蘇我氏とは何者?at ARCHEOLOGY
蘇我氏とは何者? - 暇つぶし2ch138:出土地不明
19/10/25 10:14:01.85 wGIi9YLT.net
>>137
徐福/徐市(フツ)/彦福。
二度、(一説には三度。その一度目の経験から、次回とその次に怪しまれず警戒されにくい年少の子供たちを大勢(合計、五千人!)を連れて)渡来。
渡来の一年前に配下のホヒと子息のヒナドリらを事前工作(上陸許可を取り付ける)出雲王国に派遣。
出雲王国側は、出雲の八重書き(しきたり/法律)を遵守する事や先住の民の土地や物等の収奪をしない事。等を求め、ホヒらは(ポーカーフェイスで)全て受諾する旨誓約した事で渡来、上陸許可を取り付けました。
早速、知らせを待つ主人の徐福の下に連絡して、
しばらくして満を持して
徐福らは二千人の海童らと共に石見の五十猛海岸から上陸。
海を埋めつくす船(最先端の大型構造船)から続々と上陸するその様はまさしく壮観だったらしい。
しばらく五十猛(地名が残っている。また、海童神社がある)に居住。
厚かましくも出雲王国の王女との婚姻を申し込み、許可かされて
高光媛命/天道媛命(今なら天皇家の内親王にあたる)と結婚。
徐福は晴れて?出雲王国の婿殿。出雲神族(王族)に成り上がりました。
やがて(直ぐに?)御子の五十猛が産まれました。
出雲王国の婿殿となり御子が産まれた事等から警戒していた出雲王国側警戒心が緩みました。
徐福は渡来前より大和国の王となる野望を持っていたのを、チャンス到来と
配下のホヒやヒナドリらを動かしてクーデターを起こして
なんと、出雲王の八千矛命(いわゆる大国主)と副王の八重波津身命(いわゆる事代主/大物主/少彦名)を相次いで拉致誘拐に及び、
狭い洞窟(猪目洞窟と、中海の粟島の志津の窟)に押し込めて殺害(餓死)しました。
これで、我が世の春が来るはずでしたが、
出雲王国側の体制は磐石で直ぐに次代の主王に鳥鳴海王が、副王に味耜高彦王が就任なさり、
賊徒の追撃に転じると
渡来人らは鎮圧され、首魁の徐福にはソッコー殺害オーケーな命令がでて全国手配。
出雲兵に付け狙われる様になって、
慌てて、配下二千人や妻子を置き去りにして母国に逃げ帰りました。


次ページ
続きを表示
1を表示
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch