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▲全南海南で発掘された龍頭里倭系古墳。
「百済三斤(サムグン)王が死んで東城(トンソン)王が帰国した際、筑紫国(チクシコク・北部九州)
軍士五百人が護衛した。」日本書紀雄略243年の記録だ。475年、高句麗軍の攻撃に百済は21
代蓋鹵王(ケロワン)が戦死し首都漢城(ハンソン)をあけ渡す。熊津(ウンジン)に移り4年で3人
の国王が変わる内紛が重なり統治機構が事実上瓦解する。
日本に留まった東城王(479~501年)は部下の武士団を率いて帰り百済24代王に上がる。王は傭
兵を積極的に登用し百済を危機から救い出す。その後500人の武士団はどうなったのか。文献か
ら彼らの痕跡を探すのは難しい。そして倭人傭兵はただ500人だけだったのか。
ところが彼らの行跡を類推できる倭系墓が最近、韓半島南部で大量に発見され学界の非常な関
心を引いている。昨年11月、高興(コフン)豊陽面(プンヤンミョン)野幕(ヤマク)古墳を発掘した
羅州(ナジュ)文化財研究所は墓の上に石を敷き土の墓を覆った見慣れない形態の古代墓を見
つけた。
クォン・テクチャン研究員は「3世紀後半~7世紀末、倭古墳時代の普遍的墓」といった。倭系墓は
墳墓様式と主要副葬品すべてが日系であるものを言う。野幕古墳を含み現在まで確認された倭
系墓は全25基だ。(中略:倭系墓の紹介)
東城王が混乱した国内を収拾する方便として選択したのが南への領土拡張だった。王は13代、
近肖古王(クンチョゴワン、346~375年)以来、百済の影響圏にあった栄山江(ヨンサンガン)方面
を百済領土に編入するため地方官を派遣する上で、これを傭兵に任せる。「王が武珍州(光州(ク
ァンジュ)と推定)を巡行した)という三国史記、東城王20年編(498年)記録を見れば地方官は中央
の統制を受けたと推定される。