12/05/13 23:58:51.08 0
>>3
諏訪などの地方で鹿や猪(元々「狩り」と言えば鹿狩り、拡大しても鹿・猪
狩りを指した)を捕え、神前の俎板の上で解体し、調味料も添えたもので、
当然と言えば当然ながら、「食べる」ための行為でしたからね。
日本でも猟師は山中で解体した際に獣の内臓を食べ、平地の人々が漠然とキ
モやハラワタと呼んでいた部位を呼び分けていましたが。
要するに、狩猟で得た獲物を食べられるようにして神に奉げたもので、田畑
で得たものを餅や飯にして奉げるのと、本質的には変わりが無い。
かつては人間を奉げていたのを止めて鹿や猪にしたという話がありますが、
実際に人を奉げていたという明確な記録はないようです。
土木工事(特に水に関わるもの)で人を人柱として埋める行為よりも、この
手の解体・神と人との共食の方が古いように見えます。
弟橘姫が入水されたなどの、「神に魅入られた人、もしくは物」があったの
で水に入れざるを得なかったという話は古代からありますが、こちらは中国
からの移入かもしれません。
平清盛の経島や毛利元就の百万一心などは、人柱の代わりに文字を刻んだ石
を埋めたという美談ですが、こちらも実行された確実な記録はない筈です。
類似したものとして、古代には人を殉死させたのを埴輪に代えた(提案者が
菅原・大江・秋篠氏の祖である土師氏)という話もあるのですが、これまた
美談を作るために「野蛮な往古の時代」を描いたものかもしれません。
儒教(『礼記』など)にも見えるように、中国的美談ですし。