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島津初代忠久は惟宗氏の出で、国内最大の荘園であった島津荘園を治めることとなり
島津姓を名乗った。都城が島津家発祥の地と勘違いされるが都城は島津の名の由来だけです。
忠久は都城に住んだことも来たこともなく鎌倉にいました。山田聖栄の文献、三国名勝図鑑
では、初代忠久は先二出水に来て2年後に都城に住んだとされてますが、この文献も源頼朝
庶子説を広めるために捏造された可能性があり、他の文献等では4代までは薩摩に赴任せず、
5代貞久以降に現川内市に守護所が置かれたのが確かのようです。
だから都城でも島津家発祥とはせずに島津発祥としています。都城の島津伝承館の専門員が
書いた本にも島津氏は出水から都城に来たと書いてあります。どの守護も領地には住まず
鎌倉に住んでいたようです。特に遠地の守護はそうであり、家来を派遣していました。
そこで、元寇の役で博多に集められた全国の守護に北条時宗はそれぞれの領地へ赴任する
よう命令します。島津も5代の貞久から領地へ赴任したのでしょう。
それと、当時の守護は江戸の大名と違い守護であっても領地は土着の豪族が支配しており、
島津も出水から南下して薩摩半島を統一するのは戦国時代です。その後、義弘の時代に大隅、
日向と一気に支配します。
島津の名の由来は都城であり、川内で完全に土着するが家来の支配から考えると出水でしょう。
出水も何も異論を言わないから。また、都城は島津の一族の北郷氏(後の都城島津氏)が島津家の
家来として都城を治めていたこともあり混乱します。都城島津氏は江戸時代に改称しますが、
島津家の家臣で都城は私領です。故に大名ではなく城も持たず領主館に住んだわけです。
佐土原島津家は分家で大名です。都城を巡っては北郷氏(都城島津)と島津家の家老の伊集院家との
庄内の乱も重要です。都城では島津発祥だけが語られ庄内の乱がほとんど語られてないです。
余計なことで長くなりましたがご参考までに。
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