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支那という国は、己が文化と言おうか風習を普遍的に考え、首都南京が陥落すれば、日本軍が当然「屠城」(を行う、との思い込みをプロパガンダに載せて、臆面もなく全世界に発信するのだから始末に負えない。
日本軍は断じて「南京大虐殺」などとは無縁の存在である。陸軍大将・松井石根中支那方面軍司令官は支那の文化に畏敬の念を払う、人も知る親中派であり、
昭和15年2月には、熱海の伊豆山に興亜観音を建立し、日支事変での両軍の戦没者を怨親平等((おんしんびょうどう))の精神を以って供養するような人物なのだ。
戦後、連合国よりA級戦犯に指定され、1948(昭和23)年12月23日(今上陛下御誕生日=アメリカは、かかる皮肉なことを随所で行っている。)巣鴨プリズンにて銃殺ならぬ絞首をもっての処刑を受けたのである。
当然のことながら、1978(昭和53)年10月、昭和殉難者として靖国神社に合祀されている。
通州虐殺事件をそのまま南京にすり替えたチャンコロのずるさには呆れるばかり。
大日本帝国陸軍総司令官・松井石根大将は12月9日、隷下に休戦を命じ、城内の唐生智軍に「降伏勧告のビラ」を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。
その間攻撃を中止して、10日正午まで待機し、唐生智司令官からの使者を中山門で待った。支那の南京籠城軍に対する投降勧告は、武士道精神に則った、礼を尽くし、条理を説いたものであったが、
これに対するに支那軍は、猛烈なる砲火を以っての返答であったのだ。已む無く日本軍は総攻撃開始。かくして1937(昭和12)年12月10日17時20分、城頭に翩翻(へんぽん)()として日章旗が翻り、
同月13日、中華民国の首都・南京は完全に陥落したのであった。
南京陥落の六日前・12月7日には、蒋介石夫妻はじめ何応欽ら軍首脳、政府高官、高級官僚、馬超俊南京市長ら責任ある立場の者全てが脱出・逃亡し、前日の12月12日には南京守備軍司令官・唐生智が、20万市民と5万の敗残兵を残して遁走している。