落下の解剖学-Anatomie d'une chute-Part2at CINEMA
落下の解剖学-Anatomie d'une chute-Part2 - 暇つぶし2ch26:名無シネマ@上映中
24/03/13 11:50:17.60 2BBgIn5J.net
法廷劇を通して、この「落下の解剖学」が描き出すのは、僕たちの家族関係や現代社会、そして社会システムに潜む”病理”だ。
これを意識したからこそ、「anatomie(解剖学)」という表現が使われたんじゃないかと思う。
この「落下の解剖学」では、ストーリーが進行するにつれて、徐々に新たな事実が積み重なり、その背景に潜む”病理”が炙り出されることになる。
夫婦間の格差。
この映画では上位に位置するのは妻サンドラだが、男女が逆であればどうなのだろうか。
男性が優位だと女性がフラストレーションを感じることはないのだろうか。
同じだろう。
“男女が逆転しているから、こんな悲劇が起きたんだ”みたいなナラティブが世の中では作り出されがちじゃないのか。そんな、ある意味、意地悪な設定が込められている気がする。
子供。
子供が大切だとされがちだが、実は子供の気持ちが不在ということはないだろうか。
障がい者だが、障がい者だと感じないで生きてほしい。
そんな期待によるプレッシャーに押しつぶされるような感覚はダニエルにはないだろうか。
親のエゴではないのか。
両親の争いごとのほとんどが自分自身が理由であることにダニエルは罪悪感を感じざるを得ないことを2人は理解しているのか。
裁判。
自殺=非殺人。
一義的にはそうだが、イジメやハラスメントを苦にした自殺に向き合ってみて、僕たちの社会はどう感じてきただろうか。
客観と主観の線引きの曖昧な法廷劇。
陪審制において多用されがちなのは、感情に訴える主観的な主張になりがちではないのか。
偏見。
異なる国籍、バイの被告に対して偏見は存在しないのか。
メディアとナラティブ。
テレビで話されるように殺人であることを期待するような傾向は確かに存在するのだ。
そして、そこにはメディアが作り上げた人々の気を惹こうとするナラティブもあるに違いない。
これは白黒を容易に断じがちなSNSも同じだ。
リテラシーとナラティブ。
最後、ダニエルの父親との会話を思い返した”主観的な”解釈が判決に影響したと思われる。
ただ、ここには2つの大きなメッセージが込められている気がする。
リテラシーこそが重要だと考えさせられる一方で、リテラシーは必ずしも客観的ではなく、新たにナラティブを構成してしまうという危うさを秘めているということだ。
だからサンドラも、ダニエルも、すぐに会いたいと思わなかったんじゃないのか。
仮に自殺だったとして、サンドラも、ダニエルも自分に何らかの原因があったのだと思っていたとしたら…。
家族という閉ざされた社会。
夫婦の格差。
子供への過度な期待。
客観と主観の曖昧な線引き。
思い込みと客観の区別が出来ない人々。
世の中が期待するナラティブ。
僕たちは常に何らかの病理と向き合いながら、それに影響されることなくやっていけるのだろうか。
とても秀逸な作品だと思う。


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