12/11/04 16:28:53.19 0
>>76
当時は中央より揚州や益州の方が安定していたから、
朝廷に留まることに危険を感じるとそちらの太守や刺史を求める官僚が多かった。
馬日テイは、本心はともかく死ぬまで袁術の拘束の下にあったから、
彼の節の許での任命は全て袁術の承認を得ていると考えるべき。
だから豫章太守就任は、華キンの処世術であると同時に袁術の揚州政策の一環でもある。
しかし一旦太守や刺史として外に出れば、袁術が指一本で動かせるような強制力はなくなるし、
離反や完全独立は日常茶飯事だったから、同じような立場の孫策とは緊張が生じる。
そのため孫策の豫章進駐と葛布での奉迎という儀礼が行われた。