11/02/18 16:14:03 y11ZXhGQ.net
名前:出土地不明 :2011/02/18(金) 08:35:52 ID:vCAi7EBi
>どんなルートで北上したのか説明できる?
もちろんひとりひとりがたどった道は千差万別だろうけど、
この支石墓の分布からどこに上陸してベースとし、どのように北方に拡散したかの参考になると思う。
URLリンク(tokyo.cool.ne.jp)
高句麗始祖伝説の東明王は河伯の娘の子とされるが、河伯は黄河流域の神。
また扶余に関しては「風俗通義-廣韻~餘(後漢代)」によると
郡有之風俗通云?(呉)公子夫(概)?奔楚其子在國以夫餘爲氏今百濟王夫餘氏也「「輿」」車輿又多也又權輿始也續漢書輿服志曰上古聖人
つまり呉の「夫概(呉王の弟)」が反乱をおこしたが敗れて楚に逃げ、呉に残された夫概の子孫が呉を離れて移り住んだとされている。
木槨墓は殷周代の中国東部地域の代表的な墓制であって、およそ(朝鮮半島)北方起源とはいえず、
江南あるいは山東半島から遼東半島あるいは半島西南岸に移動したと考えるのが自然。