21/05/02 13:17:01.31 YoNHE1F3.net
>>160
K = 6がいちばんcross-validationエラーが低い
165:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/03 08:03:55.51 8D/QJ398.net
シベリア周辺の少数言語まとめ
URLリンク(www.youtube.com)
166:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/03 20:44:04.17 8D/QJ398.net
韓国には、水+田を意味する「畓」という独自の漢字があるが、日本は火+田で「畑」にした
いずれも中国にはない独自の漢字である
歴史でみると、米好きの韓国人は水田にこだわり、雑穀好きの日本人は焼畑にこだわったようだ
しかし近代に入り、寿司が日本人の国民食となり、ナショナリズムに深く関わるようになったため
ネトウヨは日本人が併合時代に韓国人に稲作を教えてあげたなどという偽歴史を広めている
URLリンク(static.news.zumst.com)
167:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/03 21:06:49.19 KeX2MZ6+.net
>>163
石高というコメの生産量しめす言葉あるだろ
朝鮮は同時代にはコーリャンばっかだった
168:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/03 23:37:31.42 8D/QJ398.net
>>164
とネトウヨは息をするように嘘をつく
山梨大学がまとめた朝鮮半島の水田遺跡一覧(p372)
URLリンク(www.museum.pref.yamanashi.jp)
169:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/04 20:00:18.66 afojQT26.net
【日本語の起源】東アジアの言語史まとめ【仮説】
URLリンク(www.youtube.com)
170:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/04 21:18:16.84 EX6Cvd+4.net
>>165
水田遺構じゃなく
常習的に大衆みんなが食べてたかという話
171:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/04 22:48:25.99 afojQT26.net
>>167
日帝支配下の満州に稲作を広めたのは朝鮮系移民
なんせ朝鮮人が水田を開墾しすぎたせいで、水利をめぐって現地の中国人農耕民と争いになり
1931年にはあの万宝山事件が起きている
まあ、歴史でみると、朝鮮人と弥生人(=朝鮮人)は米好きでよく米を食べる
172:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/04 23:30:56.49 EX6Cvd+4.net
関係ねーw
イザベラ・バード読もう
173:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/04 23:31:25.39 EX6Cvd+4.net
こういうガボン思考ってどういう人間なんだ
174:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/06 15:08:25.60 vW0EDBqi.net
>>170
自分と他者を欺き洗脳していくタイプ
麻原彰晃とかと同じ
175:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/06 15:45:47.86 vW0EDBqi.net
もしくは虐待被害者だろうね
未熟な脳に過度の刷り込みを受け
閉じ切った世界観を構築しているのが特徴
しかし本人に虐げられた自覚はない
176:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/07 20:28:45.90 ng+tnnzo.net
うん
177:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/08 15:57:49.34 VkzWRNPX.net
ウデヘだったと思うけど、狩猟の時や人目出る時にお面をつけて顔を隠したとか何かで読んだ気がするんだけど調べても出て来ない
大陸の書に出てくる「倭面土王」はお面してたんじゃないのかなって思うんだけど
過疎ってるね
178:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/08 18:07:33.51 VkzWRNPX.net
まとめ
北九州弥生人(伽耶語・倭語) ← 現代日本人のベース(平民)
土井ヶ浜弥生人(新羅語)
出雲人(新羅語)
西北九州弥生人(プロト琉球語) ← 奴隷
南九州弥生人(プロト琉球語・奄美等訳語) ← 奴隷
隼人・熊襲(プロト琉球語・奄美等訳語) ← 奴隷
蝦夷(夷語・プロトアイヌ語) ← 奴隷以下の非人・悪鬼
奈良飛鳥人(扶余系・百済語) ← 日本の支配層
179:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/08 20:05:55.83 B6cTh/av.net
アイヌを奴隷以下の非人と言ってるのはこいつらです
180:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/08 23:52:38.45 VkzWRNPX.net
倭の大乱(出雲と大和の戦い:178~184年)の際に、新羅は出雲の要請で味方した為め、大和朝廷の不信を買うこととなった、と云う説は説得力がある
181:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/09 01:17:21.66 YaPv1cwU.net
倭国大乱の歴史的意義として、卑弥呼を中心とした新たな政治体制が再編成されたことが挙げられる
近畿・中国地方などで2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっており、卑弥呼による新政治体制は文化面でも大きな影響を与えた可能性がある
182:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/09 05:42:38.90 YaPv1cwU.net
山陰における日朝関係史(I) 内藤正中(島根大学名誉教授)
doi: URLリンク(doi.org)
新羅からは、潮流に乗って船を漕ぎ出すと自然に出雲に着岸するわけで、韓国の学者も、古代に慶尚道 - 木出島 - 風島 - 欝陵島 - 隠岐 - 出雲というコースがあったことを指摘している。出雲神話は、対岸に位置する新羅との深いつながりがあったことを教えてくれるし、新羅の神話のなかでも、新羅人の倭への移住について語られている。
733年『出雲国風土記』には、記紀にはない国づくり神話が物語られている。八束水臣津野命が、出雲国は若国である、自分が大きな国にしてあげようといって、海の彼方の地から国引きをする。初めに国引きをしたのは、「栲衾志羅紀の三埼」であり、それでもって「去豆の折絶よりして、八穂米支豆支の御碕」をつくったという。新羅の余りを引いてきて出雲大杜が鎮座する杵築の地をつくったという説話は、新羅人による渡来を物語るものといってよい。
720年『日本書紀』では、須佐袁命が出雲に天降ったこと、そして韓鋤之剣で八俣大蛇を退治したことを記している。『日本書紀』には「一書によると」として、須佐袁命は五十猛命とともに新羅国に天降り、曾尸茂梨の地に住んでいたが、植土で舟をつくり海を渡って出雲に到ったとある。曾尸茂梨は、新羅の都であった慶州の地であるとされており、水野佑氏によると、八岐大蛇の説話についても、慶州盆地を流れる兄江流域の溪谷につくられていた六村にはじまる新羅の建国神話にもとづくとしている。
新羅からの渡来神を祀る神杜は、『延喜式』神名帳では134杜を数えるという。国別では出雲の11杜がもっとも多く、次いで近江の10杜、そして大和。伊勢・越前・能登の各8杜などである。いずれも朝鮮半島からの渡来人が多かったといわれる地域であるが、なかでも出雲が、渡来神を祀る神杜数で傑出していることは注目されなければならない。
722年には日本の進攻に備えて新羅の毛伐郡に新しい城が築かれ、731年には300艘の日本水軍が東海岸を襲撃して撃退されたことなどが、新羅の史料にはみられる。日本側の史料でも、732年には新羅の進攻に対処するためにという理由で、山陰・西海・東海・東山の四道に節度使が任命されたことなどが出ている。779年の公的な関係断絶に至るまで、新羅と日本の敵対関係は強められていったのである。
『出雲国風土記』が勘造された733年は、山陰遣節度使が中央政府によって任命された翌年であり、同書には新羅に対する緊張関係の姿が反映されているといわれている。他の風土記とは異なって、軍団の配備や水軍の基地などについて詳細な記述があるほか、新羅からの渡来神を祀る神杜も意図的に抹消されるなど、「新羅に近し」という地理的条件にある出雲の徴妙な立場がみられるのであった。
183:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/09 10:28:24.12 YaPv1cwU.net
「三国志」魏志東夷伝には、以下のように描かれている:
1) 高句麗は「東夷旧語以為夫余別種、言語諸事多与夫余同、其性気衣服有異」
(夫余族とは別種だが、言語、諸事で夫余と同じことが多い。性気や衣服には違いがある)とある。
2) 穢(わい)は「言語法俗、大抵与句麗同、衣服有異」
(言語、法、風俗は高句麗とほぼ同じであり、衣服には違いがある)とある。(「後漢書」高句麗条(445年以前)にもほぼ同様の記述が見られる。)
3) 沃沮(東沃沮)(よくそ)は「其言語与句麗大同、時時小異」
(言語は高句麗語とほぼ同じであるが、時折小さな違いがある)とある。(「後漢書」にもほぼ同様の記述が見られる。)
これら3点の記述から高句麗語、穢語、沃沮(東沃沮)語は一つの語群をなしていると考えていいだろう。
Beckwith(2002)は、高句麗祖語が中国の呉、越のあった地域から北上し、中国東北部に至ったとし、
中期朝鮮語やツングース諸言語とは全く異なる言語であり、古代日本語は高句麗語と同系の言語であるとしている。
高句麗の地名は、どの時期の言語をさすかは議論の余地がある。
三国史記地理志の巻35,37に表された地名は現代の京畿、江原、黄海の3道とそれに接する忠北、慶北、咸南の一部を含む地域であり、
本来ここは夫余系諸語を用いた穢、または夫余系の南下支流の百済が興ったところである。
184:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 00:17:32.19 5X5PMP8N.net
で、沃沮が沿海州だとしたら
全てがつながる
185:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 00:18:41.30 5X5PMP8N.net
沃沮は地形が特徴的、東北にいたるほど細くなり、その先にユーロウがある
西南にいくほど広がっていく、淡路島に近い地形
ほぼハバロフスクだろ
186:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 00:28:23.69 5X5PMP8N.net
北沃沮は山を背にして日本海側
冬は海が氷結するが夏になるとなくなるのでユーロうが船に乗って攻めてくる
その間じゅう北沃沮は山に逃れてやりすごす
東沃沮の中の川むこうには沃沮城があり、そこが滅ぼされ、第一玄兎郡が置かれた
第一玄兎は蒼海郡の地にあり、大きな海が関係するのがわかる
187:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 00:32:47.63 5X5PMP8N.net
蒼海郡(そうかいぐん)は、紀元前128年に漢の武帝が朝鮮北部から満州南部にかけて設置した
植民地である[1]。『漢書』武帝紀では蒼海郡、『漢書』食貨志では滄海郡と表記される。
衛氏朝鮮に服属していた?(?)の君主である南閭らが、衛氏朝鮮の衛右渠に叛いて、28万人
を率いて漢に投降したことがきっかけで、蒼海郡が設置されたが、2年後の紀元前126年に公孫弘
の建議により廃止された[2]。
蒼海郡の正確な場所は分かっていないが、現在の咸鏡南道・江原道など日本海に面した地域と
推定されている[3]。蒼海郡の設置は漢の朝鮮進出を促進し、紀元前108年に漢が衛氏朝鮮を
滅ぼし漢四郡を設置したことにつながる[4]。蒼海郡は漢四郡の1つである玄菟郡と深い関連がある。
188:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 01:01:46.48 5X5PMP8N.net
漢初 燕亡人衛満王朝鮮時 沃沮皆屬焉
漢武帝元封二年 伐朝鮮殺満孫右渠
分其地為四郡 以沃沮城為玄菟郡 後為
夷?所犯徒郡句麗西北 今所謂玄菟故府
是也
「漢の初期、燕の逃亡者、衛満が朝鮮で王になった時、沃沮はみな朝鮮に属した。漢の武帝の
元封二年、朝鮮を攻撃し、(衛)満の子孫の右渠を殺して、その地を分けて四郡となしたとき、
沃沮城を玄菟郡にした。後、周辺の民族(夷貊)が侵入して荒らしたため、郡は高句麗西北に
移った。今、玄菟故府というのがこれ(元玄菟郡)である。」
沃沮還屬樂浪 漢以土地廣遠在 單單大
領之東分置東部都尉 治不耐城別主領東
七縣 時沃沮亦皆為縣
「沃沮は(中国に)戻って、樂浪郡に属した。漢は樂浪の土地が広く遠いため、単単大領の東は
分けて東部都尉を置き、不耐城で統治して、(単単大)領東の七県を別に治めさせた。その時、
沃沮もまた、みな県になったのである。」
この「不耐城」てのはfu soで沃沮(本来はさんずい夫沮)だろうか
色々表記の揺れが重なってこうなったのか
これは沃沮城で本来の玄兎城ではないのか
だとしたら、日本海側の北沃沮の場所にあるんじゃないのか
189:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 01:05:24.38 5X5PMP8N.net
>後、周辺の民族(夷貊)が侵入して荒らしたため
これはユーロウ以外、周辺民族ってあるのだろうか
同族の扶余、高句麗が荒らすか?そうなら名指しされてないだろうか
公孫が「この場所に統治機関を置くのはやめておけ」に言ったのは
ロシアの日本海側ていうおかしな場所だったからではないのか
190:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 01:25:16.02 5X5PMP8N.net
北沃沮一名置溝婁 去南沃沮八百餘里 其俗南北皆同 與?yu婁接
?yu婁喜乗船寇鈔 北沃沮畏之 夏月恒在山?深穴中為守備 冬月
氷凍船道不通乃下居村落
「北沃沮は置溝婁(チコウロウ)ともいう。南沃沮を去ること八百余里。風俗は南北とも同じである。
北沃沮は?婁と接している。?婁は船に乗り略奪することを喜びとしており、北沃沮はこれを畏れて
いる。夏の間は常に山の嶮しく深い穴の中にいて守り備えている。冬は船の通り道が氷結し、航海が
不可能になるので、山を下り村落に住む。」
置溝婁(チコウロウ)は買溝婁(マイ・ガウ・ルー)の誤字だとされていて、
これは北沃沮がユーロウに滅ぼされた後、モツキツ→靺鞨(マッハル)になった可能性がある
ツングース習俗の民族が北沃沮の地名を民族名とした
何故か?その地域に居城があったからか?
191:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 01:27:42.32 5X5PMP8N.net
この溝婁は高句麗語のコル(城)と同語だろうと考える
192:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 22:36:01.66 0UbCBoSh.net
高句麗の遺民が、沿海州側に渤海国を建国したが、
その「渤海」とは、もともとは遼東半島の海域を指すものだ
失地回復を願ってそう名付けたんだろう
「日本」という国号も、似たようないきさつで誕生したんだろう
百済の遺民が故郷の半島を偲んでこの列島を日本と名付けた
193:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/11 02:57:18.86 w+e9dsr/.net
日本で最大の繁華街の心斎橋はもともと「新羅橋」と呼ばれてた
「百済橋」も「高句麗橋」も存在していた
そして日本で最初の勅願寺は枚方の「百済大寺」
渡来人が植民地にして発展したのが近畿だから当たり前の話
アメリカに「ボストン」や「ポーツマス」といったイギリス由来の地名があるのと同じ理由
194:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/11 06:52:14.45 w+e9dsr/.net
日本人の正体が公共放送でバラされた歴史的瞬間
篠田謙一「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」
URLリンク(i.imgur.com)
195:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/11 21:55:12.62 hZXF5tZD.net
>>189
渤海は満州
196:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/11 21:56:02.29 hZXF5tZD.net
渤海は漢民族を取り入れ漢語を取り入れ共通語とし、自らも漢人と呼ばれた
アイデンティティも消えてる
197:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 06:59:14.37 XdpEpxw0.net
ジャポニックの正体は扶余語族であり、縄文語は日本語にほとんど影響を与えておらず
日本人が縄文語というものを意識してしゃべるようになったのは、
漫画の『ゴールデンカムイ』が連載されてから。これがネタでもなんでもないのが悲しいところだ
列島新来のジャポニックにとって、列島先住の縄文語族(プレアイヌ)は征夷すべき異民族にしか過ぎなかった
198:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 16:38:31.15 hpzQrmHA.net
半島じゃないの理解したか?
沿海州だ
199:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 16:39:18.78 hpzQrmHA.net
それによれば、沿海州における新石器時代~青銅器時代の各遺跡文化層の堆積順序に
基づき、以下のようにまとめられる。ボイスマン最下層→ボイスマンⅡ・ザレチェⅠ(編目文・櫛
文が施されたもの)→ハンシⅠ・クロウノフカⅠ(縄線文)・亜布力→ボイスマンⅠ(縄線文)→
ザイサノフカⅠ・クロウノフカⅠ(ジグザグ文・雷文、ミガキ整形)の各段階である。また文化編年
は前期がルードナヤ文化・ボイスマン文化と後期のザイサノフカ文化とに分けられる。ハバロフス
ク州の同時期の詳細は不明であるが、文化編年は、アムール編目文土器の存在から前期は
ルードナヤ文化圏に含まれ、後期はヴォスネセノフカ文化(ヴォズネセノフカ上層)とすることがき
る。新石器時代土器の特徴的な体部文様として、前期-編目文・櫛目文、後期-櫛目文
・ジグザグ文・渦巻文・幾何学文・雷文が挙げられ、これらはアムール流域・沿海州ともにおお
むね一致することが指摘された。
青銅器(古鉄器)時代については、南西部と東海岸部の間の文化的差異が指摘され、南西
部-シニ・ガイ文化、東海岸部-リドフカー文化が紹介された。両者とも、土器には無文化の
傾向が見られ、青銅器を模倣したと考えられる石製品が出土するが、前者では骨角製品が多
く、土器の突出した口縁部には刻みが施される。また後者では、土偶・石鍬・石包丁が出土し
、土器胎土に粉砕された貝片が混和されるという違いから、両者は系統的に異なる可能性が
指摘されているという。初期鉄器時代にもこうした南西部と東海岸部の文化的差異が受け継
がれ、南西部のヤンコフスキー文化→クロウノフカ文化(団結文化)、東海岸部のウリル文化に
ついてもあわせて紹介された。ヤンコフスキー文化の土器には高坏が見られ、体部文様には鋸
歯文が多く、クロウノフカ文化では把手のついた土器が特徴的に見られる。両者とも鉄製品を
伴うが、石器も依然残存することから、金石併用時代として性格規定できることが指摘された
なお、その後の鉄器時代・中世にはいずれの地域もポリツェ、靺鞨、女真の各文化へと順に移行している。
後期新石器から初期鉄器時代への移行期に見られる外部からの文化要素の受容としては、
特に青銅器(古鉄器)時代と初期鉄器時代に稲作文化的要素の受容が考えられている。一
方福田氏は、土器に関してはその形態的特徴から在地のものが系統的な変遷をたどって変化
した可能性を指摘する。また極東地域、中国東北部、朝鮮半島北部地域の間に文化的境
界は見られず、これらの地域を統合した視野に基づく研究の必要性を強調している。また南西
部と東海岸部の地域差については、特に東海岸部の状況に不明な点が多く、今後の研究の
重要な課題であることが指摘された。
200:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 16:43:21.79 hpzQrmHA.net
URLリンク(21coe.kokugakuin.ac.jp)
>前者(沃沮、扶余系)では骨角製品が多く、土器の突出した口縁部には刻みが施される。
>また後者(ツングース、靺鞨)では、土偶・石鍬・石包丁が出土し、 土器胎土に粉砕された貝片 が
>混和されるという違いから、両者は系統的に異なる可能性が指摘されているという
骨角は牧畜を行っていた沃沮、土器の刻みは日本へ伝わり初期の弥生土器へ
土器に粉砕した貝殻が使われているのは、粛慎などの「東は大海をもって極まる」に一致
粛慎=ユーロウ=靺鞨(女真族)の東の果ては海だった
>クロウノフカ文化では把手のついた土器が特徴的に見られる。
北沃沮は海が凍結しない夏に粛慎から侵攻を受けていた
土器に保存した食物、内陸へ売るための海産物を移動させる必要がある
>また極東地域、中国東北部、朝鮮半島北部地域の間に文化的境
>界は見られず、これらの地域を統合した視野に基づく研究の必要性を強調している。
扶余、高句麗、沃沮は同系民族であって、文化的境界がない、というのも一致
201:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 16:50:34.42 hpzQrmHA.net
高句麗
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>407年にも百済へ侵攻して6城を奪い、続いて410年には東扶余(北沃沮)にも侵攻してその王都に迫った[38]。
>このような征服活動についての記録は前述の通り主に広開土王碑文の情報に基づいている。
沃沮には城があり、沃沮(フソ)城として知られていたが、漢民族に支配され第一玄兎城として利用される
(蒼海郡{日本海に面した場所か}→フソ城→玄兎郡)
しかしそれも数年に過ぎず、公孫氏が「この場所は適さない」と助言し、すぐに高句麗近くへ移動(第二玄兎城)
北沃沮はマイコウロウとも呼ばれ、その「溝婁」は高句麗語で「城」の意味
北沃沮は扶余に頼り、その後「東扶余」として残ったが高句麗がその場所にある「居城」を攻め落として滅亡
つまり沃沮城はウラジオストクあたり、もしくはその北の山を背にした日本海側にある!
202:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 17:01:35.04 hpzQrmHA.net
URLリンク(i.imgur.com)
史書のいち関係を見直さなければいけない
古代中国は思われているよりずっと広範囲の情報を得ていた
203:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 17:06:52.02 hpzQrmHA.net
しかしこの表記のぶれが気になる
扶余はもともと夫途(fu tho)に近い音だったんじゃないのか
故に東沃沮(fu so)なんてものが生まれて
その南に南沃沮があって、そっから北沃沮?
204:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 19:39:21.93 hpzQrmHA.net
民族の他称はその民族の「人」を表すことばか一人称になりやすいらしい
(アイヌやらフン族)
穢(我=わい?)
扶余(フト?)沃沮(フソ)
人、、、、ふと、、、、死人(しぶと)?
205:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 20:45:01.20 XdpEpxw0.net
最新の研究でわかってきたのは
ジャポニックを系統別に分けると、おおまか4つに分かれるってこと
・関東語 (無機質日本語)
・畿内・関西弁 ←百済人の方言
・出雲語・東北日本語 (ズーズー弁) ←新羅人の方言
・西北・南九州プレ琉球弥生語 ←隼人・肥前国土蜘蛛の方言
206:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 22:57:41.06 XdpEpxw0.net
Evenkはツングース語族では北部型に属す集団(fig. 2a)で、トランスバイカルと極東の2種類に大別され
トランスバイカルのほうは平均的な日本人・朝鮮人とは遺伝的にかけ離れている
極東Evenkのほうも特に近いというわけではない
PCA(fig. 4)で見ると、一口にツングース語族といっても遺伝的に幅があり、それに応じて顔つきや骨格などもバラつきがあると予想される
EvenkとEvenは西ユーラシア人にシフトしており、qpAdm方式の推定により西ユーラシアの系統を14~35%ほど有していることがわかる
言語学の研究ではアムール川流域がプロト・ツングース語族の原郷であると考えられているが
さらに考古学的な証拠を突き詰めると、沿海州南部のハンカ湖(Lake Khanka)周辺がより具体的な場所であることがわかった
東アジアの集団では、朝鮮の遺伝子プールが最もコンパクトかつ綺麗にまとまっており、
ネトウヨなどが理想とする「単一民族」は朝鮮民族が最も近いことになる
Figure 2. Diversity hotspot of the Tungusic languages under the north-south classification in (a) as compared with the hotspot under the Manchu-Tungusic classification in (b).
URLリンク(static.cambridge.org)
Figure 4. Principal component analysis projecting ancient Devil's Gate, Ustlda and Jomon samples onto the variation of present-day East Eurasians.
URLリンク(static.cambridge.org)
The homeland of Proto-Tungusic inferred from contemporary words and ancient genomes
doi: URLリンク(doi.org)
207:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 03:21:59.03 cCqQS9+q.net
「国号の由来」 喜田貞吉 1937年
URLリンク(www.aozora.gr.jp)
されば我が国を日の本と称し始めたことは、実は邦人自身ではなく、当初は朝鮮半島の住民が、その東方なる我が国を呼んだものであったに相違ない。日本紀引くところの百済本紀など、古代朝鮮の書に既に我が国を指して「日本」と書いた例がある。
朝鮮そのものも、また、実は支那から見て日の本であった。朝鮮の地誌なる東国輿地勝覧に朝鮮の名義を解して、「東表日出の地に居るが故に朝鮮と名付く」とある。漢の楊雄が、武帝の徳を頌したる賦に、「西圧二月※一??、東征二日域」とあるのも、西方には西域月氏の地を服し、東方には朝鮮日域の地を平らげたことを述べたもので、ここに「日域」とは朝鮮を目して日出処と呼んだのであった。
叙述するところを通観するに、我が国を日の本と称することは、つとに百済人らの間に始まり、我が国ではそれをヤマトの枕言葉として、「日の本のヤマト」なる熟語が用いらるるに至ったのであったが、推古天皇の国書には支那がクレすなわち日没処であり、また西方の国なるに対して、この日の本の義を表わすに「日出処」或いは「東」の文字を用い給い、ついで大化の改新に際してヤマトに当つるに始めてその枕言葉なる「日本」の文字を以てするの例が始まり文武天皇の御代大宝令の制定に至りて、初めて我が国号として、翌年遣唐使の入唐に際し、これを彼に通告したという順序となるのである。
支那を日没処と呼ぶことは、実はこの時に始まったものではなく、その由来はすこぶる久しいものであった。応神天皇以来交通した東晋以下、宋・斉・梁等の所謂南朝の諸国は、通じてこれを「クレ」と呼び、「呉」の字を当つる例で、今に至ってなお「呉」の字をクレと読む習慣になっているのである。当時これら南朝の諸国に当つるに「呉」の称を以てしたことは、これらの諸国が古え三国時代の呉国の域に当るが為めで、それはつとに百済人等の用いたところをそのままに襲用したに他ならぬ。
208:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 06:29:47.46 cCqQS9+q.net
The classification of the Japonic languages (Elisabeth M. de Boer)
[2020, The Oxford Guide to the Transeurasian Languages]
Figure 4. Japonic language family tree, with marking of tonal type
URLリンク(image.prntscr.com)
209:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 14:46:09.95 cCqQS9+q.net
喜田貞吉「我が国を日の本と称することは、邦人自身ではなく、百済人らの間に始まった」
210:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 22:10:04.78 iKzKJlZW.net
>>203
ハンカ湖とか、そんな下なわけないだろう
元々ネネツなんかと同じ生活スタイルをしてたんだよ
だから小便をためてそれで手や顔を洗うんだって
極寒の地域にいた民族
211:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 22:22:36.91 iKzKJlZW.net
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(imgur.com)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
韓国は南にいくほどC2(ツングース系)が多い?
本来の原住民はツングースだったのでは
212:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 22:38:56.97 cCqQS9+q.net
>>207
ネネツなんてツングース語族と何の関係もない
言語学では分岐が激しい地点が、その語族の故地だと考えられている
台湾がオーストロネシア語族の故地だと考えられてるのは、島内だけで20以上もの言語に分岐しているため
アウト・オブ・台湾モデルと呼ばれ、そこからオーストロネシア語族が太平洋諸島に拡大していった
このモデルをツングース語族に当てはめたところ、沿海州のアムール川で激しく分岐しており、
さらに考古学的証拠を突き詰めたところ、ハンカ湖が具体的なツングース語族の故地だと結論が下されたわけだ
213:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 22:47:35.97 iKzKJlZW.net
そら粛慎みたいな辺境から始まって(その時から山で居住するグループもあった)
靺鞨女真を経て広がった結果だ
それは語族とは言えないだろう
生活スタイルが北方
214:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 23:03:21.43 cCqQS9+q.net
>>210
言語族の拡大は農耕と密接に関係しているんだよ
これは日本も例外ではなく、やはり真っ先に水稲を取り入れた北九州弥生人が最も遺伝的に繁栄している
沿海州のハンカ湖は比較的温暖で、新石器時代の農業の北端に近い領域であったため
この地域に居住していたツングース語族が最も繁栄したわけだ
ニヴフなどの古アムール語族は、農耕化の波に出遅れたため、勢力を伸ばせず消滅していった
といっても、いまではツングース語族もロシアの同化政策により消滅の危機にあるのだが
215:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 00:39:31.38 izdkxbZJ.net
ロシアは同化政策なんかしないだろ
同化政策やるのはアイヌでやってる日本みたいな民族
216:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 00:44:13.73 izdkxbZJ.net
>>211
農耕化なんてしてないだろ
ツングース、粛慎は周の時代に中国へ朝貢を行ったが
その後沃沮、ワイ族が対等してきてそれが途絶え、
また中国がそれらを攻撃して服属させてから朝貢した
つまり、ハバロフスクには元々ツングースが住んでいたかもしれないが
それがO1b集団(農耕民)に押し出されて、東の果て、海のある場所にまでおしやられた
それが中国の支配下に入って、また史書に名前が出るようになった
217:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 00:47:53.64 izdkxbZJ.net
>>197
>また後者(ツングース、靺鞨)では、土偶・石鍬・石包丁が出土し、 土器胎土に粉砕された貝片 が
>混和されるという違いから、両者は系統的に異なる可能性が指摘されているという
ロシアの考古学ではハバロフスクの東の果てでは文化が違い、土器に貝殻の破片を混ぜて作る製法が行われていた
貝殻を入れるには海が必要
つまり東の果ての大海を望む粛慎がそれに一致する
ハバロフスクの東南の部分と思うかもしれないが
粛慎と同じく「北沃沮」も東は大海に極まると書かれていて、この2つは両立しないといけない
218:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 02:22:14.25 7gOx81k7.net
>>213
おまえの脳内で自己完結した妄想史を語られてもな
現実には、1900BC頃となるBogolyubovka遺跡で雑穀栽培と農耕具が確認されているから
この頃にはすでにハンカ湖周辺のツングース語族は農耕化している
どうやら沿海州でZaisanovka文化が成立する頃に、
遼西から雑穀・紡錘車などの一連の農耕民族パッケージが伝播したようだ
URLリンク(image.prntscr.com)
219:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 02:27:56.98 7gOx81k7.net
>>212
ツングースはロシア人と混ざって半白人化してる
というかシベリア一帯そうだが
220:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 21:14:31.08 izdkxbZJ.net
>>216
それは元からだろ
で日本以上に民族浄化してるのか?
221:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 21:16:52.28 izdkxbZJ.net
>>215
じゃあなんで日本にツングースの痕跡、YDNAがほとんどないんだ?
取るに足らない人口しかなかった証明だろ
222:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 23:48:19.97 7gOx81k7.net
ロシア極東における農耕の最古の証拠は、後期新石器時代となるKrounovka遺跡から発見された。
沿海州における農耕の開始時期は、当初は青銅器時代と思われていたが、のちに後期新石器時代に再設定された。
韓国でも同時期に農耕が始まっており、後期新石器時代に満州から人類の移動があったと推定される。
Fig. 1. The earliest sites with evidence of agriculture in Primorye Province:
URLリンク(image.prntscr.com)
223:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 23:59:08.68 7gOx81k7.net
C2のオリジナルの狩猟採集民の言語は、ニヴフの古アムール語であった可能性がある
ハンカ湖のあたりで勢力拡大したツングース語族が、古アムール語を取り込み、言語を塗り替えていった
このツングース言語がC2から内部発生したものなのか、O系統が齎したものなのかは定かではない
224:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/15 00:20:05.51 CgSN8EO1.net
O1bが扶余語族として日本語になったと考えた場合
そこにツングースの影響は皆無になる
日本には韓国ほど�
225:ノもC2は存在しない
226:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/15 04:53:45.43 M6ozf8H/.net
土井ヶ浜遺跡の砂丘から300体人骨が発掘されているが、全て響灘に顔を向けて眠っている。
頭蓋だけが集骨されている区域でもこの原則は破られていない。
土井ヶ浜人骨(人類学ミュージアム)
URLリンク(geolog.mydns.jp)
土井ヶ浜人の視線の向こうには水田稲作伝播の最有力ルート、南朝鮮から山東半島がある。
URLリンク(geolog.mydns.jp)
227:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/15 06:05:32.40 M6ozf8H/.net
出雲弁の文末語にはハングルの文末語にそっくりなものが多い。
「いつ来たかや→~コヤ」 「行くけんね→~ケンネ」 「蝶がとんじょう→~ジョ」 「当然だじ→~ジ」
「おいしいがな→~グナ」 「忙しいがや→~ゴヤ」 「金がないじょ→~ジヨ」 「暇がないだ→~ダ」
「さっき来たに→~トニ」 「結婚しただに→~ダニ」 「信じちょう→~チョ」 「若いすぎるけん→~クン」
「病気になあよ→~ナヨ」 「晴れてるけんよ→~クンヨ」
出雲弁は発音もハングルに似ている。
図書館<トソクァン> → トソクァン 医大<ウィダエ> → ウィダエ 勤務<クィンム> → クィンム
過去<クァコ> → クァコ 関係<クァンケェ> → クァンケ 大家<タェクァ> → タェカ
計算<ケェサン> → ケサン 宿舎<スクサ> → スクサ 近視<クィンシ> → クンシ
修理<スゥリ> → スリ 焼却<ソゥカク> → ソカク 感謝<カンサ> → カムサ
台数<ダエスゥ> → ダエス 内科<ナエクァ> → ナエクァ 謝礼<サレェ> → サレ
朝鮮では標準語として使われているものが、出雲では方言であるというのは不思議である。
いわゆる「ずうずう弁」なるものが、出雲・日本海沿岸に存在するということは、対岸の朝鮮から伝播したと考えられる。
岩見弁では「行くけえ」「あげるけえ」「がんばるけえ」などと語末に「~けえ」をつけるが、これは朝鮮人が「~ケエ」と言うのに似ている。
山口・広島では「止めようじゃ」「雨が降るじゃ」「すぐ直るじゃ」のように文末に「~じゃ」をつけるが、朝鮮語でも「~ジャ」と言う。
これらの言葉が、朝鮮語では標準語で使われているのは何故であろうか。
228:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/15 13:25:40.63 IsT0/Nnl.net
>>223
出雲のズーズー弁は松本清張の小説に出てたね
229:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/15 23:41:03.02 CgSN8EO1.net
>>223
ツングース由来はないのか?
230:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/16 18:10:23.10 k5X+auRh.net
小学生でもわかる『ヤマト民族』の形成史 かんたん解説
URLリンク(www.gondo.com)
半島南部から北九州弥生人(扶余系・朝鮮人)、土井ヶ浜弥生人(韓系・朝鮮人)が侵入
西北・南九州弥生人(プレ琉球人)を奄美・沖縄に押しやり、倭国大乱(北九州王朝と出雲王朝の争い)を経てヤマト民族が誕生
さらに東征し、東日本の蝦夷(プレアイヌ)をジェノサイドし、百済の王朝を奈良(那羅)にコピペして完成
231:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/17 02:05:50.02 B8F+xl3V.net
BC10世紀に扶余系がどうやってきたかを考える必要がある
沿海州ならつじつまがあうんだよ
232:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/17 10:26:29.43 YEs8llP/.net
水野祐氏は、『豊後国風土記』や『肥前国風土記』にみられる土蜘妹は九州の海岸一帯に生活の基盤を持っていた海人集団、つまり漁撈民集団だったと説いている。さらに、土蜘蛛伝承の本体は九州にあり、それがある時期に大和へ伝播して潤色された結果、異族視されるような物語へと発展したと考えている。すなわち、土蜘蛛とは九州地方の漁撈民に与えられた名であるが、その名が大和へ伝わり、非実在的な反逆者として扱われるようになったと結論づけているのである。
233:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/17 20:11:12.97 B8F+xl3V.net
海女、潜水漁法やるために入れ墨入れてたと言われてるのに
なんで山に住んでる集団が海の集団になるんだ
234:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/18 03:02:45.62 HhWHOhY9.net
核ゲノム解析により、アイヌは日本列島の先住民で確定したが、琉球民族はどうも事情が異なる
琉球民族は、おおよそ朝鮮人70%・縄文人30%のADMIXTURE系統比でモデル化され、その原郷は西北・南九州にあるとおもわれる
北九州・半島南部で新たに誕生したヤマト民族(朝鮮人90%・縄文人10%の系統比)に勢力で押される形で
奄美・沖縄へと南下し、農耕・水稲パッケージを取り入れ、グスク時代にいまの琉球民族のベースが形成されたとおもわれる
隼人はプレ琉球人の可能性があり、720年に南九州で「隼人の反乱」が起こっているが、琉球民族の形成と何か関係があるかもしれない
同時期に編纂された「肥前国風土記」によると、土蜘蛛の容貌は隼人に似るとあり、これらの九州の風土記もプレ琉球人の実態を知るための手がかりとなる
235:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/18 05:18:00.62 WEQ4KDBu.net
【ウーマン村本】「原発処理水に関して科学を信じろという人はDNA検査をして自分が何人か調べてもらい、それを名札に貼って街を歩こう」
スレリンク(mnewsplus板)
「原発の処理水に対して科学を信じろ、という人たちは、科学が正しいなら、DNA検査をして自分が本当はなに人か調べて貰えばいい。韓国朝鮮かも。みんなで一度、その科学を信じて自分がなに人なのか調べよう。そしてそれを名札で貼って街を歩こう」
236:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/18 13:40:41.89 HhWHOhY9.net
Japono-Koreanic祖語からは海に関する語彙が再構成でき、Robbeets (2017b) は、Japono-Koreanic祖語が渤海沿岸や遼東半島で話されていたと提唱した。
pJK *p?n? ‘boat’
pJK *poko ‘swellfish,Takifugu chinensis’
pJK *keni ‘crab Portunus trituberculatus’
ツングース祖語では、このような海に関する語彙の復元は不可能である。さらに、プロト・ツングースは、「(海からの)暖かい風」や「クジラ」などの海に関する語彙を、ニヴフ言語の祖先から借りていた。このことから、ツングースは西遼河から沿海州の沿岸部に到達し、そこで祖型のニヴフ語を話す先住民と接触し、海に関する語彙に親しむようになったと考えられる。
人類集団が言語・文化を伴って新しい地域に移動した場合、現地民が自分の言語を捨てて、新しく入ってきた目標言語を使うというシフトが頻繁に見られる。放棄された言語が、目標言語に何らかの痕跡を残すことがある。一方、文化拡散の場合は、現地民は自分の言語を維持しつつ、モデル言語から特定の単語を借用することが多い。
プロト・ニヴフを沿海州の沿岸部集団と関連付け、プロト・ツングースを3500 BCEに中国東北部から雑穀を持ち込んだ農耕集団と関連付けた。海に関する借用語を除いて、プロト・ツングースがプロト・ニブフから借用した単語はほとんどない。それとは対照的に、プロト・ニヴフ基層言語がプロト・ツングースに干渉していることを示す証拠がいくつかある。これらの観察は、プロト・ニヴフの集団の一部が自分たちの言語を捨てて、プロト・ツングース語を採用したという言語転換を示唆している。したがって、言語学の知見からは、文化拡散よりも人類の移動が支持される。
考古学的な証拠は、紀元前4千年紀の半ば頃に、中国東北部から沿海州に雑穀栽培が伝わったことを示している。この伝播は、同時代の東アジアにおける農業の広範な拡大の一部と考えられる。言語学的な証拠は考古学的な記録と一致しており、ツングース祖語を話す雑穀農耕民が西遼河から内陸ルートで沿海州に到達したことを示唆している。
沿海州の狩猟採集民と農耕民の間に観察された遺伝的連続性は、2つの類似した遺伝的プロファイルの混血を排除するものではなく、5000 BCE以前に遼河から沿海州にかけての地域一帯を、アムール的な遺伝子プールが覆っていたという Ning (2018a,2018b) の結論と一致する。
Fig.7.Language dispersals associated with millet farming in Neolithic Northeast Asia. Map by M. O’Reilly, MPI-SHH
URLリンク(ars.els-cdn.com)
Millet agriculture dispersed from Northeast China to the Russian Far East: Integrating archaeology, genetics, and linguistics
doi: URLリンク(doi.org)
237:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/18 23:39:43.79 0bm1NeT6.net
むしろその農業を伝えたのがO1bで
ツングースは殷王朝の時代に中原と関係が途絶えた
それが周の時代に周が東夷を支配するようになると粛慎が歴史に現れるようになる
BC1500年前あたり~・・O1bが沿海州を侵略、ツングースをレイプ
BC1000あたり・・・・・・山東半島、半島などに稲作、日本にも稲作、東夷を周が支配し礼儀を伝える、粛慎と関係が回復
だから最終的に女真族にほろぼされるのは因果応報だったのかも
238:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/19 00:01:47.06 8f+eqDry.net
Yhap C2の狩猟採集民の言語は、Tungusicではなく、Amuric(ニヴフ語)であった可能性がある
一般的にツングース語族やモンゴル語族というとC2のイメージがあるが、
彼らの言語がC2から内部発生したものなのか、O系統が齎したものなのかは定かではない
3500 BC頃、ツングース語族が西遼河から沿海州に移動して雑穀農耕を持ち込み、
ハンカ湖を拠点にして人口を増大させ、Zaisanovka文化複合体が出現する
アムール川の集団を取り込んで在来の言語を塗り替えていったため、最終的にニヴフ語が孤立化した
つまりツングース語族は日本語・朝鮮語族と祖を共有する農耕集団であった
239:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/19 00:58:27.46 fso3S4J1.net
ないない
孤立言語を無理やりあわせないように
240:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/19 00:59:40.55 fso3S4J1.net
ツングースが渡来してるなら
日本にハプロC2がもっといるはずだろ?
全くいない、そしてツングース語もまったく痕跡がない
いきなり突然あらわれたO1bが、そのまま沿海州から海渡ってきて、そんで亀ヶ岡が渡来第一波
241:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/19 01:02:31.45 8f+eqDry.net
>>235
>>236
北東アジアにおける農耕の源流は南満州(初期・新石器時代)にあり、
c.7500-6500 BP (c.6200-5100calBC) 頃からすでに雑穀が栽培されていた。
沿海州では、雑穀栽培の登場は、Zaisanovka文化複合体の文脈において、
後期・新石器時代のc.4700-4600 BP (c.3600-3400calBC) に位置づけられる。
韓国でも同時期に農耕が始まっており、南満州から人類の移動があったと推定される。
先史時代の沿海州の発展は、ローカル・プロセスと北東アジアの近隣地域からの影響が組み合わさったものであった。
Fig. 1. The earliest sites with evidence of agriculture in Primorye Province:
URLリンク(image.prntscr.com)
The beginnings of prehistoric agriculture in the Russian Far East: Current evidence and concepts
doi: URLリンク(doi.org)
242:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/19 13:29:05.43 Ei+xYCkD.net
>>226
西北・南九州弥生人の遺伝子は今の長崎や鹿児島にも残ってる。
決して沖縄に追い出されたわけではないし、五島列島人も西北九州弥生人の特徴が強い。
長崎弁や鹿児島弁の二型アクセントは西北・南九州弥生人の名残と言われる。
243:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/19 15:23:37.56 Qs8i+U8n.net
>>236
C2相当数いると思うが
なんでも韓国人と比較するから少なく思うんじゃね
244:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/20 00:59:55.88 TM/zTuDY.net
>>239
URLリンク(blog.goo.ne.jp)
沖縄とかになるとほとんどいなくなる
C1aはいる
245:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/20 14:24:29.52 /xmgizkM.net
そりゃ本土がツングースってことだろ
URLリンク(i.imgur.com)
沖縄にも悪魔の門洞窟と同じL1373までいるがな
246:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/20 18:49:57.73 G39lX6Sb.net
小保方「STAP細胞はありまーす」
ジャップ「神武天皇は実在しまーす」
なにが違うのこれ?
247:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/20 21:57:19.21 TM/zTuDY.net
>>241
そら琉球を日本にしてから渡った日本人も当然いるだろ
それにしてもC1aの率が高すぎないか?
一番高いのが四国の山奥なのが関係してるのか
248:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/21 06:38:05.66 SZo+8JiA.net
>>243
意味不明
沖縄C2は近年の移住だって言いたいの?
小橋川っていう沖縄由来の日系人からC2出てるけど
249:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/21 22:44:30.50 0NHyr8Nf.net
沖縄は島ごとのYDNA調査ないのか
それの比較できればすぐわかりそうだが
変な作為入れる人間がいるかな
ここのムムンみたいなのが調査すると自分に有利になるように捏造する
そういうタイプ
250:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/22 04:05:44.68 NmFrXq2Y.net
>>245
沖縄人は、西北・南九州弥生人(隼人・肥前国土蜘蛛)の末裔で、学術的に決着しつつある
>琉球民族のゲノムは華南・マレー系などの影響はほとんどなく、日本人ゲノムクラスターの延長にきます。
>平均的な琉球人の持っている全ゲノムのうち、縄文人由来の割合が25~30%程度であるという。
>全ゲノム研究によると、本土日本人の影響を強く受けており、華南とはかなり遠いと判明した。
>さらに言うと、華北の影響を受けているが、これは本土から南下した弥生人がもたらしたものである。
>沖縄には国内最古級の旧石器時代の遺構は多数あるものの、縄文時代の遺跡が殆どなく、空白の時代であるため、
>比較的新しい時代に本土から縄文系の集団(特に西北九州や南九州弥生人)が南下してきて、
>縄文人由来の遺伝子が陸封され、現在の琉球民族を形成したと考えられる。
>喜界島城久遺跡などの考古学的知見や琉球祖語の拡散年代を鑑みるに、
>琉球民族の祖先は九州から南下してきた縄文遺伝子の強い人々(琉球弥生人)でほぼ間違い無いです。
>彼らは平安時代前期(9世紀ごろ)に九州辺境にいた農民や武士であり、
>華南や台湾先住民との遺伝的関係はほとんどないと思われます。
>西北九州弥生人は水稲を行わず、海上交易と沿岸漁労のみの生活を行なっていたので、
>南西諸島には稲作は伝えられず、結果として南西諸島への水稲到達は本土のおよそ10世紀以上も後になります。
>(日本の中では水稲を行う気候条件に最も恵まれているにも関わらず)
>琉球弥生人は、この西北九州弥生人が定住したものの末裔であると考えられます。
>日本本土では古墳時代半ばごろに突如として南海産貝輪の流通がストップするので、
>この時期に西北九州弥生人が南西諸島に定住し始めたのだと思われます。
>琉球祖語は、日琉祖語から奈良時代以前に分岐したとの説が有力である。
>トマ・ペラールは、琉球祖語の保存された音素から弥生時代末期から古墳時代に分岐したのではないかとしている。
>九州に9~11世紀まで在地しながら日本語と接触し強い影響を受けた後、
>琉球列島へグスク文化の一要素として移民によって伝播した、としている。
■ 頭骨比較 弥生時代の地域差 南九州/西北九州/北部九州・土井ヶ浜
URLリンク(image.prntscr.com)
■ PCA 西北九州弥生人の位置が、現代沖縄クラスターと大体同じ (Jinam et al 2012)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
251:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/22 04:07:44.77 NmFrXq2Y.net
このお話をすると長くなるのですが、琉球というのは基本的にはグスクの時代に大量に人口が増えますので、恐らくそのときの影響が一番今の琉球の人たちにとって大きいと思われます。
つまり、日本列島というのは、いつ農耕を受容するかで、集団の姿形、形態が決まってくると考えておりまして、そのような意味では、最後まで農耕を基本的には受容しなかった北海道とは歴史が違っているのではないか、と考えます。
252:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/22 14:39:19.89 hIZi8AJx.net
アイヌって白人なの?
253:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/23 01:03:57.56 xTzYfMi2.net
>>246
10世紀の第一波が琉球人を作ったが
それは本丸というより土台
その後で倭人の支配うけて入れ替わったんだから
島ごとのDNA列挙するほうがわかりやすい
254:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/23 01:58:39.32 r5oLqN6w.net
>>245
C2なら在日とか考えてる人間じゃないだろうな
255:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/23 07:37:39.26 rgfXQejq.net
>>249
倭人(北九州・土井ヶ浜型)の支配を受けて、入れ替わったのは南九州まで
沖縄は西北九州型がグスク時代にベースを形成してから今日まで大きな遺伝的変化はないと思われる
言語学者が提唱している「農耕/言語 同時拡散仮説(Farming/Language Dispersal Hypothesis)」は妥当なものと思われる
農耕を最初に取り入れたグループによって、その集団の遺伝子プールは決まり、このモデルはとくに日本と沖縄に当てはまる
日本で最初に農耕化(水稲・雑穀)したのが北九州型で、沖縄で最初に農耕化したのが西北九州型であったんだろう
256:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/23 07:40:59.24 rgfXQejq.net
奄美は、先月公開された論文だと、「本土日本人と沖縄人の中間ポジションに来る」と報告されている
>We found that the Amami islanders showed genetically intermediate position between mainland Japan and Okinawa in mtDNA and Y-STR.
Genetic lineage of the Amami islanders inferred from classical genetic markers
doi: URLリンク(doi.org)
Posted April 19, 2021.
257:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/23 19:22:44.87 xTzYfMi2.net
>>251
本島とその他で全然顔立ち違うと言われるのに
琉球侵攻のが影響大きいだろ
258:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/26 08:43:35.13 oFukeo/T.net
A Brief Introduction to Hypothetical Peninsular (Para-)Japonic Languages
URLリンク(www.youtube.com)
259:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/26 10:13:20.24 oFukeo/T.net
Spread of agriculture (rice and millet)
URLリンク(image.prntscr.com)
260:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/26 12:01:54.32 oFukeo/T.net
北東アジアにおける農耕(雑穀)の起源は遼西(紅山文化)にあり、およそ3500BCに沿海州のハンカ湖、北朝鮮へと同時期に拡散する
農耕を受容したツングース語族が、農耕による人口増で、沿海州に在地していたAmuric(ニヴフ語族)を征服し
それら狩猟採取民の原始言語を塗り替え、最終的にニヴフ語だけが孤立化することになる
稲・雑穀の複合栽培の起源は、山東半島にあり、この農業パッケージはやがて遼東・韓国・日本へと拡散する
支石墓(ドルメン)の分布とも密接に関連しており、このものたちは日流祖語か朝鮮祖語を話していた可能性が高い
考古学的に実証された中国最古の王朝(1600BC - 1046BC)の「殷」に山東半島は含まれておらず、
東夷(Dong-yi)と呼ばれた過去がある。ならば、この時代までは山東半島で日流祖語か朝鮮祖語が話されていたのだろう
ドルメン(支石墓)のエリア
URLリンク(4.bp.blogspot.com)
Language dispersals associated with millet farming in Neolithic Northeast Asia.
URLリンク(ars.els-cdn.com)
261:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/27 16:08:44.37 GKmMVV/3.net
司馬遼太郎
「韓国への想いのたけというのが深すぎて、ひとことでは言いにくかったのである。私は、日本人の祖先の国にゆくのだと、ということを言おうと思った。」
「飛鳥文化は百済文化をぬきにして語れない。王朝文化は百済と同じ。ほとんど百済ぐるみが日本にひっこしたのではないかという想像が『日本書紀』の記述によって可能だ。白鳳期といわれる芸術時代が花をひらくのも、亡命百済人たちが日本の宮廷に収容されたことをはずしては考えられない。」
「日本の奈良朝以前の文化は、 百済人と新羅人の力によるどころが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や、近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない。盆踊りは朝鮮の野踊りからきたものではないか。平安時代には野踊りが盛んであった。」
「百済は北朝にたよらず、もっぱら揚子江以南の南朝にたより、その文化的影響を濃厚にうけた。その百済の影響を飛鳥期の日本がうけるため -- つまりは江南の六朝の文化がはるか極東の島へ飛び渡って -- 飛鳥文化の華をひらくというふしぎな作用をもたらすのである。百済が、南朝 (六朝) の文化を模條したことが、この国の性格と運命を決定したといえるであろう。」
「壱岐には、唐人 -- 漂流朝鮮人であろう -- を祀った古趾が多い。海のむこうから来た客人を神に近いものとして崇敬する民俗が西日本の島々や海浜にあった。対馬・壱岐が、朝鮮からやってきた鹿卜の受け皿になっていたことは、まぎれもない。この時期の対馬・壱岐というのは、本土に対してもっとも華やかな位置を占めた時代であった。」
「卜占という古代における一種の科学を含んだ日本神道は、壱岐・対馬からはじまっているのである。対馬の道を往きつつ右のように考えてくると、日本の神道が決して日本列島固有のものではなかったということがわかる。神道というものの原型が、 朝鮮からきたか、 表現を変えれば共通の時期があったと想像することは、 想像という言葉が大げさなほどに自然なことである。」
「稲作の伝来に関して想像すると、たしかに中国南部からもきたであろう。しかし主として朝鮮半島を経由してきたという説はうごかしがたい。三世紀の対馬の卑狗も、四世紀後半から五世紀の人と思われる鶏知の前方後円墳のぬしも、朝鮮半島や博多湾沿岸のひとびととおなじ型の米を食っていたであろう。」
「朝鮮は水がなすくない上に、しばしば大きなひでりがあり、そういう年の冬には、「対岸へいこう」という連中が多かったであろう。 日本列島は幸いにも初夏に梅雨があり、初秋に台風があって、耕作のための水に不自由しない。われわれ日本人の血に朝鮮半島通過の血液がまじるのは、日本の水がそれを呼び、この海域を吹く風がそれを運んできたものにちがいない。」
「日本側にとって朝鮮侵略は国内を疲弊させただけでなんのもたらすところもなかった。ただ室町期からつづいた茶の美術の隆盛期にこの侵寇戦争は起こっている。朝鮮の民衆が用いるめし茶碗や雑器が、海をわたって日本の美意識の中に入りこむと、美学という人類が持った最高の錯覚に照射されて宝石以上のかがやきを持った。」
「鎖国体制下にあって、長崎が唯一の開港場であったことは、世界に知られている。ところが佐須奈もそうであったことは知られておらず、日本史の教科書も黙殺している。対馬宗氏は、李氏朝鮮国に寄生していたといっていい。」
「さらに朝鮮から貿易米で食っている者が七千人。計一万四千人。要するに朝鮮からの貿易米で七千人が食っているのである。何度もいうが、 韓国にとってはこれはあくまで恩恵であって、得になることではなかった。」
「いまの高知市にもその町名が残っているが、城下の鏡川の北岸に唐人町というのがあり、秀吉の朝鮮侵略のときに連れて帰った唐人に屋敷地をあたえて住ませたという。かれらに豆腐の専売権をあたえて他の者にはやらせなかったというから、高知の豆腐はひょっとするとこの系列が相当ながくつづいたかもしれない。」
「自分を日本人と規定するより倭人と規定するほうが、ずっと自分がひろがってゆく感じがする。」
262:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/27 21:51:17.31 jhUpiGFG.net
百済が日本語とか本気で言ってるのか?
魏志倭人伝は日本語地名ではないと?
263:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/01 20:03:56.87 TKUwYDfF.net
電話もラジオも無い時代にこの列島を統治するなんて馬賊でないと無理
この列島で馬に乗って駆けずり回ってる奴というのは半島から来た馬賊だ
日本に神社を広めた秦氏は高句麗の騎馬民族だ
そしてその秦氏から天皇が出ているとされる
これで間違いないだろう
だから馬賊の渡来人が来る前には天皇なんて居なかった
仮にいたとすると、その天皇一派は徒歩で何してたん?という話になってくる
毎日50kmくらい歩いて村人に「おいら天皇だ、飯食わせてくれ」と言って支配ができるか
そもそも言葉が通じないぞ
日本各地で言葉を通じさせようと試みたのは江戸時代から
264:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/01 21:57:41.92 hPYpNIok.net
馬は百済由来かもしれないな
馬(ma)という漢語がそのまま使われてるのを見ても
百済は漢語をそのまま使っていたから
265:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/02 04:35:54.03 jhNkOa3a.net
後期更新世から完新世までのアジア東部北方の人口史に関する研究(Mao et al., 2021)が公表されました。
この研究はオンライン版での先行公開となります。
URLリンク(sicambre.at.webry.info)
266:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/02 17:36:45.41 jhNkOa3a.net
弥生人は複数の言語集団であった
彼らはおもに3つに分かれる
扶余系(ヤマトタケル)、韓系(イズモタケル)、プレ琉球系(クマソタケル)
267:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/03 17:14:45.47 mHbKSGjs.net
長州藩の高杉晋作は、奇兵隊に部落・被差別民が入り込んでいるのを知ると、容赦なく殺したらしいな
長州藩(山口県)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
司馬遼太郎
>山口県というのは日本では朝鮮の血液的影響をもっとも多く受けたものの一つですから、
>それももう古代じゃなくて、ごく近代にいたるまで受けつづけてきたところですから。
>そういうことがあって、長州的思考法というのは、ぼくなんかは朝鮮人的なタイプだと思うんです。
268:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/03 17:15:07.55 mHbKSGjs.net
江戸時代の身分による骨格の違い
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
269:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/04 18:18:16.18 Uj5vJmB8.net
蘇我蝦夷(ソガノエミシ)はもともと蘇我愛瀰詩であったんだろう
蔑称である蝦夷をそのまま名前に使っていたとは考えづらい
蘇我蝦夷が生まれたのが586年、「蝦夷」がはじめて歴史書(新唐書)に登場するのが663年
この間に「愛瀰詩」から「蝦夷」に変わったと推測できる
270:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/04 23:10:55.95 DoymIt9q.net
もともと蘇我毛人
271:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/05 01:15:03.24 KsrXVc4W.net
初期現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散に関する研究(Vallini et al., 2021)が公表されました。
URLリンク(sicambre.at.webry.info)
272:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/05 21:34:12.13 KsrXVc4W.net
弥生時代の日本語で会話 [from Pre-Proto-Japonic to Modern Japanese]
URLリンク(www.youtube.com)
273:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/06 10:58:16.48 seOlS6Np.net
文書行政の輸入や中国の政治制度の輸入は、果たして中国直輸入だったのかということを考えると、たぶんそうではないだろうと思われます。私が特に強調してお話したいのは、常に中国大陸と日本列島との間に朝鮮半島が介在していて、それが非常に重要であるということです。なにしろ、朝鮮半島と日本列島は一衣帯水です。そういう状況を考えると、朝鮮半島との交流が継続的な本流としてあり、常に影響があっただろうと思われます。
例えば、日本の8世紀の資料である『古事記』や『日本書紀』には、「応神天皇の時代(5世紀)に百済から王仁(わに)という人が『論語』と『千字文』を持参した」と書かれています。これが日本での漢字の始まりという説話になっているわけです。あるいは朝鮮半島では、12世紀の『三国史記』、13世紀の『三国遺事』という歴史の本がありますが、その『三国史記』には、「428年に百済が倭の国に対して50人の使いを派遣した」という記事が出てきます。このような記事からも、日本と朝鮮半島は常に交流があることが分かり、朝鮮半島の影響は濃いと思われます。
274:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/06 11:18:07.56 seOlS6Np.net
中国語は動詞や形容詞が活用しません。朝鮮半島の言語の活用語尾が漢字では書けないので、それをどう書くかというために作られたのが、「吏読(りとう)」です。この方法は、漢字の音読みを使って朝鮮半島の言語の発音を書くというやり方で、名前が「官吏」の「読」と書いてあるように、役人たちが文書行政で行った用字法の1つです。『三国史記』や『三国遺事』には、新羅の時代に、この方法で固有名詞を書いた記録がたくさん載っています。これが日本に伝えられて万葉仮名のお手本になり、そしてさらには仮名になっていきます。
さらに、朝鮮半島では漢字の訓読みも行われていました。しかし、朝鮮半島では後々無くなっていきます。高麗時代にハングルが発明されますが、そのあたりを境目にして、朝鮮半島の言語はハングルで書き、漢字で書く言葉は全部音読みをして、漢語としてしか使わないように朝鮮半島ではなっていくのです。一方日本では、漢字を音で読むだけではなくて、訓でも読み、そして自分の国の単語に当てはめて読むという読み方を朝鮮半島から学び、それが定着するのです。
275:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/06 22:32:16.81 KZa/EFWW.net
ここから「魏志倭人伝」を読んでいきます
テキストは百衲本です
原文と読み下し文、その後に疑問点を述べます
・倭人在帶方東南大海之中 依山?為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
・倭人は帯方東南、大海の中に在り 山島に依り国邑を為す 旧百余国 漢の時、朝見する者有り 今、使訳通ずる所は三十国
疑問① 帯方郡はどこにあったか 帯方郡は204年から313年の109年間、
中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点ですが
その比定地は諸説あります 帯方郡を邪馬台国への行程の起点と考えれば
このことは重要です
疑問② 「漢時有朝見者」これは西暦107年に後漢に朝貢した帥升のことか
疑問③ 倭人はもと100余の国に分かれていたのが、今使訳通ずるところが30国であるのはなぜか
疑問④ 「今使譯所通三十國」の「今」とはいつのことか
276:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/06 22:32:56.28 KZa/EFWW.net
第2節にいきます
・從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
・郡より倭に至るは 海岸に循いて水行し 韓国を歴て 乍南乍東 その北岸狗邪韓国に到る 七千余里
疑問① 「循海岸水行」の水行とはどういう意味か、渡海とどう違うのか
疑問② 韓国とはどこのことか 魏志韓伝には「韓は帯方の南にあり」とあるので
朝鮮半島の帯方郡以南をまとめて韓国と呼んでいたのか
疑問③ 「到其北岸狗邪韓國」で狗邪韓國はどこか 金官伽耶(現大韓民国 慶尚南道 金海市)周辺のことか
疑問④ 「到其北岸」で「その北岸」とはどこの北岸なのか
疑問⑤ 「七千余里」で一里は現在の単位で何mか
277:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/06 22:33:33.33 KZa/EFWW.net
第3節にいきます 文字化けはご容赦ください
・始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶?
方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑
有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
・始めて一海を度る 千余里 対海国に至る その大官は卑狗と曰い
副は卑奴母離と曰う 居する所絶島、方四百余里ばかり
土地は山険しく深林多し 道路は禽鹿の径の如し
千余戸有り 良田無く、海物を食し自活す 船に乗り南北に市糴す
疑問① 「對海國」は對馬國の誤記なのか (魏略逸文では對馬國)
疑問② 「其大官」とあるが、これは邪馬台国から任命された官なのか
それとも現地の王のことか
疑問③ 「卑狗」は「比古(彦)」、「卑奴母離」は「夷守」という説があるがどうか
疑問④ 「方可四百餘里」は島を正方形に見立てた一辺のことか
疑問⑤ この里程は目視による概算なのか、それとも実測したものか
疑問⑥ 「乗船南北市糴」とは、倭と韓の両方に通商していたということか
278:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/06 22:33:55.39 KZa/EFWW.net
第4節にいきます
・又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離
方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
・また南 一海を渡る 千余里 名は瀚海と曰う 一大国に至る
官はまた卑狗と曰い 副は卑奴母離と曰う 方三百里ばかり
竹木叢林多し 三千ばかりの家有り やや田地有り 田を耕すも
なお食するに足らず また南北に市糴す
疑問① 「一大國」は「一支國」の誤記か (魏略逸文では一支國)
疑問② 「千餘里」の部分で海上の里程はどうやって測ったのか 所要時間からか
疑問③ 官名が対海國と同じなのはなぜか
疑問④ 「瀚海」とは倭人の呼び名か、それとも中国からのものか
疑問⑤ 原の辻遺跡(長崎県壱岐市芦辺町・石田町)が一大國の国都か
疑問⑥ 原の辻では三韓土器・楽浪土器が出土するが、どのような交易が行われていたか
279:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/06 22:34:54.46 KZa/EFWW.net
第5節にいきます
・又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之
・また一海を渡る 千余里 末盧国に至る 四千余戸有り 山海に浜して居す
草木茂盛し 行くに前人を見ず 魚鰒を捕るを好み 水の深浅なく 皆 沈没してこれを取る
疑問① 末盧國とは松浦半島のことか
疑問② 松浦半島だとしたらその中心地は
疑問
280:③ なぜ官名が記されてないのか 疑問④ この記述は一大國から末盧國に渡ったということか もしそうだとしたら直接伊都国に行かない理由は何か それとも、たんに地誌的に九州北部沿岸を西から東に紹介しているのか
281:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/06 22:35:39.58 KZa/EFWW.net
第6節 ひじょうに問題の多い部分です
・東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
・東南陸行 五百里 伊都国に到る 官は爾支といい、副は泄謨觚 柄渠觚という
千余戸有り 世々 王有り 皆 女王国に統属す 郡使往来し常に駐する所
疑問① 伊都國は糸島半島なのか
疑問② 糸島半島だとしたら国都はどこか
疑問③ 官の「爾支・泄謨觚・柄渠觚」とはどのようなものか
疑問④ 「丗有王」とあるが、上記の官と王の関係は
疑問⑤ 「皆統屬女王國」は「女王国の支配下にあった」と解釈するのが定説であるが
伊都国が女王国を支配していたとする見解も一部にはあります
疑問⑥ 「郡使往來常所駐」は福岡県糸島郡前原町の三雲遺跡群か
疑問⑦ なぜ末廬國から伊都國まで陸行したのか 水行のほうが楽ではないのか
疑問⑧ 「有千餘戸」は正しいのか (魏略逸文では戸万余)
疑問⑨ 伊都國と平原遺跡との関係は
282:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/06 22:36:45.36 KZa/EFWW.net
第7節にいきます
・東南至奴國 百里 官日?馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
・東南 奴国に至る 百里 官は?馬觚と曰い 副は卑奴母離と曰う 二万余戸有り
疑問① 邪馬台国位置問題には「放射説」というのがあります
伊都國以後の行程は伊都國を起点とした放射状に読むというものですが
はたしてこれは成り立つのか
疑問② 官名の「?馬觚 副日卑奴母離」で卑奴母離の登場はこれで3度めです
疑問③ 奴國は現在の福岡市や春日市などか その国都はどこか
疑問④ 57年、後漢光武帝から印綬を与えられた倭奴国との関係は
疑問⑤ 「二萬餘戸」はかなりの数ですが、人口とすればどのくらいか
またこれらの戸数は正しいのか
283:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 00:19:32.65 WE+S/7le.net
なんで畿内クラスターがいちばん韓国に近づいてるんだ?
説明しろよバカウヨ
URLリンク(i.imgur.com)
284:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 01:00:00.78 WE+S/7le.net
韓神 からかみ
『古事記』や『延喜式』神名帳などにみえる神。「韓」は朝鮮の意。よって,神名は朝鮮国の神の意。
朝鮮半島からの渡来人およびその系統の人々によって祭られた神。
『古事記』には,須佐之男の子である大年神と伊怒比売との間に生まれた第2子としてその名が挙げられており,新羅国の都である徐伐(現在のソウル)をそのまま名とした第3子の曾富理神と共に,古代朝鮮との密接な関係を反映する。
285:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 01:10:45.25 nzV4Dulp.net
小便顔洗浄
286:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 01:29:17.51 WE+S/7le.net
曾富理神 そほりのかみ
韓神・曾富理神を、『延喜式』神名帳に見える宮内省に鎮座する韓神・園神と同神とみる説がある。
邇邇芸命の降臨地を書紀の一書第六に「添山(ソホリノヤマ)峰」とするのを、新羅の神話において神童君臨の所を「徐伐」(Sio-por)というのと同源であるとした上で、新羅の王都を意味するソフルが神霊の来臨する聖処を原義とするとし、「曾富理」が京城の意で、この神を京城・帝都の守護神とする説がある。
百済の王都泗?も「所夫里」と呼ばれ、書紀第八段第一書に素戔嗚尊が五十猛神を率いて新羅国に降り「曾尸茂利」(ソシモリ)にいたとある。現『古事記』が平安初期に成立したものとする立場から、この神が、遷都に際して平安の新京の護り神として秦氏が奉斎した神であるとし、秦氏がその根拠地に平安京を誘致することに成功したことで、朝鮮半島の京城の護り神である曾富理神を新たに勧請したものとする説がある。
これに対して、古代朝鮮語の「徐伐」の原義が神霊の光り来臨する所で、第一に聖林を指すとされることから王都に限ることはできず、この神の性格を王都の守護神と断定はできないとする説がある。
287:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/11 01:34:35.34 nzV4Dulp.net
おいムムン
288:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:09:14.23 kN4TLoZv.net
第8節にいきます
・東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
・東行 不弥国に至る 百里 官は多摸と曰い 副は卑奴母離と曰う 千余家有り
疑問① 不彌國はどこか 對海國が対馬 一大國が壱岐 末盧國が松浦 伊都國が怡土志摩郡
奴國が後代の儺県・・・まではだいたい定説と言ってよいと思いますが
不彌國については、宇美(福岡県糟屋郡宇美町)、穂波(同県飯塚市)、大宰府(太宰府市)付近
宗像郡津屋崎(現・福津市)、箱崎(福岡市東区)、糟屋郡新宮町 などと研究者によって意見が分かれます
疑問② 邪馬台国の行程記事において、對海國について説明した字数が最も多く
以下順次少なくなっていきます これには意味があるのか
289:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:44:30.52 kN4TLoZv.net
第9節
・南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
・南 投馬国に至る 水行二十日 官は弥弥と曰い 副は弥弥那利と曰う 五万余戸ばかり
疑問① 投馬國とはどこか 日向国都萬、薩摩国説、備後国鞆、出雲国など諸説あります
疑問② 水行はどういった形だったか これは九州説内でも九州島西廻り、東廻り、河川航行説があり
近畿説でも瀬戸内通行説と日本海通行説があります
疑問③ 投馬國への出発地は不弥国(連続説)か、伊都国(放射説)か
疑問④ 水行二十日はどの程度の距離か、また、なぜ日数表記になったのか
疑問⑤ 官の「弥弥、弥弥那利」とは
疑問⑥ 五万余戸は奴国の2倍以上であるが、どのていどの広さの国か
290:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/12 01:44:51.85 kN4TLoZv.net
では第10節 いよいよ邪馬台国に到着します
・南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳? 可七萬餘戸
・南 邪馬壱国に至る 女王の都とする所 水行十日陸行一月 官は伊支馬有り 次は弥馬升と曰う
次は弥馬獲支と曰う 次は奴佳?と曰う 七万余戸ばかり
疑問① 邪馬台国はどこか 九州各地、近畿、四国、近江、吉備など諸説あります
疑問② 「女王之所都」という記述には違和感があります 魏からすれば卑弥呼は倭王であり
その都地が邪馬台国であるという意味なのでしょうか
疑問③ 「水行十日陸行一月」は「水行十日+陸行一月」でよいのか
そう読むのが自然だと思いますが「水行すれば十日、陸行すれば一月」という説があります
また、「水行十日陸行一月」は帯方郡からの総日数という説もありますね
疑問④ 「七万余戸」はかなり広大な領域が想定できますが
疑問⑤ 官は「伊支馬有、弥馬升、弥馬獲支、奴佳?」と四種が登場し政治機構が整っているようですが
291:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/13 08:50:11.68 Kf/rVtil.net
最新DNA研究が解き明かす!『続・日本列島人の起源と歴史』6月11日(金)からオンデマンド配信スタート【NHK文化センター】
URLリンク(news.allabout.co.jp)
1.東ユーラシアのなかの日本列島人 【 配信期間 :6/11~6/30 】
2.アイヌ語の歴史 【 配信期間 :7/9~7/31 】
3.アイヌと縄文をつなぐ 【 配信期間 :8/6~8/31 】
4.クマ送りとヒグマ 【 配信期間 :9/10~9/30 】
5.北方の言語 【 配信期間 :10/8~10/31 】
6.遺伝子からみた日本人 【 配信期間 :11/12~11/30 】
7.もう一つの日本語 琉球語 から見えるもの~ 【 配信期間 :12/10~12/31 】
8.内なる二重構造 【 配信期間 :2022年 1/14~1/31 】
9.ヤマト王権における北と南の影響 【 配信期間 :2022年 2/10~2/28 】
10.琉球列島の多様性:ことば 【 配信期間 :2022年 3/11~3/31 】
11.琉球列島の多様性: DNA 【 配信期間 :2022年 4/8~4/30 】
12.最初に日本列島へ渡来した人々 【 配信期間 : 2022年5/13~5/31 】
※各回のお申し込みが必要です。
講座名:【オンデマンド】続・日本列島人の起源と歴史1.「東ユーラシアのなかの日本列島人」
講師:国立遺伝学研究所教授 斎藤 成也
配信期間:2021年6月11日(金)00:00~6月30日(水)23:59
受講料金:NHK文化センター会員・一般(入会不要) 税込 2,200円
292:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/13 08:59:40.14 Kf/rVtil.net
第11節
・自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
・女王国より以北 その戸数道里は略載を得べきも その余の旁国は遠絶にして 詳を得べからず
疑問① 「女王國以北」とは対海國~不彌國までのことか 投馬國も入るのか
293:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/13 09:00:46.65 Kf/rVtil.net
第12節
・次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國
次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
・次に斯馬国有り 次に巳百支国有り 次に伊邪国有り 次都支国有り 次に弥奴国有り 次に好古都国有り
次に不呼国有り 次に姐奴国有り 次に対蘇国有り 次に蘇奴国有り 次に呼邑国有り 次に華奴蘇奴国有り
次に鬼国有り 次に為吾国有り 次に鬼奴国有り 次に邪馬国有り 次に躬臣国有り 次に巴利国有り
次に支惟国有り 次に烏奴国有り 次に奴国有り ここに女王の境界尽きる所
疑問① これらの国々は冒頭で出てきた「今使譯所通三十國」なのか
疑問② 最後の「奴國」は前に出てきた国と同一か
294:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/14 02:05:45.22 /muVq3qA.net
Japonic: 濊、倭、扶余、高句麗、濊貊、沃沮、百済(扶余系)、伽倻(扶余系)
Koreanic: 新羅、百済(韓系)、伽倻(韓系)、古代出雲
Tungusic: 粛慎、挹婁
Mongolic: 東胡、鮮卑
Figure 2. Classification of Japano-Koreanic based on classical comparative historical linguistic inferences (adapted from Robbeets, 2015).
URLリンク(static.cambridge.org)
295:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/15 15:07:26.39 PoOEwuQA.net
縄文人の土器はすげぇ!(←こっちアイヌの先祖)
同時期のチョンの無文土器はショボいwww (←こっちが大多数の日本人の先祖です)
296:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/15 18:56:17.67 PoOEwuQA.net
図3では、日本列島の旧石器時代1個体(港川1号)と縄文時代13個体と弥生時代4個体と現代2062個体のミトコンドリアゲノムのMDS(多次元尺度構成法)プロットが示されています。
URLリンク(media.springernature.com)
これらの結果は、港川1号が他のどの標本とも明確なクラスタを形成しない、と示しており、港川1号が縄文時代と弥生時代と現代の日本列島の人々とは直接的に関連していないことを示唆します。しかし、港川1号のmtHgはMの基底部近くに位置します。これは、港川1号が現代日本人の祖先集団だけではなく、アジア東部現代人の祖先集団にも属していることを示唆します。
297:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/16 14:55:30.41 w/Aewh8l.net
日本神話ののっけから「ここは対岸に韓国が見えていい土地だ!」だからな
298:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/16 14:56:51.92 w/Aewh8l.net
日本書紀も読み物として面白いんだよな
耽羅国(現在の済州島にあったとされる国)の位置を南としるしていたり
そこが百済に朝貢してたのが百済が滅亡してから急に日本に朝貢するようになったり
いろいろと察するもんがある
299:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/16 22:02:42.41 6XmHRqzj.net
【酒類の提供制限】 首相は下戸だから、お店で飲みたくても飲めない人の気持ちが実感として湧かず、悩んでいる
スレリンク(newsplus板)
300:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/17 01:07:33.54 diL4FT/4.net
>>293
じゃあ日本が三国を支配してたことも受け入れようよ
つまみぐいじゃなくてさ
301:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/17 06:04:17.80 LwvGkv/S.net
>>295
神風が吹かなかったら日本も歴史上元になっていたな
302:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/18 16:54:19.67 cN0tTrcQ.net
江上波夫は、日本民族の形成と日本国家の成立を区別し、民族の形成は弥生時代の農耕民族に遡るものの、日本の統一国家である大和朝廷は、4世紀から5世紀に、満洲の松花江流域の平原にいた扶余系騎馬民族を起源とし朝鮮半島南部を支配していた騎馬民族の征服によって樹立されたとする。「国際的視点からの古代史考」では4世紀ころから辰国の辰王族が倭国の各地の沖積平野に移動した。馬はこのころ到来した。
すなわち、大陸東北部に半農の騎馬民族が発生したが、その内、南下した一部がいわゆる高句麗となり、さらにその一部が「夫余」の姓を名乗りつつ朝鮮半島南部に「辰国」を建て、またさらにその一部が百済として現地に残るが、一部は、加羅(任那)を基地とし、4世紀初めに対馬・壱岐を経由して九州北部(江上は、天孫降臨神話の日向を筑紫とみる)を征服し、「任那日本府」を倭王の直轄地とする「倭韓連合王国」的な国家を形作ったという。
303:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/18 17:26:12.97 cN0tTrcQ.net
三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀の記述によれば入れ墨族は
大王族やらにひたすら殺戮されていく蛮族
304:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/18 19:18:50.77 n0tnJ5Vv.net
そら入れ墨が悪とされた時代に書かれたからだろ
305:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/20 10:54:38.47 6cvsXGff.net
『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
306:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/20 14:36:05.91 6cvsXGff.net
近江朝=日本=百済=扶余勇=天智天皇です。
旧唐書劉仁軌の条によれば扶余豊を王となしたのは顯慶五年(660)、百済崩壊の年である。
扶余豊はjapanから福信の待つ百済の地に渡った。扶余豊を送り出してjapanに残って応援した百済餘【口焦】の長は扶余勇である。
旧唐書に「餘豐在北,餘勇在南」や「扶餘勇者,扶餘隆之弟也,是時走在倭國,以為扶餘豐之應」から推測される。白村江の戦い(663)を迎える。
倭百済連合は惨敗し、扶余豊は高句麗に逃げ、百済にいた貴族の多くがjapanに渡ってきた。多数の百済貴族は扶余勇と合一したと思われる。
最早百済の地での百済の再興は短期的には不可能となり、北九州に根を張った。
これが、大宰府の50km以上に及ぶ羅城や水城や�
307:蝟�城などの防衛施設である。 これらは日本書紀では天智天皇が作らしめたとあるので、天智=扶余勇であると推定される。 一方、倭国は旧唐書によれば、劉仁軌の条に「麟德二年(665),封泰山,仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會,」とあり、倭国王は封禅の儀に列席させられる予定になっている。 白村江の罪で唐の言うことを聴かなければ成らない状態である。 こういう状況下で、扶余勇はjapanで勢力を広め、朝鮮山城を各地(北九州から関が原以西)に造り、それを版図とし、 兄弟の善光王を難波に住まわせるなど、倭国の要を押さえ、近江に遷都し、即位する。 百済貴族に官位を与え、要人として登用する。天智天皇が即位したのは西暦668年2月で、時期的には高句麗が唐に敗れ行くさなかにある。 扶余豊(百済王)が捕らえられた時期は不明だが、資治通鑑の668年12月「扶餘豐流嶺南」によると、流刑に処せられている。 天智に即位したのは扶余豊が捕縛されたことに基因すると想像される。 旧唐書東夷伝「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。 或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。」の日本は近江まで進出し倭国の地に根を張った百済の扶余勇の政府をいい、 新唐書東夷伝の「或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」はその近江朝が壬申の乱で倭国に敗れたことを指し、国名として倭国号を冒し日本国号となったといっている。 ざっとまとめると以上です。これ以外の結論が思いつきません。
308:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/20 16:10:55.29 1Rr1979r.net
東アジア唯一の白人国家になってただろうな
縄文人は古代コーカソイドで独自の文明を持ってたし
309:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/22 12:02:41.94 +K9W7BDZ.net
2021年06月22日
アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性
URLリンク(sicambre.at.webry.info)
310:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/22 12:48:36.77 AAJGvY8f.net
アジアは北西部のアルタイ方面から人類が拡散した痕跡はあるけど、
南方から北上した痕跡がないんだよね
新石器時代になるまで東アジア以北は凍土で、食料であるマンモスなどの大型獣は
石刃技法を使った石槍でしか仕留める事ができない訳だが、これは中央アジアから
アルタイ経由で東アジア以北に広がったもの
華南以南は新石器時代になるまで礫石器文化であり、南方から北上してきた痕跡が
ないのである
311:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/22 14:08:11.37 +K9W7BDZ.net
縄文人はEEIS関連祖先系統(56%)とEEC関連祖先系統(44%)の混合として、現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団は縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と推測されています(Wang et al., 2021)。
縄文人のシャベル型切歯の程度はわずかなので(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、この点からも、縄文人がEEIN関連祖先系統を基本的には有さない、との推定は妥当と思われます。一方で、EEIN関連祖先系統でおもに構成される青銅器時代西遼河集団を主要な祖先集団とする現代日本人(「本土」集団)においては、シャベル型切歯が高頻度です。
312:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/22 14:26:12.92 +K9W7BDZ.net
今回は特定の地域における人類集団の長期の連続性という見解に対する疑問を強調しましたが、
逆に、安易に特定の地域における人類集団の断絶を断定することも問題でしょう。
たとえば、現代日本社会において「愛国的な」人々の間で好まれているらしい、
三国時代の前後において「中国人」もしくは「漢民族」は絶滅した、といった言説です。
古代ゲノムデータも用いた研究では、後期新石器時代から現代の中原(おおむね現在の河南省・山西省・山東省)
における長期の遺伝的類似性・安定性の可能性が指摘されています。
313:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/22 14:32:02.32 64lK6N9h.net
>>305
西遼河から渡来定着した痕跡がないじゃないの
沿海州南部から渡来定着した痕跡ならあるが
314:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/22 14:48:32.01 +K9W7BDZ.net
>>307
EEC関連祖先系統を有する集団がアジア東部沿岸部をかなりの程度北上したことは、一部のアメリカ大陸先住民集団でアンダマン諸島人などとの遺伝的類似性が指摘されていること(Castro e Silva et al., 2021、関連記事)からも明らかでしょう。
これらの知見からは、YHg-D1はおもにEEC関連祖先系統で構成される現生人類集団に由来し、ユーラシア南岸を東進してアジア南東部からオセアニアへと拡散して、アジア南東部から北上してアジア東部へと拡散したことが窺えます。
315:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/22 20:51:40.97 lhSqo1Y5.net
>>308
逆だろ
アンダマン諸島人にチベット方面から13000年前以降に南下した系統が
混ざってるんだろ
華南は旧石器時代より永らく礫石器文化だったが、13000年くらい前に
それより北の細石刃文化に置き換えられた
モンゴロイドが華南に侵入して先住のオーストラロイドと交雑した事を窺わせる
イラワジ平野でもその頃に同様の事が起こっていたんだろう
そしてアンダマン諸島にも間接的にモンゴロイドの遺伝子が及んだ
だいたい華南から凍土の華北に北上して、どうやって礫石器で食料の大型獣を
確保できるんだ?
おまえら遺伝子屋は考古学的見地に基づく人間生活が見えていない
足元が見えていないんだよ
316:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/24 01:26:37.49 coUGj6hF.net
アンダマン人弓矢持ってるしな
2万年前のアジアだったらアトラトルしか使ってないはず
317:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/24 08:08:13.95 SwvL1uw0.net
日本に弓矢が登場するのは石鏃の出土から16000年くらい前
樺太経由で入ってるから、弓矢はアルタイ経由で東~北方アジアに広がっている
おそらく3万年くらい前に中央アジアからアルタイ地方に伝わったのではないか?
槍や投槍器に取り付ける石刃や弓矢の石鏃は石刃技法で作らないと食料である
マンモスなどの大型獣を仕留める事ができない
礫石器の石刃や石鏃ではマンモスを仕留める事はほとんど不可能
だから華南以南の東南アジアから東アジアや北方アジアに北上していない事が分かる
東アジアや北方アジアに拡散しているのはアルタイから入ってきた石刃技法を
持った人々である
318:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/24 20:47:09.34 SWOgmP9S.net
江戸時代には騙し討ちをかましたあげく、ウイグルジェノサイドもビックリの勢いで殺し
大日本帝国時代も容赦なく殲滅を続けて人口の九割が消えた。
戦後の安倍時代ともなるとついに浄化が完了したのか
支配的政権与党の自由民主党所属の議員が『アイヌなどもういない』と勝ち誇る事態となった
319:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/24 22:17:22.41 coUGj6hF.net
>>311
アメリカ大陸3波のイヌイット系もアトラトルしかもってない
2波の北米インディアン、1波のアメリンドなんかは当然持ってない
2万5000年前には北方に弓矢は浸透してなかった
320:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/24 23:26:23.06 SwvL1uw0.net
青森あたりで16000年くらい前の石鏃が出土してるから
弓矢がシベリア東部あたりに伝わったのは2万年くらい前だろうな
朝鮮半島経由ではなく樺太経由だから華南から北上したものではない事が分かる
シベリア東部が2万年くらい前ならアルタイに伝わったのは3万年くらい前だろう
321:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/24 23:56:48.47 KswZRTdJ.net
アイヌ=縄文人だろ
そして朝鮮系が弥生人だろ
見りゃすぐわかるよ
日本人をDNA鑑定すればアイヌの遺伝子は入ってるし縄文人の直系の子孫がアイヌなのもわかっている
第一外見の特徴ですぐわかる
それをかたくなに認めないネトウヨってなんなんだろう
日本人は特別だと思いたいのかよくわからん
322:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/25 00:23:46.94 57Iwnxar.net
「天孫降臨」
天照大御神さまは、孫の瓊瓊杵尊(にぎぎのみこと)に高天原から葦原中国へ降りることを命じられた。
稲穂を渡し「この稲を育てて葦原中国を治めなさい」と。これは「斎庭稲穂の神勅」。稲を育て、この国を繁栄させるということ。
すでに先に葦原に住んでいた、戦いを繰り返していた先住民(大国主尊)に
「慈愛で国を作りますので、必ずや平和になるでしょう」と伝え、国譲りをしていただいた。
つまり稲を育てた「弥生時代」が、日本の歴史の最初ということ。縄文時代は「ニギギノミコト」が降臨する前だった。
323:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/25 00:34:00.59 5+Qzlqyn.net
>>315
底辺高卒?
おまえの考古学偏差値、30ないぞ
パッパラパー♪パッパラパー♪パッパラパッパパッパラパー♪
324:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/25 21:47:40.13 tVnOFxUo.net
>>314
北米インディアンはケット人と同じ系統だからシベリアあたりから東アジアまで広く広がっていた?
でもアトラトルしかもってない
1万~2万年前あたりでもなかったんじゃないだろうか
325:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/25 21:48:29.64 tVnOFxUo.net
しかしケット人と北米インディアンの言語の一致って、バベルの塔はどうなるのだろうか
326:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/25 22:32:33.64 lO844Ls7.net
>>318
伝わっても石鏃が3cm程度の大きさだからマンモスなどの大型獣には使えんわな
だからシベリアでは弓矢はあっても長い間、狩猟道具のメインになかった
一方、日本列島では弓矢と同じ頃に樺太経由で入ってきた細石刃が狩猟道具の
メインになるが数千年で消えてしまった
これは氷河期が終わり大型獣が消滅してしまったため、不要になったからである
そして小型獣の狩猟道具として弓矢の時代がやってきた
327:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/25 22:37:23.05 tVnOFxUo.net
旧石器って捏造ばっかでしょ
328:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/26 01:02:44.71 gOjdQ75V.net
【古代】「文明など、ろくなものではない」 農耕が“戦争”を引き起こす…縄文人が「中国文明」を拒んだ本当の理由
スレリンク(newsplus板)
329:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/26 21:51:58.39 zU9s3Hdf.net
>>321
旧石器捏造事件なら10年以上前に収束してるよ
今の考古学は旧石器時代の石器のうち、疑わしいものは全部排除して動いている
330:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/26 22:05:52.93 Z9zScAsu.net
どうやって排除すんのよ
石叩いてつくったら旧石器で誰も見分けつかんかったんだろ
331:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/26 23:17:53.78 zU9s3Hdf.net
>>324
事件以前のものをひとまず排除して、事件以降に出土したものと
整合するものだけで判断すれば良いだけ
事件からもう20年以上経ってるんだよ
この20年もの間に出土した石器なんかワンサカあるの
332:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/27 01:37:12.29 PgWrX9sU.net
エベンキ族は韓国人とはいうほど関係がないのはゲノム解析で明らかになってる
韓国人はむしろ日本人とほぼ同じであることが科学的に明らかになってて
これは頭のおかしい糞ウヨがどれだけ火病ろうがどうにもならん話だ
333:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/27 01:44:20.50 PgWrX9sU.net
実際に奈良県に行くと分かる
純日本というより半島っぽさがあるんだよ
外貌といい、風習といい
異国情緒というやつ
日本にいて百済の古都に訪れたような朝鮮気分を味わえる
334:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/27 06:06:10.04 yIv8Gz44.net
>>327
民族分布図を見れば一目瞭然だな
URLリンク(i.imgur.com)
335:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/27 07:26:17.18 PgWrX9sU.net
現代の日本人が「日本的」と思い込んでいる寺社建築の様式は、飛鳥時代には異国情緒の象徴だった。
336:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/27 08:16:20.94 vPoaPniY.net
大阪、京都、奈良、滋賀、神戸
まさに朝鮮帰化人が置かれた場所だなw
でも朝鮮帰化人って、そんなに来てないんだよ
日本人口が3~500万人くらいの時代にトータルでも1万5千~2万人くらい
日本人口の1%にも満たないの
だから頭形の形質遺伝は中頭よりも短頭の方がはるかに強い事を証明する点で
価値がある表であって、決して血統のほとんどが半島人であるかのような勘違いを
しないように
337:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/27 21:25:25.10 PgWrX9sU.net
私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びととがきわめてよく似ており、形質上は同じであると指摘されている点です。さらに衝撃的だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。
小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、関西では少なからずあったと思います。
これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。
小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。
(網野善彦『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(岩波現代文庫,2013)137-138頁)
338:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/28 05:37:15.62 2RlOqivs.net
11000年前頃以降の現在の中華人民共和国広西チワン族自治区一帯の人口史に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。
この研究はオンライン版での先行公開となります。
URLリンク(sicambre.at.webry.info)
339:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/28 18:25:02.84 2RlOqivs.net
群馬の渡来古墳人
群馬県は下戸遺伝子も多く関東の中では渡来人が最も多く来た地である
URLリンク(pbs.twimg.com)
340:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/28 23:53:33.33 2RlOqivs.net
安重根と大正天皇
URLリンク(i.imgur.com)
同じ人種と言わざるを得ない。
341:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/29 00:53:56.95 lYeNPdhG.net
>>333
じゃあ何で短頭化してないの?
342:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/29 00:57:06.35 lYeNPdhG.net
>>334
Tゾーンの立体感がぜんぜん違うじゃないの
眼科逝けよ
343:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/29 10:23:41.35 DBx9xxlE.net
Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago
doi: URLリンク(doi.org)
URLリンク(ars.els-cdn.com)
Figure1. Geographic, temporal, and genetic information for newly sequenced individuals
URLリンク(ars.els-cdn.com)
FigureS1. Genetic structure of new individuals, related to Figure1
URLリンク(ars.els-cdn.com)
Figure2. Genetic structure and admixture of prehistoric Guangxi individuals
URLリンク(ars.els-cdn.com)
FigureS3. Genetic components of historical Guangxi populations and present-day East Asians, related to Figure 3
URLリンク(ars.els-cdn.com)
344:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/29 22:06:29.69 DBx9xxlE.net
ADMIXTUREパターンを見るかぎりでは
縄文人はふつうに
古代インド人(Harappan, Juang) ホアビニアン(G1)と
アムール・北方モンゴロイド(AR_EN, AR_Xianbei_IA)の混交だな
345:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/30 00:04:15.25 h1OlhAJS.net
>>335
どこの地域も短頭だらけだろ
346:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/30 07:40:22.03 s59+J1wL.net
沖縄出身なんだけど、初めて東京行った時の異国感は忘れられない。
飛行機の便を間違えて中国に来たかと思った。
東京で出会った人に、昔中国だったんでしょ?って質問されるたびに、やまとんちゅは自分たちの薄い顔のルーツをあまり意識しないのだろうか?って思う
347:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/30 07:57:05.23 +D6K4yBj.net
>>340
どちらにせよ大陸から来た文字や言葉を使っている点は同じ。
しかし文化で見ると伝統的な5音音階なのは同じだが、
沖縄の音階はポリネシア民族の音階に似てる。
日本音階はピアノの黒鍵だけで弾けるが(炭坑節や男はつらいよ)
ちなみに沖縄音階は白鍵のドミファソシになる。
348:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/30 23:03:36.01 s59+J1wL.net
天皇って日本人・沖縄人・アイヌを殺す以外になにか実績あんのか
って聞いても誰も答えない
349:名無しさん@お腹いっぱい。
21/07/01 00:20:31.56 xnAe+yxv.net
沖縄出身とか虚言大丈夫か
350:名無しさん@お腹いっぱい。
21/07/01 06:32:56.37 9ixWt+fd.net
>>342
平成になって右翼が天皇に対して別れたよ
天皇に対してご乱心を諌めるタイプと
天皇の言う事は全て正しいと言うタイプ
そう言えば昭和の226事件の時も正規軍反乱軍
どちらも天皇陛下の命だと言ってたな
351:名無しさん@お腹いっぱい。
21/07/02 04:02:21.36 48WNszeD.net
まぁどの国でも歴史は美化されているだろうな
不名誉な事実を言っても取り合わず鎮まるのを待つ
人間は大脳を持っているから誘導されやすい
大脳が小さければ本能が反抗させることもあるのだが
人間は好んで騙されるのだから手の施しようがない
352:名無しさん@お腹いっぱい。
21/07/02 04:07:39.59 48WNszeD.net
中国の歴史は漢の時代に書かれた「史記」によって書き換えられ
現代日本の歴史は古事記・日本書紀によって書き換えられた
国の正史を制定するというのは、雑多な真の歴史を消すためにある
すなわち、中国や日本の正史とされる歴史書の方が偽史である
353:名無しさん@お腹いっぱい。
21/07/02 05:37:45.29 48WNszeD.net
日本史だと思っているのは関西史にすぎない
354:名無しさん@お腹いっぱい。
21/07/02 06:07:10.36 KaRZrP7G.net
中国の人が日本に来て三国志と三国志演義が同じように見られてる事に、驚いたそうだ。
中国では三国志演義は戦国時代を面白く脚色した文学で有り、歴史書では無いと認識されている。
桃園の契りも創作。貂蝉と言う美女も創作。
吉川英治の三国志も三国志演義をもとになっており、
横山光輝三国志は吉川英治作品を基に描かれた。