世界史に於ける秀吉の朝鮮征伐の考察その2at WHIS
世界史に於ける秀吉の朝鮮征伐の考察その2 - 暇つぶし2ch2:世界@名無史さん
11/07/02 00:38:40.55 0
参考サイト
1592-1598
plaza.rakuten.co.jp/1592to1598/
“真相”文禄・慶長の役
URLリンク(sites.google.com)

3:世界@名無史さん
11/07/02 00:41:19.62 0
1592-1598
URLリンク(plaza.rakuten.co.jp)

4:世界@名無史さん
11/07/02 01:00:57.72 0
文禄・慶長の役の英語版wikiを見たらなんか凄いことになってるな。
とりあえず変な点を列挙してみるw

・晋州城の戦いで日本軍3万人のうち1万人以上が戦死した!ソースはKBS!
・李如松が平壌を奪回し、この戦いで日本側の戦死者は実に1万2000人にのぼる!
・碧蹄館の戦いの結果は日本軍の戦術的勝利、そして明軍の戦略的勝利である!
・碧蹄館の戦いの投入兵力は明軍が1万2000、日本軍が3万~4万。明軍の戦死者は2000~2500、日本軍の戦死者は少なくとも6000人、最大推計で8000人である!
・幸州山城の戦いでは朝鮮軍2300人が日本軍1万人をぶっ殺した!
・稷山の戦いで明軍の戦死者は200人だが、日本軍の戦死者は500人以上である!
・鳴梁海戦で李舜臣は、たった13隻で日本軍に8000人もの死傷者を出す大損害を与えた!
・蔚山城の戦いで日本軍の戦死者は6000~1万人。なお、日本側の援軍の兵力は8万人だ!ソースはKBS!
・順天城の戦いでは日本軍の方が被害甚大!3000人も戦死したよ!
・露梁海戦は朝鮮・明連合軍の大勝利!
・戦役全体で少なくとも14万人の日本兵が戦死した!

碧蹄館の日本側の戦死者なんか、ちょっと前見たときには「2000~8000人」だったのが
いつのまにか「6000~8000人」に増えてるw
一体どんな連中が編集してるんだw

5:世界@名無史さん
11/07/02 01:24:07.26 0
連携し共生すべきアジアの素敵な人々

6:世界@名無史さん
11/07/02 15:03:28.36 0
>ソースはKBS!

「ソースはNHK!」と言うのと同じでインチキくさいなw

7:世界@名無史さん
11/07/03 04:52:57.18 P
秀吉が賢いのは、ちゃんと朝廷を立ててることだよな
これは信長にも家康にも無い要素だ

8:世界@名無史さん
11/07/06 07:52:16.46 0
朝鮮征伐

9:世界@名無史さん
11/07/06 22:54:10.68 0
>>1

でも、本当は”その2”じゃなくて”その10”だな。

10:世界@名無史さん
11/07/06 23:48:26.18 0
そのヌルハチも明との戦いで重傷をおって死んでるし、 明を滅ぼしたのは反乱の首領の李自成
李自成が成功しなければ女真族は天下を取れなかっただろう

11:世界@名無史さん
11/07/06 23:49:55.35 0
そりゃそうだろうな。

12:世界@名無史さん
11/07/06 23:53:24.35 0
鹿児島国際大の増田勝機教授(東洋史)は、こうした福建軍との接触を通じ
て、合力計画が持ち上がった、とみる。注目されるのは、「請計処倭酋疏」
に戦艦2000隻、精兵20万で日本を制圧するという計画が見えることだ。
許孚遠はこの計画を提案した1か月後、再び工作船を薩摩に派遣している
(『神宗実録』)。
URLリンク(kyushu.yomiuri.co.jp)




13:世界@名無史さん
11/07/07 01:11:01.32 0
こんな荒唐無稽は与太話を載せる読売の糞ぶり

14:世界@名無史さん
11/07/07 01:16:33.31 0
>>12
そこ、島津義久による提案みたいなこと書いてるけど
ただの妄想にすぎないよ

薩摩に居た一明人にすぎない許儀後が「ボクの考えた最強の対日戦略」 として提案しただけの話で
政策決定に係るような立場の人間による提案でもなく
もちろん採用されることもなかった話にすぎないよね

義弘以下10000の軍を朝鮮に派遣してる島津家が
さらに4万も動員して上方まで攻め上るなんてできるはずがない。
領国は薩摩・大隅2か国だけだよ。

それに朝鮮への出兵中も
肥前名護屋には秀吉以下10万の軍勢が待機していたし
上方には豊臣秀次以下3万余の軍勢が存在していた。
仮に島津が少々の兵を動員して秀吉への反乱を実施したとしても
こんな状況では成功することなど有り得ない。余りに荒唐無稽。

結論として言えるのは、所詮この提案は一人の明人医者による全く現実味のない提案でしかなかったってことで
>>941のリンク先にある「島津の秀吉討伐計画」なんて言い方は全く事実を歪曲したもの。

15:世界@名無史さん
11/07/07 01:17:49.20 0
訂正
× >>941のリンク先
○ >>12のリンク先

16:世界@名無史さん
11/07/07 06:58:22.74 0
前スレ >>995すごいレスだったな
ローマは都市国家であってイタリア半島統一戦をやったのを知らないって事みたいだね。
びっくりしたよ。イタリア半島統一ってなんだと思ったの?
ケルト攻略戦もあったしね

つまり攻勢側だったんだが。

要するにローマはあきらめなかったが日本はあきらめた
指導者達の意思と能力の問題



17:世界@名無史さん
11/07/07 08:15:51.15 0
願わくば、「学問 文系」の名にふさわしい討論がなされますように
煽り愛はよそでやってね

18:世界@名無史さん
11/07/07 08:55:24.48 0
>>13,>>14
ホントに秀吉ラブのネトウヨはいい加減だなー(笑)
前スレでは『慶長の役は秀吉の作戦どおり』と
なにも裏付けとなるソースも提示できず、どこの学者も主張してない
荒唐無稽な与太話を盛んに吹聴しときながら、
鹿児島国際大の増田勝機教授(東洋史)が主張している『明・島津
合力計画』をただ気に入らないからっといって、なんの裏付けとなる
ソースも提示しないまま与太話と決めつけるんだから(笑)
これがネトウヨの自慰史観なんだね(笑)


19:世界@名無史さん
11/07/07 09:01:14.96 O
構想だけ持ちかけられた調略なんて有りがち話だな。
福建からの義久ラインだけじゃなく、清正も秀吉の首を取れば王に册封してやると持ちかけられているしな。
どっちも豊臣政権が強力だから隙もないし現実性がなかったわけだが。

20:世界@名無史さん
11/07/07 09:33:24.97 0
>>19
はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな秀吉に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
秀吉が慶長4年に追加の軍勢を派遣していたら、当然、身辺の兵が手薄
になる、そこで島津義久の軍勢が明国の艦隊に搭乗して名護屋城を急襲
したら、秀吉の首を取る可能性は十分あるけどな(笑)
また、島津とは別に豊臣政権に恨みを抱く、徳川家康も伊達政宗も毛利輝元
もいつまでも秀吉の妄想に付き合っていたとは思えんがね(笑)
毛利輝元なんかは史実では豊臣方だったけどそれは秀吉が死に、新たな脅威
として家康が登場してきたからだ(笑)



21:世界@名無史さん
11/07/07 09:52:38.10 0
はいはい、戦艦2000隻、精兵20万(笑)
どこで建造されて、どこで軍勢を集結させてたんだ?(笑)
そんな大部隊で日本を攻める気なら当然、全国に動員かけたんだろうな(笑)
まさか、慶長4年に日本軍が朝鮮半島に渡ったら急に天から降りてくるとかいうん
じゃないだろな(笑)
それと、あほみたいに身辺が薄くなるほど軍勢を派遣させるっていうソースは(笑)

それと何このオナニー的妄想(笑)

>また、島津とは別に豊臣政権に恨みを抱く、徳川家康も伊達政宗も毛利輝元
もいつまでも秀吉の妄想に付き合っていたとは思えんがね(笑)
毛利輝元なんかは史実では豊臣方だったけどそれは秀吉が死に、新たな脅威
として家康が登場してきたからだ(笑)



22:世界@名無史さん
11/07/07 10:03:56.46 0
>>21
はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな秀吉に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)

>それと、あほみたいに身辺が薄くなるほど軍勢を派遣させるっていうソースは(笑)
おまえら秀吉ラブのネトウヨが主張する荒唐無稽な『慶長の役は秀吉の作戦どおり』
では14万以上の大軍が南岸の防衛強化だけの為に派遣されているんだろ。
だったら南部4道を征服するためには30万くらいの大軍を投入しなけりゃ
ムリダナ(笑)





23:世界@名無史さん
11/07/07 10:07:01.97 0
>>23
はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな明に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)

早く答えろよカス(笑)
はいはい、戦艦2000隻、精兵20万(笑)
どこで建造されて、どこで軍勢を集結させてたんだ?(笑)
そんな大部隊で日本を攻める気なら当然、全国に動員かけたんだろうな(笑)
まさか、慶長4年に日本軍が朝鮮半島に渡ったら急に天から降りてくるとかいうん
じゃないだろな(笑)
それと、あほみたいに身辺が薄くなるほど軍勢を派遣させるっていうソースは(笑)



24:世界@名無史さん
11/07/07 10:19:14.84 0
>>23
はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな秀吉に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)

>はいはい、戦艦2000隻、精兵20万(笑)
>どこで建造されて、どこで軍勢を集結させてたんだ?(笑)
明国の福健省で建造するんだろ(笑)






25:世界@名無史さん
11/07/07 10:27:52.95 0
>>24
はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな明に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)

本当に馬鹿な奴だな(笑)福健省で2000隻の軍艦が建造されていたソース
を求めているんだよバーカ(笑)
まさか、大量の軍艦が急に現れるとでも思ってるのかよ(笑)
明への愛でここまで都合のいいこと以外見えなくなる典型なカスだな(笑)
併せて軍勢20万に動員かけたソースも早く出せ馬鹿(笑)

26:世界@名無史さん
11/07/07 10:45:55.82 0
>>25
ほんと秀吉大好きネトウヨって碌に人の意見も読まずに
反論するんだな(笑)
まあ、大好きな秀吉に都合のいい妄想のじゃまされたんじゃ
気持よくオナニーできないもんな(笑)

>鹿児島国際大の増田勝機教授(東洋史)は、こうした福建軍との接触を通じ
>て、合力計画が持ち上がった、とみる。注目されるのは、「請計処倭酋疏」
>に戦艦2000隻、精兵20万で日本を制圧するという計画が見えることだ。
>許孚遠はこの計画を提案した1か月後、再び工作船を薩摩に派遣している
(『神宗実録』)。
計画を提案って書いてあるじゃん(笑)
どこにも建造していたって書いてないじゃん(笑)
大好きな秀吉をバカにされ、頭に血が上って
勝手に人の主張を勘違いするなよ。

「もし秀吉がもっと長生きしていたら、撤兵は許されず戦いは
さらに泥沼化したはずだ。
その時こそ島津氏と明の合力が実現していたかもしれない。
合力計画は、秀吉の死とともに消え、島津側の史料からは
抹消されたのだろう。(おわり)』
ていうのがこと記事の趣旨なんだから(笑)




27:世界@名無史さん
11/07/07 10:52:20.69 0
お互いもうその辺にしとけよ

28:世界@名無史さん
11/07/07 11:33:53.58 0
>>26
はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな明に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)


本当に馬鹿だな(笑)自分の書いたこともう忘れたのかよ(笑)
慶長4年に動員された日本軍の間隙を突いて名護屋城に攻め込んで秀吉を
打ち取るんだろ(笑)
慶長3年12月に日本軍が撤退して、慶長4年の春までほんの数カ月しか
ないのに、明軍が2000隻の軍艦(笑)の用意もせず、20万(笑)の軍勢も
動員していないんだから現実的に間隙を突いて名護屋城に攻め込むなんて
ことはあり得ませんから(笑)
まさか、慶長4年に日本軍が朝鮮半島に渡ってから、軍艦をつくり出して
20万を広い大陸からかき集めて動員するなんて思ってんの(笑)
用意するだけで相当な年月がかかるのに、さらに長い時間を懸けて危険極まりない
大海を渡るなんて非現実的なこと本気でできるとでも思ってんの(笑)
ちなみに慶長の役は、9月から始まって翌年2月ごろには軍勢の半数以上が本土に帰還してる
ので、日本軍が朝鮮半島で釘付けになるなんてことも妄想でしかない(笑)

29:世界@名無史さん
11/07/07 12:03:54.85 0
14万の大軍を派遣した目的は城作りだけじゃなくて
朝鮮南部の掃討だって秀吉の出した朱印状に書いてあるじゃん。
慶長の役については秀吉の作戦通りに展開したといって良い。

30:世界@名無史さん
11/07/07 12:05:59.96 0
>>28
「もし秀吉がもっと長生きしていたら、撤兵は許されず戦いは
さらに泥沼化したはずだ。
その時こそ島津氏と明の合力が実現していたかもしれない。
合力計画は、秀吉の死とともに消え、島津側の史料からは
抹消されたのだろう。(おわり)』

ここは学問版だろ。
だったら上記以上のことを考えてもしょうがないじゃん。
日本側としても
慶長4年の再侵攻で順調に占領地を広げられず、手痛い
敗北を重ねて全軍撤退するかもしれない?
または順調に占領を重ねて、新たな占領地に多くの駐留兵を
置くことで本国の兵が手薄になるかもしれない?
(この場合秀吉周辺が手薄になり島津家に勝算がでてくる。)
明側としても
慶長4年の再侵攻を撃退して日本勢を朝鮮半島から追い出せるかも
しれない?
また、新たに占領地を広げられ、日本勢を撤退させるには他の方策
を考えなければならないかもしれない?
(この場合に島津家との合力の可能性がでてくる。)
なんともいえないなー(笑)


31:世界@名無史さん
11/07/07 14:26:27.29 O
>>30
占領地が広がれば、まず外様大名から疲弊していくだろうな。
出征中に豊臣政権が大名両国に立ち入って検地をするなど豊臣政権が強固になったことをお忘れなく。

32:世界@名無史さん
11/07/07 14:52:47.45 0
>>31
お前ってホントに秀吉が好きなんだね(笑)
秀吉のこと愛してるんだ(笑)
お前の書き込みの節々にお前の秀吉への愛が感じられるね(笑)
でもここって学問版なんだよね。
お前の秀吉に対する歪んだ愛を表現する場じゃない。
>占領地が広がれば、まず外様大名から疲弊していくだろうな。
じゃあなおさら島津家以外の外様大名も明国との合力の可能性
が出てくるね(笑)
だいたい朝鮮出兵参加の大名達はみんな自腹なんだから、秀吉への
不満は渦巻いてる。
明国が直接または島津家を通じて間接的に調略すれば合力する大名を
続々と出てくるかもな(笑)


33:世界@名無史さん
11/07/07 15:15:29.80 0
>>32
勘違いしてるみたいだが、31は携帯からでそれ以前のアンタへのレスはパソコンから。
ということはアンタにレスしてるのは複数人ということ。

34:世界@名無史さん
11/07/07 15:41:42.63 0
上の明と島津のエピソードは初耳だけど
明人は一介の商人?でさえ戦略思考ができるのに
戦国日本人は軍機の中枢にいる人間が誰一人として戦略思考が
出来なかったってことがわかる

35:世界@名無史さん
11/07/07 15:47:27.89 0
戦略思考というほどのもんかなぁ。なんかインパール作戦並に現実性から
かけ離れたもんにしか見えない。
そういえば、三路の戦いといい、碧蹄館といい戦略性よりもごり押しして
大敗パターンが多いな明軍は

36:世界@名無史さん
11/07/07 17:44:01.57 0
中国の対北方遊牧民族戦争は
どれだけ損害が出ても侵攻を食い止めれば勝利っていう戦争だから
碧蹄館は日本にとっても明にとっても勝利、つまり引き分けと言える
この辺はノモンハンの戦闘に近い

37:世界@名無史さん
11/07/07 18:32:36.04 0
>>36
当時の日本軍の戦略目標は「北上」ではなく南下する明軍の撃破なんだから
どう贔屓目にみても「明軍の勝利」あるいは「引き分け」はないわ。
対して明軍の戦略目標は南下して「日本軍の撃破」にあるんだから
どちらが戦略目標を達成したかは一目瞭然だな。

38:世界@名無史さん
11/07/07 18:45:16.95 0
>>32
ところでお前。(笑)
を使って煽っているがwを使うのやめたのか

39:世界@名無史さん
11/07/07 19:18:09.71 O
>>32
どうやら、対立者が一人に見える病のようですね。
もう少し進行すると、自分以外が敵に見える病にステージアップします。
お大事に。

秀吉の戦争目的は学問的に研究されていますので、
期間や相手を無視して明征伐が常に掲げられていたかのような信仰心や、
秀吉が実力行使のみで問題を解決しようとしていたかのような
史実に基づかない空想に浸ることが病を深める要因です。
是非冷静になられることをお薦めします。

40:世界@名無史さん
11/07/07 19:43:59.06 0
秀吉の目標ってなんだったの?
明征服?朝鮮征服?大名どもが疲弊すればおk?中央集権化?失業対策の公共事業?

41:世界@名無史さん
11/07/07 19:46:52.06 O
携帯使ってる奴が一人と断定できるのも被害妄想の為せる業?

42:世界@名無史さん
11/07/07 20:06:25.75 O
>>40秀吉は明に向かって「明を征服する」とは言ってないんだよね。
一方で朝鮮や大名を使役するときの掛け声には使っている。
時と場所を選んで使うレトリックであることは関係書籍でも解説されているはずなんだが、読んでないのか、読んでもわからなかったか。

43:世界@名無史さん
11/07/07 21:22:46.80 0
>>16
ほいほい
やっぱりでてきてたみたいだな
お前が言い出したのはハンニバル戦争とピュロス戦争だろうがw
この二人相手には内地に引き込んでの防衛戦争やってるのに
それまでの時代でローマが拡大戦争やってたから侵略側だとか
頭の悪さをみせつけてそんなに楽しいのかお前ww馬鹿の思考回路は理解できんなwww

だからお前みたいな馬鹿みたいに精神さえあれば大丈夫とかいって
指導部が必死こいて戦争継続してたナチスドイツ帝国は首都まで蹂躙されて完敗だ
大日本帝国も長引けばこうなってただけ
てか、お前の馬鹿みたいな妄想設定を使っても結局一時の有利不利云々いうなら
最終的に全面撤退の日本軍完敗、明朝鮮の完全勝利だろうがww

44:世界@名無史さん
11/07/07 21:38:42.46 0
>>42
おう、読んでないから知らないぜ、それで出兵の目的は何なんだぜ。

45:世界@名無史さん
11/07/07 22:13:42.36 0
そんなもの領土の切り取りに決まってるだろ。
大勝利すれば北京まで行くし大敗北すれば本土守備に必死になるってだけだろ。

46:世界@名無史さん
11/07/07 22:37:33.74 O
>>45
もっともだw

47:世界@名無史さん
11/07/07 23:04:28.45 0
カオスなことになってるな

48:世界@名無史さん
11/07/07 23:19:08.27 0
>>43
残念!!
>お前が言い出したのはハンニバル戦争とピュロス戦争だろうが

わかりやすい捏造だな。やっぱ日本語読めないんだな
最初ローマといってたんだが。無知なお前が勝手にハンニバルとピュロスに限定
慣用表現でピュロスの勝利は出したがな

しかもハンニバル戦を
>内陸に敵を引き込んで消耗を強いた 
「引き込んで」!!!!!ここは根本的に間違っている。
最終的に持久戦法に戦法が限定されただけ

さらに>イタリア半島統一、といっているのに
>ハンニバル戦争当時のローマはイタリアを征服して
と再び無知をさらす。日本語の読解力がないからそうなるんだよ

お前の世界ではローマがいきなり半島統一国家として現れたみたいだな。
二度説明させるのも逃走負け犬の典型だな

そして論破された奴の典型としてこれらの主張はガン無視して罵倒するだけ。
みじめなやつだな。
反論できないってことは自分の無知さは理解できたんだろ

理論がまだ理解出来てないのはわかるが。


49:世界@名無史さん
11/07/07 23:40:14.68 0
>>44
それは天正20(1592、12月に文禄と改元)年5月18日付の、太閤秀吉
から関白豊臣秀次へ宛てた25箇条の覚書(前田尊経閣文庫蔵『古蹟文
徴』所収文書)を見ることで、おおよその輪郭が浮かび上がってきます。

二十五箇条の覚書 抜粋
┌--------
一、高麗都(ソウルの事)、去二日落去候、然る間、弥急度御渡海なされ、
此度大明国迄茂残らず仰付[おおせつ]けられ、大唐の関白職御渡しなさ
るべく候事----
征服後の明国の関白に日本の関白である秀次を任命する。
URLリンク(aizax.fc2-rentalserver.com)

50:世界@名無史さん
11/07/08 06:34:33.49 0
PCで書き込むと意味が変化するなんて言う人がいんの?

51:世界@名無史さん
11/07/08 06:45:44.86 O
>>44解釈する奴は色々居たが、一つに絞るのは無理。最初から最後まで一つだけに絞る必然もない。しかし、概念で言えば目的は政権の維持と強化だろ?

52:世界@名無史さん
11/07/08 09:44:37.70 O
>>45
秀吉は面子を立ててくれるなら撤兵すると交渉で言ってるが。

53:世界@名無史さん
11/07/09 00:58:51.59 0
ウィキの立花宗茂の記事に
安東常久(立花家臣)が李如松と一騎打ちして落馬させた、とあるけどマジ?

54:世界@名無史さん
11/07/09 12:05:46.92 0
もういい加減秀吉を過大評価するのはやめようぜ。
農民上がりの俄か武士が120年にわたる戦乱を統一
したのはすごいけど、秀吉本人がその業績に見合う
能力を持っていたわけじゃない。

漢民族の形成に甚大な影響のあった漢王朝の創始者、高祖劉邦だって
農民上がりから天下人になったが、 後世の歴史家からは分不相応な出世
と受けてめられている。

秀吉なんかも、せいぜい5大老の一人として所領100万石の大名くらい
が分相応だ。





55:世界@名無史さん
11/07/09 12:09:50.31 0
( ´,_ゝ`)プッ


56:世界@名無史さん
11/07/09 12:16:27.68 0
彼が羽柴秀吉として織田家に使えていたころは、
竹中半兵衛や黒田勘兵衛などの兵法軍学をマスター
した軍師達と相談しながら作戦を立案していたが、
彼が豊臣秀吉として織田家に変わって天下統一に
万進した以降は、石田三成や長束正家などの能吏
達に作戦を効率良く実施させるようになった。

それ以前の軍師達のように秀吉と共に作戦を立案することもなく
秀吉がほとんど一人で立てた作戦を工夫して実行に移すのが彼ら
能吏の仕事だ。

57:世界@名無史さん
11/07/09 16:23:00.20 0
正当に評価してるから明に殴りこむつもりだった文禄の役は失敗、
南部の掃討を目的とした慶長の役は作戦成功
その成功をどういう具合に勝利に結びつける気だったのかは
秀吉が死んで戦争が終わったので不明。

58:世界@名無史さん
11/07/09 16:28:21.82 0
>>51
政権強化のための領土拡大じゃないの?
家臣にどんどん加増して忠誠心ゲット的な。

59:世界@名無史さん
11/07/09 17:56:13.13 0
>正当に評価してるから明に殴りこむつもりだった文禄の役は失敗、
日本の十倍以上の人口を誇る相手に対し、ろくに準備もせず戦争を
仕掛け、結果、1年程で失敗してる。とても正当に評価したとはい
えないね(笑)
>南部の掃討を目的とした慶長の役は作戦成功
>その成功をどういう具合に勝利に結びつける気だったのかは
作戦が順調にいってると思うんなら、勝利に結びつける方法もわかるだろ?!
実際には順調になんていってないから(笑)


60:世界@名無史さん
11/07/09 18:10:52.07 0
>政権強化のための領土拡大じゃないの?
もしオタクのいうとおりなら、秀吉死後4年半で江戸に幕府が開かれ
豊臣家の領土も4分の1程に減らされているんだから見事に失態した
わけだ(笑)



61:世界@名無史さん
11/07/09 19:48:53.52 0
朱印状によると、目標は南部の成敗、城の築城、
漢城より五日路も六日路もかけてやってくる明軍の迎撃
とあるから、単純に南部占領地に築城し領土化を目指した作戦じゃないぞ。
慶長の役は当初の目標を達成したといえる。そこはイデオロギー抜きで正当に評価しないと。

62:世界@名無史さん
11/07/09 20:25:03.70 0
>>60
まぁこの指摘は正しいな、秀次を殺し秀頼の成人前に秀吉自身が死んじゃったので
豊臣政権はあっさり崩壊した。
本人は秀頼が成人するまでは生きてるつもりだったんだろうな。

63:世界@名無史さん
11/07/09 21:51:18.43 0
>>61
秀吉の朱印状が大雑把な為、いろいろ自分に都合のいい
解釈をしてるんだろうけど、普通に読めば南部に侵攻し、
仕置きの城を築城しろと読めるけどな。
ちなみに『仕置き』の意味について三省堂大辞林では、
(3)戦国時代、封建領主が領民を支配すること
となっているので仕置きの城とはすなわち朝鮮人を支配
する為の城のことだ。
すでに文禄の役のころに占領し支配する為の城も作ってある
南岸での新たな築城命令なわけはないだろう。



64:世界@名無史さん
11/07/09 22:54:07.37 0
>>60
政権崩壊の原因は後継者問題であって朝鮮征伐とは関係ないな


65:世界@名無史さん
11/07/09 23:11:43.75 0
>>59
お前の主張と笑いを入れて上から目線で煽るとこは、例の負け犬っぽいな
どちらにしろ、作戦が中断したんだから勝利の可能性がなかったとは言えんな。

それから60も似た文体だが、60は64で言った通り、関係ないことを関係あるかのように語っているので
低能さがわかる。

66:世界@名無史さん
11/07/09 23:20:19.11 0
>>65
>どちらにしろ、作戦が中断したんだから勝利の可能性がなかったとは言えんな.
まあ、1%ぐらいは勝利の可能性あったんじゃないか(笑)

67:世界@名無史さん
11/07/09 23:33:56.03 0
>>66
その数字も根拠がないので笑うほどではないな。

しかし長文煽りをする人間にしてはえらくおとなしいくなったな。


68:世界@名無史さん
11/07/09 23:44:39.78 0
>>67
>しかし長文煽りをする人間にしてはえらくおとなしいくなったな。
長文煽りって?


69:世界@名無史さん
11/07/10 00:53:49.55 0
>>63
いや、秀吉は小早川隆景に宛てた書状の中で沿岸部に築かせた橋頭堡的な城郭群のことも「仕置の城」と呼んでいるわけだが
それに小西行長の「仕置の城」が全州会議の時点で順天に築かれる方針だったことはどう説明するんだ?

八月中旬の全州会議で「御仕置きの城々、おのおの惣談相定まり」、
その後全羅道・忠清道の掃討を完了してから十月下旬に泗川城が、十一月初旬には蔚山城の築城が始まってるんだから
これらの城が秀吉の書状にある「仕置の城」と見るのが自然だろう

70:世界@名無史さん
11/07/10 00:55:41.47 0
逆に「仕置の城々」が内陸に築かれる予定だったという根拠となる書状とか、資料ってあるのか?
今まで一度も出てきてないよな

71:世界@名無史さん
11/07/10 01:37:26.85 0
>>69
文禄の役でのことだろ。
新たに占領したばかりの朝鮮半島南岸に仕置きの城を作らせても
なんら不思議じゃない。
小西行長の順天城については推測だが対馬の宗義智と一緒に講和交渉を行った
関係から、慶長の役においても明国との交渉役を担当するのに便利だから
じゃね?


72:世界@名無史さん
11/07/10 01:40:41.91 0
>>70
慶長二年の立花家朱印状の第一条と第二条をつなげて読めば
内陸の新しい占領地に仕置きの城を作ることを命じているとしか
読めないが。

73:世界@名無史さん
11/07/10 02:34:58.56 0
それは「領土の割譲が目的なんだから占領地を手放すなんて不自然だ」
って思い込みだな。

74:世界@名無史さん
11/07/10 03:16:01.44 0
>>72
それだと諸大名が秀吉の指示を無視して独断で南岸部に城を築いたことになるぞ
そのことについて諸大名が秀吉に対して申し開きをした書状でも残ってるというならわかるが
あと小西の城が順天にあるとなんで交渉に便利になるんだ?意味がわからん

75:世界@名無史さん
11/07/10 03:32:37.39 0
>>74
72じゃないけど、順天は唯一全羅道に食い込む飛び地で
実質最前線になるからでしょ。

76:世界@名無史さん
11/07/10 03:45:32.10 0
>>75
いや、全羅道・忠清道を掃討した後、その内陸部に仕置の城を築く予定だったというのが>>72の主張だから
そうなったら順天って最前線どころかかなり後ろの方になるでしょ

77:世界@名無史さん
11/07/10 04:05:21.62 0
諸大名が秀吉の命令を無視して南岸部に城を築いたと考えるよりは、
「仕置の城は海辺に築け」という休戦期間中の秀吉の方針が慶長の役でも継続されていたと考えるほうが自然でしょう
休戦期間中の「仕置の城」も慶長の「仕置の城」も在番組と帰朝組を定期的に入れ替える点で共通してるわけだし

なるほど慶長二年の立花家朱印状だけ読めば、
「この仕置の城とは内陸の支配用の城のことだ」と考えたとしても不思議じゃない
しかしその他の様々な資料に目を通せば違う結論が見えてくる

78:世界@名無史さん
11/07/11 09:28:40.36 0
どう考えても諸大名が「仕置きの城の配置が決まりました!」と秀吉に
報告した1ヵ月後に南岸に赴いてるんだから「内陸部に築け」というのは
デタラメだろ

79:世界@名無史さん
11/07/11 16:45:23.88 O
>>76
他と違って小西の城は「全羅道に築け」と指定されていたから。支持通り。

80:世界@名無史さん
11/07/12 22:52:50.34 0
>>73>>77
>なるほど慶長二年の立花家朱印状だけ読めば、
>「この仕置の城とは内陸の支配用の城のことだ」と考えたとしても不思議
>じゃない
だったら素直に認めればいいじゃん。慶長の役の作戦目標は、内陸の新たな
占領地に仕置きの城を作ることだったって。
>「仕置の城は海辺に築け」という休戦期間中の秀吉の方針が慶長の役でも
>継続されていたと考えるほうが自然でしょう
「全羅道・忠清道を掃討した後、一度南岸に撤退して仕置きの城を増設しろ、
そして慶長4年からの再進攻までは城に立て籠もり、明・朝鮮軍の攻撃も
籠城して迎え撃て。」
という意味合いの秀吉の朱印状をソースとして出せばいいじゃん。






81:世界@名無史さん
11/07/12 22:55:22.19 0
>>78
>どう考えても諸大名が「仕置きの城の配置が決まりました!」と秀吉に
>報告した1ヵ月後に南岸 に赴いてるんだから「内陸部に築け」というのは
>デタラメだろ
慶長二年の立花家宛の朱印状のとおり実行するだけなら、再進攻から1ヶ月程
の八月中旬に在地諸将が集まって全州会議を開催する必要なんてないんだが。
秀吉の命令があまりにも漠然とし、なおかつ現地の実情を無視したもの
(たとえば最優先事項である全羅道民の無差別殺戮)なので、在地諸将が現地
の実情に沿った形で作戦計画の詳細を決める為の会議だったのだろう。


82:世界@名無史さん
11/07/12 22:57:26.76 0
前スレで紹介された九州大学比較社会文化研究院の中野等はその著書
「秀吉の軍令と大陸侵攻」 において、
316頁で「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」として皆殺しの対象だった全羅道民
に対しても、方針を転換し、敵対する者以外は掃討の対象から外し、それが
終わったら仕置きの城々を作る手筈となっていたが、詳細はわからないが戦況
に影響されて計画どおり仕置きの城々を作れなかった、と主張している。
また317頁ではその理由として左軍による全羅道での食糧調達がうまくいかず、
それは朝鮮王朝による清野作戦(焦土作戦)によるものではないか、と根拠
も提示せず主張しており、南岸へ撤退した理由の様に読者を誘導している。




83:世界@名無史さん
11/07/12 23:12:15.60 0
>>81
>>慶長二年の立花家宛の朱印状のとおり実行するだけなら、再進攻から1ヶ月程
の八月中旬に在地諸将が集まって全州会議を開催する必要なんてないんだが。

なんでそうなるの?秀吉は
国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
全羅道の成敗とその他忠清道などの成敗せよ

といった後に
右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割
符、丈夫ニ可申付事。
と相談して仕置きの城の配置を定めよと言ってるじゃん。全州会議なんて指示通りそのままでしょ。


84:世界@名無史さん
11/07/13 00:03:47.02 0
>>83
>全羅道の成敗とその他忠清道などの成敗せよ
ふーん、8月中旬の全州会議の時点で全羅道民の皆殺しや
忠清道他への侵攻も完了してたんだ(笑)
初めて聞いたよ。



85:世界@名無史さん
11/07/13 01:21:17.01 0
>>84
こいつ本当に頭悪いなぁ(笑)それに相当暇人だな(笑)一日中張り付いてやんの(笑)
いいか低脳ニート
全州会議の結果、諸将は秀吉に以下のことを報告している。
一、先度自全州、御使衆ニ如申上候、青国へ相動。國中過半発向仕、夫
赤國うち相残りおり、各到割付、発向仕半ニ御座候、隙明申次次第、御仕置城
御普請ニ取掛り可申候事

そしてそれが終わると、秀吉自身全羅道と忠清道での敵軍の成敗が完了して南岸に城を築くこと
に満足してるんだよ
赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出、仕置之城拵、其方居城之由、尤ニ思召候
黒田長政宛 秀吉朱印状

それと質問な。全羅道と忠清道で日本軍が南岸に撤収するまでがんばった明・朝鮮の
部隊って何(笑)お前が全羅道と忠清道の討伐が完了していないと思うんなら当然言えるよな(笑)
俺はお前みたいに暇じゃねえから20時間以降にまた見に来てやるよ(笑)

86:世界@名無史さん
11/07/13 01:33:13.58 0
>>85
お前って本当に頭悪いな(笑)
まだ気づかないんだから。
秀吉は慶長2年の立花家宛ての朱印状で
「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」
と最優先事項として全羅道民の皆殺しを命じているんだぞ。
お前の頭の中では日本軍は全羅道民を皆殺しにしてるんだな(笑)
だったら全羅道民を皆殺しにしたソースを出せや(笑)

87:世界@名無史さん
11/07/13 01:43:12.99 0
というか、百歩柚って仕置の城が本当に内陸に築かれる予定だったとしたら
色々と矛盾が出てくるんだけどな

諸大名が秀吉の「内陸に仕置の城を築け」という指令を無視して沿岸部に城を築いたのは何故か、
それについて秀吉に申し開きすらしなかったのは何故か、
それに対して秀吉が叱責を加えなかったのは何故か、
そもそも当時、破竹の勢いでさしたる抵抗も受けていない日本軍が、急遽沿岸部まで撤退したのは何故か

88:世界@名無史さん
11/07/13 18:43:25.65 0
全州会議の時点で方針を転換して占領地を維持せず掃討するだけにとどめ
内陸に作るはずの城を南岸に城を作ることでお茶を濁すことにしたとすると、
さぞ会議は紛糾したうえに秀吉は激怒しただろうな。

89:世界@名無史さん
11/07/13 21:24:00.84 O
飽きないねえ
朝鮮人が粘着してるの?

90:世界@名無史さん
11/07/13 23:18:15.40 0
>>86
まだ気付いてないのはお前だよアホ(笑)本当にアホすぎ(笑)
「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」のどこで全羅道民を皆殺しにしろと読み解けるんだ(笑)
頭に蛆でも湧いてんのか(笑)

日本軍が全羅道と忠清道で明・朝鮮軍ら反日本軍分子を蹴散らすと秀吉は輝元宛に
全羅道・忠清道を征伐し平均したから渡海せずとも良いと言っている。つまり、秀吉の標的は
間違っても全羅道民(笑)ではなく、全羅道・忠清道の明・朝鮮軍ら反日本軍分子を悉く蹴散らす
ことだったと読み解けるわな(笑)

急度被仰遣候、朝鮮先々動之儀、平均ニ申付候間、其方渡海之儀、無用候
輝元宛秀吉朱印状 慶長二年十月五日

それとさっきの黒田長政宛にも「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出」と全羅道・忠清道での成敗が
完了してることを秀吉は認めているんだよ。ここでも、秀吉の計画には86みたいなアホな全羅道民皆殺し(笑)
なんて馬鹿な発想は微塵もなかったことがわかるわな。というか書状示してやってるのに読みもせず、質問にも
一切答えられず妄想で反論してくるこのアホは一体なんだ(笑)厨房引きこもりか(笑)

91:世界@名無史さん
11/07/14 00:44:47.22 0
>>90
赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
だったらお前にはなんて読めるんだ(笑)教えてくれよ(笑)
それに黒田長政への朱印状って慶長2年12月のことだろ。
慶長2年2月立花家宛ての朱印状とは10ヶ月も違うじゃん
九州大学の中野等はその著書「秀吉の軍令と大陸侵攻」
の316頁で「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」
として皆殺しの対象だった全羅道民に対しても、方針を転換し、
敵対する者以外は掃討の対象から外したと主張している。






92:世界@名無史さん
11/07/14 07:32:51.96 O
>>91
成敗するのは当然敵だわな。常考。
味方を成敗してどうする?

93:世界@名無史さん
11/07/14 19:34:57.57 0
中野等が権威ある歴史学者なのは確かだけど
今だに「日本戦史 朝鮮役」の記述を無批判に受け入れちゃう人でもあるからなあ
学者だからといって全部鵜呑みにしない方がいいよ

94:世界@名無史さん
11/07/14 20:27:42.83 0

一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割
符、丈夫ニ可申付事。

>>91 がたびたび話題に出す↑この朱印状についてなんだが、面白いものを見つけたぞ
上の朱印状の記述について、以前このスレでは
「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。それが済んだら仕置きの城を築き、
在番の城主を決めてそれ以外は帰国せよ。」と意訳されていた

でも、共立女子大学教授の北島万次は、著作「秀吉の朝鮮侵略」の中でこう解釈してる
・・・「慶尚道南岸にある倭城の守りを固め、朝鮮の穀倉地帯である全羅道攻略に当面の狙いを絞り、
ついで忠清道、さらに京畿道へと進撃せよというものであった」
あと韓国の国防史学会長である李烱錫も、著作「壬辰戦乱史」の中でこう意訳してるんだ↓
・・・「赤国を漏れなく攻略し、青国はなるべく攻略すべし。作戦終了次第各築城区分に従い、
城主を決めて修築普請に粗漏なきように致し、引き上げ隊の帰還を容易にすべし」

何が言いたいのかというと、上の朱印状の記述は「城の新築」というよりは
すでに沿岸部に築かれていた「仕置の城」の「修築」の指示だったのではないかということ
「普請」という言葉は「建設」と「修築」両方の意味を持つからな。思わぬ落とし穴だ
慶長の役の築城が休戦期間中の築城と比べてはるかに少なかったこともこれなら辻褄が合う

95:世界@名無史さん
11/07/14 22:07:43.67 0
>>90,>>92
お前が見苦しくしがみ付いている
慶長2年12月に秀吉が黒田長政宛に出した朱印状の
「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出」
この部分の間違いを指摘しておくわ。
赤国は全羅道のことで間違いないが、青国は忠清道のことじゃないぞ。
URLリンク(www.exblog.jp)
忠清道と京畿道のことだ。

96:世界@名無史さん
11/07/14 22:57:14.02 0
>>91
お前アホすぎるだろ(笑)お前読むことすらできないのか(笑)
>だったらお前にはなんて読めるんだ(笑)教えてくれよ(笑)
もう一回言ってやるよ(笑)日本軍が全羅道と忠清道で明・朝鮮軍ら反日本軍分子を蹴散らすと
秀吉は輝元宛に全羅道・忠清道を征伐し平均したから渡海せずとも良いと言っている。
つまり、秀吉の標的は 間違っても全羅道民(笑)ではなく、全羅道・忠清道の明・朝鮮軍ら
反日本軍分子を悉く蹴散らすことだったと読み解けるわな(笑)
急度被仰遣候、朝鮮先々動之儀、平均ニ申付候間、其方渡海之儀、無用候
輝元宛秀吉朱印状 慶長二年十月五日

>慶長2年2月立花家宛ての朱印状とは10ヶ月も違うじゃん
おいおい(笑)また、読んでねえなこのアホ(笑)
黒田長政宛の手紙は、全羅道と忠清道を成敗したことを主眼に言っているのではなく
全羅道と忠清道の成敗が完了して、黒田長政が南岸の梁山城に配置されたことに関して
秀吉は満足の意を表明してるんだよ。本当にアホだな~(笑)ちなみにこの書状からも秀吉の
意に逆らって日本軍が南岸に撤退したわけでもなく、秀吉が全羅道と忠清道の成敗が完了して
いたと認識していたことも明快にわかるな~(笑)

>九州大学の中野等は~敵対する者以外は掃討の対象から外したと主張している。
恥ずかしい奴だな(笑)自分の言葉で反論できないから「九州大学の中野等が(笑)」
なんて恥ずかしいことを言う(笑)
中野等が(笑)なんて言わず、お前が秀吉の全羅道民皆殺しにしろという秀吉の書状(笑)と
作戦の失敗を伺わせる書状や秀吉の叱責なり示さなければお前のアホな妄想
「全羅道民の皆殺しの失敗により、日本軍は全軍撤退し南岸に追い詰められた(笑)」が
成り立たなくなるぞ(笑)

97:世界@名無史さん
11/07/14 23:23:31.49 0
>>95
馬鹿のくせに威勢だけはいいな(笑)
上でも指摘しておいたが、青国は忠清道
と京畿道のことなんだが、そして黒田長政
は京畿道の安城市までしか攻め込んでナイゾ(笑)
URLリンク(upload.wikimedia.org)
それで青国の成敗が完了したってなに寝ぼけたこと言ってるんだ(笑)


98:世界@名無史さん
11/07/14 23:26:07.26 0
>>95
>お前が秀吉の全羅道民皆殺しにしろという秀吉の書状(笑)
「一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付」これを訳してみろ。


99:世界@名無史さん
11/07/14 23:32:41.89 0
>>97
「青国其外之儀者、可成程可相動事」、つまり「青国はなるべく攻略すべし」なので
秀吉の指示はあくまでも「なるべく」だから必ずしも青国全域を掃討する必要はない

100:世界@名無史さん
11/07/14 23:46:13.24 0
>>99
なんか、どんどん話がすりかえられているんだが(笑)
慶長2年12月の黒田長政宛朱印状では
「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出、仕置之城拵」
と赤国(全羅道)及び青国(忠清・京畿両道)を
悉く平均(平定)したら梁山に仕置の城を作れって
言ってるんだぞ。
青国(忠清・京畿両道)を悉く平定したらだぞ。


101:世界@名無史さん
11/07/14 23:54:37.47 0
>>97
ほう、青国が忠清道と京畿道のことだとして慶長の役の発令に
京畿道にある重要拠点である当時の首都の漢城の「漢」の文字もないのはなぜだ(笑)
京畿道に青国を含むとして輝元宛や長政宛に「赤国と青国を平均した」とあるのはなぜだ(笑)
京畿道に青国を含むとして全州会議の結果、秀吉への報告に「青国へ相動、国中過半発向仕」
と報告し手をつけていないはずの京畿道を無視して「過半に攻め入っている」としたのはなぜか(笑)
京畿道に青国を含むとして秀吉の意向を無視した諸将に対して叱責しなかったのはなぜか(笑)
京畿道に青国を含むとして諸将が秀吉の意向を無視したのはなぜか(笑)
答えは簡単。青国とは「忠清道」だと秀吉たち日本軍が認識していたからに他ならない。
それを否定するのであれば、上記の矛盾点が一気に現われることになるわけだ(笑)


102:世界@名無史さん
11/07/15 00:04:19.50 0
>>100
それおかしくね?
その黒田長政宛の書状って
赤国青国ことごとく平定して梁山に城も築いたようだし満足してるよ、
っていう内容でしょ?

103:世界@名無史さん
11/07/15 00:09:38.44 0
>>101
「あった歴史よりあるべき歴史が重要」
お前の歴史認識だな(笑)
お前がどう考えようと勝手だが、秀吉にとって青国は
忠清道と京畿道のことなんだよ。

豊臣秀吉は朝鮮の地図のうち、慶尚道に白色、全羅道に赤色、
忠清道と京畿道に青色を塗り、それぞれ、白国、赤国、青国
と呼んだ(北島万次氏「秀吉の朝鮮侵略」山川出版社 2002年)。

104:世界@名無史さん
11/07/15 00:12:26.70 0
>>100
おいおいなんでそうなるんだ(笑)この書状が出されたのは、南岸に引き上げた後で城が
築かれている時期だ。「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出、仕置之城拵、
其方居城之由、尤ニ思召候」の後に続くのが「普請衆者、出来次第、可為帰朝候間、
いよいよ有付、在城肝要に候。寒天の時分、辛労共候。」とある。つまりは、城が出来次第
普請衆は帰朝することとしっかり梁山城に在城して努めるように言ってわけで、新たに
「赤国及び青国を 悉く平均したら梁山に仕置の城を作れ」なんて読めねえわな(笑)

105:世界@名無史さん
11/07/15 00:22:39.44 0
>>104
またまた話を摩り替える(笑)
おれが言いたいのは
「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出」
赤国(全羅道)及び青国(忠清・京畿両道)を
悉く平均(平定)の部分が間違っていることを
指摘したんだ。


106:世界@名無史さん
11/07/15 00:30:44.92 0
全州会議(再侵攻の初期)の時点で城を作る場所を決めて、
それに秀吉も何にも怒らなかったんだから、当初の作戦通り南岸に撤退した
で決定だろ。
文禄の役の時の平壌の小西行長隊1万を敗走させた2万の明軍、みたいなのも存在しなかったわけだし。

107:世界@名無史さん
11/07/15 00:39:16.54 0
1つには、全羅道ほかでの食糧確保が困難だったこと。
2つには、稷山の戦いで(日本軍3万対明軍4千)改めて明軍の実力を
確認したとこから、その本格的来襲を前に倭城構築が間に合わない
と考えたからだろう。(実際、蔚山城の戦いでは未完成の蔚山城が
明・朝鮮軍に攻められている)

108:世界@名無史さん
11/07/15 00:49:00.17 0
>>105
話をすり替えてるのはお前だよ(笑)上記の矛盾点には一切答えられないし
100ではどうどうと「悉く平均したら梁山に仕置の城を作れ」と文章を捏造した
にも関わらず、論破されると「本当は平均(平定)の部分が間違っていることを
指摘したんだ。」なんて恥ずかしげもなく言えるんだもんな(笑)
なんとこのアホは秀吉が間違ってて、ボクが正しいんだそうだ(笑)
それと京畿道の制圧を秀吉が計画していなかった証拠に清正宛の朱印状に
「京畿道境目鎮川まで押し詰め、発向せしめ、其れより中手一所に申し談じ、清州へ打ち入り 
 又手別け致し、古都慶州に至りて打ち入り、去る月八日に蔚山に罷り出で候由、尤もに候。」
と京畿道の境目まで攻め寄せて尚且つ慶州まで攻め入ったことに満足しているんだよ。
境目までで清正が反転し慶州に赴いたことを「尤もに候」と秀吉が言ってるということは
秀吉のいう青国に「京畿道」が含まれていなかったことがわかるわな(笑)


109:世界@名無史さん
11/07/15 00:50:53.22 0
だいたい秀吉は、慶長2年2月の朱印状において、赤国や青国他への成敗が終わった
あとで仕置の城について諸将で協議しろって命令してるんだから。
赤国への成敗の途中であり、青国他へは攻め込んでもいない8月20日に
全州会議を開いて仕置の城について協議している時点で秀吉の命令に反している
んだが(笑)
結局、秀吉の命令があまりにも現状を認識していないため、派遣諸将の反発を買って
早くも8月の時点で変更させられているわけだ。
なんといってもこの戦争は派遣諸将の自腹で行われているのだから。

110:世界@名無史さん
11/07/15 00:53:26.58 0
>>107
>>94を読んでみたらどうだ
大体、全州および井邑の会議の時点で城郭普請の割り当てが決まってるのに
なんでその後に起こった稷山の戦いが沿岸部撤退の原因になるんだ?

111:世界@名無史さん
11/07/15 00:58:56.94 0
>>109
一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割
符、丈夫ニ可申付事。

慶長2年2月の朱印状には「作戦終了次第、各築城区分に従い普請せよ」としか書いてない
赤国・青国掃討が終わってない時点で普請の割り当てを協議計画してもなんら命令違反には当たらないわけだが

112:世界@名無史さん
11/07/15 01:01:57.12 0
>>108
はいはい、あった歴史よりあるべき歴史
あった歴史よりあるべき歴史が重要だろ(笑)
朝鮮半島の色分けは慶長の役をはじめる際に
秀吉が決めたことなんだぞ。
そこで忠清道と京畿道をあわせて青国としてるんだから
当然、青国成敗とは忠清道と京畿道の成敗に決まってるジャン。
清正への朱印状なんてその後の話ジャン。
その間に作戦目標を変更したんだろ(笑)



113:世界@名無史さん
11/07/15 01:15:12.32 0
青国掃討については「なるべく」(可成程可相動事)
だってことを忘れてないかw
忠清道を掃討できた時点で秀吉は大満足とまではいかなくとも妥協したんだろ

114:世界@名無史さん
11/07/15 01:19:08.71 0
>>111
一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割
符、丈夫ニ可申付事。
この文章をどう読むと「作戦終了次第、各築城区分に従い普請せよ」と読めるんだ。
それに各築城区分に従い普請せよって、各築城区分っていつ定めたんだ。
まさかそれが全州会議だと言いたいの。
もしそうなら慶長2年2月の朱印状の中に、そのことについての命令がないと
おかしいじゃん(笑)




115:世界@名無史さん
11/07/15 01:19:23.08 0
>>112
>当然、青国成敗とは忠清道と京畿道の成敗に決まってるジャン
決まってるジャン(笑)なんてガキみたいなこと言ってないで上記の矛盾点を
明快にしたらどうなんだ(笑)
>その間に作戦目標を変更したんだろ(笑)
妄想で自説を補完するのは構わんが脳内だけにしてくれ(笑)そう思うなら書状なり
それを伺わせるものを提示してから書き込めよ(笑)

116:世界@名無史さん
11/07/15 01:25:34.63 0
>>107
じゃぁ何でその後北上するんだ?
全州会議の時点で占領地の確保というお前が主張する初期目標を放棄するなら
さっさと撤退すれば良いじゃん。わざわざそこから北上する意味がない。
他の人も言ってるが時系列間違ってるし。

117:世界@名無史さん
11/07/15 01:34:26.87 0
>>113
慶長2年2月の朱印状ではな。(正確には青国他の民衆を
赤国と同様に出来るだけ不残悉一篇ニ成敗しろとの命令だがな。)
ただ、慶長2年12月の朱印状では「赤国(全羅道)及び青国(忠清・
京畿両道)を悉く平均(平定)」と言っている。
>>115
お前はまた話を摩り替える。
慶長2年2月の朱印状での命令はすべての
諸将宛の命令だろ。
加藤清正個人への命令と内容が違っても
問題ないじゃん(笑)



118:世界@名無史さん
11/07/15 21:20:05.36 O
>>107
え?稷山で黒田軍と解生軍が遭遇戦をしたあと、日本右軍は竹山まで北進しているし、明軍は漢城まで後退している。
ま、秀吉は漢城を落としても戦争が終わらないことは知っていたし、全羅道の無力化が戦略目標だって書いてあるのに何で読めない人がいんの?

119:世界@名無史さん
11/07/16 00:24:57.51 0
>>117
俺が言ってることに全く答えないし、何回も同じようにわかりやすく
説明してやってるのに、全然考えずにレスするよなこのアホ(笑)
おそらく反論できないから同じこと繰り返して虚勢を張ってるだけなんだろけど(笑)
もう一回いってやるよ。輝元と長政宛の書状に「赤国青国を平均した」とあるということは秀吉の標的に全羅道民
が含まれておらず「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」とは全羅道の反日本軍分子の掃討にあることは明白だな(笑)
ちなみに軍目付熊谷直盛は「百姓等命を助け、屋宅無放火、彼ら望様還住被仰付候」と全羅道の民へ危害を
加えることを禁止し還住するように勧め、還住した百姓には「郡之上官侍分之有家をつけしらせよ、さなくは
搦ても来たれ」と隠れている朝鮮軍の将兵を密告するか捕らえて連れこいと言っている。ここでも日本軍が
全羅道民皆殺しなんてことを考えていなかったことと標的が反日本軍分子だったことがわかる(笑)
それでも自分の妄想を押し通したいなら、全羅道民が標的だという秀吉書状とその中止命令なり秀吉の叱責なり
がないと「全羅道民の皆殺しの失敗により、日本軍は全軍撤退し南岸に追い詰められた(笑)」が成り立たなく
なるぞ(笑)
>>加藤清正個人への命令と内容が違っても問題ないじゃん(笑)
ほう(笑)青国に京畿道を含むとして「京畿道の制圧を中止せよ」という諸将宛の命令書があるのか(笑)
見せてくれよ(笑)その論理だと自説が崩壊することすら気付かないのか(笑)
個人宛の手紙だから命令違反しても良いというのも笑える発想だけど(笑)
ちなみに秀吉は「先手動之儀、各以相談之上、多分ニ付、可随其候、ぬけかけに、一人二人として
申やふり候者曲事たるへき事」と諸将が合議して抜け駆けするようなことがないように厳命していることから
清正の反転を秀吉が「尤もに候」と満足しているところからも、秀吉が清正の行動を日本軍全体の意に反して
独自に判断したと看做していないことと京畿道の制圧する計画がなかったことがわかるよな(笑)
それと早く、制圧目標に京畿道を含むと噴出する多くの矛盾点を明快にしてくれよ(笑)
どうせ話をすり替えた関係ないレスするか、あるいは同じことを繰り返し言ってはぐらかして逃走するん
だろうけど(笑)

120:世界@名無史さん
11/07/16 00:45:11.94 0
いくら言っても無駄だろうよ
どうしてでも「朝鮮民衆の抵抗と明軍を前に日本軍は敗れ、沿岸部へと逃げ帰った!」
という物語を作りたいんでしょ
どうせこれからも話題を逸らすか、的外れなレスを続けるんだろう

121:世界@名無史さん
11/07/16 06:11:49.64 O
そうだよな、現実的に掃討地帯で実施された政策は、
上官狩り
百姓の帰農奨励
などだから。

秀吉も掃討対象は一揆ばらだって指示しているし。

122:世界@名無史さん
11/07/16 12:07:25.91 0
まあ、お前らが慶長2年2月の立花家宛て朱印状の意味が
一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
(全羅道は残らず一篇に成敗しろ、忠清道・京畿道他についてもなるべく
成敗しろ。)
大好きな秀吉がこんな無茶な命令を出すわけねえ、と現実を受け入れられない
のはわかるけど(笑)
秀吉はかつて奥州仕置きが終わった後、検地についてこういう命令を出している


123:世界@名無史さん
11/07/16 12:14:26.75 0
検地について命令された趣旨を,奉行たちは土豪や百姓たちに納得
がゆくように,よく申し聞かせるようにせよ。もし納得しない者があれば,
城主であればその城へ追い込み,奉行たちが相談のうえ,一人残らずなで
斬りにせよ。百姓以下の者たちで受け入れない場合には,一郷でも二郷
でもすべてなで斬りにせよ。

124:世界@名無史さん
11/07/16 12:17:51.26 0
日本国中60余州に厳しく申しつけ,
出羽・奥州の奥地までいいかげんにしてはならない。
たとえ,土地を耕す者がいなくなっても構わないから,秀吉の命令通り徹底
せよ。山の奥,船の行ける所まで入念に実施せよ。
もし奉行たちが手ぬきするようならば関白秀吉自ら出向いてでも命令するで
あろう。 必ずこの命令の返事をするようにせよ。
(天正18年)8月12日 (秀吉朱印)   (浅野家文書)

内政においてもこのような姿勢を見せる秀吉が文禄の役で反日義兵闘争を行
った全羅道民他に対してこのような姿勢を取るのはとうぜんだわな。



125:世界@名無史さん
11/07/16 14:05:36.89 0
ところで掃討範囲の話題に移ったということは、
城は当初から南岸に作る計画だったというのは異論がなくなったのか?

126:世界@名無史さん
11/07/16 20:35:21.93 O
アゲ馬鹿は戦線を維持できませんでした。

127:世界@名無史さん
11/07/17 00:57:41.63 0
論破されても論破されても話題を摩り替えては食い下がる馬鹿ですからw

128:世界@名無史さん
11/07/17 01:09:45.53 0
大体、秀吉が派手に打ち上げた命令が、三成他の説得で有名無実化したこと
など過去にも何度かあった。
天正18年の天下統一後に太閤検地を始める際の「納得しない者は撫で斬り」
なども有名無実化している。その為、秀吉の命令どおり、納得しない農民を
一郷でも二郷でもすべて撫で斬りにした上杉景勝などは三成から非難されている。
また、文禄の役後の和平交渉においても秀吉からの派手な要求(明の皇女を
天皇に嫁がせる事や、朝鮮南部の割譲などを)行長などが秀吉の了承を得ない
まま変更して明国と交渉したことになっているが、


129:世界@名無史さん
11/07/17 01:13:15.81 0
それだと交渉決裂後も行長が罰せられていないのはおかしい。(ちなみに行長
のカウンターパートナーである沈惟敬は斬首刑になっている。)
また、行長らの和平交渉の欺瞞を秀吉に訴えた清正は閉門蟄居にあっている。
結局、太閤検地における「納得しない者は撫で斬り」にしても明国との和平交渉
における明の皇女を天皇に嫁がせる事や、朝鮮南部の割譲なども三成・行長らの
説得に秀吉が応じて有名無実化したんだろう。


130:世界@名無史さん
11/07/17 01:15:25.97 0
これについて、東京大学史料編纂所助手(当時)の山室恭子は「黄金太閤-夢
を演じた天下人-」の中で明使を迎えての和平成立直前に起こった『伏見大
地震』による震災で方広寺の大仏開眼供養会が中止せざる負えなくなったこと
が、秀吉の権威を大いに傷つけ、結果、講和交渉を受け入れられなくなった
(傷ついた権威を回復しないまま征明事業の失敗を受け入れられない。)と
主張している。
同じように慶長2年2月の朱印状で命じた「全羅道は残らず一篇に成敗しろ」も
三成・行長らの説得で有名無実化したんだろう。

131:世界@名無史さん
11/07/17 07:11:57.16 O
プロパガンダだけ見て満足しても踊らされるだけさ。
実際に取られた政策やその修正から目的と手段を検討しなくてはね。

それとは別にプロパガンダの対象や時期そして効果については考察されて然るべき。

132:世界@名無史さん
11/07/17 10:45:41.25 O
もし仮に「不残悉一篇ニ成敗申付」が殲滅戦の指示命令であるならば、秀吉は常識の範囲(ルール)で戦う国内戦と違って対外戦争に適応した優れたリーダーと評価してくれるのかな?かな?かな?

133:世界@名無史さん
11/07/17 11:03:12.71 0
>>129
>行長などが秀吉の了承を得ない まま変更して明国と交渉したことになっているが、
>それだと交渉決裂後も行長が罰せられていないのはおかしい。

いや、行長は欺瞞外交が発覚したとき秀吉の逆鱗に触れて殺されかけてるぞ
行長本人が「この交渉は奉行衆も承知のうえでのこと」と必死に弁明し、
また西笑承兌や淀殿の取り成しもあってかろうじて死罪を免れてる

>また、行長らの和平交渉の欺瞞を秀吉に訴えた清正は閉門蟄居にあっている。

これも違う。清正が行長らの欺瞞外交を秀吉に訴えたことはない。
清正は独自の交渉ルートをもって秀吉の掲げる講和条件を明・朝鮮側に伝えようとしたが、
これを邪魔に思った三成・行長らが「清正が講和交渉を妨害している」と秀吉に讒言し、
清正を蟄居処分に追い込んだというのが本当のところ

>明国との和平交渉 における明の皇女を天皇に嫁がせる事や、
>朝鮮南部の割譲なども三成・行長らの 説得に秀吉が応じて有名無実化したんだろう。

それはない。大阪城で明使節を饗応した際、笑承兌に明皇帝の誥書を読み上げさせているが
その誥書の中で秀吉が提示した講和条件については一切触れられていなかったことで秀吉は激怒し、
再派兵を命じてるんだから

134:世界@名無史さん
11/07/17 11:38:24.32 0
>>132
なんでそんなに秀吉を過大評価したいんだ(笑)
お前の先祖かなにかか?!(笑)
仮にもなにも「赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相
動事。(全羅道は残らず一篇に成敗しろ、忠清道・京畿道他についてもなる
べく同じようにしろ。)これに他の訳し方があるなら教えてくれよ(笑)
だいたい慶長2年8月以降、日本軍の全羅道他での行為を理由に半年遡った
同年2月の朱印状の意味を勝手に解釈するなんてめちゃくちゃなんだが(笑)
そんなことだから「あった歴史よりあるべき歴史が重要」な妄想史観に陥るんだ。

135:世界@名無史さん
11/07/17 11:48:21.73 0
>>133
秀吉の又従弟である加藤清正に対する讒言と絡めると死罪を免れたって、
領土没収なり、閉門蟄居なりになってもいいのにな(笑)
そして行長から没収した領土を清正が貰えば晴れて肥後一国の大名に
なれるのに。


136:世界@名無史さん
11/07/17 14:11:51.42 0
イデオロギーや善悪抜きで客観的に評価すると、
慶長の役は作戦目標を達成したことになる。
前スレからの議論を見ると、そう評価するしかない。

137:世界@名無史さん
11/07/17 15:41:30.08 0
>>12
20万の兵と2000の戦艦を九州南部から上陸させるなんて万暦の三征が無くても不可能、
楊応龍の乱の鎮圧には20万以上の兵を動員してるけど、そりゃ豊かな土地で起こった反乱だから。
陸路とは言え朝鮮の役じゃ明側も枯れた朝鮮の地じゃ兵站の維持が困難だから
10万の兵隊を駐屯させるのが精一杯になる。
それを1000キロ超の海路を20万の軍隊を動員し他国に攻め入るなんて無茶苦茶。
征服相手がインカやアステカならともかく。
しかも秀吉に明征服が容易であると勘違いさせた弱い弱い華南や中原の弱兵を率いて、
倭国に乗り込むってのも自殺行為。
曲りなりにも、文禄、慶長の役で朝鮮に来てた明軍は明国の精鋭中の精鋭。

あと、兵隊に献上する土地や女の問題もあるし(島津が薩摩大隅を明軍に献上するのかw)
>>12は歴史のIFにすらならない妄想。


138:世界@名無史さん
11/07/17 16:11:03.70 0
>>135
慶長の役で秀吉が小西行長に再び先鋒を命じたことには
立功贖罪(功を立てて罪を償うこと)の意味合いもあるよ
あと小西を所領没収なり蟄居処分にするなら
三成ら奉行衆も同様に処罰しなくちゃならなくなる

139:世界@名無史さん
11/07/17 16:36:22.35 0
>>137
豊かな九州南部なら、20万の軍なら維持可能だろ。
上陸後、日本勢に勝利するのは難しいだろうが。



140:世界@名無史さん
11/07/17 20:26:33.44 0
>>138
秀吉の名を騙り、勝手に欺瞞外交を行った行長に対しても叱責することしか
できない慶長年間の秀吉なんて恐れる必要ないね(笑)
慶長の役に際しても、「全羅道は残らず一篇に成敗しろ、忠清道・京畿道他
についてもなるべく同じようにしろ。」の命令なんか適当に流しても問題
ないや(笑)

141:世界@名無史さん
11/07/17 22:22:46.90 0
こいつはもう駄目だな。

142:世界@名無史さん
11/07/18 02:51:40.32 0
>>140
何が言いたいのかよく分からんが
そうやって物事をなんでも斜めに構えて見ようとするのはやめた方がいいぞ

143:世界@名無史さん
11/07/18 08:16:11.76 0
>>140
おまえまだいたのか
例の負け犬だろ

144:世界@名無史さん
11/07/18 13:09:14.49 0
全羅道は残らず成敗して忠清道と京畿道もなるべく成敗して輝元に作戦は終わったから
もう渡海しなくて良いよって書状を出してるのだから、掃討作戦は完遂されたんだろう。
全州会議の時点で城は南岸に作るって決めたのだから最初から南岸に作る予定だったのは明らかだし
掃討範囲も作戦通りに掃討された、慶長2年8月と9月の反日勢力掃討作戦は成功したといえる。
朝鮮には明の小部隊しか居なかったのだから当然といえば当然か。

慶長の役は朝鮮民衆の抵抗と明軍の来援で戦線が硬直した文禄の役の焼き直し
って従来の説明は間違ってたわけか。

145:世界@名無史さん
11/07/18 16:10:43.90 0
>>144
従来の説を広めた奴らってのが恐ろしい
昔言われてた主張を資料も無く妄想のみで強硬に嘘だと主張して
それを広く公共に認めさせて、嘘で塗り固めた持論を普及させるなんて
超一級の詐欺師だと思う


146:世界@名無史さん
11/07/18 18:28:51.59 0
文禄の役は李瞬臣も活躍してたよな

147:世界@名無史さん
11/07/18 18:33:24.69 0
>>146
字を間違えたw
李舜臣だったな

148:世界@名無史さん
11/07/19 01:43:19.47 0
昔は慶長の役は朝鮮南西部の掃討作戦だよ、掃討が完了したので南岸に作った拠点に撤退したよ
って説明されてたの?

149:世界@名無史さん
11/07/19 07:13:52.93 O
>>148
実はその点については江戸時代の征伐史観の方が正鵠をえていたという皮肉。

しかし一方的だから色々他に問題を抱えた史観であることは否定しない。

150:世界@名無史さん
11/07/19 07:16:56.03 O
>>146
「も」とは活躍した誰を想定してんの?

151:世界@名無史さん
11/07/19 11:12:16.88 0
山鹿素行の「武家事紀」には
「大明の加勢が百万も出てきたが、本朝(日本)の小勢に敗れて勝つことができなかった。
これは本朝の勇武の道が三国に比べようがないからである。秀吉の死去によって、その功は完全とはならなかったが、
本朝の武威が異国に輝いたのは、神功皇后以来、秀吉の世が初めてのことである」
とある。

山鹿素行は朝鮮役を日本の武威を異国に轟かせた戦役として肯定していたようだ

152:世界@名無史さん
11/07/19 12:21:45.27 0
山鹿素行はネトウヨの元祖

153:世界@名無史さん
11/07/19 16:55:57.98 0
赤穂浪士の赤穂藩の師範だったっけ


154:世界@名無史さん
11/07/19 17:05:24.61 0
>>150
李如松

155:世界@名無史さん
11/07/19 18:34:28.13 O
>>151征伐史観の形成であるな。

156:世界@名無史さん
11/07/19 20:00:35.15 0
間違いじゃないんだろうが確かに一方的だw

157:世界@名無史さん
11/07/19 20:44:32.33 0
元冦の頃も逆に侵攻を計画してたんだよね

158:世界@名無史さん
11/07/20 03:46:26.60 0
朝鮮側の報復行為がまったくないな。

159:世界@名無史さん
11/07/20 20:53:41.11 0
小国の知恵
いまぎゃあぎゃあ言うのもある意味小国の知恵だった

愛国心は最初は必要だったが今は国益を損ないかねないほど高揚しちゃった


160:世界@名無史さん
11/07/21 23:23:17.94 0
北京の明政府にしてみれば迷惑な侍どもが帰ってくれてやれやれというところで
戦火を拡大したいとは思わないだろ。

161:世界@名無史さん
11/07/23 14:58:42.13 0
大本営発表だから明本国だと微妙かもしれん

162:世界@名無史さん
11/07/25 12:31:22.25 0
しかしウィキの碧蹄館の戦いのページ、
明軍の編成は右軍が張世爵だとか左軍が李如梅だとか、
援軍の楊元の兵力が5000人だとか、一体どの資料に載ってるんだ?

「日本戦史・朝鮮役」にも「近世日本国民史」にも「壬辰戦乱史」にも
そんなことは書いてなかったが

163:世界@名無史さん
11/07/26 15:20:30.72 0
明らかに間違いなら修正しちゃえー

164:世界@名無史さん
11/07/27 13:03:23.88 0
[要出典]でおk

165:世界@名無史さん
11/07/27 13:44:16.62 0
>>162
あぁ、あれは中文の数字をそのまま引き写したものだよ。
たぶんあっちのユーザの仕業。

中文のままだとさすがに酷いので(合計で1万2千にしかならない)、
日本側史料で確認が取れる先鋒だけをとりあえず書き換えた形に
なってる。

166:世界@名無史さん
11/07/28 00:25:27.78 0
明軍の先鋒が10000人というのは「日本戦史・朝鮮役」が根拠だろうな。
で、その「朝鮮役」はというと「天野源右衛門覚書」の記述を元にしていると思われる
同書では十時伝右衛門が遭遇した明軍を「二、三千」、その後押し寄せてきた増援を「六、七千」としている
これが本当なら合計一万人くらいになるね

先鋒将として査大受・高彦伯のほかに李寧の名が出てくるのは「宣祖実録」の記述が元だろうな
・・・(前進して望客峴に襲撃して勝たず。すでにして先鋒参将李寧らの軍来たりてこれを助く)

しかし中国語版ウィキの明軍編成の記述についてはほんと出典がわからないな。
この戦いで明軍が先鋒・左軍・右軍・中軍の四隊に分かれて進撃したなんて記録見たことないし、
各武将が率いた兵力が具体的にわかる記録も見たことない

167:世界@名無史さん
11/07/28 00:27:53.79 0
普通にどこぞの誰かの書いた
歴史小説が元じゃねーの?


168:世界@名無史さん
11/07/28 01:35:25.26 0
ま、wikipediaでそういうことを言いだしても切りがないしな。

英語版なんかは、9000の明軍が40000の日本軍相手にもう無双状態(笑)で
日本側は6000-8000の死傷者を出したことになってるし。

169:世界@名無史さん
11/07/28 01:36:27.86 0
明軍サイヤ人かよww

170:世界@名無史さん
11/07/28 15:17:05.69 0
泗川の戦いの真逆の数字か?

171:168
11/07/28 16:45:11.09 0
バトルボックスの話なので、本文の方は案外まともなんだけどね。
中文、英文をみると中国では日本側の30000-40000に対し
明側の兵力は12000で善戦したけど、かなり寡兵なので
破れたという認識みたい。
しかし、戦術的には負けたけど、あくまで戦略的には明側勝利と
しているのがなんだかイミフメという感じ。

それでも、韓国絡みの記事のデタラメぶりからすれば、中国関連のは
だいぶマシなような気がする。
その辺、歴史的に奥行きと誇るべきものがちんとある国と何にもない国とでは、
中韓の間でもこういった差が現れて来るんだろうな。

172:世界@名無史さん
11/07/28 16:46:55.17 0
おと。
× ちんとある国
○ ちゃんとある国

173:世界@名無史さん
11/07/28 22:19:48.12 0
>>170
韓国か台湾か忘れたが
日本側の資料が紹介されてる数すくない事例となってる
曰く
「島津側はこの戦いで8万の明兵を打ち取ったと主張し、相変わらず荒唐無稽な日本人~」
って感じで紹介してる。
日本の2~3万打ち取った書かれた資料にはスルー


174:世界@名無史さん
11/08/01 10:08:46.58 0
文禄2年1月に参戦した明軍4万3千人の内訳は
中軍(李如松率いる) 11,700人
左軍         11,500人
右軍         11,500人 
遊軍(?)       8,300人
参考文献
中野等著作の『文禄・慶長の役 (戦争の日本史16)』

175:世界@名無史さん
11/08/01 18:01:49.67 O
>>166
兵数は知らんが、編成は多分明軍の従来の基本編成が元じゃないかな。
あの国の軍隊の基本編成は正史に出てないから厄介なんだよなぁ。
多分なんかの兵書に載ってるんだろうと思う。
漢代の兵士の基本編成の場合は孫子の魏武注を見れば、実際の編成に合わせて解説してたりしてよくわかるんだが……。

176:世界@名無史さん
11/08/04 21:44:39.22 0
朝鮮征伐

177:世界@名無史さん
11/08/04 22:07:21.89 0
仮道征明

178:世界@名無史さん
11/08/05 06:37:54.23 0
>戦術的には負けたけど、あくまで戦略的には明側勝利

世界の誰が見てもこれは正しいなw

179:世界@名無史さん
11/08/05 11:58:07.57 0
国土の保持に成功したという意味なら、明の勝利だろう。
しかし宗主国たる明が狙っていたのはそこではないだろ。
なら勝利していない。


180:世界@名無史さん
11/08/05 14:27:39.22 0
>>178
馬鹿じゃないの?碧蹄館当時の明軍の戦略目標は「漢城奪回」じゃんw
その漢城の手前で包囲攻撃を受けて敗走したんだから
戦術的にも戦略的にも明軍の大敗だろw

181:世界@名無史さん
11/08/05 22:37:03.58 O
面倒臭えな、お前ら

明が秀吉を暗殺したんだよ
だから明が戦略的に勝利した
客観的な裏付けも、記述された史料もないけど
この解釈なら三方一両損でメデタシじゃん

182:世界@名無史さん
11/08/06 11:24:36.69 0
頭悪そうだな。

183:世界@名無史さん
11/08/06 15:25:16.65 0
>>181
沈惟敬が秀吉を毒殺したっていうあの与太話かw


184:世界@名無史さん
11/08/12 14:04:37.57 0
征明大将軍前関白 豊臣 秀吉

185:世界@名無史さん
11/08/18 17:01:29.54 0
全羅道の『輿瑞』の位置が知りたいんですけど
どなたか教えてください。

186:世界@名無史さん
11/08/18 19:36:59.36 I
>>180
いやその上に秀吉軍の撃退があるから。

187:世界@名無史さん
11/08/18 20:31:02.76 0
>>186
お前面白いこと言うじゃないか
それじゃ出兵目的である征明を果たせなかった日本軍は
あらゆる戦闘で戦略的敗北を喫したということだな?w

188:世界@名無史さん
11/08/18 20:34:27.41 0
大体、日本軍の撤退は碧蹄館の戦いじゃなくて講和交渉の結果だしな
そもそも休戦期間中も半島南部に倭城を構築して数万人が居座ってるんだから
結局「撃退」すらできてねえしw

189:世界@名無史さん
11/08/18 21:16:46.38 I
>>187
この戦いで日本側に兵糧を使わせたことによって継戦能力を喪失させ「征明」を頓挫させたんだから戦略上は明の勝利だろ。


190:世界@名無史さん
11/08/18 21:58:32.96 0
>>189
いや、だからさ。碧蹄館の戦いの戦略目標はあくまでも武力による漢城奪回でしょ?
それを明軍が果たせなかったと指摘すると、至上目標は日本軍の撃退だとかお前が言い出した。
だから、「日本軍の撃退」という明側の至上目標を持ち出すなら、
「征明」という日本軍の至上目標も持ち出さなくちゃいけなくなるよ?と言ったわけだが。理解できるか?

大体お前の理屈だと、幸山城の戦いという戦闘は日本軍が城を落とせずに撃退されているのに、
戦後になって朝鮮軍が幸州山城を放棄したから日本軍の戦略的勝利だ、というおかしなことになるんだが

あと、碧蹄館の戦いの時点では漢城にまだ二ヶ月分の兵糧が残ってる
碧蹄館戦後の「龍山の焼き討ち」は明側の文献にしか見当たらず、
当時の朝鮮や日本の資料には該当する記録が全くないことから明の作り話だともいわれている

191:世界@名無史さん
11/08/18 22:36:38.59 I
>>190
漢城の武力制圧ってのは秀吉軍を撃退するっていう最終目標を達成するための途上目標でしかない。途上目標に失敗しても最終目標に近づけたならそれは戦略上では勝利だ。

192:世界@名無史さん
11/08/18 22:57:33.33 0
>>191
平壌城の戦いならその理屈も通るが、碧蹄館の戦いだと無理があるだろ
明軍は大敗してビビってしまい以後二度と戦わず、主戦論であった李如松さえ講和を唱えるようになっちゃったし
日本軍が講和に応じたのは朝鮮の統治に失敗して戦略が破綻してたからだしなあ

193:世界@名無史さん
11/08/23 06:55:09.61 0
>>185
君もついに津野論文を読んだのか?

194:世界@名無史さん
11/08/24 04:26:34.39 0
秀吉の朝鮮出兵って欧米でも知られてる出来事なのかな
高校時代留学生で好きなサムライは
ノブナガ、イエヤス、ムサシっていうアメリカ人がいた

195:世界@名無史さん
11/08/24 10:10:26.65 0
>>194
手元にあるハモンドの歴史地図帳(CONCISE ATLAS OF WORLD HISTRY 5th EDITION)では
明代の中国の地図で後期倭寇の一環みたいな図示になってる(笑)。

196:世界@名無史さん
11/08/24 13:56:21.72 0
イングランドですら、数万の軍隊でフランスに侵攻できてるのに、
日本ときたら、二十万も送り込んで勝てないとは。
情けない。


197:世界@名無史さん
11/08/24 14:28:40.70 0
イングランドなんて最後までフランス全域を制圧することができずに
フランス一国に撃退されてるじゃんw
世界屈指の超大国・明およびその属国の連合軍と戦い続けた日本とは比較にならん

198:世界@名無史さん
11/08/24 19:49:44.16 0
ばあちゃんの予言分析スレ37
スレリンク(occult板:685番)

フジテレビがデモのせいで倒産の危機かも


この予言をずばり的中させた

199:世界@名無史さん
11/08/25 10:16:14.60 0
>>194
今やあっちで英雄といえばイスンシン提督一色です。

200:世界@名無史さん
11/08/25 12:01:16.63 0
プッ

201:世界@名無史さん
11/08/28 15:20:39.02 0
明弱体化に伴う外敵侵入のひとつとして位置付けられるであろう。
安定中国を造り上げた明だが最後の百年は攻められまくる。
東夷倭寇を退けた後に来る女真の愛新覚蘿に、
ついに攻め滅ぼされる。
そして台湾へ最初の移住。そこで日本生まれの海の民
日中ハーフの鄭成功によって漢民族国家明国の意志は引き継がれる。

数百年のち、鄭成功の意志は「幇」として引き継がれ
中国の伝統的な義侠となる。
そこから孫文・蒋介石等の傑物を排出し現在の中国が出来る。

202: [―{}@{}@{}-] 世界@名無史さん
11/09/08 16:38:24.18 P
秀吉の朝鮮征伐が成功して江戸期以降は半島が完全に日本領になっていれば世界ははるかに平和だった

203:世界@名無史さん
11/09/10 05:22:33.69 0
このageまくる人って昔からいるのかしら

204:世界@名無史さん
11/09/10 10:46:02.68 0
wikiに釜山浦の戦いと黄石山城の戦いのページが加筆されたな
個人的には平壌城の戦い(祖承訓が攻めた第一次と李如松が攻めた第二次)のページも読みたいところ

205:世界@名無史さん
11/09/11 10:32:47.41 0
朝鮮征伐なんてしょぼい呼び方をするな。太閤殿下の世界征服大戦争だろうが

206:世界@名無史さん
11/09/12 10:40:13.96 0
>>205
>朝鮮征伐なんてしょぼい呼び方をするな。太閤殿下の世界征服大戦争だろうが
朝鮮征伐という名称なら実際朝鮮国の国土が焦土と化したんだから成功と言え
なくもないが、世界征服大戦争なら朝鮮半島より内陸へ攻め込めなかったんだし、
また、海外領土を放棄して撤退しているんだから明らかに失敗となっちゃうんだが(笑)


207:世界@名無史さん
11/09/12 11:21:06.49 0
まあ日本と明とインドの三国で世界、というのが当時の日本人の認識だったようだから
秀吉の夢は世界征服だったと言えなくもないのかな


208:世界@名無史さん
11/09/12 11:30:43.01 0
アレキサンダーみたいだな

209:世界@名無史さん
11/09/12 11:45:48.97 0
サン=フェリペ号事件ってのがあってな…

210:世界@名無史さん
11/09/12 12:10:10.86 0
>>206
満州へ攻め込んだ清正くんを忘れないで!

211:世界@名無史さん
11/09/12 20:39:00.09 0
弱い弱い朝鮮兵を圧倒したのは当たり前だけど
当時、世界の何処に出しても決して劣らない
中国明朝のエースを相手に五分以上に戦えたのは見事
慶長の役なんて、中国各地の名将が朝鮮に呼ばれてる

秀吉の海外遠征がなければ
お馬鹿な朝鮮人がまた勘違いしてただろ

212:世界@名無史さん
11/09/12 20:42:06.34 0
確かに朝鮮役がなかったら
「戦国武将なんて所詮は島国で内戦してただけの雑魚!」とか言われてそう

213:世界@名無史さん
11/09/13 16:34:41.45 0
>>211
>中国明朝のエースを相手に五分以上に戦えたのは見事
明朝のエースって?
具体的にどの様な戦績があったんだ。

214:世界@名無史さん
11/09/13 20:37:46.55 0
まあ、永らく天下太平だった文治の国に、百年以上も身内同士で殺し合ってきたバルバロイが攻めてきたんだ。
当然の結果だろう

215:世界@名無史さん
11/09/13 23:09:01.95 0
>>213
朝鮮役に出張ってきた中じゃ
万暦帝の信任厚い李如松に「劉大刀」こと劉綎、あと麻貴あたりかな
明代に「東李西麻」と武勇を讃えられた李氏と麻氏、何気に両方とも日本軍と戦ってるのな

216:世界@名無史さん
11/09/14 00:22:17.00 0
>>215
劉綎はまだしも、李如松も麻貴も大した戦績を残してないがな。
むしろ日本側こそ立花宗茂、島津義弘、小早川隆景、
鍋島直茂、黒田如水、石田三成など錚錚たる面子が動員されてる。


217:世界@名無史さん
11/09/14 00:40:16.48 0
>>216
李如松は寧夏の乱を平定してるじゃん
というか李如松と麻貴の二人は、どっちかというと本人の戦歴よりも
精強で知られた子飼いの軍閥を引き連れて来てることが大きいんじゃないか
鉄嶺李氏と回族の麻氏の私兵軍団は間違いなく明代屈指の精鋭なんだし

あと鍋島直茂とか石田三成って錚錚たる面子と言えるのか?
鍋島の兵は弱いと評判だし三成なんて武功皆無の戦下手じゃん

218:世界@名無史さん
11/09/14 06:54:07.21 0
お願いがあります。
高句麗はツングースと考えられていますが、
ウィキペディアでツングースではないと独自研究している人物がおり、編集合戦になってます。
ウィキペディアの議論に参加してください。誰でも参加できます。

ノート:高句麗
URLリンク(ja.wikipedia.org)


219:世界@名無史さん
11/09/14 15:03:07.09 0
関係ない話すんな

220:世界@名無史さん
11/09/14 15:37:10.71 0
>>213
エース つまり中国人もワンピ読んでてry…

221:世界@名無史さん
11/09/15 03:07:15.68 0
>>218
独自研究はウィキペディアでは却下だから消せばいいんじゃないの?

222:世界@名無史さん
11/09/19 02:49:16.32 0
文禄慶長に出た連中って
李如松、ボハイの乱、文禄の役に参加
李如柏、文禄慶長の役、サルフの戦いに参加
麻貴、ボハイの乱、慶長の役に参加
劉綎、文禄慶長の役、楊応龍の乱、サルフの戦いに参加
陳璘、慶長の役、楊応龍の乱に参加
劉綎は鄧子龍とともにビルマと戦争もしてる。
万暦の三征、サルフの戦いと大抵の大戦には顔を出してるから
トップクラスの連中に変わりは無いと思われ

>>216
毛利、宇喜多、島津と大藩だけど
秀吉直属が渡鮮しないのは仕方ないとしても徳川、前田、佐竹、最上、真田は不参加
伊達、上杉も寡兵で渡鮮、築城していただけだし
豪勢なメンツだったのは事実だけど、オール西日本だっただけでもあるしね
野戦最強の徳川が7万騎を率いて渡鮮でもして右軍、左軍、徳川軍って感じで
朝鮮で暴れてれば日本はガチだと思うけど


223:世界@名無史さん
11/09/19 16:05:41.62 0
高句麗=ツングース自体が仮説だろ
少なくとも漢民族でも朝鮮民族でもなく、いわゆる騎馬民族でもないこと以外はわからん

224:世界@名無史さん
11/09/19 19:23:26.78 0
信長は親明派だった。
秀吉は明に抗った。
きっかけは明皇帝による「日本国王」勅諭。
これを受ければ明冊封つまり明皇帝配下の一国、
蹴れば戦争。
これはまるでハルノートではないか。かわいそうな秀吉。

225:韓国は事実を認めよ
11/09/20 18:14:27.74 O
★英国学者、キムチの起源は日本の九州
 英国人の東洋史学者ホールデン教授(日本・中国の歴史専攻)の研究の結果、
キムチのルーツは日本だと分かった。 ホールデン教授(英国人学者)の研究によると、
キムチに不可欠の唐辛子は、15世紀 にポルトガルから南蛮貿易で日本の長崎にもたらされた。
その後、九州で栽培に成功し薬剤として普及していく。
唐辛子を白菜と漬け込んだ食品が(元祖キムチ)が、九州の漁師達の保存食として用いられるようになった。
漁師や漁民たちの持病である脚気の防止に大変効能があったためだ。
16世紀後期になり、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本水軍の九州兵が、保存食・滋養食として携行した。
この戦争において、日本水軍兵の食する元祖キムチが朝鮮兵と朝鮮民衆に伝わり、
その保存性・滋養が注目され、戦闘食として朝鮮軍にも食されるようになった。
「こうしてキムチは、日本から朝鮮に伝わった」と、ホールデン教授(英国人東洋学者)は語る。
この英国人学者は、この研究結果を近く、ロンドンの出版社より図書として刊行する予定。

226:世界@名無史さん
11/09/20 18:29:58.67 0
>>217
鍋島が弱いって
それ江戸時代佐賀藩と中悪かった福岡藩の捏造だから

227:世界@名無史さん
11/09/20 18:34:44.47 0
php

228:世界@名無史さん
11/09/21 00:10:06.91 0
>>226
そうだったのか
確かにあの逸話は黒田アゲしすぎだとは思った
まあ直茂は生涯に城を落とすこと二十度、討ち取った大将首数知れずというから
相当な猛者で間違いないだろうね

229:世界@名無史さん
11/09/21 03:00:22.87 0
・『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』白川静、小山鉄郎

漢字の成り立ちの話。

興味のとっかかりとなった「取」と「最」がどんな成り立ちなのかだけ、ごく簡単に紹介します。
「取」という漢字の左側は「耳」、右側の「又」は「手」を意味するそうです。そして「取」という漢字は、
「左耳を切り取っている図」なのです。かつて戦争のときに敵を討ち取った証拠に左耳を切り取った
ことに由来しているそうです。
そして、だれが最も多く敵を討ち取ったか数えるために、「殺して切り取った敵の左耳をたくさん袋に
入れた図」が「最」だそうです。
URLリンク(hanamote.com)

 初級クラスで教える漢字だが字源がなかなか怖いものをもう一つだけご紹介しよう。それは「取」である。
右側の「又」は「何かを取ろうとして伸ばした手」で、その先に何があるかというと「耳」だ。古代中国の戦争で、
敵を殺した証拠に、死体の耳に手を伸ばして、それを切り「取」ったのだ。敵の大将なら首実検というのが
あるから「首級」を持って行かねばならないが、単なる兵士なら「質より量」、多くの耳を集めて指揮官の陣営
に持って行く。それは言うまでもなくご褒美を頂戴するためである。集めた耳の数が多ければ恩賞も増えた。

 とは言え、それは中国だけの話ではない。思い出すのは、京都市東山区の豊国廟の前にある「耳塚」である。
秀吉の、二度にわたる常軌を逸した朝鮮侵略戦争、いわゆる文禄(1592-93)慶長の役(1597-98)で、敵の
死体から切り取った夥しい数の耳(一部は鼻)が塩漬けにして秀吉の検分に供されたとされる。その後で、
流石に寝覚めが悪いと思ったか、埋めて供養したのが「耳塚」だ。字源も怖いが、それよりも身近に史実がある
のはさらに怖い。
URLリンク(blog.goo.ne.jp)

230:世界@名無史さん
11/09/21 03:00:40.56 0
馘首・馘耳

首切り・耳そぎのルーツはやはり中国です。
したがって、豊臣秀吉の朝鮮征伐時の耳そぎは、
日本固有の文化ではありません。
また、特に日本が残虐なことをしたわけではありません。

戦争で敵を殺した証明としては、本当は首がいいのですが、
状況により首を持ってかえることができない場合、
褒賞にあずかる証拠として耳をそいで持ってかえりました。
その耳も、日本人は粗末にせず、耳塚を作りきちんと弔っています。
URLリンク(messages.yahoo.co.jp)

 *嫌いな文字:≪民≫・≪数≫・≪取≫ これらの三文字には男の奴隷や女奴隷の悲惨さと戦果による
人の心の残酷さがこめられています。古代中国では戦争で勝利した国が敗戦国から多くの男奴隷や
女奴隷を戦利品の一部として引き連れて帰り、過酷な労働に使役したと伝えられています。荒縄で頑固に
縛り付けられ、数珠繋ぎにされている女奴隷の中から、戦功者がその褒賞として与えられる人員により、
好みの女奴隷を鞭で叩きながら選んでゆく形から生じた≪数≫という文字は、もと≪數≫と書き、この文字
の左側にある字形は”数珠繋ぎになっている女奴隷”の形を示し、右側は”手にした鞭”の形から成り立って
います。また、左の耳を引っ張って刃物で耳を切り取ることを意味する≪馘耳・かくじ≫は、”獲耳”ともいい、
敵陣で戦死した敵兵の左耳を刃物で切り取り、その数が多いほど戦功の証になったといわれています。
勿論、敵将の場合には≪馘首・かくしゅ≫といい、”首を切り取って”帰国することが唯一の戦功とされたの
は申すまでもありません。
URLリンク(blogs.dion.ne.jp)

231:世界@名無史さん
11/09/22 00:03:09.49 0
>>228
つか鍋島軍なんて短時間で二州を切り取った精強無比の竜造寺軍をそのまま乗っ取ったものだから
弱いはずないだろ

232:世界@名無史さん
11/09/23 01:08:14.55 0
死なぬことと見付けたり

233:世界@名無史さん
11/09/27 00:33:43.28 0
そういや以前、日本と明では長期戦になった場合どちらが不利かという話題があったんだが
そのとき日本の方が圧倒的に不利だと主張する人がいた
理由を聞いても「逃亡兵が多かった!逃亡兵が多かった!逃亡兵が多かった!」の一点張りで
いまいち納得できなかった記憶がある
話を蒸し返すようで悪いんだが、長期戦になれば実際どちらがよりヤバいんだろう

234:世界@名無史さん
11/09/27 09:09:03.51 0
なんか文禄と慶長をごちゃまぜにする奴っているよな。
慶長の役では兵糧不足に陥っていないし、逃亡兵が多かったわけでもない。
対して、明は三路の戦いで大敗くらってるし、そのせいで人心は恐慌状態。
(『宣祖実録』資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立)

その上に、秀吉は本土で休息させていた十万以上の大軍を慶長4年に朝鮮半島に
送る計画を立てていた。秀吉が死去したため実行されなかったけど、恐慌状態の
大陸側に不が悪いのは道理。

235:世界@名無史さん
11/09/27 20:20:56.23 0
そうだな。奇襲のおかげで奥まで攻め込んだ文禄と、半分もいかずに早々に膠着化した慶長を
ごちゃまぜにする奴っているよね。

236:世界@名無史さん
11/09/27 20:57:33.58 0
>>235
散々既出だが慶長の日本軍の作戦行動はほぼ予定通りに進行してるぞ
明・朝鮮の抵抗勢力を散々に撃滅してから南岸部に自主反転してる

237:世界@名無史さん
11/09/27 20:58:53.05 0
>>235
朝鮮には何度も侵攻するよと通告してるのに奇襲もクソもないだろw

238:世界@名無史さん
11/09/27 21:02:20.40 0
>>235
慶長の役は膠着化したわけではないぞ。慶長の役は元から南部に限定した作戦だった。
赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。『立花文書 慶長二年二月二十一日付秀吉朱印状』

そもそも、日本軍が慶長の役を起こした時に朝鮮半島にいた明軍はわずか一万七千だけ。
五月,玠至遼。行長建樓,清正布種,島倭窖水,索朝鮮地圖,玠遂決意用兵。麻貴望鴨綠江東發,所統兵僅萬七千人,請濟師。
『明史』朝鮮伝
結果、さんざんに朝鮮南部を荒され南部の朝鮮軍が殲滅された時点で日本軍は軍事行動を辞めて築城開始し、それを終えた後は
七万以上の大軍が本土に帰還した。膠着状態というほど戦闘が継続していたわけでもない。戦闘があったのは①慶長二年の
7月~9月②慶長二年12月後半~慶長三年1月の蔚山城の戦い③慶長三年9月後半~10月と11月の三段階しかなかった。

239:世界@名無史さん
11/09/28 13:43:58.45 0
5年前に韓国で国際シンポやってから、秀吉の唐入りを一概に否定する論調減った気がする。
明軍が精鋭だったことも認識されてるし、ライデン大のポート教授が「秀吉の暴走」説を否定したのも大きい

唐入りの間に精力を蓄えたヌルハチの女真が、明の衰運に付け込んで入関したのを見ると特にね…

240:世界@名無史さん
11/09/28 19:56:15.50 0
まあ秀吉も寧夏の乱に偶然とはいえ付けこんだ形だったけどね

荒山徹の朝鮮もの伝奇小説によく書いてある
「義兵と言いながらその実は中央の職にあぶれた両班が手柄を立てようと自領の領民を
強制的に駆り立てたもの」というのは史実なのかな
両班ならやりそうなことには思えるけど

241:世界@名無史さん
11/09/28 21:27:23.54 0
>>240
そういうのもありだろうけど、それは朝鮮朝廷が官位を与えて
義兵の取り込みを始めだして以降じゃないかね。

当初は、義憤に駆られたのやら、日本側の高圧的なやり口に
ファビョったのやら、一旗揚げようやら反逆やら、単なる
山賊やら、それこそ動機はいろいろだと思うが。

242:世界@名無史さん
11/09/29 21:26:34.18 0
【歴史】大友宗麟が製造 最古の国産大砲か? ロシアの博物館に展示
スレリンク(newsplus板)

なんで秀吉はこの大砲を量産させて唐入りで使わなかったんだよ?

243:世界@名無史さん
11/09/29 22:40:05.25 0
>>242みたいなやつが大本営にいたから
日本兵が大量に無駄死にしたんだろうな

244:世界@名無史さん
11/09/29 22:50:19.04 0
>>242
大筒や石火矢の記録が色々あるんで量産して使ってただろ。

245:世界@名無史さん
11/09/29 23:10:48.05 0
>>242
まぁ、ホントに大友宗麟の作ったものならドラマだよな。ノンフィクションで追ったら
面白い番組できるだろうね。大半の視聴者が興味のない韓ドラに無駄金使うより
ずっといいわ。w

ところで、

>北方警備にあたる幕府の大砲がロシア船に奪われた。

このあたり詳しくないんだけど、どういう事件を指してるのかね? >エロイ人
それに幕府の直轄で蝦夷地警備を出してたんじゃなくて、各藩に軍役課してたんじゃ
ないかと思うんだけど。

ちなみに、ウチの藩も蝦夷地出兵準備してたけどうやむやになったらしい。

246:世界@名無史さん
11/09/30 20:32:04.58 0
中原を駆ける伊達政宗見たかったわー

247:世界@名無史さん
11/09/30 22:26:22.05 0
ウィキペディアとかに載ってなくて、あまり知られていない日本軍と明軍の戦いをまとめてみた。
ソースは壬辰戦乱史(の、下巻の参考文献原文)。


・第四次慶州城戦闘(1593年8月6日)
西生浦の日本軍数千人が突如として慶州を襲撃し、防衛にあたった明・朝鮮軍は大敗した。
なおも追撃してくる日本軍に明軍参将・駱尚志が両手に矛戟を抱えて飛び込み、たちまち四人を突き伏せた。
これを見た日本軍は大いに驚き、深追いをやめて撤退していった。
明・朝鮮軍の戦死者は500人を超え、明将の一人が戦死した(名前は不明)。
日本軍の目的は連合軍への牽制だったのか、それとも単なる略奪だったのか不明。
明・朝鮮側の記録を見る限りかなり規模の大きい戦い。

・安康戦闘(1593年12月2日)
西生浦の加藤清正の手勢が安康で略奪を働き、明・朝鮮軍との間で何度か小競り合いが行われた。
新人物往来社の「加藤清正のすべて」の年表にある「安康において明将劉綎の大軍に大勝を博す」とはこの戦いを指すようだ。
明・朝鮮側の記録を見る限り単なる小競り合いに過ぎず、大軍でも大勝でもない。

・報恩付近戦闘(1597年9月20日)
朝鮮軍が霧の中から加藤清正の軍勢に矢を射かけ、数十人を倒した。清正は霧の向こうに伏兵があると考え追撃しなかった。
この後、退却していく加藤勢を参将・彭校徳らの明軍が青山県のあたりで追撃したという。どちらも取るに足らない小競り合い。
なおこの戦い、無敵の加藤清正軍を朝鮮軍が大破した戦い(笑)として朝鮮寄りの書籍で紹介されることがある。

・三嘉付近戦闘(1598年3月24日)
三嘉付近で略奪を働いていた島津勢と明・朝鮮軍の間で行われた小競り合い。

・茂朱の戦い(1598年4月8日)
沙斥駅付近で起きた島津勢と明・朝鮮軍の間の小競り合い。
こんな規模の小さい戦闘で明軍の副総兵・李寧が戦死してしまった。島津勢の偽装退却に誘き出され、包囲されたのだという。
なお、泗川の戦いで戦死した参将の李寧とは同姓同名の別人。

248:世界@名無史さん
11/10/01 21:09:49.72 0
関係ないことかもしれないけど、秀吉が朝鮮出兵しなければ
唐辛子が朝鮮にもたらされなかったんだよね。


249:世界@名無史さん
11/10/01 21:48:20.80 0
>>247

島津って李舜臣と鄧子龍の他にも敵上級指揮官を討ち取ってるんだな。


250:世界@名無史さん
11/10/01 23:39:57.19 0
>>248
それはどーかのー唐辛子導入の機会がこれただ一度とも限らんし
すぐさま普及したわけでも無いようだし

251:世界@名無史さん
11/10/02 20:03:23.90 0
>>248
どうせ倭寇が輸入してたろ

252:世界@名無史さん
11/10/05 08:27:02.75 0
島津は凄いね
九州統一の過程で何人もの大名、大将討ち取ってるし



253:世界@名無史さん
11/10/05 17:15:38.64 0
>>241
農村に銃まであった戦国時代の日本と違い
武器など何も持ってないあの時代の朝鮮民衆が自発的に蜂起出来たとでも?

254:世界@名無史さん
11/10/05 17:45:42.30 0
>>253
馬鹿? 鋤・鍬持ち出せば立派な武器だが。あと、竹槍な。
これは日本の農村でも同じ。

ま、朝鮮はもっぱら竹弓を使ったんだろうが。

255:世界@名無史さん
11/10/05 21:14:17.46 0
>>247

>島津勢の偽装退却に誘き出され、包囲されたのだという。

島津の釣り野伏せに引っかかったか。


256:世界@名無史さん
11/10/05 21:15:05.02 0
バカはお前だ、義兵を江戸時代の百姓一揆と一緒にすんなよ
そもそも最初の義兵組織が農民の自発的な物ではなく郭再佑が一族郎党と領民
を集めて始めたもので
韓国人学者の金奉鉉の調査ですら在郷の両班や招諭使、軍人の指導以外で義兵
が立った記録なんぞ見つかってない
知ったかすんなw

257:世界@名無史さん
11/10/05 21:48:15.59 0
権力者以外で自発的に戦ったというと僧兵くらいかな
無論、戦後李朝の廃仏政策が改められるのを期待して戦ったんだけど
戦後の恩賞なし

258:世界@名無史さん
11/10/05 21:52:27.42 0
>>256
>武器など何も持ってないあの時代の朝鮮民衆

ファビョるなよ。w こういう認識が馬鹿だっつーの。

259:世界@名無史さん
11/10/05 21:56:29.49 0
>>257
そういや、先日倭館関連の本読んでたら、倭館の建設に
近隣の僧侶が千数百人だか動員されて労役、っつー話が
出てたな。

260:世界@名無史さん
11/10/05 21:58:19.49 0
>>258
当の韓国の学者が義兵は民間蜂起にあらずと結論づけてるのに
これ以上何を言うつもりだw

261:世界@名無史さん
11/10/05 22:05:00.47 0
>>260
だから、平民・賤民の自発蜂起じゃないということ
自体は争っとらんよ。w


262:世界@名無史さん
11/10/05 22:25:21.37 0
平民賤民が自発的にやったことは抗日どころか日本軍への協力や朝鮮王宮
の放火略奪です
そんな彼らもさすがに歴代朝鮮王の墳墓には手を出しませんでしたが
明軍が日本軍との戦いそっちのけで盗掘しまくりました
でもそれらすべてが「チョッパリがやったニダ」ということになってますw


263:世界@名無史さん
11/10/05 23:31:23.88 0
>>262
朝鮮王墓盗掘か。まぁ、日明共に真犯人が私がやりましたとか書き残してる訳も
なかろうし、一応対馬藩が下手人を差し出したことになってるからな。

しかし、どこかの美術館・博物館の収蔵品なり、コレクターの蒐集品なりで
それと目される様な美術品みたいなものはあるのかね? 聞いたこと無いけど。

264:世界@名無史さん
11/10/05 23:42:19.95 0
中国人は現在も自国で盗掘しまくっとるからなw
盗掘ビジネスに関与してる人間は推定10万人前後って盗掘大国

265:世界@名無史さん
11/10/05 23:42:53.90 0
全然関係ない牛泥棒かなんかを喉を潰して差し出したんだっけ対馬藩

266:世界@名無史さん
11/10/05 23:53:07.01 0
当時の日本人は畿内の古墳を城郭に再利用したりしてるくらいで
「墳墓」という物の存在すら認識してないと思うぞ
古墳が盗掘されてた時代はとうに過ぎ去ってたし
あの秀吉ですら副葬品は甲冑、太刀と日用品を詰めた黄金の壺だけだったくらいだから
墓を掘ったら宝があるって発想がないんじゃね?

267:世界@名無史さん
11/10/06 10:33:47.53 0
墓そのものはともかく、墓のある山に金を隠してはいたけどね秀吉


268:世界@名無史さん
11/10/06 18:13:21.93 0
【歴史】「織田信長だったら朝鮮出兵を成功させていた」と国際ジャーナリストの落合信彦氏[10/02]
スレリンク(news4plus板)

269:世界@名無史さん
11/10/06 18:48:37.42 0
>>268
その人、モサドとコネクションがあるとか
ブルース・リーと喧嘩して勝ったとかホザいてる人でしょ?

270:世界@名無史さん
11/10/06 21:29:40.73 0
>>268
>秀吉の朝鮮出兵はひどい失敗に終わった
と言ってる時点で無知なことがわかった。

271:世界@名無史さん
11/10/06 22:42:28.29 0
まあ文禄の役に限って言えば戦略から破綻してたけど
慶長の役は日中戦争と同じで決着付いてないからなあ

272:世界@名無史さん
11/10/06 22:54:05.06 0
日中戦争と違って上手く撤退したもんじゃね

273:世界@名無史さん
11/10/07 00:05:27.36 0
そもそも秀吉は明遠征のつもりだったんだから
半島を突破できなかった時点で失敗なのは確かだろ
ノビー(笑)はその文脈で失敗と言ってるわけじゃないだろうけどw

274:世界@名無史さん
11/10/07 00:14:20.30 0
突破できるとも思ってないでしょう
ひと暴れして領土がもらえればいいと思ってた程度だろ。
そういう意味でも失敗は失敗だけど

275:世界@名無史さん
11/10/07 09:32:33.57 0
方広寺の跡地である京都国立博物館から正面通りを西へ数十メートル行くと耳塚が…おっと誰かがきた

276:世界@名無史さん
11/10/07 10:33:26.76 0
蔵入り地とか増えて政権強化には成功したから、目的は果たしたといえるんじゃないだろか。
結局、全部家康に持ってかれたけど。

277:世界@名無史さん
11/10/07 10:59:53.09 0
>>273
半島突破と言うなら加藤清正がその条件を満たしてるわけだがw

278:世界@名無史さん
11/10/07 11:34:43.72 0
>>277
清正が入っちゃったのは明じゃなくてオランカイだろ

279:世界@名無史さん
11/10/07 12:01:29.84 0
半島は突破してるぞ

280:世界@名無史さん
11/10/07 17:25:50.38 0
信長なら成功してたかな
信長は東南アジア志向か

281:世界@名無史さん
11/10/07 22:06:21.74 0
成功って北京に突入して新中国を作ること?
間に半島があるから無理じゃね?
ソウルに5万ばかり駐屯させてただけで補給に難儀する土地だぜ。
モンゴルとか女真は国境を突破すればすぐに豊かな中原に出れたけど。

282:世界@名無史さん
11/10/07 22:15:08.80 0
半島だろうが東南アジアだろうが信長に海外志向なんぞ無い
死の直前まで貿易はすべて商人任せだ
通称網を自分で掌握しようとした秀吉や、禁教とのかねあいで断念はしたものの多角的貿易を画策してた
家康の方がよっぽど海外志向

283:世界@名無史さん
11/10/07 22:59:50.87 0
実際は秀吉の頃って九州はすでに別国家化してたんだよね。
東シナ海連合、つまり南蛮帝国。
宗教はすでにほぼキリシタンで統一。
宣教師は朝鮮にも拠点を作り、
周辺制覇まであと一歩。
秀吉はイスパニアと事実上宣戦布告を交わしていたし
朝鮮出兵って結構複雑だよ。


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