12/02/13 01:06:41.53 0
>>47
太宗の道教狂いのせいで晋書のオカルト記述が増えたとか、
そんな説初めて聞いたっての。
あと晋書の記述内容が雑多なのは、単に六朝で流行した
志怪・志人小説の類まで網羅的に盛り込もうとしたからだろ。
51:世界@名無史さん
12/02/15 00:40:14.17 0
>>47
後周はともかく隋唐は元から鮮卑化した漢族っぽいからなぁ。
隋唐を鮮卑とする学説は清代のものだから女真側としても漢族側としてもニーズと合致しちゃってる上に、
鮮卑名が漢族も鮮卑名を名乗らされてた時期のものぐらいしかほぼ全く存在しなくて鮮卑説は非常に怪しいし。
52:世界@名無史さん
12/02/16 08:35:32.76 0
もともと、漢族なんていなかった。
秦の人と、晋や周の人はどうやら違っていたようだし(兵馬俑跡から秦人は
掘りが深く、大柄で・・・という説もある)、周と殷の人達もまた差があったようだ。
楚や中山が、大きく違っていたことは、言うまでもない。
これらが混ざり混ざって、古代の漢人ができたんだよ。
その昔、ラテン人とサビーニ人が結合して、古代ローマ人ができたがごとく、
何百年もかけて、二つの異なった特徴の人の集団が混淆して、ひとつの民族を
形成することはよくあること。
鮮卑だってね、単に吸収されたわけではなく、周と秦と楚が相同化していったように、
何百年の時間と同じくした生活圏の中で、どちらがということもなく、合体していったんだよ。
そうして新しい漢人が生まれた。
53:世界@名無史さん
12/02/17 03:45:21.60 O
大意には同意なんだが
兵馬俑像の彫りが深いようには全然見えないんだが
54:世界@名無史さん
12/02/17 22:11:31.76 0
>>52
そのようだね
各省漢族の血統
URLリンク(www.360doc.com)
今の中国に「純粋な漢族」など存在しない!DNA検査で明らかに―中国紙
URLリンク(www.recordchina.co.jp)
55:世界@名無史さん
12/02/17 23:00:37.54 0
>>53
同意。
秦の兵馬俑は露骨に新モンゴロイドの特徴をしているしね。
秦の始皇帝の特徴の「目が長く鼻が高い」というのは、
よく差別じゃないかと言われる他人種によるモンゴロイドのマネを見ると露骨に分かるが、
他人種から見たモンゴロイドの特徴で、なおかつ鼻が高くて声も高いとなるとおそらく新モンゴロイドだろう。
中原の人種は言語の分析からタイ系などじゃないかと言われるが、
新モンゴロイドの容姿を特殊なものと見る習俗からして確かに南方系の旧モンゴロイド系の可能性が高いだろうな。
56:世界@名無史さん
12/02/17 23:02:20.51 0
訂正
× >秦の始皇帝の特徴の「目が長く鼻が高い」というのは、
○ >秦の始皇帝の特徴の「目が長い」というのは、
57:世界@名無史さん
12/02/18 16:03:52.75 0
韓国は日本ドラマの地上波放送を禁止しているので日本もWTOに訴えた方がいいです。
58:世界@名無史さん
12/02/19 02:39:36.37 0
しかし、鮮卑化していないとするとアルタイ化はどう説明するんだ?
離散前の漢族の使っていた言葉が現存する言語では客家語が一番近いそうだし、
(俺自身が検証したわけではない中国の大盗賊などの著書で有名な高島 俊男の受け売り
なんだけど。
59:世界@名無史さん
12/02/19 02:50:08.15 0
アルタイ化なんか全然していない
満洲族の満語のほうが有気音無気音化してシナチベット語族化した
もともとのアルタイ語はオロチョンやブリヤートのように有気音無気音の区別はしない
隋唐の洛陽や長安に多くいついたのは、シナチベット語族であり
現代チベット族と近縁な五胡の羌や氐であったのだろう
60:世界@名無史さん
12/02/19 02:56:42.29 0
その前に鮮卑化していないという主張は誰もしていない気がするが。
61:世界@名無史さん
12/02/19 03:02:49.60 0
中古音は鮮卑化してなくても、チベット化しとるだろ
客家の音声が一番上古音に近い。
四川チベット族のチャーシーテレーが、西チベットのラサへいくとタシデレ
西安へ行ってチーシャーン ルゥーイ (吉祥如意)になったのだ
漢語がチィチィーチャーチャー煩くなったのは中古音であり、チベット化だ。
62:世界@名無史さん
12/02/19 04:11:29.44 0
たしかにチベット語はチィチィーチャーチャー煩いな
URLリンク(www.youtube.com)
63:世界@名無史さん
12/02/19 19:12:28.71 0
>>61
中古音の口蓋化がチベット語の影響とか初めて聞いたぞおい
64:世界@名無史さん
12/02/19 21:56:36.00 0
どっちが先かはわからない
敦煌莫高窟の時点では同化
そこから遡って吐蕃や白狼王歌ぐらいまで追跡可能
後漢より前はチベット系言語の記録がない
65:世界@名無史さん
12/02/26 21:16:55.33 0
>>64
> 敦煌莫高窟
とはどういう意味ですか。
勿論、その遺跡自体は知っていますが、写真も見たことありますが、
名称の意味がわからん。
敦煌にあるばっこうくつという意味でしょうが、
ばっこうってどういう意味?
高くない?
知ってる人解説
66:世界@名無史さん
12/02/26 21:41:17.18 0
西夏文書でしょ
漢語と西夏の党頂の言語はチャン族ナシ族やカム地方のチベット族と近縁で
彼らと同じく党頂は半牧半農であった
この党頂語と漢語と青唐のチベット語のロゼッタ石みたいなのがある
10世紀頃には音声的な比較が可能ということ
67:世界@名無史さん
12/02/26 21:53:56.13 0
66だが
漢語と西夏語といっても西安の漢語で
あって宋の杭州の漢語は音声的に
西夏とは近縁じゃないよ
68:世界@名無史さん
12/03/04 13:40:25.42 0
er化音の登場が清代に顕著だな
69:世界@名無史さん
12/03/05 01:28:40.45 0
>>47
一見漢化したように映るが、それは漢文の粉飾のせいで、
実情はわからない
皇帝を名乗るには黄帝の子孫である必要がある
異民族の覇者が漢人姓を名乗るのはそういうわけ
チンギスハーンの時代のモンゴルは、もはや中国に媚びる必要がないほど強力だったので例外
70:世界@名無史さん
12/03/05 09:42:58.10 0
>>47
李世民「世界最初のイミダスだよ!(自画自賛)」
71:世界@名無史さん
12/03/06 17:52:29.50 0
test
薁鞬日逐王
72:世界@名無史さん
12/03/10 21:50:29.33 0
アゲ
73:世界@名無史さん
12/03/11 01:01:40.67 0
五胡時代はおもしろい
人の動きが活発だったことが魅力の一つだ
オレは江上波夫なんか信じはしないが、
流民の一部はやはり日本列島までやってきたと思うよ
74:世界@名無史さん
12/03/11 18:07:41.72 0
>>73
ヤマト政権のブレーンを務めた漢人なんか大体そうだろうしね。
倭王讃が宋に派遣した曹達とか、江田船山古墳鉄刀の銘文を起草した張安とか。
そしてこれが高句麗のブレーン漢人なんかになると墓まで残ってる(冬寿墓)。
75:世界@名無史さん
12/03/12 16:02:08.67 0
>>73
三国時代に呉によって迫害された、越の民が多量に日本に渡来したらしいぞ。
越後、越中、越前、その他、日本には越のつく地名は多い。
彼らがやってきて名づけた、との話だ。
76:世界@名無史さん
12/03/12 19:26:57.08 0
大和王権に食い込んだのかもなあ。
中国では蛮族扱いだが、熟蛮であるしね。
北魏も熟蛮と言う扱いだったかな
77:世界@名無史さん
12/03/12 23:07:02.43 0
確かに、越人と重なる文化はあるんだよね古代日本には
こいつらは我々が思うような中国人ではなかったらしいし、渡来した可能性は高いが、
もっと具体的で判然とした当時の文化遺物が日本で出土しないのが不可解だよねぇ
78:サプラス ◆zFI2v1DQ/c
12/03/13 14:32:03.09 0
過去を振り返ることは、将来に対する責任を負うこと
79:サプラス ◆zFI2v1DQ/c
12/03/14 03:24:56.31 0
人の社会は、奪い合えば足りないが、分かち合えば余る。
80:世界@名無史さん
12/03/14 10:24:04.96 0
分かち合えないから戦いとなる。
大航海時代とか中国とかモンゴルなんか典型的な例。
81:世界@名無史さん
12/03/14 23:32:54.83 0
分かち合っていると思っている人間の目に入らない所にも人間は生きているものでな
82:世界@名無史さん
12/03/15 22:45:51.59 0
>>79
新約聖書の意味不明なパンの話はそれか
分けたら行き渡って余った
83:世界@名無史さん
12/03/21 22:56:53.32 0
【中国史】やる夫と後漢初頭を生きるようでス。 19膳目
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです Part5
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる実が、後宮の女史になったようでス。【18禁】4夜
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
なかなかいいぜ
84:世界@名無史さん
12/03/23 13:38:32.87 i
>>83
一番目と三番目:読んでて気分が悪くなった。すぐエログロに走る癖をどうにかしろよ。
こいつのエロは下品を通り越して下劣だろ。
二番目:単純につまらん。原因は練り込み不足なんだろうが、根本的に作者の頭が悪いのかもしれん。
「効果AA(ビーム・剣戟等)を多用するスレに名作なし」の素晴らしい見本。
一番やばいのは、作者が「俺は誰よりもこの時代を知っている!」という根拠のない自信に
満ち溢れているところだろう。
そのくせ、初期の段階で「ソースはネットの晋書とWikipediaです」などと宣っている。
この時代を専攻している人たちが見たら噴飯モノだと思う。
85:世界@名無史さん
12/03/23 16:56:56.50 0
と、意味不明の主張を繰り返しており
86:世界@名無史さん
12/03/24 13:32:09.15 0
「一人の道」 ~ ピンク・ピクルス
87:世界@名無史さん
12/03/24 15:04:53.33 0
>>84
その3つ以外だと、
途中で消えてないのを除くと
やる夫が正史を書くようです(三国志、西晋)
URLリンク(ex14.vip2ch.com)
やる夫が光武帝になるようです(後漢)
URLリンク(kutugen.blog57.fc2.com)
やる夫が王莽になるようです(前漢・新)
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
【劉邦】やる夫が漢の皇帝になるようです その8【歴史】(秦・楚漢)
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
【中国史】やる夫と後漢初頭を生きるようでス。 19膳目(後漢)
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです Part5(五胡十六国)
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる実が、後宮の女史になったようでス。【18禁】4夜(全般?)
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
けっこうあるな・・・
88:世界@名無史さん
12/03/25 17:15:06.55 0
>>87
王莽と光武帝、そして後宮が面白いが
やる夫スレは要するに二次創作に分類されるものであって、
世界史板で扱うのは板違いだと思う
89:世界@名無史さん
12/04/02 15:04:02.52 0
あげ
90:世界@名無史さん
12/04/13 11:32:39.53 0
あげ
91:世界@名無史さん
12/04/13 19:28:58.76 0
三国志の時代に人口がガッツリ減って1/6位になったらしいんだけどまじですか
日本ではなかなか考えられない規模の死にっぷりだけど
92:世界@名無史さん
12/04/13 23:38:31.04 0
混乱で戸籍が整備されなくなったり、Aの地域がやばくなって激減した分が流民
となってBの地域に行ってたりという要素もあるのでそこまで減ったかは解り辛いが
相当な減少ではあったろうと思われる
江戸時代の日本でも藩レベルだと凶作で死・流出で半減、ぐらいのことはあったそうですが
93:世界@名無史さん
12/04/14 15:12:01.17 0
>>75
本来、日本の越は「えつ」ではなく「こし」であり、
古くは高志、あるいは古志と表記されてたんだよ。
「えち」と呼ばれるようになったのは律令国となってから。
少し調べれば分かるんだから、漢字が同じってだけで先走るな。
94:世界@名無史さん
12/04/14 15:35:59.13 0
>>93
博識なようだから質問。
日本におけるシナの古称で「もろこし」ってあるけど、これは百越の訓読みであってる?
あってるとしたら、なぜ江南の呼び名(しかも秦漢以前の)がシナの一般称になったの?
95:世界@名無史さん
12/04/14 16:03:11.30 0
>>94
博識じゃないんで、ググってみたが
諸越は「諸々の菓子を越えて風味良し」と評された和菓子の名前っぽいな……
もろこしは唐、あるいは唐土と書いてもろこしと読むらしいが、
どうして唐をもろこしと読むのかは分からなかった。
百済をくだら、新羅をしらぎ、高麗をこまと読むのと似たようなものだとは思うが。
96:世界@名無史さん
12/04/14 18:59:17.06 0
日本に呉音が根付いてるくらいだから呉の人が沢山渡来していてもおかしくないが
三国の越って漢とは言語が異なるよね?
97:世界@名無史さん
12/04/14 20:46:06.36 0
>>96
違ってるとしても、オーストロアジア語族(モン・クメール系とかあっち方面)なんじゃないかな
そうだとすると、日本語の母体の一つになってるとは言いにくいのではなかろうか
98:世界@名無史さん
12/04/14 20:54:53.99 0
>>96
呉音は別に呉の音なんじゃなくて「正規の中国語の発音でない音」くらいの意味らしい
唐代の長安で首都以外の発音のことを「呉音」って言ったのが始まりとか
URLリンク(ja.wikipedia.org)
99:世界@名無史さん
12/04/14 20:57:57.45 0
>>92
江戸時代でも、日本全国としては人口は増減もせず保持されていた状態らしいんで
やっぱりこの時代の中国にしか起きていない現象なんじゃない?
有名なヨーロッパの黒死病で人口3/4でしょ?
100:世界@名無史さん
12/04/15 07:08:19.72 0
西晋の最盛期が千五百万だから、ざっと三分の一なのを考えると
六分の一まで減ったのは事実だろ。
101:世界@名無史さん
12/04/15 10:19:42.02 0
中国歴代王朝の人口統計は「国家が直接把握している人口」であって、
「豪族、貴族の配下に収まった人口」も流人も含まれていない。
そんでもって西晋期は貴族体制の最盛期だからな。
102:世界@名無史さん
12/04/15 11:22:17.48 0
いや安史の乱あたりがもっとひどかったかな
103:世界@名無史さん
12/04/15 14:40:53.76 0
人口把握が最も杜撰になったのは、黄巣の乱の頃。
江蘇省にいた漢人が、福建・江西・広東へ向かって、客家人の第二波になった。
客家の族譜側からだけみれば、第一波の東晋の頃よりも、第二波の黄巣の乱に移動した宗族のほうが多い。
104:世界@名無史さん
12/04/18 19:38:27.53 0
三国志魏志にある報告書で「三帝が鼎立して二郡を超えない」とある
かいつまんで説明すると、三国の合計が漢代の大きな郡2つ分しかない、ということ
もちろん、中国人とは都市民のことなので、城外に生きてる人間もいたとは思うが、
漢代の6000万人から500万人足らずに減ったのは確か
古墳時代の日本列島とさしてかわらない
105:世界@名無史さん
12/04/19 11:29:57.52 0
東晋の簡文帝ってなんか光孝天皇に似てる気がする。
106:世界@名無史さん
12/04/19 11:32:50.13 0
斉と梁の親族関係ってどのくらい。
この辺は田舎なので、祖父さんの葬式に、親の又従兄弟とか、
なんか関係のわからない親類とかぞろぞろ来てたけど、
その程度の感じ?
107:世界@名無史さん
12/04/26 15:26:18.06 0
吉川忠夫氏の「劉裕」巻末の関係年表だと、
384年(22歳)頃に、冠軍将軍の司馬になったように書いてあるけど、
これはどういう根拠なんだろう。
孫恩討伐あたりから以後は本紀に書いてあるようだけど。
それと、そんなに若くして、それなりの地位にあったってことは、
そんなに出自悪くないんじゃないの?
父が郡功曹ってことは、郡内で指折り数えられるぐらいの有力家系じゃあ?
三流貴族ってところじゃないの?
108:世界@名無史さん
12/05/04 02:27:08.90 0
>>107
>384年(22歳)頃に、冠軍将軍の司馬になったように書いてあるけど、
>これはどういう根拠なんだろう。
ちょっと調べてみたけど分からんかった。正史以外に出典があるんだろうか。
劉裕は初め冠軍将軍の孫無終の司馬となったというが、孫無終は後に輔國將軍になっている。
冠軍将軍と輔國將軍の経験者を調べてみたけど、なんとも言えない。
384年頃、冠軍将軍の桓石虔が監豫州揚州五郡軍事、豫州刺史となるが、将軍位が変化したかは分からない。
桓石虔は389年に死ぬが「使持節、都督荊益寧三州諸軍事、荊州刺史」と記され、やはり将軍位は不明。
ただ謝玄の部下の孫無終が淝水の戦いで活躍して384年頃に冠軍将軍はあり得る。
同僚の劉牢之はこのころに龍驤將軍になっている。
384年以前は桓石虔の他にも劉波がいたりして、孫無終が冠軍将軍であったとは考えにくい。
次に輔國將軍だが、383年には輔國將軍の楊亮が益州を征伐している。
同年、輔國將軍の謝琰が淝水の戦いに参加しているので、楊亮は昇進したのかも知れない。
385年、父の謝安が死ぬと謝琰は職を去り、喪が明けると征虜將軍、會稽內史となった。
386年、前輔國將軍の楊亮は西戎校尉、雍州刺史となった。なぜ「前~」と書くのかよく分からん。
それから後の輔國將軍は不明なので、もし孫無終が謝琰のすぐあとの後任ならば、
冠軍将軍であったのが384年~385年頃という推測は成り立つ。
しかし孫無終が390頃に冠軍将軍になり、395頃に輔國將軍に昇進したとしても矛盾はないので
やはりなんとも言えない。
109:世界@名無史さん
12/08/19 18:19:23.99 0
>>104
> 三国志魏志にある報告書で「三帝が鼎立して二郡を超えない」とある
> かいつまんで説明すると、三国の合計が漢代の大きな郡2つ分しかない、ということ
> もちろん、中国人とは都市民のことなので、城外に生きてる人間もいたとは思うが、
> 漢代の6000万人から500万人足らずに減ったのは確か
統計内人口だから。
戦乱が起こると、たった数年で「人口」が数分の一になっちゃったりするのは、
中国史では日常茶飯事。安史の乱の時なんで、5年で5分の1に減ってるような。
でも実際に、そこまで減ったとは考えられてはいない。
多少は減ったろうけどね。その後の歴史を見ると。
110:世界@名無史さん
12/08/19 18:22:12.03 0
人民が逃げたしたり、納税・徴兵拒否したりして、統計内から統計外に移っただけ。
都市というけど、三国時代は、塞だったり、村(ソン)だったりが多量に発生した時代。
後者二つは、自衛自立した農民たちの集落。
それは統計人口は減るよね。
111:世界@名無史さん
12/08/19 18:23:11.95 0
まー実人口も多少は減っているでしょうが、もう少し減り方は穏やかだった可能性が
高いです。
112:世界@名無史さん
12/08/19 18:26:06.28 0
それと、豪族の権利の強かった呉では、世兵制で豪族が武装し、私兵を持ち、
私民たちが、官の戸籍に入っていなかった。
とすれば、魏や蜀でも、程度の違いこそあれ、そうした傾向があった可能性はあるよね。
そうした要素も考慮しないといけない。
113:世界@名無史さん
12/08/19 18:29:50.81 0
でも、人口の半分くらいは本当に死んだかもね。
その可能性はゼロではない。
114:世界@名無史さん
12/08/19 20:13:22.18 0
呉や東晋、南朝は漢族でも山越の地域に逃げ込んだ人間が多くて服装や髪型まで
変えてしまうケースが史書に残っている。梁末期ではそういう人間が割拠するぐらいだから
数的に相当な規模だと思われる。
115:世界@名無史さん
12/08/19 22:05:16.75 0
前漢まではさほど目立たないのに、後漢、東晋、北魏とか
10代20代30代前半で病死した皇帝を連発したのはなんで?
116:世界@名無史さん
12/08/20 16:01:01.51 0
不老長寿
117:世界@名無史さん
12/08/21 00:04:11.27 0
カクレンボツボツって人だけ
妙に記憶に残ってる
何した人かは忘れたが(・ω・`)
118:世界@名無史さん
12/08/21 00:41:12.52 0
>>117を見て堅い城(統万城)作った人、という情報を最初に思い出した
119:世界@名無史さん
12/08/22 10:48:51.43 O
土塁に錐を突き立てて刺さったら施工者を殺して塗り込めたんだっけ?
120:世界@名無史さん
12/08/22 13:33:47.88 0
大唐帝国に載ってますね>キリ突き刺して~
121:世界@名無史さん
12/08/22 13:59:57.12 0
>>120 当時としては画期的なコンクリート造りだからね。
122:世界@名無史さん
12/08/23 00:18:35.64 0
>>115
北魏皇帝に関しては
「12歳ぐらいから子ども作りまくるから衰弱しちゃうんだよ!」
って趙翼先生が言っていたような
123:世界@名無史さん
12/08/23 00:28:22.18 0
>>122
俺も12歳で精通以来毎年何百回と抜きまくってきたが
40歳過ぎても全く衰弱の気配がないが。
124:世界@名無史さん
12/08/23 01:43:54.41 0
実戦をなめるな!
って赫連勃勃さんが言ってた
125:世界@名無史さん
12/08/26 04:56:50.36 0
漢・唐・宋・明・清の皇族はなんとか子孫が残っているね
秦・晋・隋・元の血統は断絶してしまったが
126:世界@名無史さん
12/08/26 09:48:42.35 0
晋以後、漢の後裔を名乗る人達って、
大概前漢皇族の子孫を称してるようだけど、
なんで?
山陽公一族は西晋末の混乱でわけがわからなくなったらしいけど、
他にも後漢皇族の子孫は結構いたはずだと思うけど。
なぜか楚王劉交の子孫とか景帝の子孫とかばっかり。
宣帝の子孫もかなりいるはずなんだけど、
後漢以後はほとんど見ないような。
127:世界@名無史さん
12/08/26 12:59:30.77 0
後漢の関係者は魏晋の頃も普通に権力者や貴族やってたから
やっぱり普通に晋の崩壊に巻き込まれて死んでる
128:世界@名無史さん
12/08/26 17:38:27.59 O
日本の東漢氏が後漢の末裔と自称してる
129:世界@名無史さん
12/09/24 20:52:16.82 0
東晋の元帝と南陽王模の、西晋末における関係ってどうなの?
年齢も、血統も元帝の方が一応は上だよね。
左丞相と右丞相も、ほぼ同格だとしても左の方が上だとは思うけど、
丞相と相国では、相国の方が上のような?
315年の段階で逆転した?
130:世界@名無史さん
12/09/24 23:33:59.86 0
そう言えば、三国志スレって消えた?
131:世界@名無史さん
12/10/02 18:58:39.73 0
歴史の中にな…>消えた
132:世界@名無史さん
12/10/04 09:52:22.42 0
>>129
南陽王模じゃなくて息子の司馬保の方だな
丞相より相国の方が上とは言い切れないと思う
通鑑でも「琅邪王睿を丞相に、南陽王保を相國に,荀組を太尉に…」という順序で書かれてるし
左右丞相を分け合った時点では、二人はそれぞれ大都督陝東諸軍事,大都督陝西諸軍事だけど
琅邪王睿は丞相になると大都督、督中外諸軍事となり、南陽王保は不明。
南陽王保は支配した領域も狭く、実績も少なく、血統的にも疎属。
皇族の二枚看板になってるけど、実体はそれには程遠いと思うな。
133:世界@名無史さん
12/11/07 23:51:41.83 0
『五胡十六国―中国史上の民族大移動』が復刊してるよ
134:世界@名無史さん
12/11/13 23:36:17.31 0
旧版積んでるけど、買い直した方がいいだろうか
内容あんまり変わってないならスルー予定
田舎住まいなので確認の仕様がない
135:世界@名無史さん
12/11/14 03:53:46.94 0
1988 2010 2011 2012
大唐帝国文庫本A―(風呂場便所で読みまくりボロボロ)―→
文庫本B(買い直してまた読んでいる)→
いろんな場所で読むので何冊あっても困らん人もいる
136:世界@名無史さん
12/11/28 20:23:57.25 0
【中国史】やる夫と後漢初頭を生きるようでス。 23膳目
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる実が、後宮の女史になったようでス。【18禁】6夜
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
前漢はもちろん後漢だけじゃなく、色んな時代に触れていておすすめだよ
137:世界@名無史さん
12/11/30 09:29:43.85 0
URLリンク(seiji.yahoo.co.jp)
138:世界@名無史さん
12/12/01 11:27:59.71 0
>>136
作者は文革時の紅衛兵か?儒教に対する偏見無知がひどいんだが。
反面教師として紹介しているのか?
139:世界@名無史さん
12/12/01 15:06:41.63 0
>>138
どこが儒教の偏見無知なのか証明しろや。
それとも、儒教に問題がないとでも言うつもりか?
文革時の紅衛兵しか儒教批判がないとでも?
140:世界@名無史さん
12/12/01 18:42:43.04 0
>>139
支持者か作者本人か?今時儒教イデオロギーを近代的価値観で批判するのは
共産主義者ぐらいだぞw日本の奈良時代の鎮護国家体制をオウム並みの
カルトととでも言うぐらいおかしなこともわからんのか。
141:世界@名無史さん
12/12/01 18:55:43.02 0
>>140
近代的価値観で批判してねえだろ。
昔から、儒教は批判されてただろうが・・・
該当箇所をしめせやwww
【中国史】やる夫と後漢初頭を生きるようでス。 23膳目
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる実が、後宮の女史になったようでス。【18禁】6夜
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
142:世界@名無史さん
12/12/02 02:53:39.83 0
こういう専門スレに来るような連中が、今更やる夫スレ読んでもしょうがないんじゃないか?
143:犬童知遠 ◆tmc8JAPANo
12/12/02 20:20:37.73 0
>>139、>>141
なんだこのバカは。
144:世界@名無史さん
12/12/02 20:28:27.17 0
>>143
馬鹿は「お前だろ
後宮や宦官などの歴史を知る上では最高のスレだよ
【中国史】やる夫と後漢初頭を生きるようでス。 23膳目
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる実が、後宮の女史になったようでス。【18禁】6夜
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
145:世界@名無史さん
13/01/05 17:33:52.91 0
【中国史】やる夫と後漢初頭を生きるようでス。 24膳目
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる夫が王莽になるようです その三
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
みんな読め
146:世界@名無史さん
13/01/05 17:38:31.89 0
やる実が、後宮の女史になったようでス。【18禁】6夜
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
これもいいよ
147:世界@名無史さん
13/01/09 20:08:48.06 0
任尚って、後漢書のそこらじゅうに出没する、生粋の辺境高級軍人。
最期は処刑されたとはいえ、功績も多いのに、伝がない謎の人物。
まあ記事かき集めれば、軍歴は相当程度復元できるけどね。
出身とか、年齢とか(これはわからない人の方が多いが)不明。
148:世界@名無史さん
13/01/18 23:27:04.48 0
劉宋、譲位した最期の皇帝が殺された。
ってだいたい何見てもそのくらいしか書いてないから意外だった。
その直後に傍系?皇族が汝陰王に封じられて、
梁武帝の頃にその子や孫らしいのが、
二代代替わりしてるんだな。
元皇帝は邪魔だから始末したけど、
家としては残しておくってことか。
149:世界@名無史さん
13/01/20 03:33:58.08 0
劉胤-劉端-劉哲-劉叡か。
150:世界@名無史さん
13/01/28 11:05:11.53 0
墓が出てきた357年没の冬寿の、官爵って、高句麗の?前燕の?東晋の?
151:世界@名無史さん
13/01/28 11:55:42.69 0
紀年は東晋の「永和十三年」を使ってるし、官爵も東晋のものでしょ。
152:世界@名無史さん
13/01/28 23:52:16.64 0
冬寿の経歴
334年、慕容部大人の(平北将軍・朝鮮公か?)慕容皝の司馬として、
その弟慕容仁を撃つが、敗北し捕らわれる。
かつて慕容仁の司馬だったことがあり、そのまま慕容仁に仕える。
336年、慕容仁が慕容皝に殺されると高句麗に逃亡。
357年、69歳で没。当時:使持節都督諸軍事平東将軍撫夷校尉楽浪相昌黎玄菟帯方太守都郷候
逆算すると289年誕生。
慕容廆に仕えた時期は不明だが、年齢から考えて305年頃より前ではないだろう。
慕容仁の司馬となった時期も不明だが、慕容仁が征虜将軍とされ遼東に鎮した319年以後。
慕容皝と慕容仁が決裂したのは333年で、慕容皝の司馬になったのはそれ以前だろう。
一応計算すると、305年時点17歳、319年時点31歳、333年時点45歳。
31歳では、当時せいぜい20歳前後と思われる慕容仁の補佐にしては若すぎか?
325年前後くらいに、慕容仁の司馬となり、330年頃までに慕容皝の下に転属か?
当時はあくまで両者の父である慕容廆の部下であり、転属はあり得るだろう。
高句麗亡命後の339年以後、高句麗は前燕度々敗北し、和睦・朝貢・臣従といった経過。
冬寿の立場は悪くなりそうだが、なぜか無事だったらしい。
153:世界@名無史さん
13/01/30 23:23:55.07 0
爾朱栄って、通史とか歴史読み物なんかだと、
もろ辺境の蛮族の頭目って書かれ方なんだけど、
「魏書」の伝を見ると、少なくとも祖父の代からは、
中央と縁がある上級貴族のような書かれ方で、
なんというか、ものすごい違和感というか意外だった。
154:世界@名無史さん
13/02/03 12:02:38.42 O
北魏の歴史は良く知らないけど、爾朱栄は突然強大な軍を率いて登場するという印象があるな
家畜を一頭一頭数えなくて、色ごとに分けて谷で数えてたってこの人の話だった?
155:世界@名無史さん
13/02/03 12:41:31.41 0
カオスすぎる時代だな
156:世界@名無史さん
13/02/04 09:49:03.98 0
爾朱栄の娘英娥、爾朱氏壊滅後も生き延びた波乱の人生だけど、
経歴見るとよほどに美人だったのか?
殺されたときは40前後にはなってると思うけど、
556年、文宣帝が酔って働こうとした無礼って、
やっぱりあれ系だよね。
年増になっても魅力的だったのか?
酒乱の文宣帝が酔ってたからってことはあるにしても。
157:世界@名無史さん
13/02/05 02:44:30.96 0
五胡十六国みたいな日本ではマイナーな時代を詳しく勉強するには
やっぱ大学で文学部行かなきゃ駄目なの?
158:世界@名無史さん
13/02/05 19:08:07.12 0
>>147
後漢書に限ったことじゃないけど、辺境を活躍の場とした人は
伝がないことが多くて困るね
159:世界@名無史さん
13/02/05 19:23:43.34 0
谷川道雄『隋唐帝国形成史論』
三崎良芳『五胡十六国の基礎的研究』
この辺読みゃいいんじゃない
大学の文学部行ったって、この時代の専門家なんてほとんどいないよ
学術書がつらければ、三崎先生は一般向けの本も出してるから。
160:世界@名無史さん
13/02/05 22:03:53.00 0
>>159
ありがとう 探してみる
161:世界@名無史さん
13/02/07 00:45:48.42 0
唐末五代も似た感じカオスで面白いな
162:世界@名無史さん
13/02/07 22:18:01.45 O
五代も面白そうだけど、仮子とかで同一人物の名前が結構変わって訳判らなくなって諦めた
163:世界@名無史さん
13/02/10 00:14:03.93 0
西晋末から陳滅亡までは、
殺害とか急死で後継者が定まらない短期間を除き、
基本的にほぼ常時2人以上の皇帝が居たわけで、
皇族の亡命も結構あるんだけど、
その場合に亡命先が与える王号って、
いろいろ意味深だったりするんだろうな。
164:世界@名無史さん
13/02/10 22:24:41.16 O
傀儡政権作らせようとか考えると、そうした意図が反映されそう
165:世界@名無史さん
13/02/11 13:26:23.02 0
司馬金龍の琅邪王なんかは、どうなのかなあ。
西晋皇族としても相当傍系だったわけで、
司馬睿ゆかりってわけでもない。
東晋の間なら嫌みかもしれないけど。
もう宋の世の中だし。
意味がよくわからない。
嫌みなら宋王とか晋王だよな。
166:世界@名無史さん
13/02/11 23:23:44.89 0
純粋に亡命政権の主的なものへの格式扱いではないかなあ
劉昶一族の宋王と蕭宝夤の斉王も並立してるし、対外的な意図は大きくないような
167:世界@名無史さん
13/02/14 19:22:11.19 0
【中国史】やる夫と後漢初頭を生きるようでス。 25膳目
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
やる実が、後宮の女史になったようでス。【18禁】6夜
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
凄く面白いですよ
168:世界@名無史さん
13/02/16 09:46:35.85 O
劉淵が漢王を名乗ったみたいに、華北では司馬氏のネームバリューにはまだ人心を引きつけるだけのものがあったのではないかな?
極端に言えば司馬氏一門でなくても、司馬姓を名乗らせておけば亡命者を集める可能性がありそう
169:世界@名無史さん
13/02/17 17:09:04.85 0
やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです
URLリンク(jbbs.livedoor.jp)
170:世界@名無史さん
13/02/18 13:30:18.15 0
>>126
南朝で後漢の祭祀継いでるのが確か蜀系統だった気がするから大体の後漢系統が永嘉で乙った臭い
独孤一族と、その流れの劉氏とかが子孫名乗ってるけどそういう仮冒くさいのは別だよな?
171:世界@名無史さん
13/02/20 11:09:58.43 0
魏書の初期に、漢兵将軍・晋兵将軍・呉兵将軍とか出てくるけど、
あれはなんなんだ?
その地方出身の兵でも率いてるのか?
単なる景気づけ?
172:世界@名無史さん
13/02/20 13:53:06.52 0
>>171
今、シニカ先生に聞いてみた。
神麚中、以脩之領呉兵討蠕蠕大檀、以功拝呉兵将軍、領歩兵校尉(毛脩之伝)
雲中鎮将朱脩之、劉義隆故将也、時従在軍、欲率呉兵謀為大逆、因入和龍、冀浮海南帰(朱脩之伝)
たとえば、上の二文を見ると「呉兵」という集団があって、呉兵将軍はその指揮官っぽい。
雲中鎮なんて東晋からの亡命者が大量にいそうなところなので、
南朝からの亡命者をいくつかの集団にわけていたとかではないだろうかと思いつきを述べてみる。
173:世界@名無史さん
13/02/22 21:29:35.40 O
漢だと思うが滅晋大将軍なんて称号の人がいたような気がする・・・
174:世界@名無史さん
13/02/28 10:52:52.93 O
スレ違いだったら申し訳ありません。
ご存知でしたら教えてください。
字、についてです。
三国時代ファンの友人の間で意見の対立がありました。
相手を字呼びするのは軽んじているか、「友人同士」的な気軽さがあるものだとする派と、
自分を名で名乗るときはへりくだりを表し、相手を字呼びするときは尊敬を表しているから軽んじているわけではないとする派です。
私は割に初心者なので、両者の説を自分で調べてみようと思いました。
しかしソースが分かりません。
両者とも前者は「通説」だからと言い、後者はかつて(それに詳しい)知人に聞いたと言い、前に進みません。
では自分で調べてみようと思っても、文化風俗については辛うじて資料(史料)本はありそうでしたが、
字について記述があるものが思うように見つかりません。
こちらのスレの方で、資料(史料)にお詳しい方がいらっしゃれば、ご教授いただければ幸いです。
175:世界@名無史さん
13/02/28 15:20:56.56 0
>>174
歴史的に、中国人は個人に特有の名として姓(氏)と諱(名)と字の三つの要素を持った。
日本では大抵の中国人は「姓-諱」の組み合わせで知られる。ただし例外的に「姓-字」の呼称が通用している人物もいる。
伍子胥(諱は員)、項羽(諱は籍)、諸葛孔明(諱は亮)、蒋介石(諱は中正)など。
例えば「諸葛-亮」は「諸葛」が姓、「亮」が諱であり、字を「孔明」という。
諱は軽々しく用いられることは忌避され(ために日本に入って「忌み名」と訓じられた)、
同時代人に対しては、
親や主君などの特定の目上の人物だけが諱を使用し、
それ以外の人間が諱で呼びかける事は極めて無礼な事とされていた。
逆にそういった諱で呼びかけられる立場にある者がわざわざ字で呼びかける事は、
立場とは別に一定以上の敬意を示す事になる。
諸葛亮を例に取れば、三国志演義の訳本において劉備であっても「孔明」と呼ばせているものは一定以上見受けられるが、
関羽、張飛をそれぞれ雲長、翼徳(益徳)と呼ばせているものはまず無い。
『礼記』曲礼篇に「男子は二十歳で冠を着け字を持った」「女子は十五歳でかんざしを着け字を持った」とあり、
成人した人間の呼び名としては原則として字が用いられた。
なお、その人物が官職に就いた場合は官職名で呼ぶことが優先された(諸葛亮なら「諸葛丞相」。丞相が官職名である)。
この場合、親しい間柄以外は、字で呼ぶことは、諱ほどではないにしても少々無礼なこととされていた。
前述のとおり、字は諱を呼ばないために使うものであるので、基本的に相手に対して「劉-備-玄徳」のように姓・諱・字を連結して呼ぶことはない。
しかし文書の中では姓・諱・字を連結して書く場合がある[2] wikiより「字」で検索ね
176:世界@名無史さん
13/02/28 21:41:49.22 0
長いし答えになってないし
177:世界@名無史さん
13/03/03 03:45:55.41 0
>>174
期待する回答になってるかどうかは知らんけど。
たとえば『礼記』に「冠而字之敬其名也」とあって、字は諱するための代用品なので
本義的には尊敬も軽んずるもないのではないかなーと思う。
で、同じく『礼記』に「父前子名君前臣名」とあるのだけど、
主君や父親の前では名で名乗るものだし、同僚や上司・兄を名で指してもOKなんだろう。
(上奏文なんかで「臣~」と同僚や上司を指してるのはよく見かけることになるでしょう)
いったん切る
178:世界@名無史さん
13/03/03 04:19:38.16 0
>>174
で、経験上の話なので、参考程度になんだけど、史料上だと
部下に対して自分を「姓+名」で名乗ってる
公然と宣言するように「姓+字」を名乗る
(名はある種の正当性を伴うから、宣言なんかでは名を名乗るのがセオリーっぽいのだけど)
敵意を示しながら「字」を二人称として使う
敵意も軽蔑の意もないのだけど、主君以外の前でも第三者を「姓+名」で呼ぶ
一面識もないが「あの有名人」的に「姓+字」で第三者を呼ぶ
ってケースは普通に見られて、体にしみこむほどきっちりかっちりしたルールって
あるのかなあと。(「主君と父兄の前で名」以外に)
ただ傾向としては姓+字よりも姓+号や姓+官職の方が丁寧なんだろうと思います。
(演説・檄文で同志部下は姓+名か字、同格の外部協力者・それ以外の非敵対者は姓+官職ってのなどがよくあるから)
ただ、まったく面識もなにもない相手を二人称で姓+字で呼ぶケースはあんまり記憶にないんで
字で直接呼びかける以上、ある程度の近い関係性はあるんじゃないかと思いますが、
その行為自体に敬意・軽蔑はないんじゃないかと。
179:世界@名無史さん
13/03/03 12:23:26.14 0
>>174
親しくないのに名を呼び捨てにすることが失礼なのは
現代日本でも同じだから感覚的に分かるよね
誤解を恐れずに言うと、そういうのは言霊信仰の名残で、
「人の名を好き勝手に呼ぶことは、その人そのものを好き勝手に扱うのに似てるから失礼」
という感覚
つまり、間接的な呼び方であるほど丁寧、という原則は三国志も現代日本も同じ
例: 劉備 < 劉玄徳 < 豫州
張昭 < 張子布 < 張公
馬超が劉備に帰順したときに字を呼び捨てにして関羽と張飛が怒ったという
有名なエピソードもある(信憑性は怪しいが)
結論としては、字で呼ぶのは、役職名で呼ぶのに比べれば、尊敬を感じない呼び方
軽んじているか、友人同士的な気軽さがある、が正しい
180:世界@名無史さん
13/03/26 23:20:13.68 0
後趙の石氏は親族殺し合って自滅したってことで良いの?
181:世界@名無史さん
13/03/27 15:23:56.49 0
目上の者が目下の者へ親しみを込める意味合いであえて字で呼ぶ事もあるよね。
例えば孫権が捕虜の潘濬を帰服させようとして「其の字を呼びて曰く『承明よ~』」と話しかけたとか。
182:世界@名無史さん
13/04/27 17:18:28.35 0
高度な文明を築いた漢やローマも
五胡やゲルマンなどの蛮族にやられてしまったね
183:世界@名無史さん
13/04/30 00:46:10.66 P
台北に「中正国際空港」とか「中正記念堂」なんてのがあるんだけど
誰もが気軽に「中正」という諱を口にしてるわけで
これはいいんでしょうかね?
特に「中正記念堂」なんて蒋介石の遺徳を偲ぶための施設のはずなのに
こんな名称じゃむしろ「中正侮辱堂」になってしまいませんか?
184:世界@名無史さん
13/04/30 01:01:03.41 0
>>182
両方とも蛮族にやられる前に自分達で内部から腐敗しちまったからな
185:世界@名無史さん
13/05/01 21:55:52.33 0
>>179
明智光秀だと
光秀<十兵衛<日向守
古田重然だと
重然<左介<織部
とかそんな感じなのかな?
186:世界@名無史さん
13/05/05 12:50:46.60 0
>>184
前漢滅亡時に減った人口を何とかするために
後漢は異民族を領内に住まわせすぎなのもあるね
漢化したこいつらが自立しようとした挙句
北方からガチ異民族が続々と…
187:世界@名無史さん
13/05/05 21:06:03.51 0
黄巾の乱にせよ永嘉の乱にせよ魏晉時代の国家崩壊は
郷村社会から荘園の支配者の豪族を基礎とする貴族制社会
への過渡期だからどうしようもない。
188:世界@名無史さん
13/05/05 22:52:10.02 0
>>187
しかも異民族の襲来と異民族も軍事貴族化してだから
救いのない時代。
人種的には入れ替わってるしね。大半が異民族由来の遺伝子持つことになった。