍の「修正」がはびこったけど、
すぐに三成の能力は能力として認めたうえで
「松尾山占拠の時点で大垣城は詰み、政治的にも大義名分は家康にあり」と言う再修正になってるよ

山本のやってるのもまさにそれ。秀吉の「ポテンシャル」だけを見て、それ以外の要素を一切見てない
「秀吉は凄い奴だったんだよ→だから豊臣政権が続くのが正しいんだよ」などと言う混同はまったく成立しない

238:日本@名無史さん
13/02/04 14:08:31.44 .net
>>236
だから、搾取した領主を「斬首」と言う最も重い不名誉刑に処してるじゃないか
秀吉が大名を「斬首」した例があったら、挙げてみて。

239:日本@名無史さん
13/02/04 15:45:03.25 .net
九戸政実

240:日本@名無史さん
13/02/04 22:22:55.20 .net
山本ら秀吉関係文書研究会の説は、別に「豊臣政権が続けばよかった」と言っているわけではなく、
本当は、徳川も豊臣の全国支配構造の中に完全に序列化・埋没されていた、という真実を明らかにしただけ。
だから、彼らの研究成果はそれ単体として純粋に今日の日本の財産になった。

ま、別の角度からの見方で、豊臣政権が続けばよかったとワシは思うけれど。それは個人的な意見

241:日本@名無史さん
13/02/04 22:37:51.38 .net
徳川家の領地は太閤検地は行われていなかったと思うが

242:日本@名無史さん
13/02/04 23:09:13.40 .net
>>238
>武力凍結政策
なぁ、このスレで↑の言葉が入った珍妙なレスは全部君なのか?
何が「だから」なんだ?

その馬鹿げた言葉をきちんと定義してみろよ
これまでのどのレスにそんな主張がある

243:日本@名無史さん
13/02/07 01:04:22.01 .net
自分もその言葉に違和感を感じていた。
刀狩は違うのかね。

244:日本@名無史さん
13/02/10 14:34:22.16 .net
刀狩は民衆の武装を解除すると言うより、士農の身分的徴表を明らかにするのが主目的
徳川時代を通じての民衆の武装解除と、豊臣政権期のそれとは質も量もまったく違う

>>239
九戸政実は公儀に対する謀反人として斬首に処されており、領民への搾取によって斬首にされているわけではない
謀反人への斬首なんて古代からあるわ

245:日本@名無史さん
13/02/10 14:38:53.05 .net
>>242
学界の一部で使われているけど、江戸時代は武家政権と言う建前と、中世戦国を通じての大量の民間の武器保有があって、
武器の保有それ自体を禁圧できたわけではなく、ただ武力の発動を徹底的に「停止」させる政策を取っている
これは上方の町人たちの強い支持を受けている

豊臣公儀も武力凍結政策を取っているけれども、政権じたいが外征を行ったこと、その後に内乱が勃発したこともあり、
ほとんど説得力を持たなかったよ。家康も朝鮮出兵の段階では決して反対派ではなかったが、国是を世論の不満と合致させたことは事実

246:日本@名無史さん
13/02/10 14:50:03.87 .net
藤木久志とか使ってるんじゃね

247:日本@名無史さん
13/02/10 19:21:31.25 .net
家康にとっては文字だけでなく故事も良く知ってて便利な人間辞書
祐筆に毛が生えた程度の存在だった林羅山を天海、崇伝と同ランクの政治顧問
だったかのように粉飾し
家康が朱子学を重んじていたと捏造したのは松平定信だけど
鎖国が神君様の決めた国法だと捏造した犯人は誰だ?

248:日本@名無史さん
13/02/10 21:54:46.76 .net
>>244-245
>刀狩は民衆の武装を解除すると言うより、士農の身分的徴表を明らかにするのが主目的
江戸時代でも豪農・町人に制限はあっても所有自体は認められていたが

>秀吉が大名を「斬首」した例があったら、挙げてみて。
横レスだが、後から条件を次から次へと付けていくのではなく、言いだしっぺが言葉を明確化させることが先じゃねぃ?

>江戸時代は武家政権と言う建前と、中世戦国を通じての大量の民間の武器保有があって、
>武器の保有それ自体を禁圧できたわけではなく、ただ武力の発動を徹底的に「停止」させる政策を取っている
前段は正しいが、後段の武力の発動を徹底的に「停止」させる政策ってのは不明確「権限」ではないんだよね?

>豊臣公儀も武力凍結政策を取っているけれども
惣無事令のことを言っているなら認識が誤っている

249:日本@名無史さん
13/02/11 04:21:47.60 .net
>>244-245
秀吉の政策が完璧だったなんて思わない。
ただ江戸時代の基礎が作られたのは秀吉から家光の時代にかけてだよ。
家康が始めじゃない。

250:日本@名無史さん
13/02/11 10:13:58.81 .net
>>249
そういう話なら、信長から室町幕府という具合にいくらでも遡れる

251:日本@名無史さん
13/02/11 13:25:44.54 .net
スレタイが間違ってるんだよ
司馬の家康感は明治時代の古い歴史認識に立脚しとるから今の目で
見ると古くさいってだけで
幕府の政策への影響力なんかはむしろ過大評価気味

252:日本@名無史さん
13/02/11 14:43:55.10 .net
「過小評価」じゃなく「キャラが違う」って感じだな
前の方にもあるけど史実の「生涯プッツン」家康とキャラが違うって点では
山岡荘八と変わらないという

253:日本@名無史さん
13/02/11 15:39:41.21 .net
家康低評価、秀吉高評価は福沢諭吉が原因かと『文明論之概略』

254:日本@名無史さん
13/02/11 16:00:41.71 .net
>>252
家康は日頃から怒鳴りちらしたり駄々こねたりしてたから
ストレスがたまらず長生きしたのかもなw

255:日本@名無史さん
13/02/11 18:03:17.33 .net
>>250
誰が見ても中世に区分される室町は言いすぎだわ

256:日本@名無史さん
13/02/11 18:05:33.84 .net
>>255
施策という意味で

257:日本@名無史さん
13/02/11 18:30:40.50 .net
家康が羽柴、豊臣を名乗ってたっていうのは本当?

258:日本@名無史さん
13/02/11 21:36:46.15 .net
>>257
不明、秀忠は確実だけど

259:日本@名無史さん
13/02/12 22:13:54.09 .net
豊臣家康、羽柴秀忠。とても名誉な氏姓賜与やんか。
しかも、徳川も「武家清華家」の一つに数えられたんやで。
どこの馬の骨とも分からん存在なのに、とても有り難いことよ。喜べや!

260:日本@名無史さん
13/02/17 15:17:40.71 .net
>>248
>江戸時代でも豪農・町人に制限はあっても所有自体は認められていたが
当初の主張が「刀狩も武装解除ではないか」>>243と言うものだったのに対して
「刀狩は身分徴表を示すのが主目的」と反論したのに、「江戸時代でも制限つき武器所有は認められていた」
というのはどういう反論になっとるんですか?
武器所有は現代欧州や戦前の日本を見ても分かる通り「制限つきで認める」のは何ら異様なことではないよ。

>横レスだが、後から条件を次から次へと付けていくのではなく、言いだしっぺが言葉を明確化させることが先じゃねぃ?
横レスなら、島原の乱の斬首と、公儀への謀反と見なされた行為による斬首の違いくらい理解してからレスしたらどうか。

>前段は正しいが、後段の武力の発動を徹底的に「停止」させる政策ってのは不明確「権限」ではないんだよね?
単純に豊臣政権は全国統一から政権を維持できたのがわずか10年
家康から三代はかけた江戸幕府とは施策の徹底度が比較のしようもない

>惣無事令のことを言っているなら認識が誤っている
惣無事令と言うか、喧嘩停止令類似のものは秀吉の時代から出てる。
ただし家康はその徹底をより明確にしている。

>秀吉の政策が完璧だったなんて思わない。
>ただ江戸時代の基礎が作られたのは秀吉から家光の時代にかけてだよ。
>家康が始めじゃない。

「だったら秀吉も…」というツッコミは既に入ってるようだが、
豊臣政権はまず「家光の時代」まで天下様として後継する体制すら作れなかった。
そこで家康との差は歴然。終了。

261:日本@名無史さん
13/02/17 15:23:34.40 .net
秀吉過大評価論者って「豊臣家が続いてたら家康と同じことができた」と言うけど、
そもそも豊臣家が続いてない時点で負け。ここで納得するのが一般人
「続いてない時点で負け」に納得できず「断絶させたのは家康」と地雷を踏むのが司馬以下の信者。
だったら秀吉政権への家康の協力も抜かないとアンフェアだし、
家康が天下を簒奪したのは、彼と何ら関係ない豊家の譜代衆の争いが契機なので、反論も不適切。

262:日本@名無史さん
13/02/17 22:43:06.28 .net
>>260
「島原の乱の認識を誤っていた」ですむ話なのに、突っ走るからそれまでの話と整合性が取れなくなっちゃったことに気づいていないでしょ
俺は236-242-248であって他は関係無い

脳内で完結させずにさぁ「武力凍結政策」をきちんと説明しようっていう気は全くないの?
武力の発動を“徹底的”に「停止」させる政策とは何か
豊臣公儀も武力凍結政策を取っているけれども、政権じたいが外征を行ったこと、その後に内乱が勃発したこともあり、 ほとんど説得力を持たなかったとは誰の論文か
喧嘩停止令類似のものとは何か


この四つに答えてくれ
き・み・の言葉を明確化させることから逃げて、間違った思いつきによる言い逃れを永遠に続け、こちらは何時までも妄想を正し続けなければならないのかい

263:日本@名無史さん
13/02/18 16:29:17.10 .net
>>262
何が間違ってるんだ。島原の乱を契機に民衆側は無秩序な蜂起を自粛して作法ある抗議に切り替わり、
一方で仕置の失敗で斬首の処分を食らったのも事実だろ。

武力の「凍結」の例としては、例えば民衆の保有する武器の扱いがそうであったり、「城破り」がそうであったりする。
このスレに書いてあることを読んでみろよ。
福島正則の改易や大坂城の講和条件を「破った」と見なされている行為は、
徳川方にしてみたら、武力発動を半永久的に「凍結」させることを命じたのに福島や大坂方が従わなかった、
つまり相手のほうこそ違約をしているという認識によってる

ほんと無知ね

264:日本@名無史さん
13/02/18 23:16:53.52 .net
他人を無知だと罵るなら論拠を提示してね
スレに書いてあるというならレス番を明示するぐらいのことはできるだろ

令なのか文書なのか何を根拠にしての発言か明らかにできないのは、
きみがこの種の掲示板を読み漁っただけだからであって、
きみが自分に都合の良い書き込みを、フィーリングのみで理解した心算になっているから

豊臣政権の認識が数年旧いのがその証左、
誰かがネットに書いた与太書きを、ソースも確認せずに続けられている伝言ゲームの末端にいるのがきみだというにすぎない

違うというなら、自分の発言が何に基づいているのか即座に答えられるはず
きみのように人前で発言する資格の無い子供に、何を間違えているのか指摘し続けても無駄だということは、
経験上よく分かっている

俺様の演説を聞け!というスタイルを変えないなら、それはそれでかまわないけど

265:日本@名無史さん
13/02/21 09:17:06.50 .net
家康って自分で天下統一できなかった雑魚でしょ?

266:日本@名無史さん
13/02/22 10:06:52.20 .net
この時代で自分だけで天下取った人っていたっけ?

267:日本@名無史さん
13/02/22 16:15:30.26 .net
これまで関ヶ原合戦後の政治体制は、1つの説として二重公儀体制が主張されてきた。
…しかし、これまでの研究で批判されてきたように、遅くとも二代将軍秀忠が征夷大将軍になった慶長十年(1605)を境にして、
徳川公儀は徐々に優越的な地位を占めるようになってきた。
…関ヶ原以降、家康の目的は秀頼をいかにして、ほかの大名と同様に配下に収めるかにあった。
ところが、従来はおおむね家康が豊臣家の滅亡を企図して、着々と準備を進めたとされる。…果たしてそのように考えてよいのだろうか。
(中略)
…徳川方は、豊臣家を大坂冬の陣で潰すことなく、和睦によって解決を図ろうとした。
潰そうとすれば、豊臣家を潰すことができるはずである。
ここで改めて家康が提示した和睦条件を考えてみると、主たることは
①淀殿を江戸へ人質として送ること、②秀頼が大坂からほかの場所へ移ること、③大坂城に籠城した浪人衆を追い出すこと
に集約されよう。…家康からすれば、豊臣家が指示に従い、言うことさえ聞けばむやみに争う気持ちはなかったと考えられる。
…①②の履行を求めないことは、徳川家の最大の譲歩であった。

しかし浪人衆は一向に大坂城を退去することなく、一部の豊臣家の重臣の不穏な動きが伝わることになった。
ここまで来ると、さすがの家康も他の大名に示しがつかなくなる。もはや豊臣家を滅亡に至らしめるより方法はほかになかったのである。
家康にしてみれば、むしろ当初の意図に反して、豊臣家を潰さざるを得なくなったと言うのが実情であろうと推測される。
…徳川公儀成立の過程において、豊臣家が臣従を潔しとしなかったため、やむを得ず滅ぼさざるを得なくなったとすべきであろう。
そこに至るまで、家康は最大限の努力あるいは譲歩をしたと考えてよいのである。

268:日本@名無史さん
13/02/22 16:34:31.42 .net
>>264
>他人を無知だと罵るなら論拠を提示してね
城わりについて、例えば大坂の陣以降の江戸幕府は「城の防塞新築・新規召し抱えの完全停止」を求めている。
大坂の陣での牢人衆の退去条件、および「惣堀」の解釈についての双方の相違は今さら述べるまでもないだろう。
たとえば福島正則は大坂の陣の6年前にも城普請で幕府に糾問されて許されているが、
家康は大坂の陣の直後に一国一城令を発し、これは従来と比較にならない強い規模で遵守が求められている。
5年後の福島は従前のごとく形式的な城の破却のみで済ませようとしたが、これは許されなかった。
おれの演説どころか、この程度の史実はその辺ググって当然知っていてしかるべきだと言ってんだよ。

>令なのか文書なのか何を根拠にしての発言か明らかにできないのは、
「喧嘩停止令」と言うのは、当然知っていると思うが、そういう個別の正確な法令名があるわけではない
たとえば豊臣政権下では「天下ことごとく喧嘩御停止の法」への抵触などと言う事件名、総称によって語られる。
お前のはなんか厳格故意説を聞いてるような感じだな。

>豊臣政権の認識が数年古い
その具体的根拠は?
お前の言い分によれば、数年古いと言うならソースをあげて「何が、何と比較して、どのような点で、どのような研究によって数年」古いか明示しなくてはならないはずだが。

269:日本@名無史さん
13/02/22 16:49:56.13 .net
徳川方の和睦条件は夏の陣直前に至るまで明確で、大坂方が牢人衆の暴走でメルトダウンした結果、
武力による討滅と言う事態にまで至ったとしか考えられない。

徳川公儀への臣従。
および、牢人衆の切断。

牢人の取締は幕府政策でもあったから、大坂だけが大規模な違反行為を続けてよいわけがない。
大坂はそのいずれも拒否するどころか、講和後の3月に早くも新規入城者の存在が問題となり、
和睦の当事者である大野治長らの知る所でもなく、和睦に尽力した織田長益らが収拾を諦めて城を出ざるを得なくなっている。
徳川方としてはもはやだれをカウンターパートとすべきか分からない状態で、これでは成敗されるのは当たり前。

270:日本@名無史さん
13/02/22 16:55:20.34 .net
>>264
>スレに書いてあるというならレス番を明示するぐらいのことはできるだろ

いまスレを読んだら、「城わり」について江戸幕府が対処を厳格化したと言う指摘は既に>>36で出ている。

271:日本@名無史さん
13/02/22 17:10:18.81 .net
ちなみに「数年古い」と言う認識がまさか2年前に出たコレ↓に依拠しているのだとすれば中身読んでないんだろう
「豊臣秀吉と『豊臣』家康」(「消された秀吉の真実-徳川史観を超えて」、山本博文)

「小牧長久手の勝利」なんて神話はいま徳川公儀の優越性に評価を与える論者も大して支持してない。単に笠谷への反論だろ。
山本本って、この前のやつもそうなんだが、書名が実際の内容とくらべて攻撃的というか陰謀的なんだよな。
あと、この書籍ではちゃんと秀吉政権の末期に政権基盤がぜい弱化していたことにきちんと触れている。

272:264
13/02/22 20:52:05.67 .net
飛ばし読みしたけど

聞かれたことには答えられないから関係ない話で誤魔化します

ということが書かれているでFA?
自分で言い出した「武力凍結政策」ですら「城わり」に置き換えて逃げるのか…
他人を罵るだけで、自らの論拠すら明確化できないことを「モノシリ」と言うのなら
君の言葉でいうところの「無知」と呼ばれても一向にかまわないよ俺は

日本語での意思疎通ができないようだし

273:日本@名無史さん
13/02/23 08:58:45.90 .net
家康評価のスレではなく
「司馬遼太郎」のと冠してあるスレタイの読めないお前も日本語能力問題あるけどな

274:日本@名無史さん
13/02/23 13:56:27.89 .net
このスレで“「武力凍結政策」を口にする奴”に、レスを付けるのは皆


日本語能力がない


ということでO.K.

275:日本@名無史さん
13/02/24 14:46:15.92 .net
司馬は地元贔屓で徳川が嫌いとよく聞くけど、
織田にも豊臣にも徳川にも縁もゆかりもない田舎に住む身としては、そういう気持ちはよく分からんな。

276:日本@名無史さん
13/02/25 00:23:14.05 .net
関西人の東京嫌いというやつだろ

俺に言わせれば、信州の三地域対立の方がよほど分からん
まだ津軽とかの方が心情的には理解できる

277:日本@名無史さん
13/02/26 08:52:14.12 .net
司馬は大坂の陣で物資搬入の生命線だった木津川口の戦い(19日)、博労淵の戦い(29日)には触れないね。
後者は薄田兼相が橙武者だったというエピで紹介しているが、これで勝敗の帰趨が決まり、
今福や鴫野も徳川方に接収されて長期籠城すら厳しくなっていた事実は意図的に無視している。

278:日本@名無史さん
13/02/26 12:19:09.33 .net
上にもあるけどむしろ過大評価してる面もあるよな
家康死後の主に秀忠が将軍・大御所時代に推し進めた施策によって
幕藩体制は完成したのに
家康が作り上げたみたいな書き方してる

279:日本@名無史さん
13/02/26 12:32:02.33 .net
晩年はさすがに年相応に老獪さも身につけてはいたが
基本的にあわてん坊でうっかりさんだからな家康w
秀忠がいなかったら短命に終わったか、あるいは鎌倉幕府のように乗っ取られたかも
家康、秀忠共に死んで
忠輝が後継いで外戚の伊達政宗に乗っ取られた火葬もあったな

280:日本@名無史さん
13/02/26 23:24:14.24 .net
秀頼の卑劣な瀬戸際政策に対して、正義の鉄槌を振り下ろそうとした秀忠や政宗を押しとどめ、
最後まで和平条件を提示し続けた家康の度量が偉大すぎてこわい

281:日本@名無史さん
13/02/27 08:18:44.24 .net
>>277
木津川口の戦いに触れると、司馬がageまくってた牢人5人のうちの1人、明石全登の惨敗に触れなくてはならない
夏の陣でも八尾方面で長宗我部勢が大打撃を被った事実に触れていなかったり、
冬の陣では佐竹勢の苦戦には触れるが、その後で上杉勢が側面から攻撃を加えて大坂を退かせたことも触れてない

だから小説だけ読んでいると、まるで大坂方が勝っているのに謀略で和議に持ち込まれたような錯覚に陥る
現実には家康は冬の陣で攻撃と同時に和議も進めており、牢人衆と大坂の分離、徳川への臣従さえ担保できればよいと言う態度だった
この点で秀忠とかなり対立している。

282:日本@名無史さん
13/02/27 08:42:43.06 .net
>>272
城わりは夏の陣の直後、諸大名が帰国前に一国一城令と言う形で誓約させられている。
もちろんこの時は家康存命。
なぜ城わりの徹底が豊臣平和令ならぬ「徳川平和令」の例示とならないのか、弁明を求める。

秀吉政権の時代にも城わりは行われていたが、以下の点で、特に大坂の陣後のそれと徹底度が違う

①中央政権による被征服地が主たる対象で、さらに大名が破却対象の城の取捨選択を行い国衆の城の破却のみが先行したこと
②豊臣政権自体が朝鮮出兵で肥前名護屋城の築城などを行っていたこと
 さらに秀吉の没後の内乱期に再び築城が行われ、定着しなかったこと
 (徳川政権も二重公儀体制の時期に築城を行っているが、大坂の陣後に自らも普請を停止して、
 築城統制の徹底を定着させようとしたこと。これは諸大名の認識にもうかがえる)
③城わりが形式的なものでなく、構築物を全て破却する実質的な程度まで強いられたこと

283:日本@名無史さん
13/02/27 08:57:46.80 .net
あと徳川公儀は有力諸侯の合議ではなく、徳川譜代の家臣によって運営されていること。
武家諸法度なども豊臣政権と異なり誓詞の交換などによるのでなく、秀忠による発布の形を取っていること。
家康から秀忠への権力継承が円滑に進み、秀忠を頂点とする徳川公儀が大坂討滅時に10年を経過していたこと。

などから、機構としての安定性はかなり異なる。武家や民衆武装の統制や紛争についても、長期的で一貫性のある政策体系を打ち出すことが可能だった。
はい反論どうぞ。ろくな反論もないようだし、これでも反論がなければイチャモン吹っかけたあげく議論を放棄して逃げたと見なす。

284:日本@名無史さん
13/02/27 09:08:51.96 .net
>>279
秀忠の早世と言う仮定はもちろん考えられるが、家康は秀吉と異なり男子が何人もいたし、
何より秀吉と異なり関白に就任させて表のトップにした甥を自刃に追い込んで後継体制を混乱させるような愚は犯してない

伊達政宗?何言うてんの。あのオッサンは関ヶ原の後には豊家の臣従を促すべしとする強硬派に属するんだが

285:日本@名無史さん
13/02/27 19:17:40.13 .net
>>284
「火葬」の字が読め無いのかお前はw

286:日本@名無史さん
13/02/27 19:19:40.01 .net
つか、家康・秀忠が健在で幕府が盤石だった史実での行動なんて
幕府の屋台骨が揺らぐ+外戚として権力振るえるという立場での行動の参考になるかよw
史実のように幕府がしっかりしてりゃ大阪役でも起きてくれないと加増の機会はないからそりゃ
強硬派にもなるわw

287:日本@名無史さん
13/02/28 01:49:17.22 .net
>>285
>>279は明らかに「徳川の後継体制が弱体化して外戚が乗っ取る可能性がいくらでもあった、例えば政宗なw」
と言う主張じゃないか。仮想だとか今さら誤魔化すなよ。ちなみに政宗は秀頼を大坂で放置することが将来、内乱の種にならないか、
関ヶ原後の早い段階で憂慮しているし、冬の陣の講和に「家康の意思に異を唱えて」秀忠派に属した諸侯にあたる
ちなみに女婿である忠輝は豊臣家とは比較的接点の多い家康の子。なのに「外戚」は対豊臣強硬派なんだが

色々見ても、後継者が混乱しまくった豊臣政権の転覆の可能性と比べて江戸幕府が転覆する可能性なんてはるかに低い

288:日本@名無史さん
13/02/28 01:58:27.83 .net
結局、豊臣家は大野・織田有楽あたりが諸侯の足並みの乱れを利用して家康と条件闘争に入ろうとしたら、
福島にすら諌められる有様でまったく目論見が外れ、目論見が外れたので家康と慌てて講和したら、
今度はリストラされる牢人衆が騒ぎ出して有楽さんを追い出すわ、大野さんを襲撃するわ、
好き勝手したあげく自滅した
秀頼はデブすぎて出馬すらできなかったと言うただそれだけの話なんだよw

289:日本@名無史さん
13/02/28 02:36:18.83 .net
>>287
誤魔化しもなにも
わざわざ「仮想」ではなく「火葬」と書いた意味わかってないだろこのバカw

290:日本@名無史さん
13/02/28 20:02:22.00 .net
はいはい誤魔化し乙

291:日本@名無史さん
13/02/28 23:14:38.43 .net
秀吉の意を受けた前田玄以が、早い時期から朝廷勢力に関与し、相当部分意のままにしてきた。
これに関連する記録・日記類原本から、玄以の仕事部分を抹消して写しを作り、広めていった、インチキ徳川文化ワロズ

292:日本@名無史さん
13/03/02 01:26:53.07 .net
家康は本当は豊臣家を滅ぼしたくなかったのに、豊臣家の方が空気を読めなかったから。。なんて、絵空事も甚だしい。
あの名古屋城の本丸、大天守‐小天守の造りを巡る話からも、早くから臨戦態勢やんか。

293:日本@名無史さん
13/03/02 12:42:33.22 .net
>>292
名古屋に関しては、家康の設計が、大坂対策だとしても、それでも壮大過ぎるんだよなあ。
現在の経済規模のおかげで、逆に騙されているところがあるが、
尾張のあの位置に、あんなに大きな城郭と、壮大で合理的な近世城下町を作る必要は、
単に秀頼を滅ぼす戦争のためだけなら、さまざまな反攻の想定をしても、実はなかったりする。

同じような、一見イミフの、極度の余裕のある縄張りとしては、他に仙台があるが、
これは、伊達政宗が、天下取りの妄想を捨て切れていなかったことを示唆すると言われる。
だとすると、名古屋は更に謎だよね。

294:日本@名無史さん
13/03/04 22:15:36.24 .net
江戸時代が明治より良い時代だったとか思ってる人が世の中に結構いるのに驚く。

だからって秀吉が良かったとも思わんし、奈良時代が良いとも思わんけどね。
というか江戸時代って豊臣政権の政策を引き継いだものだからね。

大名でもないのにいまだに江戸時代を支持してるのは、損得勘定すらしたことがないんろ。

295:日本@名無史さん
13/03/05 09:37:51.79 .net
色々名目着けて献金強要される大商人や大棟梁以外の
商人や職人にとっては税金のない江戸時代の方が良かったろ

296:日本@名無史さん
13/03/05 10:33:30.57 .net
>>295
たしかに一部の商人や職人は良かったかもしらんが、
商人や職人は税金を納めないから、幕府がいろいろ規制してたんだろ。

297:日本@名無史さん
13/03/05 11:44:24.59 .net
2ちゃんねるは秀吉サゲ家康アゲは異常に多いよ
特に日本史板は在日の書き込みが多い
朝鮮民族を攻めた秀吉は無能のボケ、日本はどこにも出兵しませんと約束した
家康は朝鮮人の仲間だそうな

298:日本@名無史さん
13/03/05 12:31:25.73 .net
仮に秀吉が存命でも朝鮮を占領して維持できたとは思えないんだけどな。

299:日本@名無史さん
13/03/05 12:43:53.92 .net
チョンの書き込みが多いな

300:日本@名無史さん
13/03/05 13:13:16.36 .net
>>299
秀吉存命中に本気でやっても、朝鮮南部を占領してただけなんだから、
その後に頑張っても朝鮮北部の占領は難しいだろ。

今の時代と違って対馬海峡を渡るのは大変な時代なのに、
南部だけ維持し続けるのは大変だ。

301:日本@名無史さん
13/03/05 15:21:43.34 .net
>>297
琉球に攻め込んでるじゃないか

302:日本@名無史さん
13/03/05 15:54:27.88 .net
琉球に攻めようと朝鮮人からしたら知ったことではないからな。

303:日本@名無史さん
13/03/05 21:49:10.59 .net
>>297
チョンチョンいいながらそのチョンの妄想史を鵜呑みにするような
頭の悪いお前は知らないだろうが
秀吉が朝鮮攻め込んだせいで
朝鮮人よりも出征負担でむしろ日本人の方迷惑したんだがなw
朝鮮人で迷惑したのなんてふんぞり返ってた王族や両班だけで
大多数の民衆は元々生き地獄だから大差ねえw
中には日本軍を歓迎して見チンないした奴らまでいたんだぞw

304:日本@名無史さん
13/03/05 21:52:08.84 .net
道案内なw
そーいや扱いの悪い朝鮮ヘの帰国を断り、日本への帰化を願った
陶工をまるで故国に帰りたかったかのように書いたのも司馬だな
完全にウリナラファンタジーへの荷担だw

305:日本@名無史さん
13/03/05 21:57:34.13 .net
収奪するのが両班から日本軍に変わっただけだからな
しかも日本軍は必要な分しか徴発しないけど
両班は色々理由着けて法定分の税以上の物まで根こそぎ持って行くというw

306:日本@名無史さん
13/03/07 14:22:28.97 .net
>>303
さすがチョンはすげえやw
向こうで豊臣秀吉と言えば悪人の代表だぞ
日本人にとっては大出世の最たる英雄なのに

307:日本@名無史さん
13/03/07 15:12:09.09 .net
>>306
>さすがチョンはすげえやw
機能性文盲乙w

>向こうで豊臣秀吉と言えば悪人の代表だぞ
禿げ山が多い、寺院が少ないといった関係ない事まで秀吉のせいにされてるからな
都合の悪い事を全部日本のせいにするいつもの朝鮮クオリティだろw
なんでお前らって朝鮮嫌いなくせにあいつらにの言う事をちゃんと検証しないで鵜呑み
にするわけw

>日本人にとっては大出世の最たる英雄なのに
歴史に詳しくないやつにだろw
なんで「太閤記」が出世の階段登り切ったところで終わると思ってるんだ
「主人公からラスボスにクラスチェンジ」が歴史好きのイメージだよw

308:日本@名無史さん
13/03/07 15:18:00.96 .net
どうして、かまってちゃんをスルーできないのか

309:日本@名無史さん
13/03/08 11:05:04.70 .net
>>275
>>276
スレ違いかもしれないけど、
大久保利通の遺骨が平成になってようやく里帰りできたという話を聞いたときは、
いくらなんでもあんまりじゃねーか、地元贔屓や判官贔屓ってオソロシスと思ったな。

310:日本@名無史さん
13/03/08 12:31:01.57 .net
>>307
>寺院が少ないといった関係ない事まで秀吉のせいにされてるからな
何しろ李朝の廃仏から守ってやった仏像を「盗んだ」とか言ってくるカスですからね

311:日本@名無史さん
13/03/09 11:04:54.63 .net
政権維持に失敗したのだから、政治家としての秀吉には辛い点が付けざるを得ないな

312:日本@名無史さん
13/03/16 12:20:55.35 .net
秀吉は秀次事件を引き起こした上に、小早川隆景と言う後継構想のキーマンを次々に失ってるから
東国仕置を家康に頼るほかない状態だった
家康が慶長16年(大坂の陣の3年前)の秀頼との会見の時点で大坂討滅を決意したなんて全く史実と異なる

7月の方広寺鐘銘事件から半年足らずで大坂が10万の牢人を集められるわけもなく、
冬の陣で家康は最初から和睦を前提として強攻を抑えていたことからも明らか
家康が豊家討滅の決意を固めたのは、夏の陣の直前の段階

313:日本@名無史さん
13/04/11 16:15:31.08 .net
一方で大阪方は駿府の家康には恭順の姿勢を見せる一方で
江戸の秀忠政権には楯突くという不可解な行動をしている
両者が一体の物である以上無意味な行動だが
当時、家康と秀忠の親子関係がしっくり行ってないとか
徳川家が大御所派と将軍派に分かれてる、といったような風聞でも
流れていてそれを鵜呑みにでもしたんだろうか

314:日本@名無史さん
13/04/30 08:42:43.15 .net
先日、本屋で立ち読みしてたら
徳川家康の強さの秘密は
戦国最強の三河武士と
繰り返し強調されていた。

315:あ
13/04/30 14:38:04.25 .net
司馬の家康嫌いは、単に江戸に幕府を開いたのが理由だ。関西圏だったら嫌いになってない。

316:日本@名無史さん
13/04/30 17:24:02.18 .net
司馬は頼朝嫌いじゃないよ?
同じく東国に幕府を開いたが。

317:日教組は日本の癌細胞
13/04/30 17:41:31.89 .net
URLリンク(www.google.com)
絶対許すな
URLリンク(www.domo2.net)
真相真実
URLリンク(portable.blog.ocn.ne.jp)

318:.
13/05/01 06:42:00.84 .net
>>316
言葉足らずだったな。あの家康でも畿内に幕府を置いたならば、司馬は家康を不快には感じなかったと思う。

つまり、秀吉好きの司馬が徳川嫌いになるのに、江戸での幕府は十分に要素を満たした。

319:日本@名無史さん
13/05/01 07:50:09.76 .net
司馬が家康を嫌いな理由
①イメージ…外交より内政、通商より鎖国、暗黒の江戸時代と言う偏見
②倫理的偏見…主家である豊臣家の天下を乗っ取り、遺児を滅亡に追い込んだ
③大坂パトリオティズム…関東に大坂が打ち負かされたのが悔しい

結論的に言うと①②は完全なる誤り、③は司馬の勝手な被害者意識

320:日本@名無史さん
13/05/01 20:44:12.14 .net
暴走のあげく自力では牢人を排除できないと言う先軍政治に陥った豊臣家と牢人衆の切断でことを治めようとしたが、
結局、ご苦労知らずの秀頼がブチ切れて淀殿の和睦合意を蹴り、牢人衆と抱き合い心中しただけの話

321:日本@名無史さん
13/05/01 20:44:33.07 .net
>>319
思い切り乱暴な観測をするとさ、この国って関西と関東の勢力争いを延々としてきた、って見なせるよね
関西愛国の司馬さんにとって、禁中並公家諸法度を制定した徳川幕府は、やっぱり絶許だったんじゃね?
そう考えれば彼の家康嫌いも可愛いものかと

322:日本@名無史さん
13/05/02 08:04:23.31 .net
網野善彦が司馬の逆バージョンで、「日本社会の歴史」で採用したのも東西の王権の統合-分裂を軸とした世界観だから、
東西対決的発想じたいはおかしくないよ。ただし、網野は西の王権の長を敵視したり、東の王権のほうが優れてるなんて言ってはいない。
地域パトリオティズムって「中央一辺倒の歴史観に対して、地域の自律性を対置させる」ものであるわけで。

司馬の大坂パトリオティズムの場合は、西の東に対する開明性や文化的先進性を前提に話が進むんだな。
江戸時代暗黒史観がそうなんだけどさ。つまり、地域パトリオティズムを否定する方向で使われてる東西対決なんだよ

323:日本@名無史さん
13/05/03 01:24:34.18 .net
大阪人の自分は家康好きだよ
反対に司馬が嫌いだw
司馬が家康嫌いなのは別の人も言ってるように
秀吉好きなのと、江戸に幕府開いて260年余り続いたことだと思う

別に何を好きでも構わないけど、他を下げないと自分の好きなものを評価できないって
おかしいよ。

>>322
そもそも学術的に論じる場合、どちらかを敵視して、あっちが劣ってる、こっちが優れてるって
論じること自体がおかしい。とくに文化的なものに関してはね。嫉妬して他を下げるって、このへんお隣の国を思いうかべるな

司馬はその意味でまったく歴史的考察なんて出来てない。
本人は一応小説家と認識してたみたいだけど、ファンは歴史家と見做してるからやっかいなんだよ。

324:日本@名無史さん
13/05/03 09:20:28.10 .net
東京人が西郷さんの銅像が上野公園に立ってても、大村益次郎が靖国に祀られてても何にも気にしないのに、
司馬はいかにも気宇が狭い。

325:あ
13/05/03 17:44:15.19 .net
司馬の三成好きも反家康だからだろうな。家康好きの松本清張との対談は面白かった。

しかし、司馬は家康の晩年にあった豊臣潰しを酷評していが、秀吉の晩年ほど醜いものは無いんだがな…

家康好きな桑田や津本とかと司馬は対談してるのかな?

326:日本@名無史さん
13/05/05 23:49:11.89 .net
家康も酷評だが劉邦とかまあ酷い言われ方だったわ、そこまでして項羽持ち上げたいかと

327:日本@名無史さん
13/05/06 21:33:38.49 .net
>>325
そこは司馬に突っ込みたい
>秀吉の晩年について


どかだったかのスレで山内の子孫の方が、武田鉄也に対して
ウチの先祖はそこまで酷くないって不満をもらしてたって見た。

徳川の子孫も司馬に対して思うところはあるんじゃないかと思う。

反対に自分がくそみそに言われてるのはどう思うんだろう、司馬。
まあ、司馬はあれだけ他人の先祖くそみそに評価してるから文句言えた義理じゃないけど
すでに亡くなってるしねw

328:日本@名無史さん
13/05/09 12:38:27.69 .net
司馬にとって秀吉は好きで結婚した相手の過去がド腐れビッチだったことを知ったが知らんぷり
家康は嫌いなのだが、悪口言い続ける内に気に入るという典型的なツンデレ

329:日本@名無史さん
13/05/10 11:04:46.72 .net
アンチはアンチでも、妖説太閤記のような愛のあるアンチ小説なら良いと思うけどな。
いくらなんでもそりゃねーだろと何度も突っ込んだけど、
主人公に思い入れがあるからこその小説だと思う(私見)。

330:日本@名無史さん
13/05/14 01:36:56.75 .net
>>280
今更なレスだがその辺は秀吉の遺言に対する配慮もあったのかなと思ったり。

331:日本@名無史さん
13/05/15 06:29:02.71 .net
家康個人はめちゃくちゃ意識してたと思うよ実際
だからギリギリまで大坂と講和条件模索したけど、その頃になったら秀忠の意向も無視できなかったのだろ

332:日本@名無史さん
13/05/15 17:31:59.87 .net
史料には秀忠が冬の陣の段階から主戦派、家康は開戦当初から和睦を模索していた
と言うのが明確に記されてるし、家康が秀忠と意思疎通しながら大坂の処分を決めようとしていたこと、
冬の陣の講和で家康が条件的に深追いせず、伊達政宗ら有力大名が反対したこととかちゃんと書かれてるんだけど、
司馬は家康の影響力を過大視して「それぜんぶ茶番だから」と言い張ってるので始末に負えない

333:日本@名無史さん
13/05/15 23:05:15.36 .net
司馬小説読んであくまで自分が感じた印象だが
能力は認めてるけど生理的に嫌い=家康。山県有朋
能力は認めてないけど一人の人間的には大好き=乃木さん

334:日本@名無史さん
13/05/16 14:06:41.43 .net
>>281
八尾の戦いも戦雲の夢読んでると颯爽と長曾我部が勝ったような印象受けるけど
実際は違うしね

司馬さんて資料読み込んでる割には戦略に無知なんじゃないかと思えてくる
書き方多々あるよね

335:弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg
13/05/16 23:59:30.21 .net
戦争してる時点で、戦国時代の武将は全部、屑。

336:日本@名無史さん
13/05/21 10:42:02.13 .net
>>329
あれは確かに解釈を悪意に取りすぎたり、何もかも秀吉と両兵衛の陰謀に
してたりはするけど
普通の太閤記系がスルーする秀吉の残虐行為を史実通り描いてると言う面
もあるぞ

>>333
能力に関してはぶっちゃけ過大評価だw
関東転封で封土を「家康から与えられる」までは
伝来の土地の「家康に承認させて」いた三河武士団を家康が早々と掌握しているように
描いたり
秀忠政権以降が作った江戸幕府の保守的ゆえ盤石な体制を家康の発案にしたり

337:日本@名無史さん
13/05/21 19:37:12.81 .net
家康て小説だと若いころから
落ち着いて成熟してる描写おおいけど

実際どうなのよ
逸話見ると、それなりに血気盛ん

338:日本@名無史さん
13/05/21 22:12:25.16 .net
子供の時に知った歴史がオナニー歴史観だと知って愕然したわ
負けた奴ははいはい勝者のせいと敗者をびかするけど
敗者は今の民主党みたいな失敗した連中を美化しているようなもんだぞ
司馬に嫌われようが卑怯だろうがそれよりも国を破滅させなかったのがすべて

339:日本@名無史さん
13/05/21 22:29:40.99 .net
>>332
つうか、それは、知られている事実だけでも、当たり前の帰結なんだよね。
秀忠は、「関ヶ原の汚名返上」しか脳内に無く、「父の存命中に、戦闘で大活躍したい」という思いばかりが先立っている。
伊達政宗は、「豊臣征伐」が、建前上は明らかに秀吉の意志に反し、大義名分に欠くことはよくわかっている。
それでも強引に煽るのは、
徳川氏に「汚れ役」をやってもらって、ついでに徳川氏の権威も失墜させ、あわよくば「徳川の次」を狙っているから。
現実政治のパワーバランスとしては、これは妄想レベルなのだが、
ただの誇大妄想を、本当にリアル世界で実行しようとガチで試みるのが、政宗の政宗たるゆえんだw

だが、政宗の意図は、家康は重々承知だったと思われる。
逆に、家康としては、「政宗など諸侯が、豊臣氏誅滅を主張しているから、これは仕方ないんだよ」と言って、
権威の傷を、むしろ軽減させることができたわけで、政宗は、完全に家康の術中にハマっているw

340:日本@名無史さん
13/05/21 22:59:00.28 .net
政宗て家康に秀頼の身に何かあったら亡き秀吉に申し訳ないから秀頼保護しろって内容の書状出してなかったけ?

341:日本@名無史さん
13/05/24 10:28:25.10 .net
>>336
本能寺の変・秀吉黒幕説とか疑惑に過ぎない話はともかくとして、
明らかに史実である唐入り失敗と秀次一族粛清を無視せず、
秀吉が亡くなる最後の最後まで見届けてるところこそが愛だと思う。

主人公の良いところだけを見た物語なんて、作者の色眼鏡な自己満足に過ぎんよ。
判官贔屓だって、敗者の憐れなところだけを見て、敗北した原因には見向きもしないしな。
歴史ものの話を作るのなら、主人公の良いところも悪いところも見るべきだと思う。

勿論、こっちも商売だしの理由なら仕方ないし、
妖説は秀吉のヒーロー像を壊してやるという思惑も大いにあるんだろうが。

342:日本@名無史さん
13/05/26 23:20:19.66 .net
政治的に歴史を公平に見るべきだわ

343:日本@名無史さん
13/05/28 19:22:49.09 .net
司馬作品の盗作で話題になった池宮の逃げろ家康
あれは逆に家康を歪曲化しすぎだ

344:日本@名無史さん
13/06/02 09:26:51.18 .net
>>343
初期の家康と三河武士の力関係に関してはどの歴史小説より史実に近いと思う
忠犬どころか強欲な田舎者の集まりなあたり
それともあの三河武士像も史実から持ってきたんじゃなくワンクッションとして何か
元ネタ小説でもあるんだろうかw

345:日本@名無史さん
13/06/02 09:30:09.18 .net
>>337
晩年の大阪役でさえちょっと戦局不利になっただけで
「腹を切る、いや、敵に切り込んで切り死にする」と戦陣で恒例の自暴自棄癖を
炸裂さぜてました
ほとんど死ぬまで癇癪玉です

346:日本@名無史さん
13/06/04 09:25:54.34 .net
>>344
人物像に関しては
家康の人物矮小しすぎじゃね?

347:日本@名無史さん
13/06/04 22:16:23.90 .net
>>346
だからあくまで力関係の話だってば
人物像は確かに無能すぎる

348:日本@名無史さん
13/06/04 22:33:01.71 .net
むしろ天下を舐めている

349:日本@名無史さん
13/06/05 06:11:02.07 .net
当時三河武士からすると
利権奪う今川氏統治は不満だろうな

三河武士の中でも大所帯の大久保家(忠教)が
今川家の事をボロカスに書くの判る

350:日本@名無史さん
13/06/05 06:20:32.43 .net
三河そのものは搾取していたけど
広忠・家康親子にとってはむしろ後ろ盾として松平家の国主としての地位を担保してくれていた
恩人だからな義元は

351:日本@名無史さん
13/06/05 12:02:47.97 .net
清康が三河の小豪族たち駆逐し、義元が戸田氏など没落させて
国人層弱らせてくれたのも松平家の三河再統一にはプラスになったな。

352:日本@名無史さん
13/06/18 10:43:49.45 .net
そこまでお膳立てしてもまだ三河一向一揆や岡崎騒動などの
難関が家康には待ちかまえていたわけで
どんだけ難治の国だよ三河

353:日本@名無史さん
13/06/20 07:50:38.86 .net
>>341
作中人物では最後に最大の敵が逝ったのに寂寥感を感じる家康
あるいは秀吉の悪行全て知った上で「なぜかあの男嫌いにはなれませぬ」
と言った慶次あたりが作者の代弁者って感じがする

354:日本@名無史さん
13/06/20 21:40:08.98 .net
>>352
信康事件も単なる内部抗争説も根強いんだよな
最近の研究だとどういう見解になってんだろう

355:日本@名無史さん
13/06/21 01:14:58.90 .net
石川数正出奔理由も派閥争い
三河武士て本当に結束強いのかい

356:日本@名無史さん
13/06/21 01:35:01.64 .net
ケチで器が小さかったから。
秀吉をみてみろ、生きてる間はなんの反乱もなかった。

異論は認める

357:日本@名無史さん
13/06/21 10:50:41.96 .net
司馬
「家康は好きじゃないけど、実力は認めてあげるんだからね!」

山田風太郎
「アンチ秀吉本を書いたつもりで、
後天ロリとか、母妹も猿面とか、辞世の句もゴーストライターに作ってもらったとか、
色々悪口を並べちゃったけど、どうしてだか傑作と言われちゃってるんだからね!」


逆に、信長は残酷で恐ろしいと度々表現されてるけど、
これといった代表的なアンチ小説がないような気がする。

358:日本@名無史さん
13/06/21 14:10:35.89 .net
司馬の世良修蔵評価がヒドい件

359:日本@名無史さん
13/06/24 10:04:41.09 .net
>>354
信康事件が岡崎騒動でしょ
今では単なる徳川家の内部抗争に
信長が裁定役として引っ張り出されたと言う説の方が強いね
信長死後の五徳姫に対する家康の厚遇見ても

360:日本@名無史さん
13/06/24 11:03:43.46 .net
>>355
浜松派閥との政争に負けた岡崎派閥のトップだったからな数正は
同じく岡崎派の服部半蔵もこのせいで本来なら徳川四天王クラスの
家康の腹心なのにずっと下のランクになっちゃって
後世には武将ではなく忍者の頭領扱い

361:日本@名無史さん
13/06/25 00:51:29.88 .net
義信謀反と一緒か

362:日本@名無史さん
13/06/26 07:08:15.04 .net
>>360
四天王でも酒井忠次は個人的に人質時代から家康の側近だったからそういう位置にいたけど
家柄的には酒井家は本来は家康と利害衝突する三河大土豪の一つだからね
本多忠勝と榊原康政は中規模土豪の上に分家(康政にいたっては家名継いだだけ説もあるし)
井伊直政は遠江人なのと比べて一人立場が違うんだよね
忠勝、康政、直政が家康子飼いの取立てで、忠次はあくまで国人
忠勝、康政、直政が長いこと家康直下の旗本の物頭だったのに対し、忠次だけは独立部隊と
して郎党と与騎を率いて毛色が違うし
本来ならそこに他国者かつ旗本の物頭の一人であった半蔵が入ってもおかしくなかった

363:日本@名無史さん
13/06/26 16:20:02.03 .net
まあおそらく数ある~四天王で一番基準のブレたセレクトだろうな徳川四天王
岡崎→浜松時代の重鎮一人と江戸移封以降の出世頭三人だもん
ただ酒井を基準にしても本多ら三人を基準にしても、似たような身代と功績のやつが
四人揃わないから仕方なくこの四人にしたのかも

364:日本@名無史さん
13/06/26 20:03:36.39 .net
>>362
長篠くらいまでは半蔵は忠勝・康政と同格か
ことによると三方ヶ原での功績で旗本衆では頭一つ抜けた存在で
小姓から使番・奏者に抜擢されたばかりの直政よりずっと格上だったんだよな
それが江戸移封の頃には禄高十分の一以下という格差ができてた
やっぱり岡崎騒動が原因なのかね

365:日本@名無史さん
13/06/27 04:24:28.13 .net
ここで挙げられてるような忠義の三河武士()の実態だって
司馬の時代にも史料は充分あったよね
家康を本人とは似ても似つかない保守的な人間として描き
その一方で統率力を異様に過大評価してるのが司馬
字義通りの「過小評価」はしてないな

366:日本@名無史さん
13/06/27 05:27:58.94 .net
>>364
まあ服部家も半蔵が長命なら
あるいは二代目半蔵(祖父の半三から数えると三代目ハンゾー)がもう少し有能なら
関ヶ原後には譜代大名になれたと思うよ
二代目が無能すぎた

367:日本@名無史さん
13/06/27 05:30:00.51 .net
>>361
どっちも最小限の犠牲で内部抗争を終結させたと言える
武田の方は飯豊ら一部重臣にも腹切らせて相対的に親族衆の発言権を
強くした事が後々の命取りになったけど

368:日本@名無史さん
13/06/27 10:59:31.61 .net
>>365
家康が扱いかねていた面倒くさい三河武士を
江戸転封機に地盤を奪う事で国人から完全な家臣に再編成する機会を
与えたのは秀吉なんだよなw

369:日本@名無史さん
13/06/27 14:20:38.98 .net
三河一向一揆も単なる宗教信仰の問題じゃなくて
戦国大名化する上で庶家や豪族たちの力排除する必要あったとか

370:日本@名無史さん
13/07/09 NY:AN:NY.AN .net
age

371:日本@名無史さん
13/07/13 NY:AN:NY.AN .net
司馬さんの秀忠評価ってどんなんだっけ
昔の小説だと秀忠凡庸説が多かったけど
今そうな風に秀忠象書いたら史実厨が煩そうなもんだ

372:日本@名無史さん
13/07/15 NY:AN:NY.AN .net
よくある疑問「秀吉は家康を殺しておけばよかったのに」

これは現実が見えていない世間知らずの意見。
家康を殺すことは可能だったかもしれないが、
死後のほうが荒れて大変になる。
徳川家臣団の蜂起や秀吉自身の信用失墜など。

かつて、日本国内の境目は国単位だった。
現代で例えれば、朝鮮人・中国人が日本国総理大臣になっても反乱が起きるだろう。
他国の人間が支配者になるのは難しい。
よそ者の家康が関東を支配するのは苦労したという。

373:日本@名無史さん
13/07/15 NY:AN:NY.AN .net
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82~83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)

374:日本@名無史さん
13/07/15 NY:AN:NY.AN .net
>>373
総力戦などしなくても秀吉が家康を殺せるチャンスは多くあった。
上洛させる時は非武装が基本だから。
大坂城で殺せただろうけど、秀吉は死後の処理が大変だと認識していた。
家康も同じ理由で自身は殺されないだろうと読んでいた。

総力戦で消そうとしても、北条家のように包囲できたかは疑問。
全ての大名家が征伐に参加するとは思えない。
特に、島津家と伊達家は秀吉の命令でも関東包囲までは行かないだろうね。

375:日本@名無史さん
13/07/16 NY:AN:NY.AN .net
織田家を乗っ取った事じたいが不徳であり、これ以上の信用失墜はどうしても避けたい秀吉は家康を殺せなかった。

家康を殺すと秀吉の野心がなおさら浮き彫りになるからな。家康を生かす事で、織田家乗っ取りは万民のためと言い訳が出来たし大義名分となった。

だが、織田家を乗っ取った不徳は家康を助けただけでは払えない。やはり、秀吉はやり方を間違えた。家康に天下を与えるべく生涯を費やしたとも言えるのが秀吉だ

376:日本@名無史さん
13/07/24 NY:AN:NY.AN .net
>>326
どんな風に書かれてたの?
関係ないけど劉邦は中国史の中でも屈指の過小評価されてる人物
無能な人物が天下取れるわけない

377:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>>376
今「項羽と劉邦」手許に持っていないんでうろ覚えだけど、
項羽の首が懸賞にかけられて、漢の兵士5人が争奪して分けあったんだが、下品な欲望がこの快男児を殺したのだみたいな小説の締めだった
正しく>>338みたいな書かれ方
項羽なんて戦闘が強いだけだろう。残酷だし。まだ本宮ひろ志の「赤龍王」の方が劉邦評価しているし項羽の実態に近いんじゃないかw

378:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
無能な人間でも天下取れるだろ
現に無能な徳川綱吉でも天下人
天下取るなんてほとんど運みたいなもん

379:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
世襲で将軍と創業者比べても・・

380:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
毛利アホ元とか馬鹿でも一歩間違えば天下取るチャンスはあったわけだしな
天下取りなんて運が90%だろ

381:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
だから取れてねえじゃねーかよw

382:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
アホ元レベルの馬鹿でも関が原でまともに戦う判断さえ下せば取れてた可能性高いんだろ
チャンスさえあれば誰でも取れるのが天下。

383:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
大内細川三好も中央での長期政権築いたけど
別に天下人として、天下でぬきんでたほどの能力や才覚があったようには見えないしねぇ
欧州の戦乱とかでも無能が国内統一とかあったんじゃなかったっけ?

384:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>>382
まともな判断下せなかった現実
2ちゃんで吠えてないで自分が取ってから言えよ

385:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>>384
天下なんてアホでもチャンスさえあれば取れる
現にアホの綱吉とか取ってるし秀忠も特段有能じゃない
有能でも逆に不運が続けば滅びる
現代でいえば麻生みたいな馬鹿でも人の上に立てるのと同じようなもん

386:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
現代でいえば運と要領の良さだけである程度出世した人間でも自分の上の重役とかその関係が不正だの病気だので
共倒れになれば自動的に自分がトップになるのと似たようなもんだろ

387:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>>379

388:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>>385
麻生の1000分の1の能力もない>>385

389:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>>387
創業者だろうが関係ない
大体一代で全てをなしえた人物なんていない
大体他人が進めてきた統一過程を途中から入れ替わってほとんど終わってたところを成し遂げたとか
とか、動乱の影響で衰退傾向にあった所を外部から入ってきて纏め上げただけとか
そういうのが大半なので、本質的には世襲するのと変わらない
イングランド王のジョンとかヨーロッパの方の王なんて無能でも国内統一とかやりまくってる。
チャンスさえあれば天下なんて誰でも取れるし運が悪ければ有能でもころされる
麻生みたいな馬鹿でもトップに立てるのと一緒

390:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
「天下をとる」を世襲の意味で使う人初めて見たわ

391:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
どうでもいいけど
大内・三好は長期政権築いてないだろ

392:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
信長や秀吉よりは長期じゃん

393:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>別に天下人として、天下でぬきんでたほどの能力や才覚があったようには見えないしねぇ
そうか?
三好政権・大内氏は当主の力量・カリスマにドップリ依存しすぎな印象だけど、
長慶、義興の才覚が抜きん出たからこそ、その死後衰退していった解釈してる。

394:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
私が思うに信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に
十河一存
斉藤義龍
1562年
三好義賢
1563年
細川晴元
細川氏綱
三好義興
1564年
安宅冬康
三好長慶

と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで
死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。
これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。

395:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
>389
それはいえてるね
馬鹿輝元とかでも親父の遺産のおかげでかなりのチャンスがあったし一時は中国全土毛利って勢いだったもんね
国内の3分の2も継いだ状態で親が死んで無能な子供が継承、とかだったら本人が無能でも関係なく
普通に統一なんて余裕だわな

外国の王様とかだと例えばイングランド王のジョンとか
無能で有名な人物だけどちゃんと国内統一を果たしてるし周囲の主要人物がタイミングよく死んだり
周辺分国が衰退期に入ってたりしたら必然的に天下が転がり込んでくるわなw
戦国の動乱期なんてドミノゲームみたいにアホみたいに勢力図がめまぐるしく塗り変わってるし
これが当主の能力で入れ替わってるなんてゲーム脳もいい所だよね
国内の統治反乱支配体制とか周辺国の状況国力など様々な要因が複合的に重なって勢力図が入れ替わってるだけでしょ

396:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
自演乙

397:日本@名無史さん
13/07/25 NY:AN:NY.AN .net
楽して天下とったといえば
司馬炎、煬帝思い浮かべるな
二人ともまったくの無能でもないけど

イギリス史詳しくないんで
ジョン王とは知らないが

398:日本@名無史さん
13/07/26 NY:AN:NY.AN .net
確かに
『関ヶ原』もそうだが
司馬先生は家康を落として三成を立てすぎだな

しかも『城塞』も 家康が主役にしてはイヤらしく描きすぎ

399:日本@名無史さん
13/07/26 NY:AN:NY.AN .net
>>398
それを間に受けて石田のファンが大暴れw
実際笑い事じゃないんだけどな
史跡での小早川への破壊行為とかまで行ったから
歴史が好きな自分は歴史小説はあまり読まない。イメージが刷り込まれるかもしれないから。
なので、実際に小説と史実混同してる人を見るとちゃんと勉強してくれって思う

なんで専門書や学術書読まないで小説読むんだろう?
小説は創作物なのに。それすらもわからない層がいるのか。

日本史系と世界史系だと日本史系の方が歴史小説から知識拾ってくる人が多いイメージがある
世界史系だとそういうことはあまりないイメージだ
ローマの勉強するのに塩野先生の本読む人はそういないんじゃないか?
やっぱり専門書の方に手を出すと思う

でも日本史だと小説に手を出す人が多い

400:日本@名無史さん
13/07/26 NY:AN:NY.AN .net
消防の頃の話だから記憶が曖昧だけど、
俺が最初に読んだ家康の本は、あおむら純が描いた児童向けの漫画の伝記で、
小説と違って過度にマンセーもアンチもないから、歴史の人物に対して極端なイメージはつかなかったな。
秀吉の本では、ねねが夫の晩年を「秀吉様は人を殺すことが嫌いだったのに…」と嘆くシーンとかあったっけ。
やっぱり第一印象って大切だね。

401:日本@名無史さん
13/07/26 NY:AN:NY.AN .net
秀吉は農民。三成は茶坊主。
両人の権力への憧れや生き様が武士らしくない。それを司馬が好きなんだとしたらアホだな。

家康や信長は武士の品格があるが、秀吉には無い。

つまり俗物が司馬は好き。
観念的な謙信なんかも嫌いだろう。所詮は司馬も俗物

402:日本@名無史さん
13/07/26 NY:AN:NY.AN .net
>>399
>ローマの勉強するのに塩野先生の本読む人はそういないんじゃないか?
司馬狂いの自分の父親が正にこれで・・
日本史は司馬、世界史というか欧州史は塩野で分かった気になっている
その他は新書ですらまず読まない

403:日本@名無史さん
13/07/26 NY:AN:NY.AN .net
一般の職場じゃ正しい歴史知識より、有名な作家の書いた本を読んでいることを周囲にアピールする方がヒエラルキーが高いんだよ。

以前俺の傍でロートル爺さん二人が「騎馬民族征服説というのがあったなぁ」と唐突に話だした事がある。
まぁ数回の会話の遣り取りで終わったから内容なんかソノ二人は殆ど知らないんだろうが、
そういう話に割って入って「騎馬民族征服説は実証されず、初期と末期では全く違うことを言っているけど。どの話?」
と聞いたら俺の負けw

「お詳しいんですね」と、ベンチャラかますのが正しい若手社会人の知恵w

404:日本@名無史さん
13/07/27 NY:AN:NY.AN .net
>>403
うちの職場は幸いにもあまりそういう人いない
反対に詳しい人がいる。
その人一度定年退職した人なんだけど
凄い話しやすい人で人生経験も豊富だし、自分もそういう人になりたいって思わせる人
みんな頼りにしてる

405:日本@名無史さん
13/07/27 NY:AN:NY.AN .net
>>403
うんそんな風に話ブツ切りしたら会社じゃなくてどんな所でも嫌われるだろうよw
向こうは血液型占いや成吉思汗=義経くらいの軽い茶飲み話で話しているだけかもしれんのに

406:日本@名無史さん
13/07/27 NY:AN:NY.AN .net
>うんそんな風に話ブツ切りしたら会社じゃなくてどんな所でも嫌われるだろうよw
>向こうは血液型占いや成吉思汗=義経くらいの軽い茶飲み話で話しているだけかもしれんのに

この板で司馬に文句を付けている香具師も、一般からみりゃドン引きだよな…

407:日本@名無史さん
13/08/09 NY:AN:NY.AN .net
>>401
武士の品格って何?
主君を裏切ったり、言いがかり付けたり、ウンコもらしたりすること?

408:日本@名無史さん
13/08/09 NY:AN:NY.AN .net
あんたうんこネタ好きだな
うんこ漏らしは史実じゃない。面白いネタだから有名だけど。
あと言いがかり云々は否定されてる説だ

ここ一応日本史板だぞ

409:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN .net
否定している人間がいるってだけ

410:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN .net
あと、うんこネタを書き込んだのは初めてだw

411:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN .net
>>409
学術界では言いがかりなんて説は支持されてないよ
これ結構前から言われてるし
いまだに言いがかりって世間では認識されてるのは理解してたが
日本史板にまでこういうこという人がいるのに驚いた
歴史が本当に好きな奴が来るところって思ってたから
小説の話を持ち込んでくるとは思わなかった

司馬小説の話がしたいなら文芸書籍サロンや一般書籍に行ってくれ
そこでなら言いがかり云々言っても否定はされないだろ
うんこネタも家康がうんこ漏らしてる描写がある小説のスレで語ればいい
その小説の中では家康は脱糞したってことになってるからな
仲間もいるだろ

412:日本@名無史さん
13/08/10 NY:AN:NY.AN .net
最初からこのスレ見なきゃいいんじゃねぃ?

413:日本@名無史さん
13/08/11 NY:AN:NY.AN .net
国家安康の件は言いがかりだよ
家康が鐘をそのまま残したことがその証拠

414:日本@名無史さん
13/08/11 NY:AN:NY.AN .net
>>411
学術界は事実を解明するところ。
言いがかりかどうかは事実じゃなく認識であり、学術界が決めることじゃない。
「学術界」なんて印籠を出してないで自分で考えて意見を言え。

415:日本@名無史さん
13/08/11 NY:AN:NY.AN .net
>>414
>学術界は事実を解明するところ。
>言いがかりかどうかは事実じゃなく認識であり、学術界が決めることじゃない。
あなたの方こそなんで全然わかってないじゃん

その言いがかりだったとういう認識自体が誤りだったということだよ
諱を入れることは無礼だし、当時の天皇の諱まで入ってひっくりかえってる
当時の豊臣家と徳川家の微妙な関係の中にあってあの鐘の銘文は疑われても仕方ないよ
徳川家に対して反意がなかったとしても、礼を失する行為

416:日本@名無史さん
13/08/11 NY:AN:NY.AN .net
家康の意図が問題なわけで、礼を失する行為だったから言いがかりじゃないってのがおかしいんだよ。
豊臣を臣従させるための口実づくりの意図がなかったと思ってるの?
本当に家康が激怒したんなら>>413が言ってるように鐘を残さないと思うんだけど。

417:日本@名無史さん
13/08/12 NY:AN:NY.AN .net
素朴な疑問なんだけど、司馬とか一部の小説家って、なんで秀吉の晩年を書かないんだ?
(横山光輝の漫画も賤ヶ岳の戦いでおしまい)
秀吉の汚点をもっと見たいでござるとかじゃなくて、純粋に歴史ものとして読みたいんだが。

外国への侵略は現代の価値観では駄目っても、人の歴史は侵略戦争の連続だし、
アレクサンドロス大王、チンギスハン、ナポレオンとかは確実にアウトで、世界史の教科書が修正の墨汁まみれになるじゃねえか。
(良いとは言わんが)秀吉のやったことって、大陸じゃ日常茶飯事に行われてることで、
世界史レベルの暴君と比べたら、秀吉は別に異端でもないと思うんだけどな。
そもそも、歴史に名を残した人物って、偉大な英雄として布団で死ぬよりも、暗い最期を迎えた方が多いと思うんだが。

家康が評価されてないというなら、秀吉だってまっすぐに評価されてないと思う。
物書きの気持ちって、いまいちワカンネ。

418:日本@名無史さん
13/08/12 NY:AN:NY.AN .net
大陸雄飛こそ男のロマンだからな。
馬賊・流賊の頭領になるのも良いな。

419:日本@名無史さん
13/08/12 NY:AN:NY.AN .net
>司馬とか一部の小説家って、なんで秀吉の晩年を書かないんだ?
終戦後、吉川英治が 『新書太閤記』の筆を何故折るのか語っている(文庫の巻末に書いてある)
大作家にああいう風に書かれてしまうと後の作家は書きづらい罠

他人に期待せず、君が先鞭をつけて秀吉の晩年を書けばいいんじゃねぃ

420:日本@名無史さん
13/08/12 NY:AN:NY.AN .net
家康がうんこ漏らした話て三河物語か何かが元ネタだっけ?
徳川方の大久保が書いたんだから本当だと思ってた

421:日本@名無史さん
13/08/13 NY:AN:NY.AN .net
浜松市住みで地元伝説集から家康逃走伝説を調べてみましたが、脱糞の話はありませんでした。そのかわり、多くの町に伝説が残っており、その数約百話。餅を食い逃げした話は有名ですが、脱糞しながら餅を食い逃げした話は現在では否定されてるみたいです。

422:日本@名無史さん
13/08/13 NY:AN:NY.AN .net
吉川英治の三国志も孔明が死んだところでオワットるやないか

423:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
>>293
確かに名古屋って場所は冷静に見ると、あの当時の交通の観点からいけば
熱田からちょっと離れていて中途半端な位置だし、水害に強いという面からみても
中途半端な位置に思える(犬山でも小牧山でも末盛でもなく、なぜか那古野)。

>>365
三河武士が強かったからではなく、むしろさほど強兵ではない分頑固なまでに
保守的で余計な事を考えず一本気だったからこそ天下が取れたのかもしれんね。
どっちかといえば、強兵な三河武士=薩摩武士って感じがする。

424:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
薩摩が強兵だったとすると
強兵薩摩軍&高性能鉄砲部隊を率いながら相良・土持・伊藤・志賀・甲斐・立花・高橋などに負けまくった島津は
武将の能力がゴミクズレベルに低かったと言う事か。

425:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
水俣城攻防戦とか耳川とか関が原とか木崎原とか明らかに島津は大軍なのに
寡兵とか捏造しまくってるからね。

426:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
>>424
要は家老・奉行クラスで優秀な指揮官はあまり多くなかったと思う>薩摩
逆にそのクラスではそこそこ優秀な指揮官はいたが、兵卒の人は中の上じゃないかな>三河

立花氏や伊東氏はどっちかといえば真田氏、村上氏、津軽氏、最上氏みたいな存在。

427:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
薩摩の文章はアテにならん(キリッ
薩摩の文章に関ヶ原では大軍だと書いている

このバカが彼方此方で薩摩を叩いているのか
薩摩否定が昨今の風潮なのか…

428:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
薩摩の文書というかあてにならんのは軍記な。
兵力に関しては比較的信憑性がマシな薩藩旧記雑録だと水俣城攻防戦で115000の大軍動員してるのがわかるし
耳川でも最近の研究だと40000以上の大軍が集結してる。
関が原合戦に関しては石田三成人数書立や慶長見聞集でちゃんと5000の兵力動員してるのがわかるし
1000だの300だのは島津の講談ネタでしかない。

429:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
耳川も沖田畷も宣教師の記録くらいしか資料がないし、沖田畷なんて有馬軍が龍造寺を破っただけの戦いで
それを島津の功責に捏造してるから酷いよな

430:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
御船城の甲斐親直に負けまくり
その子の甲斐親英にも負けまくり
御船城が攻略できずターゲットを高森城にしたら見事に謀られた島津は高森惟居の反撃に壊滅的ボロ負けを喫して相良領まで大敗走。
天正10年に島津の先鋒となり戦死した相良義陽の死と同時に相良領八代を奪い取っていた島津との最前線の堅志田城で負けまくって攻略を断念していた島津が
天正11年に堅志田城の押さえとして花山城を築いていたが、
天正13年に勝ちに乗じて堅志田城を防衛するために阿蘇軍を率いた親英に花山城が攻略されてしまう弱さを発揮。
阿蘇合戦に大敗した島津は、ついに相良を戦わず降伏させた際と同様の圧倒的大軍で北上。
それでも親英に大苦戦。
親英に勝てない義弘は、親英との和睦交渉の席でいきなり拉致り、弓矢の前では偽りもありと開き直り連行したために阿蘇氏は滅亡。
そういや宝満山城を守っていた宗茂の弟の統増に対しての和睦交渉でも
島津は城兵の命を助ける&母の宋雲院と統増の立花城への移動の安全保証の約束がありながら
宋雲院と統増を拉致り、立花城攻めにおいて高満城兵を前線に出して弓矢の盾にして宗茂に降伏すれば違う場所に城と領地を与えると提案してきたが宗茂はまったく信用しなかったな。
島津の戦を冒涜し、武門を辱める行為の数々は卑劣かつ悪質な犯罪者ですらある。
いつも負けまくり圧倒的大軍でないと勝てない弱島津の捏造マンセーは見るに耐えない愚劣さだ。

431:日本@名無史さん
13/08/30 NY:AN:NY.AN .net
あと義弘が妻子がいる加久藤城をワザと兵を少なくして
油断させて伊東に攻めさせたとか、相良をウソ情報で撤退させたとかw
おまえ相良と婚姻関係だった大隈の菱刈氏の大口城が陥落した時点で加久藤城は背後に大口の新納が配置れてんだから安泰だろ。
油断させておびき出したとか完全に捏造デタラメw
だいたい大口陥落で菱刈氏衰退に拍車がかかったので
東郷や渋谷も島津側に走っト周辺が島津一色に塗られた状況・・・そんな状況の場所を相良がわざわざ攻めるわけねーだろw
伊東に飫肥を攻め取られた島津は日向への唯一の出入口になった大口方面に戦力集中してんだぞw
しかし島津弱いね。
相良に負けっぱなしだもんな。
薩摩からの入口に過ぎない水俣城攻防戦でも大敗しまくりで
最後は家久31000 義弘31000 義久53000で水俣城700を囲んで和睦に追い込んだにすぎんからな。
この時に竜造寺が援軍を出さなかったから助かったが
もし出してたらまた水俣攻略失敗してたなw
島津側公式記録の肥後合戦陣立日記・肥後水俣陣立記や薩藩奮記雑録

天正7年9月から琢磨・八代衆700の守る水俣城のある葦北庄侵攻を開始した島津軍は連戦連敗だよ。
特に天正8年9月の佐敷計石合戦での相良大勝はすさまじいものだったとか。
それで最後は11万5000を投入して、かる石之尾に家久・征久熊牟礼に義弘
出水本陣が義久の総力戦で相良義陽が大軍に背後を断たれる恐れから佐敷から八代へ撤退し
竜造寺に援軍を求めたものの援軍は来ず天正9年9/27に和睦開城。


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