邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあったat HISTORY
邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった - 暇つぶし2ch542:日本@名無史さん
18/07/20 05:51:37.57 .net
沖縄出土滑石混入系土器からみた東シナ海の対外交流
URLリンク(catalog.lib.kyushu-u.ac.jp)
 燕の滅亡期(前222年)あるいは衛満朝鮮建国期(前195年)は、遼東の移民が清川江を越えて朝鮮半島北部に逃避した段階にあたる。
すなわち、前3世紀後葉~前2世紀初頭ということできる。特に後者の段階には『史記』巻百十五「朝鮮列伝」「満亡命、聚黨千餘人。」
と記載され、多くの遼東移民がいたことが知られる。これら沖縄で発見された燕系遺物は、遼東の移民が海路を利用し朝鮮半島西北部を
目指して避難した際に、海流に流されて沖縄諸島に到達した可能性を考えることができる。また、『史記』巻百十八「淮南衝山列伝」にある
「秦皇帝大?,遣振男女三千人,資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤,止王不來。」という、いわゆる徐福伝説が気になるところ
である。振う男女三千人が燕あるいは遼東の民であることを論証することはできないが、年代的には一致している。しかしながら、
燕系遺物の年代幅からも、燕滅亡時や衛満朝鮮建国期という複数回の遼東移民である可能性が最も高いものであると言えよう。
 また、これら沖縄の燕系遺物が共伴する九州系土器は、九州南部の土器であり、弥生前期後半から中期前半にかけてのものであり、
特に中期前葉の入来Ⅰ式段階の共伴例が多い。
 さて、宮崎県串間市では、直系33.3cmという大型の玉璧とともにその近くから明刀銭が出土したと伝承されている。玉璧の類例は
前2世紀の広州市南越王墓のものにあり、明刀銭も沖縄出土のものと同じ前3世紀後半のものである(岡村2013)。
沖縄本島では弥生時代前期後半から中期にかけてゴホウラなどの南島産大型貝が南九州との間で交易され(木下1996、新里2009)、
さらに南島産大型貝は北部九州へもたらされている。南九州はその中継交易基地であったのである。そうした南九州の交易者は、
沖縄出土弥生土器から薩摩半島西部の人々であると考えられている(中園2000)。薩摩半島西部の中継交易地を媒介として、
沖縄本島に遼東から漂着した玉璧や明刀銭が南九州内での交易関係の中で、大隅半島南端の串間市にもたらされた可能性があろう。


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