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西洋哲学は、われ思うゆえに我ありというデカルトの言葉のように、主観と客観を分けることから始まるが、それは主体か客体のどちらかしか言及できない。
それがゆくゆくは不完全性となり、突き詰めれば論理は独善的にならざるを得なくなる。
東洋哲学は、対して主観と客観を曖昧にすることから始まる。その根底には、輪廻への疑問があり、存在の必然性に対する疑問がある。
今、量子力学では、観測者も系に入れて考えなくてはならなくなった。それは、主客を完全に分ける西洋の論理に無理が出てきたからだ。