漢・三国・晋・五胡十六国史総合スレat WHIS
漢・三国・晋・五胡十六国史総合スレ - 暇つぶし2ch138:世界@名無史さん
12/12/01 11:27:59.71 0
>>136
作者は文革時の紅衛兵か?儒教に対する偏見無知がひどいんだが。
反面教師として紹介しているのか?

139:世界@名無史さん
12/12/01 15:06:41.63 0
>>138
どこが儒教の偏見無知なのか証明しろや。
それとも、儒教に問題がないとでも言うつもりか?

文革時の紅衛兵しか儒教批判がないとでも?

140:世界@名無史さん
12/12/01 18:42:43.04 0
>>139
支持者か作者本人か?今時儒教イデオロギーを近代的価値観で批判するのは
共産主義者ぐらいだぞw日本の奈良時代の鎮護国家体制をオウム並みの
カルトととでも言うぐらいおかしなこともわからんのか。

141:世界@名無史さん
12/12/01 18:55:43.02 0
>>140
近代的価値観で批判してねえだろ。
昔から、儒教は批判されてただろうが・・・

該当箇所をしめせやwww

【中国史】やる夫と後漢初頭を生きるようでス。 23膳目
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる実が、後宮の女史になったようでス。【18禁】6夜
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)

142:世界@名無史さん
12/12/02 02:53:39.83 0
こういう専門スレに来るような連中が、今更やる夫スレ読んでもしょうがないんじゃないか?

143:犬童知遠 ◆tmc8JAPANo
12/12/02 20:20:37.73 0
>>139>>141
なんだこのバカは。

144:世界@名無史さん
12/12/02 20:28:27.17 0
>>143
馬鹿は「お前だろ
後宮や宦官などの歴史を知る上では最高のスレだよ
【中国史】やる夫と後漢初頭を生きるようでス。 23膳目
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる実が、後宮の女史になったようでス。【18禁】6夜
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)

145:世界@名無史さん
13/01/05 17:33:52.91 0
【中国史】やる夫と後漢初頭を生きるようでス。 24膳目
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる夫が王莽になるようです その三
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)


みんな読め

146:世界@名無史さん
13/01/05 17:38:31.89 0
やる実が、後宮の女史になったようでス。【18禁】6夜
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)

これもいいよ

147:世界@名無史さん
13/01/09 20:08:48.06 0
任尚って、後漢書のそこらじゅうに出没する、生粋の辺境高級軍人。
最期は処刑されたとはいえ、功績も多いのに、伝がない謎の人物。
まあ記事かき集めれば、軍歴は相当程度復元できるけどね。
出身とか、年齢とか(これはわからない人の方が多いが)不明。

148:世界@名無史さん
13/01/18 23:27:04.48 0
劉宋、譲位した最期の皇帝が殺された。
ってだいたい何見てもそのくらいしか書いてないから意外だった。
その直後に傍系?皇族が汝陰王に封じられて、
梁武帝の頃にその子や孫らしいのが、
二代代替わりしてるんだな。
元皇帝は邪魔だから始末したけど、
家としては残しておくってことか。

149:世界@名無史さん
13/01/20 03:33:58.08 0
劉胤-劉端-劉哲-劉叡か。

150:世界@名無史さん
13/01/28 11:05:11.53 0
墓が出てきた357年没の冬寿の、官爵って、高句麗の?前燕の?東晋の?

151:世界@名無史さん
13/01/28 11:55:42.69 0
紀年は東晋の「永和十三年」を使ってるし、官爵も東晋のものでしょ。

152:世界@名無史さん
13/01/28 23:52:16.64 0
冬寿の経歴
334年、慕容部大人の(平北将軍・朝鮮公か?)慕容皝の司馬として、
その弟慕容仁を撃つが、敗北し捕らわれる。
かつて慕容仁の司馬だったことがあり、そのまま慕容仁に仕える。
336年、慕容仁が慕容皝に殺されると高句麗に逃亡。
357年、69歳で没。当時:使持節都督諸軍事平東将軍撫夷校尉楽浪相昌黎玄菟帯方太守都郷候
逆算すると289年誕生。

慕容廆に仕えた時期は不明だが、年齢から考えて305年頃より前ではないだろう。
慕容仁の司馬となった時期も不明だが、慕容仁が征虜将軍とされ遼東に鎮した319年以後。
慕容皝と慕容仁が決裂したのは333年で、慕容皝の司馬になったのはそれ以前だろう。
一応計算すると、305年時点17歳、319年時点31歳、333年時点45歳。
31歳では、当時せいぜい20歳前後と思われる慕容仁の補佐にしては若すぎか?
325年前後くらいに、慕容仁の司馬となり、330年頃までに慕容皝の下に転属か?
当時はあくまで両者の父である慕容廆の部下であり、転属はあり得るだろう。

高句麗亡命後の339年以後、高句麗は前燕度々敗北し、和睦・朝貢・臣従といった経過。
冬寿の立場は悪くなりそうだが、なぜか無事だったらしい。

153:世界@名無史さん
13/01/30 23:23:55.07 0
爾朱栄って、通史とか歴史読み物なんかだと、
もろ辺境の蛮族の頭目って書かれ方なんだけど、
「魏書」の伝を見ると、少なくとも祖父の代からは、
中央と縁がある上級貴族のような書かれ方で、
なんというか、ものすごい違和感というか意外だった。

154:世界@名無史さん
13/02/03 12:02:38.42 O
北魏の歴史は良く知らないけど、爾朱栄は突然強大な軍を率いて登場するという印象があるな
家畜を一頭一頭数えなくて、色ごとに分けて谷で数えてたってこの人の話だった?

155:世界@名無史さん
13/02/03 12:41:31.41 0
カオスすぎる時代だな

156:世界@名無史さん
13/02/04 09:49:03.98 0
爾朱栄の娘英娥、爾朱氏壊滅後も生き延びた波乱の人生だけど、
経歴見るとよほどに美人だったのか?
殺されたときは40前後にはなってると思うけど、
556年、文宣帝が酔って働こうとした無礼って、
やっぱりあれ系だよね。
年増になっても魅力的だったのか?
酒乱の文宣帝が酔ってたからってことはあるにしても。

157:世界@名無史さん
13/02/05 02:44:30.96 0
五胡十六国みたいな日本ではマイナーな時代を詳しく勉強するには
やっぱ大学で文学部行かなきゃ駄目なの?

158:世界@名無史さん
13/02/05 19:08:07.12 0
>>147
後漢書に限ったことじゃないけど、辺境を活躍の場とした人は
伝がないことが多くて困るね

159:世界@名無史さん
13/02/05 19:23:43.34 0
谷川道雄『隋唐帝国形成史論』
三崎良芳『五胡十六国の基礎的研究』

この辺読みゃいいんじゃない
大学の文学部行ったって、この時代の専門家なんてほとんどいないよ

学術書がつらければ、三崎先生は一般向けの本も出してるから。

160:世界@名無史さん
13/02/05 22:03:53.00 0
>>159
ありがとう 探してみる

161:世界@名無史さん
13/02/07 00:45:48.42 0
唐末五代も似た感じカオスで面白いな

162:世界@名無史さん
13/02/07 22:18:01.45 O
五代も面白そうだけど、仮子とかで同一人物の名前が結構変わって訳判らなくなって諦めた

163:世界@名無史さん
13/02/10 00:14:03.93 0
西晋末から陳滅亡までは、
殺害とか急死で後継者が定まらない短期間を除き、
基本的にほぼ常時2人以上の皇帝が居たわけで、
皇族の亡命も結構あるんだけど、
その場合に亡命先が与える王号って、
いろいろ意味深だったりするんだろうな。

164:世界@名無史さん
13/02/10 22:24:41.16 O
傀儡政権作らせようとか考えると、そうした意図が反映されそう

165:世界@名無史さん
13/02/11 13:26:23.02 0
司馬金龍の琅邪王なんかは、どうなのかなあ。
西晋皇族としても相当傍系だったわけで、
司馬睿ゆかりってわけでもない。
東晋の間なら嫌みかもしれないけど。
もう宋の世の中だし。
意味がよくわからない。
嫌みなら宋王とか晋王だよな。

166:世界@名無史さん
13/02/11 23:23:44.89 0
純粋に亡命政権の主的なものへの格式扱いではないかなあ
劉昶一族の宋王と蕭宝夤の斉王も並立してるし、対外的な意図は大きくないような

167:世界@名無史さん
13/02/14 19:22:11.19 0
【中国史】やる夫と後漢初頭を生きるようでス。 25膳目
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる実が、後宮の女史になったようでス。【18禁】6夜
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)

凄く面白いですよ

168:世界@名無史さん
13/02/16 09:46:35.85 O
劉淵が漢王を名乗ったみたいに、華北では司馬氏のネームバリューにはまだ人心を引きつけるだけのものがあったのではないかな?
極端に言えば司馬氏一門でなくても、司馬姓を名乗らせておけば亡命者を集める可能性がありそう

169:世界@名無史さん
13/02/17 17:09:04.85 0
やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)

170:世界@名無史さん
13/02/18 13:30:18.15 0
>>126
南朝で後漢の祭祀継いでるのが確か蜀系統だった気がするから大体の後漢系統が永嘉で乙った臭い

独孤一族と、その流れの劉氏とかが子孫名乗ってるけどそういう仮冒くさいのは別だよな?

171:世界@名無史さん
13/02/20 11:09:58.43 0
魏書の初期に、漢兵将軍・晋兵将軍・呉兵将軍とか出てくるけど、
あれはなんなんだ?
その地方出身の兵でも率いてるのか?
単なる景気づけ?

172:世界@名無史さん
13/02/20 13:53:06.52 0
>>171
今、シニカ先生に聞いてみた。
神麚中、以脩之領呉兵討蠕蠕大檀、以功拝呉兵将軍、領歩兵校尉(毛脩之伝)

雲中鎮将朱脩之、劉義隆故将也、時従在軍、欲率呉兵謀為大逆、因入和龍、冀浮海南帰(朱脩之伝)

たとえば、上の二文を見ると「呉兵」という集団があって、呉兵将軍はその指揮官っぽい。
雲中鎮なんて東晋からの亡命者が大量にいそうなところなので、
南朝からの亡命者をいくつかの集団にわけていたとかではないだろうかと思いつきを述べてみる。

173:世界@名無史さん
13/02/22 21:29:35.40 O
漢だと思うが滅晋大将軍なんて称号の人がいたような気がする・・・

174:世界@名無史さん
13/02/28 10:52:52.93 O
スレ違いだったら申し訳ありません。
ご存知でしたら教えてください。

字、についてです。
三国時代ファンの友人の間で意見の対立がありました。
相手を字呼びするのは軽んじているか、「友人同士」的な気軽さがあるものだとする派と、
自分を名で名乗るときはへりくだりを表し、相手を字呼びするときは尊敬を表しているから軽んじているわけではないとする派です。

私は割に初心者なので、両者の説を自分で調べてみようと思いました。
しかしソースが分かりません。
両者とも前者は「通説」だからと言い、後者はかつて(それに詳しい)知人に聞いたと言い、前に進みません。

では自分で調べてみようと思っても、文化風俗については辛うじて資料(史料)本はありそうでしたが、
字について記述があるものが思うように見つかりません。

こちらのスレの方で、資料(史料)にお詳しい方がいらっしゃれば、ご教授いただければ幸いです。

175:世界@名無史さん
13/02/28 15:20:56.56 0
>>174
歴史的に、中国人は個人に特有の名として姓(氏)と諱(名)と字の三つの要素を持った。
日本では大抵の中国人は「姓-諱」の組み合わせで知られる。ただし例外的に「姓-字」の呼称が通用している人物もいる。
伍子胥(諱は員)、項羽(諱は籍)、諸葛孔明(諱は亮)、蒋介石(諱は中正)など。

例えば「諸葛-亮」は「諸葛」が姓、「亮」が諱であり、字を「孔明」という。

       諱は軽々しく用いられることは忌避され(ために日本に入って「忌み名」と訓じられた)、

同時代人に対しては、
親や主君などの特定の目上の人物だけが諱を使用し、
それ以外の人間が諱で呼びかける事は極めて無礼な事とされていた。
逆にそういった諱で呼びかけられる立場にある者がわざわざ字で呼びかける事は、
立場とは別に一定以上の敬意を示す事になる。

諸葛亮を例に取れば、三国志演義の訳本において劉備であっても「孔明」と呼ばせているものは一定以上見受けられるが、
関羽、張飛をそれぞれ雲長、翼徳(益徳)と呼ばせているものはまず無い。
『礼記』曲礼篇に「男子は二十歳で冠を着け字を持った」「女子は十五歳でかんざしを着け字を持った」とあり、
成人した人間の呼び名としては原則として字が用いられた。

なお、その人物が官職に就いた場合は官職名で呼ぶことが優先された(諸葛亮なら「諸葛丞相」。丞相が官職名である)。
この場合、親しい間柄以外は、字で呼ぶことは、諱ほどではないにしても少々無礼なこととされていた。

前述のとおり、字は諱を呼ばないために使うものであるので、基本的に相手に対して「劉-備-玄徳」のように姓・諱・字を連結して呼ぶことはない。
しかし文書の中では姓・諱・字を連結して書く場合がある[2] wikiより「字」で検索ね

176:世界@名無史さん
13/02/28 21:41:49.22 0
長いし答えになってないし

177:世界@名無史さん
13/03/03 03:45:55.41 0
>>174
期待する回答になってるかどうかは知らんけど。
たとえば『礼記』に「冠而字之敬其名也」とあって、字は諱するための代用品なので
本義的には尊敬も軽んずるもないのではないかなーと思う。
で、同じく『礼記』に「父前子名君前臣名」とあるのだけど、
主君や父親の前では名で名乗るものだし、同僚や上司・兄を名で指してもOKなんだろう。
(上奏文なんかで「臣~」と同僚や上司を指してるのはよく見かけることになるでしょう)
いったん切る

178:世界@名無史さん
13/03/03 04:19:38.16 0
>>174
で、経験上の話なので、参考程度になんだけど、史料上だと
部下に対して自分を「姓+名」で名乗ってる
公然と宣言するように「姓+字」を名乗る
(名はある種の正当性を伴うから、宣言なんかでは名を名乗るのがセオリーっぽいのだけど)
敵意を示しながら「字」を二人称として使う
敵意も軽蔑の意もないのだけど、主君以外の前でも第三者を「姓+名」で呼ぶ
一面識もないが「あの有名人」的に「姓+字」で第三者を呼ぶ
ってケースは普通に見られて、体にしみこむほどきっちりかっちりしたルールって
あるのかなあと。(「主君と父兄の前で名」以外に)
ただ傾向としては姓+字よりも姓+号や姓+官職の方が丁寧なんだろうと思います。
(演説・檄文で同志部下は姓+名か字、同格の外部協力者・それ以外の非敵対者は姓+官職ってのなどがよくあるから)
ただ、まったく面識もなにもない相手を二人称で姓+字で呼ぶケースはあんまり記憶にないんで
字で直接呼びかける以上、ある程度の近い関係性はあるんじゃないかと思いますが、
その行為自体に敬意・軽蔑はないんじゃないかと。

179:世界@名無史さん
13/03/03 12:23:26.14 0
>>174
親しくないのに名を呼び捨てにすることが失礼なのは
現代日本でも同じだから感覚的に分かるよね

誤解を恐れずに言うと、そういうのは言霊信仰の名残で、
「人の名を好き勝手に呼ぶことは、その人そのものを好き勝手に扱うのに似てるから失礼」
という感覚

つまり、間接的な呼び方であるほど丁寧、という原則は三国志も現代日本も同じ
例: 劉備 < 劉玄徳 < 豫州
   張昭 < 張子布 < 張公

馬超が劉備に帰順したときに字を呼び捨てにして関羽と張飛が怒ったという
有名なエピソードもある(信憑性は怪しいが)

結論としては、字で呼ぶのは、役職名で呼ぶのに比べれば、尊敬を感じない呼び方
軽んじているか、友人同士的な気軽さがある、が正しい

180:世界@名無史さん
13/03/26 23:20:13.68 0
後趙の石氏は親族殺し合って自滅したってことで良いの?

181:世界@名無史さん
13/03/27 15:23:56.49 0
目上の者が目下の者へ親しみを込める意味合いであえて字で呼ぶ事もあるよね。
例えば孫権が捕虜の潘濬を帰服させようとして「其の字を呼びて曰く『承明よ~』」と話しかけたとか。

182:世界@名無史さん
13/04/27 17:18:28.35 0
高度な文明を築いた漢やローマも
五胡やゲルマンなどの蛮族にやられてしまったね

183:世界@名無史さん
13/04/30 00:46:10.66 P
台北に「中正国際空港」とか「中正記念堂」なんてのがあるんだけど
誰もが気軽に「中正」という諱を口にしてるわけで
これはいいんでしょうかね?

特に「中正記念堂」なんて蒋介石の遺徳を偲ぶための施設のはずなのに
こんな名称じゃむしろ「中正侮辱堂」になってしまいませんか?

184:世界@名無史さん
13/04/30 01:01:03.41 0
>>182
両方とも蛮族にやられる前に自分達で内部から腐敗しちまったからな

185:世界@名無史さん
13/05/01 21:55:52.33 0
>>179
明智光秀だと
光秀<十兵衛<日向守
古田重然だと
重然<左介<織部
とかそんな感じなのかな?

186:世界@名無史さん
13/05/05 12:50:46.60 0
>>184
前漢滅亡時に減った人口を何とかするために
後漢は異民族を領内に住まわせすぎなのもあるね
漢化したこいつらが自立しようとした挙句
北方からガチ異民族が続々と…

187:世界@名無史さん
13/05/05 21:06:03.51 0
黄巾の乱にせよ永嘉の乱にせよ魏晉時代の国家崩壊は
郷村社会から荘園の支配者の豪族を基礎とする貴族制社会
への過渡期だからどうしようもない。

188:世界@名無史さん
13/05/05 22:52:10.02 0
>>187
しかも異民族の襲来と異民族も軍事貴族化してだから
救いのない時代。

人種的には入れ替わってるしね。大半が異民族由来の遺伝子持つことになった。


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