蝦夷の研究at ARCHEOLOGY
蝦夷の研究 - 暇つぶし2ch2:出土地不明
23/09/26 01:31:07.90 ounQ6gQV.net
全板規模の荒らしによる重複スレ
以下、本スレへの誘導以外は書き込まないように

3:出土地不明
23/09/26 14:26:45.16 O4YgAy0Z.net
古墳時代4~5世紀に関東・東海地方から大規模な移住があり、大崎平野の北上川をほくじょうする様に土師器や須恵器などが出土するようになる
URLリンク(adeac.jp)

蝦夷の末裔を名乗った奥州藤原三代のミイラは渡来系だった
陸奥栗原の蝦夷の族長伊治公砦麻呂(鳥矢ヶ崎古墳群)の発掘人骨も一族ともに渡来系だった

同時代で陸奥胆沢の蝦夷の族長阿弖流為アテルイも人骨が残っていれば渡来系だったであろうことは想像に難くない

4:出土地不明
23/09/26 14:27:26.30 O4YgAy0Z.net
古墳と祭祀遺跡は、いずれも古墳時代を考える上で重要な要素である。
石製模造品は、その両者を共通して分析できる数少ない遺物の一つであり、古墳時代中期を代表する祭祀遺物である。
畿内を発祥の地とし関東地方まで盛行することから、大和政権の東国に対する勢力伸長を反映するものと理解されてきた。
この考えは、今日にいたるまで基本的な視点として受け継がれている。

倭の五王の時代、律令制国家以前
赤線は内陸部主要交通ルート
URLリンク(i.imgur.com)
URLリンク(i.imgur.com)

宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟
山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群

いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ
東北南部は4世紀から5世紀にかけて、ヤマトの土師器・墓制を持った関東から多くの移住があったと思われる

5:出土地不明
23/09/26 14:28:04.69 O4YgAy0Z.net
三陸河北新報社2022年8月24日

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。

突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。

ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。

当然、さまざまな道も生まれていった。
仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。
「道奥」は道がなかったわけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。

6:出土地不明
23/09/26 14:28:44.41 O4YgAy0Z.net
古墳文化が波及しなかった北海道と南西諸島、古墳人骨がほとんど出土していない北東北などを除く日本列島9地域の古墳人集団に
縄文人、弥生人、現代人の4集団を加え、頭蓋計測値の形態距離で集団関係を分析すると、男性の場合、古墳人集団は大きく2群に分かれる。

第1群は畿内、北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国瀬戸内、関東・東北南部、南近畿(磯間人骨を含む)の6集団で、
第2群は南九州、西九州、北陸の3集団である。
近畿、四国瀬戸内、中国、北部九州、関東、東北南部には渡来形質が強く渡来系古墳人とよべる人々が広がっていたが、渡来系古墳人の最たるものが畿内古墳人である。

また、畿内古墳人は畿内現代人とほぼ同程度の頭蓋長幅示数をもち、上顔示数もかなり大きいが、バジオン・ブレグマ高は畿内現代人よりはるかに低いので、
短頭・高顔という畿内現代人の地域性は古墳時代すでに出現していたが、この地方における頭高の増大は古墳時代以降に起きた現象である。

鼻骨平坦示数は縄文時代人45、北海道アイヌ44、渡来系弥生人27、東日本古墳人31、南九州古墳人47~51
例えばコーカソイドはロシアスラブ系白人45、インド人47程度

7:出土地不明
23/09/26 14:29:47.13 O4YgAy0Z.net
北東北の終末期古墳も、集落を持たず定住しなかった人達が、外来の馬産や開拓者を受け入れて殆どが関東・東海からの移住の波が何度もあったことが最近知られてきている

そもそも東北の古墳時代期などの調査はゴッドハンドのせいもあるが、この地方の古代人の性格は他地域と比べると積極的に進まなかった

改めて東北の古墳時代を明らかにしていく段階に入り始めたと言える

8:出土地不明
23/09/26 14:32:47.31 O4YgAy0Z.net
4世紀には高塚古墳勢力が岩手県南部まで拡がっている
朝廷と戦った蝦夷は縄文人ではなく僻地に住んでいただけの和人
大和側と同じ渡来人だった

古墳時代前期から中期に該当する4~6世紀には、前方後円墳・箱式石棺や横穴式石室・横穴墓が東北南部にも数多く造営され、北限は岩手県奥州市にまで分布域を広げるようになる。
しかしこれとは別に、東北北部では、土坑墓と考えられる独自の遺構群の存在が確認されている。さらに7~10世紀には高塚古墳に似て非なる「終末期古墳」が築かれ、北上川流域を主たる分布域とするようになる。

9:出土地不明
23/09/26 14:36:09.24 O4YgAy0Z.net
しかし東北北部の土坑墓や終末期古墳では、断片的な骨格の部位が確認されればまだましな方で、土壌中における腐食や盗掘による撹乱あるいは風化によって、人骨が完全に消失しているケースがほとんどである。
実際に保存状態の良好な古人骨が出土するのは、もっぱら東北南部における横穴墓、洞窟遺跡に限られているのが実態である。

顔面平坦度に関する項目を含めた頭蓋計測値18項目に基づいて集団間でペンローズの形態距離を求めると、
宮城県塩竈市清水洞窟や仙台平野熊野堂横穴墓集団などは西日本弥生人・東日本古墳人に類似するが、東日本縄文・北海道アイヌとはまるで正反対の領域に位置づけられる。
東北南部には開拓を期して特に関東を中心とした各地から数多くの移民が入ってきたことが、この墓制が彼らによって導入されたとみてよい。

ミトコンドリアDNA分析の結果
URLリンク(blog-imgs-144-origin.fc2.com)

核ゲノム分析の結果
URLリンク(blog-imgs-144-origin.fc2.com)

参考文献
JSPS 科研費 26440257 基盤研究 (C)エミシとは誰だったのか―学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像―(代表:安達登)
JSPS 科研費 16K18631 若手研究 (B)古代ゲノム分析による関東古墳時代人の親族関係と遺伝的構造の解明(代表:神澤秀明)

10:出土地不明
23/10/08 14:24:08.35 4qKZgKVr.net
アイス食べてたら…アイスになっちゃった…


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