10/12/30 01:10:03 uI9HV9zS.net
>>83
中国の文献では、倭人は自分たちでは太伯の子孫だといってるね。
つまり、越人のような蛮族ではないといいたかったんじゃないかな。それに対して、わざわざ新潟の方を
「越」と呼ぶのは流れ着いた江南人が越人だったからじゃないかな。
百越が日本に逃げて来た頃には、北九州はすでに呉人とかがいて水田耕作を大々的にやっていて、江南に居た
頃からの宿敵だから越人は上陸できなかった。そこで日本海伝いに新潟まで北上して上陸せざるを得なかった。
まあ、呉が滅亡したのは紀元前473年で、水田耕作はそれ以前からだから、江南から部族を追い出されて逃げて
来たとか、食料として玄米を持って漁業に出た江南人が流されたとかで、流れ着いた人から取り入れたとかで、
既に水田耕作はやっていたんだろうね。そういう物を取り込むのが得意な日本人の特性は縄文人から受け継いで
いるのだと思う。
まあそういう場合流れ着くのは男が多いだろうから、北九州に縄文系のミトコンドリアが意外と多いのも
説明がつく。 >>URLリンク(www.aistshikoku.org)