14/05/09 13:32:14.71 0
>>514
その文章は、深く信仰に入った人の境地を抜き出していますよね?
「仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬるには」「ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは」
これは深く信心が確定している人の境地です。
こうなると、業の世界から離れているので、それに捉われることも無くなってくる。
我が無くなって自然(阿弥陀、浄土)と調和してる状態なので、その行いは自然と調和する方向に向かっていく。
だから悪い行いは自然としなくなる。
浄土の行いが自然と出てくる。
問題は、あなたの挙げた文章の、その前の文章だよ。
深く信心が確定した人の態度じゃなくて、凡夫の態度だよ。
「はじめて仏のちかひをききはじむるひとびとの、わが身のわろくこころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずるといふひとにこそ、煩悩具足したる身なれば、
わがこころの善悪をば沙汰せず、迎へたまふぞとは申し候へ」
>悪しき行いを翻すのが親鸞説です
悪しき行いを翻すってのは、ハスの花の立場だよ。
泥の中で、「あの泥はいい、この泥は悪い」 ってやるんじゃない。
深い信心の中から出てくる良い行いってのは、分別の世界を超えてるんだよ。
自然に出てくるもの。
自分が意図していい行いをしたり、悪い行いをしないようにするってことじゃない。
自然にそうするようになるってこと。