21/04/20 23:47:50.45 T551jCIy.net
アメリカ先住民はその当時の東アジアの北方の人種を反映してる
平たい顔族はかなり後で広がったと考えなければいけない
115:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/20 23:49:38.39 wATTd+SH.net
いや髪ストレートだし、シミ出来ないし充分モンゴロイドだろ
何が間違ってるんだ?はっきり言えよ
116:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/20 23:50:12.86 yOlsmqm+.net
新羅の名称は、記紀で2度重要なイベントに登場する
一つがスサノオが降臨した場所として、もう一つがずっと後になる神功皇后の三韓征伐
神功皇后の年代は広開土王碑あたりであると推定できるため、この新羅とは4世紀末~5世紀
スサノオの話は弥生時代の末期あたり。大国主の話も同時代とするのが自然かな
117:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/21 06:31:22.51 6Ke4m85l.net
日本に青銅器時代は無い
日本のような外部勢力(渡来人)の突然的侵略と征服で生まれた国家には
石器時代・青銅器時代・鉄器時代という一般的な時代区分が当てはまらないためである
石器を使っていた地域に、すでに鉄器の利用が普及している隣接地域から青銅器・鉄器の技術の両方が伝われば、その石器を使っていた地域には定義上青銅器時代は存在しないことになる。日本は、その典型例である。日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わったと言われており、青銅器は祭器としてのみ利用され、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行したと考えられている。サハラ砂漠以南のアフリカにおいても青銅器時代は存在せず、銅の使用自体も鉄器伝来後、しかも装身具などわずかな使用にとどまっていた[10]。
118:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/21 10:00:07.68 TIXE+z82.net
>>116
卑弥呼(姫子の蔑称)が邪馬台国(大和国の蔑称)で女王になれたのは、大陸で学んだ気象学の力で神として崇められたからである。
今でも占い者を信じる人たちがいるのと同じ。
119:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/21 14:16:23.48 6Ke4m85l.net
いわば母国の百済の危機だから、大和朝廷は白村江の戦いをしたわけだ。
任那日本府こそが高天ヶ原だな。
戦に負けてその回復ができないことになったので、思い余ってこの列島を日本と名付けてしまった。
ニューヨークとかニューオリンズとかと同じ。故郷を偲んで名付けるやつ。
120:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/21 14:18:15.01 6Ke4m85l.net
元々中国が東方の国に対して使っていた「日本」という名詞があり
それをなんか良いやんと気に入った扶桑島の勢力が自分たちの名前として採用した、という流れ。
要するに、日本=中国からみた東の方にごちゃごちゃある雑魚国の総称。
121:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/21 15:32:54.08 17HZZ2Sg.net
とう‐い【東×夷】 の解説
1 古代中国人が東方の異民族を称した語。→西戎 (せいじゅう)  →南蛮 →北狄 (ほくてき) 
2 昔の日本で、京都の人が東国の武士を呼んだ語。あずまえびす。
122:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/21 21:40:50.04 6Mgt4S9N.net
>>114
モンゴロイドシミ多いだろが
123:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/21 21:57:55.16 Rm7sRsCA.net
>>121
古モンゴロイドはな
124:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/21 22:31:48.07 6Mgt4S9N.net
新モンゴロイドもシミはできるだろ
北米ネイティブって「全くできない」んだよ
で日光あびたら異常に顔が赤くなる
125:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/21 22:48:15.34 Rm7sRsCA.net
古モンゴロイドの影響受けてる奴はな
126:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/22 01:56:46.66 uHc/ZjIS.net
>>119
日本も天皇も音読みだからな
つまり当時の中国語(外国語)で読んでいた
今で言えば「エンペラー・オブ・ジャパン」を自称していたわけ
本来のヤマト言葉で読めば「ひのもと」「あますめらぎ」になる
成り立ちからして雑魚国の王まるだしなんだよな、天皇って
127:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/22 07:31:16.25 P6owLRx7.net
ネトウヨ諸君、韓国の悪口を言ったら不敬罪だからね
高松塚古墳壁画を調査しちゃってビックリ!
慌てて保存の為にすぐ閉鎖しちゃったわw
「韓国ゆかり」衝撃与えた現天皇 「統合」背負う新天皇
URLリンク(search.yahoo.co.jp)
128:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/22 21:05:17.60 uHc/ZjIS.net
Japanese and Korean Language Similarities {English Subtitles}
URLリンク(www.youtube.com)
129:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/22 23:23:41.95 uHc/ZjIS.net
ネトウヨの脳内ルート 長江→船に乗ってどんぶらこ
URLリンク(image.space.rakuten.co.jp)
現実 Continental Korean → Peninsula Korean → Insular Korean
URLリンク(image.prntscr.com)
130:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/23 00:25:14.66 2A2lV06v.net
>>128
長江もとんでもとわかるなら
半島から縄文変質の第一波である亀ヶ岡へたどり着くのは不可能なのわかるはず
北九州から変質が開始したのならわかるがそうではない
131:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/23 05:32:13.35 JWJg64nM.net
2017年、Martine Robbeets(マーティン・ロベーツ)は、日本語 (そしておそらく韓国語) はハイブリッド言語として誕生したと提唱した。
彼女は、テュルク語、モンゴル語、ツングース語の故地は、満州北西部のどこかであると提案した。
これらのプロト・アルタイ語 (トランス・ユーラシア語 "Transeurasian") のグループは、南に移動して現在の遼寧省に入り、
そこで
132:オーストロネシア的な言語を話す農耕民族にほとんど同化されたのだろう。 この2つの言語が融合して、日琉祖語と朝鮮祖語が生まれたと考えられる。 https://www.researchgate.net/publication/339255935/figure/download/fig1/AS:858471322890242@1581686921486/The-distribution-and-classification-of-the-Transeurasian-languages.png
133:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/23 12:49:48.05 JWJg64nM.net
Tracing population movements in ancient East Asia through the linguistics and archaeology of textile production
doi: URLリンク(doi.org)
これまで、北東アジアの新石器・青銅器時代については、繊維生産の分析がまったく行われてこなかった。この状況を改善するために、本研究では、古代の繊維生産に関する言語および考古学的証拠を統合する。
言語/農業普及仮説は、世界の主要な語族の拡大は、初期の話者が農業を取り入れたからだという主張である。トランス・ユーラシア語族の農業語彙もその祖先に起因するとされており、これらの言語の普及が農業主導であったという主張を裏付けている。
トランス・ユーラシア語とは、従来のアルタイ語に代わる言葉で、Figure 1に示される言語の大グループを指す。このグループには、日本語族、朝鮮語族、ツングース語族、モンゴル語族、テュルク語族が含まれる。
Figure 1. The distribution and classification of the Transeurasian languages.
URLリンク(static.cambridge.org)
トランス・ユーラシア祖語 (proto-Transeurasian) は、文字記録には残っておらず、最古の文字資料とは数千年もの隔たりがある。トランス・ユーラシア諸語に見られる系統的な類似性を解きほぐすことで、この言語を再構築することが可能となる。この目的のために、紡錘車(糸つむぎの器具)の証拠を持つ34の遺跡を調べる。これらの遺跡の位置をFigure 2に示す。
Figure 2. Location of the archaeological sites reviewed in this study.
URLリンク(static.cambridge.org)
我々の目的は、これらの地域が、言語復元に現れている繊維技術を利用していたかどうかを調べることである。そのためには、雑穀 (millet) や麻 (hemp) の栽培、針 (needles) や錐 (awls)、紡錘車 (spindle whorls)、織機の重り (loom weights) の使用などのデータを比較分析することが必要である。繊維技術の伝播ルートを推測し、農業の伝播ルートとの相関関係を明らかにする。
トランス・ユーラシア祖語に、「切る」という動詞*giri-を復元することができる。この動詞から派生した古日本語や満州語の道具名詞は、いずれも布を切ることに特化した道具を意味しており、対応するテュルク語の動詞は、毛皮や布を切ることに特化していることから、この動詞は織物生産の領域で特に使われていたと考えられる。
トランス・ユーラシア祖語の繊維語彙は、テュルク語やモンゴル語ではしばしば失われているが、日本・韓国語ではよく保存されている。日流祖語・朝鮮祖語に共通の繊維語彙が3例ある。pJK *parʌ-「縫う」、pJK *pu-「紡ぐ、撚る(糸)」、pJK *pata-「織機で(布を)織る」、pJK *asa「麻」。
Robbeets (2017, 2020a) は、言語学による年代測定とトランス・ユーラシア語族の祖先ノードの位置を利用して、祖先言語と古代文化を関連付けた。Bayesian系統分析では、分離の発生時期をトランス・ユーラシア祖語は4700 BCE、アルタイ祖語は3293 BCE、テュルク・モンゴル祖語は1552 BCE,日流祖語・朝鮮祖語は1850 BCEと推定している。
134:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/23 12:51:32.42 JWJg64nM.net
Table 1. Selection of sites with textile technology in the Transeurasian linguistic region, specifying the simultaneous occurrence of millet or hemp cultivation and agricultural tools:
0 means ‘absent’, 1 means ‘present’ and ‘?’ marks uncertainty.
URLリンク(static.cambridge.org)
トランス・ユーラシア言語圏における紡錘車の最古の証拠は、興隆華文化 (Xinglongwa) と招巴溝文化 (Zhaobagou) に遡る。Table 1は遺跡の概要を示したもので、雑穀の栽培、農具、麻の栽培、紡錘車、骨の針や錐の証拠があるかどうかを示している。0は「ない」 1は「ある」 ‘?’は不確定。
紡錘車の証拠は、紀元前3~2千年頃の沿海州にも続いており、これらの遺跡は、Zaisanovka文化伝統の地域的な変種を表している。ほとんどの年代はca.と記されており、炭素年代測定が行われていないことを示している。Valentin-PeresheekとSiny Gai Aでは、円錐形、双円錐形、ディスク形の紡錘車の証拠が残っている。一般に、Siny Gaiの遺物群はValentin-Peresheekの遺物群よりもやや発達しているように見える。
韓国のPibong-liでは、草で編まれた袋が、木製の船の破片の近くで発見された。4670 ± 60 BCEで、この遺跡は、新石器時代初期に植物を使った織物が行われていたことを示している。日本に近いこの遺跡は、織物が伝播した場所なのかもしれない。初期 (1300-800 BCE) と中期Mumun (800-500 BCE) における出土状況から、韓国の青銅器時代には、ほぼすべての遺跡に紡錘車と重りが含まれていることがわかる。
日本で織布の証拠が最初に現れたのは、弥生時代 (900 BC-AD 300) の初期で、韓国から米や雑穀などの農業パッケージとともに、紡績や織布の技術がもたらされたと考えられている。弥生時代の紡錘車の多くは、装飾のない平らなディスク形である。円錐形の紡錘車は、弥生時代には見られないが、古墳時代 (AD 250–700) にはよく見られる。
Figure 3. Comparison of spinning and weaving technology in Neolithic and Bronze Age Northeast Asia.
(a) Conical ceramic spindle whorls. (b) Disk-like whorls. (c) Loom weights.
URLリンク(static.cambridge.org)
Figure 3は、紡績・製織技術を比較したものである。北東アジアの地域で、(双)円錐形、ディスク形の紡錘車、織機の重りには大きな類似性があるように思われる。
ディスク形と(双)円錐状の分布には興味深いコントラストがある。ディスク形は、西遼河流域に集中しており、もっぱら遼東半島や日本に見られる。遼河下流域の上新楽遺跡 (Upper Xinle)、アムール川のYinggelin遺跡、沿海州南部のZaisanovka文化では、(双)円錐形が見られる。また、朝鮮半島の北東部や中東部では、ディスク形よりも数が多い。
このように、遼河流域からの繊維技術の伝播には、異なる2つのルートがあったことが示唆される。
135:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/23 12:52:38.92 JWJg64nM.net
紡錘車の証拠がある新石器・青銅器時代の文化は、農業の証拠を持つ傾向がある。Table 1にある遺跡の大部分は、雑穀の栽培や農耕具の証拠として肯定的なスコアを示している。
沿海州のValentin-Peresheek遺跡とSiny Gai遺跡は、植物遺物を検出するための土壌浮遊法がまだ適用されていない1960年代から1970年代に発掘されたものであるため、雑穀や麻を栽培していたことを示す考古学的証拠はないが、これらの遺跡が属するZaisanovka文化 は、ロシア極東における最初の農耕文化として知られている。
韓国の初期新石器時代の食糧生産に関する推論は、初期の遺跡であるAmsadongがほとんどを提供してきたが、Pibong-liでも炭化した雑穀の種子が確認されている。Osan-liは漁業に大きく依存しており、すり鉢やすりこぎとともにドングリの遺物があることから、野生植物の採取で補っていたことがわかるが、雑穀を栽培していた証拠はない。中後期Chulmun遺跡では、雑穀栽培の直接的な証拠はないものの、農耕具が発見されている。Tongsamdong遺跡ではアワやキビを栽培していた直接的な証拠がある。
繊維生産の証拠がある日本の遺跡の多くが、農業の証拠や、水田、環濠集落や柵列、木製や石製の農具、初期の青銅や鉄、鯉の養殖などの大陸的な文化的特徴を持つ弥生時代の重要な集落としてよく知られている。例えば、吉野ヶ里遺跡 (Saga) では、少なくとも6つの紡錘車と、麻と絹の両方で作られた11枚の布が見つかっている。
Figure 4. The dispersal of textile technology, agriculture and language across Northeast Asia.
Archaeological sites where (bi)conical whorls have been recovered in relatively high proportions are indicated in blue.
URLリンク(static.cambridge.org)
沿海州のBoisman (4825-2470 BCE) 、朝鮮半島の初期Chulmun (8000-6000 BCE) 、日本の縄文時代 (10000-900 BCE) のような農業以前の社会では、織物の証拠はなかったが、農業に移行すると紡錘車が現れる。
3000 BCE頃、雑穀農業が西遼河流域から沿海地方南部に伝わり、洪山文化 (Hongshan) のものに類似した円錐形やディスク形の紡錘車、織機の重りが、同じZaisanovka文化の文脈で伝わった。このルートは、Figure 4の地図では青で示される。
4000 BCE頃、雑穀農業は洪山文化 (Hongshan) から遼東半島に伝わり、3500 BCE頃には朝鮮半島に伝わった。900 BCEには、雑穀と稲を含む農業パッケージが日本に伝えられた。興隆華文化 (Xinglongwa) を思わせるディスク形の紡錘車や織機の重りは、遼東・朝鮮・日本の遺跡で、雑穀農業と同時期に現れている。このルートは、Figure 4の地図では赤で示される。
興味深いことに、地図上の赤と青の分散ルートは、言語的にも相関関係がある。トランス・ユーラシア祖語が西遼河流域に原郷を持ち、4700 BCE頃にアルタイ語の一体から分離した日流・朝鮮語派 (Japano-Koreanic) が遼東半島に定住し、その後数千年の間に朝鮮語と日流語に分離して現在の場所に移住したのである。一方、3300 BCE頃に分離したツングース語派は、沿海州南部に移動したが、これは円錐形の紡錘車の伝播を反映している。
北東アジアの集団移動を、織物生産に関する言語学と考古学で追跡した。その結果、中国東北部の遼河西岸地域が、新石器時代に雑穀農業だけでなく、紡績や織物のための言葉や道具の普及の中心地であったことがわかった。織物や農耕技術に関連してオーストロネシア語族が広まったというBuckley (2012) の研究結果に沿って、本研究は、織物生産や農耕などの普及パターンと、北東アジアにおけるトランス・ユーラシア語族の普及との間に類似性があることを示している。
136:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/23 19:30:14.07 2A2lV06v.net
辰韓はチベット語じゃないの
137:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/24 12:04:38.85 XvF4yqpV.net
司馬遼太郎 「平安時代までの日本文化は外国のもの。日本が日本らしくなったのは鎌倉時代以降であろう。」
韓鍛冶部(からかぬちべ)
朝鮮半島から4~5世紀に渡来し,鉄製の武器・馬具・農工具を製造した金属技術者の集団。
畿内地方に住み,その技術をもって伴造に率いられ大和政権に仕えた。
《古事記》応神段に百済より韓鍛の卓素が貢上されたとあり,百済系技術者を組織したもので,
彼らは各地に居住し伴造の韓鍛冶首に率いられて宮廷工房に上番した。
陶作部(すえつくりべ)
『日本書紀』の雄略天皇7年(463年)条には百済より陶部高貴ら工人が貢がれたことが記されている。
弥生文化の名残であった土器である土師器が、5世紀頃になると須恵器に取って代わられるようになる。
鞍作部(くらつくりべ)
大和朝廷の馬具製作にあたった職業部。
《日本書紀》雄略7年条に百済貢上の今来才伎の中に鞍部堅貴の名がある。
《坂上系図》には仁徳朝に鞍作村主(すぐり)らが阿智使主に従って来たと記すが,
これは東漢氏の管掌下にあったことから造作されたもので,5世紀後半に百済渡来の工人を組織したものであろう。
錦織部(にしこりべ)
大陸系の技術により錦,綾の織成に従事した大和朝廷の職業部。
《日本書紀》雄略7年条に百済より貢上された今来才伎の内に錦部定安那錦がいる。
5世紀中葉以降に百済より順次渡来した技術者を組織したものであろう。
日本音楽の歴史
継体・欽明の政権あたりから、朝鮮の音楽ついで中国の音楽が伝来した。新羅楽・高麗楽・百済楽・唐楽と呼ばれた。
名高いのは、推古天皇の時代(7世紀)に百済から帰化した味麻之によって伝えられた伎楽である。
百済の瓦博士
飛鳥時代に百済によって仏教の教えと共に寺院建築が伝えられ、飛鳥寺造営で初めて瓦葺の屋根が作られました。
瓦製作は、百済の「瓦博士」が直接指導したことは有名で、軒瓦の文様には百済風の蓮花のデザインが採用されています。
要するに現代日本の匠、職人さんたちってのは、朝鮮半島からの職能集団(品部)の子孫
138:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/24 12:24:18.00 XvF4yqpV.net
東征神話は、扶余系民族のアイデンティティ
亀に導かれて新しい土地に建国する神武東征は高句麗などの朝鮮半島の建国神話そのものである
URLリンク(i.imgur.com)
139:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/24 20:02:41.88 b+5Np4b9.net
東盟とか全然違うだろ
140:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/27 09:19:04.93 QLWPgiTe.net
ネトウヨ
「寒冷地で稲作はムリなんだよ~!」
「日本のスーパー技術が北海道で稲作を可能にしたんだよ~!」
なお、中国の最北、黒龍江省↓
咱们家乡有特产——黑龙江五常:稻花香里说丰年 「生财有道」 20200831 | CCTV财经
URLリンク(www.youtube.com)
141:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/27 15:45:23.80 QLWPgiTe.net
「わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。」
727年、平城京に渤海国の使節が訪れ、国書を奉呈した。日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余王族の末裔とみていたことが示されている。国書に記すだけの確たる根拠があったと思われる。
285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、潰滅的な打撃を受け、王族は沃沮に避難するが、再び侵略を受け、王子の依羅(いり)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建するのだが、朝鮮史書『桓檀古記』には驚くべき記事が載っている。「依慮王、鮮卑の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。明年、子の依羅(いり)立つ。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。」
名前のイリから、イリ王朝とも呼ばれる崇神天皇(第10代)だろうと推察される。崇神天皇の和風諡号の「御間城入彦(みまきいりひこ)」と、次の垂仁天皇の和風諡号の「活目入彦(いくめいりひこ)」は、共に「いりひこ」が共通している。「いりひこ」・「いりひめ」は当時の王族名に現れる特定呼称である。
神武天皇とそれに次ぐ欠史八代の実在性が希薄であることから、この崇神天皇を初の天皇と考える説が存在し、また記紀に記された事績の類似と諡号の共通性から、神武天皇と同一人物とする説もある。『古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して258年もしくは318年没と推測する説も見られる。
中華王朝の史書には、「百済とは扶余の別種」とある。百済では、支配階級は扶余語を使い、庶民は馬韓語を使うというように、言語や風習が二重構造の社会だと記録されており、王族の姓は、後に漢風に一字姓の余に改姓するが、代々が扶余を名乗っていることからも、扶余族が馬韓を統一したことものと思われる。扶余王の依羅は、倭国では百済王族だと名乗ったのだろう。
つまり、崇神天皇に連なる「イリ王朝」は扶余族の渡来王朝と言える。
142:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/27 15:53:49.15 QLWPgiTe.net
外国人に国史を書かせる国などない。百済人が「日本書紀」を編纂した以上、日本という国は百済人の国
百済人の都合で勝手に日本人にされたのが倭人
「百済から来たばかりの高官「鬼室集斯」が学頭職(文部科学大臣)になったということは、言葉の問題がなかったことを意味している。(佐々克明)」
「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であった。宮中では百済語が使われていた。」
「『古事記』『日本書紀』は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。(金容雲日韓文化交流会議の韓国側代表・画家の平山郁夫は日本側代表)」
「『日本書紀』は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。(出雲歴史博物館名誉館長上田正昭らの対談集)」
「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)」
「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」
143:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/28 12:41:19.98 XerDx0Hh.net
肥前国風土記 現代語訳 (肥前国とは現在の佐賀県・長崎県)
URLリンク(cultural-experience.blogspot.com)
総記
・崇神天皇の治世、肥後国益城郡朝来名の峰にいた土蜘蛛・打猴(うちさる)、頸猴が軍勢を率いて朝廷に従わなかった
・朝廷は肥君らの祖・健緒組(たけをくみ)を派遣し征伐
小城(をき)の郡
・昔、この村に土蜘蛛がおり、堡(砦)を作って隠れ、天皇に従わなかった、日本武尊巡検時、ことごとく罰して討った
賀周(かす)の郷
・昔、この里に、海松橿媛(みるかしひめ)という名の土蜘蛛がいた
・景行天皇巡検時、従者の大屋田子(おおやたこ、日下部君らの祖)を派遣して罰して滅ぼさせた
大家の嶋
・昔、景行天皇巡検時、この村に大身(おおみ)という土蜘蛛がいた
・常に天皇の命を拒み服従しなかった、天皇は勅命により罰して滅ぼした
・それ以来、漁民達がこの島に来て、家を作って住んでいる
値嘉の郷
・郡の西南の海中にある(小値賀島が遺称地)
・第一の島は小近で、土蜘蛛の大耳(おほみみ)が住み、第二の島は大近で、土蜘蛛の垂耳(たりみみ)が住んでいた
・百足は大耳達を捕らえて報告し、天皇は罰して殺させようとした、その時、大耳達は頭を下げて謝罪
・ただちに木の皮を取り、様々なアワビ料理の見本を作って献上した、天皇は温情によって彼らを許して釈放した
・この島の漁民は、容貌は隼人に似て、常に馬上から矢を射るのを好み、その言葉は世間一般の人々と異なる
嬢子山(をみなやま)
・景行天皇巡幸時、土蜘蛛の八十女人(やそおみな)が、この山の山頂にいた
・常に皇命に逆らい、服従しなかった、そこで、兵を派遣して不意を襲い滅ぼさせた
能美(のみ)の郷
・景行天皇行幸時、この里に三人の土蜘蛛がいた、兄の名は大白(おほしろ)、次の名は中白(なかしろ)、弟の名は少白(をしろ)
・彼らは砦を造って隠れ住み、天皇に従わなかった、そこで、従者である紀の直らの祖・穉日子を派遣し、罰して滅ぼそうとした
・その時、大白達三人は、ただ叩頭(のみ、頭を地にこすりつけること)、己の罪を述べ、共に命乞いをした
浮穴(うきあな)の郷
・天皇「朕は諸国を巡ってすっかり平定して来たが、まだ我が統治を受け入れない不審な者共はいるか」
・神代の直「その、煙の立っている村は、まだ統治を受け入れいません」
・神代の直をこの村に派遣すると浮穴沫媛(うきあなわひめ)という土蜘蛛がいた、皇命に従わず大変無礼だったので誅殺した
■ 頭骨比較 弥生時代の地域差 南九州/西北九州/北部九州・土井ヶ浜
URLリンク(image.prntscr.com)
■ PCA 西北九州弥生人の位置が、現代沖縄クラスターと大体同じ (Jinam et al 2012)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
144:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/28 13:18:42.91 XerDx0Hh.net
和人が蝦夷から奪い取った島 粟島
粟島が初めて文献に登場するのは、808年『大同類聚方』で「粟生蝦夷」の名前が登場し、
本土の人間が入植する以前から、蝦夷と関係した先住民が生活していたとみられる。
URLリンク(lh3.googleusercontent.com)
145:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/28 21:19:31.47 G1U6zGFP.net
>>139
イザベラ・バード「朝鮮には歴史書と言えるものがほとんどなく・・・」
146:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/29 06:13:26.22 Wx+ECTrv.net
>>143
日本も大陸から漢字が輸入されるまで文字が無かった。
因みに神代文字は仏教色を嫌った江戸時代の偽作。
だから大和時代の様子は魏志倭人伝など中国の文書から得られるしか無かった。
つまり日本を発見したのは中国人となる。
日本がまだ石器時代の時期に中国では漢詩が詠われていたり、音楽が演奏されていた。
中国の戦国時代に戦乱を逃れて日本に来た人は、
気象学に長けていたので卑弥呼の様なシャーマンになれた。
147:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/29 07:09:03.68 2keSqBcn.net
逆神ネトウヨ「韓国人は穢族なんだよ~!」
なお、穢族は、韓語ではなく、ジャポニックと同系の扶余語を話していた模様
>「穢王之印」を所持した穢人の政権は北へ逃亡し「鹿山」の地に依って「扶余国」を建てた。
>扶余(ふよ)とは穢人の言葉で鹿の意味という。
>奈良の春日大社を始め、茨城の鹿島神宮等、日本には鹿を聖獣と位置付けているところは多い。
>同じくこの鹿を神聖視して崇めていたのが扶余族で、この扶余族は百済の支配層のルーツである。
>穢族は、穢(韓国江原道)・沃沮(北朝鮮咸鏡道)・高句麗(吉林省東部+慈江道)・夫餘(吉林省北部)の四つに分かれた。
>朝鮮の東は穢の地であり、高句麗と同種で、言語や風俗も似ているが、服装は異なる。
>高句麗語の研究から、穢族の言語は倭人に近かったとみられる。
>河野 (1993) は、朝鮮に残るジャポニック関連の地名は、穢(Ye)が残したものだとしている。
>彼の主張は、日本人が中世朝鮮で「Ye」と呼ばれていたという事実に基づいている。
Geographical distribution of certain toponyms in the Samguk Sagi
doi: URLリンク(doi.org)
Released: 2021/03/31
148:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/29 07:22:11.36 2keSqBcn.net
支石墓のエリアと、稲作の伝播ルートは完全に同期する
支石墓も朝鮮半島から伝来してるから、縄文晩期(のちに弥生早期に再設定された)から半島人は大勢渡来してきてる
古代の王族・氏族ってのはほぼ100%朝鮮系の渡来人
ヨーロッパのドルメンも農耕との関係を指摘されているが、東アジアの支石墓もやはり農耕の伝播を伴った
■ ドルメン(支石墓)のエリア
URLリンク(4.bp.blogspot.com)
>朝鮮において水稲作が開始した無文土器時代に支石墓が現れることなどから、
>支石墓の担い手は日本列島、朝鮮半島へ水稲栽培をもたらした(ハプログループO1b2 (Y染色体))と推定される。
149:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/29 08:02:53.72 2keSqBcn.net
穢王之印
URLリンク(pbs.twimg.com)
奈良公園
URLリンク(cdn.4travel.jp)
150:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/29 15:42:10.78 2keSqBcn.net
日本語に興味津々!日本語と韓国語!!
山陰から東北一帯にかけて「ズーズー弁」が残っていますが、よく似た発音が韓国語、とくに慶尚道(キョンサンド)地方(朝鮮半島南東部、古代の新羅に相当)の方言に現存していることも有名です。
東北弁では「おら、東京さ行ぐだ」のように、語中の清音が濁音として発音されることがあります。この濁音化は、韓国語では一般的な現象です。日本語と同じように韓国語の肯定文は「ダ」で終わり、疑問文は「カ?」で終わります。この発音は、日本の共通語よりも東北弁の「だ」と「か?」の発音に近いのです。
韓国語の「ハナ」は「ハナから(最初から)」という日本語の語源であるという説があり、大いに有り得ることだと思います。外国語で、数は最初に覚える言葉の一つだからです。「ピンからキリまで」という言葉があります。ポルトガル語でカルタの1を表す「pinta」が「ピン」となり、十字架つまり10を表す「cruz」が「キリ」となったものです。
日本独自の数え方も、高句麗の方言が元になっているという説もあります。古代の高句麗では3は「ミ(mi)」、7は「ナナ(nana)」、10は「ト(to)」と発音したのです。3才くらいまでの赤ちゃんのことを、日本語で「嬰児(ミドリゴ)」といいます。古代韓国語で周年のことを「ドル」といい、子供が3才になったことを高句麗弁で「ミドル」といいました。
「赤ちゃん」の語源は、一般にいわれている「生まれたばかりの子供の体が赤っぽい」ではなく、韓国語の「アガ」からきているという説の方が納得できます。赤ちゃんに関する言葉には、古代朝鮮語が語源と思える言葉がたくさんあります。幼児語「おっぱい」の「パイ」は、古代朝鮮語で「吸うもの」という意味です。「乳」も韓国語の「チョッ(乳)」が語源だと思われますし、「おんぶ」は韓国語の「オブバ(おんぶ)」が語源だと思われます。
韓国語で高いという意味の「ノップン」が「ノッポ」になったり、口の意味の「イプ」が「言う」になり、耳の意味の「キ」が「聞く」になり、鼻の意味の「コ」が「嗅ぐ」になったりと、韓国語が語源と思われる言葉は非常にたくさんあります。意味のない枕詞が、古代朝鮮語で読むと重要な意味を持っていたり、土地や神の名前が古代朝鮮語に由来していたりと、さまざまな分野で古代朝鮮語との深い関係が解明されてきています。
151:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/29 21:15:31.35 GTq9Ey7/.net
>>145
エベンキとワイは別民族だぞ?
理解してる?
ツングースが小便をあつめてテントの真ん中にためてた民族
152:名無しさん@お腹いっぱい。
21/04/30 00:20:17.73 WTPHvnAs.net
>>149
Evenkは北部型のツングース語族に属す集団で、トランスバイカルと極東の2種類おり
トランスバイカルのほうは平均的な日本人とは遺伝的にかけ離れている
極東Evenkのほうも特に近くはない
こうして主成分分析で見ると、一口にツングース語族といっても
遺伝的にレンジがあり、それに応じて、顔つきや骨格などもかなりバラつきがあると予想される
東アジアの集団では、朝鮮の遺伝子プールが最もコンパクトかつ綺麗にまとまっており、
ネトウヨなどが理想とする「単一民族」は朝鮮民族が最も近いことになる
Figure 2. Diversity hotspot of the Tungusic languages under the north-south classification in (a) as compared with the hotspot under the Manchu-Tungusic classification in (b).
URLリンク(static.cambridge.org)
Figure 4. Principal component analysis projecting ancient Devil's Gate, Ustlda and Jomon samples onto the variation of present-day East Eurasians.
URLリンク(static.cambridge.org)
153:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/01 08:13:15.70 XERyAgKo.net
新羅 しんら
百済 くだら
加羅 から
耽羅 たんら
奈良 なら
あっ・・・
154:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/01 08:44:36.44 XERyAgKo.net
白村江の戦い haku-suk-inoe
村主 suk-uri
飛鳥 a-suk-a
あっ・・・
155:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/01 16:29:20.88 sIFeENfQ.net
パクスクで「白い(衣服をまとった?)村」を表す
中国史書に書かれてる「百済は漢語混じりの言葉を話す」と一致してる
日本にはない要素だ
156:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/01 18:17:16.83 aHHm1o2Q.net
「クダラ」は韓国人が聞くと「クンナラ」=「偉大な国」と読め
「シラギ」は韓国人が聞くと「シーラギ」=「新羅の奴」と読めるという
素直に考えると、百済を「ヒャクサイ」ではなく「クダラ」と読むのは、百済を大国・貴い国と考えていた人たち
新羅を「シンラ」ではなく「シラギ」と読むのは、新羅を憎たらしい奴と考えていた人たち
157:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/01 18:47:12.23 sIFeENfQ.net
>>154
こういうトンデモ理論
日本人にもやるやついるよな
158:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/01 19:06:49.55 aHHm1o2Q.net
百済(くだら)と新羅(しらぎ)の読み方だけは、日本のこう読ませた王朝と
これらの国々との関係を決定的に定義づけざるを得ない
日本人はこの事実から逃げることはできない
159:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/01 21:36:47.02 sIFeENfQ.net
くだらは馬韓の地名からだよ
160:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/02 11:26:07.52 YoNHE1F3.net
オセアニアの人口史と環境適応およびデニソワ人との複数回の混合
URLリンク(sicambre.at.webry.info)
161:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/02 12:18:43.77 YoNHE1F3.net
太平洋地域の人類集団史の詳細な分析について報告する論文が、今週、Nature に掲載される。
今回のゲノム研究は、ヒトの進化、ヒト族の異種交配、そして島嶼環境での生活に応じて起こる適応に関して新たな知見をもたらした。
太平洋地域は、パプアニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島を含む「近オセアニア」と、
ミクロネシア、サンタクルーズ、バヌアツ、ニューカレドニア、フィジー、ポリネシアを含む「遠オセアニア」に分けられる。
人類は、アフリカから移動した後、約4万5000年前に近オセアニアに定住した。
遠オセアニアに人類が定住したのは、それよりずっと後の約3200年前のことで、現在の台湾からの移住だった。
この人類集団史をさらに探究するため、Lluis Quintana-Murci、Etienne Patinたちの研究チームは、
太平洋地域に分布する20集団のいずれかに属する現代人317人のゲノムを解析した。
その結果、近オセアニア集団の祖先の遺伝子プールが、この集団が太平洋地域に定住する前に縮小し、
その後、約2万~4万年前にこの集団が分岐したことが判明した。
それからずっと後、現在の台湾から先住民族が到来した後に、近オセアニア集団の人々との混合が繰り返された。
162:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/02 13:04:36.87 YoNHE1F3.net
Fig. 1: Genetic structure of Pacific populations.
URLリンク(media.springernature.com)
ADMIXTURE ancestry components are shown from K = 2 (top) to K = 10 (bottom) for the 462 unrelated individuals.
The lowest cross-validation error was obtained at K = 6 (Supplementary Fig. 5). Populations are delimited by black borders.
Population width is not proportional to population sample size, which is indicated in parentheses.
Supplementary Figure 3. PCA of whole genomes of populations from the Pacific, East/SoutheastAsia and Europe.
URLリンク(image.prntscr.com)
These include Europeans, East/SoutheastAsians, indigenous Australians, Papua New Guinea highlanders, Bismarck islanders, as well as the populations studied here (i.e., Taiwanese indigenous pe
163:oples, Philippine populations, Solomon islanders and ni-Vanuatu). The variance explained by each PC is indicated in brackets. The dashed areaindicates samples with non-negligible proportions of African or European ancestry (Supplementary Table 1). Supplementary Figure 4. PCA of whole genomes of Pacific populations. a, PC3versus PC4, b, PC5 versus PC6. The variance explained by each PC is given in brackets. Supplementary Figure 51. Genetic affinities of modern humans to archaic hominins. https://image.prntscr.com/image/bk-0NeLRQ7K0QhFI9sqhtQ.png a, Principal Component Analysis (PCA) of modern human populations projected onto the first two PCs defined by the chimpanzee, the Altai Neanderthal, the Vindija Neanderthal, and the Altai Denisovan genomes. The right panel represents a zoomed-in version of the PCA plot on the left. b,Derived allele sharing of Pacific populations to the Vindija Neanderthal. Z-score of a D-statistic of the form D(X, East Asia/West Eurasia/Africa; Neanderthal, Chimpanzee)is shown against Z-score of D(X, East Asia/West Eurasia/Africa; Neanderthal, Denisova). c,Derived allele sharing of Pacific populations to Altai Denisovan. Z-score of a D-statistic of the form D(X, East Asia/West Eurasia; Denisova, Chimpanzee)is shown against Z-score of D(X, East Asia/West Eurasia; Denisova, Neanderthal). Dotted lines indicate significant derived allele sharing (|Z-score| >2). Population sample sizes are reported in Supplementary Table 1.
164:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/02 13:17:01.31 YoNHE1F3.net
>>160
K = 6がいちばんcross-validationエラーが低い
165:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/03 08:03:55.51 8D/QJ398.net
シベリア周辺の少数言語まとめ
URLリンク(www.youtube.com)
166:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/03 20:44:04.17 8D/QJ398.net
韓国には、水+田を意味する「畓」という独自の漢字があるが、日本は火+田で「畑」にした
いずれも中国にはない独自の漢字である
歴史でみると、米好きの韓国人は水田にこだわり、雑穀好きの日本人は焼畑にこだわったようだ
しかし近代に入り、寿司が日本人の国民食となり、ナショナリズムに深く関わるようになったため
ネトウヨは日本人が併合時代に韓国人に稲作を教えてあげたなどという偽歴史を広めている
URLリンク(static.news.zumst.com)
167:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/03 21:06:49.19 KeX2MZ6+.net
>>163
石高というコメの生産量しめす言葉あるだろ
朝鮮は同時代にはコーリャンばっかだった
168:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/03 23:37:31.42 8D/QJ398.net
>>164
とネトウヨは息をするように嘘をつく
山梨大学がまとめた朝鮮半島の水田遺跡一覧(p372)
URLリンク(www.museum.pref.yamanashi.jp)
169:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/04 20:00:18.66 afojQT26.net
【日本語の起源】東アジアの言語史まとめ【仮説】
URLリンク(www.youtube.com)
170:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/04 21:18:16.84 EX6Cvd+4.net
>>165
水田遺構じゃなく
常習的に大衆みんなが食べてたかという話
171:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/04 22:48:25.99 afojQT26.net
>>167
日帝支配下の満州に稲作を広めたのは朝鮮系移民
なんせ朝鮮人が水田を開墾しすぎたせいで、水利をめぐって現地の中国人農耕民と争いになり
1931年にはあの万宝山事件が起きている
まあ、歴史でみると、朝鮮人と弥生人(=朝鮮人)は米好きでよく米を食べる
172:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/04 23:30:56.49 EX6Cvd+4.net
関係ねーw
イザベラ・バード読もう
173:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/04 23:31:25.39 EX6Cvd+4.net
こういうガボン思考ってどういう人間なんだ
174:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/06 15:08:25.60 vW0EDBqi.net
>>170
自分と他者を欺き洗脳していくタイプ
麻原彰晃とかと同じ
175:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/06 15:45:47.86 vW0EDBqi.net
もしくは虐待被害者だろうね
未熟な脳に過度の刷り込みを受け
閉じ切った世界観を構築しているのが特徴
しかし本人に虐げられた自覚はない
176:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/07 20:28:45.90 ng+tnnzo.net
うん
177:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/08 15:57:49.34 VkzWRNPX.net
ウデヘだったと思うけど、狩猟の時や人目出る時にお面をつけて顔を隠したとか何かで読んだ気がするんだけど調べても出て来ない
大陸の書に出てくる「倭面土王」はお面してたんじゃないのかなって思うんだけど
過疎ってるね
178:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/08 18:07:33.51 VkzWRNPX.net
まとめ
北九州弥生人(伽耶語・倭語) ← 現代日本人のベース(平民)
土井ヶ浜弥生人(新羅語)
出雲人(新羅語)
西北九州弥生人(プロト琉球語) ← 奴隷
南九州弥生人(プロト琉球語・奄美等訳語) ← 奴隷
隼人・熊襲(プロト琉球語・奄美等訳語) ← 奴隷
蝦夷(夷語・プロトアイヌ語) ← 奴隷以下の非人・悪鬼
奈良飛鳥人(扶余系・百済語) ← 日本の支配層
179:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/08 20:05:55.83 B6cTh/av.net
アイヌを奴隷以下の非人と言ってるのはこいつらです
180:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/08 23:52:38.45 VkzWRNPX.net
倭の大乱(出雲と大和の戦い:178~184年)の際に、新羅は出雲の要請で味方した為め、大和朝廷の不信を買うこととなった、と云う説は説得力がある
181:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/09 01:17:21.66 YaPv1cwU.net
倭国大乱の歴史的意義として、卑弥呼を中心とした新たな政治体制が再編成されたことが挙げられる
近畿・中国地方などで2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっており、卑弥呼による新政治体制は文化面でも大きな影響を与えた可能性がある
182:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/09 05:42:38.90 YaPv1cwU.net
山陰における日朝関係史(I) 内藤正中(島根大学名誉教授)
doi: URLリンク(doi.org)
新羅からは、潮流に乗って船を漕ぎ出すと自然に出雲に着岸するわけで、韓国の学者も、古代に慶尚道 - 木出島 - 風島 - 欝陵島 - 隠岐 - 出雲というコースがあったことを指摘している。出雲神話は、対岸に位置する新羅との深いつながりがあったことを教えてくれるし、新羅の神話のなかでも、新羅人の倭への移住について語られている。
733年『出雲国風土記』には、記紀にはない国づくり神話が物語られている。八束水臣津野命が、出雲国は若国である、自分が大きな国にしてあげようといって、海の彼方の地から国引きをする。初めに国引きをしたのは、「栲衾志羅紀の三埼」であり、それでもって「去豆の折絶よりして、八穂米支豆支の御碕」をつくったという。新羅の余りを引いてきて出雲大杜が鎮座する杵築の地をつくったという説話は、新羅人による渡来を物語るものといってよい。
720年『日本書紀』では、須佐袁命が出雲に天降ったこと、そして韓鋤之剣で八俣大蛇を退治したことを記している。『日本書紀』には「一書によると」として、須佐袁命は五十猛命とともに新羅国に天降り、曾尸茂梨の地に住んでいたが、植土で舟をつくり海を渡って出雲に到ったとある。曾尸茂梨は、新羅の都であった慶州の地であるとされており、水野佑氏によると、八岐大蛇の説話についても、慶州盆地を流れる兄江流域の溪谷につくられていた六村にはじまる新羅の建国神話にもとづくとしている。
新羅からの渡来神を祀る神杜は、『延喜式』神名帳では134杜を数えるという。国別では出雲の11杜がもっとも多く、次いで近江の10杜、そして大和。伊勢・越前・能登の各8杜などである。いずれも朝鮮半島からの渡来人が多かったといわれる地域であるが、なかでも出雲が、渡来神を祀る神杜数で傑出していることは注目されなければならない。
722年には日本の進攻に備えて新羅の毛伐郡に新しい城が築かれ、731年には300艘の日本水軍が東海岸を襲撃して撃退されたことなどが、新羅の史料にはみられる。日本側の史料でも、732年には新羅の進攻に対処するためにという理由で、山陰・西海・東海・東山の四道に節度使が任命されたことなどが出ている。779年の公的な関係断絶に至るまで、新羅と日本の敵対関係は強められていったのである。
『出雲国風土記』が勘造された733年は、山陰遣節度使が中央政府によって任命された翌年であり、同書には新羅に対する緊張関係の姿が反映されているといわれている。他の風土記とは異なって、軍団の配備や水軍の基地などについて詳細な記述があるほか、新羅からの渡来神を祀る神杜も意図的に抹消されるなど、「新羅に近し」という地理的条件にある出雲の徴妙な立場がみられるのであった。
183:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/09 10:28:24.12 YaPv1cwU.net
「三国志」魏志東夷伝には、以下のように描かれている:
1) 高句麗は「東夷旧語以為夫余別種、言語諸事多与夫余同、其性気衣服有異」
(夫余族とは別種だが、言語、諸事で夫余と同じことが多い。性気や衣服には違いがある)とある。
2) 穢(わい)は「言語法俗、大抵与句麗同、衣服有異」
(言語、法、風俗は高句麗とほぼ同じであり、衣服には違いがある)とある。(「後漢書」高句麗条(445年以前)にもほぼ同様の記述が見られる。)
3) 沃沮(東沃沮)(よくそ)は「其言語与句麗大同、時時小異」
(言語は高句麗語とほぼ同じであるが、時折小さな違いがある)とある。(「後漢書」にもほぼ同様の記述が見られる。)
これら3点の記述から高句麗語、穢語、沃沮(東沃沮)語は一つの語群をなしていると考えていいだろう。
Beckwith(2002)は、高句麗祖語が中国の呉、越のあった地域から北上し、中国東北部に至ったとし、
中期朝鮮語やツングース諸言語とは全く異なる言語であり、古代日本語は高句麗語と同系の言語であるとしている。
高句麗の地名は、どの時期の言語をさすかは議論の余地がある。
三国史記地理志の巻35,37に表された地名は現代の京畿、江原、黄海の3道とそれに接する忠北、慶北、咸南の一部を含む地域であり、
本来ここは夫余系諸語を用いた穢、または夫余系の南下支流の百済が興ったところである。
184:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 00:17:32.19 5X5PMP8N.net
で、沃沮が沿海州だとしたら
全てがつながる
185:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 00:18:41.30 5X5PMP8N.net
沃沮は地形が特徴的、東北にいたるほど細くなり、その先にユーロウがある
西南にいくほど広がっていく、淡路島に近い地形
ほぼハバロフスクだろ
186:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 00:28:23.69 5X5PMP8N.net
北沃沮は山を背にして日本海側
冬は海が氷結するが夏になるとなくなるのでユーロうが船に乗って攻めてくる
その間じゅう北沃沮は山に逃れてやりすごす
東沃沮の中の川むこうには沃沮城があり、そこが滅ぼされ、第一玄兎郡が置かれた
第一玄兎は蒼海郡の地にあり、大きな海が関係するのがわかる
187:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 00:32:47.63 5X5PMP8N.net
蒼海郡(そうかいぐん)は、紀元前128年に漢の武帝が朝鮮北部から満州南部にかけて設置した
植民地である[1]。『漢書』武帝紀では蒼海郡、『漢書』食貨志では滄海郡と表記される。
衛氏朝鮮に服属していた?(?)の君主である南閭らが、衛氏朝鮮の衛右渠に叛いて、28万人
を率いて漢に投降したことがきっかけで、蒼海郡が設置されたが、2年後の紀元前126年に公孫弘
の建議により廃止された[2]。
蒼海郡の正確な場所は分かっていないが、現在の咸鏡南道・江原道など日本海に面した地域と
推定されている[3]。蒼海郡の設置は漢の朝鮮進出を促進し、紀元前108年に漢が衛氏朝鮮を
滅ぼし漢四郡を設置したことにつながる[4]。蒼海郡は漢四郡の1つである玄菟郡と深い関連がある。
188:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 01:01:46.48 5X5PMP8N.net
漢初 燕亡人衛満王朝鮮時 沃沮皆屬焉
漢武帝元封二年 伐朝鮮殺満孫右渠
分其地為四郡 以沃沮城為玄菟郡 後為
夷?所犯徒郡句麗西北 今所謂玄菟故府
是也
「漢の初期、燕の逃亡者、衛満が朝鮮で王になった時、沃沮はみな朝鮮に属した。漢の武帝の
元封二年、朝鮮を攻撃し、(衛)満の子孫の右渠を殺して、その地を分けて四郡となしたとき、
沃沮城を玄菟郡にした。後、周辺の民族(夷貊)が侵入して荒らしたため、郡は高句麗西北に
移った。今、玄菟故府というのがこれ(元玄菟郡)である。」
沃沮還屬樂浪 漢以土地廣遠在 單單大
領之東分置東部都尉 治不耐城別主領東
七縣 時沃沮亦皆為縣
「沃沮は(中国に)戻って、樂浪郡に属した。漢は樂浪の土地が広く遠いため、単単大領の東は
分けて東部都尉を置き、不耐城で統治して、(単単大)領東の七県を別に治めさせた。その時、
沃沮もまた、みな県になったのである。」
この「不耐城」てのはfu soで沃沮(本来はさんずい夫沮)だろうか
色々表記の揺れが重なってこうなったのか
これは沃沮城で本来の玄兎城ではないのか
だとしたら、日本海側の北沃沮の場所にあるんじゃないのか
189:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 01:05:24.38 5X5PMP8N.net
>後、周辺の民族(夷貊)が侵入して荒らしたため
これはユーロウ以外、周辺民族ってあるのだろうか
同族の扶余、高句麗が荒らすか?そうなら名指しされてないだろうか
公孫が「この場所に統治機関を置くのはやめておけ」に言ったのは
ロシアの日本海側ていうおかしな場所だったからではないのか
190:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 01:25:16.02 5X5PMP8N.net
北沃沮一名置溝婁 去南沃沮八百餘里 其俗南北皆同 與?yu婁接
?yu婁喜乗船寇鈔 北沃沮畏之 夏月恒在山?深穴中為守備 冬月
氷凍船道不通乃下居村落
「北沃沮は置溝婁(チコウロウ)ともいう。南沃沮を去ること八百余里。風俗は南北とも同じである。
北沃沮は?婁と接している。?婁は船に乗り略奪することを喜びとしており、北沃沮はこれを畏れて
いる。夏の間は常に山の嶮しく深い穴の中にいて守り備えている。冬は船の通り道が氷結し、航海が
不可能になるので、山を下り村落に住む。」
置溝婁(チコウロウ)は買溝婁(マイ・ガウ・ルー)の誤字だとされていて、
これは北沃沮がユーロウに滅ぼされた後、モツキツ→靺鞨(マッハル)になった可能性がある
ツングース習俗の民族が北沃沮の地名を民族名とした
何故か?その地域に居城があったからか?
191:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 01:27:42.32 5X5PMP8N.net
この溝婁は高句麗語のコル(城)と同語だろうと考える
192:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/10 22:36:01.66 0UbCBoSh.net
高句麗の遺民が、沿海州側に渤海国を建国したが、
その「渤海」とは、もともとは遼東半島の海域を指すものだ
失地回復を願ってそう名付けたんだろう
「日本」という国号も、似たようないきさつで誕生したんだろう
百済の遺民が故郷の半島を偲んでこの列島を日本と名付けた
193:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/11 02:57:18.86 w+e9dsr/.net
日本で最大の繁華街の心斎橋はもともと「新羅橋」と呼ばれてた
「百済橋」も「高句麗橋」も存在していた
そして日本で最初の勅願寺は枚方の「百済大寺」
渡来人が植民地にして発展したのが近畿だから当たり前の話
アメリカに「ボストン」や「ポーツマス」といったイギリス由来の地名があるのと同じ理由
194:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/11 06:52:14.45 w+e9dsr/.net
日本人の正体が公共放送でバラされた歴史的瞬間
篠田謙一「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」
URLリンク(i.imgur.com)
195:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/11 21:55:12.62 hZXF5tZD.net
>>189
渤海は満州
196:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/11 21:56:02.29 hZXF5tZD.net
渤海は漢民族を取り入れ漢語を取り入れ共通語とし、自らも漢人と呼ばれた
アイデンティティも消えてる
197:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 06:59:14.37 XdpEpxw0.net
ジャポニックの正体は扶余語族であり、縄文語は日本語にほとんど影響を与えておらず
日本人が縄文語というものを意識してしゃべるようになったのは、
漫画の『ゴールデンカムイ』が連載されてから。これがネタでもなんでもないのが悲しいところだ
列島新来のジャポニックにとって、列島先住の縄文語族(プレアイヌ)は征夷すべき異民族にしか過ぎなかった
198:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 16:38:31.15 hpzQrmHA.net
半島じゃないの理解したか?
沿海州だ
199:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 16:39:18.78 hpzQrmHA.net
それによれば、沿海州における新石器時代~青銅器時代の各遺跡文化層の堆積順序に
基づき、以下のようにまとめられる。ボイスマン最下層→ボイスマンⅡ・ザレチェⅠ(編目文・櫛
文が施されたもの)→ハンシⅠ・クロウノフカⅠ(縄線文)・亜布力→ボイスマンⅠ(縄線文)→
ザイサノフカⅠ・クロウノフカⅠ(ジグザグ文・雷文、ミガキ整形)の各段階である。また文化編年
は前期がルードナヤ文化・ボイスマン文化と後期のザイサノフカ文化とに分けられる。ハバロフス
ク州の同時期の詳細は不明であるが、文化編年は、アムール編目文土器の存在から前期は
ルードナヤ文化圏に含まれ、後期はヴォスネセノフカ文化(ヴォズネセノフカ上層)とすることがき
る。新石器時代土器の特徴的な体部文様として、前期-編目文・櫛目文、後期-櫛目文
・ジグザグ文・渦巻文・幾何学文・雷文が挙げられ、これらはアムール流域・沿海州ともにおお
むね一致することが指摘された。
青銅器(古鉄器)時代については、南西部と東海岸部の間の文化的差異が指摘され、南西
部-シニ・ガイ文化、東海岸部-リドフカー文化が紹介された。両者とも、土器には無文化の
傾向が見られ、青銅器を模倣したと考えられる石製品が出土するが、前者では骨角製品が多
く、土器の突出した口縁部には刻みが施される。また後者では、土偶・石鍬・石包丁が出土し
、土器胎土に粉砕された貝片が混和されるという違いから、両者は系統的に異なる可能性が
指摘されているという。初期鉄器時代にもこうした南西部と東海岸部の文化的差異が受け継
がれ、南西部のヤンコフスキー文化→クロウノフカ文化(団結文化)、東海岸部のウリル文化に
ついてもあわせて紹介された。ヤンコフスキー文化の土器には高坏が見られ、体部文様には鋸
歯文が多く、クロウノフカ文化では把手のついた土器が特徴的に見られる。両者とも鉄製品を
伴うが、石器も依然残存することから、金石併用時代として性格規定できることが指摘された
なお、その後の鉄器時代・中世にはいずれの地域もポリツェ、靺鞨、女真の各文化へと順に移行している。
後期新石器から初期鉄器時代への移行期に見られる外部からの文化要素の受容としては、
特に青銅器(古鉄器)時代と初期鉄器時代に稲作文化的要素の受容が考えられている。一
方福田氏は、土器に関してはその形態的特徴から在地のものが系統的な変遷をたどって変化
した可能性を指摘する。また極東地域、中国東北部、朝鮮半島北部地域の間に文化的境
界は見られず、これらの地域を統合した視野に基づく研究の必要性を強調している。また南西
部と東海岸部の地域差については、特に東海岸部の状況に不明な点が多く、今後の研究の
重要な課題であることが指摘された。
200:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 16:43:21.79 hpzQrmHA.net
URLリンク(21coe.kokugakuin.ac.jp)
>前者(沃沮、扶余系)では骨角製品が多く、土器の突出した口縁部には刻みが施される。
>また後者(ツングース、靺鞨)では、土偶・石鍬・石包丁が出土し、 土器胎土に粉砕された貝片 が
>混和されるという違いから、両者は系統的に異なる可能性が指摘されているという
骨角は牧畜を行っていた沃沮、土器の刻みは日本へ伝わり初期の弥生土器へ
土器に粉砕した貝殻が使われているのは、粛慎などの「東は大海をもって極まる」に一致
粛慎=ユーロウ=靺鞨(女真族)の東の果ては海だった
>クロウノフカ文化では把手のついた土器が特徴的に見られる。
北沃沮は海が凍結しない夏に粛慎から侵攻を受けていた
土器に保存した食物、内陸へ売るための海産物を移動させる必要がある
>また極東地域、中国東北部、朝鮮半島北部地域の間に文化的境
>界は見られず、これらの地域を統合した視野に基づく研究の必要性を強調している。
扶余、高句麗、沃沮は同系民族であって、文化的境界がない、というのも一致
201:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 16:50:34.42 hpzQrmHA.net
高句麗
URLリンク(ja.wikipedia.org)
>407年にも百済へ侵攻して6城を奪い、続いて410年には東扶余(北沃沮)にも侵攻してその王都に迫った[38]。
>このような征服活動についての記録は前述の通り主に広開土王碑文の情報に基づいている。
沃沮には城があり、沃沮(フソ)城として知られていたが、漢民族に支配され第一玄兎城として利用される
(蒼海郡{日本海に面した場所か}→フソ城→玄兎郡)
しかしそれも数年に過ぎず、公孫氏が「この場所は適さない」と助言し、すぐに高句麗近くへ移動(第二玄兎城)
北沃沮はマイコウロウとも呼ばれ、その「溝婁」は高句麗語で「城」の意味
北沃沮は扶余に頼り、その後「東扶余」として残ったが高句麗がその場所にある「居城」を攻め落として滅亡
つまり沃沮城はウラジオストクあたり、もしくはその北の山を背にした日本海側にある!
202:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 17:01:35.04 hpzQrmHA.net
URLリンク(i.imgur.com)
史書のいち関係を見直さなければいけない
古代中国は思われているよりずっと広範囲の情報を得ていた
203:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 17:06:52.02 hpzQrmHA.net
しかしこの表記のぶれが気になる
扶余はもともと夫途(fu tho)に近い音だったんじゃないのか
故に東沃沮(fu so)なんてものが生まれて
その南に南沃沮があって、そっから北沃沮?
204:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 19:39:21.93 hpzQrmHA.net
民族の他称はその民族の「人」を表すことばか一人称になりやすいらしい
(アイヌやらフン族)
穢(我=わい?)
扶余(フト?)沃沮(フソ)
人、、、、ふと、、、、死人(しぶと)?
205:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 20:45:01.20 XdpEpxw0.net
最新の研究でわかってきたのは
ジャポニックを系統別に分けると、おおまか4つに分かれるってこと
・関東語 (無機質日本語)
・畿内・関西弁 ←百済人の方言
・出雲語・東北日本語 (ズーズー弁) ←新羅人の方言
・西北・南九州プレ琉球弥生語 ←隼人・肥前国土蜘蛛の方言
206:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/12 22:57:41.06 XdpEpxw0.net
Evenkはツングース語族では北部型に属す集団(fig. 2a)で、トランスバイカルと極東の2種類に大別され
トランスバイカルのほうは平均的な日本人・朝鮮人とは遺伝的にかけ離れている
極東Evenkのほうも特に近いというわけではない
PCA(fig. 4)で見ると、一口にツングース語族といっても遺伝的に幅があり、それに応じて顔つきや骨格などもバラつきがあると予想される
EvenkとEvenは西ユーラシア人にシフトしており、qpAdm方式の推定により西ユーラシアの系統を14~35%ほど有していることがわかる
言語学の研究ではアムール川流域がプロト・ツングース語族の原郷であると考えられているが
さらに考古学的な証拠を突き詰めると、沿海州南部のハンカ湖(Lake Khanka)周辺がより具体的な場所であることがわかった
東アジアの集団では、朝鮮の遺伝子プールが最もコンパクトかつ綺麗にまとまっており、
ネトウヨなどが理想とする「単一民族」は朝鮮民族が最も近いことになる
Figure 2. Diversity hotspot of the Tungusic languages under the north-south classification in (a) as compared with the hotspot under the Manchu-Tungusic classification in (b).
URLリンク(static.cambridge.org)
Figure 4. Principal component analysis projecting ancient Devil's Gate, Ustlda and Jomon samples onto the variation of present-day East Eurasians.
URLリンク(static.cambridge.org)
The homeland of Proto-Tungusic inferred from contemporary words and ancient genomes
doi: URLリンク(doi.org)
207:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 03:21:59.03 cCqQS9+q.net
「国号の由来」 喜田貞吉 1937年
URLリンク(www.aozora.gr.jp)
されば我が国を日の本と称し始めたことは、実は邦人自身ではなく、当初は朝鮮半島の住民が、その東方なる我が国を呼んだものであったに相違ない。日本紀引くところの百済本紀など、古代朝鮮の書に既に我が国を指して「日本」と書いた例がある。
朝鮮そのものも、また、実は支那から見て日の本であった。朝鮮の地誌なる東国輿地勝覧に朝鮮の名義を解して、「東表日出の地に居るが故に朝鮮と名付く」とある。漢の楊雄が、武帝の徳を頌したる賦に、「西圧二月※一??、東征二日域」とあるのも、西方には西域月氏の地を服し、東方には朝鮮日域の地を平らげたことを述べたもので、ここに「日域」とは朝鮮を目して日出処と呼んだのであった。
叙述するところを通観するに、我が国を日の本と称することは、つとに百済人らの間に始まり、我が国ではそれをヤマトの枕言葉として、「日の本のヤマト」なる熟語が用いらるるに至ったのであったが、推古天皇の国書には支那がクレすなわち日没処であり、また西方の国なるに対して、この日の本の義を表わすに「日出処」或いは「東」の文字を用い給い、ついで大化の改新に際してヤマトに当つるに始めてその枕言葉なる「日本」の文字を以てするの例が始まり文武天皇の御代大宝令の制定に至りて、初めて我が国号として、翌年遣唐使の入唐に際し、これを彼に通告したという順序となるのである。
支那を日没処と呼ぶことは、実はこの時に始まったものではなく、その由来はすこぶる久しいものであった。応神天皇以来交通した東晋以下、宋・斉・梁等の所謂南朝の諸国は、通じてこれを「クレ」と呼び、「呉」の字を当つる例で、今に至ってなお「呉」の字をクレと読む習慣になっているのである。当時これら南朝の諸国に当つるに「呉」の称を以てしたことは、これらの諸国が古え三国時代の呉国の域に当るが為めで、それはつとに百済人等の用いたところをそのままに襲用したに他ならぬ。
208:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 06:29:47.46 cCqQS9+q.net
The classification of the Japonic languages (Elisabeth M. de Boer)
[2020, The Oxford Guide to the Transeurasian Languages]
Figure 4. Japonic language family tree, with marking of tonal type
URLリンク(image.prntscr.com)
209:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 14:46:09.95 cCqQS9+q.net
喜田貞吉「我が国を日の本と称することは、邦人自身ではなく、百済人らの間に始まった」
210:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 22:10:04.78 iKzKJlZW.net
>>203
ハンカ湖とか、そんな下なわけないだろう
元々ネネツなんかと同じ生活スタイルをしてたんだよ
だから小便をためてそれで手や顔を洗うんだって
極寒の地域にいた民族
211:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 22:22:36.91 iKzKJlZW.net
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(imgur.com)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
URLリンク(qph.fs.quoracdn.net)
韓国は南にいくほどC2(ツングース系)が多い?
本来の原住民はツングースだったのでは
212:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 22:38:56.97 cCqQS9+q.net
>>207
ネネツなんてツングース語族と何の関係もない
言語学では分岐が激しい地点が、その語族の故地だと考えられている
台湾がオーストロネシア語族の故地だと考えられてるのは、島内だけで20以上もの言語に分岐しているため
アウト・オブ・台湾モデルと呼ばれ、そこからオーストロネシア語族が太平洋諸島に拡大していった
このモデルをツングース語族に当てはめたところ、沿海州のアムール川で激しく分岐しており、
さらに考古学的証拠を突き詰めたところ、ハンカ湖が具体的なツングース語族の故地だと結論が下されたわけだ
213:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 22:47:35.97 iKzKJlZW.net
そら粛慎みたいな辺境から始まって(その時から山で居住するグループもあった)
靺鞨女真を経て広がった結果だ
それは語族とは言えないだろう
生活スタイルが北方
214:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/13 23:03:21.43 cCqQS9+q.net
>>210
言語族の拡大は農耕と密接に関係しているんだよ
これは日本も例外ではなく、やはり真っ先に水稲を取り入れた北九州弥生人が最も遺伝的に繁栄している
沿海州のハンカ湖は比較的温暖で、新石器時代の農業の北端に近い領域であったため
この地域に居住していたツングース語族が最も繁栄したわけだ
ニヴフなどの古アムール語族は、農耕化の波に出遅れたため、勢力を伸ばせず消滅していった
といっても、いまではツングース語族もロシアの同化政策により消滅の危機にあるのだが
215:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 00:39:31.38 izdkxbZJ.net
ロシアは同化政策なんかしないだろ
同化政策やるのはアイヌでやってる日本みたいな民族
216:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 00:44:13.73 izdkxbZJ.net
>>211
農耕化なんてしてないだろ
ツングース、粛慎は周の時代に中国へ朝貢を行ったが
その後沃沮、ワイ族が対等してきてそれが途絶え、
また中国がそれらを攻撃して服属させてから朝貢した
つまり、ハバロフスクには元々ツングースが住んでいたかもしれないが
それがO1b集団(農耕民)に押し出されて、東の果て、海のある場所にまでおしやられた
それが中国の支配下に入って、また史書に名前が出るようになった
217:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 00:47:53.64 izdkxbZJ.net
>>197
>また後者(ツングース、靺鞨)では、土偶・石鍬・石包丁が出土し、 土器胎土に粉砕された貝片 が
>混和されるという違いから、両者は系統的に異なる可能性が指摘されているという
ロシアの考古学ではハバロフスクの東の果てでは文化が違い、土器に貝殻の破片を混ぜて作る製法が行われていた
貝殻を入れるには海が必要
つまり東の果ての大海を望む粛慎がそれに一致する
ハバロフスクの東南の部分と思うかもしれないが
粛慎と同じく「北沃沮」も東は大海に極まると書かれていて、この2つは両立しないといけない
218:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 02:22:14.25 7gOx81k7.net
>>213
おまえの脳内で自己完結した妄想史を語られてもな
現実には、1900BC頃となるBogolyubovka遺跡で雑穀栽培と農耕具が確認されているから
この頃にはすでにハンカ湖周辺のツングース語族は農耕化している
どうやら沿海州でZaisanovka文化が成立する頃に、
遼西から雑穀・紡錘車などの一連の農耕民族パッケージが伝播したようだ
URLリンク(image.prntscr.com)
219:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 02:27:56.98 7gOx81k7.net
>>212
ツングースはロシア人と混ざって半白人化してる
というかシベリア一帯そうだが
220:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 21:14:31.08 izdkxbZJ.net
>>216
それは元からだろ
で日本以上に民族浄化してるのか?
221:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 21:16:52.28 izdkxbZJ.net
>>215
じゃあなんで日本にツングースの痕跡、YDNAがほとんどないんだ?
取るに足らない人口しかなかった証明だろ
222:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 23:48:19.97 7gOx81k7.net
ロシア極東における農耕の最古の証拠は、後期新石器時代となるKrounovka遺跡から発見された。
沿海州における農耕の開始時期は、当初は青銅器時代と思われていたが、のちに後期新石器時代に再設定された。
韓国でも同時期に農耕が始まっており、後期新石器時代に満州から人類の移動があったと推定される。
Fig. 1. The earliest sites with evidence of agriculture in Primorye Province:
URLリンク(image.prntscr.com)
223:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/14 23:59:08.68 7gOx81k7.net
C2のオリジナルの狩猟採集民の言語は、ニヴフの古アムール語であった可能性がある
ハンカ湖のあたりで勢力拡大したツングース語族が、古アムール語を取り込み、言語を塗り替えていった
このツングース言語がC2から内部発生したものなのか、O系統が齎したものなのかは定かではない
224:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/15 00:20:05.51 CgSN8EO1.net
O1bが扶余語族として日本語になったと考えた場合
そこにツングースの影響は皆無になる
日本には韓国ほど�
225:ノもC2は存在しない
226:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/15 04:53:45.43 M6ozf8H/.net
土井ヶ浜遺跡の砂丘から300体人骨が発掘されているが、全て響灘に顔を向けて眠っている。
頭蓋だけが集骨されている区域でもこの原則は破られていない。
土井ヶ浜人骨(人類学ミュージアム)
URLリンク(geolog.mydns.jp)
土井ヶ浜人の視線の向こうには水田稲作伝播の最有力ルート、南朝鮮から山東半島がある。
URLリンク(geolog.mydns.jp)
227:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/15 06:05:32.40 M6ozf8H/.net
出雲弁の文末語にはハングルの文末語にそっくりなものが多い。
「いつ来たかや→~コヤ」 「行くけんね→~ケンネ」 「蝶がとんじょう→~ジョ」 「当然だじ→~ジ」
「おいしいがな→~グナ」 「忙しいがや→~ゴヤ」 「金がないじょ→~ジヨ」 「暇がないだ→~ダ」
「さっき来たに→~トニ」 「結婚しただに→~ダニ」 「信じちょう→~チョ」 「若いすぎるけん→~クン」
「病気になあよ→~ナヨ」 「晴れてるけんよ→~クンヨ」
出雲弁は発音もハングルに似ている。
図書館<トソクァン> → トソクァン 医大<ウィダエ> → ウィダエ 勤務<クィンム> → クィンム
過去<クァコ> → クァコ 関係<クァンケェ> → クァンケ 大家<タェクァ> → タェカ
計算<ケェサン> → ケサン 宿舎<スクサ> → スクサ 近視<クィンシ> → クンシ
修理<スゥリ> → スリ 焼却<ソゥカク> → ソカク 感謝<カンサ> → カムサ
台数<ダエスゥ> → ダエス 内科<ナエクァ> → ナエクァ 謝礼<サレェ> → サレ
朝鮮では標準語として使われているものが、出雲では方言であるというのは不思議である。
いわゆる「ずうずう弁」なるものが、出雲・日本海沿岸に存在するということは、対岸の朝鮮から伝播したと考えられる。
岩見弁では「行くけえ」「あげるけえ」「がんばるけえ」などと語末に「~けえ」をつけるが、これは朝鮮人が「~ケエ」と言うのに似ている。
山口・広島では「止めようじゃ」「雨が降るじゃ」「すぐ直るじゃ」のように文末に「~じゃ」をつけるが、朝鮮語でも「~ジャ」と言う。
これらの言葉が、朝鮮語では標準語で使われているのは何故であろうか。
228:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/15 13:25:40.63 IsT0/Nnl.net
>>223
出雲のズーズー弁は松本清張の小説に出てたね
229:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/15 23:41:03.02 CgSN8EO1.net
>>223
ツングース由来はないのか?
230:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/16 18:10:23.10 k5X+auRh.net
小学生でもわかる『ヤマト民族』の形成史 かんたん解説
URLリンク(www.gondo.com)
半島南部から北九州弥生人(扶余系・朝鮮人)、土井ヶ浜弥生人(韓系・朝鮮人)が侵入
西北・南九州弥生人(プレ琉球人)を奄美・沖縄に押しやり、倭国大乱(北九州王朝と出雲王朝の争い)を経てヤマト民族が誕生
さらに東征し、東日本の蝦夷(プレアイヌ)をジェノサイドし、百済の王朝を奈良(那羅)にコピペして完成
231:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/17 02:05:50.02 B8F+xl3V.net
BC10世紀に扶余系がどうやってきたかを考える必要がある
沿海州ならつじつまがあうんだよ
232:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/17 10:26:29.43 YEs8llP/.net
水野祐氏は、『豊後国風土記』や『肥前国風土記』にみられる土蜘妹は九州の海岸一帯に生活の基盤を持っていた海人集団、つまり漁撈民集団だったと説いている。さらに、土蜘蛛伝承の本体は九州にあり、それがある時期に大和へ伝播して潤色された結果、異族視されるような物語へと発展したと考えている。すなわち、土蜘蛛とは九州地方の漁撈民に与えられた名であるが、その名が大和へ伝わり、非実在的な反逆者として扱われるようになったと結論づけているのである。
233:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/17 20:11:12.97 B8F+xl3V.net
海女、潜水漁法やるために入れ墨入れてたと言われてるのに
なんで山に住んでる集団が海の集団になるんだ
234:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/18 03:02:45.62 HhWHOhY9.net
核ゲノム解析により、アイヌは日本列島の先住民で確定したが、琉球民族はどうも事情が異なる
琉球民族は、おおよそ朝鮮人70%・縄文人30%のADMIXTURE系統比でモデル化され、その原郷は西北・南九州にあるとおもわれる
北九州・半島南部で新たに誕生したヤマト民族(朝鮮人90%・縄文人10%の系統比)に勢力で押される形で
奄美・沖縄へと南下し、農耕・水稲パッケージを取り入れ、グスク時代にいまの琉球民族のベースが形成されたとおもわれる
隼人はプレ琉球人の可能性があり、720年に南九州で「隼人の反乱」が起こっているが、琉球民族の形成と何か関係があるかもしれない
同時期に編纂された「肥前国風土記」によると、土蜘蛛の容貌は隼人に似るとあり、これらの九州の風土記もプレ琉球人の実態を知るための手がかりとなる
235:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/18 05:18:00.62 WEQ4KDBu.net
【ウーマン村本】「原発処理水に関して科学を信じろという人はDNA検査をして自分が何人か調べてもらい、それを名札に貼って街を歩こう」
スレリンク(mnewsplus板)
「原発の処理水に対して科学を信じろ、という人たちは、科学が正しいなら、DNA検査をして自分が本当はなに人か調べて貰えばいい。韓国朝鮮かも。みんなで一度、その科学を信じて自分がなに人なのか調べよう。そしてそれを名札で貼って街を歩こう」
236:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/18 13:40:41.89 HhWHOhY9.net
Japono-Koreanic祖語からは海に関する語彙が再構成でき、Robbeets (2017b) は、Japono-Koreanic祖語が渤海沿岸や遼東半島で話されていたと提唱した。
pJK *p?n? ‘boat’
pJK *poko ‘swellfish,Takifugu chinensis’
pJK *keni ‘crab Portunus trituberculatus’
ツングース祖語では、このような海に関する語彙の復元は不可能である。さらに、プロト・ツングースは、「(海からの)暖かい風」や「クジラ」などの海に関する語彙を、ニヴフ言語の祖先から借りていた。このことから、ツングースは西遼河から沿海州の沿岸部に到達し、そこで祖型のニヴフ語を話す先住民と接触し、海に関する語彙に親しむようになったと考えられる。
人類集団が言語・文化を伴って新しい地域に移動した場合、現地民が自分の言語を捨てて、新しく入ってきた目標言語を使うというシフトが頻繁に見られる。放棄された言語が、目標言語に何らかの痕跡を残すことがある。一方、文化拡散の場合は、現地民は自分の言語を維持しつつ、モデル言語から特定の単語を借用することが多い。
プロト・ニヴフを沿海州の沿岸部集団と関連付け、プロト・ツングースを3500 BCEに中国東北部から雑穀を持ち込んだ農耕集団と関連付けた。海に関する借用語を除いて、プロト・ツングースがプロト・ニブフから借用した単語はほとんどない。それとは対照的に、プロト・ニヴフ基層言語がプロト・ツングースに干渉していることを示す証拠がいくつかある。これらの観察は、プロト・ニヴフの集団の一部が自分たちの言語を捨てて、プロト・ツングース語を採用したという言語転換を示唆している。したがって、言語学の知見からは、文化拡散よりも人類の移動が支持される。
考古学的な証拠は、紀元前4千年紀の半ば頃に、中国東北部から沿海州に雑穀栽培が伝わったことを示している。この伝播は、同時代の東アジアにおける農業の広範な拡大の一部と考えられる。言語学的な証拠は考古学的な記録と一致しており、ツングース祖語を話す雑穀農耕民が西遼河から内陸ルートで沿海州に到達したことを示唆している。
沿海州の狩猟採集民と農耕民の間に観察された遺伝的連続性は、2つの類似した遺伝的プロファイルの混血を排除するものではなく、5000 BCE以前に遼河から沿海州にかけての地域一帯を、アムール的な遺伝子プールが覆っていたという Ning (2018a,2018b) の結論と一致する。
Fig.7.Language dispersals associated with millet farming in Neolithic Northeast Asia. Map by M. O’Reilly, MPI-SHH
URLリンク(ars.els-cdn.com)
Millet agriculture dispersed from Northeast China to the Russian Far East: Integrating archaeology, genetics, and linguistics
doi: URLリンク(doi.org)
237:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/18 23:39:43.79 0bm1NeT6.net
むしろその農業を伝えたのがO1bで
ツングースは殷王朝の時代に中原と関係が途絶えた
それが周の時代に周が東夷を支配するようになると粛慎が歴史に現れるようになる
BC1500年前あたり~・・O1bが沿海州を侵略、ツングースをレイプ
BC1000あたり・・・・・・山東半島、半島などに稲作、日本にも稲作、東夷を周が支配し礼儀を伝える、粛慎と関係が回復
だから最終的に女真族にほろぼされるのは因果応報だったのかも
238:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/19 00:01:47.06 8f+eqDry.net
Yhap C2の狩猟採集民の言語は、Tungusicではなく、Amuric(ニヴフ語)であった可能性がある
一般的にツングース語族やモンゴル語族というとC2のイメージがあるが、
彼らの言語がC2から内部発生したものなのか、O系統が齎したものなのかは定かではない
3500 BC頃、ツングース語族が西遼河から沿海州に移動して雑穀農耕を持ち込み、
ハンカ湖を拠点にして人口を増大させ、Zaisanovka文化複合体が出現する
アムール川の集団を取り込んで在来の言語を塗り替えていったため、最終的にニヴフ語が孤立化した
つまりツングース語族は日本語・朝鮮語族と祖を共有する農耕集団であった
239:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/19 00:58:27.46 fso3S4J1.net
ないない
孤立言語を無理やりあわせないように
240:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/19 00:59:40.55 fso3S4J1.net
ツングースが渡来してるなら
日本にハプロC2がもっといるはずだろ?
全くいない、そしてツングース語もまったく痕跡がない
いきなり突然あらわれたO1bが、そのまま沿海州から海渡ってきて、そんで亀ヶ岡が渡来第一波
241:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/19 01:02:31.45 8f+eqDry.net
>>235
>>236
北東アジアにおける農耕の源流は南満州(初期・新石器時代)にあり、
c.7500-6500 BP (c.6200-5100calBC) 頃からすでに雑穀が栽培されていた。
沿海州では、雑穀栽培の登場は、Zaisanovka文化複合体の文脈において、
後期・新石器時代のc.4700-4600 BP (c.3600-3400calBC) に位置づけられる。
韓国でも同時期に農耕が始まっており、南満州から人類の移動があったと推定される。
先史時代の沿海州の発展は、ローカル・プロセスと北東アジアの近隣地域からの影響が組み合わさったものであった。
Fig. 1. The earliest sites with evidence of agriculture in Primorye Province:
URLリンク(image.prntscr.com)
The beginnings of prehistoric agriculture in the Russian Far East: Current evidence and concepts
doi: URLリンク(doi.org)
242:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/19 13:29:05.43 Ei+xYCkD.net
>>226
西北・南九州弥生人の遺伝子は今の長崎や鹿児島にも残ってる。
決して沖縄に追い出されたわけではないし、五島列島人も西北九州弥生人の特徴が強い。
長崎弁や鹿児島弁の二型アクセントは西北・南九州弥生人の名残と言われる。
243:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/19 15:23:37.56 Qs8i+U8n.net
>>236
C2相当数いると思うが
なんでも韓国人と比較するから少なく思うんじゃね
244:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/20 00:59:55.88 TM/zTuDY.net
>>239
URLリンク(blog.goo.ne.jp)
沖縄とかになるとほとんどいなくなる
C1aはいる
245:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/20 14:24:29.52 /xmgizkM.net
そりゃ本土がツングースってことだろ
URLリンク(i.imgur.com)
沖縄にも悪魔の門洞窟と同じL1373までいるがな
246:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/20 18:49:57.73 G39lX6Sb.net
小保方「STAP細胞はありまーす」
ジャップ「神武天皇は実在しまーす」
なにが違うのこれ?
247:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/20 21:57:19.21 TM/zTuDY.net
>>241
そら琉球を日本にしてから渡った日本人も当然いるだろ
それにしてもC1aの率が高すぎないか?
一番高いのが四国の山奥なのが関係してるのか
248:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/21 06:38:05.66 SZo+8JiA.net
>>243
意味不明
沖縄C2は近年の移住だって言いたいの?
小橋川っていう沖縄由来の日系人からC2出てるけど
249:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/21 22:44:30.50 0NHyr8Nf.net
沖縄は島ごとのYDNA調査ないのか
それの比較できればすぐわかりそうだが
変な作為入れる人間がいるかな
ここのムムンみたいなのが調査すると自分に有利になるように捏造する
そういうタイプ
250:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/22 04:05:44.68 NmFrXq2Y.net
>>245
沖縄人は、西北・南九州弥生人(隼人・肥前国土蜘蛛)の末裔で、学術的に決着しつつある
>琉球民族のゲノムは華南・マレー系などの影響はほとんどなく、日本人ゲノムクラスターの延長にきます。
>平均的な琉球人の持っている全ゲノムのうち、縄文人由来の割合が25~30%程度であるという。
>全ゲノム研究によると、本土日本人の影響を強く受けており、華南とはかなり遠いと判明した。
>さらに言うと、華北の影響を受けているが、これは本土から南下した弥生人がもたらしたものである。
>沖縄には国内最古級の旧石器時代の遺構は多数あるものの、縄文時代の遺跡が殆どなく、空白の時代であるため、
>比較的新しい時代に本土から縄文系の集団(特に西北九州や南九州弥生人)が南下してきて、
>縄文人由来の遺伝子が陸封され、現在の琉球民族を形成したと考えられる。
>喜界島城久遺跡などの考古学的知見や琉球祖語の拡散年代を鑑みるに、
>琉球民族の祖先は九州から南下してきた縄文遺伝子の強い人々(琉球弥生人)でほぼ間違い無いです。
>彼らは平安時代前期(9世紀ごろ)に九州辺境にいた農民や武士であり、
>華南や台湾先住民との遺伝的関係はほとんどないと思われます。
>西北九州弥生人は水稲を行わず、海上交易と沿岸漁労のみの生活を行なっていたので、
>南西諸島には稲作は伝えられず、結果として南西諸島への水稲到達は本土のおよそ10世紀以上も後になります。
>(日本の中では水稲を行う気候条件に最も恵まれているにも関わらず)
>琉球弥生人は、この西北九州弥生人が定住したものの末裔であると考えられます。
>日本本土では古墳時代半ばごろに突如として南海産貝輪の流通がストップするので、
>この時期に西北九州弥生人が南西諸島に定住し始めたのだと思われます。
>琉球祖語は、日琉祖語から奈良時代以前に分岐したとの説が有力である。
>トマ・ペラールは、琉球祖語の保存された音素から弥生時代末期から古墳時代に分岐したのではないかとしている。
>九州に9~11世紀まで在地しながら日本語と接触し強い影響を受けた後、
>琉球列島へグスク文化の一要素として移民によって伝播した、としている。
■ 頭骨比較 弥生時代の地域差 南九州/西北九州/北部九州・土井ヶ浜
URLリンク(image.prntscr.com)
■ PCA 西北九州弥生人の位置が、現代沖縄クラスターと大体同じ (Jinam et al 2012)
URLリンク(livedoor.blogimg.jp)
251:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/22 04:07:44.77 NmFrXq2Y.net
このお話をすると長くなるのですが、琉球というのは基本的にはグスクの時代に大量に人口が増えますので、恐らくそのときの影響が一番今の琉球の人たちにとって大きいと思われます。
つまり、日本列島というのは、いつ農耕を受容するかで、集団の姿形、形態が決まってくると考えておりまして、そのような意味では、最後まで農耕を基本的には受容しなかった北海道とは歴史が違っているのではないか、と考えます。
252:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/22 14:39:19.89 hIZi8AJx.net
アイヌって白人なの?
253:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/23 01:03:57.56 xTzYfMi2.net
>>246
10世紀の第一波が琉球人を作ったが
それは本丸というより土台
その後で倭人の支配うけて入れ替わったんだから
島ごとのDNA列挙するほうがわかりやすい
254:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/23 01:58:39.32 r5oLqN6w.net
>>245
C2なら在日とか考えてる人間じゃないだろうな
255:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/23 07:37:39.26 rgfXQejq.net
>>249
倭人(北九州・土井ヶ浜型)の支配を受けて、入れ替わったのは南九州まで
沖縄は西北九州型がグスク時代にベースを形成してから今日まで大きな遺伝的変化はないと思われる
言語学者が提唱している「農耕/言語 同時拡散仮説(Farming/Language Dispersal Hypothesis)」は妥当なものと思われる
農耕を最初に取り入れたグループによって、その集団の遺伝子プールは決まり、このモデルはとくに日本と沖縄に当てはまる
日本で最初に農耕化(水稲・雑穀)したのが北九州型で、沖縄で最初に農耕化したのが西北九州型であったんだろう
256:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/23 07:40:59.24 rgfXQejq.net
奄美は、先月公開された論文だと、「本土日本人と沖縄人の中間ポジションに来る」と報告されている
>We found that the Amami islanders showed genetically intermediate position between mainland Japan and Okinawa in mtDNA and Y-STR.
Genetic lineage of the Amami islanders inferred from classical genetic markers
doi: URLリンク(doi.org)
Posted April 19, 2021.
257:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/23 19:22:44.87 xTzYfMi2.net
>>251
本島とその他で全然顔立ち違うと言われるのに
琉球侵攻のが影響大きいだろ
258:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/26 08:43:35.13 oFukeo/T.net
A Brief Introduction to Hypothetical Peninsular (Para-)Japonic Languages
URLリンク(www.youtube.com)
259:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/26 10:13:20.24 oFukeo/T.net
Spread of agriculture (rice and millet)
URLリンク(image.prntscr.com)
260:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/26 12:01:54.32 oFukeo/T.net
北東アジアにおける農耕(雑穀)の起源は遼西(紅山文化)にあり、およそ3500BCに沿海州のハンカ湖、北朝鮮へと同時期に拡散する
農耕を受容したツングース語族が、農耕による人口増で、沿海州に在地していたAmuric(ニヴフ語族)を征服し
それら狩猟採取民の原始言語を塗り替え、最終的にニヴフ語だけが孤立化することになる
稲・雑穀の複合栽培の起源は、山東半島にあり、この農業パッケージはやがて遼東・韓国・日本へと拡散する
支石墓(ドルメン)の分布とも密接に関連しており、このものたちは日流祖語か朝鮮祖語を話していた可能性が高い
考古学的に実証された中国最古の王朝(1600BC - 1046BC)の「殷」に山東半島は含まれておらず、
東夷(Dong-yi)と呼ばれた過去がある。ならば、この時代までは山東半島で日流祖語か朝鮮祖語が話されていたのだろう
ドルメン(支石墓)のエリア
URLリンク(4.bp.blogspot.com)
Language dispersals associated with millet farming in Neolithic Northeast Asia.
URLリンク(ars.els-cdn.com)
261:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/27 16:08:44.37 GKmMVV/3.net
司馬遼太郎
「韓国への想いのたけというのが深すぎて、ひとことでは言いにくかったのである。私は、日本人の祖先の国にゆくのだと、ということを言おうと思った。」
「飛鳥文化は百済文化をぬきにして語れない。王朝文化は百済と同じ。ほとんど百済ぐるみが日本にひっこしたのではないかという想像が『日本書紀』の記述によって可能だ。白鳳期といわれる芸術時代が花をひらくのも、亡命百済人たちが日本の宮廷に収容されたことをはずしては考えられない。」
「日本の奈良朝以前の文化は、 百済人と新羅人の力によるどころが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や、近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない。盆踊りは朝鮮の野踊りからきたものではないか。平安時代には野踊りが盛んであった。」
「百済は北朝にたよらず、もっぱら揚子江以南の南朝にたより、その文化的影響を濃厚にうけた。その百済の影響を飛鳥期の日本がうけるため -- つまりは江南の六朝の文化がはるか極東の島へ飛び渡って -- 飛鳥文化の華をひらくというふしぎな作用をもたらすのである。百済が、南朝 (六朝) の文化を模條したことが、この国の性格と運命を決定したといえるであろう。」
「壱岐には、唐人 -- 漂流朝鮮人であろう -- を祀った古趾が多い。海のむこうから来た客人を神に近いものとして崇敬する民俗が西日本の島々や海浜にあった。対馬・壱岐が、朝鮮からやってきた鹿卜の受け皿になっていたことは、まぎれもない。この時期の対馬・壱岐というのは、本土に対してもっとも華やかな位置を占めた時代であった。」
「卜占という古代における一種の科学を含んだ日本神道は、壱岐・対馬からはじまっているのである。対馬の道を往きつつ右のように考えてくると、日本の神道が決して日本列島固有のものではなかったということがわかる。神道というものの原型が、 朝鮮からきたか、 表現を変えれば共通の時期があったと想像することは、 想像という言葉が大げさなほどに自然なことである。」
「稲作の伝来に関して想像すると、たしかに中国南部からもきたであろう。しかし主として朝鮮半島を経由してきたという説はうごかしがたい。三世紀の対馬の卑狗も、四世紀後半から五世紀の人と思われる鶏知の前方後円墳のぬしも、朝鮮半島や博多湾沿岸のひとびととおなじ型の米を食っていたであろう。」
「朝鮮は水がなすくない上に、しばしば大きなひでりがあり、そういう年の冬には、「対岸へいこう」という連中が多かったであろう。 日本列島は幸いにも初夏に梅雨があり、初秋に台風があって、耕作のための水に不自由しない。われわれ日本人の血に朝鮮半島通過の血液がまじるのは、日本の水がそれを呼び、この海域を吹く風がそれを運んできたものにちがいない。」
「日本側にとって朝鮮侵略は国内を疲弊させただけでなんのもたらすところもなかった。ただ室町期からつづいた茶の美術の隆盛期にこの侵寇戦争は起こっている。朝鮮の民衆が用いるめし茶碗や雑器が、海をわたって日本の美意識の中に入りこむと、美学という人類が持った最高の錯覚に照射されて宝石以上のかがやきを持った。」
「鎖国体制下にあって、長崎が唯一の開港場であったことは、世界に知られている。ところが佐須奈もそうであったことは知られておらず、日本史の教科書も黙殺している。対馬宗氏は、李氏朝鮮国に寄生していたといっていい。」
「さらに朝鮮から貿易米で食っている者が七千人。計一万四千人。要するに朝鮮からの貿易米で七千人が食っているのである。何度もいうが、 韓国にとってはこれはあくまで恩恵であって、得になることではなかった。」
「いまの高知市にもその町名が残っているが、城下の鏡川の北岸に唐人町というのがあり、秀吉の朝鮮侵略のときに連れて帰った唐人に屋敷地をあたえて住ませたという。かれらに豆腐の専売権をあたえて他の者にはやらせなかったというから、高知の豆腐はひょっとするとこの系列が相当ながくつづいたかもしれない。」
「自分を日本人と規定するより倭人と規定するほうが、ずっと自分がひろがってゆく感じがする。」
262:名無しさん@お腹いっぱい。
21/05/27 21:51:17.31 jhUpiGFG.net
百済が日本語とか本気で言ってるのか?
魏志倭人伝は日本語地名ではないと?
263:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/01 20:03:56.87 TKUwYDfF.net
電話もラジオも無い時代にこの列島を統治するなんて馬賊でないと無理
この列島で馬に乗って駆けずり回ってる奴というのは半島から来た馬賊だ
日本に神社を広めた秦氏は高句麗の騎馬民族だ
そしてその秦氏から天皇が出ているとされる
これで間違いないだろう
だから馬賊の渡来人が来る前には天皇なんて居なかった
仮にいたとすると、その天皇一派は徒歩で何してたん?という話になってくる
毎日50kmくらい歩いて村人に「おいら天皇だ、飯食わせてくれ」と言って支配ができるか
そもそも言葉が通じないぞ
日本各地で言葉を通じさせようと試みたのは江戸時代から
264:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/01 21:57:41.92 hPYpNIok.net
馬は百済由来かもしれないな
馬(ma)という漢語がそのまま使われてるのを見ても
百済は漢語をそのまま使っていたから
265:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/02 04:35:54.03 jhNkOa3a.net
後期更新世から完新世までのアジア東部北方の人口史に関する研究(Mao et al., 2021)が公表されました。
この研究はオンライン版での先行公開となります。
URLリンク(sicambre.at.webry.info)
266:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/02 17:36:45.41 jhNkOa3a.net
弥生人は複数の言語集団であった
彼らはおもに3つに分かれる
扶余系(ヤマトタケル)、韓系(イズモタケル)、プレ琉球系(クマソタケル)
267:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/03 17:14:45.47 mHbKSGjs.net
長州藩の高杉晋作は、奇兵隊に部落・被差別民が入り込んでいるのを知ると、容赦なく殺したらしいな
長州藩(山口県)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
司馬遼太郎
>山口県というのは日本では朝鮮の血液的影響をもっとも多く受けたものの一つですから、
>それももう古代じゃなくて、ごく近代にいたるまで受けつづけてきたところですから。
>そういうことがあって、長州的思考法というのは、ぼくなんかは朝鮮人的なタイプだと思うんです。
268:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/03 17:15:07.55 mHbKSGjs.net
江戸時代の身分による骨格の違い
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)
269:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/04 18:18:16.18 Uj5vJmB8.net
蘇我蝦夷(ソガノエミシ)はもともと蘇我愛瀰詩であったんだろう
蔑称である蝦夷をそのまま名前に使っていたとは考えづらい
蘇我蝦夷が生まれたのが586年、「蝦夷」がはじめて歴史書(新唐書)に登場するのが663年
この間に「愛瀰詩」から「蝦夷」に変わったと推測できる
270:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/04 23:10:55.95 DoymIt9q.net
もともと蘇我毛人
271:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/05 01:15:03.24 KsrXVc4W.net
初期現生人類(Homo sapiens)のアフリカからの拡散に関する研究(Vallini et al., 2021)が公表されました。
URLリンク(sicambre.at.webry.info)
272:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/05 21:34:12.13 KsrXVc4W.net
弥生時代の日本語で会話 [from Pre-Proto-Japonic to Modern Japanese]
URLリンク(www.youtube.com)
273:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/06 10:58:16.48 seOlS6Np.net
文書行政の輸入や中国の政治制度の輸入は、果たして中国直輸入だったのかということを考えると、たぶんそうではないだろうと思われます。私が特に強調してお話したいのは、常に中国大陸と日本列島との間に朝鮮半島が介在していて、それが非常に重要であるということです。なにしろ、朝鮮半島と日本列島は一衣帯水です。そういう状況を考えると、朝鮮半島との交流が継続的な本流としてあり、常に影響があっただろうと思われます。
例えば、日本の8世紀の資料である『古事記』や『日本書紀』には、「応神天皇の時代(5世紀)に百済から王仁(わに)という人が『論語』と『千字文』を持参した」と書かれています。これが日本での漢字の始まりという説話になっているわけです。あるいは朝鮮半島では、12世紀の『三国史記』、13世紀の『三国遺事』という歴史の本がありますが、その『三国史記』には、「428年に百済が倭の国に対して50人の使いを派遣した」という記事が出てきます。このような記事からも、日本と朝鮮半島は常に交流があることが分かり、朝鮮半島の影響は濃いと思われます。
274:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/06 11:18:07.56 seOlS6Np.net
中国語は動詞や形容詞が活用しません。朝鮮半島の言語の活用語尾が漢字では書けないので、それをどう書くかというために作られたのが、「吏読(りとう)」です。この方法は、漢字の音読みを使って朝鮮半島の言語の発音を書くというやり方で、名前が「官吏」の「読」と書いてあるように、役人たちが文書行政で行った用字法の1つです。『三国史記』や『三国遺事』には、新羅の時代に、この方法で固有名詞を書いた記録がたくさん載っています。これが日本に伝えられて万葉仮名のお手本になり、そしてさらには仮名になっていきます。
さらに、朝鮮半島では漢字の訓読みも行われていました。しかし、朝鮮半島では後々無くなっていきます。高麗時代にハングルが発明されますが、そのあたりを境目にして、朝鮮半島の言語はハングルで書き、漢字で書く言葉は全部音読みをして、漢語としてしか使わないように朝鮮半島ではなっていくのです。一方日本では、漢字を音で読むだけではなくて、訓でも読み、そして自分の国の単語に当てはめて読むという読み方を朝鮮半島から学び、それが定着するのです。
275:名無しさん@お腹いっぱい。
21/06/06 22:32:16.81 KZa/EFWW.net
ここから「魏志倭人伝」を読んでいきます
テキストは百衲本です
原文と読み下し文、その後に疑問点を述べます
・倭人在帶方東南大海之中 依山?為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
・倭人は帯方東南、大海の中に在り 山島に依り国邑を為す 旧百余国 漢の時、朝見する者有り 今、使訳通ずる所は三十国
疑問① 帯方郡はどこにあったか 帯方郡は204年から313年の109年間、
中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点ですが
その比定地は諸説あります 帯方郡を邪馬台国への行程の起点と考えれば
このことは重要です
疑問② 「漢時有朝見者」これは西暦107年に後漢に朝貢した帥升のことか
疑問③ 倭人はもと100余の国に分かれていたのが、今使訳通ずるところが30国であるのはなぜか
疑問④ 「今使譯所通三十國」の「今」とはいつのことか