正史『三国志』 二十六巻at WHIS
正史『三国志』 二十六巻 - 暇つぶし2ch2:世界@名無史さん
12/01/01 23:20:53.19 0
【 魏 】なぜ曹操は皇帝に成れなかったのか【 魏 】
スレリンク(warhis板)l50


3:世界@名無史さん
12/01/04 07:18:30.70 0
袁術の帝位僭称はどんな意味が?

4:世界@名無史さん
12/01/04 15:15:52.36 0
後漢末では最初の皇帝自称。


5:世界@名無史さん
12/01/04 16:05:49.85 0
袁術以前に皇帝名乗ってた賊徒いたはず

6:世界@名無史さん
12/01/04 18:06:39.87 0
陽明皇帝様とかな!

7:世界@名無史さん
12/01/04 22:14:45.53 0
>>1

8:世界@名無史さん
12/01/05 03:43:27.04 0
後漢末期には袁術以外にも天子を僭称した賊はいたけど
やたら袁術ばかり僭称者として持ち上げられるのは、それだけ
袁術がやったらシャレにならんと認識されてたんだろう。
他の僭主とは一線を画すほどの大群雄だったから

9:世界@名無史さん
12/01/05 09:02:05.91 0
他の連中は官位もロクに持ってないし形式も全く整えてなかったけど
袁術は官位はあるわ、皇帝としての格式を揃えた儀式とかやるわで大変だったのだろう

10:世界@名無史さん
12/01/05 18:25:52.14 0
袁術の帝位僭称って何かアレだな
ナメック星編時点でのベジータが
「俺は超サイヤ人になったんだ!」
ってのたまった時のような同じ匂いがする

11:世界@名無史さん
12/01/05 18:28:15.64 0
アニオタはマジどこでもアニメの話するな

12:世界@名無史さん
12/01/05 18:37:48.72 0
アニメじゃないだろこれ

13:世界@名無史さん
12/01/05 18:43:50.82 0
マイナーなアニメのネタならともかく、超有名な
準国民的漫画の例え使ったくらいでアニヲタって・・・

14:世界@名無史さん
12/01/05 19:17:19.00 0
ドラえもんやサザエさんで准えてもアニヲタとか言われそうだなw


そんなネタは置いておくにしても、僭称するからには
それだけ自分の国力とポテンシャルに自信があったんだろ。
ほとんど益州しかなかった劉備が皇帝になれたくらいだし

AD190年代を「三国志前章」みたいな視点で見ると
僭称がいきなりに見えるけど、AD197年は袁術らにとって
劉備でいうAD221年のような感覚なわけで

15:世界@名無史さん
12/01/05 19:41:44.19 0
即位時に孫策が絶縁状叩き付けたせいで
ハナから孫策の勢力圏を非袁術勢力圏として認識してしまうが
孫策も含めると、楊州から徐州南部、豫州東部に跨る結構な勢力圏で
劉備即位時と比較しても見劣りしない規模だな

16:世界@名無史さん
12/01/05 19:51:53.11 0
なんやかんやで孫策は袁術と戦ってはいないからな。
むしろ袁術の為に曹操が派遣した陳ウをボコしている。

17:世界@名無史さん
12/01/05 21:33:26.53 0
しかも遺族を保護したりと小覇王はツンデレ

18:世界@名無史さん
12/01/05 21:36:32.43 0
>>14
それをいうなら中華全土を征服してもいないくせに皇帝を僭称した
曹否と例えてほしい

19:世界@名無史さん
12/01/05 21:37:55.07 0
きしょいからアニメの話はしないで

20:世界@名無史さん
12/01/05 21:51:08.03 0
孫策は袁術を攻めるそぶりも見せないが、
曹操に対しては攻める気満々。
袁術を唯一南北から挟み撃ちに出来る勢力なのに、何もしていない。
袁術はいつまでも北を向いている。これは南が安心でなきゃ出来ない。
優柔不断な劉表ですら、許都襲撃をもちだした劉備に対して「好機を逃したなぁ」と謝ってるぐらい。


21:世界@名無史さん
12/01/05 22:04:42.21 0
漢の後継王朝を自認していた呉で「孫策は仲王朝に仕えてました」なんて書けないでしょ。

22:世界@名無史さん
12/01/05 22:08:04.23 0
司馬懿って政治家として何か功績あった?
何か軍人としてしか活躍してないイメージあるんだけど。
でも軍人の家柄でもないよね。

23:世界@名無史さん
12/01/05 22:09:29.04 0
袁術没後の孫策って袁術勢力での内ゲバしかしてないのにな

24:世界@名無史さん
12/01/05 22:23:12.96 0
>>22
後の晋の下地を作った

25:世界@名無史さん
12/01/05 22:23:30.50 0
このスレもアキバ系のやつら多くなったな
ツンデレとかアニメの話とか

26:世界@名無史さん
12/01/06 07:23:30.87 0
誰もアニメの話してなくね?

27:世界@名無史さん
12/01/06 08:31:50.20 0
DB程度でアニヲタとかアキバ系とか何か笑える。
ついでに>>10はアニメじゃなく原作漫画だしな


>>20
単純に、当事の孫策がそれほど驚異じゃなかったというだけでは。
孫策がそこそこの群雄になるのは袁術死後
生前は孫策自身も外敵が多くて迂闊には動けない。

絶縁状も残ってるし袁術一派の連中を撃退した記録もあるし
敵対が疑わしいとするには苦しくないか?

28:世界@名無史さん
12/01/06 09:45:40.79 0
>>15
当時の漢王朝が完璧に支配してる領土も、袁術領と大差ないかもね。
漢王朝領じゃなく”劉協”領という視点なら尚更

29:世界@名無史さん
12/01/06 10:42:29.50 0
祖郎とか袁胤を攻撃してるからな

30:世界@名無史さん
12/01/06 11:11:13.68 0
5年ほど前ならともかく、ツンデレくらいは2chみたいな場じゃ
もはやアニメ関係なく普通のスラングだろ


江表伝の記述はともかく解釈の方は正しいかな。
あんまり疑ってかかるのは問題だが、>>21の言うような孫呉マンセーの史書

31:世界@名無史さん
12/01/06 13:08:17.70 0
三国志好きを中華の共産主義者扱いするレベルの馬鹿馬鹿しさですな

32:世界@名無史さん
12/01/06 13:49:33.41 0
つうかいちいち例えや引き合いにアニメや漫画をもってくるってのが
自分の程度の低さを晒してるって気づけないもんなんかね

33:世界@名無史さん
12/01/06 13:55:10.48 0
たまたま出てきただけで「いちいち」に見える脳味噌の方がどうかと思います

34:世界@名無史さん
12/01/06 14:32:36.39 0
分野違うけどサウザー遺伝子とかゴジラサウルスとか命名した奴が許せんわけか

というか最近三国志系の単語検索すると、ゲームの攻略だの
萌えキャラ化した人物だのがヒットするのはどうにかならんのかw

35:世界@名無史さん
12/01/06 14:34:04.65 0
>>32
スレタイ的には恋姫ならおkだな
美羽とか雪蓮とか

36:世界@名無史さん
12/01/06 15:24:40.95 0
三国志検索というのが一応あるけど、むしろゲームとかキャラクター化した類こそ
そういう専用検索で隔離すべき立場じゃないのかねえ

学園三国志は良かった
なんであのサイト寂れたんだ

37:世界@名無史さん
12/01/06 17:46:25.47 0
袁術が常に北を向けてられていたのは、南に対しては
劉勲が睨みをきかせていたからでは

38:世界@名無史さん
12/01/06 19:23:12.66 0
馬超な何が凄いのですか?

39:世界@名無史さん
12/01/06 19:49:14.05 0
抽象的すぎて質問の意味がわからない
何が凄いのですか?
と聞くからにはキミは馬超が凄いと聞いたけど疑問視してるんだろ?

まず何が凄いと聞いたのか思い出してごらん
おにいさん達が聞いてあげるから

40:世界@名無史さん
12/01/07 05:19:53.68 0
戦功がないのに、やたら官位が高いとか?

41:世界@名無史さん
12/01/07 07:15:13.71 0
>>38
超名門の家に生まれたこと、それだけで凄い


42:世界@名無史さん
12/01/07 07:48:51.62 0
獣面呑頭の兜がかっこいい

43:世界@名無史さん
12/01/07 11:58:18.40 0
邪鬼眼なのがかっこいい

44:世界@名無史さん
12/01/07 12:37:32.39 0
馬超てどんな顔してたの?トルコ顔じゃないよね?

45:世界@名無史さん
12/01/07 12:46:15.62 0
>>40
曹操から貰った官位なら実に相応なもの
劉備から貰った官位も相応なもの
なんで官位は戦功と比例してないといけないの?

>>41
馬騰が「名門」・・・?

46:世界@名無史さん
12/01/07 15:17:40.38 0
>馬騰が「名門」・・・?

涼州では5本の指に入る名門だろう

47:世界@名無史さん
12/01/07 15:27:40.06 0
馬騰の代には没落して生活は貧しかったがな

馬騰馬超親子が武勇で鳴らしていたのと異民族へのコネが強みか?


48:世界@名無史さん
12/01/07 15:39:15.75 0
馬騰は明確に寒門の出といえるだろ

父の最高位はたかが辺境の県の丞
母は異民族
馬騰自身は木こり

その立身の過程に何一つ出自が役に立ったという記述がない
闘犬で遊ぶ余裕があった劉備の「草鞋」どころじゃない

49:世界@名無史さん
12/01/07 15:51:25.88 0
じっくり時間をかけるより
稚拙でも早く行動したほうがいい
みたいな意味の中国のことわざ知らない?

50:世界@名無史さん
12/01/07 17:43:12.99 0
>>49
孫子・作戦編を読め


51:世界@名無史さん
12/01/07 19:15:44.25 0
孫子には拙速より巧遅のほうをすすめているらしいよ
拙速をこのんだのは日本史のほうにしかでてこないらしい

52:世界@名無史さん
12/01/07 19:42:28.55 0
キョウ族って母処婚だったの?

53:世界@名無史さん
12/01/07 21:07:36.77 0
>>48
涼州出身で馬騰より高い官位もらった奴は李カク・郭汜・カクぐらいだろ。
馬超の頃にはすっかり名門だよ。

54:世界@名無史さん
12/01/07 23:06:26.00 0
>>53
一代でのし上がった家は名門といわねーだろ

55:世界@名無史さん
12/01/08 12:20:49.19 0
劉備に使えてからは、目立った功績ないよね。

56:世界@名無史さん
12/01/08 13:06:41.60 0
太史慈も降伏したのちは目立った功績がない

でも降伏(帰順)自体が内外に対してあたえた影響で比肩なき功績

57:世界@名無史さん
12/01/08 13:15:36.23 0
つまり働かない方がかえってよいということ

58:世界@名無史さん
12/01/08 14:12:18.39 0
まぁ馬超が帰順後に活躍してない・してるが気になる人は馬超を所謂「猛将」と理解してるんだろ

現実の馬超は「群雄」

59:世界@名無史さん
12/01/08 14:17:14.76 0
張?
太史慈
馬超
臧覇
---------------
張遼
張?
?徳
黄権


この壁の↑の臧覇が異端

60:世界@名無史さん
12/01/08 18:19:09.09 0
馬超は劉備に使えてから大人しく、控えめになった感じするな。

61:世界@名無史さん
12/01/08 19:57:05.78 0
関羽に怒られて以降な

62:世界@名無史さん
12/01/08 20:01:59.99 0
羌族はチベット系だからコーカソイドの血はほとんど
入ってないんじゃね?

63:世界@名無史さん
12/01/09 01:22:31.66 0
馬氏は後漢の四姓の一つで洛陽の四姓小侯の学校で学ぶ権利があるから宗族帳は完全に朝廷に管理されてるだろうし。
普通に扶風の宗族にも認められてるようだから馬援は後漢の外戚家で間違いないと思うが。

64:世界@名無史さん
12/01/09 01:23:00.00 0
馬援じゃねえw馬騰なw

65:世界@名無史さん
12/01/09 02:10:57.99 0
で、木こりの馬騰は名門なのか?

66:世界@名無史さん
12/01/09 03:09:41.90 0
樵って別に賎民の仕事ってわけでもねぇしなぁ

この時代、超大豪族でもなけりゃ当主だって普通に野良作してるのに
樵やったら名門なのかどうかって疑問持つ時点で頭おかしいよ

67:世界@名無史さん
12/01/09 03:41:50.45 0
司空の第五倫の甥の子だったかの第五訪も早くに親を亡くして貧しさから人に雇われて農地耕してたな。
当主筋は第五倫以降二千石以上だからそれで名門じゃないってことにはならんと思うが。

68:世界@名無史さん
12/01/09 12:53:53.87 0
じゃあ劉備も名門か


って言葉遊びというか馬騰馬超は名門であるという前提の擁護遊びはやめたら?

袁家や周家なんかは権勢・由緒ともに誰も異議を唱えることがない名門だが
草鞋の劉備や樵の馬騰は仕官のコネのなさからして名門ではない
「いい血筋」であるだけ



69:世界@名無史さん
12/01/09 13:45:18.91 0
>>63
扶風馬氏は紛れも無く名族だが、
その一族の庇護から外れた馬騰の家が名門などといえるはずな無い。
紛れもなく寒門。

70:世界@名無史さん
12/01/09 20:50:42.37 0
>>68
いい血筋のことを名門っていうんだけどね

君の言ってるのは権門、勢門の類

71:世界@名無史さん
12/01/09 21:00:04.84 0
いくらウン代前の祖先が偉かった、と言っても、
継いでいるのが系図だけで、家独自の伝統や由緒を現代に継いでなければ
名門と言えるわけがないよ。

フィギュアの織田信成は名門か? んなわきゃない。

72:世界@名無史さん
12/01/09 21:02:25.36 0
>織田信成は

あ、織田信長の子孫としての価値ある名門か? ってことね。
近代に入ってそれとは別に隆盛することはあるだろうが、
それは「信長以来の名門」とは別の問題。
馬騰・馬超と同じだね。

73:世界@名無史さん
12/01/09 21:07:14.37 0
そそ

平成のいまでも旧大華族の本家総領とかは名実ともに「名門」だけど
華族の血筋を引いてる誰もが「名門」であるわけではない

その辺を理解できないバカは金輪際書きこむなよ

74:世界@名無史さん
12/01/09 21:40:38.60 0
>>71
フィギュアのノブナリくんはただの僭称者なんで当然名門じゃないし例示として間違ってる

75:世界@名無史さん
12/01/09 21:46:17.95 0
>>71
系図継いでるなら十分だろ

系図もなんもなくてただの子孫でございってんなら意味ないけども

76:世界@名無史さん
12/01/09 21:57:21.57 0
馬騰の場合、父親がよくわからん理由で失職、没落してるから
出自は名門の流れを汲むが、本人たちは何もないところからの成り上がりという状況だな

劉備の場合、祖父、父としっかり官位を貰ってるようだし、土豪の類ではあるだろう
正史の劉勝・劉貞の子孫か魏略の劉エンの子孫かは不明だがどちらの血筋でも貴種なのは事実だ
こっちは十分に名門出身じゃないか?

77:世界@名無史さん
12/01/09 22:05:53.20 0
>>74-75
織田信成の家は系図継いでるよ。

"僭称"の可能性は古今東西関わらず、劉備にも馬騰にも言えることだねえ。
古来、系図は作られるものだから。
とりあえず君たち二人で議論して勝ち残ったほうが自分の意見を主張してくれや。

78:世界@名無史さん
12/01/09 22:17:10.10 0
>>77
ノブナリが系図継いでるとか情弱過ぎて生きるの辛くない?
あいつんちの系図、紙は新品だわ、何代も間抜けていきなり祖父から再開とか
どう継いだらあんな系図になるんだか

79:世界@名無史さん
12/01/09 22:50:47.46 0
だから、系図なんてそんなもんだって言ってるのよ。
劉勝から劉備まで300年あるんだからね。

普段の歴史研究では別にことさら疑う必要は無いが、
「系図継いでいれば名門」なんてそんな紙っぺらに等しいもの。
それを現代人が名門と定義するのは勝手だが、歴史に対しては何の意味も無い。
直近のコネや財産も無く、当人に実力もない血筋だけの人間なんて、
当時なんの社会的社交的価値も持たなかったから。
誰にも気に留められなかった家を名門と呼びたければ、
あなたの心の中で呼んでいればいいんじゃない?

80:世界@名無史さん
12/01/09 23:05:09.12 0
>>79
誰にも気に留めなかったかどうかは名門の定義とは無関係なのに何言ってるのかな

81:世界@名無史さん
12/01/10 00:39:11.36 0
えっ。
自分の血統を自分以外に気に留める者がいない"名門"なんてのがありえるわけ?

もしそうだと定義するなら、その定義を大事に心の中で唱えていればいいって言ってるだろう?

82:世界@名無史さん
12/01/10 01:16:28.90 0
社会的価値を認められず気にも留められないことと血統を当人たち以外気に留めないことは別だろ
何言ってんだよ

83:世界@名無史さん
12/01/10 02:31:01.59 0
少なくとも血筋の正しい織田家からは一族ではないとされている信成の家系は立派な僭称
あらゆる点で例に持ち出すのはおかしい

84:世界@名無史さん
12/01/10 02:32:19.97 0
じゃあ>>73に反論してみればいいんでない

85:世界@名無史さん
12/01/10 02:39:08.22 0
社会的に気にも留められないことと、当人達以外気に留めないことが別物とはこれいかに。

86:世界@名無史さん
12/01/10 02:46:02.50 0
>>85
「社会的に気にも留められないこと」じゃないだろ
「社会的社交的価値」がない状態と君は言った
それは「自分の血統を自分以外に気に留める者がいない」状態とは別
すり替えはやめなよ

87:世界@名無史さん
12/01/10 07:32:42.80 0
あなたの脳内がどうなってるのかさっぱりわからん
言葉のお遊戯してないで他人にわかるように具体的に説明してよ

88:世界@名無史さん
12/01/10 09:48:37.98 0
>>73
核家族化が進んでる日本の血筋と、家父長制全盛の時代でしかも氏族集団で固まってる時代の宗族とを比べる方がおかしいだろ。

89:世界@名無史さん
12/01/10 11:12:40.78 0
三国志スレとは思えぬ程の織田の連呼

90:世界@名無史さん
12/01/10 11:34:09.91 0
まぁちょっとヒネクレて斜めから「名門」言葉遊びをしてたら
引くに引けなくなってしまったバカがいるってことでいいだろ

三国志に限らず歴史好きってこういうタイプ多いよね

91:世界@名無史さん
12/01/10 15:16:14.36 0
そんな事より鮮于輔の話しようぜ!

92:世界@名無史さん
12/01/10 21:47:50.60 0
織田信成は顔だけで名門の末裔ってわかるし

93:世界@名無史さん
12/01/11 18:09:52.71 0
ここに書いてることについて質問なんだけど、
URLリンク(www.3guozhi.com)

・「鎮西将軍+輔国将軍」という読み方は正しい?
・輔国将軍って、鎮西将軍以下の雑号将軍?

三国職官表に従えば鎮西将軍>輔国将軍だけど、陸遜伝の読み方としては、
鎮西将軍→輔国将軍に昇進したっていう方が自然な気がするんだけど。
将軍職の兼任っていうのも不思議な気がするし、それは正しいとしても下の職を加官するっていうのもまた不思議。

94:世界@名無史さん
12/01/11 18:27:17.02 0
>>93
・呉の階級に魏の品秩は適用できない。品数序列は完全に無視すべし。

・将軍号とは名号であり、名号の重ね持ちというのは常制ではない。あったとしてもかなり例外的。

・漢の制度を継ぐ蜀漢・呉において、(征西以外の)諸征将軍は後漢末に生まれたばかりの二千石将軍。
 つまり魏晋の雑号将軍相当。多少他より序列が高い可能性があるだけ。

・漢の制度を継ぐ蜀漢・呉において、諸鎮将軍は後漢末に生まれたばかりの二千石将軍。
つまり魏晋の雑号将軍相当。ただし、諸鎮は後漢末の群雄にばら撒かれた、二千石の中でも相当上の序列と考えられる。

・輔国将軍の発祥は後漢末と考えられるが、説に食い違いがあるものの、董承が衛将軍から、伏完が執金吾から栄転している、
つまり諸卿(中二千石)以上の格式を持つ国家の顕官。
この格式は輔漢・輔呉と名を変ええうなどして三国に継がれている。いずれの叙任者も名だたる者ばかり。

95:世界@名無史さん
12/01/11 18:32:10.33 0
>>93
輔国将軍を「軽めの将軍号」と書いている時点で一切見なくていいレベル

96:世界@名無史さん
12/01/11 18:49:47.30 0
ついでに、朱然が呂蒙から継いだのは、江陵駐留の座(おそらく南郡太守も?)であって、
荊州の総督的な地位ではない。なにしろこのとき、孫呉には荊州総督的な人間は存在しなかったのだから。

ただ呂蒙が、経歴から軍令・指揮系統を持つ諸将軍の第一人者的な立場を持ち、
都護孫皎が諸将を監督した(かもしれない)だけ。
朱然が江陵督の座を継いでも、呂蒙個人が持っていた「第一人者」という格まで継げるわけではない。

陸遜が劉備を防いだ功績により輔国将軍・荊州牧に任じられた時に初めて、孫呉に「荊州総督」が誕生する。

97:世界@名無史さん
12/01/11 18:57:41.56 0
>>94
ありがとうございました、という言葉では足りないくらいありがとうございました。
伏完は見たような気がしますが、董承が衛将軍→輔国将軍になってたとは知りませんでした。
後漢書に載ってますね。

>>95
郭嘉の項なんかも「ん?」と思ってましたが、他者からもツッコミ食らって追記してたり。

>>96
今はただ輔国将軍の件が疑問に思っただけなので、
それ以外の部分については深く考えてませんでしたが、後で勉強しておきます。

98:世界@名無史さん
12/01/11 19:50:56.63 0
>>95
輔国将軍とかやっぱ軽いだろ。雑号よりはマシなだけで。

URLリンク(kanshigyoku.client.jp)
3品
征蜀、征虜、鎮軍、鎮護、安衆、安夷、安遠、安寇、平戎、平虜、輔国。都護、虎牙、軽車、冠車、度遼、平狄、平難将軍
 ・・・ある目的に応じた将軍号。異民族の討伐が多い。度遼将軍のような伝統的な将軍号を含むが、かなり雑号的な要素が多い。

99:世界@名無史さん
12/01/11 20:01:25.09 0
19の階級の内、輔国将軍は12番目。中の下ってとこ。

134 : 世界@名無史さん : 2010/06/04(金) 15:21:07 P
蜀と呉の将軍号の序列を書いたので、
最後にこのスレでは人気のない魏の将軍号の序列について。

大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>四征大将軍>四鎮大将軍>
諸大将軍>四征将軍>四鎮将軍>四征将軍>四方将軍>三品雑号将軍>四安将軍≧四平将軍≧
四品雑号将軍>五品雑号将軍>偏将軍>裨将軍>牙門将軍

魏は官品が分かってるから、将軍号の序列が分かりやすい。
あと、四方将軍の地位が低いのと、四征将軍の異様な地位の高さが特色。
四方将軍が都督の副将的な位置づけになることが多いのも特色。
あと、呉や蜀のように特に格式の高い将軍号がないのも特色。


100:世界@名無史さん
12/01/11 20:04:22.66 0
3品って、九卿クラスなんだが。どこが軽いの?

魏晋が四征鎮など二品の官を増やし、 古制に倣うと「公」と「卿」の間に「孤」という地位を設定するようになって、
卿の地位は目減りしたが、その影響を受けていない呉蜀にとって
諸卿相当官というのは、上に片手の指の数くらいしか人がいない顕官。

101:世界@名無史さん
12/01/11 20:06:29.92 0
>蜀と呉の将軍号の序列を書いたので、
>最後にこのスレでは人気のない魏の将軍号の序列について。

引用する箇所くらい読んで選べよ…

102:世界@名無史さん
12/01/11 20:10:57.86 0
>>101
いや見たけど、ないんだもんw

113 : 世界@名無史さん : 2010/06/02(水) 15:47:18 P
呉は大司馬と上大将軍と大将軍と左右の軍師と左右の都護と左右の都督と、
大将軍級の軍幹部が大勢いて訳分からん。

あと、呉の将軍号の序列は
上大将軍>大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>諸大将軍>四方将軍>四鎮将軍>
鎮軍将軍>四征将軍≧四平将軍≧四安将軍≧雑号将軍と思われる。

114 : 世界@名無史さん : 2010/06/02(水) 15:48:52 P
あ、衛将軍を忘れてた。訂正。

上大将軍>大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>諸大将軍>四方将軍>
四鎮将軍>鎮軍将軍>四征将軍≧四平将軍≧四安将軍≧雑号将軍

116 : 世界@名無史さん : 2010/06/02(水) 20:21:13 0
蜀の序列は

大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>四鎮大将軍>鎮軍大将軍>四征大将軍
>四方将軍>四鎮将軍>鎮軍将軍>四征将軍>雑号将軍

ではあるらしい。ただ、輔国将軍、輔漢将軍、安漢将軍がどの位置なのかは不明。

103:世界@名無史さん
12/01/11 20:11:20.42 0
じゃあ孫権が呂蒙に尋ねたのは「君の代わりに江陵の守備を任せられるのは誰か」だったのね。

104:世界@名無史さん
12/01/11 20:13:19.75 0
まあ、将軍になれるのは万石・中二千石・二千石の三階級しかない
秩石制の漢呉蜀の制度をそんな不等号記号で細分化する時点で出鱈目だから
忘れていいけどな。

105:世界@名無史さん
12/01/11 20:15:57.85 0
やっぱ雑号将軍に毛が生えただけっぽい。

URLリンク(homepage2.nifty.com)

輔国将軍 後漢に置かれた由緒正しい将軍号。雑号将軍ではあるが、その格式は高い。

106:世界@名無史さん
12/01/11 20:16:39.01 0
雑号将軍なんて存在自体が魏中期以降にしかない。

107:世界@名無史さん
12/01/11 20:19:26.32 0
輔国将軍=輔呉将軍?

張昭
URLリンク(ja.wikipedia.org)
229年、孫権が皇帝になったとき、張昭は高齢で病気がちであるとして官位と領地、それに兵を返上した。
孫権は改めて張昭を三公に次ぐ輔呉将軍に任命し、婁侯に封じ、一万戸の食邑を与えた。

108:世界@名無史さん
12/01/11 20:25:25.07 0
輔国将軍=輔呉将軍と仮定すると、張昭は陸遜のお古の官位をもらったことになるが・・・。

URLリンク(ja.wikipedia.org)
陸遜に輔国将軍を加官し、荊州牧とし、江陵侯に改封した。(222年)

229年、孫権が皇帝に即位するのに伴い、上大将軍・右都護の官を授かった

109:世界@名無史さん
12/01/11 20:29:06.85 0
>>108
呉王の輔國将軍と、呉王朝の輔呉将軍では格が違う。


110:世界@名無史さん
12/01/11 20:31:36.21 0
まあ、張昭が敬われども階級的には微妙な所に留め置かれたのも事実だろうけどね。
呉初期は三公を置かなかったから、上大将軍が三公の上か下かは判別し難く、
張昭と陸遜の序列比べは難しいんだけど。

111:世界@名無史さん
12/01/11 20:34:40.33 0
若造の陸遜以下の官位しかもらえないとか、張昭さんマジかわいそう
孫権も結構露骨な人事するよね・・・

112:世界@名無史さん
12/01/11 20:36:14.45 0
>>109
格が違うといっても、適当にでっち上げた将軍号なわけで、歴史も由緒も権限もないw
悪い意味で既存の体制に当てはまらない。


113:世界@名無史さん
12/01/11 20:39:53.65 0
董承の官位の変遷からして、輔国将軍は衛将軍と同等以上だったのだろうか。
降格する理由はないと思うのだが。

114:世界@名無史さん
12/01/11 20:41:58.02 0
>112
班亞三司。
格と由緒は孫権が与えた。
権限は無かろうけどね。

それから、丞相を三公の上とする慣習がまだ生まれていないだろうことを考えると、
上大将軍は漢の古制に従い三公の下っぽいな。

115:世界@名無史さん
12/01/11 20:50:28.26 0
>>105
根拠も出典も書いてない一般のサイト持ってこないでくれ、意味ないから


116:世界@名無史さん
12/01/11 21:29:22.63 0
建安元年,拜完輔國將軍,儀比三司。

張昭の
拜輔呉將軍,班亞三司,
は、伏完に倣ったものだね

117:世界@名無史さん
12/01/11 21:59:34.30 0
輔国将軍はあれじゃないかな
将軍の名誉職で幕府を必要としてない立場で儀同三公みたいなもんなんじゃない?

そしたら衛将軍から輔国将軍になっても矛盾しないし
鎮西将軍に輔国将軍を加官されてもおかしくない

118:世界@名無史さん
12/01/11 22:04:08.51 0
>>117
最後の一行が意味わからない
そのレス内容からどうして「加官されてもおかしくない」という結論が導けるのか

119:世界@名無史さん
12/01/11 22:26:26.97 0
将軍号は本来非常置の官で、外征時に勅命が下って、臨時に本職から転任したり、加官して出陣したもの。
戦時が終われば旧に復する。
他に加拜と記される散騎常侍、奉車都尉、騎都尉も、それぞれ戦時派遣職だったり
皇帝側近の「内朝官」の特別職だったりした歴史を持つもの。

つまり儀礼上の名残であって深い意味はない。

120:世界@名無史さん
12/01/11 22:33:33.60 0
後漢書見たけど、董承が輔国将軍になったっていうのは誤読じゃないか。
>>94の「説に食い違いがあるものの」っていうのは、その辺微妙なのを指してるのかもしれんが。

121:世界@名無史さん
12/01/11 22:39:44.11 0
>>120
あーそうかも。というかすぐ後に校訂があるね。本文流し読みしかしてなかった

122:世界@名無史さん
12/01/11 22:40:43.32 0
>>120
誤読というか衍字によるものだと考証家たちが言っているな
衛将軍→輔国将軍はそもそもなかったものと思うべきだな

123:世界@名無史さん
12/01/11 23:41:30.63 0
原文だと
「封衛将軍董承為輔國将軍伏完等十三人為列侯」
「為」は衍字じゃなくて「及」の誤りなんじゃないかな。

「衛将軍董承及び輔国将軍伏完ら13人を封建して列侯とした」と読めばすっきりする。

124:世界@名無史さん
12/01/11 23:50:35.64 0
まあ、後漢の車騎は場合によって金印だったり銀印だったり微妙な立場で、
衛将軍はそれより下だから、九卿より上は間違いないにしてもそう大差は無いけどね。

125:世界@名無史さん
12/01/12 01:17:10.67 0
>>114
>格と由緒は孫権が与えた。

孫家自体に由緒も歴史も権威もないのにw

126:世界@名無史さん
12/01/12 01:24:23.35 0
四コマギャグ漫画的視点でそう信じるのは自由だ

127:世界@名無史さん
12/01/12 04:13:40.58 0
結局、輔国将軍って軽いほうなのか重いほうなのか


128:世界@名無史さん
12/01/12 05:11:47.56 0
官位が高いか低いかなんて、相対的だろ
輔国将軍になった人がどんな扱いを受けてるのかで見るしかない

129:世界@名無史さん
12/01/12 08:16:55.74 0
後漢では伏完、呉では陸遜、あと蜀では董允とかがなってることからして、
>>93>>98で言われるよりかは重いと言っていいんじゃないの。
軽いとする根拠は三国(というか魏の)職官表しかないような。

130:世界@名無史さん
12/01/12 09:24:13.44 0
>>129
伏完

侍中〔後漢〕→執金吾〔後漢〕→輔国将軍〔後漢〕→中散大夫〔後漢〕→屯騎校尉〔後漢〕

なんかどんどん秩禄が下がっていってるんだけど。これ左遷されてね?
董允? こいつなんか功績あったっけ。

131:世界@名無史さん
12/01/12 16:38:22.23 0
伏完は輔国将軍になった時に儀同三司も加官されてる。
対して中散大夫になった時は印綬を返上してるんだから、
輔国将軍から降格してったと見るのはおかしいでしょう。

董允は輔国将軍になる前に、蒋エンが官位を譲ろうとしているくらいなのに、
何をもって功績がないと言うのか。
でもって、輔国将軍になった翌年には尚書令になっている。

輔国将軍=輔漢将軍と見るなら、蜀においては出世職。
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)

後漢・蜀・呉を全く同一視するのもどうかと思うし、
どんどん話が逸れてってる気もするけど。

132:世界@名無史さん
12/01/12 17:01:18.30 0
>>131
>伏完は輔国将軍になった時に儀同三司も加官されてる。
>対して中散大夫になった時は印綬を返上してるんだから、
>輔国将軍から降格してったと見るのはおかしいでしょう。

しかし最初の侍中からどんどん秩禄が下げられてるのは否定できまい。

>董允は輔国将軍になる前に、蒋エンが官位を譲ろうとしているくらいなのに、
>何をもって功績がないと言うのか。

能吏系エピソードが一つもないし、戦争で功を立てたということもない。
諫言して劉禅の女遊びを抑えたぐらいの話しかない。
政治遊泳のうまいだけの伴食大臣だろ。
蒋エンが官位を譲ろうとしたってのも、本命後継者費イの当て馬にしただけじゃね?

133:世界@名無史さん
12/01/12 18:37:00.93 0
侍中ってたかが千石だぞ。権限は重いが。

134:世界@名無史さん
12/01/12 18:38:29.82 0
中散大夫は600石じゃなかったっけ?

135:世界@名無史さん
12/01/12 18:42:07.46 0
>政治遊泳のうまいだけの伴食大臣だろ。
うわあ…
ちくまも読んだこと無い人間は喋るなって言われたのに懲りないなあ。

伏完
>建安元年,拜完輔國將軍,儀比三司。完以政在曹操,自嫌尊戚,乃上印綬,
>拜中散大夫,尋遷屯騎校尉。十四年卒,子典嗣。
な。

136:世界@名無史さん
12/01/12 18:50:34.61 0
>>135
ちくまw

137:世界@名無史さん
12/01/12 18:55:49.68 0
「俺は○○なんて評価しない(→だから○○が就いた官なんて大したことない)」
って言われたら、もう後は水掛け論にしかならないんでないの。

138:世界@名無史さん
12/01/12 19:06:22.30 0
>>137
そうかもね。ところで、官位の中で輔国将軍が重い理由って何?

139:世界@名無史さん
12/01/12 19:12:01.08 0
董允と伏完には軍功なんてない。
軍功なくてももらえる将軍号なんて、たいしたことないか、名誉的なものに過ぎないんじゃないの。

140:世界@名無史さん
12/01/12 19:21:00.67 0
将軍号ってのは、前漢初から宮廷警護と助言役として
皇帝の親近者や特に信任重い者が帯びる高位職として機能してるんだよ。
最も顕著な例が外戚の大将軍。これに武勲も野戦能力も要らない。
張昭、董承の例を見ても、輔国将軍がその機能に向いた名号だったと
わかる。何しろ「國を輔弼する」だからね。

ていうか伏完が外戚だったことは知ってたよね?

141:世界@名無史さん
12/01/12 19:21:33.97 0
×董承 ○董允

142:世界@名無史さん
12/01/12 19:22:30.71 0
>>138
儀比三司

143:世界@名無史さん
12/01/12 19:24:24.05 0
>>140
大将軍になりたがる外戚はたくさんいたが、輔国将軍は軽いよねぇ。
後漢で就いたやつ誰だっけ。

144:世界@名無史さん
12/01/12 19:25:53.93 0
>>143
建安元年の政治状況と朝廷高官を心の中で暗誦しなさいな

145:世界@名無史さん
12/01/12 19:29:28.76 0
輔国将軍大したことないって言っちゃった子、後に引けなくなってるのか

どんどん見苦しくなってるからもうやめといた方がいいのに

146:世界@名無史さん
12/01/12 19:31:35.27 0
>>86と同じ子かねえ。
このスレで孤立無援の戦いを広げる人って
同じパターンばっかりなんだが。

147:世界@名無史さん
12/01/12 19:34:36.16 0
そもそも>>93の陸遜の話から始まってるのに、なんで伏完と董允の話ばかりになってるんだっていう。
輔国将軍ディスってる人的には、>>93はどうなのよ。

148:世界@名無史さん
12/01/12 19:54:02.33 0
とりあえず>>93で言われてるより、四鎮四征将軍が軽いってことでいいんじゃないの。
後漢書には大・驃騎・車騎・衛・四方将軍の他は雑号将軍とある。
伏完がどうの董允がどうのっていうのは、>>128の言うとおりでしかない。

149:世界@名無史さん
12/01/12 20:06:06.18 0
>>148
だね。
四征について具体的には、宋書等に魚豢魏略が引用されているもので確認できる。
魚豢曰:「四征,魏武帝置,秩二千石。黄初中,位次三公。漢舊諸征與偏裨雜號同。」

ま、そういうこと。

150:世界@名無史さん
12/01/12 21:58:57.00 0
伏完の娘をあのタイミングで娶る意味はどこにあったのだろう

151:世界@名無史さん
12/01/12 22:21:35.17 0
難しい時期で、有力で忠誠と思われる臣下と結んでおく必要があった。
伏完にとっては、外戚になれば献帝を輔弼して救うことが何よりの栄達の道になる。
それも曹操の軍事力の前には無力だったのだろうが。

152:世界@名無史さん
12/01/13 00:10:53.12 0
伏完の忠誠はともかく「有力」なの?
伏氏一族って。

153:世界@名無史さん
12/01/13 00:29:09.51 0
ググれば30秒でわかることをレス待ちしなくてもいいのに

154:世界@名無史さん
12/01/13 20:29:53.29 0
上で引用されてる将軍号の序列書いたもんだけど、
蜀の輔国将軍は尚書令董允と、平尚書事董厥が帯びてるから、
衛将軍の次で四方将軍よりは上じゃないかと思う。

155:世界@名無史さん
12/01/13 20:41:53.06 0
>>152
前漢から続く家系で、光武帝の宰相だった伏湛の子孫。
不其侯の爵位を代々受けつぐ貴族で、伏完の父親が九卿。嫁は皇族。
汝南袁氏や弘農楊氏とは比較にならないほどの超名門の当主。

156:世界@名無史さん
12/01/13 21:47:21.55 0
>>155
そんな名門なのに、伏完の頃になると、他の伏氏で官位もらった人材が見当たらない。
長安遷都と東帰行でほぼ壊滅したんではないか。

157:世界@名無史さん
12/01/13 22:01:55.63 0
献帝も空気の読めない奴だな。
家柄だけの力のない奴の娘を皇后にしたところで、
どうやって曹操に勝てるというのだ。
政治的に何もしないでひっそり暮らすならまだしも、
皇后は血迷って曹操暗殺をもくろむような、
更に空気の読めない女だった。
そりゃ曹操も娘を押し付けて手綱を取ることを考えるさ。

158:世界@名無史さん
12/01/13 22:13:39.03 0
さすがに聡明と言われた献帝も一年後の空気を読めるほどのエスパーではなかっただろうからな

159:世界@名無史さん
12/01/13 22:22:02.11 0
どんな大族でも、歴史に名が残る人間ってほとんどいないよ
大した事跡もないのに地位が高いだけで記録に名前が残るのは、
三公ぐらいのもんだわ

160:世界@名無史さん
12/01/13 22:48:50.25 0
>>157
んなこと言われても曹操に強制連行される前から皇后だし…

161:世界@名無史さん
12/01/14 00:09:01.27 0
曹操は史書に事蹟が残らないような名門名家の世論と戦っていたわけだな

そういうのを含めると「統一」という言葉が再浮上してきた漢中攻略後に敢えて兵を返してまで
確実で失敗のない「魏王」を取ったのも頷ける・・・曹操の年齢を考えれば

162:世界@名無史さん
12/01/14 00:41:30.65 0
野田改造内閣に早速疑惑浮上

@aritayoshifu 有田芳生
捜査当局が内偵を続けている農水疑惑。詳細な怪文書まで出回っている。3億円の
行方はどこに?

@minorucchu ジャーナリスト 田中稔
野田改造内閣を揺るがす、農水省3億円スキャンダルの怪文書。二人の議員名が浮上。
34分前 webから
URLリンク(twitter.com)

鹿野と筒井らしい
自公は問責も視野に調査開始だって

163:世界@名無史さん
12/01/14 02:57:19.64 0
伏皇后って、董貴人がぶっ殺された後に皇后になったんじゃ?

164:世界@名無史さん
12/01/14 07:51:30.50 0
>>163
興平二年だからまだ長安にいる時。

165:世界@名無史さん
12/01/14 09:09:21.74 0
>>154

蜀の輔国大将軍、鎮軍大将軍とかは実戦部隊を指揮するのは
希みたいな感じだね。董厥が兵を率いたのは滅亡直前の緊急事態。
方面軍司令官は四鎮大、四征大の仕事なんだろう。無印四鎮・四征
は別働隊指揮や小規模侵攻の司令官といったとこかな。劉備時代から
第一次北伐までは魏延が漢中守備の責任者だったけど、諸葛亮が漢中に
来てからは、無印鎮北の魏延は1部隊や小規模侵攻軍の司令官でしかな
くなった。別働隊を率いた無印鎮東の趙雲と変わらない立場になった。
その後魏延は昇進して征西大将軍に昇進したが、諸葛亮率いる中央軍の
統制下なので、立場は1部隊の指揮者のまま。

166:世界@名無史さん
12/01/14 09:23:55.89 0
宮中の親兵統括や皇帝側近に用いられる名号だからね。

167:世界@名無史さん
12/01/14 09:27:27.69 0
>第一次北伐までは魏延が漢中守備の責任者だったけど、諸葛亮が漢中に
>来てからは、無印鎮北の魏延は1部隊や小規模侵攻軍の司令官でしかな
>くなった。別働隊を率いた無印鎮東の趙雲と変わらない立場になった。
>その後魏延は昇進して征西大将軍に昇進したが、諸葛亮率いる中央軍の
>統制下なので、立場は1部隊の指揮者のまま。

やっぱ魏延の反乱は諸葛亮体制でストレス貯めこんでたからか・・・

168:世界@名無史さん
12/01/14 09:37:40.98 0
でも、魏延は大人しく撤退してれば、
官位と漢中司令官の地位は保持できたんだよ。
魏延司令官で遠征続行は無理がありすぎ。
大人しく撤退しない魏延が悪い。

楊義は撤退後には完全に干されるのは既定路線。
諸葛亮の側近だったのに、誰が後継者になるかも
聞かされてなかったし、担当職務がなくなるのも
手配済み。トラブルメーカーの楊義は、後継体制で
は無用と判断された模様。

169:世界@名無史さん
12/01/14 09:47:42.89 0
蜀漢で四征がその方位に従って方面軍を任せられたことはほぼ無い。
劉備から諸葛亮の将軍号氾濫期に趙雲等が形式的に方位の号を持っただけ。
ただ征西将軍だけは漢王朝伝統の由緒ある名号なので残り、
勲功高い武官によく与えられるものとなった。

諸鎮(実質南北二鎮)が、王朝安定期の方面軍として機能した名号。
ただ鎮西は、姜維と胡濟の二例しかないが、隴西など西方討伐に派遣される官として
動いている。

大を加えるかどうかは、他の官僚とのバランスと本人の格の問題。
将軍が少ない時代は諸鎮でも周囲を統率できるが、
老将が増えたりして高位の将軍号を持つ者が増えたり、
有能な方面指揮官自身が功労を重ねて昇進せねばならなくなると、
大を加えつつ現場に留まってもらう、というケースになる。

170:世界@名無史さん
12/01/14 09:57:51.43 0
四征大将軍は、光武帝の時代に各方面に遠征する方面総司令の役を担ったが、
その後の軍縮でこの慣習は立ち消える。
ただ征西将軍だけが、時折の西方遠征において、小動員なら主将、
大動員なら車騎将軍などの副将として派遣された。
魏延の征西大将軍は諸葛亮との主副関係をこの伝統に擬えつつ、
大を加えて厚遇を示したものと見るべきだね。

171:世界@名無史さん
12/01/14 11:26:43.00 0
>>165
董允の輔国将軍、陳祗の鎮軍将軍などは、
尚書を統括する高官に軍権を与えて彼らの権力を強化するためだね。
諸葛瞻の衛将軍もそう。

無印四鎮四征は、上級の雑号将軍といったところだね。

172:世界@名無史さん
12/01/14 17:10:27.79 0

反日ネット工作員
朝日新聞社→社員約300人
民主党とその取り巻きの資金が入った反日工作会社→数社約450人

朝日新聞の社員は捕まった49歳の編集者を含め新聞記事を書く合間に2chを荒らしている程度とみられているが
民主党が用意した反日工作会社はほぼ24時間体制で工作を行っている
工作範囲は民主党が予め工作費を流している2ch、ニコニコ動画を中心にyoutube、個人のブログなどである。



173:世界@名無史さん
12/01/14 19:02:11.18 0
宗預は対呉方面の責任者として、
征西大将軍に任命されていたなあ。

174:世界@名無史さん
12/01/14 20:36:50.55 0
対呉なのに征西?

175:世界@名無史さん
12/01/14 21:18:23.99 0
征東とかにしてしまうと、
呉に対して敵意ありみたいな印象を持たれるからでは?
同盟国への配慮というやつかな。

176:世界@名無史さん
12/01/14 22:14:45.27 0
>>175
そういう解釈もありか。なるほど。
征西将軍は、姜維・魏延・張翼の対魏西域の役と、
陳到・宗預の督永安の役に分かれるね。

177:世界@名無史さん
12/01/14 22:27:23.39 0
洋の東西を問わず敵対関係にない隣国への配慮って大変だな
WW2フランスもマジノ線をもっと北まで引きたかったけど
ベルギーに配慮してベルギーのところまでは伸ばさなかったら
開戦後にベルギーがドイツに踏み潰されて道路になってそのままそっからフランス終了だったし

178:世界@名無史さん
12/01/15 21:40:25.52 0
>>177
それってマジノ線?じゃなくてマジの話?

179:世界@名無史さん
12/01/15 22:00:53.46 0
>>178
マジ

ドイツとドンパチ始めてからベルギー側国境に要塞作り始めたけど時間切れ

180:世界@名無史さん
12/01/15 22:18:34.97 0
呉も蜀の滅亡前後には配慮した方だよな。
きっちり劉禅が降伏してから侵攻したし。
と言っても、降伏前に「救援に来ました」とか言っても羅憲がまともに通すわけないが。

181:世界@名無史さん
12/01/16 11:27:52.45 0
鎮東将軍も永安には配置しなかったな。
この官位に就いたのが確認できたのは趙雲だけだが、
諸葛亮と共に漢中だったし。

182:世界@名無史さん
12/01/16 14:24:56.80 0


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スレリンク(poverty板)

183:世界@名無史さん
12/01/16 17:45:18.22 0
羅憲はエレキギターが似合う男。

184:世界@名無史さん
12/01/16 21:24:38.75 0
閻宇の伝記がないのは、
黄皓と結託したということに対する陳寿の鉄槌?

185:世界@名無史さん
12/01/16 21:32:02.41 0
馬忠・張表に及ばない事跡で、蜀滅亡後も生き残ったかもしれない程度の人間には伝は立てられんだろう。

186:世界@名無史さん
12/01/18 20:13:10.80 0
閻宇は佞臣だったのかな?

馬忠伝だけ読めば、何か真面目な人という感じにとれる。
姜維の北伐に反対した人間は結構いた。陳寿がクソミソに
叩いてないとこ見ると、亡国の原因になるような人物では
なかったのだろうか?

187:世界@名無史さん
12/01/18 20:26:36.58 0
黄皓は閻宇と協比(協力・親和)しており、そのため黄皓は閻宇をして姜維に取って代わらせようとした。
と、陳寿は書く。

ただ陳寿の史観では黄皓と妥協・融和して政治をするのは全て駄目、ということになっているから、
閻宇も実際のところは佞臣というほどではなかった可能性は十分ある。

188:世界@名無史さん
12/01/18 20:52:25.79 0
董允が父親と別に伝記が立てられたのも、
黄皓を押さえ付け、宮中の秩序を守った名臣だから、
特別に単独で伝記を立てた感じだもんな。

189:世界@名無史さん
12/01/18 21:21:08.12 0
>>188
そもそも「黄皓の専横」というが、黄皓がもっとも政治的に活躍したのは、閻宇、諸葛瞻、董厥と一緒に姜維追い出しをやったことだろ。
「董允が黄皓を抑えた」というのは一体なんなのか。
董允は、実は姜維の味方で外征派だったのか?

190:世界@名無史さん
12/01/18 21:31:29.47 0
黄皓の行いが具体的に書いてないからと言って、実は奸臣でないと推測するのは自由だが、
書いてないから後は何もやってないと決めつけるのもどうかと。

191:世界@名無史さん
12/01/18 22:04:39.51 0
>>189
董允は黄皓が劉禅に取り入って立ち回ろうとするのを抑えて、官位を低く留めていた。
董允の死後、黄皓は現に昇進しやがて政治を専断することになるわけで、
董允は黄皓の性質を見抜いて遠ざけていた厳正で人物眼のある人物だった。

と、陳寿は記す。

192:世界@名無史さん
12/01/18 22:49:53.37 0
黄皓が表舞台に出る契機を作ったのは陳祗だが、
姜維の積極的な北伐を許可した唯一の協力者も同じく陳祗だ。
黄皓姜維陳祗はぐるだぞ。

193:世界@名無史さん
12/01/18 23:29:21.26 0
黄皓が陳祗の下で出世したからと言って、
なんで宦官が尚書令と同じ軍事方針を持っていなければならないのか。
どうやってそれと推定できるのか。

194:世界@名無史さん
12/01/19 00:35:25.47 0
軍事方針が同じじゃないと、どっちかがどっちかに排除されて終了だろ。
陳祗死後の姜維追い出しのときみたいに。

195:世界@名無史さん
12/01/19 00:40:47.38 0
つまり陳シが鎹になってただけで姜維と黄皓は結局排除し合う関係だったってこったろう
ぐるでもなんでもないな

196:世界@名無史さん
12/01/19 00:52:40.66 0
遠征ばっかりで中央朝廷の舵取りを殆ど放置していた姜維と、
陳祗時代にはたかが黄門令の黄皓が、どうやって排除しあうって?
互いに政争の視野にも入らない存在だろうが。

197:世界@名無史さん
12/01/19 01:04:44.95 0
黄皓姜維陳祗連合は姜維の軍事力頼みの一番弱い勢力。
なぜなら、こいつら以外の蜀の官吏は、ほとんど全員姜維の外征に反対だからw
だが、陳祗は上手いこと劉禅に取り入り、さらに黄皓も使って政権を担えるだけの力を得た。
で、陳祗が死んだ後は、黄皓は蜀の主流派(反姜維派)に取り込まれ、姜維は追い出された。

198:世界@名無史さん
12/01/19 03:52:18.65 0
>>196
だから「結局」と言ってるでしょ
陳シ時代には陳シを挟んで間接的に手を組んでいたものの、
彼らはグルでもなんでもなく、単に陳シが間に居て結託してるように見えてるだけってことさ
んで、最終的に彼らはいがみ合う関係になった

>>197
官吏はともかく劉禅は外征希望してると思うよ
陳シが寵臣だったりしても劉禅自身が外征を希望してなければ
ああまで盛大に姜維に軍権やら物資が与えられない
鄧艾の反撃によって姜維が甚大な被害を出してやっと
国内の外征反対派が姜維の妨害に取り掛かれる程に
当時の蜀内部の外征派は強かったということがわかる

199:世界@名無史さん
12/01/19 19:51:27.51 0
196は194へのレス

>>197
姜維への反対論が高まるのは段谷の敗戦と陳祗の死の後。
その前の255年の出兵では反対者は朝議で張翼だけ。
その年と前年は姜維の大躍進の時期で、大将軍へ昇進。
ここまでは張翼の立場無し。段谷はその翌年。

それから、古代中華帝国においては、皇帝の意思を抑える党派が最強の勢力だよ。
陳祗しかり、黄皓しかり。
「蜀の主流派」なるものが幾ら数がいても、
劉禅-黄皓のラインの前に追従することしかできなかったのが現実。

200:世界@名無史さん
12/01/19 21:33:11.42 0
姜維は遠征を好きにやりたかった。
陳祗は官位が上な姜維が外征でいないほうが、
好き勝手にできて都合が良かった。黄皓は寵臣である
陳祗と結びつくことが、自己の栄達に都合がよかった。
その三者の思惑の偶然の一致が外征を推進させた。別に
姜維と黄皓は仲間意識はほとんどない。

そこに段谷の大敗による姜維の権威の失墜、陳祗の死去により、
姜維は朝廷内での権力維持と、皇帝に諂い、権力を得ようとする
黄皓との対立関係が生じてしまった。外征反対派は黄皓を利用し、
黄皓も外征反対派を利用しようとしたのだろう。

201:世界@名無史さん
12/01/19 22:29:06.35 0
諸葛瞻らは黄皓の専権を容認することでその下に地位を確保し、
この中で自分達の望む施政を実現しようとした。
これは後漢末期に「権道派」と言われた荀爽・王允らと立場を同じくする。

黄皓は士人官僚達の積極・消極的支持(これがおそらく多数派)を
受け入れることで自分の地位を安定させ、
逆にあくまで反黄皓を貫いたらしき陳寿・羅憲ら(少数派)を
権力中枢から遠ざけても朝廷内の基盤を揺るがさずに済ませることができた。

しかし、この二派の結合と多数化により、成都は安定しても姜維漢中府との
不信は深刻化し、魏の侵攻に十分に対応できず滅びた。

202:世界@名無史さん
12/01/20 00:29:30.82 0
>>201
>逆にあくまで反黄皓を貫いたらしき陳寿・羅憲ら(少数派)を
>権力中枢から遠ざけても朝廷内の基盤を揺るがさずに済ませることができた。

陳寿の師匠の?周はどっちかといえば黄皓に近かったのではないか。

203:世界@名無史さん
12/01/20 05:05:19.74 0
>>201
そもそも蜀軍に2正面作戦やれるほどの戦力はない。
姜維が大敗して兵を減らしたのが悪いんだろうが。

204:世界@名無史さん
12/01/20 06:24:54.81 0
諸葛亮ならできたな

205:世界@名無史さん
12/01/20 08:11:19.96 0
諸葛亮も軍を二手に分けたのは第一次北伐だけじゃん。
それも囮軍だし。魏延が別道から行かせてくれと言っても
頑として認めなかった。

206:世界@名無史さん
12/01/20 08:30:50.10 0
第一次北伐でこけたトラウマで魏延を手放したくなかった
つまり諸葛亮は魏延を馬ショクのようにしたくなかった。
つまり諸葛亮は魏延LOVE!

207:世界@名無史さん
12/01/20 13:47:25.97 0
>>205
その後も陳式を使ったり諸葛亮は別働隊大好きっこ

208:世界@名無史さん
12/01/20 13:50:13.06 0
軍を二手に分けるのはうんたらかんたらーって曹叡さんが言ってた。

209:世界@名無史さん
12/01/20 18:36:43.40 0
諸葛亮の別働隊は、
大軍を二手に分けたのとは違うと思う。
陳式の武都・陰平攻略戦は、魏も支配していたとは
言い難い地区だし。

210:世界@名無史さん
12/01/20 20:19:47.57 0
>>202
なぜ?

211:世界@名無史さん
12/01/20 23:38:30.72 0
>>203
東西の長い範囲を同時に圧迫したのが魏の戦略だが、
この防衛線を突破された直接の原因は、
そもそも投入可能戦力が揃う前に陽平関が落ちたから。
なぜ間に合わなかったかというと、
姜維の第一報を劉禅と黄皓が信じなかったから。

212:世界@名無史さん
12/01/21 01:23:19.54 0
>>211
姜維が偽情報を掴まれた可能性だってあるじゃん。。
情報というのは一つだけでは役に立たない。他の情報と突き合わせて確認しないと駄目。
蜀の少ない兵力では、東西の防衛線を全部守れるわけがないだろ。
魏の主力がどっちに来るかを見破った上で、そっちに兵力を集中しないといけない。

213:世界@名無史さん
12/01/21 01:32:14.70 0
魏軍は漢中を避けて沓中に突破してくるか?
魏軍は漢中を本気で漢中を突破してくるのか?
蜀の予備兵力をどちらに送るかは死活問題。
魏軍は諸葛緒と鄧ガイに6万、鍾会に10万の兵力があり、どちらが主力とも判断しがたい状況。

214:世界@名無史さん
12/01/21 02:43:31.74 0
陽平関と沓中の位置関係。どうみても離れすぎ。
陽平関に援軍を送れば沓中に援軍を送れず、
沓中に援軍を送れば陽平関に援軍を送れない。
そんなかんじ。

URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)

215:世界@名無史さん
12/01/21 03:59:18.57 0
未だに「姜維は漢中守る気なかったの?馬鹿なの?死ぬの?」って意見を聞けるところに、
悠久の歴史を生きる三国志ファンがゆったりとした時間を生きていることが伺える。
姜維はまず隴右方面から押し寄せてくる鄧艾軍に対処しなきゃいかんっつうに。
目前の敵を放置して、関中方面の鍾会に対処しろなんて無茶言うなよ。

216:世界@名無史さん
12/01/21 04:14:13.21 0
URLリンク(img.blogs.yahoo.co.jp)

この図を見て思ったが、黄皓がすばやく判断して予備を全部陽平関に入れたら、諸葛緒の攻撃には誰が対応するの?

217:世界@名無史さん
12/01/21 04:26:52.87 0
廖化ってもともと姜維への援軍に派遣されたんじゃない?

218:世界@名無史さん
12/01/21 04:32:15.78 0
>>217
成都の判断はそうだけど、姜維の進言では陰平橋頭で敵に備える為に派遣する軍だった

情報が少ないからとか、戦線が長いからとかって姜維の進言の有効性にけちをつけるのは、よく読んでない証拠だと思うよ。

219:世界@名無史さん
12/01/21 04:39:31.86 0
>>218
「後退する姜維と合流して、陰平方面からの攻勢を支えろ」って司令なんじゃないかね?
いかに軍事音痴の成都首脳でも。あの時点で成都から進発した廖化が沓中まで進めるとは思わんだろ。

220:世界@名無史さん
12/01/21 04:43:19.65 0
>>218
>姜維の進言の有効性

姜維「漢中が危ない」といいつつ、自分は漢中の精鋭を根こそぎ引き抜いて、沓中に出て行っちゃった。
成都が「本当は一体どっちが危ないんだ?」と混乱するのも当然だろ。

221:世界@名無史さん
12/01/21 05:05:14.01 0
>>220
姜維が防衛戦略を変更する以前の漢中の常駐兵力は三万に満たなかったと王平伝に載っている。
鍾会が攻めてきた時の漢城と楽城には各五千の兵が駐屯していたけど、
これが漢中の兵力の過半ということもないだろう。
さらに重要な拠点の関城にはもっと多い兵力がいたはずだし、
黄金囲などの城砦群にもそれなりの兵が入れられてたはず。
極端に引きぬかれたということは無いと思うんだけど。

222:世界@名無史さん
12/01/21 05:11:07.33 0
>>221
姜維軍は後退戦ですばらしい機動を見せている。
姜維軍主力は、姜維の無茶な采配にもついていける精鋭で構成されていたはず。
漢中軍は精鋭を失っていたから、粘り強い抵抗が不可能だったのだろう。

223:世界@名無史さん
12/01/21 06:05:42.18 0
>>222
抵抗も何も、かねてから不満を抱いていた関城の守将蒋舒が、
これ幸いと降伏して城を明け渡してしまって、
漢城と楽城も鍾会が軍を派遣して封鎖してしまったからでしょうが。
粘り強いかどうか判断する材料ないよ?

蒋舒が降伏したり、漢城や楽城が封鎖突破を試みたりしなかった理由まで、
「漢中軍は精鋭を失っていたから、粘り強い抵抗を断念したのだろう」と言われたら、
さすがに妄想乙と言わざるを得ない。

224:世界@名無史さん
12/01/21 07:33:39.94 0
鍾会軍は漢中への最短コースだけど、最も嶮岨なルートでの行軍だったんだよ。
王平が漢中の守備をしてた頃は、その嶮岨なルート途上で進軍を阻む防衛システム
が存在したが、姜維が段谷の大敗の穴埋めにしたのか、防衛システムを撤去して
しまった。だから易々と陽平関まで鍾会軍が到達してしまった。

鄧ガイが無理とも言えた侵攻が可能になったのは、鍾会軍が漢中盆地に侵入してたから。
あれが秦嶺山脈で足止めされてたら、鄧ガイ軍も四川盆地で孤立、要害を占拠されて持久
されたら、全滅するしかなかった。姜維の段谷の大敗が、結局は蜀滅亡の要因になってい
った。兵力だけじゃなく、実戦指揮官も多く失ったしね。

225:世界@名無史さん
12/01/21 07:51:13.37 0
>>224
王平は駱谷へ出撃して曹爽を足止めしたんだよ。位置的には楽城の前方。
誰も駱谷や斜谷を塞がずに、楽城と漢城も封鎖だけでスルーして進まれたら、
そりゃ陽平関まで簡単に来れるって話だね。
駱谷で足止めして援軍を待とうって王平の判断が尋常じゃなかったのは、
劉敏以外の諸将が楽城と漢城のラインで防衛しようと言ってたことで分かる。
鍾会が攻めてきた時の漢中には、王平のような指揮官がいなかったし、
いても曹爽の時とは状況が違いすぎるからどうにもならなかったと思うが。

226:世界@名無史さん
12/01/21 07:54:26.56 0
>>223
下級指揮官と精兵があれば、指揮官の交戦意欲がくじけることもなかった。
将というものは、手元に使える兵力がある限り、戦いを継続しようとするもの。
まあ、それが逆に働くと、やばくなってるのに「まだ大丈夫」と考えて逃げずにやられたりするんだけどね。

227:世界@名無史さん
12/01/21 07:56:10.55 0
>>226修正
下級指揮官と精兵

優秀な下級指揮官と精兵

228:世界@名無史さん
12/01/21 08:10:00.38 0
>>226
関城の傅僉は戦意旺盛だったな。
降伏するのに戦意がある人間が城にいられると困る蒋舒が、
傅僉を騙して出撃させて、その間に降伏したんだね。
少なくとも、関城の傅僉軍は交戦意欲があったことになるわな。
楽城の王含は不明だが、漢城の蒋斌は蜀が滅亡してから降伏してるから、
戦意が乏しかったということもないだろう。

鐘会の勝因を漢中軍の弱体さに求めるより、鐘会が関城突破を優先して、
途中の城をスルーした英断に求めるほうがより合理的だと思うがね。
何でもかんでも蜀がヘタ打ったせいにするのは簡単だが、
戦争は蜀と魏の間でやってるんだから、蜀はヘタ打ってないけど、
魏が蜀以上にうまい手を打ったから滅んだという解釈があってもいいんじゃないか?

229:世界@名無史さん
12/01/21 09:52:40.39 0
姜維は才人にありがちな性格で周りへの配慮が弱い。
弱兵を押し付けられて強大な魏軍と対峙する部下の将軍が、
戦況を悲観して降伏するかもしれない、
ということに思いが及ばなかったのだろう。

230:世界@名無史さん
12/01/21 10:02:59.39 0
段谷の戦いでもそうなんだ。
姜維は胡済がこなかったせいでで負けたというけど、
それは計画時点で、姜維が胡済に達成不可能な行軍計画を与えたからじゃないか。
仕事が出来る人には、人にすごい量の仕事を与えて「俺にできるなら君にも出来るよね? え、なんでできないの?」みたいな性格の人、いるよね。

231:世界@名無史さん
12/01/21 12:18:38.40 0
そうだね、胡済が罰せされたという記録がないから、
どうも姜維の作戦計画が無理があったくさいな。今までは
簡単に深入り作戦ができたので、安易に現地合流みたいな
兵力分散を行ったのだろう。記録にはないが、胡済も魏の
守備隊に進撃を阻まれたか何かしたのだろう。

232:世界@名無史さん
12/01/21 13:04:18.03 0
姜維の戦いは蜀の失敗した歴史をなぞるかのよう。

関羽:北伐途中で荊州を守ってた部下が呉に降伏、荊州を失う
姜維:鄧ガイと戦うために北上したら漢中を守ってた部下が魏に降伏、漢中を失う

諸葛亮:しつこく北伐を繰り返すが、勝てず。
姜維:しつこく北伐を繰り返すが、勝てず。

魏延:反乱しようとして失敗し、死亡。
姜維:反乱しようとして失敗し、死亡。

233:世界@名無史さん
12/01/21 13:08:37.46 0
質問です。
董卓の洛陽入りの前に、涼州刺史は誰が勤めていたのでしょうか。
誰が何年くらいで入れ替わっていたのか知りたいのです。

後、史実で確認される一騎打ちはどれくらいありますか?
呂布と郭汜、関羽と顔良は分かるのですが。

234:世界@名無史さん
12/01/21 13:38:53.20 0
関羽と顔良はダウト

太史慈と孫策はガチ

235:世界@名無史さん
12/01/21 13:55:24.49 0
曹髦と成済
曹髦の負け

236:世界@名無史さん
12/01/21 13:55:43.39 0
>>233
URLリンク(www2u.biglobe.ne.jp)

馬超と閻行

237:世界@名無史さん
12/01/21 13:55:55.46 0
>>233
187年頃の涼州刺史は楊雍だけど、いつまで在任してたかは不明。

238:世界@名無史さん
12/01/21 14:09:20.82 0
曹丕にサトウキビもたせたら最強

239:世界@名無史さん
12/01/21 14:46:54.90 0
やっぱ蜀漢滅亡は劉禅と黄皓のせいなのか

240:世界@名無史さん
12/01/21 14:48:44.55 0
一国が滅びるのが誰かの責任ってことにできたら、
ずいぶんと歴史を読むのが簡単になるだろうな。

241:世界@名無史さん
12/01/21 15:26:22.13 0
劉禅は蜀滅亡前の数年くらいからでないと、
それほど無道な皇帝という印象は感じられない。まあ、陳寿の評価の
通りという感じ。諸葛亮~費イの執政期間は、とくに劉禅が何かやらかし
たことはない。暗愚という後世の評判の割には失敗がない。姜維時代も
段谷の大敗前までは大きな乱れはない。晩年の孫権みたいな、有能な家臣を
死に追い込むようなこともしていない。わりと道理に従う皇帝だったのだ。
これは猜疑心が薄い人間だったことを物語る。諸葛亮の絶大な権力も、劉禅
の厚い信頼がなくては成立しない。人を信じ過ぎるきらいもあったかもしれない。
だから、側にいる人が陳シ・黄皓だと、全てが悪い方に出てしまう。

242:世界@名無史さん
12/01/21 16:05:48.25 0
劉禅は自分の能力の限界を悟っていたということかね
無能な働き者が一番タチが悪いと言うしね

243:世界@名無史さん
12/01/21 16:06:58.85 0
滅亡時の人口が100万人弱だったと信じる

いまの北九州市くらいの人口だ

その中から「傑物」が出るるかどうかの確率は
北九州からの市議・県議・国会議員をみるとそんなに高くないといえる

しかも今と違って昔の知的階級といえば更に層が薄いだろうから
何かが間違えば終わりなんだな

244:世界@名無史さん
12/01/21 17:13:37.71 0
諸葛亮スキーとしては、諸葛亮の死後に「良かったですね」
とぬかした臣下に劉禅がブチ切れて処刑したエピソードが好き。
劉備が遺言したように、本当に諸葛亮を父と思っていたのかなと。

245:世界@名無史さん
12/01/21 19:33:55.96 0
>>212
多方面から情報を集める努力すらせずに、
廷臣に公開せず皇帝と自分だけで事を寝かせたのが黄皓なのだが。

246:世界@名無史さん
12/01/21 21:31:27.14 0
>>225
曹爽と鍾会ではまず魏の兵力とバックアップが全く違う。
漢中が難攻不落とはいえ、漢中盆地に至る道は四本はある。
その全てに十分な兵力を送り込まれた場合、
劉備・諸葛亮時代からの守備方法で守れたのかが問題になる。

特に散関から陽平関に至る故道は比較的開けており、守備が難しいと考えられるが、
ここは姜維が秦嶺山中の陣営撤去と引き換えに強化した場所。

仮に兵力を振り絞って四本に十分な兵力を置いても、諸葛緒に天水から武都経由で無防備な陽平関の西を直撃される。
さらに鄧艾は、史実の険阻な道を通らなくとも、白水沿いに下って白水関まで到達できる。

結局、漢城・楽城・陽平関の点で守りつつ、陰平方面を機動軍でフォロー。
成都からの応援を待つ。という史実の戦略が最も効果的ではないのか。

247:世界@名無史さん
12/01/21 21:46:41.03 0
>>246
そうだね。だから、王平時代の防衛体制で王平が指揮しても無理だと思うんだ。
王平は陰平方面に備える必要がなかったからね。
漢中陥落に関して姜維が非難されるべきがあるとしたら、
段谷で負けて魏に隴右奪還を許してしまったことぐらいかな。
隴右から陰平方面に万単位の軍勢を送り込めるようになったことが、
劉備以来の蜀の国防体制を破綻させたんだから。

248:世界@名無史さん
12/01/22 10:51:08.81 0
233ですがお答えどうもです。
てっきり董卓が涼州刺史だったのかと思ってました。

249:世界@名無史さん
12/01/22 12:57:52.79 0
鄧艾の作戦はたまたま成功しただけの感じだけどね。


250:世界@名無史さん
12/01/22 14:16:19.30 0
>>246
>漢城・楽城・陽平関の点で守りつつ、陰平方面を機動軍でフォロー

で、結局その全てで魏に力負けしたというw
機動軍の姜維は鄧艾の前に敗退し、
漢中は防衛兵力が足りずに突破を許した。

251:世界@名無史さん
12/01/22 14:22:13.49 0
>>243
他所から北九州に越して来たんだがここが既に終わっとる。治安が悪かったり寂れてるからここを基準に知識人の割合を考えてもあんま例えの意味ないよ

252:世界@名無史さん
12/01/22 14:34:01.10 0
>>250
力負けではないよ? 意図的に引用を選んだのかな?

>成都からの応援を待つ。

これが間に合わず、柱石に位置する陽平関が寝返りで真っ先に落ち、
姜維は敵前から撤収しつつ防衛線を急激に縮小しなければならなくなった。
これを力負けとは言わない。で、

>なぜ間に合わなかったかというと、
>姜維の第一報を劉禅と黄皓が信じなかったから。

に戻ってくる。
張翼と廖化が陽平関と陰平橋に間に合えば負けなかった、とは言わないが、
蜀の直接敗因は純軍事的不利ではなく、内部の政争に起因するものだった。

253:世界@名無史さん
12/01/22 19:23:18.45 O
アワビだと!?

254:世界@名無史さん
12/01/22 22:19:44.79 0

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255:世界@名無史さん
12/01/23 11:30:57.78 0
ここで議論してる人って、ちゃんと三国志読んだんだろうか?
どっかの本やサイトから拾ってきた話を真偽も確かめずに自分の意見と勘違いしてるだけじゃないのか?
関連する記述をひととおり読んでたら、>>250のような書き込みはとうていできないと思う

256:世界@名無史さん
12/01/23 11:45:33.61 0
>>252
蜀のどこに三方面から侵入する魏軍を阻止できる兵力があるのか。

>これを力負けとは言わない

いやどうみても力負けだから。
総兵力が足りないから、無茶な機動防御戦で埋め合わせようとして、案の定失敗しただけだ。
独ソ戦末期だって、劣勢なドイツ軍が華麗な機動防御戦で何とかしようとして、やっぱり兵力が足りずに破綻、敗退したのが現実だ。

>張翼と廖化が陽平関と陰平橋に間に合えば負けなかった、とは言わないが、
>蜀の直接敗因は純軍事的不利ではなく、内部の政争に起因するものだった。

どうみても純軍事的不利が原因だよ。軍事的に不利だから、外征派とそれ以外の奴らで分裂して争いあったんじゃないか。

257:世界@名無史さん
12/01/23 11:55:31.89 0
陽平関が寝返りで落ちたのだって、守将が圧倒的な戦力差に悲観して、抗戦をあきらめてしまったからだろう。
司令官の姜維は、部下がそういう状態に陥らないように工夫しないといけないのよ。
部下の寝返りで失敗した奴なんていっぱいいるじゃないか。

258:世界@名無史さん
12/01/23 13:42:30.16 0
>>256
本を読んでない人乙
要害に拠ったら何倍の兵でも阻止できるってのは王平が駱谷の役で証明済み
この時から漢中の防衛体制が変わってないのは、
王平と劉敏以外の諸将の「敵と交戦しないで漢城と楽城に篭って防ごう」と言う意見が、
まさに鍾会侵攻の際の漢中防衛部隊の対応と同じだったことから明らか
それに対して王平は「関城まで入られたらおしまいだ」と、
漢城・楽城に篭って防衛したら、関城まで抜かれてしまう可能性を示唆している
この展開は漢城と楽城に篭っても鍾会を足止めできずに、関城まで抜かれた事実と対応している
漢中は防衛部隊が従来の体制で常識的な対応をしたせいで抜かれただけの話
陰平方面は姜維が対応しているけど、後退した後に廖化の援軍と合流して防衛体制に移る前に漢中が落ちてしまっただけで、
鐘会の手際が鮮やかだったってことと、成都が援軍を送るタイミングが遅すぎたことが原因だろう

259:世界@名無史さん
12/01/23 13:54:44.75 0
残念な人はまともに史料を検討しようともせずに、最初に結論ありきで話すから良くないんだ
自分の結論に都合がいい情報ばかりつまみ食いしてきて屁理屈を組み上げる
この場合は「漢中防衛体制の弱体化は姜維の建議が原因」という結論ありきで話していて、
姜維の建議以前の防衛体制の吟味と比較検討をまったくしていないから、こういう珍奇な議論ができる
詳細な比較が可能な戦例があるのに見向きもしない態度は不誠実そのものである
>>256氏には蜀書と魏書を読みなおし、再度自論を検討した後に書きこむことを提案したい

260:世界@名無史さん
12/01/23 14:12:57.22 0
>>257氏には、関城の守将蒋舒が無能を理由に武興督の地位を更迭されて漢中太守の補佐にされたのを恨んでいたことと、
戦意旺盛だったもう一人の守将傅僉が城内にいては降伏できないと考え、
欺いて城外に出撃させた後に降伏したことを付言しておきたい
すべて姜維伝を読めば分かることなのに、読まずに「守将が圧倒的な戦力差に悲観して、抗戦をあきらめてしまったからだろう」などと
平然と書き込める羞恥心には驚嘆を禁じ得ない

261:世界@名無史さん
12/01/23 15:39:29.73 0
姜維の建議は段谷の大敗の人的損害の穴埋めの側面が強いだろ。
実戦経験豊富な指揮官を多く失ったので、兵の頭数は揃えられても、
運用面でどうにもならんかったのさ。自分も秦嶺山脈で鍾会軍をできる
だけ足止めすれば、補給困難で撤退に追い込めたのではと考えている。
漢中に侵入しても撤退の相談したくらいだから。

鄧艾軍も、主力の鍾会軍が秦嶺山脈で足止めなら、四川盆地まで侵入は
困難だし、侵入したところで、要害を占拠して持久戦をされたら、全滅
する可能性すらある。朝廷では黄皓が実権を握り、援軍の出動が遅れ、
前線では指揮官の資質が劣るという人的資源の払底が滅亡の原因。蜀が
万全な体制なら、やはり漢中すら制圧は困難だっと考えている。

262:世界@名無史さん
12/01/23 17:22:09.35 0
>>258
>要害に拠ったら何倍の兵でも阻止できるってのは王平が駱谷の役で証明済み

数倍の敵ならともかく、十倍二十倍の敵が相手となると、李典、楽進、張遼、程イク、赫紹、羅憲のような名将でもなければ士気が維持できないよ。

>漢中は防衛部隊が従来の体制で常識的な対応をしたせいで抜かれただけの話

そんな弱体な体制をほっておいて、沓中にでていったバカ司令官が悪いってことになるよね。

>後退した後に廖化の援軍と合流して防衛体制に移る前に漢中が落ちてしまっただけ

廖化と一緒にうまく漢中に逃げ込んだとして、諸葛緒やトウガイが漢中の背後を遮断したらどうするんだよ。
漢中が剣閣になるだけだろう。

>鐘会の手際が鮮やかだったってことと、成都が援軍を送るタイミングが遅すぎたことが原因だろう

別に成都の増援自体は遅れていない。成都から何百キロあると思ってるんだ。ちょっと打ち合わせの手紙をやり取りをしたら一ヶ月はとんじまうぞ。
むしろ、ちょっと増援が遅れた程度で対応できなるほど兵力に乏しいのが駄目なんだろうに。
「華麗な機動防御戦」に頼ろうって時点で駄目。

263:世界@名無史さん
12/01/23 17:27:41.84 0
>>262
>むしろ、ちょっと増援が遅れた程度で対応できなるほど兵力に乏しいのが駄目なんだろうに。

つーか、段谷の戦いでも同じことやって負けたわけだよね。
胡済の援軍を皮算用して作戦を立ち上げ、やっぱり援軍が間に合わなくてトウガイに惨敗。

264:世界@名無史さん
12/01/23 17:38:21.35 0
演義のせいで後漢~三国時代の研究が100年は遅れたな

265:世界@名無史さん
12/01/23 17:38:37.67 0
>数倍の敵ならともかく、十倍二十倍の敵が相手となると、李典、楽進、張遼、程イク、赫紹、羅憲のような名将でもなければ士気が維持できないよ。

アホくせーw

266:世界@名無史さん
12/01/23 18:09:54.22 0
>>262
手紙のやり取りだけなら数日で出来る
ちょっとした移動で一ヶ月飛ぶのは軍隊だから
一人から数人程度の伝令が早馬や船の乗り継ぎしてけば往復1000kmくらいなら1週間くらいだぞ

267:世界@名無史さん
12/01/23 20:41:15.60 0
>>266
蜀にそういう駅伝制があったのかどうかだが

268:世界@名無史さん
12/01/23 20:47:04.23 0
>>267
後漢時代に既に駅伝システムは構築されてるから
蜀にないとは考え難いけどな

269:世界@名無史さん
12/01/23 20:47:55.36 0
>>266
姜維のいた沓中と成都って,直線でも約350㎞あるのだけど。

270:世界@名無史さん
12/01/23 20:58:01.13 0
>>267
漢中とった劉備がうーたらこーたら

271:世界@名無史さん
12/01/23 21:00:27.29 0
>>269
日本の話で悪いんだが比叡のお山で山伏さんに移動距離聞いたら
現代ですら熟練した人なら徒歩で山道を一日100kmくらい踏破するってさ

馬に乗ったり船に乗ったりすればもっと速いんでないかね
四川盆地入れば成都まで船で一気にいけるだろうしな

272:世界@名無史さん
12/01/23 21:01:30.07 0
>むしろ、ちょっと増援が遅れた程度で対応できなるほど兵力に乏しいのが駄目なんだろうに。

その事情は三国共通。蜀呉は全期間、魏もかなり末期に前線兵力が充実するまで、中軍の援軍頼み。

諸葛亮の四次北伐で、なんらかの事故で司馬懿が遅れて雍州が陥落したとする。
それを「魏が力負けした」と表現するのが>>256

273:世界@名無史さん
12/01/23 21:03:40.60 0
>>271
トウ水から白水を下るわけだから姜維からの急報はかなり早く届くな

274:世界@名無史さん
12/01/23 21:07:34.93 0
>別に成都の増援自体は遅れていない。成都から何百キロあると思ってるんだ。ちょっと打ち合わせの手紙をやり取りをしたら一ヶ月はとんじまうぞ。
で、姜維からの急報を知らない成都軍部は、姜維とどうやって打ち合わせしたの?

275:世界@名無史さん
12/01/23 21:18:22.29 0
個人の移動速度は自動車に乗った現代人に近いものがあるよね。
馬が時速40~60kmくらいで走れるから、乗り潰す覚悟で乗り継ぎすれば、
下手すると300km、400kmくらいなら1日で何とかなってしまいそう。

276:世界@名無史さん
12/01/23 22:02:52.57 0
のろし

277:世界@名無史さん
12/01/23 22:05:56.92 0
のろしじゃ内容がわからん
本当に眼前に敵襲が来たとき用だろ

278:世界@名無史さん
12/01/23 22:35:51.34 0
狼煙台って春秋戦国の頃からの主要な連絡手段なんだが
敵が来たら狼煙を上げて、それを見た近くの狼煙台がまた狼煙を上げて・・・
って感じでリレーしてって駐屯地まで伝達するシステム

279:世界@名無史さん
12/01/23 22:39:00.18 0
だからこそ今回の姜維の一報には使えないんだよ

280:世界@名無史さん
12/01/23 22:45:00.09 0
>>279
は?

281:世界@名無史さん
12/01/23 22:47:05.18 0
姜維伝該当箇所読め

282:世界@名無史さん
12/01/23 22:53:41.49 0
>>281
先生!読んでみましたがわかりません!
ちくまに誤訳があるんですか!

283:世界@名無史さん
12/01/23 22:54:12.44 0
じゃあバカは黙っとけ

284:世界@名無史さん
12/01/23 23:01:17.03 0
もうこの話題も終わりか

285:世界@名無史さん
12/01/23 23:12:19.75 0
>>277
のろしの上げ方でなんとかある程度の内容を伝えられないのかね

286:世界@名無史さん
12/01/23 23:13:10.22 0
先主伝の注に「備於是起館舎,築亭障,従成都至白水関,四百余区」と書いてる。
成都から白水関までは駅伝が整備されてたみたいだから、連絡に駅伝を使ったんだろう。

287:世界@名無史さん
12/01/23 23:32:55.81 0
>>285
ある程度はできるのかもしれないが、
普通前線からののろしと言ったら「敵勢見ゆ」になってしまう。

姜維が(おそらく諜報で掴んだ)関中での蜀討伐軍の編成とその陣容、
これに対する姜維の具申する増援陣容。
その他諸々の情報量と、
大将軍から皇帝への「表」に相当する儀礼的価値と機密性。

これをのろしに求めるのは無理じゃろ。

288:世界@名無史さん
12/01/24 00:16:25.11 0
そんな細かい情報じゃなくて、
漢中への増援要請だけの指示で良いんじゃないの?
少なくともそれさえ分かれば準備は出来る。

289:世界@名無史さん
12/01/24 00:41:27.46 0
なんで情報伝達手段が狼煙に限定されてるかのように話してるの?

290:世界@名無史さん
12/01/24 00:47:02.17 0
皇帝への上表相当の機密情報を、そんなおおぴらに流して漢中-成都間をパニックにしたいしたいのかという。
敵襲が現実に漢中に迫ってる段階ならまだしも(それでも、漢中から成都まで狼煙台で連結されていたかは疑問だが)、
まずは皇帝と廷臣で協議して戦時発令のタイミングやらを詰める段階だろう。
狼煙で流したら皇帝より先に庶民や下級官吏が魏来襲を知ってしまう。

291:世界@名無史さん
12/01/24 00:48:16.89 0
>>289
さあ。
多分、駅伝より狼煙の方が早いとかそんな理由じゃないかな

292:世界@名無史さん
12/01/24 00:50:41.40 0
呉は長江沿岸に狼煙台がなかったっけ?
東晋だったかな。
緊急事態なんだからパニック上等でしょ。

293:世界@名無史さん
12/01/24 00:52:40.95 0
まだ敵が攻めてこない、皇帝が何も知らない、当然戦時発令が出て統制が効くことも無い、
この段階で国内パニックにして自滅してどうする。

294:世界@名無史さん
12/01/24 00:54:10.76 0
あー、くそ、めんどくせえ。
姜維が現実に「上表」で一報を上げてるのに、妄想上の狼煙連絡の話を積み上げてどうするんだって。
ばかばかしい。

295:世界@名無史さん
12/01/24 01:02:27.64 0
そもそも、狼煙って後方の駐屯地の兵を呼んでくるための連絡手段でしょ?
都までの連絡には使わないよ。
駅伝と水運があるんだから、それで行けるじゃないか。
行けないと思う人は理由書いて。
1000キロぐらい、馬と船使えば数日で踏破できる距離だし。

296:世界@名無史さん
12/01/24 01:05:59.72 0
あー、読み間違えられたら困るから言っとくけど、
後方ってのは数百から数千の兵が入れられてるような拠点な。
成都やフのことじゃないぞ。

297:世界@名無史さん
12/01/24 01:12:04.67 0
>>293
パニックで自滅って、具体的にどういうことを想像してるの?


298:世界@名無史さん
12/01/24 01:19:11.80 0
>>297
ごめん、訂正する。
ありもしない狼煙台から狼煙が上がることは無かったし、
当然パニックが起こる可能性も無い。
だから語る意味も無い。

299:世界@名無史さん
12/01/24 01:19:32.87 0
国民の1割が兵隊やってるような戦時体制の国がパニックになるかってのw
バカバカしいw
狼煙って前線の警戒基地と駐屯地間の連絡に使うものだから、
国内を全部パニックにするなんてありえんわけだがw

300:世界@名無史さん
12/01/24 01:26:13.68 0
>>296
漢中で言えば、秦嶺山脈の北側辺りにいくつか哨戒詰所があって、
魏軍が盆地を前進してくるとか、秦嶺に入るのを目撃すると狼煙を上げ、
連絡線が山脈を縦断して漢・楽城の護軍・監軍らに到達する、ってとこだね。
そこから駅伝で成都や姜維に急報が飛ぶ。

301:世界@名無史さん
12/01/24 01:44:00.51 0
狼煙話みたいに関係ない話は置いとくべきだな。

んで、論点があやふやになっていると思うんだけど。
姜維の上表を受けた上で援軍を派遣しなかったのが合理的か否か、って話で良いんだっけ?

302:世界@名無史さん
12/01/24 01:51:57.40 0
派遣以前の問題だね。
上表を「寝」して、廷臣に知らせず、情報の検討も前線への再確認もしなかった黄皓(と劉禅)の行動が
軍事的に合理的か否か。

まあ、政治的には理由のあるものではあったのだろうけど。

303:世界@名無史さん
12/01/24 03:05:52.33 0
>>302
さっさと援軍送ってれば、姜維も漢中軍ももっとマシな戦いできたろうにって感じる

304:世界@名無史さん
12/01/24 03:14:38.81 0
>>303
さっさと送って数ヶ月掛るよ
こっちは一日5km~10kmの移動速度でトロトロ進むことになる
強行軍でも精々半分の日数になるかならないかだし、脱落・脱走の類も増えるだろうな

さらには大規模軍事行動用の兵糧がない
注釈にある滅亡直後の糧秣の量は1万の兵ですら一年養えない量
劉禅、黄皓は援軍を送らなかったんじゃなくて、送れなかった可能性すらある

305:世界@名無史さん
12/01/24 03:30:35.41 0
同時期、鍾会も関中で兵を集めている時だからどっこい。
その後、南北200キロの秦嶺山脈を桟道修理しながらトロトロ到着。

さらには国土の1/3で展開された半年近い防衛線の末に
廖化・張翼・諸葛瞻が大軍を率いて出て行った後の成都の食糧備蓄から何を計算しようというのか。


それにしても、劉禅降伏時の備蓄から「蜀は大規模な軍事行動できなかった!」ってほざく輩、定期的に出てくるな。
それ以前半年も蜀軍は何をしていたと思ってるのだか。
同一人物なのか、それともどこぞに妄言吐いてる個人サイトがあって、そこ見てる人間が多いのか。

306:世界@名無史さん
12/01/24 03:33:18.59 0
ごめん南北200キロはねえやw
100キロ弱くらいだね

307:世界@名無史さん
12/01/24 03:51:56.05 0
>>304
( ´,_ゝ`)プッ

失礼、あれだけ言われても、まだ蜀書を読まずに
妄想だけでレスしている厚顔さに失笑を我慢出来なかったことをご容赦いただきたい
まず、征蜀の勅が出たのは263年5月
姜維が関中にいる鍾会の動きを見て援軍を要請し、握りつぶされたのはこの時期だろう
実際に援軍が成都を発ったのは263年8月
姜維が剣閣に退いたのが9月
この時既に廖化は陰平で姜維と合流していて一緒に後退
漢寿の張翼と董厥も剣閣に入る
蜀の降伏は11月
つまり、1か月で成都からの援軍は陰平・漢寿まで到達してて、関城まであと一歩だった
3か月早く、いやせめて1か月早く援軍が出てたら間に合っただろう
三国志を読んで地図を見たら自ずとわかることなのに、なぜそうしようとしないのか?
1か月で漢中に入れるところまで援軍が到達したという事実を知っていれば、
「さっさと送って数ヶ月掛るよ」などという妄言を吐いて恥をかかずに済んだだろうに
学ぶ姿勢がまったくないのというのは、かくも悲惨なことであるとあらためて確認した次第である
君がしているのは妄想の垂れ流しであって議論ではないので、
電波お花畑板か夢・独り言板あたりでするのが相応しいのではないかと衷心より忠告申し上げたい

308:世界@名無史さん
12/01/24 03:57:27.37 0
>>305
そんなに有名じゃないけど、かなり古株のサイトが主張している
あちこちで見られる姜維批判の根拠もそこが元ネタと思われるものが多い

309:世界@名無史さん
12/01/24 04:04:23.08 0
>>305
丁度農繁期である夏場に魏に攻め込まれてるから米作である蜀の内地は見事に兵糧不足になるわけ
漢中辺りは麦作してるから春になんとか収穫できるだろうけどもね

んで降伏が冬を迎えてすぐの11月となると
そこから半年くらいは何とか食わすだけのモノがないとおかしいのにそれがない
だから大規模軍事活動に支障を来たしてる状態がそれ以前から起こってる可能性があるということになる
なんもおかしくないと思うのだがな

310:世界@名無史さん
12/01/24 04:25:36.69 0
>>307
成都からの援軍かどうかは全くわからんのだけどね

救援要請の時点で張翼、董厥に陽安関を守らせる事を求めたり
廖化に陰平まで来る事を求めてる時点で元々この人たち成都にいるの?という疑問が出る

311:世界@名無史さん
12/01/24 04:50:06.93 0
>>309
日照時間短い蜀で米中心になるのは灌漑技術がもっと発達してから
当時は雑穀が中心
備蓄というものもありますな
成都だけじゃなくて郡県や前線にも倉庫がある
この数年は備蓄が尽きるような飢饉も起きていない
姜維の屯田は現地で食糧を調達して、兵站線を維持する負担を減らすためだ
陰平方面にも軍を展開したら、曹操の徒民で住民がほとんどいなくなってて、
ただでさえ内地からの補給に頼っている漢中の負担がさらに重くなるからな
米の収獲が一年減ったぐらいじゃどうってことない
成都の備蓄がないのは、成都から送った援軍と諸葛瞻の軍が持っていったから
郡国の備蓄は目録には計算されてない、

312:世界@名無史さん
12/01/24 04:54:23.50 0
>>310
董厥は平尚書事だから成都にいなきゃいけない
張翼や廖化も成都駐在
これだけの大物が外に駐屯するなら、永安や漢中の督ぐらいじゃないと釣り合わない

313:世界@名無史さん
12/01/24 06:36:50.00 0
清田が節子の遺体を背負ってると、「蓄音機、懐かしい・・・」みたいな事言ってる疎開(?)していた金持ちの子供たちとすれ違うよね?
あのシーンを見る度に、『戦時中はみんな大変だった』というのが都合の良い嘘だって事を痛感する。

314:世界@名無史さん
12/01/24 11:24:31.74 0
>>309
ある年に大規模大規模動員すれば当然そうなるよ。
遠征でさえそう。だから諸葛亮の遠征は「三年に一度」と司馬懿が看破した。
20万も動員すれば魏だってある程度はそうなる。

263年はましてや蜀内部が戦争状態になっているのだから、
その年の租税の運び込みが滞るのは当たり前。
成都に備蓄が少なくて何が疑問なの?

315:世界@名無史さん
12/01/24 11:28:44.37 0
>>311
蜀は秦代から水稲中心だよ。むしろ秦の兵站地の一つとなった名産地。
魏晋の頃には面積当たり華北の数倍の収穫量があった。

316:世界@名無史さん
12/01/24 12:20:28.73 0
>>315
秦の兵站は蜀じゃなくて関中盆地だろ。
蜀は寒いので米より麦のほうが育ちがいい。
米がよく取れるっていうのは南の方では?

317:世界@名無史さん
12/01/24 12:26:38.03 0
>>316訂正
蜀は寒いので米より麦のほうが育ちがいい。



蜀の北の方は寒いので米より麦のほうが育ちがいい。

318:世界@名無史さん
12/01/24 12:29:08.76 0
諸葛亮が北伐で屯田したときも麦だった。
司馬さんが来たので、慌てて青麦を刈集めたんじゃなかったっけ。

319:世界@名無史さん
12/01/24 12:33:23.59 0
>>316
当時の四川は稲と雑穀
農業技術が未熟な時代になればなるほど、雑穀の比重が高くなる
これは稲作適地でも同様
蜀は日照時間が短いからなおさら
まあ、米の生産性は一年農繁期が潰れたぐらいで備蓄が尽きるほど低くはないし、
古代は米・麦と雑穀を併用して育ててるから、
米が不作でも手間をかけずに育つ雑穀の収獲は確保できるのが普通なんだけど、
農業の歴史の基本をご存知なくて、現代の高度な農業技術しか御存知ない>>315氏には理解しかねるようだ

320:世界@名無史さん
12/01/24 12:33:26.96 0
>>307
成都の兵力って、すぐ出発できる状態だったかわからんじゃん。
費イと王平が曹爽を迎撃したときは、費イの援軍が漢中に到着するまで3ヶ月かかってたはず。
廖化張翼董厥が、成都や巴の周辺から徴兵して出発したのなら、1ヶ月や2ヶ月は遅れるよ。

321:世界@名無史さん
12/01/24 12:39:02.08 0
急いで出発しないと間に合わないが、
兵力不足のまま援軍に向かっても負ける。
ジレンマだよね。

322:世界@名無史さん
12/01/24 12:48:35.64 0
曹爽との戦いのとき、費イの主力はフにいた。
自動車化以前の軍隊の行軍能力はそんなに変わらないのだから、
成都にいる軍の進撃が遅れたのは当然だ。
なぜ軍を成都ではなくフにおかなかったのか?

323:世界@名無史さん
12/01/24 12:53:08.60 0
>.314
諸葛亮の北伐

第1次北伐      228年
第2次・第3次北伐 228年~229年
第4次北伐      230年~231年
第5次北伐      234年

第4次と第5次が3年空いてるのは、
後主伝の232年の項に兵士の休養や訓練、流馬木牛の生産などに専念したとあるのと、
233年に叛乱した南中への対応に追われたからだろう

姜維の北伐

第1次北伐 254年
第2次北伐 255年
第3次北伐 256年 段谷の敗北
第4次北伐 257年
第5次北伐 262年

第4次と第5次北伐の間は5年開いているが、
陳祗が死亡してこの間に諸葛瞻と董厥が宰相になり、
その他にも大きな人事異動が続いていたから、
ポスト姜維・陳祗体制を作るための体制再編成で忙殺されていたものと思われる

324:世界@名無史さん
12/01/24 13:07:54.07 0
於蜀,蜀守冰鑿離碓辟沫水之害穿二江成都之中。此渠皆可行舟,有餘則用漑侵,百姓饗其利。
至于所過,往往引其水益用?田疇之渠,以萬億計,然莫足數也。
                                           史記河渠書

巴、蜀、廣漢本南夷,秦并以為郡,土地肥美,有江水沃野,山林竹木疏食果實之饒。
南賈テン、ボウ僮,西近?、サク馬旄牛。民食稻魚,亡凶年憂,(後略)
                                           地理志

綿竹縣 劉焉初所治。綿與ラク,各出稻稼,畝收三十斛,有至五十斛。
(舊各本皆作「十五斛」。廖本改作「五十斛」。是。)
                                       華陽国志巻三 蜀志14


>>319
なにげなさそうに「雑穀中心」から「稲と雑穀」にトーンダウンしてるな。
まあそのくらいのニュアンスならいいよ。

325:世界@名無史さん
12/01/24 13:10:41.40 0
>>323
全国から動員と徴発をかけるような諸葛亮の大規模遠征は一次、四次、五次の三度だけ。
姜維の大規模遠征は255と256年の二度だけ。
あとは263年の滅亡時の戦い。

326:世界@名無史さん
12/01/24 13:13:32.09 0
前漢期は中原や関中から蜀へ移民が行われて、
その時代の棚田(段々畑の田んぼバージョン)が発掘されている。
まあ、それだけの手間を掛けてもリターンが見込めて、
手間を支える技術が既にあったってこと。

327:世界@名無史さん
12/01/24 13:15:05.24 0
>>320
ワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

ああ、失敬
晋書文帝紀で司馬昭が夏侯玄に
「費イは要害に拠っているから守りを固めているから勝てない。撤退すべき」と言ってるな
曹爽が撤退する5月よりずっと前に費イは漢中に着いて布陣していた
撤退後に費イが追撃してきたけど戦って振り切ったのも文帝紀に載ってる
参謀の楊偉も補給難から撤退を進言してて、陣中で激論してる
この時は既に援軍が到着してて進軍を阻止されていたとある
蜀軍と暫く対峙している間に補給が尽きて撤退という流れだな
費イはもっと早く漢中に着いて、魏軍の幕僚が苦戦を理由に撤退を進言するほどの期間、
魏軍と対峙していたと考えるのが正しい

328:世界@名無史さん
12/01/24 13:20:09.95 0
>>322
費イは普通に成都から進発してるよ。
でなければ光禄大夫が別れの挨拶にこれないだろ。

329:世界@名無史さん
12/01/24 13:25:18.91 0
>>324
www

失敬。そろそろ腹筋の耐久力が限界に達しているので、配慮願いたい
雑穀中心=米が取れないと言ってるのではなくて、
灌漑技術が発展してないから雑穀メインで稲作はサブだと言いたかったんだが、
君にそういう読解力を期待するのは買いかぶり過ぎだった
配慮が足りなかったと謝罪しよう
粟やヒエなどの雑穀は水田栽培すれば収獲が飛躍的に増えるし、
米より簡単に収穫できることを御存知ないらしい

330:世界@名無史さん
12/01/24 13:27:32.40 0
>灌漑技術が発展してないから雑穀メインで稲作はサブだと言いたかったんだが、
まあ、確かにそんな根拠も史料も無い脳内情報を吐かれても
俺の頭では読解できないな。お疲れさまでした。帰っていいよ。

331:世界@名無史さん
12/01/24 13:31:47.31 0
古代中国で粟を雑穀と言っちゃった時点で、
現代から見た時代性の無い農業理論しか知らんのだろうな。

332:世界@名無史さん
12/01/24 13:38:55.38 0
>>325
       _, ,_
     (^Д^) プギャー
    m9  ヽ)
     /  ノ
    (,/^ヽ)

失礼。私が感じている君の滑稽さを表現するのにもはや顔文字では不足なので、
AAを使うことをお許しいただきたい
陳倉を攻めた諸葛亮の兵力は衆数万
全国から動員と徴発をかけないと動かせない兵力ですな
数万人の軍勢が陳倉まで行って帰ってくるだけでどれだけ大きい負担があるか考慮されてはいかがかな?
間髪入れずに陳式の軍が武都や陰平を制圧しているが、
このあたりの防備ががら空きでも、あれだけ広い土地を制圧するだけでそれなりの兵力や準備が必要ですな
君の基準で言えば蜀漢の国庫が何度がら空きになればいいのかわかったものではない
257年は「復率數萬人出駱谷」262年は「維率衆出漢」
いずれも国を挙げないと無理な規模の動員ですな

333:世界@名無史さん
12/01/24 13:40:28.73 0
>>330
>>331
( ゚д゚)ポカーン

334:世界@名無史さん
12/01/24 13:49:36.12 0
「衆」てのは、人足、兵站まで含めた総動員数な。
実戦兵力はさらに少ない。漢中に兵三万、他に非戦闘要員数万がいるなら
普通に捻出できる数。

>あれだけ広い土地を制圧するだけでそれなりの兵力や準備が必要ですな
イラク戦争でもイメージしてるのかな?
山がちな土地を縫って主要な県城と街道を押さえ、周囲の異民族を慰撫する程度のことしかやってないだろ。
それに数万人必要だってなら、激しい戦闘があった劉備の荊州南部制圧や、諸葛亮・張飛・趙雲の入蜀には
何万人動いたの? 五万? 七万?

335:世界@名無史さん
12/01/24 13:49:47.57 0
>>327
費イがいつ漢中についたか分かるかい?
少なくとも一ヶ月ではついてないだろ。

>>328
費イが率いた援軍はどこにいたの? フでしょ。

336:世界@名無史さん
12/01/24 13:51:22.09 0
>費イが率いた援軍はどこにいたの? フでしょ。
そうなの? どこの記述?

337:世界@名無史さん
12/01/24 13:52:01.70 O
>>330
>>331
(´・ω・`)

338:世界@名無史さん
12/01/24 13:53:00.83 0
>>334
兵站を担当する人間も実戦部隊とみなして戦えとかいわれたら、そりゃ陽平関守ってる奴も降伏するわw

339:世界@名無史さん
12/01/24 13:55:28.17 0
当時の兵一万ってのは、相当な戦略的価値のある人数だよ。
費イ時代の姜維はこれで隴西深く侵攻し、郭淮らを東奔西走させてるわけだから。
当時の魏の雍涼軍で、これを正面決戦に持ち込むこともできなかった。

340:世界@名無史さん
12/01/24 13:58:09.42 0
蒋エンがフに駐留した理由はなんでしょう?
当時は病気で指揮はとれなくても、蒋エンが残した備えはは
フにあったというのが正解。

341:世界@名無史さん
12/01/24 14:00:25.47 0
蒋エンがフに駐留したのは、
費イに実権が移った状態で大官が二人成都にいるのもめんどくさいからだろ。
この状況で実戦部隊だけ蒋エンが確保しているとは考えられない。

342:世界@名無史さん
12/01/24 14:21:50.44 0
>>334
人足や兵站要員も飯を食う
彼らを徴発している間はその分生産も滞る
兵站要員は食糧を消費しないとでも思った?
主要な県城と街道を押さえて安全を確保して周囲の異民族を慰撫するだけで結構な人数が必要になるんだけど
敵がいない領地に兵を置かなくていいのはゲームだけですよ?

>>335
一ヶ月で着いてないという根拠を述べよ
三国時代で司馬懿は8日で520キロを踏破する強行軍で孟達を討伐している
これは無理に無理を重ねた限界
通常の行軍距離は司馬懿が遼東まで4000里(1748キロ)を100日で行けると計算しているから、
無理しなければ一日平均17.48キロで行軍できる
急を要する援軍なら司馬懿の一日65キロは不可能でも、30キロ以上は出せるだろうな

343:世界@名無史さん
12/01/24 14:23:17.51 0
>>338
鍾会の10万も兵站要員がたくさんいるわけだが
しかも遠征軍だから防衛側の蜀軍よりずっと割合大きい

344:世界@名無史さん
12/01/24 14:30:45.17 0
>>342
そんな行軍を実現できたのは司馬懿だけだ。
どうせ騎兵だけだろうし、水路も使ったはず。
成都から漢中にいくのに水路なんかあったっけ。

345:世界@名無史さん
12/01/24 14:42:49.34 0
>>342
飯を食うね。滞るね。
でも「衆数万」程度の消費では、蜀の備蓄に大きな影響を与える規模じゃないってことだよ。
特に二次三次の期間はかなり短い。
なにせ蜀の遠征最大動員力は「衆十余万」で春から冬までなんだから。

で、そんな大仕事の武都陰平の制圧に数万人必要だってなら、
激しい戦闘があった劉備の荊州南部制圧や、諸葛亮・張飛・趙雲の入蜀には
何万人動いたの? 五万? 七万?

346:世界@名無史さん
12/01/24 14:55:06.27 0
>>342 >>344
別に一ヶ月で到着しなくても構わないんだが。
曲りなりにも整った蜀内の街道を400キロ行軍するのと、
鍾会が秦嶺山脈100キロを桟道修理しながら踏破して来るの。
よーい、ドン! で始めたらどっちが早い?

しかも、張翼・廖化は敵の攻撃に間に合わなくとも大過はない。
増援がもうすぐ来るから守れるぞと陽平関が士気を維持できれば守れる。

合肥然り、陳鎮倉然り、(四次北伐の)祁山然り。
堅固な小城というのは十分な士気と準備があれば短期間では落ちない。

347:世界@名無史さん
12/01/24 15:25:29.88 0
堅固じゃないし、準備もしてないし、士気も落ちてたから、漢中が落ちちゃったんでしょw
漢中の防備は姜維の責任だよ。

348:世界@名無史さん
12/01/24 15:51:47.09 0
もはや「姜維憎し」の感情史観で語ってる節があるなw

349:世界@名無史さん
12/01/24 16:01:23.12 0
最後に「全部姜維が悪い」と付け加えるだけの簡単なお仕事です。

350:世界@名無史さん
12/01/24 16:31:29.06 0
>>348
漢中の防御工事担当は誰?
漢中の将兵の士気を維持させるのは誰の仕事?

351:世界@名無史さん
12/01/24 16:35:40.74 0
ともあれ、姜維は批判されねばならない。

352:世界@名無史さん
12/01/24 16:36:40.23 0
>>350
督漢中だろwww

353:世界@名無史さん
12/01/24 16:40:12.05 0
例えば関羽は荊州を奪われたわけだが、その直接原因は部下が孫呉に寝返ったことだ。
で、それについて「関羽の士大夫に驕る性格が悪かった」と、堂々と人格攻撃されてるわけよ。
じゃ、同じく部下が寝返ったせいで漢中を失った姜維に対しても、同じような人格攻撃をして何が悪いのか。
なぜ関羽と同じように批判してはいけないのか。
お前らの姜維擁護が変なんだよバーカw

354:世界@名無史さん
12/01/24 16:41:35.80 0
キチガイすぎて笑ったwwwwww

355:世界@名無史さん
12/01/24 16:42:39.92 0
>>358
>>260



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