司馬遼太郎の家康過少評価は異常at HISTORY
司馬遼太郎の家康過少評価は異常 - 暇つぶし2ch50:日本@名無史さん
12/05/03 22:28:15.87 .net
大野さんも城中で襲われたしね

51:日本@名無史さん
12/05/03 22:30:38.93 .net
>>46
坊やだからさ

52:日本@名無史さん
12/05/17 03:35:17.13 .net
城塞は「大坂は本気で戦えば徳川に勝てた」と言う大阪人司馬のルサンチマンの塊

53:日本@名無史さん
12/05/17 21:42:09.92 .net
>城塞は「大坂は本気で戦えば徳川に勝てた」と言う大阪人司馬のルサンチマンの塊

本気が出せないように家康は謀略打ってたでしょ。秀頼は最後まで出馬しなかったし。

54:日本@名無史さん
12/05/18 04:12:22.29 .net
城塞を史実と取り違えてるやつがほんとにいたのか。

55:日本@名無史さん
12/05/18 04:14:44.10 .net
>>53
謀略も何も、秀頼は後にも先にも一度も陣頭指揮してないじゃないか。どこで謀略だと分かるんだ。
お前まさか、秀頼が出馬してたら勝ったとかいう大ガセ信じてるのか。すごい洗脳効果だな

56:日本@名無史さん
12/05/18 08:32:16.03 .net
大阪民国人は執念深い

57:日本@名無史さん
12/05/18 22:25:25.14 .net
大坂は最強だ。文句あんのかてめーら。

58:日本@名無史さん
12/05/19 05:49:43.25 .net
秀頼は肥満で陣頭指揮取れなかった説まであるんだよな…

59:日本@名無史さん
12/05/19 17:35:59.37 .net
秀頼が天王寺合戦に出馬するのは難しいだろうね。
前日の道明寺合戦で真田信繁は後藤基次救援に時間的に齟齬を来たして失敗してる。
これだけで城内には真田に対する不信感が強まっただろう。牢人諸将間には対立もあったようだしね

しかも、天王寺合戦って実際は一刻半くらいの短時間で終わり、その直後に大坂城が炎上している。
秀頼が天王寺口まで出ている間に、追い詰められた城から内応者が出る可能性がある。

60:日本@名無史さん
12/05/19 17:40:47.56 .net
慌てて牢人をかき集めたはいいけど、牢人諸将を統制する力が譜代衆になくなってしまった。
もし譜代衆がきちんと統制してたら秀頼出馬もあり得ただろうが…

61:日本@名無史さん
12/05/20 07:42:14.51 .net
家康の本陣に迫ったと言っても、数万規模の激戦で旗本が混乱したくらいで、
家康が自刃を決意するほどの状況だったかと言えば明らかに創作だな。しかし司馬は創作は全面採用なんだよね

62:日本@名無史さん
12/05/20 07:50:35.64 .net
家康好き=山本周五郎、山岡荘八=暴力否定、秩序維持、漸進改革、学生運動その他暴力的運動に否定的=戦前の暴力と戦後の暴力の反省
家康嫌い=司馬遼太郎=暴力肯定、「この世には有益な暗殺もある」みたいなことを堂々と書いちゃう

で、60年代~70年代前半だけは家康を異常に否定する基地外が増えた
しかしいつの世も平和と穏健と秩序維持が好きなので、家康は80年代以降再評価されて今に至る

63:日本@名無史さん
12/05/20 07:52:29.08 .net
と言うか現代の家康再評価は、家康は秩序維持者ではなく、天下泰平を達成し、
かつ秀吉みたいな殴り込みをせずに海外交易を活発に行った明るい男と言う評価なんだけどなw

64:日本@名無史さん
12/05/20 11:52:10.33 .net
長宗我部、木村らの諸隊が八尾と若江の戦闘で壊滅してるので手持ち戦力がない

65:日本@名無史さん
12/09/01 15:40:16.36 .net
>>1
家康のことを根暗な性格とか決め付けてたのが行け好かなかった。

66:日本@名無史さん
12/09/08 01:15:11.49 .net
>>62 歴史を進めた暗殺は桜田門外事変だけ、と司馬先生は仰っておるじゃろ。
とにかく、徳川260年が日本を貶めたのは事実。

67:日本@名無史さん
12/09/14 06:18:48.56 .net
司馬は徳川政権は大坂を優遇してくれたと繰り返してるが

68:日本@名無史さん
12/09/14 14:11:02.33 .net
>>66
日本を最大に貶めたのは昭和の敗戦だ

69:日本@名無史さん
12/09/16 06:07:25.36 .net
利家が死んでも野望をむき出すことなく秀頼の後見をして豊臣を守れば忠臣かもしれんが
形としては御家乗っ取りかつ主人一家を殺害だから好かれるわけがないw

70:日本@名無史さん
12/09/16 09:00:49.91 .net
家康アンチといえばかくこーぞーじゃねえの

71:日本@名無史さん
12/09/16 18:33:08.44 .net
>>69
家康は秀吉の遺命を忠実に守ってただけなのに
三成はじめ西軍陣営が野心剥き出しで暴走したから制裁した。
大坂の陣は淀殿と秀頼が無能かつアホだったから自滅した。
はい論破。

72:日本@名無史さん
12/09/17 00:12:35.58 .net
>>71
太閤の御置目を守るどころか私的婚姻を進める家康
この時に利家ら四大老で家康をきっちり処断してればよかったw。
利家が死ぬや、お家乗っ取りの障害がなくなり
利長や景勝に帰国を勧めては謀反のでっち上げ
前田は屈服したが上杉は屈服しなかったので戦になった。
(上杉は国替え[加増も]があったので浪人を雇ったり、城の普請は当たり前)
関ヶ原後も主君の秀頼に戦勝を報告してるわけだが
そのまま豊家の家老を続けるような家康ではないねw
いよいよかつての主家を滅亡させる大坂の陣では
家康本陣が崩れ[三河物語]かつての主君の義元と同じ目に
あいそうになったのはご愛嬌w

73:日本@名無史さん
12/09/27 18:27:31.46 .net
>>66
全然事実ではない、江戸幕府は国内の内乱から喧嘩に至るまで武力発動を停止し、
高税率で取った税収をガンガンインフラ整備に回し中期からは驚異的な低税率を実現
おかげで民間に資本が蓄積され産業が発展、幕末には工場制手工業も始まり日本はあっという間に近代化に適応できた

すべて「今後は民衆はむさと殺されることはない」とお触れを出した権現様のおかげ

>>72
きっちり処分したら豊臣政権の大番頭がいなくなって内乱勃発なんですけど?
だから家康をある程度牽制した後は和解したんだろ

74:日本@名無史さん
12/09/28 10:03:12.44 .net
徳川家康の名前は「イエス・キリスト」

URLリンク(ichiba.geocities.jp)

おそらく、駄洒落のつもりだろう。

75:日本@名無史さん
12/09/28 11:52:15.47 .net
天領では国民負担率は30%以下。世界最低水準のアメリカよりはるかに小さな政府
百姓天国、商人天国、官僚は地獄、いつリストラされるか分からないから賄賂なんてもってのほかと言う世界

76:日本@名無史さん
12/09/28 17:02:54.84 .net
>>73
>中期からは驚異的な低税率を実現

えっ?江戸時代って末期になればなるほど税金足りなくて
庶民に重税課したり武士が内職したりしてたでしょ?
そもそも朝廷や幕府が徴税するのは農民からだけで
商人にはもともと税金が課せられていないから(室町幕府の政策である座だけが特殊だった)
権現様のおかげで工場制手工業が始まったわけでもなんでもない

77:日本@名無史さん
12/09/28 18:23:53.31 .net
田沼意次

78:日本@名無史さん
12/09/28 18:48:36.60 .net
天領の農民の幸せな生活

URLリンク(www.nishi.or.jp)

79:日本@名無史さん
12/09/28 23:21:54.11 .net
>>76
いや、渡辺崋山は伊豆で「天領の百姓は生活がどえらく楽ちんだから俺らも天領の百姓になりてえよ」
と言ってるのを聞いてあきれたと日記に書いている。天領の百姓の生活はうんと楽だよ
武士は地獄。だって米価がどんどん下がる上に、俸禄は変わらないから内職をせざるを得ない
しかし武士は公務員なので、公務員は超安月給

商人は元々税金が課されていないから、実際の国民負担率はもっと低かった可能性が高い
それは権現さまが軍事力凍結を宣言して喧嘩停止を徹底し、インフラ投資に熱意を注いだ延長線上にあるわな。

80:日本@名無史さん
12/09/28 23:28:41.54 .net
年貢率は天領の4公6民を標準としていました。将軍のお膝元の関東は関東郡代伊奈氏による独特の農業土木技術により新田を開墾し当初10年間は年貢を免除するなどの優遇政策を行いその間の実効年貢率は1公9民だったと記録が残っています。
(伊奈氏は天領の農民から「神様、仏様、伊奈様」と慕われていました。)「百姓は生かさず殺さず」という言葉は有名で、確かに徳川家の記録に残っていますが、発言したのは大久保長安で、
それを聞いた家康は「百姓は国の宝とんだ心得違いだ」と激怒したとの記録が残っています。明治時代になってから、新政府が自らの政権の優位性を主張するのに江戸時代の百姓は虐げられていたと、
その言葉のみを学校で教えたのが真実だそうです。

81:日本@名無史さん
12/09/28 23:34:38.91 .net
天領は実効で30%以下、諸藩は60%以上だな。薩摩や会津は70%は取ってるだろ

82:日本@名無史さん
12/09/29 00:35:04.52 .net
諸藩は参勤交代で大量のムダ金をドブに捨てることを強要されてたから
(会津みたいに、百姓から容赦なく搾り上げた年貢で大枚はたいて大見得張って、
幕府に尻尾振って喜んでる藩も多かっただろうが)、
天領よりも諸藩のほうが武士の生活が豪勢だったわけでもないだろう。

いずれにせよ、北朝鮮の将軍様一族並みの特権階級であったことに変わりはない。

83:日本@名無史さん
12/09/29 00:45:48.74 .net
>>82
天領の武士ってどこの武士だよw

84:日本@名無史さん
12/09/29 07:59:34.65 .net
1721年→1846年の人口
周防66%増
薩摩62%増
陸奥18%減

東北11%減
関東13%減
中部14%増
近畿6%減
中国21%増
四国27%増
九州14%増

日本史再発見 理系の視点から(朝日選書)

85:日本@名無史さん
12/09/30 17:40:43.33 .net
天明・天保の飢饉があったので関東と奥羽は大打撃を受けたのは確かだな。
関東奥羽の開発で18世紀の前半までは高度経済成長だけど、その後が頭打ちなので
近畿がなぜ減ってるのかは知らないが。19世紀は気象的に西日本は比較的生産力をキープできたはず

86:日本@名無史さん
12/10/01 01:01:03.52 .net
司馬の家康は過大過少の前にまずキャラが違いすぎる
温厚な長者を装おうとしても生来の(祖父や父譲りの)癇癪玉みたいな性格が
終生直らなかったという家康が
なぜか感情の起伏のない古狸にw

87:日本@名無史さん
12/10/12 12:15:03.31 .net
>>80
明治政府が徹底して徳川暗黒史観を教え込んだんだよな。それが戦後も続いた。とんだ洗脳だぜ

88:日本@名無史さん
12/10/12 14:03:47.05 .net
こいつのせいで日本が100年は遅れたからな
幕末、明治になって一気にそのつけがきた

89:日本@名無史さん
12/10/12 14:39:33.91 .net
家康を人格者だとか徳川が神というほうがとんだ洗脳だぜ

90:日本@名無史さん
12/10/12 15:44:44.15 .net
>>86
司馬は、忠輝の説明の際に、徳川の血の中に時折現れる狂気の気質、
みたいなこと書いてて家康にもその気があったことに触れているよ
特に狂気が表に出すぎたのが忠輝とか忠直だが

91:日本@名無史さん
12/10/12 18:42:10.08 .net
30年前の歴史教科書を見ると、百姓は生かさぬように殺さぬようにとか、
慶安のお触書とか、とにかく徳川が百姓をいびってたことを示す怪文書は何でも教科書に載せていた。

中国共産党も顔負けの捏造教育

92:日本@名無史さん
12/10/12 18:42:43.71 .net
>>89
徳川は神ですが何か?

93:日本@名無史さん
12/10/12 20:54:53.26 .net
>>90
殺戮マシーンの両巨頭・信長、秀吉に比べればカワイイもんだろ。

94:日本@名無史さん
12/10/12 22:58:07.28 .net
徳川幕府は、その愚民政策で日本を貶めたよな。
あの鎖国・農本主義政策への転換がなければ、絶対主義王政が花開き、
早期に西欧列強に伍して世界を主導、あの昭和の悪夢もなければ、明るい文化が育ち、
今頃は中国・南北朝鮮なんて存在せず、北方領土問題も起こらず、亜細亜に冨み榮え、強い平和な大国が出来ていた。

それと、主に豊臣政権時代の歴史を捏造、日本人の歴史知識を大きく歪めたことは万死に値する。
豊臣家康・羽柴秀忠と名乗らされ、武家家格制度の下、秀吉の完璧な統治・支配に服していたのに、
それを曲げて伝えよった。


95:日本@名無史さん
12/10/13 16:25:12.72 .net
>>94
逆だね。豊臣政権が続いていたらその後の明清交代で確実にちょっかいを出して清と対立関係に入る。
明からたきつけられるから間違いない。江戸幕府ほど厳しく内政不干渉に徹することが出来ない。

あと何より、江戸幕府は軍事力で豊臣政権を滅ぼし、関東に拠点を置いたことで
初期に強力な大名の配置転換とインフラ投資を断行した。結果、関西資本が関東に流入し東日本が飛躍的に成長した
武士が集住する大消費地・江戸が誕生したことで奥羽地方の生産が刺激され、波及効果で豊かになった。

豊臣政権の継続なら、東日本は東日本在地の大名のまま。ロシアの東漸に対して手を打てなかったに決まってる。

96:日本@名無史さん
12/10/13 16:29:54.31 .net
それまで「内陸部の経済後進地帯」だった東日本に大量に資金をつぎ込み、国土の均衡ある発展を可能にし、
内需主導の成長を実現し、東から来る米国・ロシアと言う二大国と通商をするに適した国家を作り上げた

畿内から江戸に前線を進めた功績だけで徳川は偉大だよ
しかも最終的には国民負担率が3割を切るという超低税率国家を実現したわけだから

97:日本@名無史さん
12/10/14 15:59:18.12 .net
江戸幕府の歴史捏造についてはどう?

98:日本@名無史さん
12/10/14 17:07:36.09 .net
新井白石・松平定信への賛美は、ほとんど捏造の産物なので、
「清貧や経済萎縮こそ日本を精強へ立ち直らせる」式の妄想を現在でも生んでいるこの両名は、ゴミ箱に捨てたほうが良い。

他は、綱吉は財政を立て直していた、とか萩原重秀(方向は正しいがちょっとインフレしすぎ)・田沼意次(この人は功罪あり)とか、
新井白石(天皇礼賛以外はデフレ強権でむしろ悪政)・松平定信(農村福祉以外は悪政だらけ)より取り上げるべき人間が存在する。

99:日本@名無史さん
12/10/14 17:36:11.16 .net
>>97
始祖家康の業績と豊臣政権からの簒奪過程については確かに捏造はあるが、事実は誤魔化せないから
「評価」で誤魔化してる部分が多く、それほどひどくはない。
水戸学なんて異物が誕生したのは江戸時代なればこそだろう。

100:日本@名無史さん
12/10/14 17:40:02.55 .net
>>99
新井白石と松平定信は業績に詐称多し
両名の業績を信じるなかれ

101:日本@名無史さん
12/10/15 18:25:21.42 .net
松平定信は幕府の老中首座・将軍輔佐に就く前
白河藩主だった天明の大飢饉の最中である天明3年(1783年)であるが、
定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、
さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、
白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。
特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、
これは異例のことと言ってもよい。

102:日本@名無史さん
12/10/15 18:29:40.39 .net
>>93
織田・豊臣で天下統一がなされてて家康はあとは
豊臣秀頼一人を殺せば天下が取れる状態だったからだろ

家康も若い頃はかなりの人殺してるし息子と正室も殺してる
戦国大名数あれど正室殺したのは家康一人だけ
(正室殺しは信長の命令じゃないからw)

103:日本@名無史さん
12/10/15 18:41:40.92 .net
>>101
実際には将軍家の血筋であることを利用して
強引に米を買い占めたからであってそのせいで諸大名から顰蹙買ってますな

104:日本@名無史さん
12/10/15 20:34:05.89 .net
そう。
当時米の買い占めは、東北諸藩への災害対策のため禁止されていた。
これを破って、飢餓を撒き散らしたのが松平定信だった。

105:日本@名無史さん
12/10/15 22:05:16.13 .net
東北は典型的なモノカルチャー経済だったんだな
江戸時代から戦前は需要の高い米
戦後は労働力を関東へ供給
宗主国が植民地に対してやる事のド典型だ

106:日本@名無史さん
12/10/15 22:26:49.99 .net
東北地域は植民地というよりは、薩摩が導入したサツマイモのような飢饉対策作物を
稲作増産の為に藩が禁止しちゃったから、飢饉への対処能力が年々低下して人口も減ることになった。
ジャガイモ? お助け芋とかいう名前で入ってきつつあったんですけど、藩が・・・・・・

107:日本@名無史さん
12/10/16 21:43:03.88 .net
お前、薩摩の調所の債務破棄と奄美琉球収奪なんてまともな藩のすることじゃないぞ。
薩摩は偉大だけど、毛が逆立つくらい恐ろしいことやってるんだから

それと仙台や南部、会津は酷かったけど、庄内みたいに北前船が入る日本海側はかなり豊かだな。

108:日本@名無史さん
12/10/16 21:46:31.82 .net
南部も、米作や表高に拘らなければ餓死者は少なかっただろう。あれは人災。

109:日本@名無史さん
12/10/17 09:20:34.93 .net
家康は偉大。司馬遼太郎が何と言おうと歴ゲーの能力値で世界中の人間が家康の偉大さを知っている

110:日本@名無史さん
12/10/18 00:07:17.02 .net
真田の草の者があと一歩で家康を仕留めていた。
日本の歴史にとって、これほど惜しいことはない。

111:日本@名無史さん
12/10/18 07:22:15.26 .net
あと一歩で命を奪われそうになったのに、真田家を取り潰さなかった徳川はやっぱり偉大だな


112:日本@名無史さん
12/10/19 21:32:07.29 .net
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)
>徳川家康は、どちらかと言うと、日本よりも海外で高く評価されている様ですが、何故、日本よりも海外の方が徳川家康を高く評価されているのでしょうか?
>また、徳川家康の何が海外で評価されているのでしょうか?

>260年戦争のないパックス・トクガワを生み出したからです。
>西欧で二世紀以上も戦争のない時代はありません。

家康が偉大すぎておそろしくなるわ

113:日本@名無史さん
12/10/20 04:37:01.39 .net
戦争がないのがそんなに良いのなら平安貴族は世界を統べる資格があるよ

114:日本@名無史さん
12/10/20 13:10:24.61 .net
↑じゃあ、今から内戦中の中東かアフリカへ移住してみろよ

115:日本@名無史さん
12/10/20 16:07:23.90 .net
1807年 4月 丁卯事件択捉島 ナイホでロシアが上陸し会所を襲撃・略奪、
で択捉島警備の南部藩・津軽藩を 敗走させ、南部藩・津軽藩の6人が捕虜になる

戦争では無いが一方的にやられてたりはしてたみたいだな。

116:日本@名無史さん
12/10/21 03:18:24.99 .net
>>113
平安時代は奥羽、坂東や西海で戦争が頻発してるじゃないか
江戸時代には一揆や打ちこわしにすら作法があった
>>115
それには後日談があり、日本は4年後にディアナ号をひっ捕らえてロシア側の釈明を引き出している。
ゴローニン事件ね。最上徳内が得撫島まで探査を終えたのがその事件のわずか20年前のことだよ
入植が本格化したのは、さらに遅れてクナシリメナシの反乱の鎮圧後

117:日本@名無史さん
12/10/21 06:02:36.05 .net
江戸時代の一揆で徳川軍が一村皆殺しにした
生瀬一揆に作法があったとは思えないが

118:日本@名無史さん
12/10/21 17:49:52.17 .net
ああ、江戸初期は普通にあるよ。喧嘩停止を徹底させるために当事者全員を磔刑にするとか秀吉もやってるから
しかし島原の乱・慶安の変以降は一揆は作法を守り、幕府は形式的には処罰しながら柔軟に対処する方針に転じた
その最たる例は天保義民事件の庄内藩だな。

119:日本@名無史さん
12/10/29 13:32:29.36 .net
欧米は日本より歴史が短いから、「欧米が戦争に明け暮れていた同じ頃、
日本の武家政権は長年戦がなく安定していた」と称賛される。
だけど、日本の長い歴史の中の江戸時代って、武家政権の一番最後で最大の成熟期なんだよね。
鎌倉・室町・織豊と、過去の武家政権を振り返り、同じ失敗を二度と起こすまいと
雁字絡めに規則や法律で縛った上での安定政権だったわけで


120:日本@名無史さん
12/10/30 04:24:19.76 .net
いや、江戸時代はたとえば事件を内済に委ねる割合が高い
たとえば窃盗程度の犯罪だったら役人が裁かず、村落共同体の仕置に委ねる
だから現代風にいう治安警備担当の公務員が極端に少なかった

規則でがんじがらめと言うのはまったく実態と異なるな

121:日本@名無史さん
12/10/30 12:07:18.97 .net
奉行所の与力に、「金を出して頼めば、斬られた首もつながる」
つまり賄賂で、どうにでもなると言われていた。

むろん江戸時代には賄賂は悪い事ではなかった。
おおらかな時代だった。

122:日本@名無史さん
12/10/31 03:44:07.85 .net
山岡荘八読んでバランス取ればいい

123:日本@名無史さん
12/10/31 06:38:12.24 .net
厳しい法定刑が実際の運用で柔軟になり得たのはその通りだが
賄賂は少ない。それ時代劇のイメージw

124:日本@名無史さん
12/11/02 07:21:08.06 .net
山本周五郎のながい坂って、家康を意識してるんだよな。

125:日本@名無史さん
12/11/03 02:54:35.39 .net
シュリーマンが荷物改めを警戒して武士に袖の下を渡そうとしたら、役人が笑いながら断って
ざっと見せてくれればいいんだよと応対したんだね。
武士から民間人に至るまで、掛け値や心づけの習慣がまったくないので驚いた

126:日本@名無史さん
12/11/05 09:45:33.45 .net
明治時代ですら家康人気は三傑でずば抜けていた
司馬の家康像は大阪人の私怨

127:日本@名無史さん
12/11/05 11:43:29.00 .net
人気なんてどうやって調べたwまあ認知度は1番かもな


128:日本@名無史さん
12/11/05 13:57:20.51 .net
上司が信長、部下が秀吉、父親が家康の人生だったらちょっと嫌かも


129:日本@名無史さん
12/11/05 18:29:39.47 .net
>>126
そんなデータどこにあるんだw

130:日本@名無史さん
12/11/05 19:29:53.16 .net
東洋の歴史上の人物では、秀吉、チンギスハン、家康の順番に人気があったらしいね。
西郷隆盛が4位。チンギスハンが2位と言うのは面白いなw

131:日本@名無史さん
12/11/06 18:23:56.14 .net
家康が偉大すぎて呼び捨てにするのがこわい
権現様と呼ぶことにする

132:日本@名無史さん
12/11/06 20:10:39.10 .net
じゃ俺はゴンちゃんと呼ぶわ


133:日本@名無史さん
12/11/08 16:53:25.51 .net
>>119
規則でがんじがらめって、じゃあその前の時代はどこがよかったんだい。

江戸時代の凄さは、暴力のコントロール。
もっとも暴虐な連中に自由を与えなかったから達成した繁栄。

134:133
12/11/08 16:56:00.44 .net
↑今のはなしで。無視して。
ろくに読まずにレスしてしまった。申し訳ない。

135:日本@名無史さん
12/11/09 10:45:53.10 .net
大阪の人って、過去に堺市が大野治胤に焼き討ちされた事実もあるのに、
それでもアンチ徳川なのかな。

136:日本@名無史さん
12/11/09 16:20:49.51 .net
>135
大阪夏の陣では大阪の町民が徳川方に略奪・暴行・殺人・人さらいなど
堺より酷い目に合ってるからね。

137:日本@名無史さん
12/11/09 23:50:01.08 .net
>>136
実際そんな具体的事象より、単純に大阪から首都機能を
奪われたのが癪に触るだけだと思うけど。
別に歴史を知ってる人も知らない人も家康嫌いだからな。

太閤好きの家康嫌いって生まれた時から刷り込まれるから、
どんなに歴史を学んでも「嫌い」って視点からなかなか抜けられない。
「嫌い」が先にたてば、悪いところが目に付くし、忘れられなくなる。

司馬の覇王の家のあとがきなんか、まさにそういう心情が現れてるように思うよ。

138:日本@名無史さん
12/11/10 00:45:47.19 .net
江戸時代を通じて大阪はアンチ江戸だが、
現実には太閤の大阪を滅ぼされて、それからは江戸幕府の物流集中策の中で大阪は発展する。
江戸時代の大阪は、江戸幕府のおかげで育った街なんだよ。

しかし感情は別。
特に江戸中期以降は、下り物に代表される産業技術先進地域としての座を江戸が発展することで脅かされるし、
歌舞伎役者も落語家も江戸下りをして帰って来ない。
絵画も尾形光琳等の安土桃山から、浮世絵や読本出版物は江戸の産業となる。癪に障ることが多かった。

139:日本@名無史さん
12/11/10 02:46:18.52 .net
それは司馬の無知だよ。慶喜が鳥羽伏見の前後で政権についてたらたぶん上方に政権を持ってきた。
その場合は大阪が政治の中心地になってた可能性がある。
新政府が勝ったからこそ江戸に移駐する必要があったわけでな。

140:日本@名無史さん
12/11/10 06:22:52.31 .net
>>137
頼朝は尾張人の流人、伊勢宗瑞は備中人の侵略者、家康は三河人の侵略者
でも東京人や静岡人は誰も文句言わないじゃん
なんで大阪だけそうなるんだよ

141:日本@名無史さん
12/11/10 15:10:14.72 .net
結局は特権意識だろ。たぶん大坂が京から遠く離れてたらそんな意識持たなかったと思われる。
圧倒的に流入人口、新参人口のほうが多い東京は、統治の実質さえ担保されるなら名目はどうでもいいと考える。

142:日本@名無史さん
12/11/12 23:15:10.14 .net
兵庫開港が遅れまくったから、横浜中心で対外貿易は動いてたしな

東京に来る以外ねえわ

143:日本@名無史さん
12/11/12 23:23:19.44 .net
生活スタイルも江戸市民は堅実、大坂市民は華美と言われた。
江戸市民の気前の良さと言うのは、江戸の地元資本家を讃える創作の可能性が高く、
実際はきわめて勤倹貯蓄型だったらしい。

144:日本@名無史さん
12/11/16 01:35:33.26 .net
慶喜政権なら
京=政治
大阪=外交
横浜・江戸=天領の首都と外港
長崎=西南諸藩の貿易港
みたいな形で、面白い日本の発展が見られたかもね。
ドイツ帝国のプロイセンとバイエルンみたいに。

江戸は徳川家の官僚群が統治可能だし、徳川家や東国諸藩は安心して大阪に詰められる。

145:日本@名無史さん
12/11/20 18:41:54.81 .net
>>122
山岡は山岡で史実とかけ離れてて
バランスますます悪くなるよw

146:日本@名無史さん
12/12/02 07:25:27.49 .net
関ヶ原も大坂の陣も正当性があるのは家康側だと史料で証明されたし
そろそろ世間もアンチ徳川史観から脱却して欲しいよね。

147:日本@名無史さん
12/12/03 03:00:56.03 .net
むしろ江戸東京礼賛が鼻につく場合があるのだが。
江戸中期以降の関東東北の停滞・衰退を日本の衰退と言い換えたり。

148:日本@名無史さん
12/12/03 16:46:49.80 .net
>>146
何の史料でw

149:日本@名無史さん
12/12/04 08:53:31.67 .net
>>148
もはや常識レベルだと思ってたんだが

150:日本@名無史さん
12/12/04 09:30:07.92 .net
>>149
常識だというからにはたくさん一次史料があるんだよね。
正統性を証明できる一次史料の抜書きをしようよ。

151:日本@名無史さん
12/12/04 15:12:15.87 .net
徳川家康の評価が低いのは、彼自身というより徳川家光以降の「鎖国」「技術退化礼賛」が
江戸幕府自体の評判を落としている面が強い。

「江戸で技術退化なんて嘘だ、技術は進歩した平和な社会だったのだ」説の人は目が曇っている。
倹約令は財政好転が目的だったはずなのに、いつの間にか社会の倫理にされて社会全般に強要され、経済萎縮をもたらしただけだった。

倹約のためなら新技術や魅力のある商品は邪魔とされた。
1720年の老中からの命令では、食料、衣服、諸道具、書籍、菓子、玩具等あらゆるものに関して、新規の商品開発を行い、それを販売することを禁じた。

152:日本@名無史さん
12/12/04 19:37:46.14 .net
別の司馬批判スレでも言われてたけど
個人としては珍奇な物に目のなく進取の気風に富む家康に
徳川幕府の保守性を時間を逆戻しして覆い被せてるのが司馬だよね

153:日本@名無史さん
12/12/04 20:18:23.36 .net
まあ、積極財政に転じようとする安倍に
「質実剛健だか清貧武士道だか吹いて経済を萎縮させたのは保守の人々ですよね」と批判が飛んでくるのと同じ。

責任があるのは当人ではないが、前任者や後任の人間が悪いことをやると、彼らの悪行まで背負うことになる。

154:日本@名無史さん
12/12/04 22:54:10.30 .net
徳川家康自身は
・家系名門愛好者
・歴史オタク
といった面があり、彼の定めた米本位制に基く幕藩体制も、彼の治世に関しては必要なものだった。

しかし死後神君とされ無謬とされていくと、貨幣経済の伸展や海外の技術発展に抵抗し日本を抑圧する悪魔のような存在として
後世の日本に圧し掛かってくることとなった。彼の評判は神君とされることで貶められたともいえる。

155:日本@名無史さん
12/12/05 16:27:29.62 .net
大好きな唐頭の飾りだらけの派手な格好で若い旗本に
「武士は外見よりも中身だ」と説教した話で大笑いした
古参の家臣が「殿さんが一番、外見気にしとる」と突っ込んだと言う

156:日本@名無史さん
12/12/07 16:28:03.17 .net
家康自身、自分を重厚な人間に見せようとしていたんだろうな
ただ同時代人の記録でミーハーなおっちょこちょいだとばらされてしまっているという

157:日本@名無史さん
12/12/07 16:59:51.94 .net
>>153
「東洋では天変地異の責任まで背負わされます」
田沼意次・談

158:重要文化財
12/12/09 09:28:20.76 .net
徳川家康の頭には、日本の事より、ひたすら、徳川家の天下保持を
いかに継承、継続させるかなかった。
そのため、鎖国して日本人を矮小化させ、島国根性を日本人に植え付けてしまった。
織田信長、豊臣秀吉のように、海外進出政策を取り続けていれば、豪州大陸や
樺太はとっくに日本人の植民地となり、太平洋でアメリカと戦うようなことも
なかった。
要するに、家康は田舎の土豪のような、自家中心的な、視野の狭い男。
このような男が天下を取ったことは日本民族の悲劇。

159:日本@名無史さん
12/12/09 15:57:12.98 .net
>>158が釣りなのか
スレのログすら読まないで書き込む真性馬鹿なのか
どっちか誰か教えて

160:日本@名無史さん
12/12/24 09:47:32.79 .net
思い込みだね。

家康って、もともと武闘派系の人が、元老になってみたら内憂外患で
内政重視シフトを引いてるうちにイメージ変わっちゃったみたいな人だね。

161:日本@名無史さん
12/12/26 06:33:35.50 .net
司馬遼太郎はさ、自分が崇拝してる秀吉と豊臣をマンセーする為なら、
脚色、嘘、完全なフィクションを意図的にわざとふんだんに盛り込むよね

地域性によって贔屓があるのは構わないんだけど、司馬が問題なのは、完全な史実とは違うフィクション小説にも関わらず、
随所に、意図的に事実であるかのようなミスリードを誘うように書いてる事
これは正直、不誠実だと思う

で、司馬史観に影響されてた歴史小説家までいるわけだし、
三英傑や歴史人物の評価って、そろそろ司馬史観から脱却するべきだと思うわ

まともな歴史研究者からは笑われてるんだろうけど、それでも、
特にニワカ歴史オタや一般人のイメージする三英傑や歴史人物の評価って、
司馬史観そのものでしょ

ぶっちゃけ、大阪の歴史好きで秀吉贔屓の人でも、まともな人は、
案外、司馬の事好きじゃないよね

162:日本@名無史さん
12/12/27 08:40:30.28 .net
大阪で聞いたの?

163:日本@名無史さん
13/01/09 01:54:11.19 .net
まずは>>146こそが正しいことを広めないと。
いい加減関ヶ原は西軍こそが悪辣だったことを認識させないと

164:日本@名無史さん
13/01/09 10:38:18.50 .net
>>161
「城塞」なんか読むと司馬は豊臣贔屓じゃないんだけどねー。
ただ、女は可愛くいつも男にしなだれかかって抱かれているのを無上の喜びとすべきで
淀殿のように表に出てくる女は嫌いな人だというのは思うけど。

家康の小説書く人は家康だけが聖人君子で家康以外は悪人設定であることが多いけど、
そういうのは構わないんだ?
小説読んで史実と勘違いするのってあなたみたいな人のことを言うの?

165:日本@名無史さん
13/01/09 19:33:21.57 .net
勝海舟の過小評価も異常だな

166:日本@名無史さん
13/01/09 21:59:46.40 .net
>>164
>小説読んで史実と勘違いするのってあなたみたいな人のことを言うの?
主観と客観の区別の付かない馬鹿の典型乙

167:日本@名無史さん
13/01/11 18:24:09.62 .net
「坂の上の雲」とか「翔ぶが如く」では、最初の方と最後の方で人物評価がひっくり返っている例があったな。
たとえば桐野利秋、篠原国幹らは最初の方では持ち上げられていたけど、最後の方では頭の空っぽな愚人扱い。

江藤新平に至っては、「歳月」では悲劇的な先駆者として描かれているが、「明治という国家」では名前すらスルー。

調べるうちに評価が変わるのは仕方ないけど、その都度、根拠も示さず断定的に語られるから、司馬小説慣れしていないと鵜呑みにしてしまうね。

168:日本@名無史さん
13/01/11 19:00:11.44 .net
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169:日本@名無史さん
13/01/12 20:16:51.26 .net
>>164
「城塞」は、豊臣方は牢人諸将を上手く糾合すれば無尽蔵の財力をもって充分に徳川に対抗できた
しかし秀頼と淀殿の二元体制や、籠城諸将の裏切り、さらに譜代の旗本が腐ってたから負けたと言って悔しがってるだけで、
実態を認識していないもはなはだしいよ。

実際は牢人諸将の発言権が高まって城内が流される形になり、自滅を早めているし、
冬の陣ではオランダ船からの砲撃には大きな心理的効果があり、和睦に応じざるを得なかったのは大坂方
青木一重のように徳川-豊臣の停戦交渉に尽力した人間は裏切り者呼ばわりされてるが、実際には板挟みにあって城を出ている
夏の陣の毛利、真田らの突出も一刻ほどで終わっており、到底、情勢を覆すに至っていない

170:日本@名無史さん
13/01/12 20:20:40.57 .net
×>>164
>>169

167 も言ってるけど、司馬は自分の思い込みを投影して書き始めるので、
途中からその人物が自分の思い通りじゃなくて嫌いになると放り出してしまうんだよね。
大坂の陣の大坂方の扱い-特に秀頼や大野治長など-には、もろにそれが出てると思う。

171:日本@名無史さん
13/01/13 10:06:13.37 .net
鎖国とかアホやろ。

172:日本@名無史さん
13/01/13 17:42:24.78 .net
>>169>>170
「城塞」は知将牢人による一発逆転のチャンスの浪漫を描いた物語で
豊臣の財力をもってすれば家康と豊臣は互角の戦いだったなんてどこにも書いてない
どこをどうよんでも圧倒的家康有利の中にあって豊臣方牢人の知略が見せ場
何を読んでいるんだお前はw

173:日本@名無史さん
13/01/14 00:03:17.21 .net
>>167
胡蝶の夢ではラストになって主人公が
途中から登場した関寛斎に変わった気がする

174:日本@名無史さん
13/01/15 13:34:04.52 .net
城塞は淀君の人物造形が講談のまんまでワロタ
他のキャラが正誤はともかく一応史料などを引き合いにした「歴史小説」らしいものに
なってるだけに一際目立つ

175:日本@名無史さん
13/01/16 02:30:16.48 .net
>>172
秀頼が勝頼くらいだったら徳川と互角の戦いをさせてやれたなどと小幡景憲に言わせている
物語の開始当初は対徳川強硬派に属する大野治長マンセー、
牢人諸将の入城シーンの前は前田を叩きまくり毛利、島津、福島などにガッツリ期待
そいつらが結局大坂を見捨てると今度は牢人諸将をめちゃめちゃに過大評価
大砲ぶち込まれて数週間で講和に至った冬の陣を、徳川方が軍事的に劣勢だったのに淀殿の弱気だったかのように描く
夏の陣では長宗我部勢らが戦闘で大打撃を被った事実に触れてない
など、明らかに「問題は戦略だった」と思わせるような書き方をしている

さらに「軍師二人」と言う短編では真田、後藤の対立-広くは牢人諸将の統制困難-を描いているが城塞ではまったく触れられていない
牢人諸将が一致団結して整然と行動したようにストーリーを作っている

司馬は長編を描くときは、その前に短編でスケッチすることが多い
しかし長編になった時は短編で認識していた主人公サイドの問題点を全て捨象してひたすら好き嫌いで描く

176:日本@名無史さん
13/01/16 11:39:20.26 .net
「城塞」は大野や淀といった愚物が家康という巨人に翻弄され追いつめられ、
生き残る道さえ許されないという大筋。浪人衆のあれこれはただの彩りにすぎない。

司馬はその意味でも家康を決して過小評価していないし、当代随一の政治家であると認めてる。
ただ、とにかく嫌いなんだな、という個人的感情だけはモリモリ伝わってくるな。

177:日本@名無史さん
13/01/16 16:48:16.36 .net
「太閤記」で司馬は家康は繰り返し律義で誠実な人だと書いてるぞ。
だから秀吉は家康と敵対することを嘆き、なんとか和睦したいと願った。
寡黙で無口な家康は司馬的には主人公とするほどの魅力はなかったんだろうが
あれを読むとむしろ司馬は家康を過大評価してる気がするよ
本当に家康は信長に嫡男を殺されてもなお信長に忠誠を尽くす悲劇の被害者なのかと

178:日本@名無史さん
13/01/16 22:08:02.59 .net
>>177
>寡黙で無口な家康
そこがもう認識の間違い
大一番の戦になると居ても立ってもいられず
馬の口取りから旗持ち太刀持ちまで手当たり次第に話かける落ち着きのないオッサンだw

179:日本@名無史さん
13/01/17 03:35:31.59 .net
それが家康にとっては平常運転なのに、焦ってた証拠だとか何とか書くのが司馬

180:日本@名無史さん
13/01/17 03:38:46.11 .net
>>176
淀殿や大野と言う「愚物」に大坂の敗因を矮小化させて、新参牢人諸将に丸投げすればいい勝負になった
などと言う珍説に傾いてるのが司馬なんだよ。現実には牢人諸将の暴走で大坂と徳川の和議への努力はぶっ壊されている
青木一重を徳川の回し者のように描いてるが、彼は懸命になって冬の陣の後に豊家安泰のための努力をして拘束されてるんだぜ

大坂の実力を知ったうえで家の安泰を図ろうとするやつは「裏切り者」
身の程もわきまえず城からの退去を拒否して暴走した牢人諸将(諸将の間でも対立あり)を過大評価
それが司馬だよ

181:日本@名無史さん
13/01/17 04:23:30.83 .net
>>180
読み物だから・・
雪村かっけーは講談のまんまや

182:日本@名無史さん
13/01/17 11:12:47.22 .net
>>180
一発逆転のチャンスを書いた小説だからそうなるだろ。
真田太平記だって一発逆転を狙うからそういう書き方になる。
何、お前は「何をどうしたって馬鹿牢人たちに勝ち目はなかった、
黙って長いものに巻かれて家康様に従ってればいいのに牢人たち大馬鹿」
という小説が読みたいの?
そんな小説売れないわw

183:日本@名無史さん
13/01/17 11:17:50.38 .net
>>178
小説だから色づけはされるわな。
落ち着きのない家康wにしようが無口な家康にしようが作家の自由だと思うが。
家康が爪をかむ癖がありかなりの癇癪持ちだった、だから激昂しそうになると
爪を噛んで黙って耐えた、って結構最近出てきた説だろ。
最新の研究成果を持って司馬はなぜ40年前にこう書かなかったんだ、
と馬鹿にするのもどうかと思うぞ。

184:日本@名無史さん
13/01/17 12:51:12.92 .net
>>179
戦況が少しでも不利になると
家康「腹を切るっ!、いや、敵陣に突っ込んで果ててやる!」
死産家臣「殿が錯乱した、どうしよう」
古参家臣「またはじまった……」
それが徳川家の日常風景w

185:日本@名無史さん
13/01/17 12:52:04.12 .net
新参家臣、なw

186:日本@名無史さん
13/01/17 12:55:38.61 .net
>>183
家康の情緒不安定というか癇癖なんて三河物語はともかく
当時の日記や書簡で普通に見受けられる事だと思うが
皮肉な事に徳川幕府が家康の当時の感覚では大人物らしくない面を糊塗として
作り上げた虚像の家康像を司馬は踏襲してるんだよね
描写が正反対なだけでその点では山岡と同じという

187:日本@名無史さん
13/01/17 14:28:53.40 .net
>徳川幕府が家康の当時の感覚では大人物らしくない面を糊塗として
作り上げた虚像の家康像

家康「貿易楽しーなー」
アダムス&ヨーステン「でしょ、でしょ」

百年後

幕閣「鎖国は神君様のご遺訓じゃ」
家康(霊)「おいおい」

188:日本@名無史さん
13/01/17 14:30:37.43 .net
>>183
178は司馬の小説の表現の話でなく一般認識の話だろ

189:日本@名無史さん
13/01/17 19:24:25.83 .net
>>182
司馬って小説を書いてる間に認識が変わることが多い。
典型的なのが翔ぶが如く。思い入れの対象だった桐野や篠原がただの馬鹿だったことを隠しきれなくなると、
どうでもいいやこんな馬鹿と言う感じで放り投げて終わる。

城塞もそういうパターンだよ。何とか大坂が徳川に勝てるチャンスがあったかのように書いていこうとして、
最初は大野、次に島津や毛利、そして牢人諸将と次々に思い入れの対象を変えてるが、最後に「もともと無理だった」
と言う結論に達して、家康のアホ―!みたいなことを言って終わってるw

190:日本@名無史さん
13/01/17 19:29:11.97 .net
>>183
司馬も家康が戦場ですぐ頭に血が上るタイプなのはちゃんと認識してるよ。

191:日本@名無史さん
13/01/17 20:11:47.76 .net
>>189
そうか?
家康は虎視眈々と豊臣の首を絞めていって余念がない。
最期に家康のアホー!みたいなことは書いてない。
主人公は最初から牢人の一人でぶれていない。
大野に島津に毛利と次々主人公を変えているわけでもなし。

192:日本@名無史さん
13/01/18 22:17:51.36 .net
城塞は、タイトル通り秀吉があまりに堅固な城塞を残したことが淀殿、秀頼母子を勘違いさせ
身を滅ぼさせた、というのが主題の小説

193:日本@名無史さん
13/01/19 18:33:34.89 .net
僕は徳川家康の小さいころの名前を竹千代といいます。

ある日、竹千代と爺が川沿いを歩いていると子供たちが石合戦をしていました。
爺は人数が多いほうが勝つと言いました。
竹千代は少なくないほうが勝つと言いました。
竹千代の言うとおり少なくないほうが勝ちました。

------------------------------------------------------
中学時代の同級生の読書感想文から引用。
冒頭の「僕は」は明らかに不要だが読者を引き付ける劇的な手法。
「多いほう」と「少なくないほう」の使用法は未だに謎。

194:日本@名無史さん
13/01/23 11:33:27.12 .net
>>191
だからその観察者である小幡景憲の認識が変化してるって。
ちなみに小幡景憲は物語を回す役であって「主人公」ではない

さらに家康が豊家の首を徐々に絞めていったというのが、司馬の完全なる錯覚
家康は豊家に振り回された側
事実は
・豊家の内部分裂が全国的内乱に発展してしまい、外戚であった家康が取り鎮める
・この時点で、お家騒動も自力で鎮められない豊家には天下様である資格がないことが明瞭になる
・家康自身は孫娘を輿入れさせて縁戚関係を結び、主家のテコ入れとともに秀頼との会見を図る
・豊家が会見に応じない。その後色んな人間が両家の関係を仲介しようとするがそれにも応じない
・さらに牢人を入城させ、前田以下恩顧の諸大名を誘うなど関東に対抗する姿勢を先鋭化させる=内乱を起こそうとした側は豊臣家
・しびれを切らせた家康、方広寺鐘銘事件で諱を勝手に分断した件から大坂を呼び出し、最終的な関係正常化を模索
 ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経
・牢人の軍事力=大阪城=豊家の主 の結合が内乱の原因となっていると認識して、そのいずれかを解除するよう要求
 ちなみに、現実的にもこの時点で城出るか、証人出して対徳川家和平を実現させないと秀頼が牢人に担ぎ上げられてしまう
・アフォな対徳川強硬派がこの条件を持ち帰った手筋の片桐暗殺未遂事件を起こし、片桐が退去
 ちなみに、これは大坂方の対徳川外交の断交を意味する行為

どう見ても大坂が牢人引き入れた結果、先軍政治化していったのが両家の戦争の原因
それでも家康は講和条件として移封を条件に穏便決着の余地を残している

195:日本@名無史さん
13/01/23 11:39:27.42 .net
司馬以外は大阪の陣の原因が、「大坂方の」対徳川強硬姿勢の激化から始まっていることを認識している
開幕から10年経っても秀頼と家康の会見は曖昧な位置づけの下でしか行われてない

要はパックス・トクガワナに協力する意思がないと言うこと
諸大名が大坂方に呼応しなかったことでも明瞭だが、大坂は既に一地方政権でしかない

196:日本@名無史さん
13/01/24 00:57:25.13 .net
>ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経
>ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経
>ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経

197:日本@名無史さん
13/01/24 15:10:58.66 .net
>>195
さすがにそれは豊臣家の過小評価だわ

徳川が幕府を開いてから13年経っても尚、豊臣は
家康・秀忠が大軍を率いて攻め上り
わずか8歳の遺児さえ血祭りに上げ完全断絶させなければならなかった相手
秀吉の墓すら破壊して存在を否定しなければならなかった相手

ただの地方大名ならそれはないわ

198:日本@名無史さん
13/01/24 16:05:07.67 .net
>>2で終わってた
てか司馬読まなくたって家康を好きになる奴は少ないと思うぞ

199:日本@名無史さん
13/01/24 17:31:12.32 .net
「人ばかり」みてると、見えてこない事実もあると思うけどね。土地に着目すると、興味深いことが分かる。
・家康は、なぜか大坂城【下】にだけは、一貫して、絶対に自分の屋敷を建てなかった。
・代わりに、秀吉が死去すると、家康は、秀頼後見と称して、大坂城【内】の西の丸に、天守閣まで建てて執務した
・関ヶ原戦後、大坂城に入れなくなると、家康は、伏見と駿府を、行ったり来たりするようになる(江戸に下らない)
・伏見と駿府を往復しながら、秀頼を、何とかして【大坂から誘い出そう】と苦心する。
・それでも、秀頼はなかなか大坂から【出てこない】。最後には出てくるけどね。
・ついに家康は、「あんたら【大坂城を出りん】よ。大和郡山に城があるもんで、そこで大名すれば良いじゃん。」
・この一言こそが、【豊臣家を挙げて、完全に火病状態】にさせ、大坂の陣に本格突入する契機になる。
・そして、大坂の陣では、家康は大坂城をじっくりと攻撃し、最終的に、【城も城下も丸ごと灰にして】しまう。
・その上で、【土砂で封印】して藤堂式の新しい城を作り、城下町の中心を、上本町から船場中之島へ、【数km移動】させる。
・大坂の大改造は松平忠明にさせるが、彼はすぐに大和郡山に転封され、「徳川大坂城」は幕府直轄地になる。
家康は、一貫して「大坂城の主になること」を、望んでいたように見える。
そして、豊臣家は、これだけは、断固拒否した。
大坂の陣とは、文字通り、「徳川氏による、大坂城奪取の戦い」だった。
なぜこれが必要だったのか?と言えば、『中央政庁所在地(実質的な「首都」)は、浪速である』という考え方が、
少なくとも、徳川家康と、豊臣家中で、共有されていたからではないだろうか。
家康も、豊臣家も、その認識だったからこそ、「奈良に引っ込め」の一言で、何より激怒した。
他の大名は分からない。すでに1600年代には、外様諸侯ですら、
続々と「秀忠」の城下である江戸に、自分の屋敷をたて始めていた。
そして、江戸に政庁を置く方針が固まっていたため、大坂は壊滅させた後完全改造して「首都の記憶」を葬った。

200:日本@名無史さん
13/01/25 00:26:36.47 .net
秀吉が生きてた頃の中央政調は伏見じゃないの?

201:日本@名無史さん
13/01/25 04:25:27.08 .net
>>198
家康は徳川暗黒史観が広まっていた明治時代ですら、三傑では秀吉に次ぐ人気だよ
雑誌の特集号がある

202:日本@名無史さん
13/01/25 04:34:50.49 .net
>>197
確かに豊家譜代衆の存在で家康が扱いに慎重になったのは事実だが、彼らの意向も徳川家打倒にはなかったし、
家康もこの時点では秀頼の処分なんか考えてない。早めに徳川の御家門になっておけばよかったのに馬鹿なことをと言うのが諸侯の大勢を占める
大坂の譜代衆は暴走する牢人衆に付いていけなくなり、冬の陣後にどんどん離脱している
しょせん牢人衆は何の成算もない戦に突入して豊家を滅ぼした逆臣

ちなみに御家門と言えども、この後に忠輝、忠直などは厳しく処断されている
秀頼は牢人を集めて徳川方とことを構えたのだから当たり前

203:日本@名無史さん
13/01/25 11:29:35.80 .net
>淀殿と大野
豊臣家滅亡の責任を押し付けられて、かわいそす

204:日本@名無史さん
13/01/25 19:46:39.69 .net
責任の有無はともかく
朝鮮帰りで関ヶ原でも兜首取ってる古強者の大野を戦を知らない青びょうたんみたいに
書くのは辞めろw

205:日本@名無史さん
13/01/25 19:55:46.10 .net
秀吉に比べると人気が落ちるのは当たり前
秀吉は創業者だが、家康は当主の幼少を利して主家を乗っ取っただけ
天下統一、刀狩、検地など、全て太閤の事跡

206:日本@名無史さん
13/01/25 21:53:37.29 .net
やっぱり、人だけ見てても、状況は読み解けないんだよ。

家康が畏れていたのは、ただの秀頼ではなく、「大坂にいる秀頼」だったんだよ。
もっと戯画化して言えば、「家康が畏れていたのは、秀頼ではなく大坂」ww

1600年代(00年代)後半には、人としての徳川(家)は、
天下人家系としての地位を、ほぼ盤石なものにしていた。
誰も、徳川家以外に従おうという者は、存在しなかった。
だが、土地に目を転ずると、状況は一変する。
家康は、箱根より西の駿府に隠居所を作り、伏見と駿府を行ったり来たりしている。
江戸は、全国の大名をかりだして、ぶっ通しで整備しているが、
1610年頃まで、計画上の想定市街地は、伊達政宗が一人で作っていた仙台にすら、及んでいない。
仙台だけではない。北国の前田は、二代目が、高岡に、本格的な都市建設を行う企みを始めている。

この時期、徳川は、「天下人」の権威は得ていても、
「俺たちがいるところが、天下の政庁である」という地理的カリスマは、獲得できていない。
この時期、徳川は伏見も京都も掌握している。でも、「首都制定権」を掌握できない。
秀頼が居座る「大坂」こそが、問題の焦点になるのは、当然だろう。

207:日本@名無史さん
13/01/25 23:52:47.69 .net
>>204
明らかに三成とイメージごっちゃにされてるよな

208:日本@名無史さん
13/01/26 19:07:08.70 .net
三成だって中国戦線や淡路、賤ヶ岳で普通に槍働きしてただろ

209:日本@名無史さん
13/01/27 06:24:14.26 .net
>>205
その天下統一の際に惣無事令の東国への徹底に不可欠な役割を果たしたのが家康
さらに秀吉が放り投げた朝鮮出兵問題で撤兵から修交までぜんぶ片付けたのが家康

秀吉すらなしえなかった武力凍結政策を意図的に推進したのが家康
秀吉なんて信長の構想をちょろまかして失敗した雑魚、中継ぎ

210:日本@名無史さん
13/01/27 20:04:04.04 .net
中継ぎでしかないのは家康
天下を統一し全国統治システムの基礎を作ったのは秀吉

211:日本@名無史さん
13/01/28 03:10:34.65 .net
一つ上のレスも読めないバカ

212:日本@名無史さん
13/01/28 04:06:36.64 .net
バカにしか>>209は納得できないからな

213:日本@名無史さん
13/01/28 04:32:28.98 .net
幕藩体制は秀吉が基礎を作り家光が完成させる。
やはり家康は中継ぎだな。

214:日本@名無史さん
13/01/28 19:08:18.47 .net
>>209
雑魚に臣従して、雑魚が寿命で死なないと天下を取れなかった超雑魚が家康。
ってことになるから、そういう言い方はしないほうがいい。

215:日本@名無史さん
13/01/29 01:51:46.17 .net
ただ司馬の気持ちもわからなくはないんだよな。
俺も徳川家康が物凄く偉大な武将なのは理解してるし
秀吉死後の行動だって全然非難されるようなもんでもないし
人格的にも戦国大名の中ではかなりマトモな方だったのも知ってるが
それでも何故か生理的に好きになれないっていうかむしろ嫌悪してしまう。
多分、260年もの間江戸幕府によって神格化され続けたせいで胡散臭く見えるからかな?
俺は似たような理由で山形県民にやたら聖人君子化され
(と同時に伊達政宗や直江兼続へのネガキャンも行われてる)最上義光も嫌いだし。

でも、同じように時の政権主導で神格化された事がある楠木正成や北畠顕家は大好きなんだよね。

216:日本@名無史さん
13/01/29 08:57:32.27 .net
>>215
でも司馬の家康像はその江戸幕府の作った実像とはかけ離れた
虚像から都合のいいところを引っ張ってるだろw

217:日本@名無史さん
13/01/29 14:54:49.58 .net
新史太閤記では過小評価はされてない。

218:日本@名無史さん
13/01/29 18:33:51.47 .net
>>216
江戸幕府の作った実像=家康の実像ではないだろ

東照大権現さまってそんなに江戸時代にも
人気あったようにも見えない

219:日本@名無史さん
13/01/29 19:11:48.29 .net
明治42年1月1日に発行された冒険世界という雑誌の付録「全世界英雄番付」
東洋編
1 豊臣秀吉  2 チンギスハン  3 徳川家康  4 西郷隆盛
5 北条時宗  6 始皇帝  7 諸葛孔明  8 源頼朝  9 伊達政宗
10 織田信長 11 源義経 12 毛利元就 13 フビライハン 14 上杉謙信
15 武田信玄 16 源為朝 17 加藤清正 18 楠木正成 19 北条早雲
20 坂上田村麻呂

元勲・西郷隆盛や織田信長より家康のほうが明治人にはずっと英雄として認識されてるわけで。
ちなみに御雇外国人レフ・メチニコフの日記でも家康は「乱世をおさめた偉人」として認識されている
天下統一は秀吉の事業じゃないかと言われそうであるが、「豊臣の平和」はわずか数年で文禄慶長の役、それの後遺症としての関ヶ原の戦いで崩れ去っている

それに引き替え、パクス・トクガワーナは1615年から幕末まで250年にわたって続いている

220:日本@名無史さん
13/01/29 19:46:54.49 .net
>>219
「冒険小説」って編集長の作家・押川春浪氏の色が濃い独特の雑誌。
無差別に選んだ読者からのアンケートじゃなくて
冒険小説愛読者のアンケートなのでかなり偏ってる。

221:日本@名無史さん
13/01/29 19:53:04.52 .net
>>218
東日本では、結構広く信仰されていたようだよ>東照大権現

秀吉と信長の生誕地ずばりでもある、尾張名古屋だが、
からくり人形を載せた中京方面の山車の本場とされる、名古屋城下町最大の祭礼は、
江戸時代には、家康の命日に行われる東照宮祭だった。
明治以降gdgdになり、戦災で山車が9割方焼けてしまい、今では面影はない。

外様の仙台にも似た事情があって、
もともと天満宮があったとされる、オカルト的にも大変に重要な地を、東照宮に置き換えて、
仙台の鬼門を、なぜか家康が守る形になっている。
仙台城下最大の祭礼も、江戸期には東照宮祭だったらしく、
伊達政宗を祀る青葉神社を建てて、政宗の命日に「青葉祭り」をやるようになったのは、
明治以降のことらしい。

大坂にも東照宮があって、実際の大坂は、大坂の陣のあと、徳川氏が整備しなおして、
官需の物流を集中させて復活させた、「徳川の商業都市」なのだが、
東照宮に対しては、すでに江戸後期には、大坂の町人は冷淡だったそうな。

222:日本@名無史さん
13/01/29 20:10:02.78 .net
>>221
そら江戸時代には御家門の城下町には藩主が建てさせた天満宮があったし、
当然東照宮の祭礼もあった。
伊達忠宗は徳川家康の孫娘(秀忠養女)を正室にしておりやはり東照宮を遷宮。
そうすることが徳川将軍家への何よりの忠誠の証にもなったしな。

しかし、庶民人気があったかということは別物だろう。
庶民人気があったならば、徳川幕府が倒れた明治以降も、
地元民が東照宮の衰退を喜ばず、家康公の祭りを盛大にやっただろうから。

223:日本@名無史さん
13/01/29 20:34:00.79 .net
>>220
少なくとも家康は明治期の教科書では「偉人」として扱われている。
庶民人気がなかったら雑誌の付録とはいえ西郷超えなんてあり得ねえぞ。

ちなみに家康=権現様の事績については、明治期の御雇外国人が
庶民の芝居やら日本の通史やらを調べたあげく、英雄・偉人として認識してるんだって。
今だって家康と言えば、海外じゃ日本最大級の英雄として一般的に認知されている。

224:日本@名無史さん
13/01/29 20:40:33.84 .net
あと大衆小説のジャンルでも芳川英治、山岡荘八、山本周五郎ら圧倒的多数派は、
人格的にも家康評価派だからね。司馬みたいに家康を低評価する奴のほうが少数派。

225:日本@名無史さん
13/01/29 20:47:04.75 .net
>>223
教科書に「偉人」という項目はないw

それに、パクス・トクガワーナは、大航海時代に続き
植民地支配など戦争続きだった同時代のヨーロッパに比べ
日本の江戸時代は鎖国して海外からの影響を受けず海外へ派兵せず
大きな戦がなかったことを指していうもの。
徳川家康個人を評価したものではない。

226:日本@名無史さん
13/01/29 20:54:22.24 .net
偉人として「扱われている」と言うのが読めないのかお前は。

パックス・トクガワーナにしたって、家康の明確な国内の武力凍結政策から始まったのは明確なんだが。
だからこそ大坂城の和議で、大坂が牢人諸将を召し抱えたままだったことに対して違約と把握しているし、
家康没後になるが福島正則の処分でも、城破りを形式的な降参の作法と捉えた福島と、実質的な成果を求めた幕府で不可避的な対立が発生してるんだよ。

これだけ明確な構想を持っていた家康個人への評価ではないとか、詭弁もはなはだしい。
お前の理屈なら自分の没後に、全国的内乱に発展したお家騒動引き起こしてる秀吉はますます天下統一の評価に値しない理屈になるぞ。

227:日本@名無史さん
13/01/29 21:15:02.81 .net
>>222
もし、本当に有難がられていないのなら、大坂の東照宮がそうであったように、
公儀のお義理以外では、見向きもされないようになる。
城下最大の祭礼として、何百年も維持できるはずがない。
しかも、仙台城下の古い祭礼の山車は、風流山車であって、毎年趣向を凝らして作り直すものだった。
(今の花巻や北上の山車に近い。全国的に知られたイメージでは、システム上青森ねぶたに近い)
お義理だけで、こんな大層な行事を行うかね?
仙台には、他にも有力な神社はたくさんあった。そっちの氏神祭を発展させたって良かった。

都市の町人祭としての東照宮祭は、明治以降、軒並み消え去っていく。
だが、仙台の例が典型なのだが、
「祭りの枠組みを、家康から地元武将に置き換えてパクっている」んだよね。
「政宗の命日に青葉祭」というのは、あたかも伝統として馴染んでいるようで、
実は、「東照宮祭の伝統の、意図的な祭神すり替え」にすぎない。

列藩同盟の地域は、戊辰戦争で、二重の意味で、徳川的なるものが、否定されているはずなのだ。
その上で、屈折した形で、郷土意識が生まれている。なのに「おまえらトンキン万歳だろ」と揶揄される。
そこには、実際にはねじれた形での、奇妙な徳川側への崇敬意識があった。
本人には自覚がないのに、西国の人は、そこに変な徳川臭を見るのだろう。
会津藩士なんて、実際のところ、雪も降らないところからやってきた、ただの赤味噌野郎だぜ?

228:日本@名無史さん
13/01/29 21:23:20.64 .net
>>226
偉人として扱われている事実はない。はい、論破。
江戸幕府創設者という以上の評価は与えられていません。

パックス・トクガワーナは江戸幕府の治世350年に対する評価。
途中でどこかの将軍が開国してしまい海外派兵でもしようものなら
それですべておじゃんでござる。
うち、家康の治世わずか2年。
家康の生涯は死の前年まで戦争に明け暮れた上
大坂の町の大半を焼けきり8歳の幼児を殺すなど残忍なことをしている。

鎖国の成果は様々だ。
日本は文明に乗り遅れたわけだから。
パックス・トクガワ-ナは賛否両論。

229:日本@名無史さん
13/01/29 22:26:56.50 .net
家康が好きな人って、江戸幕府の功績の全てを家康の功績にしようとするよね
拡大しすぎなんだよ

230:日本@名無史さん
13/01/29 22:51:43.77 .net
家康が死んでから島原の乱がおこってるし。

231:日本@名無史さん
13/01/29 23:08:44.21 .net
>>227
年に一回の祭りは昔から日本にあるもの。
江戸時代は藩主自ら、東照宮を信仰せざるをえなかったため
藩を上げてやってたからでしょ。
地元民には徳川家康に思い入れがなかったために、
天満宮を庇護する藩主がいなくなった明治以降、
あっさり他の祭神の祭りを盛大にやるようになった。
それ事態、家康好きじゃなかった証拠なんだって。

232:日本@名無史さん
13/01/31 13:49:14.03 .net
>>218
よく読めよ

233:日本@名無史さん
13/01/31 22:01:26.29 .net
おなじみ、豊臣秀吉関係文書研究会の研究成果をまとめた、
「偽りの秀吉像を打ち壊す」(柏書房)が刊行されましたね。
徳川政府の罪は、奇計を用いて天下を簒奪したことや日本の針路を誤ったことはもちろん、
自身を正当化し秀吉の治世や業績を貶めるべく、歴史を捏造し、今日に至るまで一般大衆の歴史認識を歪めさせていること。
それが近年、山本博文・堀新・曽根勇二氏らの研究成果で修正されてきているわけで、
少しでも多くの国民に広まるといいな。

234:日本@名無史さん
13/02/02 07:05:42.69 .net
『河原ノ者・非人・秀吉』 服部 英雄 (著
では、逆の意味で知られざる秀吉像が出てくる。晩年、ささいなことで血縁者、側近とその係累を
無残な仕方で殺生しまくっているという情報が、フロイス『日本史』に色々あるらしい。

フロイス『日本史』は徳川政権による秀吉像の捏造とは無関係なわけだから、
このあたりどう位置づけられるのか興味深い。

235:日本@名無史さん
13/02/03 11:43:47.98 .net
>>233
いまだに鎖国なんて言ってる山本じゃ話にならないよ
だいいち、前作も2,3年前にその面子で書いてるけどまったく広まらなかったでしょ
その二番煎じが当たるとでも思ってるのかと
それも当たり前の話で、研究者の流れは圧倒的に江戸時代再評価
いくら山本が吠えてもあと100年は変わらない

>>230
島原では松倉が斬首、寺沢が改易だ。
謀反でもないのに斬首なんて厳罰下したのは家康の武力凍結政策が示した方針の具現化だろ
江戸幕府は民衆の武装に対してはまったく容赦してないよ。
そして島原を最後に民衆の無差別的蜂起は発生しなくなり、一揆・打ちこわしに作法が形成された
島原の乱の両成敗を契機に、日本では平穏な形態での請願が普及して、現代の議会制まで繋がってるわけ。
民衆の武装が引いては大名の紛争に繋がってるんだから強訴や村落の闘争の厳禁は当たり前の話
それによって暴力が公権力に独占されることになった
天に唾してどうするんだと。ちなみに民衆の武装を禁じつつ年貢をほぼ開発に回して17世紀の高度成長を実現したんだけどね
家中すら制御できず10年で崩壊した豊臣政権にこれに匹敵する業績はあった?

秀吉の処断が信長や家康以上に過酷を極めて、庶民の反感を買ったのは有名だろ。
豊臣政権は正当性の問題をとっても外征政策をとっても後継者問題をとっても、そこまで無理しなきゃいけない政権だったんだよ
その外征政策は信長の構想のパクリだし

断言してもいいが、お前が17世紀前半に生きていたら一も二もなく徳川体制の武力凍結政策を支持するよ
第二次大戦から戦後の成長への転換に匹敵する政策転換を取り仕切ったのが家康
しかも家康は通商では秀吉以上に関心を抱いていた
公使による太平洋横断は勝海舟が最初じゃないから、法螺話を史実と間違えるなよ

236:日本@名無史さん
13/02/04 01:53:59.43 .net
>島原では松倉が斬首、寺沢が改易だ。
>謀反でもないのに斬首なんて厳罰下したのは家康の武力凍結政策が示した方針の具現化だろ

島原の乱は、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。
なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工業、商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。

重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。
年貢を納められない農民に対し残忍な拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っている(その残酷さは反カトリックであったオランダ人すら辟易させるものであった)。
次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し過酷な取立てを行った。



松倉、寺沢への厳罰は搾取によって無用の乱を誘発したから。

237:日本@名無史さん
13/02/04 14:05:18.53 .net
>近年、山本博文・堀新・曽根勇二氏らの研究成果で修正されてきているわけで、

石田三成も一時期「凡将説はウソ→関ヶ原の結果は偶然」みたいな論理飛躍の「修正」がはびこったけど、
すぐに三成の能力は能力として認めたうえで
「松尾山占拠の時点で大垣城は詰み、政治的にも大義名分は家康にあり」と言う再修正になってるよ

山本のやってるのもまさにそれ。秀吉の「ポテンシャル」だけを見て、それ以外の要素を一切見てない
「秀吉は凄い奴だったんだよ→だから豊臣政権が続くのが正しいんだよ」などと言う混同はまったく成立しない

238:日本@名無史さん
13/02/04 14:08:31.44 .net
>>236
だから、搾取した領主を「斬首」と言う最も重い不名誉刑に処してるじゃないか
秀吉が大名を「斬首」した例があったら、挙げてみて。

239:日本@名無史さん
13/02/04 15:45:03.25 .net
九戸政実

240:日本@名無史さん
13/02/04 22:22:55.20 .net
山本ら秀吉関係文書研究会の説は、別に「豊臣政権が続けばよかった」と言っているわけではなく、
本当は、徳川も豊臣の全国支配構造の中に完全に序列化・埋没されていた、という真実を明らかにしただけ。
だから、彼らの研究成果はそれ単体として純粋に今日の日本の財産になった。

ま、別の角度からの見方で、豊臣政権が続けばよかったとワシは思うけれど。それは個人的な意見

241:日本@名無史さん
13/02/04 22:37:51.38 .net
徳川家の領地は太閤検地は行われていなかったと思うが

242:日本@名無史さん
13/02/04 23:09:13.40 .net
>>238
>武力凍結政策
なぁ、このスレで↑の言葉が入った珍妙なレスは全部君なのか?
何が「だから」なんだ?

その馬鹿げた言葉をきちんと定義してみろよ
これまでのどのレスにそんな主張がある

243:日本@名無史さん
13/02/07 01:04:22.01 .net
自分もその言葉に違和感を感じていた。
刀狩は違うのかね。

244:日本@名無史さん
13/02/10 14:34:22.16 .net
刀狩は民衆の武装を解除すると言うより、士農の身分的徴表を明らかにするのが主目的
徳川時代を通じての民衆の武装解除と、豊臣政権期のそれとは質も量もまったく違う

>>239
九戸政実は公儀に対する謀反人として斬首に処されており、領民への搾取によって斬首にされているわけではない
謀反人への斬首なんて古代からあるわ

245:日本@名無史さん
13/02/10 14:38:53.05 .net
>>242
学界の一部で使われているけど、江戸時代は武家政権と言う建前と、中世戦国を通じての大量の民間の武器保有があって、
武器の保有それ自体を禁圧できたわけではなく、ただ武力の発動を徹底的に「停止」させる政策を取っている
これは上方の町人たちの強い支持を受けている

豊臣公儀も武力凍結政策を取っているけれども、政権じたいが外征を行ったこと、その後に内乱が勃発したこともあり、
ほとんど説得力を持たなかったよ。家康も朝鮮出兵の段階では決して反対派ではなかったが、国是を世論の不満と合致させたことは事実

246:日本@名無史さん
13/02/10 14:50:03.87 .net
藤木久志とか使ってるんじゃね

247:日本@名無史さん
13/02/10 19:21:31.25 .net
家康にとっては文字だけでなく故事も良く知ってて便利な人間辞書
祐筆に毛が生えた程度の存在だった林羅山を天海、崇伝と同ランクの政治顧問
だったかのように粉飾し
家康が朱子学を重んじていたと捏造したのは松平定信だけど
鎖国が神君様の決めた国法だと捏造した犯人は誰だ?

248:日本@名無史さん
13/02/10 21:54:46.76 .net
>>244-245
>刀狩は民衆の武装を解除すると言うより、士農の身分的徴表を明らかにするのが主目的
江戸時代でも豪農・町人に制限はあっても所有自体は認められていたが

>秀吉が大名を「斬首」した例があったら、挙げてみて。
横レスだが、後から条件を次から次へと付けていくのではなく、言いだしっぺが言葉を明確化させることが先じゃねぃ?

>江戸時代は武家政権と言う建前と、中世戦国を通じての大量の民間の武器保有があって、
>武器の保有それ自体を禁圧できたわけではなく、ただ武力の発動を徹底的に「停止」させる政策を取っている
前段は正しいが、後段の武力の発動を徹底的に「停止」させる政策ってのは不明確「権限」ではないんだよね?

>豊臣公儀も武力凍結政策を取っているけれども
惣無事令のことを言っているなら認識が誤っている

249:日本@名無史さん
13/02/11 04:21:47.60 .net
>>244-245
秀吉の政策が完璧だったなんて思わない。
ただ江戸時代の基礎が作られたのは秀吉から家光の時代にかけてだよ。
家康が始めじゃない。

250:日本@名無史さん
13/02/11 10:13:58.81 .net
>>249
そういう話なら、信長から室町幕府という具合にいくらでも遡れる

251:日本@名無史さん
13/02/11 13:25:44.54 .net
スレタイが間違ってるんだよ
司馬の家康感は明治時代の古い歴史認識に立脚しとるから今の目で
見ると古くさいってだけで
幕府の政策への影響力なんかはむしろ過大評価気味

252:日本@名無史さん
13/02/11 14:43:55.10 .net
「過小評価」じゃなく「キャラが違う」って感じだな
前の方にもあるけど史実の「生涯プッツン」家康とキャラが違うって点では
山岡荘八と変わらないという

253:日本@名無史さん
13/02/11 15:39:41.21 .net
家康低評価、秀吉高評価は福沢諭吉が原因かと『文明論之概略』

254:日本@名無史さん
13/02/11 16:00:41.71 .net
>>252
家康は日頃から怒鳴りちらしたり駄々こねたりしてたから
ストレスがたまらず長生きしたのかもなw

255:日本@名無史さん
13/02/11 18:03:17.33 .net
>>250
誰が見ても中世に区分される室町は言いすぎだわ

256:日本@名無史さん
13/02/11 18:05:33.84 .net
>>255
施策という意味で

257:日本@名無史さん
13/02/11 18:30:40.50 .net
家康が羽柴、豊臣を名乗ってたっていうのは本当?

258:日本@名無史さん
13/02/11 21:36:46.15 .net
>>257
不明、秀忠は確実だけど

259:日本@名無史さん
13/02/12 22:13:54.09 .net
豊臣家康、羽柴秀忠。とても名誉な氏姓賜与やんか。
しかも、徳川も「武家清華家」の一つに数えられたんやで。
どこの馬の骨とも分からん存在なのに、とても有り難いことよ。喜べや!

260:日本@名無史さん
13/02/17 15:17:40.71 .net
>>248
>江戸時代でも豪農・町人に制限はあっても所有自体は認められていたが
当初の主張が「刀狩も武装解除ではないか」>>243と言うものだったのに対して
「刀狩は身分徴表を示すのが主目的」と反論したのに、「江戸時代でも制限つき武器所有は認められていた」
というのはどういう反論になっとるんですか?
武器所有は現代欧州や戦前の日本を見ても分かる通り「制限つきで認める」のは何ら異様なことではないよ。

>横レスだが、後から条件を次から次へと付けていくのではなく、言いだしっぺが言葉を明確化させることが先じゃねぃ?
横レスなら、島原の乱の斬首と、公儀への謀反と見なされた行為による斬首の違いくらい理解してからレスしたらどうか。

>前段は正しいが、後段の武力の発動を徹底的に「停止」させる政策ってのは不明確「権限」ではないんだよね?
単純に豊臣政権は全国統一から政権を維持できたのがわずか10年
家康から三代はかけた江戸幕府とは施策の徹底度が比較のしようもない

>惣無事令のことを言っているなら認識が誤っている
惣無事令と言うか、喧嘩停止令類似のものは秀吉の時代から出てる。
ただし家康はその徹底をより明確にしている。

>秀吉の政策が完璧だったなんて思わない。
>ただ江戸時代の基礎が作られたのは秀吉から家光の時代にかけてだよ。
>家康が始めじゃない。

「だったら秀吉も…」というツッコミは既に入ってるようだが、
豊臣政権はまず「家光の時代」まで天下様として後継する体制すら作れなかった。
そこで家康との差は歴然。終了。

261:日本@名無史さん
13/02/17 15:23:34.40 .net
秀吉過大評価論者って「豊臣家が続いてたら家康と同じことができた」と言うけど、
そもそも豊臣家が続いてない時点で負け。ここで納得するのが一般人
「続いてない時点で負け」に納得できず「断絶させたのは家康」と地雷を踏むのが司馬以下の信者。
だったら秀吉政権への家康の協力も抜かないとアンフェアだし、
家康が天下を簒奪したのは、彼と何ら関係ない豊家の譜代衆の争いが契機なので、反論も不適切。

262:日本@名無史さん
13/02/17 22:43:06.28 .net
>>260
「島原の乱の認識を誤っていた」ですむ話なのに、突っ走るからそれまでの話と整合性が取れなくなっちゃったことに気づいていないでしょ
俺は236-242-248であって他は関係無い

脳内で完結させずにさぁ「武力凍結政策」をきちんと説明しようっていう気は全くないの?
武力の発動を“徹底的”に「停止」させる政策とは何か
豊臣公儀も武力凍結政策を取っているけれども、政権じたいが外征を行ったこと、その後に内乱が勃発したこともあり、 ほとんど説得力を持たなかったとは誰の論文か
喧嘩停止令類似のものとは何か


この四つに答えてくれ
き・み・の言葉を明確化させることから逃げて、間違った思いつきによる言い逃れを永遠に続け、こちらは何時までも妄想を正し続けなければならないのかい

263:日本@名無史さん
13/02/18 16:29:17.10 .net
>>262
何が間違ってるんだ。島原の乱を契機に民衆側は無秩序な蜂起を自粛して作法ある抗議に切り替わり、
一方で仕置の失敗で斬首の処分を食らったのも事実だろ。

武力の「凍結」の例としては、例えば民衆の保有する武器の扱いがそうであったり、「城破り」がそうであったりする。
このスレに書いてあることを読んでみろよ。
福島正則の改易や大坂城の講和条件を「破った」と見なされている行為は、
徳川方にしてみたら、武力発動を半永久的に「凍結」させることを命じたのに福島や大坂方が従わなかった、
つまり相手のほうこそ違約をしているという認識によってる

ほんと無知ね

264:日本@名無史さん
13/02/18 23:16:53.52 .net
他人を無知だと罵るなら論拠を提示してね
スレに書いてあるというならレス番を明示するぐらいのことはできるだろ

令なのか文書なのか何を根拠にしての発言か明らかにできないのは、
きみがこの種の掲示板を読み漁っただけだからであって、
きみが自分に都合の良い書き込みを、フィーリングのみで理解した心算になっているから

豊臣政権の認識が数年旧いのがその証左、
誰かがネットに書いた与太書きを、ソースも確認せずに続けられている伝言ゲームの末端にいるのがきみだというにすぎない

違うというなら、自分の発言が何に基づいているのか即座に答えられるはず
きみのように人前で発言する資格の無い子供に、何を間違えているのか指摘し続けても無駄だということは、
経験上よく分かっている

俺様の演説を聞け!というスタイルを変えないなら、それはそれでかまわないけど

265:日本@名無史さん
13/02/21 09:17:06.50 .net
家康って自分で天下統一できなかった雑魚でしょ?

266:日本@名無史さん
13/02/22 10:06:52.20 .net
この時代で自分だけで天下取った人っていたっけ?

267:日本@名無史さん
13/02/22 16:15:30.26 .net
これまで関ヶ原合戦後の政治体制は、1つの説として二重公儀体制が主張されてきた。
…しかし、これまでの研究で批判されてきたように、遅くとも二代将軍秀忠が征夷大将軍になった慶長十年(1605)を境にして、
徳川公儀は徐々に優越的な地位を占めるようになってきた。
…関ヶ原以降、家康の目的は秀頼をいかにして、ほかの大名と同様に配下に収めるかにあった。
ところが、従来はおおむね家康が豊臣家の滅亡を企図して、着々と準備を進めたとされる。…果たしてそのように考えてよいのだろうか。
(中略)
…徳川方は、豊臣家を大坂冬の陣で潰すことなく、和睦によって解決を図ろうとした。
潰そうとすれば、豊臣家を潰すことができるはずである。
ここで改めて家康が提示した和睦条件を考えてみると、主たることは
①淀殿を江戸へ人質として送ること、②秀頼が大坂からほかの場所へ移ること、③大坂城に籠城した浪人衆を追い出すこと
に集約されよう。…家康からすれば、豊臣家が指示に従い、言うことさえ聞けばむやみに争う気持ちはなかったと考えられる。
…①②の履行を求めないことは、徳川家の最大の譲歩であった。

しかし浪人衆は一向に大坂城を退去することなく、一部の豊臣家の重臣の不穏な動きが伝わることになった。
ここまで来ると、さすがの家康も他の大名に示しがつかなくなる。もはや豊臣家を滅亡に至らしめるより方法はほかになかったのである。
家康にしてみれば、むしろ当初の意図に反して、豊臣家を潰さざるを得なくなったと言うのが実情であろうと推測される。
…徳川公儀成立の過程において、豊臣家が臣従を潔しとしなかったため、やむを得ず滅ぼさざるを得なくなったとすべきであろう。
そこに至るまで、家康は最大限の努力あるいは譲歩をしたと考えてよいのである。

268:日本@名無史さん
13/02/22 16:34:31.42 .net
>>264
>他人を無知だと罵るなら論拠を提示してね
城わりについて、例えば大坂の陣以降の江戸幕府は「城の防塞新築・新規召し抱えの完全停止」を求めている。
大坂の陣での牢人衆の退去条件、および「惣堀」の解釈についての双方の相違は今さら述べるまでもないだろう。
たとえば福島正則は大坂の陣の6年前にも城普請で幕府に糾問されて許されているが、
家康は大坂の陣の直後に一国一城令を発し、これは従来と比較にならない強い規模で遵守が求められている。
5年後の福島は従前のごとく形式的な城の破却のみで済ませようとしたが、これは許されなかった。
おれの演説どころか、この程度の史実はその辺ググって当然知っていてしかるべきだと言ってんだよ。

>令なのか文書なのか何を根拠にしての発言か明らかにできないのは、
「喧嘩停止令」と言うのは、当然知っていると思うが、そういう個別の正確な法令名があるわけではない
たとえば豊臣政権下では「天下ことごとく喧嘩御停止の法」への抵触などと言う事件名、総称によって語られる。
お前のはなんか厳格故意説を聞いてるような感じだな。

>豊臣政権の認識が数年古い
その具体的根拠は?
お前の言い分によれば、数年古いと言うならソースをあげて「何が、何と比較して、どのような点で、どのような研究によって数年」古いか明示しなくてはならないはずだが。

269:日本@名無史さん
13/02/22 16:49:56.13 .net
徳川方の和睦条件は夏の陣直前に至るまで明確で、大坂方が牢人衆の暴走でメルトダウンした結果、
武力による討滅と言う事態にまで至ったとしか考えられない。

徳川公儀への臣従。
および、牢人衆の切断。

牢人の取締は幕府政策でもあったから、大坂だけが大規模な違反行為を続けてよいわけがない。
大坂はそのいずれも拒否するどころか、講和後の3月に早くも新規入城者の存在が問題となり、
和睦の当事者である大野治長らの知る所でもなく、和睦に尽力した織田長益らが収拾を諦めて城を出ざるを得なくなっている。
徳川方としてはもはやだれをカウンターパートとすべきか分からない状態で、これでは成敗されるのは当たり前。

270:日本@名無史さん
13/02/22 16:55:20.34 .net
>>264
>スレに書いてあるというならレス番を明示するぐらいのことはできるだろ

いまスレを読んだら、「城わり」について江戸幕府が対処を厳格化したと言う指摘は既に>>36で出ている。

271:日本@名無史さん
13/02/22 17:10:18.81 .net
ちなみに「数年古い」と言う認識がまさか2年前に出たコレ↓に依拠しているのだとすれば中身読んでないんだろう
「豊臣秀吉と『豊臣』家康」(「消された秀吉の真実-徳川史観を超えて」、山本博文)

「小牧長久手の勝利」なんて神話はいま徳川公儀の優越性に評価を与える論者も大して支持してない。単に笠谷への反論だろ。
山本本って、この前のやつもそうなんだが、書名が実際の内容とくらべて攻撃的というか陰謀的なんだよな。
あと、この書籍ではちゃんと秀吉政権の末期に政権基盤がぜい弱化していたことにきちんと触れている。

272:264
13/02/22 20:52:05.67 .net
飛ばし読みしたけど

聞かれたことには答えられないから関係ない話で誤魔化します

ということが書かれているでFA?
自分で言い出した「武力凍結政策」ですら「城わり」に置き換えて逃げるのか…
他人を罵るだけで、自らの論拠すら明確化できないことを「モノシリ」と言うのなら
君の言葉でいうところの「無知」と呼ばれても一向にかまわないよ俺は

日本語での意思疎通ができないようだし

273:日本@名無史さん
13/02/23 08:58:45.90 .net
家康評価のスレではなく
「司馬遼太郎」のと冠してあるスレタイの読めないお前も日本語能力問題あるけどな

274:日本@名無史さん
13/02/23 13:56:27.89 .net
このスレで“「武力凍結政策」を口にする奴”に、レスを付けるのは皆


日本語能力がない


ということでO.K.

275:日本@名無史さん
13/02/24 14:46:15.92 .net
司馬は地元贔屓で徳川が嫌いとよく聞くけど、
織田にも豊臣にも徳川にも縁もゆかりもない田舎に住む身としては、そういう気持ちはよく分からんな。

276:日本@名無史さん
13/02/25 00:23:14.05 .net
関西人の東京嫌いというやつだろ

俺に言わせれば、信州の三地域対立の方がよほど分からん
まだ津軽とかの方が心情的には理解できる

277:日本@名無史さん
13/02/26 08:52:14.12 .net
司馬は大坂の陣で物資搬入の生命線だった木津川口の戦い(19日)、博労淵の戦い(29日)には触れないね。
後者は薄田兼相が橙武者だったというエピで紹介しているが、これで勝敗の帰趨が決まり、
今福や鴫野も徳川方に接収されて長期籠城すら厳しくなっていた事実は意図的に無視している。

278:日本@名無史さん
13/02/26 12:19:09.33 .net
上にもあるけどむしろ過大評価してる面もあるよな
家康死後の主に秀忠が将軍・大御所時代に推し進めた施策によって
幕藩体制は完成したのに
家康が作り上げたみたいな書き方してる

279:日本@名無史さん
13/02/26 12:32:02.33 .net
晩年はさすがに年相応に老獪さも身につけてはいたが
基本的にあわてん坊でうっかりさんだからな家康w
秀忠がいなかったら短命に終わったか、あるいは鎌倉幕府のように乗っ取られたかも
家康、秀忠共に死んで
忠輝が後継いで外戚の伊達政宗に乗っ取られた火葬もあったな

280:日本@名無史さん
13/02/26 23:24:14.24 .net
秀頼の卑劣な瀬戸際政策に対して、正義の鉄槌を振り下ろそうとした秀忠や政宗を押しとどめ、
最後まで和平条件を提示し続けた家康の度量が偉大すぎてこわい

281:日本@名無史さん
13/02/27 08:18:44.24 .net
>>277
木津川口の戦いに触れると、司馬がageまくってた牢人5人のうちの1人、明石全登の惨敗に触れなくてはならない
夏の陣でも八尾方面で長宗我部勢が大打撃を被った事実に触れていなかったり、
冬の陣では佐竹勢の苦戦には触れるが、その後で上杉勢が側面から攻撃を加えて大坂を退かせたことも触れてない

だから小説だけ読んでいると、まるで大坂方が勝っているのに謀略で和議に持ち込まれたような錯覚に陥る
現実には家康は冬の陣で攻撃と同時に和議も進めており、牢人衆と大坂の分離、徳川への臣従さえ担保できればよいと言う態度だった
この点で秀忠とかなり対立している。

282:日本@名無史さん
13/02/27 08:42:43.06 .net
>>272
城わりは夏の陣の直後、諸大名が帰国前に一国一城令と言う形で誓約させられている。
もちろんこの時は家康存命。
なぜ城わりの徹底が豊臣平和令ならぬ「徳川平和令」の例示とならないのか、弁明を求める。

秀吉政権の時代にも城わりは行われていたが、以下の点で、特に大坂の陣後のそれと徹底度が違う

①中央政権による被征服地が主たる対象で、さらに大名が破却対象の城の取捨選択を行い国衆の城の破却のみが先行したこと
②豊臣政権自体が朝鮮出兵で肥前名護屋城の築城などを行っていたこと
 さらに秀吉の没後の内乱期に再び築城が行われ、定着しなかったこと
 (徳川政権も二重公儀体制の時期に築城を行っているが、大坂の陣後に自らも普請を停止して、
 築城統制の徹底を定着させようとしたこと。これは諸大名の認識にもうかがえる)
③城わりが形式的なものでなく、構築物を全て破却する実質的な程度まで強いられたこと

283:日本@名無史さん
13/02/27 08:57:46.80 .net
あと徳川公儀は有力諸侯の合議ではなく、徳川譜代の家臣によって運営されていること。
武家諸法度なども豊臣政権と異なり誓詞の交換などによるのでなく、秀忠による発布の形を取っていること。
家康から秀忠への権力継承が円滑に進み、秀忠を頂点とする徳川公儀が大坂討滅時に10年を経過していたこと。

などから、機構としての安定性はかなり異なる。武家や民衆武装の統制や紛争についても、長期的で一貫性のある政策体系を打ち出すことが可能だった。
はい反論どうぞ。ろくな反論もないようだし、これでも反論がなければイチャモン吹っかけたあげく議論を放棄して逃げたと見なす。

284:日本@名無史さん
13/02/27 09:08:51.96 .net
>>279
秀忠の早世と言う仮定はもちろん考えられるが、家康は秀吉と異なり男子が何人もいたし、
何より秀吉と異なり関白に就任させて表のトップにした甥を自刃に追い込んで後継体制を混乱させるような愚は犯してない

伊達政宗?何言うてんの。あのオッサンは関ヶ原の後には豊家の臣従を促すべしとする強硬派に属するんだが

285:日本@名無史さん
13/02/27 19:17:40.13 .net
>>284
「火葬」の字が読め無いのかお前はw

286:日本@名無史さん
13/02/27 19:19:40.01 .net
つか、家康・秀忠が健在で幕府が盤石だった史実での行動なんて
幕府の屋台骨が揺らぐ+外戚として権力振るえるという立場での行動の参考になるかよw
史実のように幕府がしっかりしてりゃ大阪役でも起きてくれないと加増の機会はないからそりゃ
強硬派にもなるわw

287:日本@名無史さん
13/02/28 01:49:17.22 .net
>>285
>>279は明らかに「徳川の後継体制が弱体化して外戚が乗っ取る可能性がいくらでもあった、例えば政宗なw」
と言う主張じゃないか。仮想だとか今さら誤魔化すなよ。ちなみに政宗は秀頼を大坂で放置することが将来、内乱の種にならないか、
関ヶ原後の早い段階で憂慮しているし、冬の陣の講和に「家康の意思に異を唱えて」秀忠派に属した諸侯にあたる
ちなみに女婿である忠輝は豊臣家とは比較的接点の多い家康の子。なのに「外戚」は対豊臣強硬派なんだが

色々見ても、後継者が混乱しまくった豊臣政権の転覆の可能性と比べて江戸幕府が転覆する可能性なんてはるかに低い

288:日本@名無史さん
13/02/28 01:58:27.83 .net
結局、豊臣家は大野・織田有楽あたりが諸侯の足並みの乱れを利用して家康と条件闘争に入ろうとしたら、
福島にすら諌められる有様でまったく目論見が外れ、目論見が外れたので家康と慌てて講和したら、
今度はリストラされる牢人衆が騒ぎ出して有楽さんを追い出すわ、大野さんを襲撃するわ、
好き勝手したあげく自滅した
秀頼はデブすぎて出馬すらできなかったと言うただそれだけの話なんだよw

289:日本@名無史さん
13/02/28 02:36:18.83 .net
>>287
誤魔化しもなにも
わざわざ「仮想」ではなく「火葬」と書いた意味わかってないだろこのバカw

290:日本@名無史さん
13/02/28 20:02:22.00 .net
はいはい誤魔化し乙

291:日本@名無史さん
13/02/28 23:14:38.43 .net
秀吉の意を受けた前田玄以が、早い時期から朝廷勢力に関与し、相当部分意のままにしてきた。
これに関連する記録・日記類原本から、玄以の仕事部分を抹消して写しを作り、広めていった、インチキ徳川文化ワロズ

292:日本@名無史さん
13/03/02 01:26:53.07 .net
家康は本当は豊臣家を滅ぼしたくなかったのに、豊臣家の方が空気を読めなかったから。。なんて、絵空事も甚だしい。
あの名古屋城の本丸、大天守‐小天守の造りを巡る話からも、早くから臨戦態勢やんか。

293:日本@名無史さん
13/03/02 12:42:33.22 .net
>>292
名古屋に関しては、家康の設計が、大坂対策だとしても、それでも壮大過ぎるんだよなあ。
現在の経済規模のおかげで、逆に騙されているところがあるが、
尾張のあの位置に、あんなに大きな城郭と、壮大で合理的な近世城下町を作る必要は、
単に秀頼を滅ぼす戦争のためだけなら、さまざまな反攻の想定をしても、実はなかったりする。

同じような、一見イミフの、極度の余裕のある縄張りとしては、他に仙台があるが、
これは、伊達政宗が、天下取りの妄想を捨て切れていなかったことを示唆すると言われる。
だとすると、名古屋は更に謎だよね。

294:日本@名無史さん
13/03/04 22:15:36.24 .net
江戸時代が明治より良い時代だったとか思ってる人が世の中に結構いるのに驚く。

だからって秀吉が良かったとも思わんし、奈良時代が良いとも思わんけどね。
というか江戸時代って豊臣政権の政策を引き継いだものだからね。

大名でもないのにいまだに江戸時代を支持してるのは、損得勘定すらしたことがないんろ。

295:日本@名無史さん
13/03/05 09:37:51.79 .net
色々名目着けて献金強要される大商人や大棟梁以外の
商人や職人にとっては税金のない江戸時代の方が良かったろ

296:日本@名無史さん
13/03/05 10:33:30.57 .net
>>295
たしかに一部の商人や職人は良かったかもしらんが、
商人や職人は税金を納めないから、幕府がいろいろ規制してたんだろ。

297:日本@名無史さん
13/03/05 11:44:24.59 .net
2ちゃんねるは秀吉サゲ家康アゲは異常に多いよ
特に日本史板は在日の書き込みが多い
朝鮮民族を攻めた秀吉は無能のボケ、日本はどこにも出兵しませんと約束した
家康は朝鮮人の仲間だそうな

298:日本@名無史さん
13/03/05 12:31:25.73 .net
仮に秀吉が存命でも朝鮮を占領して維持できたとは思えないんだけどな。

299:日本@名無史さん
13/03/05 12:43:53.92 .net
チョンの書き込みが多いな

300:日本@名無史さん
13/03/05 13:13:16.36 .net
>>299
秀吉存命中に本気でやっても、朝鮮南部を占領してただけなんだから、
その後に頑張っても朝鮮北部の占領は難しいだろ。

今の時代と違って対馬海峡を渡るのは大変な時代なのに、
南部だけ維持し続けるのは大変だ。

301:日本@名無史さん
13/03/05 15:21:43.34 .net
>>297
琉球に攻め込んでるじゃないか

302:日本@名無史さん
13/03/05 15:54:27.88 .net
琉球に攻めようと朝鮮人からしたら知ったことではないからな。

303:日本@名無史さん
13/03/05 21:49:10.59 .net
>>297
チョンチョンいいながらそのチョンの妄想史を鵜呑みにするような
頭の悪いお前は知らないだろうが
秀吉が朝鮮攻め込んだせいで
朝鮮人よりも出征負担でむしろ日本人の方迷惑したんだがなw
朝鮮人で迷惑したのなんてふんぞり返ってた王族や両班だけで
大多数の民衆は元々生き地獄だから大差ねえw
中には日本軍を歓迎して見チンないした奴らまでいたんだぞw

304:日本@名無史さん
13/03/05 21:52:08.84 .net
道案内なw
そーいや扱いの悪い朝鮮ヘの帰国を断り、日本への帰化を願った
陶工をまるで故国に帰りたかったかのように書いたのも司馬だな
完全にウリナラファンタジーへの荷担だw

305:日本@名無史さん
13/03/05 21:57:34.13 .net
収奪するのが両班から日本軍に変わっただけだからな
しかも日本軍は必要な分しか徴発しないけど
両班は色々理由着けて法定分の税以上の物まで根こそぎ持って行くというw

306:日本@名無史さん
13/03/07 14:22:28.97 .net
>>303
さすがチョンはすげえやw
向こうで豊臣秀吉と言えば悪人の代表だぞ
日本人にとっては大出世の最たる英雄なのに

307:日本@名無史さん
13/03/07 15:12:09.09 .net
>>306
>さすがチョンはすげえやw
機能性文盲乙w

>向こうで豊臣秀吉と言えば悪人の代表だぞ
禿げ山が多い、寺院が少ないといった関係ない事まで秀吉のせいにされてるからな
都合の悪い事を全部日本のせいにするいつもの朝鮮クオリティだろw
なんでお前らって朝鮮嫌いなくせにあいつらにの言う事をちゃんと検証しないで鵜呑み
にするわけw

>日本人にとっては大出世の最たる英雄なのに
歴史に詳しくないやつにだろw
なんで「太閤記」が出世の階段登り切ったところで終わると思ってるんだ
「主人公からラスボスにクラスチェンジ」が歴史好きのイメージだよw

308:日本@名無史さん
13/03/07 15:18:00.96 .net
どうして、かまってちゃんをスルーできないのか

309:日本@名無史さん
13/03/08 11:05:04.70 .net
>>275
>>276
スレ違いかもしれないけど、
大久保利通の遺骨が平成になってようやく里帰りできたという話を聞いたときは、
いくらなんでもあんまりじゃねーか、地元贔屓や判官贔屓ってオソロシスと思ったな。

310:日本@名無史さん
13/03/08 12:31:01.57 .net
>>307
>寺院が少ないといった関係ない事まで秀吉のせいにされてるからな
何しろ李朝の廃仏から守ってやった仏像を「盗んだ」とか言ってくるカスですからね

311:日本@名無史さん
13/03/09 11:04:54.63 .net
政権維持に失敗したのだから、政治家としての秀吉には辛い点が付けざるを得ないな

312:日本@名無史さん
13/03/16 12:20:55.35 .net
秀吉は秀次事件を引き起こした上に、小早川隆景と言う後継構想のキーマンを次々に失ってるから
東国仕置を家康に頼るほかない状態だった
家康が慶長16年(大坂の陣の3年前)の秀頼との会見の時点で大坂討滅を決意したなんて全く史実と異なる

7月の方広寺鐘銘事件から半年足らずで大坂が10万の牢人を集められるわけもなく、
冬の陣で家康は最初から和睦を前提として強攻を抑えていたことからも明らか
家康が豊家討滅の決意を固めたのは、夏の陣の直前の段階

313:日本@名無史さん
13/04/11 16:15:31.08 .net
一方で大阪方は駿府の家康には恭順の姿勢を見せる一方で
江戸の秀忠政権には楯突くという不可解な行動をしている
両者が一体の物である以上無意味な行動だが
当時、家康と秀忠の親子関係がしっくり行ってないとか
徳川家が大御所派と将軍派に分かれてる、といったような風聞でも
流れていてそれを鵜呑みにでもしたんだろうか

314:日本@名無史さん
13/04/30 08:42:43.15 .net
先日、本屋で立ち読みしてたら
徳川家康の強さの秘密は
戦国最強の三河武士と
繰り返し強調されていた。

315:あ
13/04/30 14:38:04.25 .net
司馬の家康嫌いは、単に江戸に幕府を開いたのが理由だ。関西圏だったら嫌いになってない。

316:日本@名無史さん
13/04/30 17:24:02.18 .net
司馬は頼朝嫌いじゃないよ?
同じく東国に幕府を開いたが。

317:日教組は日本の癌細胞
13/04/30 17:41:31.89 .net
URLリンク(www.google.com)
絶対許すな
URLリンク(www.domo2.net)
真相真実
URLリンク(portable.blog.ocn.ne.jp)

318:.
13/05/01 06:42:00.84 .net
>>316
言葉足らずだったな。あの家康でも畿内に幕府を置いたならば、司馬は家康を不快には感じなかったと思う。

つまり、秀吉好きの司馬が徳川嫌いになるのに、江戸での幕府は十分に要素を満たした。

319:日本@名無史さん
13/05/01 07:50:09.76 .net
司馬が家康を嫌いな理由
①イメージ…外交より内政、通商より鎖国、暗黒の江戸時代と言う偏見
②倫理的偏見…主家である豊臣家の天下を乗っ取り、遺児を滅亡に追い込んだ
③大坂パトリオティズム…関東に大坂が打ち負かされたのが悔しい

結論的に言うと①②は完全なる誤り、③は司馬の勝手な被害者意識

320:日本@名無史さん
13/05/01 20:44:12.14 .net
暴走のあげく自力では牢人を排除できないと言う先軍政治に陥った豊臣家と牢人衆の切断でことを治めようとしたが、
結局、ご苦労知らずの秀頼がブチ切れて淀殿の和睦合意を蹴り、牢人衆と抱き合い心中しただけの話

321:日本@名無史さん
13/05/01 20:44:33.07 .net
>>319
思い切り乱暴な観測をするとさ、この国って関西と関東の勢力争いを延々としてきた、って見なせるよね
関西愛国の司馬さんにとって、禁中並公家諸法度を制定した徳川幕府は、やっぱり絶許だったんじゃね?
そう考えれば彼の家康嫌いも可愛いものかと

322:日本@名無史さん
13/05/02 08:04:23.31 .net
網野善彦が司馬の逆バージョンで、「日本社会の歴史」で採用したのも東西の王権の統合-分裂を軸とした世界観だから、
東西対決的発想じたいはおかしくないよ。ただし、網野は西の王権の長を敵視したり、東の王権のほうが優れてるなんて言ってはいない。
地域パトリオティズムって「中央一辺倒の歴史観に対して、地域の自律性を対置させる」ものであるわけで。

司馬の大坂パトリオティズムの場合は、西の東に対する開明性や文化的先進性を前提に話が進むんだな。
江戸時代暗黒史観がそうなんだけどさ。つまり、地域パトリオティズムを否定する方向で使われてる東西対決なんだよ

323:日本@名無史さん
13/05/03 01:24:34.18 .net
大阪人の自分は家康好きだよ
反対に司馬が嫌いだw
司馬が家康嫌いなのは別の人も言ってるように
秀吉好きなのと、江戸に幕府開いて260年余り続いたことだと思う

別に何を好きでも構わないけど、他を下げないと自分の好きなものを評価できないって
おかしいよ。

>>322
そもそも学術的に論じる場合、どちらかを敵視して、あっちが劣ってる、こっちが優れてるって
論じること自体がおかしい。とくに文化的なものに関してはね。嫉妬して他を下げるって、このへんお隣の国を思いうかべるな

司馬はその意味でまったく歴史的考察なんて出来てない。
本人は一応小説家と認識してたみたいだけど、ファンは歴史家と見做してるからやっかいなんだよ。

324:日本@名無史さん
13/05/03 09:20:28.10 .net
東京人が西郷さんの銅像が上野公園に立ってても、大村益次郎が靖国に祀られてても何にも気にしないのに、
司馬はいかにも気宇が狭い。

325:あ
13/05/03 17:44:15.19 .net
司馬の三成好きも反家康だからだろうな。家康好きの松本清張との対談は面白かった。

しかし、司馬は家康の晩年にあった豊臣潰しを酷評していが、秀吉の晩年ほど醜いものは無いんだがな…

家康好きな桑田や津本とかと司馬は対談してるのかな?

326:日本@名無史さん
13/05/05 23:49:11.89 .net
家康も酷評だが劉邦とかまあ酷い言われ方だったわ、そこまでして項羽持ち上げたいかと

327:日本@名無史さん
13/05/06 21:33:38.49 .net
>>325
そこは司馬に突っ込みたい
>秀吉の晩年について


どかだったかのスレで山内の子孫の方が、武田鉄也に対して
ウチの先祖はそこまで酷くないって不満をもらしてたって見た。

徳川の子孫も司馬に対して思うところはあるんじゃないかと思う。

反対に自分がくそみそに言われてるのはどう思うんだろう、司馬。
まあ、司馬はあれだけ他人の先祖くそみそに評価してるから文句言えた義理じゃないけど
すでに亡くなってるしねw

328:日本@名無史さん
13/05/09 12:38:27.69 .net
司馬にとって秀吉は好きで結婚した相手の過去がド腐れビッチだったことを知ったが知らんぷり
家康は嫌いなのだが、悪口言い続ける内に気に入るという典型的なツンデレ

329:日本@名無史さん
13/05/10 11:04:46.72 .net
アンチはアンチでも、妖説太閤記のような愛のあるアンチ小説なら良いと思うけどな。
いくらなんでもそりゃねーだろと何度も突っ込んだけど、
主人公に思い入れがあるからこその小説だと思う(私見)。

330:日本@名無史さん
13/05/14 01:36:56.75 .net
>>280
今更なレスだがその辺は秀吉の遺言に対する配慮もあったのかなと思ったり。

331:日本@名無史さん
13/05/15 06:29:02.71 .net
家康個人はめちゃくちゃ意識してたと思うよ実際
だからギリギリまで大坂と講和条件模索したけど、その頃になったら秀忠の意向も無視できなかったのだろ

332:日本@名無史さん
13/05/15 17:31:59.87 .net
史料には秀忠が冬の陣の段階から主戦派、家康は開戦当初から和睦を模索していた
と言うのが明確に記されてるし、家康が秀忠と意思疎通しながら大坂の処分を決めようとしていたこと、
冬の陣の講和で家康が条件的に深追いせず、伊達政宗ら有力大名が反対したこととかちゃんと書かれてるんだけど、
司馬は家康の影響力を過大視して「それぜんぶ茶番だから」と言い張ってるので始末に負えない

333:日本@名無史さん
13/05/15 23:05:15.36 .net
司馬小説読んであくまで自分が感じた印象だが
能力は認めてるけど生理的に嫌い=家康。山県有朋
能力は認めてないけど一人の人間的には大好き=乃木さん

334:日本@名無史さん
13/05/16 14:06:41.43 .net
>>281
八尾の戦いも戦雲の夢読んでると颯爽と長曾我部が勝ったような印象受けるけど
実際は違うしね

司馬さんて資料読み込んでる割には戦略に無知なんじゃないかと思えてくる
書き方多々あるよね

335:弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg
13/05/16 23:59:30.21 .net
戦争してる時点で、戦国時代の武将は全部、屑。


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